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  • あなたはどれほど長く生きることを望みますか
    目ざめよ! 1977 | 10月8日
    • あなたはどれほど長く生きることを望みますか

      物事がうまく行っているときは,生きているのが楽しいものです。いつまでも,永遠までも生きられると考えただけで,大きな魅力を感じる人もいることでしょう。しかし一方,大きな障害や悲劇などを経験して,生活の中で苦難を味わうことがあるかもしれません。それでも,死にたいとは思わないはずです。

      実際のところ,大抵人々はどんな犠牲を払ってでも命を保とうとします。1974年中,米国内のガン患者だけでも,その致命的な病気の進行を抑え,生き続けるために70億㌦(約2兆1,000億円)を投じました。

      1974年7月22日付のニューヨーク・タイムズ紙は,ガンにかかった一人の医師について次のように伝えました。この医師は考え得るあらゆる手段を使ってこの病気と闘いましたが,39歳で亡くなりました。

      「ひん死の患者ラインバック博士と同様,最後の最後まで病気との闘いをやめない人はほかにも大勢いる。……生きようとするその人たちの意志は,人間の基本的な本能である。……あとに残された夫人は,何とか生き続けた一日一日が同博士にとって貴重だったと述べていた。『ゲーリーは何よりも生きることを望んでいました』と同夫人は語った。……夫の死の直前,夫人は,それほどまでして生き続けたいの,と尋ねた。夫人の話によると,それに対して同博士は,『何としても生き続けたい』とはっきり答えた」。

      わたしたちには,自分が健康だと命を当たり前のものとみなす傾向があります。一雑誌記者は,重い病気をして死にそうになった後,次のように記しています。「ほんのちょっとした物事,つまりこれまでは全く当たり前のものとみなしてきた物事を楽しめるという点で,これほどうれしく思ったことはない。時々自分を見ていておかしくなる。もう一度子供のころに戻ったような気がする。一杯の水を飲むのも楽しいし,一切れの果物を食べるのも楽しいし,太陽光線を浴びるのも実に楽しい。庭に出て木を見ると,自分が健康だった長年の間,木が実際にはどんなものかを観察してこなかったことに気づく。それに,鳥のさえずりも,全くすべてのものが楽しくてしようがない」。

      哲学の一教師は次のように語り,他の大勢の人々の感情を言い表わしています。「知力や感覚を備えた命という美しい現象が,速く消えうせてしまう,傷つきやすい体の中に宿っているのは異常なことだ」。

      どれほど生きられるか

      人間はもっと長生きし,永遠に生きてもよいはずだという考えが道理にかなっているとしても,そのような考えは科学的に見て可能ですか。ブリタニカ百科事典(1959年版,第7巻,112ページA欄,英文)は,死の項目の「不滅の可能性」という副見出しの下で次のように述べています。

      「体の肝要な細胞質を成す要素すべてに不滅の可能性のあることが十分に示された,あるいは実験が行なわれた結果,その可能性がきわめて大きくなった,と言っても決して過言ではない。正しく行なわれた実験の結果は,培養されているこれらの細胞の生命がいつまでも続くことを示している」。

      もちろんこれは,実験室で細胞に実験を施した結果にすぎません。同百科事典はさらに,死(すなわち老衰による死)の原因は,はっきりしていないと述べています。体内の細胞の漸減が原因なのかもしれません。あるいは,個々の細胞が死滅するというよりも,細胞の組織的な働きが徐々に崩壊し,組織全体の中で“協働”してゆくことができなくなるからかもしれません。というのは,細胞は破壊されても自然の過程を通して,新しい細胞ができてくるからです。例外として,神経細胞にはこの回復能力が備わっておらず,破壊されるとそれっきり代わりは作られません。しかし,損なわれた神経細胞には自らをいやす能力があります。神経の回復は比較的緩慢ですが,神経が切断された場合でも,きちんと継ぎ合わせれば,やがて再生します。

      カリフォルニア州ロマ・リンダにある医科大学では,切断された指の接合手術が毎月一件か二件行なわれますが,同大学整形外科の助教授ゲーリー・K・フライクメンは次のように語っています。「指を二本以上失ったり,親指を失ったりすると,患者は自分の仕事を行なうため,あるいは美容のためにも,指を再びつなぎ合わせたいと考えるようだ」。

      フライクメンはこう言葉を続けています。「そのような場合,我々は,指がうまくつながる可能性は五分五分だと患者に告げる。しかし,指を十分に使えるようになるまでには数か月かかるかもしれないと注意する」。これからも分かるように,神経には,再生する力,すなわち自然治癒力があります。

      科学の分野からどんな希望があるか

      医学研究者たちは,老化を遅らせ,寿命を延ばすために長い間一生懸命努力してきました。そのような人々に希望を託すことができますか。医学者たちはある程度の成果を上げることができます。しかし,人間の寿命が著しく延びるという確かな証拠は何もありません。過去50年間に平均余命が延びてきた主な理由は,幼児および子供の死亡率が低下したことにあります。薬学士ルイ・スタンボブスキーは,ベストウェー誌の中で,21歳で成人する人類が,成人してからわずか四,五十年しか生きられないことを嘆いています。同氏は次のような興味深い事実に注意を引いています。

      「[動物の中で]各々の種にとって正常な生き方や目的を守って生きる哺乳類は,成長し終わるまでの年齢の六倍から七倍生きる。ウマは約3年で成長を終え,18歳から21歳まで生きる。イヌも約3年で成長を終え,ウマと同じほど生きる。この公式はサル,ネコ,クマなどにも当てはまる。人間は21歳で成人する。前述の公式を人間にも当てはめると,人間は120歳ないし140歳まで生きなければならないことになる」。

      科学や医学はどんな見込みを提供していますか。科学アメリカ誌は,問題を要約して次のように述べています。

      「心臓病,卒中,ガンなど,老齢者の主な死因となっている病気が除去されたとしても,平均余命はせいぜい十年延びる程度であろう。そうなれば,現在先進国で一般的になっている平均寿命70歳が約80歳になるであろう」。

      上記の意見は,聖書筆者モーセの言葉と一致します。モーセは老齢に達した人々の大半が経験することを次のように描写しています。「われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ,ほねおりと悩みであって,その過ぎゆくことは速く,われらは飛び去るのです」― 詩 90:10,口。

      あきらめるべきではない

      現実はこのように厳しいからといって,若い人々は命のことを気遣って,できるだけ長生きしようと努めなくても良いでしょうか。また年老いた人々は,何か価値ある仕事をするとか,同胞の福祉に寄与するとかいった考えをあきらめるべきでしょうか。決してそうすべきではありません。薬剤師スタンボブスキーの次の言葉から励みを得ることができるでしょう。

      「長寿は……地域社会にも,国家にも,そして世界にも,計り知れない益をもたらし得る。そのような人は,長年にわたる試行錯誤や成功と失敗などから得た貴重な経験を豊富に持っている。その証拠としてエジソンを挙げることができる。エジソンの創造力に豊んだ頭脳は彼が80歳台になっても衰えなかった。グラッドストーンは,60歳で英国の首相に選ばれたが,その当時では,60歳まで生きれば本当に長生きしたと考えられていた。そして,グラッドストーンは82歳になるまでその職にあった。ウォルター・ダムロッシュは,78歳になってからコンサート・ピアニストとしての生涯を始めた」。

      こうしてみると,今ある命について,自分にできる限りのことをすべき理由のあることが分かります。今ある命をより楽しく,有益なものとするためにどんなことができますか。さらに,それよりも優れた希望,すなわち永遠の命の希望がありますか。この点についてさらに調べてみることにしましょう。

  • より良い人生を送るためにできる事柄を実践する
    目ざめよ! 1977 | 10月8日
    • より良い人生を送るためにできる事柄を実践する

      寿命を延ばそうとする医学上の努力がそれほど大きな成果を見てはいないといっても,各人が70歳かそれ以上生きるため,そして特に自分の人生をより良いものにするため,自分にできることを行なわなくてもよいという意味ではありません。というのは,寿命を延ばそうとしてどんなことをしたとしても,その人の人生がある程度幸福で,他の人々にも益を与えるものでなければ,それほど価値はないからです。

      今日,長生きをするために“健康”食品,規定食,および心身両面の運動など様々なアイデアが提出されています。健康のために走っている人を,町中や郊外の道で見かけることは珍しくありません。保健雑誌や健康食品店はよく見られます。幾千人もの精神病医は個人的な相談に応じる精神分析家として開業しており,様々な種類のめい想にふける人もいます。環境保護論者たちは,今やあらゆる国に住む人の健康を脅かす公害を少なくするために闘っています。

      自分の健康を気遣い,有害な事柄を避けるため道理にかなった予防策を講じておくのは良いことです。良識的な食習慣,無理のない程度の運動,それに自分と他の人のためにも環境を汚染しないよう注意することなどはいずれも有益です。どんなことであれ,不節制をするなら,寿命を縮めることになりかねません。そうした不節制の中には,アルコール中毒,麻薬中毒,および栄養の摂りすぎなどが含まれます。

      対処するための道理にかなった方法

      注意深く,しかも機敏であれば,寿命が突然短くなるというような事態を未然に防げます。車を運転したり,道路を横断したりする際に十分の注意を払えば,幾万もの人は命を失わずに済むでしょう。老齢者は,雪かきなど力のいる仕事をして疲れすぎないようにすることができます。老若を問わずあらゆる人は,実業界や社交界で他の人々と肩を並べてゆこうとあくせくする余り,過度の心配や緊張にいたく悩まされることがあります。過度の緊張から来る高血圧の原因の大半は近代的な生活様式にありますが,その高血圧は極めて死者の多い現代病の一つになっています。

      幼いころから子供に適切な注意を払うのも,その子が長生きするために肝要なことです。薬学士ルイ・スタンボブスキーは次のように語っています。

      「いわゆる老人病と呼ばれる病気を予防するための策をいつごろから講じるようにすべきだろうか。できるだけ早く,できれば妊娠時からと言ってもよい。母親の持つ資材が量的にも質的にも不十分であれば,丈夫な機械を作ることはできない。出生前の食餌強化はめざましい成果を上げている。対照調査をした結果,そのような補助手段が有益であることを示す際立った証拠が明らかになった。生まれて来る子供は普通の子供たちよりもあらゆる面で優れており,お産も軽く済み,産後に余病を併発することも少なくなる。普通の子供が生まれてくると仮定した場合,病気のない長寿を望むとすれば,建設的で機能的な栄養生化学をこれから十分に活用してゆくことが肝要である。……“中年”になって現われる病気の多く,もしくは大半は,青少年期に芽ばえる」。

      この権威者は,長寿の敵となりかねない太りすぎとその原因について論じ,次のような興味深い観察をしています。

      「肥満の第三の原因は,幼児期や児童期に始まる。こうした時期に食物を与えすぎると,脂肪細胞が異常に多くなり,それが完全に消え去ることはない。……こうした人々は,食べ盛りの時期を越しても太ったままで,一生の間太ったままでいることもある」。

      より良い方法

      しかし,健康についてすべてが語り尽くされ,あらゆる手段が講じられたとしても,人体にとって何が有益かを正確に知っている人がいるでしょうか。自分にとってどんな食べ物や運動などが実際的で有益かは,各自がかなりの程度自分で試してみなければなりません。それでもなお,必要とされるビタミン,ミネラル,タンパク質,および他の不可欠な栄養素を,適切な割合と組み合わせで摂取するのは事実上不可能なことです。大気や水,さらには野菜,肉,そして果物まで汚染され,混ぜ物をした加工食品がはんらんしているため,健康を害する物を全く食べずに生活することはできません。

      ゆえに,「身体の訓練は少しの事には益がありますが,敬神の専念はすべての事に益がある(の)です。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」という聖書の言葉を真剣に考慮してみるとよいでしょう。こうした理由で,次のような諭しが与えられています。「敬神の専念を目ざして自分を訓練してゆきなさい」― テモテ第一 4:7,8。

      「敬神の専念」とはどういう意味ですか。聖書は簡潔に,創造者の指示どおり正しい事柄を行なうのが敬神の専念であると述べています。創造者は,ご自身に仕えると唱える者に対して次のように語られました。「地の人よ,何が良い事かを主はあなたに告げた。そして,エホバ[神]があなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切を愛し,慎しみをもってあなたの神と共に歩むことではないか」― ミカ 6:8,新。

      敬神の専念を追い求めることが,望ましくて,極めて有益であると言えるのはどうしてですか。まず第一に,うそを言わず,正直な接し方をすれば,家庭内で,また友人や商売仲間との間で起こり得る問題の多くを除くことになります。正直であれば,良心の呵責の引き起こす精神的苦悩を味わわずにすみます。周囲の人々は正直な人を信頼するようになります。不正な申し合わせに加わったり,点をかせぐためにうそをついたりしなかったために,正直であることが財政的な損失をもたらすことがあっても,正直な生活を送る人は,この不正直な世界においてさえ,長い目で見れば正直さは良い結果をもたらすということを悟りました。

      真実さと正直さを完全に実践するには,導きが必要です。聖書はその点で最も信頼の置ける導きです。また,良い結果をもたらすあなたの歩みを観察しているのは人間だけでなく,創造者もそれをご覧になっており,あなたにとって極めて益となる仕方で報いてくださることを知れば,正直になるよう大いに励まされるでしょう。イエス・キリストは,心のこもった,正直で寛大な行為に対する人々の反応について次のように語りました。「いつも与えなさい。そうすれば,人びとはあなたがたに与えてくれるでしょう。彼らは押し入れ,揺すり入れ,あふれるほどに量りをよくして,あなたがたのひざに注ぎ込んでくれるでしょう。あなたがたが量り出しているその量りで,今度は人びとがあなたがたに量り出してくれるのです」― ルカ 6:38。

      創造者,および真実さと公正を愛するゆえに正しい事を行なう人に対する,神の関心について,聖書はこう述べています。「エホバに関しては,その目はあまねく全地を行き巡り,ご自分に対して心の全き者たちのために御力を表わしてくださるのです」― 歴代下 16:9,新。詩 34:15。

      真実で正直な行為の実際性

      正直で真実な生き方は本当に実際的ですか。その通りです。その証拠として幾つかの例を挙げることができます。あなたは正直で真実な生き方が実際的であることをご自分で悟られたかもしれません。エホバの証人もそうした生き方が実際的であることを悟りました。エホバの証人は自分たちが聖書的に正しいと信ずる事柄を良心的に守る,ということを認める人は少なくありません。エホバの証人になった人々は様々な前歴を持ってはいましたが,以前の生活の仕方を変えて,自分たちの能力に及ぶ限り最善を尽くして聖書の原則に従ってきました。真実さと正直さは正しい良心を保つのに役立つだけでなく,対人関係を良くする助けになり,正しい原則につき従う人に良い結果をもたらします。そのことを示す幾つかの経験を簡単に記すことにしましょう。

      失業が大きな問題となりつつあるスウェーデンで,一人のエホバの証人が就職の申し込みをしたところ,専務取締役とその補佐の面接を受け,詳しく質問されました。一息ついたのち,専務は,「宗教組織に属していますか」と尋ねました。「はい,私はエホバの証人です」という答えを聞いて,専務はこう言いました。「それは願ってもないことです。うちの工場にはすでに三人のエホバの証人がいますが,皆本当に善い人たちです。あなたがたは極めて高い道徳水準を保っておられるようですね」。その時分かったことですが,専務は米国のある会社で訓練を受けた経験があり,その会社にエホバの証人が雇われていたのです。この経験を語ったエホバの証人は次のように付け加えました。「これは,イエスが生活の物質的な必要物について語った後に,『それでは,[神の]王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのものはみなあなたがたに加えられるのです』と語った言葉の真実さをよく示しています」。―マタイ 6:33。

      スペインのあるガソリン・スタンドの従業員は,一人の顧客の車にガソリンを入れました。ところが,支払いがなされる前に,別の従業員が不注意にも同じ給油ポンプから別の客の車にガソリンを入れたため,最初の客の給油量と価格の表示が消えてしまいました。顧客は証拠を求め,何が起きたかを知ってかなり腹を立て,「君がエホバの証人ででもない限り,君の言う事など信頼できないね」と語りました。従業員は偽らずに,「私はエホバの証人です」と答えることができました。するとその人は,「それならもう何も言わなくてよい。君か40㍑と言うのであれば40㍑だったのだ。私はグラナダ地方の警部だが,エホバの証人がうそをつかないことぐらいはよく知っている」と言って,ガソリン代を支払いました。

      多くの心痛は回避できる

      さらに,正しい道徳につき従えば,多くの病気や心痛そして他の人々を傷つけるような事柄を回避できます。道徳は家族生活の根底を成すものです。この原則を無視した人々は,配偶者同士が承知の上で公に行なわれた場合でさえ,乱交が結局のところ結婚生活の崩壊につながることを知りました。同棲している男女の場合でさえ,どちらかが不貞を働くなら,合法的に結婚した夫婦と同じような感情の乱れやねたみを経験します。また,親が乱交に走るなら,子供たちの道徳観を非常に低下させます。

      不正直,不真実,そして不道徳な生活などの結果として起きる問題すべては,やましい良心は言うに及ばず,欲求不満,混乱,および精神的な苦痛をもたらします。その結果,喜びが失われ,往々にして肉体および精神の病気にかかるのです。

      人間の体内では,精神と身体を関連付ける作用が働いているに違いありません。人間の体の健康に影響を及ぼす事柄は,精神状態にも影響を及ぼします。そして,わたしたちの精神態度は,身体の健康と深いかかわりを持っています。不愉快な気分がしたり,不満があったりすると,体の調子も悪くなります。不愉快な気分は,緊張,失意,憂うつ,そして落胆などにつながり,多くの場合に,怒りや自己憐憫あるいは自分を責めさいなむ気持ちなどを引き起こします。その結果,わたしたちは極めて悪性の病気にかかりかねません。

      失われた幸福を取り戻すことは可能

      中には,健全な生活をしてこなかったために,不幸な結果を味わっている人がいるかもしれません。もう一度幸せになりたいとの願いを抱いて,事態を改善しようと努力するのに遅すぎるということは決してありません。アフリカのニジェールに住むある男の人の例について考えてみましょう。この人は大酒飲みで道楽者だとの定評があり,自分の家族を顧み扶養するということはほとんどありませんでした。その人の妻は家出して,別の国(トーゴ)で教職に就き良い収入を得ていました。その不幸な状態にあって,この男の人は聖書に助けを求めました。ほどなくしてこの人は真剣に聖書を研究するようになり,自分の習慣を変え始めました。大酒を飲むことがなくなり,家族の必要物のために自分の金を使うようになりました。その上,毎月収入の半分を妻に仕送りしたのです。ついに妻は夫のところを訪れ,夫の生活の変わり様を見て驚きました。そこで彼女は,トーゴでの仕事を辞め,夫のもとへ帰って,一緒に聖書を調べることにしたのです。この家族は再び一緒になれたことを,どんなにか喜んだことでしょう。

      実際のところ,利己的な世にあっても,良い事や有益な事を実践するのが実際的ではないと言い切れる人がいるでしょうか。そのような事柄を実践すれば,確かに現在の生活を有意義なものにできるでしょう。しかし,それがすべてでしょうか。一時的な報い以上のものがありますか。

      [5ページの図版]

      健康食品

      止まれ

      [6ページの図版]

      無謀な運転は人の寿命を著しく縮めることになりかねない

      [7ページの図版]

      正直さや真実さは他の人々に喜ばれる

      [8ページの図版]

      より良い生活への確かな導きは聖書だけである

      [9ページの図版]

      不真実や不正直は結婚生活を破壊しかねない

  • 現在の命は最重要なものではない
    目ざめよ! 1977 | 10月8日
    • 現在の命は最重要なものではない

      自分の命をできるだけ長く,また幸福なものにしようとするのは良いことには違いありませんが,それにも限度があります。今ある命がすべてであると考え,生き延びるためにはどんなことでもするというのは良くありません。また,正しい原則を無視し,神について考えず,将来の命の希望を全く度外視するほどの熱意をもって,目的を達成しようとするのも賢明なことではありません。

      例えば,ある人々は単に生き延びることを最も重要視します。そのような人々は,自分たちの信念となっている規準すべてに反し,自分の良心を犯してさえ死を免れようとします。この点をよく示しているのは,ナチ戦犯の裁判です。そのとき被告人たちは,暴虐行為,それに無実な人々の大量虐殺についてさえ,『ナチ司令部の上官に対する恐れから行なった』と述べました。このような人々には,「死に対する恐れのために……奴隷状態に服していた」という聖句が実によく当てはまります。(ヘブライ 2:15)確かに,恐れに対する奴隷状態にあって数年間生き長らえるのは望ましいことではありません。

      また,名声を得ることだけに没頭するような生活は,良いものでも幸福なものでもありません。“不朽”の名声を残そうとして,何らかの記念碑を建てようとした人もいます。あるいは,仕事や研究に没頭し,それに夢中になる余り,生活を本当に楽しむための時間がなくなったり,生活の霊的な面をないがしろにしたりする人がいます。また中には,生活を楽しむことだけを目標として,結局空虚な気持ちで一生を終える人もいます。

      徹底的な調査と実験の結果

      地上に生を受けた人の中でも,特に賢明で裕福な人の一人として知られるソロモン王は,人間の追い求める事柄とそれが各自にもたらす結果を注意深く調べました。ソロモンには,この問題に関する徹底的な研究をするに足る富と権力と才能がありました。ソロモンは,一見楽しそうでも,実際には満足のゆく,永続的な幸福をもたらすことにはならない,不道徳で不純な事柄には手を出しませんでした。しかし,富や権力で手に入る,他の楽しみとなる事柄を追求しました。ソロモンは次のように語っています。

      「わたしは大きな事業をした。わたしは自分のために家を建て,ぶどう畑を設け,園と庭をつくり,またすべての実のなる木をそこに植え(た)。……わたしは男女の奴隷を買った。……わたしはまた……多くの牛や羊の財産を持っていた。わたしはまた銀と金を集め,王たち……の財宝を集めた。またわたしは歌うたう男,歌うたう女を得た。また人の子の楽しみとするそばめを多く得た。……なんでもわたしの目の好むものは遠慮せず,わたしの心の喜ぶものは拒まなかった。わたしの心がわたしのすべての労苦によって,快楽を得たからである」。

      では,その結果はどんなものでしたか。ソロモンは次のように語っています。

      「そこで,わたしはわが手のなしたすべての事,およびそれをなすに要した労苦を顧みたとき,見よ,皆,空であって,風を捕えるようなものであった。日の下には益となるものはないのである」― 伝道 2:4-11,口。

      快楽や大きな事業のむなしさを悟ったソロモンは,自分を含め,人間としての知恵を持つ人々に目を向け,知恵のゆえに知られるようになった人々に今の命においてもたらされる結果に注目しました。ソロモンは自分の直面した事態を次のように表現しています。

      「わたしは心に言った,『愚者に臨む事はわたしにも臨むのだ。それでどうしてわたしは賢いことがあろう』。わたしはまた心に言った,『これもまた空である』と。そもそも,知者も愚者も同様に長く覚えられるものではない。[人は年老いて]きたるべき日には皆忘れられてしまうのである。知者が愚者と同じように死ぬのは,どうしたことであろう」― 伝道 2:15,16,口。

      ソロモンは結論として次のように述べています。

      「事の帰する所は,すべて言われた。すなわち,神を恐れ,その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ,ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」― 伝道 12:13,14,口。

      ですから,目的としては推奨されるような事柄であっても,それを追い求める余り,自分たちにとって真に重要な関心事をないがしろにし,神が人類の将来について考えておられる事柄を思い巡らす時間や機会を持とうとしないのであれば,そのような追求はむなしい結果に終わります。確かに世の人々は感謝の念を持たず,やがては忘れやすくなり,物事を正しく評価できなくなります。そして結局,人は存在しなくなるのです。それでは,人間が死後に期待することのできる将来がありますか。

      [10ページの図版]

      ニュルンベルク裁判

      ナチ戦犯の裁判で,被告は,死に対する恐れゆえに良心に反する行為をしたことを認めた

      [11ページの図版]

      快楽だけにふける生活はむなしい結果をもたらす

      [11ページの図版]

      裕福な王ソロモンは,様々な事柄を観察し,経験した後,人間にとって賢明な道を示し,「神を恐れ,その命令を守れ」と勧めた

  • あなたの望むだけ長生きできるとき
    目ざめよ! 1977 | 10月8日
    • あなたの望むだけ長生きできるとき

      自分の体に適当な注意を払うこと以外に,わたしたちには自分の寿命を延ばす手段はほとんどありません。イエス・キリストは,「あなたがたのうちだれが,思い煩ったからといって自分の寿命に一キュビトを加えることができるでしょうか」と尋ねておられます。(ルカ 12:25)正直さ,徳行,および自制や愛の実践などは,わたしたちの命を保つのに役立ちはしますが,『命を引き延ばす』ことにはなりません。

      人間が自分の寿命を長くする点で無力であることについて語ったイエスは,全人類が不完全さゆえに死を待つよりほかない,この現在の命に言及しておられました。この不完全さは罪の結果として生じたものです。「罪は不法です」。そして罪のゆえに,人は“小さな”あるいは“ゆゆしい”不法を働きます。(ヨハネ第一 3:4)また罪は,単に同胞や政府に対する不法であるだけではなく,全宇宙の立法者で,わたしたちの命の源である,神に対する不法でもあるのです。ゆえに,罪はわたしたちの内にあって命とは反対の作用をします。そして,人間の不完全さのうちに明らかにされる罪を,人が犯し続ける限り,その人は寿命を延ばすことができません。

      しかし神は,人間が各々望むだけ長生きできる時を到来させようとしておられます。それは人間の努力によって成し遂げられるのではなく,神の取り決めによって成し遂げられます。

      長生きするための必要条件

      科学者たちは,死の原因を見過ごしているだけでなく,永遠の生命を得るための主な必要条件をも見逃しています。わたしたちは生きてゆくために自然の食物を必要としているだけでなく,霊的な食物をも取り入れねばなりません。全能の神は,この肝要な事実を,み言葉である聖書の中にこう記録させました。『ただパンだけによって人は生きず,エホバの口から出るすべての言葉によって人は生きる』。(申命 8:3,新)神のみ子イエス・キリストは,地上に来たとき,この言葉を引用し,さらに次のようにも語りました。「生ける父がわたしをお遣わしになり,わたしが父によって生きているのと同じように,わたしを食する者,その者もまたわたしによって生きるのです」。「わたしは,彼らが命を得,しかも満ちあふれるほど豊かに得るために来ました」。―ヨハネ 6:57; 10:10。マタイ 4:4。

      ですから,エホバ神,およびイエス・キリストを通して設けられる神の霊的な取り決めなしには,定めのない時まで続く命はあり得ません。命を得るためには,霊的な食物,つまり霊的な知識を取り入れねばなりません。永遠に生きることに関し,イエスはこう語りました。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」― ヨハネ 17:3。

      人が永遠に生きるためには,霊的な食物以外にも必要なものがあります。人は受け継いだ罪と死から解放されねばなりません。しかし,どのようにして罪と死から解放され得るのでしょうか。神はご自分の愛のうちに,み子が贖いとして自らの完全な人間としての生命をささげるよう取り計らわれました。イエスは,「自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために」来たと語りました。(マタイ 20:28)イエスは,罪と死に対する隷属状態から人間を解放するために,自分の完全な人間としての生命をささげました。(ローマ 5:21)その犠牲は,命の与え主である神との欠くことのできない良い関係を回復するための根拠となります。

      しかし,その犠牲の益にあずかるには,神のみ子とみ子が人間のために成し遂げてくださった事柄に対して信仰を抱かねばなりません。イエスが,「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされた」と語ったとおりです。―ヨハネ 3:16。

      神の支配権が必要

      人々は神のその備えに今信仰を働かせることができ,実際に働かせる人もいるでしょう。しかし,そのような人の寿命が平均寿命を著しく上回ることはありません。それはなぜでしょうか。キリストによる神の約束は真実ではなかったのですか。神の約束が真実でなかったわけではありません。しかし,ほかにも必要とされるものがあったのです。それは政府,すなわち神の律法を施行する,待望久しい神の王国です。その政府は,地上のあらゆる不法を取り除き,人間製の政府すべてを廃し,全く新しい事物の体制を招来しなければなりません。そうすることによってのみ,法律に従って生活したいと願う人々が,思う存分そのような生活を享受できるような環境上の“雰囲気”が造られるのです。そうしないかぎり,世界の歴史はいつまでも繰り返し,貪欲で非良心的な人々は,正直で方正な人々を出し抜き続けることでしょう。

      しかし,神の公正で義にかなった律法が地に施行されるとき,義にかなった心を持つ人々は保護を得ることができるでしょう。そのような状態がもたらされるなら,大抵の人はそうした政府の下で生活する益を認め,喜んで正しい事を行なうと考えるのは道理にかなっています。聖書はその原則を次のように示しています。「あなた[神]のさばきが地に行なわれるとき,世に住む者は正義を学ぶ」― イザヤ 26:9,口。

      地上にある現在のこの事物の体制を取り除くため,神が行動を起こされるとき,神の命令に従って義なる事柄を実践している人々も死なねばなりませんか。言い換えれば,そのような人々の命には終わりがあるのでしょうか。それとも,その人たちは,絶えることのない寿命を享受し,生き続けるのでしょうか。その時に起きる事柄について,わたしたちの質問に対する答えとなる記述が聖書中に見いだされます。預言者ダニエルはその時について次のように書き記しています。「[終わりの時に世を治めている]それらの王たちの日に,天の神は,決して破滅に至ることのない一つの王国を建てられます。そして,その王国は,ほかのどんな民にも渡されることはありません。それはこれらのすべての王国を打ち砕いて終わらせ,それ自体はいつまでも定めなく立ちます」。(ダニエル 2:44,新)地を治める神の王国が他の者の手に帰することはなく,その王国が終わることもありません。ゆえに,地上で王国の側に立つ人々は,生き残るための保護を王国から受けます。それらの人々が死を味わう必要はありません。神の王国を求め,神の義を実践すれば,神の支配する間ずっと,すなわち永遠に地上で生きることができます。―マタイ 6:33。詩 37:37-40と比較してください。

      生者と死者に対する希望

      極めて励みの多い別の預言は,イエス・キリストが使徒ヨハネに与えた幻です。ヨハネは実際に,神の王国の保護を受ける民を象徴的に表わす幻を見たのです。ヨハネは,数の定められていない大群衆を見せられ,次のように告げられました。「これは[世の政府を打ち砕いて終わらせる]大患難から出て来る者たちで(ある)」。そこでヨハネは,神の(保護の)天幕がそれらの人々の上に広げられ,彼らは「命の水の泉」に導かれるであろうという言葉を聞きました。―啓示 7:9,14-17。詩 145:20と比較してください。

      それでは,どうすれば神の選ばれた王イエス・キリストの支配下で,自分の望むだけ長生きできるのですか。その王国政府の定める律法に喜んで従って生活する道を選ぶことによって,それは可能になります。これまでに死んで,復活して来る人々にも,義の状態の下で神の備えを受け入れるかどうかを示す機会が与えられます。使徒ヨハネは,幻の先の方で見たことを描写し,次のように述べています。

      「わたしは,死んだ者たちが,大なる者も小なる者も,その座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事がらにより,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた」― 啓示 20:12,13。

      そのとき従う者たちは,徐々に不完全さをいやされます。同じ幻は,キリストの犠牲がもたらす,命を与える恩恵を川の流れになぞらえ,さらにこう述べています。

      「そして,川のこちら側と向こう側には,月ごとに実を生じ,実を十二回生み出す,命の木があった。そして,その木の葉は,諸国民をいやすためのものであった」― 啓示 22:1,2。

      象徴的な「葉」によるこうしたいやしは,キリストの千年統治の期間中,キリストの贖いの犠牲に信仰を保ち,キリストに従順を示す人すべてが,人間として思いと心と身体面の完全さに到達するまでずっと続きます。(啓示 20:4)罪の生み出す死は,もはや彼らの命を縮めません。「死を生み出しているとげは罪」だからです。そのとき,わたしたちが罪深い先祖たちから受け継いだ死はもはやなくなります。そうなれば,『最後の敵として,死が無に帰せしめられた』と言うことができます。―コリント第一 15:26,56。

      ですから,神の王国の完全無欠な支配の行なわれる千年の期間中,地に住む人各々は,いつまでも生きる道を選ぶことも,自分の望むときに自らの存在を断つこともできます。正しい事柄を行ないたくないと思い,同胞に対して愛や敬意や配慮を持たず,その上,何よりも神の愛ある親切に感謝していないなら,その人は不従順になる道を選べます。しかし,そのような人は生き続けることができません。この期間中,自らの行為のゆえに,「命の書」に書かれる資格のない者とされる人々は,永遠の死に処せられます。彼らは,復活のない,「第二の死」を表わす「[象徴的な]火の湖に投げ込まれ」るのです。―啓示 20:14,15。

      ですから,約束の地に入ろうとしていたイスラエル人に,『生き続けるために,命を選びなさい』と語ったモーセの言葉は,神の政府の下で生きてゆく人々にも当てはまります。わたしたちは,当時のイスラエル人とは異なり,単に現在の自分たちの命を長くするだけでなく,「新しい地」における永遠の命,つまり尽きることのない寿命を確かなものとする決定を今,下すことができるのです。―申命 30:19,新。ペテロ第二 3:13。

      これは全く望ましい事柄ではありませんか。確かに,命を高く評価する人々にとっては望ましい事柄です。しかし,義にかなった状態に我慢がならず,自分と同胞を損なうような習慣に固執する人にとって,「新しい地」の社会に入る余地はありません。

      聖書の知識は命を選ぶのに役立つ

      それはつまるところ,あなたは永遠に生きることを望みますか,という質問に帰着します。現在のところ,将来に対する希望を胸に抱き,人生をより有意義で,より優れた,そしてより幸福なものにする以外,自分の命を延ばすためにできることはあまりないかもしれません。しかしあなたは,「きたるべき命」においてどれほど長生きしたいかを今選ぶことができます。(テモテ第一 4:8)あらゆる証拠は現在の事物の体制の滅びが間近に迫っていることを示していますが,神の指示と備えを把握し,今,命を選ぶなら,その滅びを生き残る「大群衆」の一員になれるでしょう。あるいは,復活を通して,義にかなった「新しい地」で大群衆に加われるかもしれません。

      ざ折し,混乱し,腐敗した世界の中にあって,神に喜ばれる道を保つよう自らを強めるために,地上における,「生ける神の会衆であり,真理の柱また支え」である「神の家の者たち」の一員とみなされ,そのような人々と交わりたいと思われることでしょう。(テモテ第一 3:15)地に対するキリストの王国支配を現在待ち望んでいる人々は,最終的に命を受け継ぐにふさわしい生き方をしようと努めています。そしてあなたが,命に導く真理が何であり,神の真の会衆が何であるかを,聖書から誠実な態度で探求するのを喜んで援助します。エホバの証人は,聖書の真理を探し求める人々が「永遠の命」に至る道を見いだすことができるよう,自分の時間と労力を自発的に,しかも無料でささげているのです。―ヨハネ 3:16。

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