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  • 神の預言的な真理を知らせる
    ものみの塔 1971 | 11月1日
    • 24 時間の点から考えて,だれでもが行なえる最も報い多い事柄とはなんですか。

      24 心の正直な人で,神とその目的に関する真理をまだ知らない人たちは大ぜいいます。世の中のできごとを見て悩みながら,どこに頼るべきかを知らないそれらの人たちも神から来る真理を必要としています。しかし,この滅びかけている体制にとって時はすでに末期となりました。時代の急を認識し,真理を他の人々に広めるために時間を捕え,そうです,時間を生み出してください。人類史上のこの時期において,それ以上に報い多いわざはほかに一つもありません。なぜですか。なぜなら,神のみことばは次のように約束しているからです。「自分自身と自分の教えとに絶えざる注意を払ってください。これらの事柄のもとにとどまってください。そうすることによって,あなたは自分自身とあなたに聴く者とを救うことになるからです」― テモテ前 4:16,新。

  • 神の王国を宣布するわざに生涯を用いる
    ものみの塔 1971 | 11月1日
    • 神の王国を宣布するわざに生涯を用いる

      ニール・L・カラウェイの経験

      神の王国を宣布するわざを生涯の仕事にしたいと願っていたわたしの前に,驚くべき選択の道が開かれました。ある日,郵便配達人が長い封筒を置いていきました。中には,ニューヨーク市ブルックリンにあるものみの塔協会本部における奉仕のための申込書がはいっていました。それを手にしたわたしはたいへん幸福でした。ところが,それに記入する前に,もう一通の申込書を受け取ったのです。今度は協会のギレアデ宣教学校への申込書でした。わたしは大きな決定をしなければならなくなりました。

      わたしは常にその両方の特権を望んでいましたので,これは非常にむずかしい決定となりました。ですが,ついにギレアデ学校の申込書を送ることに決めました。これがきっかけとなって,わたしはすでに20年以上も,フィリピンで人々に神の王国を告げる奉仕を行なってきました。神の王国を宣布するわざに用いてきた長年にわたるわたしの生涯は,バプテスマの時以来わたしに多くの祝福をもたらすものとなりました。

      バプテスマを受けたいとの願いがついに実現する

      わたしは小さい時から両親に連れられてエホバのクリスチャン証人の集会に出席したことを感謝しています。わたしは1926年,オハイオ州のクリーブランドでプロテスタントの両親から生まれました。その後まもなく父は,「私のやる事をとやかく言わずに,私の言うとおりしなさい」という教会の牧師に不満をいだくようになりました。わたしたちの親戚に,当時聖書研究生として知られていたエホバのクリスチャン証人がおり,やがてわたしたちは証人たちの集会に出席しはじめました。

      王国の宣教に携わって家から家に初めて訪問したのは1936年,わたしがまだ10歳の時でした。しかし,訪問する理由を説明した,印刷された「証言カード」の助けを借りてて,聖書文書を提供しながら家から家に尋ねる仕事を楽しみました。わたしはバプテスマを受けたいと思いましたが,まだ若すぎるという理由で両親は許してくれませんでした。結局,わたしは15になるまで待たねばなりませんでした。しかし,それはなんというすばらしい機会となったのでしょう。

      それは大会の時でした。1941年8月6日から10日にかけて,ものみの塔協会の大会がミズーリ州のセントルイスで開かれました。会場に到着すると,5歳から18歳までの子どもは全員,子供の日のために登録するよう指示され,わたしも登録しました。日曜日の朝,バプテスマのための集まりがあり,わたしは1,357人の子どもたちにまじって,エホバの意志を行なう献身を水のバプテスマによって表わしました。とうとうバプテスマを受けるために進み出た時のわたしの感激はなみなみならぬものでした。

      バプテスマを受けたあと,わたしたちは大講堂に引き返し,午前11時,その正面の所に1万5,000人の子どもたちといっしょにすわるすばらしい特権を得ました。わたしたちは当時の協会の会長J・F・ラザフォードから,「王の子供たち」と題する講演を聞きました。それは胸を踊らせる講演でした。その話を終えた後,協会の会長は言いました。『皆さんひとりひとりに尋ねたいことがあります。神の意志を行なうことに同意し,イエス・キリストによる神権政府の側に立場を取り,神とその王に従うことに同意した人は全員起立してください』。

      わたしたちは皆いっしょに起立しました。『見てください。1万5,000人以上もの王国の新しい証人たちです』と会長は叫びました。しばらく拍手が続いたあと彼は,『神の王国とそれに伴う祝福を告げるため,できるかぎりのことをする意志のある人は全員,はい,と答えてください』と言いました。すると,起立していた1万5,000人の子どもたちがいっせいに「はい」と大きな声で答えました。

      ついで協会の会長は言いました。『エホバの名前に誉れを帰するのに用いる道具ともいうべきものを受け取るなら,皆さんはそれを勤勉に使いますか』。わたしたちは「はい」と答えました。『では着席してください。その道具について話しましょう。主はこの本をあなたがたに対するメッセージとして準備してくださいました。題は「子供たち」です』。ものすごい拍手が起こりました。わたしはラザフォード兄弟がほほえみながら見守るなかを,演壇に通ずる二つの階段の一つを上って,その聖書研究の手引きを個人用に一部無料で受け取ったことを今でも覚えています。

      それはわたしにとってなんという大会だったのでしょう。バプテスマを受け,しかもそこにいた1万5,000人の子どもたちの中に数えられ,すばらしい霊的なメッセージと本をいただいたのです。その時から今日に至るまで,わたしは他の人々に神の王国を告げるためできるかぎりのことをしてきました。

      王国を全時間宣布する

      バプテスマを受けたものの,高校を卒業するのにもう3年学校に通わねばなりませんでした。しかし,すでに1944年の初めごろから,わたしは神の王国を全時間宣布するわざを自分の生涯の仕事にしようと考えるようになりました。そして,ものみの塔聖書冊子協会の指揮の下に王国を全時間伝道する,開拓奉仕の申込みをしました。それが認められると,わたしは文書を注文しました。ブルックリンから初めて書籍が一箱届けられた時はとても幸福でした。

      6月1日,わたしは開拓奉仕に乗り出し,自転車で区域に向かいました。その晩,わたしは高校を卒業して12年間の学校生活を終え,エホバ神とその王国を告げる,長い年月にわたる全時間奉仕を始めたのです。

      その後わたしは特別開拓奉仕の申込書を受け取り,オハイオ州のメジナで奉仕するよう任命されました。そこで奉仕をしている間に,ブルックリン・ベテルとギレアデ学校の申込書を受理しました。ギレアデを選んだわたしは,12期のクラスに招待されました。卒業後しばらく特別開拓者としてとどまりましたが,その後すぐフィリピンに任命を受けました。どんなことになるのだろう。自分には耐えられるだろうかといったような多くの疑問がわいてきました。

      新しい住みかに慣れる

      ドイツからの移民だったわたしの祖父はその国の人の食べるものを食べ,その生活様式を習うようにとわたしに告げてくれましたが,これはたいへん良い助けとなり,おかげでとても生活がしやすくなりました。

      1951年6月1日,わたしはマニラ港に着きました。そしてその晩,数人の証人たちとマニラの下町に行って,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を通行人に配布しました。新しい環境はわたしにとってたいへん珍しく映りました。人々は友好的であり,たいていの人が英語を話せました。その晩,わたしは通り過ぎる多くの証人に会いました。雑誌活動に十分注意を払っていなかった時があるらしく,男の人が近寄ってきてわたしの肩を軽くたたき,雑誌をもらえまいかと尋ねるようなことがありました。

      宣教者としてのわたしの最初の任命地は,政府の出資する公団住宅のあるロクサス地域と呼ばれる所でした。数か月そこで神の王国を伝道した後,わたしは当地の新しい証人たちの群れを会衆にするよう協会に推薦することができ,新しい会衆を主宰する奉仕者となる特権を与えられました。家から家に尋ねて神の王国について証言するさいには,ほとんどすべての人がわたしを居間に通してくれ,その結果ほとんどすべての家で聖書の話をすることができました。

      巡回の監督者として奉仕する

      宣教者の任命地でまだ9か月しか奉仕していないのに,わたしはエホバの証人の会衆を訪問して励ましを与え,宣教の面での援助を与える巡回のしもべつまり監督者として奉仕する特権を与えられました。そのためわたしは地方で働くことになり,都市とはほど遠い生活を送ることになりました。交通の便がほとんどなく,もっぱら徒歩で証言をしました。わたしはイエス・キリストや彼の使徒たちが,神の王国の良いたよりを宣布しながら町から町を尋ねた時のことを思い出しました。

      わたしの訪問中,会衆のほとんどすべての証人が宣教に携わったものです。みんな毎朝午前8時に王国会館に集まります。午前7時にそこに来ている人さえ少なくありませんでした。わたしの訪問の週中王国会館から遠くに住んでいる証人の多くはまる1週間その会館で寝泊りし,月曜日の朝の午前2時ごろ元気はつらつと幸福そうに我が家に向かったものです。

      1週間の特別の伝道活動は,わたしたち全員を非常に幸福にしました。時には伝道区域まで2時間の山道を歩いたこともあり,道すがら王国の歌をうたったりしました。15人から20人が一団となって一列に並び,歌をうたいながら小道を行くのを見るにつけ,わたしは外国の地での任命を受け入れたことをほんとうにうれしく思いました。

      最初に任命を受けた巡回区は,全部の住民がタガログ語を話す町々から成っていました。その同じ地区が今日では二つの地域に分割されています。わざは急速に拡大し,フィリピンのタガログ語の話される区域における巡回のしもべとしての奉仕の生活は,わたしの生涯の中でほんとうに顕著な時期を画するものとなりました。いなかの小さな家々に神のことばを携えて行き,謙遜な人々がいす一つない自分の家の床に坐ったまま,話されることば一語一語に耳を傾けるのを見,彼らと聖書研究を司会し,次回にその会衆を訪問する時には同じ人たちが王国会館に出席しているのに気づく ― こうした経験を通してわたしは,わざの終了する前に神の王国を他の人々に告げるためいよいよ励みたいと考えるようになりました。

      月曜日に他の会衆に旅行することは大仕事でした。早朝,いなかでバスが着くのを待ちます。バスはたいてい満員でした。しかし,なんということはありません,ひとりぐらいはなんとか乗れるものです。バスのてっぺんには荷物が満載されており,バスの中にも,後ろのほうに牛が1頭乗り合わせているというようなことがありました。踏み板の上に数頭の豚がいたり,バスの床に米の袋が置いてあったりしたこともあります。バスは1時間に約20キロから25キロ走り,やがて目的地に到着します。

      ある年,わたしは三つの州から成っているバタンガス-ミンドロ巡回区で奉仕しました。ミンドロというのはルソン島の西方にある大きな島です。そのボンガボンという町で,わたしは人生の伴侶を見いだしました。それ以後,わたしとネニータは王国のわざに13年間ともにあずかっています。

      大会での特権

      通例,毎年1か月以上正規の仕事から離れて大会の準備に当たりました。それはすばらしい特権です。初めて大会のしもべつまり監督者としての特権を与えられたのは1953年のことです。わたしにとって大会のしもべの仕事は初めてのことでしたし,他の人たちもたいていこの仕事には未経験でしたので,多くの問題と取り組まされました。

      その後1963年になって,エホバの証人の世界一周国際大会のための大会のしもべの割り当てを受けました。フィリピンにおいて,それまでにない最大の大会です。リーザル記念フットボール競技場を契約しましたが,食堂をはじめいろいろな部門のための場所がありません。ですから,大きな建物を作らねばならず,そのうえ,大会が雨期に当たるので,野外席の上に屋根を張ることに決めました。その屋根を張る仕事は大会の2週間前に始めました。競技場の従業員の中には,それは絶対に完成しないだろう,と言うものがいましたが,良い組織とエホバの祝福のおかげで,数人の大工が予定前に屋根の建築を完成することができ,大会の初日には用意が整いました。

      その大会では20,000人の出席者を予想していましたが,公開講演の出席者を数えたところ,なんと37,000人を上回ってしまいました。

      大会時は快い気分転換の機会となり,全国から集まった巡回および地域の監督者たちと話し合え,いろいろな経験やエホバがこの地にいるわたしたちにもたらしてくださる胸の踊るような増加の状態を聞くことができました。

      地域の仕事

      1968年6月1日,わたしは地域のしもべつまり監督者としての奉仕に任命されるこの上もない特権をいただきました。この特権はわたしたちに多くの喜びと感激をもたらしてくれました。2週間ごとに巡回大会でエホバの民と集まるのは喜びです。現在奉仕している地域の各巡回区は200人から500人の証人たちから成っており,この地区ではヒリゲイノン語が主要なことばです。各巡回区にはそれぞれの方言がありますが,当地での基本的なことばはヒリゲイノン語です。

      今の地域はほとんど4,000人の証人から成っています。多くの美しい島々があり,火山が一つあります。クリスチャン兄弟の多くは砂糖キビや米を栽培したり,漁業に携わったりして生計を立てています。今でも,旅行することのたいへんむずかしい場合があります。場所によっては,夕方や夜は危険なので,午前中しか旅行できません。ある町までバスで出かけて,そこでほかのバスに乗り換えねば行きたい所に行けない,というようなことは珍しくありません。乗り換えるところまではいったものの,その時にはあいにくバスがないこともあります。そういう場合は,町のエホバの証人の家に泊めてもらい,翌朝出発します。つまり,近くに行くのに二日間もかかることがあるわけです。とはいえ,どこに行ってもクリスチャン兄弟からあたたかく歓迎されるのには励まされます。

      わたしがフィリピンに来てからすでに20年以上たちますが,地上のどの場所よりもここにいて神の王国を他の人々に告げたいと思っています。エホバはわたしの必要とするものをことごとく,そうです,わたしの期待する以上のものを与えてくださったのです。

  • 永遠に生きるための方法
    ものみの塔 1971 | 11月1日
    • 永遠に生きるための方法

      親が子どもといっしょに読むための特別な記事

      エホバはわたしたちにたくさんのすばらしいおくり物をくださいました。一番すぐれたおくり物の一つは命です。命がなければ,何もできませんね。でも,もしそのおくり物をずっと持っていたいなら,しなければならないことがあります。

      あなたはその一つを今しています。わたしもしています。昼も夜も,眠っているときでさえしています。もしそれをやめるなら,わたしたちはすぐ死んでしまいます。それが何かわかりますか。そうです,呼吸です。

      生きつづけるのに毎日していることがほかにもあります。そのいくつかを言えますか。食物を食べ,水を飲み,そして眠ります。神は,わたくしたちがそうしたことをしなければ生きていけないようにお作りになりました。

      そのどれもむずかしくありません。じっさい,わたしは食べることが好きです。あなたもそうでしょう。でも食物があるとなぜ生きつづけられますか。知っていますか。食物をのみこんだあと,それはどうなりますか。

      からだは食物をくだいてたいへん小さなものにします。それから血液がそれらをからだのあらゆる部分へ運びます。この食物は新しい骨,新しい肉,新しいかみの毛,つめ,眼その他のからだの部分を作るために驚くような方法で使われます。そのことを知っていましたか。

      からだの古い部分がどうなるか不思ぎに思うかもしれません。それらは一度に少しずつ死んでゆき,役に立たなくなって捨てられます。そして新しいものがそれにかわります。

      この変化はからだのすべての場所で起きています。からだ全体が作り直されるまでにあまり長くはかかりません。エホバはからだがこのことを行なうように,そして,それを永遠に行なうようにお作りになりました。そうです,永遠に生きるように人間をお作りになったのです。

      しかし人は死にます。なぜですか。アダムが神に対して罪をおかしたからです。わたしたちはアダムから罪を受けました。アダムは人間と神との良い関係をだめにしました。そしてわたしたちの命は神によっています。

      永遠に生きるためには空気や水,食物や睡眠

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