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神が求めるものをけんそんに返すものみの塔 1966 | 7月1日
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神が求めるものをけんそんに返す
ジョージ・A・ラン
1914年,私はカナダ,サスカッチェワン州南部の,鉄道の駅のある町から56キロほどの所にあった自作農場に住んでいました。そして年に一,二回,馬車でその町まで買出しに行くのが常でしたが,ある時近所の人が一緒に行きました。
その人は以前私に本を1冊貸してくれたことがありました。彼ははその本の内容をよく知っていたようです。私はそれを読みました。「世々にわたる神の経綸」という題の本で,聖書を詳しく説明しており,私は深い興味をおぼえました。1914年も終わりに近づいていたので,その隣人をも含め,聖書を研究していた人々の多くは,聖書の預言の成就として,間もなくなにかが起こることを期待していました。それでよるとさわるとその話でもちきりでした。
町へ出かけた日から3週間もたたないうちに,わたしたちの話していたことが生じました。欧州の国々が次々と戦争に突入し,隣人を滅ぼすことに血まなこになっていったのです。これはまさに聖書の預言の成就であり,近所の人からもらった本に書かれていたことの真実さを裏づけるできごとでした。聖書にしるされている「終りの時」が始まったのです。わたしたちはその時を見,その時に住んでいたのです。
こうしたことがあってから私は知識を得ることにいっそう深い関心をもつようになり,近所にあった,10人ばかりの聖書研究者たちの小さなグループに加わって,聖書を勉強することにしました。当時は聖書を勉強する人が少なかったので,同信の人々と集まるのはうれしいことでした。もし80キロ以内にひとりの聖書研究者がいればよいほうだったのです。
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1914年の夏以来,私はものみの塔協会の出版物を参考にして聖書を読み,勉強してきました。そしてエホバのすばらしい目的にかんしてエホバから多くのものを得ました。しかし私はいまエホバが,私にあるもの,すなわち心からの奉仕を求めておられることを悟りました。それでその責任を受け入れ,神に献身しました。私たちの小さなグループは,そのことを非常に喜んでくれました。
それから間もなくして私は,エホバの求められるものがそれだけでないことを知りました。エホバの組織は清い組織です。わたしたち個人の行ないも清くなければなりません。ところが私には若い時からたくさんのたばこを吸う習慣があり,ニコチンがからだ中にしみ込んでいるような状態でした。私はすぐにもたばこをやめたいと思いましたが,その習慣は根強いものだったので,それを止めるにはだいぶ時間がかかるだろうと思いました。
私は神とその目的についての知識をとりつづけ,また,たばこをやめる力を与えられるようにエホバに祈りました。そうしたある日,私は聖書を読みながらパイプにたばこをつめ,火をつけました。ところがたばこが前のようにおいしくないのです。パイプを調べてみましたが,どこにも故障はありません。そこでまた吸ってみましたが,まえよりもっとまずいので,わきへ押しやりました。それまで培ってきた良心が援助の手をさしのべてくれたことはたしかです。それから3週間後,私はエホバの助けを信じて,たばこ道具を全部捨ててしまいました。
たばこをやめるにはほんとうに助けが必要でした。というのは,からだからニコチンを追い出すことは,私にとって口に言えない苦しい試練だったからです。時には筋肉がくくられているのではないかと思われるほど,胸が苦しいこともありました。ニコチンの補給を断ったので,からだがその変化に反応していたのでしょう。死ぬのではないかと思うほど苦しかった時もありました。しかし,この問題を乗り越える力をエホバに祈り求めつつ,ついに克服しました。
私はその苦しみをとおして,将来のことを真剣に考えました。そのとき私はすでに,神のみこころを行なうことに自分をささげていましたが,まだ浸礼を受けていませんでした。浸礼もエホバ神が,真理を受け入れる者に求められることを私は知っていました。しかしまだ冬だったので戸外には水のある所がなく,屋内にも浸礼を受けられるような設備がありません。どうしたらよいでしょうか。
わたしたちは最後の策として,浸礼の場所をつくることにしました。まず長さ約2メートル,幅60センチ,高さ約50センチのわくをつくり,それに,テーブルにかける油布を張りめぐらしてふろおけのようにしました。浸礼式が始まるまえに台所のストーブに水をかけておいたので,集会が終わるころには浸礼に十分使える程度にわいていました。それからその手製のふろおけにたっぷり水がはられ,私はその中で浸礼を受けました。
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しばらくの間は何事もなくすぎましたが,それも長くつづきませんでした。エホバが私の心に良いものを入れて下さったからです。エホバはさらに多くのものを私に求められたのです。つまり,聞いたよい事を他の人々に伝えるために私が口を用いることを望まれたのです。それはエホバに賛美をささげることです。それで私は,とくに1920年から,そのことを真剣に行ないはじめました。
わたしたちは農場を経営していましたから,時間のある時をみては伝道しました。入植者だった私は一生懸命働かねばなりませんでした。政府は各入植者に160エーカー(約65ヘクタール)の土地を与えました。もしわたしたちがそこで5年間頑張れば,土地は自分のものになりました。
その160エーカーの土地に入植したときには,住む所もなく,入植者はみな,自分の家を建てることが必要でした。まず木で床を作り,その周囲を丸太で囲い,その上をタール紙でおおうのです。外側には,土を厚さ60センチ,高さ1メートルあまりに積み上げます。そうしておくと冬かなり暖かいのです。近所にも私と同じような入植者が数人いましたが,私はひとりで住みました。
自作農場をもっていると,伝道はどうしても不規則になります。宣教が生活の一部となってはいても,農場も維持してゆかねばなりません。それで季節毎に必要な仕事をしておいては,一度に何週間も伝道しました。当時は今日のエホバの証人のように,毎週定期的に伝道する取り決めはなかったのです。
わたしたちの伝道した区域は大部分がいなかでした。わたしたちは徐々に活動範囲を広げていき,農場から半径160キロ以上の地域をくまなく伝道しました。ムースジャオから伝道をはじめたこともありましたが,町自体を伝道したことはありません。そこに住んでいた奉仕者たちが伝道したからです。けれども彼らは乗物の便がなくて町の外に伝道にいけなかったので,いなかの伝道は車をもつわたしたちがひきうけました。
どんな車を使ったでしょうか。私は一緒に伝道していたもうひとりの奉仕者と,私がもっていたフォードを使いました。それを改造したのです。後部に,幅2.4メートル,長さ1.8メートルのわくを取りつけ,それをほろでおおって寝起きするところにしました。時にはその中で何週間も生活し,家から遠く離れた地域の伝道をしました。伝道に必要な書物,食糧その他の品物もその自動車で運びました。
伝道は楽しい仕事でした。平原での生活は淋しい生活ですから,いなかの人たちはいつでもだれかが来ることを喜びました。激しく反対する人もいるにはいましたが,ごくまれでした。わたしたちの仕事はおもに,人々の家をたずねて,聖書や聖書の手引書を配布することでした。そして興味が出てくると,人々はその地域にある小さな会衆と交わるようにしていました。
ベテルへ呼ばれる
のちほど私は,アメリカのミシガン州に移転しました。そこは私が生まれたところです。1928年に,ものみの塔協会がデトロイトで大会を開いたとき,私は全時間奉仕をしていました。私はそこで当時の会長J・F・ラザフォードに会いました。会長は私に,「あなたはベテルでの激しい労働に耐えられると思いますか」と尋ねました。
それがなぜ私にとって特に適切な質問であったかというと,私は1928年にすでに53歳だったからです。私は1875年に生まれました。したがってベテルでの奉仕を志望できるような年齢ではなかったのです。しかし会長の質問に対して私は確信をもって,「耐えられますとも!」と答えました。すると会長はやさしく,「主の恵みによってね」と私の言葉を訂正しました。これは私が人間から受けた,いちばんやさしい叱責でした。
会長はそのことを覚えていたのでしょう。ベテルで働いていたある日,だれかが親しそうに私の肩をたたきました。振り向いて見たらそれは工場を点検中のラザフォード兄弟でした。兄弟は,私が激しい労働をつづけ得たこと,また私に対して抱いた確信が間違いでなかったことを喜んでおられたようでした。
37年まえブルックリンのベテルへ来て以来,私は多くの特権をいただきました。最初の3年間は,工場内のほとんどあらゆる部門で働き,最後に印刷機を操作する仕事を与えられました。それから1931年でしたか,事務所にまわされ,そこで20年近く働きました。その後また別の仕事,つまり「目ざめよ!」誌と「ものみの塔」誌の予約切れを扱う仕事が待っていました。私は数人の人と一緒に,会衆へ予約切れの通知を送る仕事をしました。そうしておくと,奉仕者が,再予約しない人を直接にたずねて,神のことばの勉強をつづけるように励ますことができます。しつこい関節炎に悩まされてはいますが,91歳になったいまも,この仕事をつづけています。
私はいまも伝道活動をしているでしょうか。心は望んでも,戸別伝道はもうできなくなりました。85歳まではその分野の奉仕に参加したのですが。それから数年の間は,街頭伝道を行なうことができました。しかしここ3年ばかりは健康がすぐれないため,それもできないでいます。
ではどうすれば伝道できるでしょうか。手紙を書くのです。聖書に関心のある人で,予約の切れた人の住所氏名が印刷されている紙片を会衆からもらいます。そしてその人たちにあてて,びんせんに1枚か2枚の手紙を書き,雑誌と共に送るのです。こうした手紙を書くときは,いつも神の国と神の義を主題にします。
また,霊的進歩におくれないようにするために,私は,月曜,火曜,金曜の晩,日曜に集会に出席します。そうすることによって,たとえ年は取っていても,エホバが真理を与えた者に求められるものを,わずかながらお返しする,霊的力を得ることができます。
50年近くもの激しい労働にどのようにして耐えることができましたか,とある人は尋ねます。それは動機と献身の問題です。私にかんするかぎり,それは自分を喜ばせるか,またはエホバを喜ばせるか,という問題でした。私が考えたことは,エホバのほうがさきに私に真理を与えて下さった,だからエホバは私にあるものを求める権利をおもちになる,ということでした。もし私が真理を受け入れるなら,エホバがお求めになるものを進んでお返しするのは当然です。それで献身したのちの私の生きる目標は,まずエホバを喜ばすことでした。そして私はそれを実行するように努めてきました。
また,絶えずエホバの約束を思い起こし,時至れば人間の諸問題をすべて解決するというエホバのことばに全き信仰をおいたことも,大きな助けになりました。この強い確信があったために,どんな仕事にも耐えることができました。私はエホバが,最後には,私をも含めてご自身のしもべたちの最上の福祉となるように,すべてのことを成し遂げられるのを知っていました。そうです,神と神のご要求を第一にする精神があれば,だれでも,神がお求めになるものを,謙遜な態度でお返しすることができます。―ミカ 6:8
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読者からの質問ものみの塔 1966 | 7月1日
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読者からの質問
● エルサレムにいた敬虔な人シメオンはイエスを指して神の「救」,また「光」と言い,イエスは「イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために……定められ」ているとも述べました。さらにマリヤにこう語りました。「あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう」。(ルカ 2:29-35)シメオンのこれらのことばは何を意味していますか。
聖霊によってシメオンは,「〔エホバ〕のつかわす〔キリスト〕に会うまでは死ぬことはない」との啓示を受けていました。(ルカ 2:26,〔新世〕)その約束が実現したのはシメオンが年老いてからでした。神の律法に従ってヨセフとマリヤがイエスを宮に連れてきたと同じ日に,シメオンは聖書に動かされて宮に来ました。(ルカ 2:22-24。レビ 12:1-8)シメオンがその幼な子を両腕に抱き,神をたたえて次のように言ったのはこの時です。「〔エホバ〕よ,今こそ,あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます,わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので,異邦人を照す啓示の光,み民イスラエルの栄光であります」。―ルカ 2:29-32,〔新世〕。
ここでシメオンは,エホバがイエスにより人類の救いを備えられることを預言したのです。イエスはたしかに神の「救」でした。イエスは諸国民から霊的な暗闇のおおいを取り去る「光」,「〔神〕のみ民イスラエルの栄光」になるのです。たとえばキリストの宣教の結果,ガリラヤ地方のナフタリやゼブルンの人々は「大いなる光」を見ました。それはイザヤ書 9章1,2節の成就です。(マタイ 4:13-16)また興味深いことにイエス・キリスト自身もこう言われました。「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は,やみのうちを歩くことがなく,命の光をもつであろう」― ヨハネ 8:12。イザヤ 42:6; 49:6。
しかしシメオンはまたこう言っています。「ごらんなさい,この幼な子は,イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために,また反対を受けるしるしとして,定められています……それは多くの人の心にある思いが,現われるようになるためです」。(ルカ 2:34,35)このことばの意味は,ある人はキリストを受け入れて,すでに倒れた状態から起こされ,他の人はキリストを拒絶し,キリストにつまずいて倒れるということです。イエスはまさしく多くのユダヤ人にとってつまずきの石となりました。(ローマ 9:30-33。イザヤ 8:14; 28:16)シメオンのことばは,ユダヤ人各自が二つのことを経験する,つまり,まず不信仰のために倒れ,つぎにイエス・キリストを受け入れ,信仰により起き上がるということを意味したのではありません。シメオンは物事の結末を語っているのです。イエス・キリストに対する反応は人によって異なっていましたが,多くの人がキリストに関して抱いた考えはたしかに明らかにされました。その考えに従って,神は人の良し悪しをさばかれました。
マリヤに関してシメオンはこう述べました。「そして,あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう」。これは文字どおりのつるぎではありません。マリヤがつるぎで刺し貫かれたと聖書は述べていません。シメオンのこのことばは,後日イエスの母が悲しみに襲われることを意味していました。多くのユダヤ人がイエス・キリストを拒絶したため,マリヤはたしかに苦しみました。しかしその子イエスが刑柱の上で死んだのを見た時,マリヤは胸を刺すような悲しみを経験しました。
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