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エホバの愛を基とするクリスチャンの愛ものみの塔 1975 | 12月1日
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エホバの愛を基とするクリスチャンの愛
「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは,あなたがたが互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなたがたを愛したとおりに,あなたがたも互いを愛することです。あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」― ヨハネ 13:34,35。
1,2 (イ)なぜ使徒ヨハネは,愛について書く資格が十分にありましたか。(ロ)イエスが弟子たちに与えた「新しいおきて」とは何でしたか。
イエス・キリストの十二使徒のひとりであり,聖書の記述者でもあったヨハネは,愛というクリスチャンの特質について,多くのことを述べています。彼はゼベダイとサロメの子でした。彼はその福音書の中で,「愛」および「愛した」という語を,他の三つの福音書の中で用いられている場合を合わせたよりも多く用いています。もちろんヨハネは,おもにアガペー愛,すなわち原則に導かれた,もしくは支配された愛について述べました。
2 ヨハネは,イエスの愛と好意を特に多く受けたようですから,愛を論ずるのに適した立場にありました。彼は,イエスが公に宣教された間ずっと,イエスとより親しく交わった三人の使徒のひとりでした。主の夕食が制定された最後の過ぎ越しのとき,イエスの隣りに横になっていたのは彼でした。ヨハネは,『イエスが愛した弟子』として知られていました。(ヨハネ 13:23; 19:25-27; 21:7,20)ですから使徒ヨハネは,この愛というクリスチャンの特質について書く際に頼りとなる良い背景を持っていました。そして,イエスが弟子たちに次の『新しいおきて』について語られたときのことばを記録したのは,ヨハネでした。「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは,あなたがたが互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなたがたを愛したとおりに,あなたがたも互いを愛することです。あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」― ヨハネ 13:34,35。
3 モーセの律法下にいたユダヤ人は,互いに愛し合うように命ぜられていましたか。答えの理由を説明しなさい。
3 イエスはここで,純粋の愛が,イエスの真の弟子をそれと認めるのに役立つしるしとならねばならないことを示されました。しかし,なぜイエスは,これが「新しいおきて」となる,と言われたのでしょうか。イエスはご自分の弟子たちに向かって話しておられました。弟子たちは全員ユダヤ民族でした。モーセの律法では,ユダヤ人は彼らの同胞を自分自身のように愛することになっていました。例えばレビ記 19章18節には,『なんじ仇をかえすべからず なんじの民の子孫にむかいて怨を抱くべからず 己のごとくなんじの隣を愛すべし』とあります。事実,イエスはその教えの中で,「第二はそれと同様であって,こうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』」と述べて,律法の中のこの戒めに注意を引いておられます。―マタイ 22:39。
4 イエスはヨハネ 13章34,35節で,どんな愛に言及されましたか。その愛はどのように表わされましたか。
4 モーセの律法は隣人愛を要求したのであって,原則に基づいた自己犠牲的な愛を要求したのではありません。しかしイエスは,その追随者に「新しいおきて」を与えたとき,彼らが自己犠牲的な愛でそれと見分けられるようでなければならないことを指摘しておられました。というのは,さらにこう言われたからです。「わたしがあなたがたを愛したとおりに,あなたがたも互いを愛することです」。イエスの愛は,原則に基づいた自己犠牲的な愛,すなわちアガペー愛でした。イエスは弟子たちのために,自ら進んで,ご自身の命さえも捨てるところまで行かれました。公の宣教の年々は,同胞の益となること,特に教えることと,霊的な面で人々を助けることに費やされました。ですから弟子たちも同じことを行なうべきであって,何もせずに,同胞のために善を行なうことがどうしても必要な時の訪れるのを,待っているようであってはなりません。むしろ,クリスチャンは先手を打ち,特に教えることと宣べ伝えることにおいてイエスの模範に見倣いつつ同胞の益のために活発に働き,そうすることによって他の人々の霊的益と福祉をはかるべきです。しかし,イエスの弟子たちはとりわけ互いに対して愛を抱いていなければなりませんでした。従って彼らは,彼ら自身の間の愛で目立つ存在でなければなりませんでした。その愛は,彼らが世の一般の人々とは違うことをすぐに気づかせるようなものでなければなりませんでした。
5,6 (イ)ヨハネは第一の手紙の中で何を論じていますか。(ロ)ヨハネは神と愛とをどのように同一視していますか。
5 使徒ヨハネは,キリスト教徒であることを明らかにするこのしるしを非常に高く評価したので,その福音書だけでなく手紙の中でも,それを強調しました。例えば,ヨハネの第一の手紙は,実際に,クリスチャンの兄弟たちに対するヨハネの愛の表われでした。それは,当時の反キリストたちの偽りの教えから彼らを守るために書かれたものです。またヨハネはその手紙の中で終始神の愛を強調し,クリスチャンがどのようにこの全能の神エホバの顕著な特質に見倣うべきかを示しています。
6 ヨハネ第一 4章8節では,ヨハネは神とこの愛という特質とを同一視して,「愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです」と述べています。このように彼はここでエホバを指して愛の根源とし,真の愛の神としています。もちろん,ヨハネはここで,神は一つの抽象的な特質にすぎない,と言っているのではありません。決してそうではありません。ヨハネは,神が人格的存在であることや,人格的存在であるのでエホバは多くの特質を有しておられ,その特質の中で最も顕著なものが愛であるということを,認めていました。
7 イエスの真の弟子たちは今日,どのようにそれと認められますか。
7 神のみ子イエス・キリストも,この愛,つまり自己犠牲的な愛という特質を有する点で顕著な存在でした。そしてイエスは,この愛がご自分の真の弟子たちのしるしとなることを指摘されました。ですから,今日,世界の各地に住んでいるエホバのクリスチャン証人は,愛の神エホバの崇拝者であり,神の愛するみ子イエスの弟子,すなわちその足跡に従う者たちです。したがってエホバのクリスチャン証人は今日,真のクリスチャンであることがわかるようにするために,日常生活の中で,純粋の自己犠牲的な愛を表わさねばなりません。それでヨハネは,神の愛に見倣うことをクリスチャンに勧め,「わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです」と述べています。―ヨハネ第一 4:19。
エホバの愛の最も大きな表われ
8 多くの人は,エホバが「まずわたしたちを愛してくださった」証拠として何を指摘しますか。
8 エホバが「まずわたしたちを愛してくださった」というのは,どういうことですか。エホバはご自分の愛を,つまりわたしたちに対する無私の関心を示すべく,人間としてのわたしたちのために何を行なわれたのですか。エホバが人間を愛しておられる証拠は非常にたくさんあります。しかし,エホバの愛の最も大きな表われと言えるのは何でしょうか。多くの人はすぐに命のことを考えるでしょう。なぜなら,わたしたちは,ただ命の根源であるエホバが存在されるゆえに,そして命を与えるエホバの愛があるゆえに生きているからです。(詩 36:9)しかしエホバは,この地上の他の生物にも命を与えられたではありませんか。動物,魚その他の海の生物,鳥,こん虫などの種類の非常に多いことに,わたしたちは驚嘆します。そしてこれらの生物はすべて,命の根源であるエホバを意識していないとはいえ,生きていることを明らかに楽しんでいます。ですから実際,エホバの愛の最も大な表われは,単に命の賜物そのものではなく,それ以上のものでなければならないでしょう。
9 エホバはどのようにして「まずわたしたちを愛してくださいました」か。このことをヨハネはヨハネ第一 4章10節でどのように確証していますか。
9 エホバは,人類に関連して,わたしたちが現在ここに持っている命よりも良いものを準備されました。それは,エホバを愛し,エホバに奉仕する人々が永遠の命を持ちうる可能性です。それにしても,エホバはどのようにこれを準備されたのですか。それは,ご自分の独り子である忠実なみ子イエス・キリストを,愛をこめた贈り物として与えることによってです。罪深い人類は,自分たちが永遠に生きられるようにこの愛のこもった備えをすることを頼みはしませんでしたが,エホバは愛を示され,ご自分から進んでこのすばらしい賜物を備えられました。それでヨハネはこう書きました。「愛はこの点,わたしたちが神を愛してきたというよりは,神がわたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった,ということです」― ヨハネ第一 4:10。
10 (イ)パウロは,神のこの愛の表現をどのように確証していますか。(ロ)それは神の一時的な感情から出た行為でしたか。
10 使徒パウロは,エホバが,このご自身のみ子という愛のこもった贈り物によって,わたしたちにご自身の愛を明らかにしておられることを示して,この点を確証します。ローマ 5章7,8節に次のように書いています。「義なる人のために死ぬ者はまずいません。もっとも,善良な人のためなら,あるいはだれかがあえて死ぬこともあるかもしれません。ところが神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです」。また,この愛のこもった贈り物は,一時の感情に駆られて与えられたものではなく,エホバが幾世紀も前に,その昔エデンでアダムとエバを裁いたときに意図されたものです。(創世 3:15)確かに,エホバこそ愛の根源である,と言わねばなりません。ヨハネが書いたように,『彼がまずわたしたちを愛してくださり』,そうすることによって,ご自身の崇拝者たちの間に存在しなければならない顕著な特質として愛を推奨されたのです。
エホバの愛を示す物質上の証拠
11 わたしたちが毎日エホバの愛を享受していることを物語る,別のどんな証拠がありますか。
11 人類の救いと解放のために与えられたみ子という愛のこもった贈り物や,永遠の命となる可能性を持つ命そのもののほかに,エホバの愛を物語る証拠は全創造に多く見られます。確かにエホバは,生活というものを非常に興味深い,楽しいものにすることによって,ご自身の愛を示されました。例えば,わたしたちは毎日,普通日に数回,食べることを楽しみます。食べることを退屈に感じることはまずありません。エホバは,おいしい,しかもすばらしく変化に富んだ食物を非常に多く備えてくださいました。わたしたちの食物は,えも言われぬ風味や香りを多く有しているだけでなく,目に喜ばしい様々な色や形で現われます。豊かな国では,幾日もの間,同じ種類の食物を二度食べることをほとんどせずに,食事を楽しむことができます。わたしたちは生きるために毎日食べなければなりませんが,それを喜ばしいもの,また楽しいものとしてくださったエホバは,なんと愛の深いかたでしょう。
12,13 天地におけるエホバの創造のわざは,人類に対するエホバの愛をどのように証明していますか。
12 わたしたちはまた,エホバの創造のわざ,自然の創造の中にも,エホバの愛の証拠を見ます。(ローマ 1:20)熱帯の大森林にであれ,あるいは別の地域の,雪をいただく雄大な山々にであれ,人はこの地球上のどこに住んでもそこに美を発見します。熱帯や亜熱帯の青く澄んだ美しい海や白砂の浜。風になびく黄金色の穀物に覆われた大平野。濃紺の湖や美しい緑の松林。そうです,不毛の砂漠にさえ,砂漠特有の美と魅力があります。そしてわたしたちはみな,よく晴れた晩に,星のきらめく空を眺めて楽しむではありませんか。星は見るに美しいばかりでなく,人間が旅行をする際の道案内になります。ですから星は実用的な価値をも有しています。星は,創造物に見られる,エホバの愛を物語る今一つの証拠です。
13 わたしたちは地のあらゆる場所で,人類に対するエホバの愛を物語る他の証拠を見いだします。例えば,人間の友となり,また美観と色彩を添えて人間を楽しませる動物や鳥の種類の多さにそれは見られます。エホバはなんと莫大な種類の生物を,この地上に住む人類の益のために創造されたのでしょう。ある人々は,エホバの愛のこもったみ手の業の,この特定の証拠を研究することに一生を費やします。
14 (イ)エホバはどんな面で人間を動物よりも高いものに創造されましたか。(ロ)霊的な事柄を理解する能力は,人類がヨハネ 4章24節に調和して何をすることを可能にしますか。
14 さらに重要なことに,エホバは人類を動物よりも高いものに創造されました。人間をご自身の像と様に造ることに,ご自身の愛を表わされました。(創世 1:26,27)このように,わたしたちは神の様に似た被造物なので,愛する能力を持ち,また霊的な事柄を理解する能力を持っています。また愛の深いわたしたちの創造者を知り,愛し,崇拝する能力を持っています。動物はこうしたことをすることができません。ある人はペットのイヌかネコを飼っていて,そのペットに話しかけるかもしれません。しかしわたしたちは,その人が自分のイヌまたはネコと霊的な事柄を論じているのを見ることは決してないではありませんか。下等動物には霊的な事柄を理解する能力が全くありません。しかし人類にはそれができ,またそうすべきです。わたしたちはエホバ神を見ることはできないかもしれませんが,そのすべての創造の業の中に,エホバ神の愛を物語る非常に多くの証拠を確かに見ます。そしてエホバ神に関する知識を得て神を知るようになると,神を愛し崇拝することができるようになります。イエスが言われた通り,わたしたちは神を「霊と真理」とをもって崇拝することができます。(ヨハネ 4:24)そうです,エホバは,人類に対する愛から,人類のために非常に多くのことを行なわれたのです。ではわたしたちは当然,ヨハネが書いたこと,すなわち「わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです」ということに共鳴すべきです。―ヨハネ第一 4:19。
15 エホバがそのしもべに対して愛情の深い父であることを,イエスはどのように確証しておられますか。
15 エホバの愛を物語る証拠を検討するとき,わたしたちはエホバが,地上に住むわたしたちすべてにとって愛情の深い父であることを理解することができます。エホバは,愛情の深い父親として,子どもたちの益に注意を払われます。わたしたちの福祉やわたしたちの必要に注意を払われます。イエスはわたしたちに教えてくださいました。もしわたしたちが,生活の中でエホバの崇拝をほんとうに第一にするなら,何を食べるかまたは飲むか,何を着るかについて過度に心配すべきではない,と。わたしたちの父がいかに愛情の深いかたであるかを示して,イエスはこう言われました。「何を食べまた何を飲むのだろうかと自分の魂のことで,また何を着るのだろうかと自分の体のことで思い煩うのをやめなさい。……あなたがたの天の父は,あなたがたがこれらのものをすべて必要としていることを知っておられるのです。それでは,王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのものはみなあなたがたに加えられるのです」。(マタイ 6:25,32,33)ですからエホバは愛情の深い父として,ご自分の子どもたちに関心を持っておられます。そしてわたしたちが神に仕え,神のご意志を行なうなら,神はわたしたちが生活に必要なものを得られるように計らってくださいます。
16 エホバに対するわたしたちの祈りは,エホバとのどんな関係を示すものでなければなりませんか。
16 したがって神のしもべは,今日,エホバをただ単にひとりの神としてではなく,父として,愛情の深い父として認めて,エホバと親しい関係を持っていなければなりません。ですからエホバに対するわたしたちの関係は,父親に対する子どものそれでなければなりません。それ故にわたしたちは,わたしたちの父と定期的に交信することに努め,父が与えてくださる多くの祝福に感謝するのはもちろんのこと,自分の必要と願いと問題をも父に告げるべきです。パウロは書きました。「何事も思い煩ってはなりません。ただ事ごとに祈りと祈願をなし,感謝をささげつつあなたがたの請願を神に知っていただくようにしなさい」。(フィリピ 4:6)イエスは,弟子たちに祈り方を教えた際,エホバに「わたしたちの神よ」と呼びかけなさいとは教えずに,天におられる「わたしたちの父よ」と呼びかけるように教えました。(マタイ 6:9)ですから,愛情の深い父としてのエホバと親しい個人的な関係を保ち,エホバと定期的に交信するのは良いことです。
神の愛ある支配 ― 憎しみによる悪魔の悪政とは大いに異なる
17 (イ)クリスチャンの愛は,どこまで差し伸べられるものでなければなりませんか。(ロ)この点に関してエホバはどんな原則を示されましたか。
17 エホバは被造物に対して非常に深い愛を抱いておられるので,ご自分を愛さない者にまで愛を表わされます。イエスがその追随者たちに,「あなたがたの敵を愛しつづけ」なさい,と教えたことを思い出してください。(マタイ 5:44)しかしイエスは何を根拠にしてこのことを教えることができたのでしょうか。その根拠となったのは,愛情の深い父エホバのりっぱな模範でした。というのは,マタイ 5章45節に次のように述べられているからです。「それはあなたがたが,天におられるあなたがたの父の子であることを示すためです。父は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださるのです」。このようにエホバはすべての者に,太陽の光や雨やその他命を支えるのに必要なものを恵むのです。エホバに仕えていない者,あるいはエホバを知らない者でも,こうした恵みを受けています。加えて,エホバが,人類を救うため,人々がみな罪人で神から離れていた時に,み子を地に遣わすことにより,自分の敵を愛するという原則を確立されたことは,わたしたちはすでに学びました。(ローマ 5:8-10)したがってイエスは,愛情の深いみ父エホバがすでに確立しておられる原則に立脚して,わたしたちの愛は自分の敵にまで及ぶものでなければならない,と教えることができました。まことに,エホバの愛はすべてのものに及び,他のすべての事柄を超越しています。原則に基づいた愛(アガペー)の根源として,エホバはなんとすばらしい模範でしょう。
18 (イ)何を基にしてエホバは,至高者また主権者として支配されますか。(ロ)詩篇 84篇10,11節は,エホバの主権を支持する人々の気持ちをどのようによく表現していますか。
18 至高者また宇宙の主権者として,エホバは間違った恐れや憎しみによって支配することはされません。ヨハネが書いたように,エホバは愛の神であられます。ですからエホバの主権は愛に基づいています。したがって,エホバに仕えエホバの主権を支持する人々は,エホバを深く愛し尊敬するがゆえにそうするのであって,卑屈な恐れのためではありません。エホバの主権を支持する人々は,エホバの卓越した愛,知恵,力および公正を認めて,エホバを崇拝することを個人的に選び,そうすることによってエホバの主権を支持するのです。彼らの気持ちは,次のように述べた詩篇作者によってよく要約されています。『なんじの大庭にすまう一日は千日にもまされり われは悪の幕屋におらんよりは むしろわが神のいえの門守とならんことを欲うなり そは神エホバは日なり盾なり エホバは恩とえいこうとをあたえ 直くあゆむものに善物をこばみたまうことなし』― 詩 84:10,11。
19 (イ)ご自分の初子を地に遣わすことにおいて,エホバはどのようにご自分の愛を人類に差し伸べられましたか。(ロ)そのことは,サタンが偽り者であることをどのように証明しましたか。
19 もちろん,サタンはエホバの愛の支配に挑戦し,事実上,エホバは愛のない神であると言って,エホバの愛から離れました。しかし,そのような虚偽の挑戦が,被造物に対する神の愛を変えることはありません。多くの人は,エホバから離れるという点でサタンに従いました。しかしそのことによって,エホバが愛を差し伸べることを阻止されるわけでも,他の人々がエホバへの愛を表わすことによってエホバの主権を支持することを,妨害されるわけでもありません。エホバ神は,ご自身のみ名と,ご自分を本当に愛する者たちに対する確信とを立証するために,愛情深くもご自分のみ子をお遣わしになりました。神のみ子イエスは,み父のご自分に対する確信が間違っていなかったことを証明されました。また,ご自身の命を与え,普通の罪人として刑柱上で死ぬことすらして,み父に対する愛と,人類に対する愛を証明されました。神とそのみ子のこの愛の表現により,人類は,罪と死から解放されて永遠の命を得る望みをいだくことができるようになりました。ヨハネ 3章16節にあるとおりです。「というのは,神は世を深く愛してご自分の独り子を与え,だれでも彼に信仰を働かせる者が滅ぼされないで,永遠の命を持つようにされたからです」。
神の愛を反映する組織
20 イエスは,どんな新しい組織を発足させましたか。この組織を一致させたのは何でしたか。
20 三年半にわたる,イエスの地上における活発な宣教により,一つの新しい組織,つまりイエスの模範に従う伝道者および教える者たちの組織が,地上で発足しました。こうして,イエスの愛のこもった有用な援助により,使徒ペテロやヨハネのように低い地位にある教育のない人々が,有能な,力強い話し手また教える者となりました。(使徒 4:4,13)もとより,エホバが『まず愛してくださった』という認識の上に立つエホバへの愛から,あらゆる人種や部族,国民から出た人々の一致した国際的会衆が,エホバの崇拝のためにできました。(ヨハネ第一 4:19)初期のクリスチャンたちは,アガペー愛,つまり神聖な原則に基づいた,またそれに導かれた愛で,一つに結ばれていました。パウロは言いました。「愛……は結合の完全なきずななのです」― コロサイ 3:14。
21 今日では,エホバの真の崇拝者はだれですか。彼らはどのように自分がエホバの真の崇拝者であることを明らかにしますか。
21 愛情の深い神エホバの崇拝者であるこのクリスチャンの組織は,今日も依然として世界の各地に存在します。この組織は,愛のない世から離れています。イエスの追随者はそうあるべきだ,とイエスが言われたとおりです。それでイエスはエホバへの祈りの中で言われました。「彼らを世から取り去ることではなく,邪悪な者のゆえに彼らを見守ってくださるようにお願いいたします。わたしが世のものではないのと同じように,彼らも世のものではありません」。(ヨハネ 17:15,16)今日この組織はエホバのクリスチャン証人として知られています。そして彼らは,互いに,また同胞に対して愛を抱いていることで,世界的な評判を得ています。あらゆる人種,国籍の人々が,「結合の完全なきずな」すなわち神のような愛で一つに結ばれているのですから,この組織の一員である人々にとり,今日,一致した民としてエホバを崇拝しエホバに奉仕するということは,なんとすばらしいことでしょう。そうです,エホバのクリスチャン証人は今日,それと見分けることのできるしるし,つまり彼らの神エホバと互いへの愛が非常に深いという評判を得ています。このようにして彼らは,自分たちが愛情の深い神に見倣う者であり,神のみ子イエス・キリストの真の弟子であることを証明するのです。―エフェソス 5:1。ヨハネ 13:34,35。
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互いに対して熱烈な愛をいだきなさいものみの塔 1975 | 12月1日
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互いに対して熱烈な愛をいだきなさい
「互いに対して熱烈な愛をいだきなさい。愛は多くの罪を覆うからです」― ペテロ第一 4:8。
1,2 聖書記述者のヨハネは,生活の中でアガペー愛を示すことの重要さを,どのように確証していますか。
仲間のクリスチャンたちにあてた最初の手紙の中で,使徒ヨハネは,人類を救い出すためにご自身のみ子を遣わされた神の愛に言及し,クリスチャンもこの愛の表現を見倣うべきであることを示しています。実際,これは選択の問題ではなく,わたしたちが持っている,互いに愛し合うという一つの務めです。「愛する者たちよ,神がわたしたちをこのように愛してくださったのであれば,わたしたち自身互いに愛し合う務めがあります」とヨハネは言っています。(ヨハネ第一 4:11)ですからヨハネはここで,イエスの「新しい」おきての重要さを強調しています。(ヨハネ 13:34,35)クリスチャンは,互いに愛し合うことにおいて模範的でなければなりません。エホバご自身,原則に基づく愛(アガペー)を示す点で,地上の子たちに手本を示されました。ですからわたしたちは,従順な子どもとして,また神のしもべとしてその模範に従い,エホバ神に対してのみならず,互いに対しても愛を示さねばなりません。
2 ヨハネはこれが務めであることを再度確証し,ヨハネ第一 4章20,21節で,この問題の重要性を示しています。彼はこう述べています。「『わたしは神を愛する』と言いながら自分の兄弟を憎んでいるなら,その者は偽り者です。自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は,見たことのない神を愛することはできないからです。そして,神を愛する者は自分の兄弟をも愛しているべきであるという,このおきてをわたしたちは彼から受けているのです」。ですから,クリスチャンの兄弟や姉妹に対して自己犠牲的な愛であるアガペー愛を示すというこの問題は,非常に重要な事柄です。なぜなら,そうすることによってわたしたちは,エホバ神ご自身に対する愛を示すことになるからです。
3 わたしたちが愛さねばならない,目に見えるわたしたちの兄弟とはだれですか。
3 わたしたちが愛さねばならない,わたしたちの目に見える兄弟とはだれのことですか。わたしたちは,それを,同じ人種,同じ色あるいは同じ国籍のだれかに限ることはできません。むしろ,わたしたちの兄弟とは,土地のクリスチャン会衆内,または世界中にある他のすべてのエホバのクリスチャン証人の会衆内にいるわたしたちの仲間,つまりエホバのしもべです。彼は信仰におけるわたしたちの兄弟です。(ガラテア 3:26-28)ですからわたしたちは,クリスチャンの兄弟たちに対して熱烈な愛をいだく,そしてそれによって自分が真のクリスチャンであることを証明する務めを,エホバの愛によって課されているのです。
4 パウロは,コリント第二 13章5節でどんなことを勧めていますか。それで,すべての人はここでどんな質問を考慮すべきですか。
4 エホバのクリスチャン証人は,今日,一つの組織として,互いに対し深い愛を示します。国民集団間の争いもなければ,人種的偏見や憎しみもありません。これは当然あるべき姿です。会衆内には,真のキリスト教徒であることのしるしがはっきり見られます。しかし問題は,クリスチャンの兄弟たちに愛を示すというこの事柄において,わたしたちは個人としてどうしているか,ということです。わたしたちは,真のアガペー愛を個人的に示し合っているでしょうか。互いに対して熱烈な愛を個人的にいだいているでしょうか。この点について,各自が,エホバのことばに示されている規準に従って自分を調べてみるのは良いことです。そうです,パウロが言ったようにです。「自分が信仰にあるかどうかを絶えず試しなさい。自分自身がどんなものであるかを絶えず吟味しなさい」― コリント第二 13:5。
5 (イ)愛はクリスチャンの特質としてあってもなくてもよいものですか。(ロ)クリスチャンの愛は,どれほど広いものでなければなりませんか。
5 わたしたちはイエスのことばから,そしてまたヨハネのことばから,兄弟たちに対する愛がクリスチャンのなくてはならない特質であることを学びました。それは,示しても示さなくてもどちらでもよい,と言えるようなものではありません。愛は,都合のよい時だけ実践すればよいものではありません。むしろ,互いに愛し合いなさい,というイエスの弟子たちに対する命令は,実際,王が定めた一つの律法であって,わたしたちの行動すべてに影響するものです。またわたしたちは,愛を示すことを,会衆内の少数の親しい友だちだけに限ることもできません。むしろわたしたちの愛は,世界各地に住む仲間の兄弟全体を包むほどの広いものでなくてはなりません。使徒ペテロが,『仲間の兄弟全体を愛しなさい』と書いているように。(ペテロ第一 2:17)であれば,愛に限りを設けずに,仲間の兄弟全体を包む広い愛を持つことは,なんと重要なことでしょう。
兄弟たちに対するクリスチャン愛はどのように得られるか
6 クリスチャンは,アガペー愛を示す能力をどのように身につけ始めますか。
6 クリスチャンの生活の中で愛がそれほど重要なものであるからには,クリスチャンはどうすればそのような愛を身につけることができるのでしょうか。今日,クリスチャン会衆内には,エホバの崇拝を始めて非常に日の浅い人たちがたくさんいます。その人たちが,王のおきて,つまりイエスが追随者たちのために定められた「新しいおきて」を実行したいと考えるのは,至極当然なことです。まずわたしたちは次のことを理解します。つまりアガペー愛は,パウロがガラテア 5章22節で指摘しているように,実際に神の霊の実の一つである,ということです。従ってクリスチャンは,エホバが今日地上で用いておられる組織と一致して,神の聖霊の導きを求めかつそれに従わねばなりません。
7 愛という特質を培っている人にとって,神のことばの知識はなぜ重要ですか。
7 これに加えて,エホバ神とそのすばらしい属性についての知識も非常に重要です。この点に関連して,クリスチャンは,愛とは何か,愛は兄弟や仲間の人間に対してどう働くかを学ばねばなりません。この知識はもちろん,個人的に,また今日の地上の神の民と共に,神のことばを勉強することから得られます。ですからクリスチャンは,神のことばに見られる真理すべてに対する深い認識を養い,聖書の熱心な研究者にならねばなりません。ペテロが言ったように,「みことばに属する,何も混ぜ物のない乳を慕う気持ちを」培わねばなりません。―ペテロ第一 2:2。
8 心はこれに関係してきますか。なぜですか。
8 それから,人の心もむろん関係してきます。なぜなら,愛は本来心の特質だからです。ペテロが,「互いに心から熱烈に愛し合いなさい」と書いたのはそのためです。(ペテロ第一 1:22)アガペー愛とは何か,それはどのように働くかについての正しい知識があると,人の心は,だれよりもまず愛の神エホバに,それから自分の兄弟たちや同胞に愛を示すよう,正しく導かれ方向づけられます。クリスチャンは,心にそのような愛を育て上げたなら,ついには愛の神エホバに献身し,次いでエホバのおきてを遂行することにより,また神のことばにある神の原則に調和した日常生活を送ることにより,その献身を全うすることが可能になります。―ヨハネ第一 5:3。
9 (イ)聖書の知識を得ることや宣べ伝えることよりも,どんなことのほうがもっと難しい場合がありますか。(ロ)兄弟たちとの関係ということになると,アガペー愛はクリスチャンにとってどれほど重要ですか。
9 あるクリスチャンは,エホバやエホバのおきてまたご要求に関する知識で思いを満たすことは,それほどむずかしいとは思わないかもしれません。また,出かけて行って,神の王国の良いたよりを他の人々に宣べ伝えることを楽しんでするかもしれません。しかし,真理に従って生きることや,『互いに心から熱烈に愛し合う』ことを学ぶのは,その人たちにとって,命令,おきて,原則などの知識をただ取り入れたり,公に宣べ伝えたりすることよりもむずかしい場合が時々あります。クリスチャンが,自分の態度,振る舞い,会衆内のひとりびとりの人との関係,などに関する原則に従うことを学ばねばならないのはここであり,アガペー愛が非常な重要性を帯びてくるのもここです。これは,クリスチャンが,真理全体に,心から従順に従って生きるようにしなければならないことを意味します。
10 ヨハネは愛についてどんな警告を与えていますか。それでクリスチャンは自分の愛をどのように正しい方向に向けるべきですか。
10 もし兄弟たちを愛しているのであれば,わたしたちは,どの兄弟であれその兄弟からわたしたちを引き離す傾向のあるものを,一切除かねばなりません。間違った事柄を愛し始めないように注意しなければなりません。ヨハネが,クリスチャンの兄弟たちへの愛から,世を愛してはいけないとの警告を与えたのはそのためです。彼は言いました。「世も世にあるものをも愛していてはなりません。世を愛する者がいれば,父の愛はその者のうちにありません。すべて世にあるもの ― 肉の欲望と目の欲望,そして自分の資力を見せびらかすこと ― は父から出るのではなく,世から出るからです」。(ヨハネ第一 2:15,16)ですから,もし世や世にあるものを愛し始めるなら,その人の愛は誤った方向に導かれるでしょう。その人は,世や世にあるものを愛さない兄弟たちからしだいに離れていくでしょう。そしてやがてその人は,会衆の集会やクリスチャンの野外奉仕に集まる兄弟たちの中に見られなくなり,クリスチャンの兄弟たちよりも,この世的な友だちか,またはこの世的な関心事を求めるようになっているでしょう。ですからわたしたちは,自分の愛を常に正しい方向に向け,自分と同じくエホバを崇拝する人々との交わりを常に求めることに,なんと注意深くなければならないのでしょう。
11 (イ)兄弟たちに対する真のアガペー愛は,わたしたちがどんな考え方をするのを防ぎますか。(ロ)もしわたしたちが,兄弟たちに真の愛を示さないなら,何に影響が及びますか。
11 真の原則に基づいた愛は,わたしたちに他の人のことを考えさせ,他人に及ぶ影響など気にかけずに事を行なう権利が自分にはある,などと主張して自分と自分の関心事しか考えないようなことはさせないはずです。ですからわたしたちは,会衆内のだれかを興奮させたり,つまずかせたりしないためには,自分の外見や個人的な関心事について考えてみなければなりません。(コリント第二 6:3,6)ただ自分自身の望みや関心事だけでなく,兄弟たちの益をも念頭に置き,自分の言動が兄弟たちにどのような影響を及ぼす可能性があるかを考え,自分の振る舞いに注意すべきです。(フィリピ 2:4)次のことを念頭に置いているのはよいことです。それは,もしアガペー愛がわたしたちのうちに正しく培われていないなら,実際にわたしたちとエホバとの関係に影響が及ぶということです。ヨハネの次のことばを忘れないでください。「自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は,見たことのない神を愛することはできないからです」― ヨハネ第一 4:20。
エホバの愛に見倣う
12 この愛という問題で,エホバはわたしたちにどんな模範を示しておられますか。それでペテロはわたしたちに何をするよう勧めていますか。
12 また,エホバはわたしたちすべてを愛してくださる,ということを考えるのも良いことです。それにわたしたちはみな不完全です。ですからエホバは,会衆内の少数の者だけを愛するようなことはされません。愛のこもった取り決めを通してわたしたちの間違いや誤りを進んで許してくださり,わたしたちの愛による奉仕を受け入れてくださいます。ですから,兄弟たちに対する心からの熱烈な愛は,真理と,エホバのみ前における兄弟たちの価値に対する真の認識に基づいています。ペテロは次のように助言しました。「何よりも,互いに対して熱烈な愛をいだきなさい。愛は多くの罪を覆うからです。ぐちを言うことなく互いを暖かくもてなしなさい。おのおのが受けた賜物に応じ,さまざまなしかたで表わされる神の過分のご親切を扱うりっぱな家令として,互いに対する奉仕にそれを用いなさい」。(ペテロ第一 4:8-10)ですからエホバは,神への奉仕に用いる賜物をひとりびとりに与え,わたしたちの不完全さや弱さや欠点にもかかわらず,わたしたちの奉仕を受け入れてくださるのです。もしわたしたちが,エホバがわたしたちを愛してくださるようにわたしたちの兄弟を愛するなら,わたしたちは兄弟たちの誤りや間違いを超越して見ることができ,愛をもって他の人々の間違いを覆いながら,会衆内のすべての人と仲良く働けるようになるはずです。
13 長老は,会衆内の仲間の長老たちにどのように愛を示すことができますか。
13 このことは,特にクリスチャン会衆内の公式の長老たちについて言えるでしょう。一部の長老たちは,自分のほうが神の組織の中に長くいるから,あるいは長老として任命されている期間がずっと長いからといって,他の長老たちより自分のほうが上だ,と考えるべきではありません。むしろ仲間の長老たちの真価を認め,神から見た彼らの価値と人間としての尊厳を尊重し,彼らの意見や考えが,神のことばに基づいている限り,それに敬意を払うべきです。エホバは,どれほど長く奉仕しているか,あるいはどれほどの期間長老の立場にあるか,については全く区別されません。ですから,エホバへの奉仕に他の人より長く携わっている人々は,自分の考えや意見を他の長老たちに押しつけるようなことをせずに,彼らが持つ奉仕の「賜物」と,任命された長老としてその賜物を用いることに対して正当な敬意を払いつつ,愛のうちに彼らと共に働くことを学ぶべきです。
14 長老たちに協力することについて,パウロはどんな助言を与えていますか。会衆内のすべての人はどのようにこれに従うことができますか。
14 この同じ点は,長老たちと共に働くことに関して,神の会衆内の人々すべてに当てはまります。長老もだれひとり完全ではありません。ですからわたしたちは,長老の欠点や人間的な不完全さを拡大して見て,神のことばに基づいた長老の助言や教えの要点を軽視することがないよう,注意しなければなりません。ある長老には,自分のきらいな癖がいくつかあるかもしれませんが,ただそれだけの理由で,助言を無視するようなことをしてはなりません。欠点や不完全さを見逃し,むしろエホバに対する長老の愛とエホバへの奉仕に対するその熱意を見,すべての長老を尊敬し,会衆内の長老すべてと協力するようにしなければなりません。パウロは,ヘブライ 13章17節でこの点を強調し,次のように述べています。「あなたがたの間で指導の任に当たっている人たちに従い,また服しなさい。彼らは言い開きをする者として,あなたがたの魂のために見張りをしているのです。こうしてあなたがたは,彼らがこれを喜びのうちに行ない,嘆息しながら行なうことのないようにしなさい。そのようなことはあなたがたにとって損失となるのです」。兄弟たちが,長老たちと密接な関係を保って働き,長老たちに,また長老たちの行なう立派な仕事に,心からの愛を示すのはなんと有益なことなのでしょう。
15 テモテ第一 1章5節をあなたは,心から互いに熱烈に愛し合うというこの問題に,どのように適用しますか。
15 そうです,すべての兄弟たちに対するわたしたちの愛は,清い心から出たもの,そして心のこもったものでなければなりません。パウロがテモテに告げたことを思い起こしてください。「実際のところ,この指示が目ざしているものは,清い心と正しい良心と偽善のない信仰から出る愛です」。(テモテ第一 1:5)これは,わたしたちの心が真理によって清められること,そしてもし兄弟たちに対する愛において自分に何か欠けた点のあることに気づいたなら,神のことばをもっとひんぱんに用いることにより,真理で自分の生活を清めるべきことを意味しています。清い心は,会衆内のすべての兄弟たちと,健全で,偽りのない,有益な関係をわたしたちに持たせずにはおかないはずです。するとわたしたちの良心は安らいでいるでしょうから,正しい良心となるでしょう。わたしたちは自分が正しい行ないをしているという確信を得るでしょう。わたしたちの愛は,偽善的に誇示されるものでも,ただ表面を飾るために工夫されたものでもないので,他の人々はそれを容易に認めることができるでしょう。真の愛は敬虔な特質です。善良で清い心から出る真実で純粋の精神的特質です。
16 兄弟たちに対して真の愛をいだいているなら,長老たちはどんな助言の仕方をすべきですか。
16 会衆内で長老の立場にある人々は,兄弟たちに対するものの言い方に心遣いを示すことにより,この心のこもった愛を示すことができます。この場合,謙そんさは確かに欠くことができません。長老たる者は,自分は会衆内で他の人たちよりすぐれているのだ,と考えて慢心するようなことをすべきではありません。会衆内のひとりびとりは貴重な財産,つまり神の「羊」のひとりです。(ヨハネ 10:16)したがって長老たちは,他の人々に話すときや助言を与えるときに,自分のことばや動作が彼らにどのような影響を与えるかを考えなければなりません。長老の助言は,謙そんな,また親切な態度で与えられるべきです。ガラテア 6章1節は,人が兄弟を霊的に援助しようとしている場合に,「柔和な霊」が不可欠であることを示しています。そしてまたこれは愛のこもったやり方です。その人は誠実な気持ちで別の人を援助しようとしているのであって,自分が占めている立場のゆえに,自分を他の人々よりも高い者,または偉い者にしているのではありません。
すべての人が示す熱烈な「アガペー」愛
17,18 わたしたちは,(イ)「無秩序な者を訓戒しなさい」,また(ロ)「憂いに沈んだ魂になぐさめのことばをかけ」なさい,というパウロの助言にどのように従うことができますか。
17 テサロニケ第一 5章14節で,使徒パウロは,各会衆内のわたしたちすべてが,わたしたちの兄弟たちの必要を思いやるためにどのようにすれば心を広げることができ,そうすることによってわたしたちの互いに対する愛を広げることができるかについて,良い助言を与えています。『兄弟たち,またあなたがたに勧めます。無秩序な者を訓戒しなさい』。彼はここで,会衆内の長老だけでなく,会衆内のすべての人に語っています。わたしたちは,時に,会衆内のだれかが非行に走りそうな状態にあるのを見ることがあるかもしれません。そのときは,『無秩序な者を訓戒しなさい』とのパウロの助言に従う適当な時でしょう。といってもそれは,兄弟を激しく叱責するとか,彼がしていたことについてうわさ話を始めるとかいうことではありません。わたしたちはむしろ誠実な態度で,巧みに,そして個人的に兄弟を援助し,間違った行ないを捨てて正しい行ないをするように励まし,兄弟に正しい方向を示してあげるようにしなければなりません。むろん,非常に重大な事柄を見るようなことがあれば,それは,無秩序に歩んでいる者に必要な助言を与えうる長老の一人に話すのがよいでしょう。
18 パウロはまた,わたしたちが「憂いに沈んだ魂になぐさめのことばをかけ」るべきであることを書いています。(テサロニケ第一 5:14)多くの会衆には,年を取った,そして恐らく病弱の人たち,そして以前のように野外奉仕ができなくなったので気落ちしているかもしれない人たちがいます。その人たちは,幾分不自由と能力の限界を感じているかもしれません。わたしたちはそのような人々を,必要なところで霊的に助け,その人たちが,たとえ限られてはいても,出席者を迎えることや奉仕において示す良い模範に,会衆全員がどれほど感謝しているかを知らせ,わたしたちにできるあらゆる方法で励ませます。
19 ある兄弟は,なぜ幾つかの点で弱いかもしれませんか。わたしたちはどのように,「弱い者を支え」ることができますか。
19 この同じ聖句の中で,パウロはまたわたしたちに,「弱い者を支え」なさい,と助言しています。もしかしたらあなたは,ある人が,宣べ伝えるわざや,集会に出席する点で弱いことに気づいているかもしれません。あなたはそのような兄弟たちに,愛のこもった態度で話しかけて励ますよう努力することができます。場合によっては,その兄弟たちを助ける具体的な取り決めを設けてください。あるいはわたしたちは,ある人が,将来についていろいろと憶測するためか信仰を失いつつあるのに気づくかもしれません。聖書に答えのない質問をいつもしている人もいます。会衆内の長老かまたは他の人がその質問に答えられないと,預言の成就を疑い始めたり,エホバが今日ご自分の組織を用いておられることさえ疑い始めます。そのような弱い人たちをどうすれば援助できますか。確かにわたしたちは,会衆の価値を認めるようその人たちを励ますことができます。そうではありませんか。エホバが,良いたよりを宣べ伝えさせるために今日どのようにご自分の組織を用いておられるか見てご覧なさい。これこそイエスが,しなければならない,とおっしゃったわざです。そして,このことを行なっている組織がほかにありますか。(マタイ 24:14; 28:19,20)イエスはまた,神の民に霊的食物を供給する「忠実で思慮深い奴隷」級がいるであろう,とも言われました。今日エホバの民は,霊的によく養われている唯一の民です。それはこの「奴隷」との交わりがあるためです。(マタイ 24:45,46)それを通してわたしたちは,エホバ,エホバのみ子,そしてエホバの地上の民と親しく交わるようになりました。今日,もし神の組織から出るとするなら,わたしたちはどこへ行くことができますか。ほかに行く場所はありません。(ヨハネ 6:66-69)これこそ神が用いておられる唯一の組織です。そしてもしわたしたち自身がこのことを確信しているなら,信仰の弱い他の人々を助けることができるはずです。
20 パウロはどんな意味で,「すべての人に対して辛抱強くありなさい」,と言いましたか。
20 パウロはまた,「すべての人に対して辛抱強くありなさい」と書きました。(テサロニケ第一 5:14)ですから,わたしたちの親切や兄弟愛は,会衆内のすべての人を包容するものでなければなりません。わたしたちは,すべての人の弱点や不完全さを見逃すことにやぶさかであってはならず,また辛抱しやすいときにある人々にだけ辛抱するのではなくて,すべての人に対して辛抱強くなければなりません。わたしたちは忍耐することを学ぶべきであって,あらさがしをする者,不当な要求をする者,あるいは他の人を批判する者であってはなりません。テサロニケ第一 5章15節に従って,『だれに対しても,危害に危害を返すことのないようにし,むしろ,互いに対し,また他のすべての人に対して,常に善を追い求め』たいものです。同じ章の13節でパウロは,「互いに対して平和な態度を保ちなさい」と述べています。ですから,わたしたちは兄弟たちと仲良くするよう,いつも努力すべきです。
21 クリスチャンの集会で,わたしたちはどのように愛を表わすべきですか。
21 兄弟たちに対するわたしたちの愛は,隠れた無活動なものではなくて,外に表われるものでなければなりません。それには,兄弟たちへの思いやりも含まれていなければなりません。例えば,会衆の集会に行ったとき,自分がよく知っている人たちに話しかけるだけでなく,新しい人や,内気な,または内向的な人たちを探して,あいさつをしたり,会話を交わしたりするのはよいことです。そうすることにより,その人たちがくつろいだ気分になって兄弟たちとの交わりを楽しむよう,援助できます。子どもたちをも見過ごさないようにしたいものです。わたしたちの愛は,子どもたちとも会話を交わしたり,エホバへの奉仕における彼らの立派な努力をほめたりすることを,わたしたちに教えるはずです。子どもたちが野外奉仕で示すよい模範や,学校また家庭でのよい振る舞いを,わたしたちがどれほど高く評価しているか,子どもたちに知らせるべきです。そうすることによってわたしたちは,エホバに奉仕するという正しい道を歩み続けるよう,愛を込めて子どもたちを励ますのです。
物質面で愛を示す
22 (イ)時にはどんな面で愛を表わす必要があるかもしれませんか。イエスはどのように正しい模範を示されましたか。(ロ)物質面で愛を示せる方法を幾つか挙げなさい。
22 この古い体制の「終わりの時」が進むにつれ,わたしたちは,互いに熱烈な愛を示し合いながら,愛のきずなによって常により緊密に結ばれている必要を感じます。兄弟たちが助けを必要としているのを見るような場合が生ずるかもしれません。ですから,兄弟たちをよく知っていて,兄弟たちを愛しているということは,なんとよいことでしょう。時には,それは霊的援助以上のものを意味するかもしれません。物質的援助の必要な場合もあるからです。ヨハネはこの必要について,ヨハネ第一 3章17,18節で次のように述べています。「しかし,だれであろうと,生活を支えるこの世の資力があるのに,自分の兄弟が窮乏しているのを見,しかもその兄弟に向かって優しい同情の戸を閉じるなら,その者にはどんな意味で神の愛が残っているでしょうか。子どもらよ,ことばや舌によらず,行ないと真実とをもって愛そうではありませんか」。もし物質面で兄弟たちに愛を示すなら,わたしたちはまたイエスの残された良い模範に倣っていることになります。群衆が途中で弱り果てることなく無事に我が家へ帰れるように,イエスが彼らに霊的糧だけでなく物質の食物をもお与えになったことがあるのを,わたしたちは思い出します。(マタイ 14:14-21; 15:32-38)ですから,時には物質面でも愛を表わすことができるでしょう。わたしたちのクリスチャンの兄弟姉妹は病気になるかもしれません。そのときには,食べる物を持っていくとか,家の掃除を手伝うとか,使い走りなどして,熱烈な愛を示せます。また,集会へ行くのに援助を必要としている人がおり,わたしたちは自動車を持っている,という場合もあるでしょう。そのような人を集会に一緒に連れていってあげるなら,実際的な面で愛を示せます。そうです,現在においても将来においても,物質面で必要な援助を与えることにより,実際的な愛を示す方法はいくらでもあります。
23 わたしたちは,いつか,兄弟たちに対して熱烈な愛をいだいているゆえにどんなことをしなければならないかもしれませんか。
23 今日,神のしもべはみないろいろな問題に直面します。そして種々の兆候は,そうした問題が増えることを示しています。ですから,いつも熱烈な愛を示し合い,兄弟たちをよく知っているようにするのは賢明なことです。わたしたちは,自分たちが「終わりの日」に住んでいることを知っていますが,サタンもそのことを知っているのです。彼は,自分の時が短いことに気づいているので,地に住む人々に多くの問題をもたらしています。わたしたち全部が,まさに命の危険を感じる事態に直面しなければならないかもしれません。そのときにわたしたちは,イエスが示されたような愛,つまり兄弟たちのために自分の命を捨てるほどの愛を示すことが要求されるかもしれません。「エホバの証人の1975年の年鑑」には,ナチの支配下にあった時代のドイツのわたしたちの兄弟たちが,恐ろしい迫害の下で,いかに愛情を込めて互いに助け合ったか,その良い実例がたくさん載せられています。全く彼らは互いに対して熱烈な愛をいだいていました。そして彼らは物心両面でこの愛を表わし,エホバへの奉仕に忠実を保つよう互いに助け合い,あらゆる犠牲を払って互いに保護し合いました。あなたも同じようにするでしょうか。愛を込めて兄弟たちを保護し,どんなことがあっても決して兄弟たちを裏切るようなことをしないでしょうか。近い将来には,わたしたちのまさに命が,そのような互いへの愛に依存することになるかもしれません。
24 兄弟たちに愛を示すことになると,クリスチャンは,すべての状況を網らした詳細な規則を必要としません。なぜですか。
24 今のところは,わたしたちはみなアガペー愛の精神をもって,互いを築き上げることができます。わたしたちは,互いに愛し合うべきときを示す規則や規定を必要としません。わたしたちがためらわずに常に自分から進んで兄弟たちに愛を示すべきことを,イエスの愛しなさいという命令が示唆していたのを思い出してください。兄弟たちに対して熱烈な愛をいだいていれば,わたしたちの心は,いつでも,またどこでも必要なときに,可能なかぎりの援助を行なうようわたしたちを促すでしょう。このように,真のクリスチャンとして,わたしたちは互いに愛し合う点で目立つ存在となり,世の人々は,愛という明白なしるしを認めるでしょう。
25,26 (イ)コリント第一 13章4節から7節によると,真の愛はどのように働きますか。(ロ)心から互いに熱烈に愛し合うことはなぜそれほど重要なことですか。
25 パウロは,コリント第一 13章4節から7節で,真のクリスチャンの愛がどのように働くかにつき,優れた説明を行なっています。彼はこう述べています。「愛は辛抱強く,また親切です。愛はねたまず,自慢せず,思い上がらず,みだらなふるまいをせず,自分の利を求めず,刺激されてもいらだちません。不義を喜ばないで,真実なこととともに喜びます。すべての事に耐え,すべての事を信じ,すべてのことを希望し,すべての事を忍耐します」。それから8節で使徒は,「愛は決して絶えません」とつけ加えています。このような愛が,長老や奉仕のしもべだけでなく,今日エホバの証人と呼ばれているクリスチャンすべてに要求されているのです。
26 そうです。パウロが言ったように,「愛は決して絶えません」。クリスチャンは,愛することを決してやめるべきではありません。愛することには制限はなく,またそれを抑えることのできる法律もありません。真の愛は,いつでも,またどこでも実践することができます。パウロはローマ 13章8節で,愛は,クリスチャンが互いに対して負う唯一の負い目でなければならない,と述べています。今日,この事物の体制の終わりは急速に近づいています。ですから,いつの時にもまして今は,「互いに対して熱烈な愛を」いだくべき時です。(ペテロ第一 4:8)わたしたちは,神のしもべとして,共に永遠に生きることを希望していないでしょうか。それは,永遠に愛し合うことをも望むべきであることを意味します。ですから今こそ,クリスチャンとしての親密なきずなをいよいよ強化し,心から互いに熱烈に愛し合う能力を培い,このようにしてわたしたちの愛情深い神エホバに見倣うべきときです。
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神の真理と王国を高く掲げるものみの塔 1975 | 12月1日
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神の真理と王国を高く掲げる
オスカー・ホフマンの経験談
ドイツ,チェコスロバキア,ハンガリー,ユーゴスラビア,スイス,リヒテンシュタイン ― これらの国々においてわたしは神の真理と王国を高く掲げる特権にあずかってきました。いろいろな国で神に仕えたわたしの生涯は1930年,わたしが26歳の時に始まりました。そのときわたしは神の王国を高く掲げるために自分の時間と力をささげることを決意したのです。そして神の王国の事柄を生活の中で第一にするならば,エホバがわたしを顧みてくださるというエホバのことばを一瞬たりといえども疑いませんでした。―マタイ 6:33。
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