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  • おとめの不動の愛
    ものみの塔 1980 | 7月15日
    • 神のことばは生きている

      おとめの不動の愛

      男女間の不動の愛は,本当に麗しいものです。それを打ち壊そうとする別の方面からの途方もない圧力にもめげずその深い愛情が消えないなら,第三者の感情さえも動かされます。

      シュネム,つまりシュラミに住む,一人の東洋人の娘の場合を考えてみましょう。この娘は顔立ちの整った羊飼いと恋に陥ります。シュラミの娘を誘惑から守るため,その兄たちは,美しい春の日に一緒に散歩しようという恋人の招きを彼女が受け入れないようにします。兄たちは,小さなキツネがぶどう畑を荒らさないよう,シュラミの娘に見張りの務めを与えます。―雅歌 1:6; 2:8-15。

      そのころ,ソロモン王が贅を尽くした様でやって来て,シュラミの娘の家の近くに野営を張ります。その結果,ソロモンは務めを果たしていたシュラミの娘を見初めます。その美しさのゆえに,シュラミの娘は王の営の中へ連れて来られ,王の求愛を受けます。―雅歌 6:11,12; 1:2-4。

      シュラミの娘は好感を持ちますか。その愛は揺れ動くでしょうか。そのようなことはありません。娘は愛する羊飼いに対する恋慕の情をはばかる所もなく言い表わします。しかし,ソロモンはシュラミの娘を去らせようとはせず,愛の言葉を浴びせ続け,この上なく美しい装飾品を作ってあげようと約束します。しかし,シュラミの娘は羊飼いに対するやむことのない愛を語ります。その後,羊飼いは彼女に会い,二人は互いに愛の言葉を交わします。―雅歌 1:7-17; 2:1,2。

      エルサレムへ帰るに当たって,ソロモン王はシュラミの娘を連れて行きます。その町の中でも,羊飼いはシュラミの娘に会うために策を講じます。(雅歌 3:6-11; 4:1-5)ソロモンはシュラミの娘の愛を勝ち得ようとありとあらゆる手を尽くしますが,成功せず,とうとう家へ帰ることを許します。(雅歌 8:5前半)シュラミの娘にとって輝かしい勝利です。

      田園地帯に住むこの娘は,愛の不変性,そらされることのない愛を体現する崇高な模範です。キリストの霊的な花嫁の真の成員,および「ほかの羊」が「りっぱな羊飼い」に対して抱いているのはそのような愛です。―ヨハネ 10:14,16; コリント第二 11:2; エフェソス 5:25-32と比較してください。

  • 『死のように強い愛』
    ものみの塔 1980 | 7月15日
    • 『死のように強い愛』

      「愛は死のように強く……その燃え盛ることは火の燃え盛ること,ヤハの炎です」― 雅歌 8:6,新。

      1,2 最初の結婚はどのように成立しましたか。夫と妻がお互いに強い愛着を感じたのはなぜですか。

      それはふたりが結婚する喜ばしい日でした。その結婚はパラダイスの中で行なわれました。これ以上の喜びがあるでしょうか。神は最初の人間を深く眠らせ,そのあばら骨を一つ取り,傷をふさぎ,そのあばら骨をもとにして最初の女をおつくりになったのです。

      2 その完全で,美しい助け手,アダムの半身とも言うべき者が連れてこられたとき,アダムは喜びました。しかし言葉が出なかったわけではありません。深い感動を覚えたアダムの口からほとばしり出たのは,「これこそ,ついにわたしの骨の骨,わたしの肉の肉。これは“女”と呼ばれよう。男からこれは取られたのだから」という詩的な表現でした。(創世 2:20-23,新)その結婚の日に,女がどのように感じたかは伝えられていません。しかし後ほど,罪を犯し不完全になった妻について,「あなたの渇望は夫に向けられ(る)」と言われています。(創世 3:16,新)ですから,最初の女エバは完全であったとき,自分の配偶者に満足していたに違いありません。女はまさに男の体から取られたのですから,ふたりはお互いに強い愛着を感じたでしょう。神はそのことを次のように言われました。「そのような訳で,男はその父母を離れ,その妻に堅く付き,ふたりは一体となるのである」― 創世 2:24,新。マタイ 19:4,5。

      3 結婚は,感情の欠けた,単なる形式的な取り決めではなかったと言えるのはなぜですか。

      3 エデンの園で創造者が制定された結婚は,永久的な結合のきずなとなるべきものでした。結婚は親しい交わりと相互の助けとを備えました。そして,人間家族の成員を産み,彼らを養育するという結婚の基本的な目的は,喜ばしい見込みでした。(創世 1:27,28。マタイ 19:6-9)しかし結婚は,感情の伴わない,単なる形式的な取り決めとなるべきものではありませんでした。人間は愛を表現する能力を持つ者として創造されました。結婚生活について言えば,家族を固く結びつける愛慕の情だけでなく,夫婦の結合への感情的刺激となる深い異性愛を表現できるように創造されたのです。

      4 結婚に関係した今日の諸問題を考えると,愛と結婚生活についてどんな疑問が起こるかもしれませんか。

      4 今日では,パラダイスにおける結婚はつまるところ理想に過ぎないもの,と思えるかもしれません。不完全な人間の社会では,多くの家庭が結局のところ崩壊していくからです。自然の情愛が薄れて結婚のきずなが断たれている場合が非常に多いように見えます。ですから,ある人はこう考えるかもしれません。結婚によって結ばれたふたりがいつまでも深く愛し合うことは,本当に可能なのだろうか。お互いの愛と尊敬を永続させることができると考えるのは単純なのだろうか。

      「愛は死のように強く」

      5 雅歌の内容を簡単に述べてください。聖書に含められているこの書は,男女間の愛について何を示していますか。

      5 男女間の真の愛は,極めて強く,固く,不動のものとなり得ます。イスラエルの賢王ソロモンが今から3,000年余り昔に書いた,聖書の中の一詩書は,そのことをよく示しています。雅歌という表題のこの書は,ある羊飼いと,シュネム(シュラミ)の村のいなか娘との間の愛をうたっています。またこの「最上の歌」は,王がその威容と富とをもってしても,その美しいシュラミの娘の愛を捕らえ得なかったことを示しています。―雅歌 1:1-14; 8:4。

      6 なぜ雅歌は,イエス・キリストの「花嫁」,すなわち霊によって生み出された会衆の成員にとって励みとなりますか。

      6 この「最上の歌」は,絶えることのない,永続的な愛の美しさを例示していると言えます。その揺るぎない愛は,イエス・キリストとその「花嫁」,すなわち霊によって生み出された会衆との関係に表われています。(エフェソス 5:25-32。啓示 21:2,9)したがって雅歌は,その「花嫁」であることを公言する人々にとって,天の花婿にいつまでも忠実であるよう,よい励ましとなります。(コリント第二 11:2)しかし,この霊感による書はまた,神を恐れる男女の間に存在しうる清らかな愛情についても,“多くのことを物語る”ものです。

      7 エホバに献身している未婚の人は,結婚の相手を探すときにどんな要素を考慮すべきですか。

      7 その一例ですが,ロマンチックな愛はだれに対してでも抱けるものではないことを,雅歌ははっきり示しています。例えば,シュラミの娘はソロモン王に心を引かれませんでした。そしてこう言いました。「エルサレムの娘たちよ,わたしはあなた方に,野の雌のかもしかや,野の雌じかをさして,誓いを立てさせました。わたしのうちに愛を目覚めさせたり,呼び起こしたりしてはなりません。それがその気になるまでは」。(雅歌 2:7; 3:5,新)ですから,未婚の人が,本当に愛せる相手の現われるのを辛抱強く待つのは,なんと賢明なことでしょう。エホバに献身している人たちの場合,将来の配偶者になる人は,自分と同じく神に献身した,忠実な人でなければなりません。(申命 7:3,4。エズラ 9:1-15。コリント第一 7:39)そうであれば,両者にとって,エホバへの崇拝が最重要事となるでしょう。ふたりは夫婦として力を合わせ,霊的に一致して共に人生に立ち向かうことができます。その一致がなければ,悲しい空虚感を味わうことになるでしょう。

      8 シュラミの娘は,戸ではなく壁のようであることを,どのように証明しましたか。

      8 しかし,信仰の仲間と結婚するにしても,神の是認を望む人は,それまで純潔でなければなりません。シュラミの娘の兄たちは,彼女がまだかなり若いときに,妹の貞操について心を配ります。娘の兄の一人は,彼女がまだ幼かったときに,妹についてこう言います。「わたしたちには乳房もない小さな妹がいる。わたしたちの妹が求婚される日にわたしたちは彼女のために何をしてやれるだろうか」。別の兄弟が答えます。「もし彼女が壁であれば,わたしたちは彼女の上に銀の胸壁を建てることにしよう。しかし戸であれば,彼女を杉の厚板でふさいでしまおう」。ソロモン王は,そのシュラミの娘の愛情を得ようとしました。しかし彼女は,好ましくない者や不健全な考えを持つ者の前でさっと開かないように厚板を横に渡しておかねばならない開き戸のような,愛や貞操の面で移り気な者ではありませんでした。王の誘いに屈することなく,あらゆる物質上の魅惑に負けずに壁のように立ち,自分が立派に成長したこと,今や志操堅固な円熟した女性として認めてもらえることを示しました。(雅歌 8:8-10,新)これは,今日の神を恐れる未婚の女性にとって立派な模範です。

      9 シュラミの娘は,彼女を愛した羊飼いからどのように見られていましたか。

      9 シュラミの娘は控え目で自分を表に出しませんでしたが,彼女を愛した羊飼いの目には,彼女は特別の人でした。「わたしは沿岸の野のサフランにすぎません。低い原野のゆりです」と彼女は言いましたが,羊飼いにとってはそうではありませんでした。「わたしの友は娘たちの中で,いばらある草の中のゆりのようだ」と,彼は言いました。(雅歌 2:1,2,新)それは盲目的な情熱ではありませんでした。娘はエホバに仕える者でしたし,能力がある上に美しく,好ましい点がたくさんありました。このことは,若い未婚のクリスチャンの女性たちが,霊性を高めるよう努力する間に,女性の責任を担うことも学ぶということを示していないでしょうか。

      10 シュラミの娘は羊飼いをどのように尊敬していましたか。

      10 しかし,シュラミの娘が羊飼いをどれほど尊敬していたかに注目してください。「わたしの愛する方は息子たちの中にあって,森林の木々の中のりんごの木のようです」と彼女は言いました。(雅歌 2:3,新)彼は森林の多くの木々の中の一本にすぎない存在ではありませんでした。彼女の愛する羊飼いは,エホバに献身した者であり,望ましい特性や才能を持ち,また霊的な思いを持つ若者であったことは間違いありません。(コリント第一 2:6-16と比較してください。)美しいシュラミの娘にとって,彼は「森林の木々の中のりんごのよう」でした。未婚のクリスチャンの男性は,いつの日か,愛する人からそのように見られるよう,努力すべきではないでしょうか。

      11 シュラミの娘が言ったように,純粋の愛は死やシェオルとどのように似ていますか。

      11 シュラミの娘と若者は確かに心からの愛を互いに抱いていました。娘はいとしい羊飼いに次のように告げて,自分の思いを見事に言い表わします。「わたしを封印としてあなたの上に,封印としてあなたの腕の上に置いてください。愛は死のように強く,専心の献身を守り通す態度はシェオルのようで,屈することがないからです。その燃え盛ることは火の燃え盛ること,ヤハ[エホバ]の炎です。多くの水も愛を消すことはできません。川もそれを流し去ることはできません。人が[ソロモンのように]愛のために自分の家の貴重品をことごとく与えるとしたら,人々はそれらをきっと見下げることでしょう」。(雅歌 8:6,7,新)全くその通りです。物で愛を買うことはできません。しかし純粋の愛は,死刑囚である人類の命を必ず取り去る死のように強いものです。シェオルあるいは墓が,彼らの体を要求することにおいて屈することがないのと同じく,純粋の愛も専心の献身を守り通すことにおいて屈することがありません。「ヤハの炎」についてはどうでしょうか。ある聖書学者はかつて,「人間の心の中で点火される,エホバから出る愛の炎である」と言ったことがあります。エホバは,人間の内部にこのすばらしい能力を植え付けた愛の神です。(ヨハネ第一 4:8)確かに,真の愛は絶えることがなく,忠節で,永続するものです。(コリント第一 13:8と比較してください。)結婚を考えている人々がしばらく待って,『死のように強い愛』を培うのはなんと賢明なことなのでしょう。

      愛が成長する方法

      12 生活の中のどんな経験や要素は,夫と妻の間の愛を成長させますか。

      12 しかし愛は,夫と妻の生活の歯車がかみ合ってくるにつれて成長していくものです。イサクは,小娘ではなくて「若い女」リベカを妻にしたとき,40歳という円熟した年齢でしたから,恋にのぼせた若者などではありませんでした。『そしてイサクは彼女を愛するようになった』と述べられています。(創世 24:57-67,新)神を恐れる敬虔な夫婦は,年を経るにつれ霊的な事柄を共にするようになり,力を合わせて人生の試練や問題に当たります。そのお互いの努力は忘れられない思い出となり,ふたりを一層親密にします。森や野原を一緒に散歩しながら楽しく話し合ったことなど,ちょっとした事でも忘れ難いものになるでしょう。そういえば,あの美しいシュラミの娘も,愛する羊飼いと山辺や野辺を一緒に散歩することにあこがれました。(雅歌 2:8-14)結婚してからは,ふたりは度々そうしたことでしょう。

      13 夫には,「有能な妻」を愛する理由があります。なぜですか。

      13 しかし,愛が成長する健全な理由はほかにもあります。「有能な妻はその所有者[すなわち夫]の冠」で,夫は確かに妻を愛する十分の理由があります。(箴 12:4,新)レムエル王の言葉(恐らくソロモンの言葉)によると,「有能な妻」は,色とりどりのさんごで作った非常に高価な装飾品よりも価値があります。彼女は信頼でき,「その一生の間,悪でなく,善をもって」夫に報います。(箴 31:1,10-12,新)彼女は喜んで家族のために暖かい衣服を作ります。(箴 31:13,19,21-24)また,家の者たちが健康によい食物を得るようにも,細かく心を配ります。(14,15節)家政の多くの面も,安心して任せることができます。それというのも,彼女は勤勉であり,本当に有能であるからです。(16-18,27節)そういう婦人は,家の者以外の人々に対しても親切な心をもって話し,寛大で,善を行ないます。(20,26節)ですから,神を恐れる妻は,年と共に多少の容色の衰えは見られても,内面的にはますます美しくなり,彼女の愛する者たちに慕われるようになります。「麗しさは偽りで,美しさはむなしい。しかしエホバを恐れる女こそ,己のために賛美を得る」と,レムエルは述べています。―箴 31:30,新。ペテロ第一 3:3,4。

      14 敬神の念の厚い夫のどんな特性から,クリスチャンの妻は夫に対して深い敬意を抱きますか。

      14 一方,敬神の念の厚い夫は,頭の責任を十分に果たします。しかし暴君ではありません。(創世 3:16。マラキ 2:14-16。コリント第一 11:3)そのような夫は妻を愛しつづけ,その愛をいろいろな方法で表わします。例えば,妻に対してひどく怒るようなことをしません。(コロサイ 3:19)そして妻や他の身近な愛する者たちが,物質的,霊的に必要とするものを備えるために,一生懸命に働きます。(テモテ第一 5:8)実際,敬神の念の厚い夫は,イエス・キリストがご自身の会衆に示されるのと同様の,愛のこもった心遣いを妻に示します。(エフェソス 5:25-32)そういう夫に対して深い敬意を抱かないクリスチャンの妻がいるでしょうか。

      15 結婚に関する聖書的基準をいつまでも守ることにより,夫と妻はどんな関係を楽しみますか。

      15 先ほど取り上げた基準を保つには,不断の努力と,聖書の適用と,祈りを込めてエホバに頼ることが必要です。夫婦がこのような雰囲気を作り出せば,愛は必ず成長します。夫は自分を敬うよう要求する必要はありません。大事にされている,そして霊的な思いを持っている妻は,言われなくても夫を敬うでしょう。また妻も,『あなたはわたしを愛していない』などと不平を言う必要はありません。クリスチャンの夫でだれが,有能で敬神の念の厚い妻を愛さずにいられるでしょうか。(士師 14:15-17とルツ 3:11を比べてください。)夫と妻が,聖書に記されている各々に適した役割を果たすそのような家では,使徒の次の助言に従うことはむずかしくないでしょう。「あなたがた[夫]ひとりひとりも,それぞれ自分を愛するように妻を愛しなさい。一方,妻は夫に対して深い敬意を持つべきです」― エフェソス 5:33。

      「あなたの若い時の妻と共に歓びなさい」

      16 箴言 5章は,配偶者に対して忠実であることをどのように勧めていますか。

      16 結婚は人間に喜びをもたらすためのものでした。しかし,その喜びを得,夫婦愛を永続させるためには,配偶者に対する忠実さがなければなりません。聖書は,結婚関係外に求めてはならない,性的満足をもたらすものを示すのに,象徴的な「水の源」という表現を用いています。言うまでもなく,夫と妻の愛には夫婦関係が含まれます。しかし,婚姻関係外の関係をその親密な関係に入り込ませないようにしなければなりません。それで夫は次のように告げられています。「あなたの水溜から水を……飲め。あなたの泉が戸の外に……散らされてよいものか。それはただあなただけのものとなり,あなたと共にいる見知らぬ人のためとなることがないように。あなたの水の源が祝福されるように。あなたの若い時の妻と共に歓びなさい。彼女は愛らしい雌鹿,優美な野生やぎ[しとやかさの象徴かもしれない]。……その愛であなたは絶えず陶酔するように」― 箴 5:15-23,新; 7:6-23。

      17 お互いのやさしい思いやりは,結婚で結ばれているふたりにどんな効果を及ぼしますか。

      17 結婚で結ばれている夫と妻は,結婚の分を互いに与え合う聖書的義務があります。これは,深い愛を表わす一つの方法です。婚姻関係内での心からの愛情の自然の発露であれば,それは美しい絵に例えられるかもしれません。であれば,神を敬う夫婦がその状態を損なわないように,結婚の床を汚さないようにするのは,なんと重要なことなのでしょう。(ヘブライ 13:4)そのような親密な事柄におけるお互いのやさしい思いやりは,離婚という悲しい目にあわないようにするのに役立ち,また不道徳に屈しないための保護ともなるでしょう。―コリント第一 7:1-5。

      18 神を敬う夫は,妻の感情的必要やそれに関連した必要を満たすことに努める一方,どんなことをわきまえていなければなりませんか。

      18 したがって,神を敬う夫は,妻の感情面の必要や,それと関連した必要を満たすように配慮します。しかし,神の霊を持ち,自制の実を示す人にふさわしい慎みをもってします。(ガラテア 5:22,23)そして,イスラエルに与えた律法の中でエホバが考慮を示されたように,クリスチャンの夫は妻の身体的,生物学的限界に考慮を払い,「知識にしたがって」行動し,「弱い器である女性としてこれに誉れを配し」ます。―レビ 18:19; 20:18。ペテロ第一 3:7。

      19 (イ)どんな家庭環境の中で育てられる子供は幸せですか。(ロ)子供にはどんな懲らしめが必要ですか。

      19 やがてその婚姻関係は,「エホバからの相続財産」である子供という結果を得るかもしれません。(詩 127:3,新)両親が深い愛で結ばれている,そして霊的な事柄が非常に重要視される家庭環境の中で育つ子供たちは幸せです。確かに,子供たちには助言や懲らしめが必要です。「子を愛する者は懲らしめをもって確かにこれを捜し求める人である」。(箴 13:24,新)親が聖書に基づき,愛をもって子供のしつけに当たるなら,結果はすばらしいものになるでしょう。

      シュラミの娘の専心の献身に倣う

      20 男女間の愛のすべてをしのぐものは,どんな愛と献身ですか。

      20 羊飼いに対するシュラミの娘の愛は『死のように強い』ものでした。今日,結婚によって結ばれる,神を敬う人々の愛も,そのように深いものになり得ます。その娘はまた,「専心の献身を守り通す態度はシェオルのようで,屈することがないからです」とも言いました。(雅歌 8:6,新)油そそがれた追随者たちの集団に対するイエスの愛は,男女間のどんな愛をもしのぐものであり,キリストに対するその会衆の愛はシェオルのようで,屈することがありません。しかしイエスは,天でご自身の「花嫁」となる者たちだけのために死なれたのではなく,「ほかの羊」のためにも死なれたのです。現在ほかの羊は「大群衆」によって表わされており,地上におけるとこしえの命という喜ばしい期待を抱いています。―ヨハネ 10:16。啓示 7:9。

      21 (イ)シュラミの娘は,注目に値するどんな模範を残しましたか。(ロ)イエスがわたしたちのためにしてくださったことを思いめぐらすとき,わたしたちはどんな益を受けますか。

      21 これらエホバの僕すべてのために,シュラミの娘は特に注目に値する専心の献身の模範を残しました。イエスが贖いの死を通してわたしたちのために行なってくださったことを思いめぐらし,また愛のこもったイエスの言葉や約束を考えるとき,イエスに対するわたしたちの愛は深くなっていきます。これは,わたしたちが自己本位の,物質主義的な,霊的でない事柄を追い求めないための守りとなります。またこれはわたしたちとエホバ,すなわち人間が『死のように強い愛』を持つことを可能にしてくださった神との結びつきを強めるものでもあります。

      [18ページの図版]

      創造者は結婚を永久的な結合とされた

      [20ページの図版]

      男女間の真の愛は非常に強いものになり得る

      [21ページの図版]

      「そしてイサクは彼女を愛するようになった」

  • 愛 ―「さらに勝った道」
    ものみの塔 1980 | 7月15日
    • 愛 ―「さらに勝った道」

      「わたしはさらに勝った道をあなたがたに示します」― コリント第一 12:31。

      1 ある高齢の歴史家は,人間社会に起きる出来事についての研究を,どんな助言に要約していますか。

      「お互いに愛し合いなさい」。92歳の一歴史家は,人間社会に起きる出来事に関する長年月にわたる研究を,この短い助言に要約しました。「わたしが最後に得た歴史の教訓は,イエスが与えた教訓と同じである。……ともかく試してみなさい。実際に役立つ働きをする点で愛は最高である」と,ウィル・デュラントは述べています。

      2 追随者たちに「新しいおきて」を与えるに当たって,イエス・キリストは何と言われましたか。

      2 地上での生活を終える最後の晩に,イエス・キリストは追随者たちに言われました。「わたしはあなたがたに新しいおきてを与えます。それは,あなたがたが互いに愛し合うことです。つまり,わたしがあなたがたを愛したとおりに,あなたがたも互いを愛することです。あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです」。(ヨハネ 13:34,35)では,イエスの真の追随者であることを示す特質は何でしょうか。それは明らかに,彼らが互いに愛し合うこと,彼らの間に顕著な愛があることです。しかしそれはどうして「新しいおきて」なのですか。イエスの真の追随者たちは,どのようにイエスが彼らを愛されたように互いに愛し合うべきでしたか。

      イエスが弟子たちを愛されたように

      3 愛に関するイエスのおきては,どんな点で「新しい」ものでしたか。

      3 その「新しいおきて」を与える少し前に,イエスはへりくだって弟子たちの足を洗われました。そのときのイエスの行動は,たとえ卑しい仕事でも信仰の仲間のためにそれを行なって,愛情を込めて彼らに仕えなければならないということを,クリスチャンに教えています。(ヨハネ 13:1-16)しかし,それが「新しいおきて」のすべてではありませんでした。愛に関するそのおきては,モーセを通してイスラエル人に与えられた,そして当時はイエスとその弟子たちを拘束していた律法よりも大きな効力があった点で,「新しい」ものでした。モーセを通して与えられた律法には,「あなたの仲間[あるいは隣人]を自分自身のように愛さなければならない」とあります。(レビ 19:18,新。マタイ 22:39)その律法は隣人愛を要求しましたが,仲間の人間のために自分の命を捨てるほどの自己犠牲的な愛は要求されていませんでした。

      4 「新しいおきて」が要求する種類の愛をイエスはどのように示されましたか。

      4 「友のために自分の魂をなげうつこと,これより大きな愛を持つ者はいません」と,イエスは言われました。(ヨハネ 15:13)しかもイエスは,不完全で罪深い,死にゆく人類のために自らの命を贖いとして与えて,その言葉を実行されたのです。(マタイ 20:28。ヨハネ 3:16; 10:14-18。ローマ 5:12; 6:23)事実,地上におけるイエスの生涯とその死は,この「新しいおきて」が要求する愛の範例となりました。キリストの導きの下にあるクリスチャンは,機会が生じるときにだけ善を行なうのではなく,霊的に,また他の面で,人々を助けることに率先しなければなりません。

      5 愛の最高の表現の一つは何ですか。

      5 確かにイエス・キリストの追随者は,隣人の益となるよう働くことに活発でなければなりません。では,愛の最高の表現の一つは何でしょうか。それはもちろん「良いたより」を人々に宣べ伝えかつ教えることです。なぜなら,そのことから人々はとこしえの命を得ることが可能になるからです。そのためにはクリスチャンは,良いたよりを受け入れる人々と共に働いて助ける点で,「神の良いたよりだけでなく,自分の魂をさえ分け与え」なければなりません。(テサロニケ第一 2:8)実際,良いたよりを受け入れる人々のためには自分の魂,すなわち命をも捨てる覚悟がなければなりません。―ヨハネ第一 3:16。

      6 イエスの追随者は,どの程度イエスを愛すべきでしたか。

      6 愛をもって行動されたイエスが歩まれた道は,抵抗の少ない道ではありませんでした。むしろ,『神を非難している者たちの非難がイエスに降りかかりました』。それでもイエスは,悪魔とその手先たちが非常な反対をしかける道を,しっかりと歩まれました。(ローマ 15:3)したがって,キリストの真の追随者たちにとっても,その一生は安易なものにはならないはずでした。そのためにイエスは,最も近い身内を愛するよりも,また自分の魂を愛するよりも勝ってイエスを愛さねばならないことを示されました。(ルカ 14:25-27)確かにイエスの弟子たちは,エホバへの奉仕における仲間を愛し,激しい迫害に直面しているときでも,霊の実を結ぶ必要がありました。―マルコ 10:29,30。ヨハネ 15:8。

      パウロは「さらに勝った道」を示す

      7,8 パウロがコリント第一 12章31節で言っている「さらに勝った道」とは何ですか。それは何よりも勝っていますか。

      7 キリストの使徒パウロは,コリントにいた信仰の仲間に手紙を書き送り,愛の重要さを強調します。そのころは聖書の数が少なかったので,聖書に関する知識はおもに口頭で伝えられました。したがって霊の奇跡的な賜物(特別な知識,異言を語ることその他)は,会衆にとって肝要なものでした。「ですが,わたしはさらに勝った道をあなたがたに示します」と,パウロは書きました。(コリント第一 12:4-11,27-31)この「さらに勝った道」とは何でしょうか。

      8 それは愛の道です。そしてその意味は次のような言葉で強調されています。「たとえわたしが人間やみ使いのいろいろなことば[霊者たちは彼ら独自の言語を持っている]を話しても,愛がないなら,音を立てる一片のしんちゅうか,[軽薄さを示す]ただ鳴り響くシンバルとなっています。そして,たとえ預言の賜物を持ち,すべての神聖な奥義とすべての知識に通じていても,また,たとえ山[山のような障害,あるいは神のご意志であるならば文字通りの山]を移すほどの全き信仰を持っていても,愛がないなら,なんの価値もありません。そして,ほかの者たちに食物を与えるために自分のすべての持ち物を施しても,また,自分の体を渡して自分を誇れるようにしたとしても,愛がないなら,わたしにはなんの益にもなりません」― コリント第一 13:1-3。マルコ 11:23。

      9 もし愛の「さらに勝った道」に従って生きないなら,神への奉仕におけるわたしたちの努力はどうなりますか。

      9 そうです。動機が神と隣人に対する愛でないなら,さもなければ価値のある行為でさえ「死んだ業」となります。(マタイ 22:37-39。ヘブライ 6:1)「愛の労苦」は欠くことのできないものです。(テサロニケ第一 1:2,3)神への奉仕において払う多くの努力や犠牲も,もし「さらに勝った道」に従って歩んでいないなら,何の価値もありません。初期のクリスチャンたちは全部が全部,神の霊の影響を受けて,強力な業やいやし,異言を語ること,翻訳などを行なえたわけではありません。(コリント第一 12:29,30)しかし,愛を示すことはだれにでもできました。愛はすべてのクリスチャンが培うべきエホバの霊の実です。―ガラテア 5:22。ヨハネ第一 4:16。

      わたしたちが見倣うべき模範

      10 愛を示す点でエホバはわたしたちにどのように模範を示されましたか。

      10 エホバ神もそのみ子イエス・キリストも,愛を示す点で模範を残してくださいました。次のことを考えてみましょう。物質の創造物は神の愛の表われです。創造物には,人類の健康,楽しみ,福祉などに対する配慮を示す証拠がたくさん見られます。人間はただ生きるだけのために創造されたのではありません。人間は普通,食物を味わうこともできれば,花のよい香りをかぐこともできます。また創造物の様々な色彩や美を鑑賞し,仲間との交わりを楽しみ,遊び戯れる動物のおどけた動作を見て笑うこともできます。いうまでもなく,生活の喜びはほかにもたくさんあります。(詩 139:14)エホバが愛ゆえに惜しみなく与える方であることは多くのことに表われていますが,人間をご自身の像と様に似せ,愛する能力と霊性とを持つ者として創造されたこともこれに含まれます。(創世 1:26,27)パラダイスの住みかを備えられたこと,また地上のパラダイスの復興をはっきり約束されたことも,霊感による言葉と聖霊を通してご自身を人類に示されたことと同様に,神の愛の表われです。(ルカ 23:43。コリント第一 2:10-13)そしてエホバの愛が,罪とその結果である死から人類を請け戻す備えをすることによって示されたのは言うまでもありません。―ローマ 5:7,8。

      11,12 神のみ子は人類への愛をどのように表わされましたか。

      11 神のみ子は人間になる前にすでに存在しておられましたが,その時でさえ,人類に対してやさしい気持ちを抱いておられました。擬人化された知恵という名で,神のみ子は神の「優れた働き手」として,そして喜びをもって仕え,「わたしの好む事柄は人の子らと共にあった」と言った方として示されています。(箴 8:30,31,新。ヨハネ 1:1,14)それで神は,人類の請け戻しを念頭において,人類を特に好んだ者,すなわちご自身の独り子をお選びになりました。この独り子は,「自分を無にして奴隷の形を取り,人のようなさまになりました」。(フィリピ 2:5-7)神のみ子は人間になって,自己犠牲的な愛を示されたのです。

      12 イエス・キリストの教えと他の人々に対するやさしい思いやりにも,愛がはっきり見られました。大勢の群衆をご覧になったとき,「彼らに哀れみを感じ,その病気の者たちを治され」ました。「彼らが羊飼いのいない羊のようであった」ので,イエスはかわいそうに思い,「彼らに多くのことを教え始められ」ました。(マタイ 14:14。マルコ 6:34)もちろん,イエス・キリストは,「多くの人と引き換える贖い」となるために杭の上で死ぬことにより,さらに勝った愛を示されました。(マタイ 20:28。フィリピ 2:8)このことや他の多くの方法で,エホバとキリストは,クリスチャンが見倣うべき愛の模範を示されました。―ヨハネ 13:34。ヨハネ第一 4:10。

      信仰の仲間に「熱烈な愛をいだきなさい」

      13 (イ)ペテロは,どんな種類の愛をお互いに抱くよう,信仰の仲間に勧めましたか。彼らの間にそのような愛が存在した証拠がありますか。(ロ)愛は今日のクリスチャンにどんな影響力を及ぼしていますか。

      13 愛は進んで自らを与えることに表われるもので,信仰生活の基礎です。(詩 110:3)使徒ペテロは仲間のエホバ崇拝者たちに,「互いに対して熱烈な愛をいだきなさい」と勧めました。(ペテロ第一 4:8)初期のクリスチャンたちの間にそのような愛が存在していたことは,彼らの用いた表現からうかがい知ることができます。彼らは,「わたしの愛する子ども」,「愛する者,わたしの真実に愛する」といった,親愛の情を表わす言葉を用いてお互いのことを話したり,お互いを呼んだりすることで知られていました。(コリント第一 4:14。ヨハネ第三 1)今日の真のクリスチャンの間にも同様の愛が存在していて,試みのときにはそれが励ましとなり,支えとなります。愛は「人を築き上げます」。(コリント第一 8:1)患難や迫害に遭うにもかかわらず,わたしたちは愛のない世にあって友を持っています。クリスチャンは,霊的兄弟姉妹たちが本当に自分を愛してくれていることを知っており,この「結合の完全なきずな」が,確信をもって将来に立ち向かう助けになります。―コロサイ 3:14。

      14 (イ)パウロは,コリント第一 13章4-8節で,愛をどのように要約していますか。(ロ)どんな質問は,クリスチャンがパウロの言葉に従って愛を示すのに役立ちますか。

      14 しかし問題は,自分が信仰の仲間に対して,個人としてどれほどよく愛を示しているかということです。使徒パウロは神の霊感を受けて愛を要約しましたが,これは互いへの愛の質を吟味するのに役立ちます。どうぞコリント第一 13章4-8節をお読みください。それから次の質問に照らしながらそこに書かれている言葉をじっくり考えてください。

      わたしは「辛抱強く親切」で,都合の悪い状況の時でも我慢強く耐え忍ぶだろうか。

      会衆内でのある特権が,自分ではなくて他の兄弟に与えられるようなときに,ねたみ心を起こすようなことをしないだろうか。

      エホバへの奉仕でエホバがわたしに成し遂げさせてくださった事柄に関し謙遜な態度を取り,自慢するようなことをしないだろうか。

      仲間のクリスチャンの中のある特定の人に接する際に,「みだらなふるまい」をするだろうか。

      クリスチャンの大会のときに,他の人よりも先に出るといった比較的に小さな事柄で,『自分の利を求める』ようなことをするだろうか。

      例えば長老として,ほかの人たちが聖書の助言にすぐに反応しないというだけの理由で『いらだつ』だろうか。

      何年も前にあったことを『根に持つ』ところがあるだろうか。それとも自分が許しを望むのと同じように,信仰にある兄弟姉妹を許すだろうか。

      わたしが人と話すことは,世の不義をきらって避けていること,真理に喜びを抱いていることを示すものだろうか。

      不完全な仲間のクリスチャンに完全さを期待するようなことをしないで,「すべての事に耐え」るだろうか。

      わたしは信仰の仲間の動機を不当に悪く解釈するようなことをせずに,『すべての事を信ずる』者だろうか。

      「すべてのことを希望」しているだろうか。つまり神の言葉にあるあらゆる事柄を心から希望しているだろうか。わたしの希望は本当に神の言葉に基づいているだろうか。

      わたしはクリスチャンとして,迫害を含め「すべての事を忍耐」できるだけの愛を神に対して抱いているだろうか。

      こうした質問は,クリスチャンが愛を示すことに努力する際によい助けになるでしょう。

      15 愛はエホバの民を動かして,困っている仲間の崇拝者たちのために何を行なわせましたか。

      15 信仰の仲間に愛を示す方法は確かに数限りなくあります。例えば,物質面での援助が必要になると,愛はわたしたちを促してその面で彼らを助けさせます。(ヤコブ 2:14-17)ですからエホバの民は,第二次世界大戦後,戦禍に見舞われた国々に住む窮乏した信仰の仲間を助けました。二年半にわたる世界的救援活動の間に,アメリカ,カナダ,スイス,スウェーデンその他の国々のエホバの証人は,オーストリア,ベルギー,ブルガリア,中国,チェコスロバキア,デンマーク,英国,フィンランド,フランス,ドイツ,ギリシャ,ハンガリー,イタリア,オランダ,ノルウェー,フィリピン共和国,ポーランド,ルーマニアなどのクリスチャンたちのために衣料品を,また食料品を買うためのお金を寄付して愛を示しました。さらにエホバの証人は,長い年月にわたり,仲間の信者が天災の被害を受けたときなどに,必要に応じ,喜んで物質的援助を行なってきました。

      16 クリスチャンの愛は,会衆内の任命された長老たちに対してどんな影響力を持つはずですか。

      16 クリスチャンの愛はまた,任命された会衆の長老たちを近づきやすい,理解のある人にします。もし彼らがエホバの道に倣うなら,そうなるはずです。エホバについては,「天が地よりも高いように,その愛ある親切はご自分を恐れる者たちに対して勝っている」と述べられています。(詩 103:10-14,新)クリスチャンの監督たちをして,信仰の仲間を霊的に援助するよう,勤勉に努力させるものは,謙遜で愛の深い心の態度です。

      17 老齢のクリスチャンや病気で体が弱いクリスチャンにはどんな方法で愛が示せますか。

      17 しかしクリスチャンの愛は,任命された長老たちだけでなく,神を敬うすべての人を刺激して,仲間のエホバ崇拝者たちと接する際に協力的で助けを与える者とならせます。例を挙げると,愛はわたしたちを動かして,お年寄りや病気で体が弱い人のために買い物をさせるかもしれません。必要なら,その人たちに聖書やキリスト教関係の出版物を読んであげるようにさせるかもしれません。また,家事を手伝ったり,神への奉仕を一緒にしたり,別のときに楽しい交わりをしたりする機会もあることでしょう。愛は頼まれなくても様々な方法で,老若を問わず,他の人々に善を行なうようわたしたちを動かすものです。

      家族と隣人に対して愛を働かせる

      18 愛を示すのに,生活のあらゆる面を律する規則が必要ですか。

      18 使徒パウロは,「あなたがたは,互いに愛し合うことのほかは,だれにも何も負ってはなりません」と書きました。(ローマ 13:8)確かにクリスチャンは他の人々に愛を負っています。しかしこの特質を働かせるのに,生活のあらゆる面を律する規則は必要ではありません。人間の良心と,聖書に基づく,敬神の念から生まれる知恵とが,愛のこもった言葉や行ないを思いつかせるのです。(ローマ 2:14,15)ですからある状況の下で,自分がクリスチャンとして愛を示しているかどうかは大体のところわかります。それでも,愛を示すべきであると知っていることと,それを実行することとは全く別の問題です。

      19 家族の中で愛を示すのに助けになるのは何ですか。それはどんな方法で示せますか。

      19 家族の間では,わたしたちは時に気短になり,やさしさを欠くことがあるかもしれません。なぜでしょうか。それは,家族の者たちのことはよく知っているので,家族に対しては他の人々に対するほどの忍耐を示さないためかもしれません。しかし,家の中でも,土地のクリスチャン会衆内の人々のような,他の人々を扱う場合と同じ基本的原則が適用されます。確かに,家族の成員に対して愛を働かせる点で,わたしたちは祈りによりエホバの助けを求めることができ,また求めるべきです。この点で次のことを覚えているなら助けになります。それは,夫が「自分の体のように」妻を愛し,妻が夫や子供を愛し,子供が親に対し愛を示して親に従うなら,エホバ神が喜ばれるということです。(エフェソス 5:28; 6:1-3。テトス 2:4)成人した子供でも,年を取った親をおろそかにすることなく,必要に応じて霊的に物質的に助けて,愛を示すことができます。敬神の専念にはこの責任を担うことも含まれます。そしてもちろん,クリスチャンの夫が霊的に物質的に家族をしっかり養うことも愛の表われです。―箴 19:26; テモテ第一 5:4,8と比較してください。

      20 特にクリスチャンは,隣人愛をどのように示せますか。

      20 隣人愛は,様々な状態の下で,人間味のある親切な行為によって示せます。マルタ島の人々は,難船にあったパウロと他の人々に「人間味のある親切をひとかたならず」示しました。(使徒 28:1,2)それら異教徒の島民は良心に動かされてそのように行動しました。であれば,聖書的に訓練されているクリスチャンの良心は,クリスチャンをそれ以上に大きく動かして,隣人愛を示させるはずです。特に「良いたより」を分かち合うようわたしたちを動かすのはその隣人愛です。エホバのみ前に良い立場を得るよう人々を助けること以上に立派な,愛のこもった行為はほかにありません。―テモテ第一 1:8-11。

      何よりもまず神に対して愛を示す

      21,22 (イ)わたしたちがエホバに愛を示すおもな方法は何ですか。(ロ)それでどんなことを自問してみますか。「エホバを愛する者」としてどんな決意をすべきですか。

      21 「良いたより」を教えて,エホバ神のみ前に良い立場を得るよう援助することは,確かに仲間の人間に対する最高の愛の表現の一つです。またクリスチャンにとってこの活動は,わたしたちの愛を受けるのに最もふさわしい方である,わたしたちの愛情深い神エホバに対して愛を示す主要な方法です。神のみ子は言われました。「あなたは,心をこめ,魂をこめ,力をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない」― ルカ 10:27。

      22 わたしたちは,「見えないかたを見ているように終始確固として」いるでしょうか。(ヘブライ 11:27)忠実な証人として,エホバという比類のないみ名を高く掲げるでしょうか。エホバとその目的について語ることを,心から喜びとしていますか。実際,エホバの民の会衆としてのわたしたちの基本的な存在理由は,そこにあるのではないでしょうか。確かにそうです。わたしたちは,エホバの聖霊の感化を受けて,仲間と共に,愛の「さらに勝った道」を追求しつづけることができるのです。しかしわたしたちは,善を愛し,忠実を保つ,「エホバを愛する者」としてエホバにあって歓び,何よりもまず,わたしたちの神を恐れなく賛美することを願っています。―詩 97:10-12,新。

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