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神に仕える正しい動機ものみの塔 1964 | 9月1日
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も,宣教は最大の特権であり,それは神から与えられたものであって,金銭では買えないものです。―マタイ 23:8-10。ヤコブ 4:4。ヨハネ 17:14。
13 迫害にもかかわらず,クリスチャンはなぜ,そしてどのようにエホバへの献身を表わしてきましたか。
13 宣教に参加するとき,クリスチャンと自称する人からさえ反対を受けることを,エホバの証者は知っています。エホバの証者は偽りの非難を浴びせられ,スパイ,シオン主義者,扇動者呼ばわりされてきました。パウロも当時の人々から,「この男は,疫病のような人間で,世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり,また,ナザレ人らの異端のかしらであります」と言って訴えられました。戦争中,エホバの証者は信仰を否定しなければ死刑にすると言われ,またある国ではエホバの奉仕者として中立の立場を固守したために,何年ものあいだ投獄されていました。いまなお刑務所につながれている証者がいます。では自分の生命をそれにかけるほど,神への奉仕を大切にするのはなぜですか。それは神のことばの真理を信じ,永遠の生命の報いを得ることを望むからです。「今わたしは,人に喜ばれようとしているのか,それとも,神に喜ばれようとしているのか。あるいは,人の歓心を買おうと努めているのか。もし,今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば,わたしはキリストの僕ではあるまい」と,パウロは述べています。神の忠実を確信したパウロは次のように言明しました,「死も生も,天使も支配者も,現在のものも将来のものも……神の愛から,わたしたちを引き離すことはできないのである」。パウロは奉仕によって,神の愛に対する認識を示しました。―使行 24:5。ガラテヤ 1:10。ロマ 8:38,39。
14 愛は奉仕とどのような結びつきがありますか。
14 イエスもまた前途にある苦しみを知っていましたが,それでもエホバに忠実に奉仕することをやめませんでした。御父のみ心を行なうために来たイエスは,たとえ死にあってもそれを成し遂げることを決意していたのです。「わたしが父を愛していることを世が知るように」と言われた言葉からもわかる通り,イエスが忠実を守り通したのは愛のためでした。このような愛を持つならば,私たちは真理を語ることをちゅうちょせず,臆することなしにすべての人に証言できるでしょう。使徒ヨハネが述べたように,「完全な愛は恐れをとり除」きます。クリスチャンはなぜこのように確固とした愛を持つのですか。それは「神がまず私たちを愛して下さったから」です。―ヨハネ 14:31。ヨハネ第一 4:17-19。
神を愛するゆえに奉仕する
15 イエスと使徒たちが神に奉仕したのはなぜですか。
15 クリスチャンが神に奉仕すべき理由を問われるとき,何と答えますか。家の人に聖書文書をすすめた一人の子供の伝道者は,福音を伝道してどんな報いがあるのかと聞かれて,「永遠の生命」と答えました。この少女はエホバの約束に信仰を抱いていたのです。神に奉仕する理由として,あなたは他の人を奉仕に励ますような,どんな理由をあげますか。イエスがエホバに奉仕した理由を考えてごらんなさい。イエスは父なる神を愛したゆえにそのみ心を行ない,真理をあかししました。(ヨハネ 18:37)パウロはなぜ神に奉仕しましたか。パウロはそれが自分の生命と,音信を聞きいれる人の生命を意味することを,知っていたからです。そのためにパウロは福音の使者として奉仕し,キリストの始めたわざをしました。―コリント後 5:20。
16 奉仕すべき当然の理由をあげなさい。
16 そこで私たちの奉仕は神と隣人に対する愛に根ざしたものであり,イエスの命じたわざを行なうことです。それを成し遂げることは救いを意味します。(マタイ 22:37-39; 28:19。テモテ前 4:16)神に仕えるとき,人は生きることに本当の意義を見出します。それは自分が生き残るための道であると同時に,神のお目的にかなった生命の希望を他の人々に与えて人々を益する道です。―ロマ 8:28。
17 私たちの奉仕は何に基づいているべきですか。そしてなぜ?
17 ある人とくに子供は,家族や友人の感化で家から家の宣教を始めるかも知れません。そして会衆と交わり,奉仕しますが,奉仕に心がこもっていません。またある人はこれこそ最良の宗教であると思っても,十分に研究しないので学んだことを他の人に語るだけの熱意を抱きません。善良な人々と交われるからというのが目的の人もあります。中には他の人の信仰を弱め,破壊しようとの邪悪な目的で交わる人さえあります。しかし理由は何であれ,エホバは心をご存知であり,正しくない動機で奉仕する人は,神の祝福も生命の報いも得ないでしょう。ですから奉仕しない事の結果を恐れて奉仕したり,利己的な目的で奉仕するのであってはなりません。正しい動機は創造主に対する真実の愛です。―コリント後 6:1,2。エレミヤ 20:9。
18 私たちの奉仕を受ける人々に対して,どんな態度をとるべきですか。
18 各人は自分の信仰と愛を強め,真理に対する認識を深めて,熱心に神の義を行ない,神に受け入れられる奉仕をしなければなりません。宣教に従事する人は宣べ伝えようとする相手の人々に深い関心を払い,その人々を援助できるように自分の証言を改善し,いっそう効果的な宣教を目ざして努力を傾けねばなりません。エゼキエル 33章11節において,エホバご自身がこのようにお考えになっています。「わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が,その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ,心を翻してその悪しき道を離れよ……あなたはどうして死んでよかろうか」。いまの奉仕が私たちの生命や他の人の生命を意味するという事は,大いにあり得ます。
19 利己的な動機で奉仕する人はどうなりますか。
19 親類や家族を喜ばせるために奉仕する人があるとすれば,この古い組織が終りに近づき,マゴグのゴクがエホバの民を攻撃するとき,その人はどうなりますか。人を喜ばせるために神に奉仕しているならば,私たちは神を喜ばせているのではなく,またマゴグのゴグの総攻撃にも耐えられないでしょう。(エゼキエル 38:11,16)間違った動機で自分の利益のために奉仕している人は,やがて落伍します。その人々は世間の友だちや,更にヨブのように自分の家族から反対されるとき,あるいはクリスチャンに浴びせられる偽りの非難を受けるとき,奉仕をやめるでしょう。間違った動機で奉仕している人は,たとえ信仰の欠如のための落伍を免れても,生命に値しない者であれば,ハルマゲドンの戦いのときエホバの天使によって引き抜かれ,捨てられます。(マタイ 24:12; 13:20,21,38-41)利己的な動機で奉仕する人は自分を欺いているに過ぎません。イエスの次のことばはその事を強調しています,「わたしにむかって『主よ,主よ』と言う者が,みな天国にはいるのではなく,ただ,天にいますわが父の御旨を行なう者だけが,はいるのである」― マタイ 7:21-23。
20 エホバの恵みを得る立場をどのように強くできますか。
20 生命の冠を受けるエホバの真の賛美者の群衆の一人に数えられるには,どんな反対にも負けてはなりません。イエスのたとえ話に出てくる賢い人のように,キリスト・イエスへの従順という岩の上に家を建て,キリストに対する信仰をかたく建て,真理の知識を深め,ひろめると共に強くし,真理に生きると同時に,生命に通ずる従順という堅固な基礎を築くように他の人を助けなければなりません。そうすれば聖書の預言する反対のあらしがエホバの民を襲い,二度とないような患難をもたらしても,私たちの従順と忠実はゆらぐことなく,どんな反対にも耐えて正しい崇拝のために固く立つことができるでしょう。(マタイ 7:24-27)神に対する愛を表わし,神のさしのべる生命と将来の祝福に対する感謝を表わす唯一の道は崇拝と奉仕であり,私たちはこれに心をこめなければなりません。―ヘブル 13:15。
21 エホバはご自分のしもべにいまどんな祝福を与えますか。私たちには何が求められていますか。
21 エホバを知ってエホバに仕えることは,いまでも祝福をもたらします。揺れ動く世界の中にあっても私たちは心を悩ますことなく,聖書を知るゆえに心の平安と落着きを保ちます。世間の友人や,場合によっては家族を失なうことがあっても,エホバの家族から百倍の兄弟,姉妹,父,母,家を受け,永遠の生命の約束を得ます。私たちはその事を確信できます。「神は不義なかたではないから,あなたがたの働きや,あなたがたがかつて聖徒に仕え,今もなお仕えて,御名のために示してくれた愛を,お忘れになることはない」からです。「わたしたちは,あなたがたがひとり残らず,最後まで望みを持ちつづけるためにも,同じ熱意を示し,怠ることがなく,信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように,と願ってやまない」と,パウロは書きました。―ヘブル 6:10-12。ロマ 8:6。マルコ 10:30。
22 エホバの前に正しい立場を得ることは何をもたらしますか。神に奉仕する人はどんな益を得ますか。
22 地位や名誉あるいは金銭的な利益のために職を選ぶ人は多いかも知れません。しかしそれは神の恵みを得る道ではありません。神と隣人を愛し,エホバのさしのべる祝福と希望に感謝するという,聖書にかなった動機で奉仕する人は,神の前に恵みを得ます。今日エホバのわざを行ない,神を求める人に真理をわかつために多くの事をしなければなりません。同様にキリストの千年統治のあいだにも,地を楽園にし,人をみたす大きなわざが行なわれます。その時にも奉仕する動機はいまと同じくエホバに対する愛です。その幸福な時に生きることを望むならば,忠実な奉仕によってその願いを示すべきです。エホバの覚えの本はいま書かれています。その事を忘れてはなりません。神のことばはそのことを告げています。「万軍のエホバいひたまふ我わが設くる日にかれらをもて我宝となすべしまた人の己につかふる子をあはれむがごとく我彼等をあはれまんその時汝らは更にまた義者と悪きものと神に服事るものと事へざる者との区別をしらん」― マラキ 3:17,18,文語。
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皇帝の友人ものみの塔 1964 | 9月1日
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皇帝の友人
◆ 使徒行伝 18章12-16節は,コリント滞在中の使徒パウロが,「アカヤ総督」ガリオの前に引き出された時の模様を記しています。この時パウロが前に立ったと思われる裁判席は,考古学者により発見されました。また,「私の友人にして,アカヤの総督ルシウス・ジュニアス・ガリオの書いたごとく」との一文を載せた,ローマ皇帝クラウデオの手紙も発見されています。しかも,その手紙によると,ガリオがコリントに来たのは西暦51年ごろであり,聖書から推察できるパウロのコリント滞在の年代と一致します。
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