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人間が永遠に住める場所ものみの塔 1958 | 10月15日
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た時,それに従い,行く先を知らないで出て行つた。信仰によつて,他国にいるようにして約束の地に宿り,同じ約束を継ぐイサク,ヤコブと共に,幕屋に住んだ。これらの人はみな,信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかつたが……』これらの人々や,彼らと同じような人々は,一つの国を約束されましたが,それを得ませんでした,『さて,これらの人々はみな,信仰によつてあかしされたが,約束のものは受けなかつた。』しかしながら,彼らはこの約束の成就を得ますというのは,ヱホバは約束を守る方だからです。ヱホバは,彼らを死から,肉体をもつた人間として地上の生命によみがえされるでしよう。そして彼らを国の中に植えつけ,彼らは決して抜き去られることはないでしよう。このことは成就されねばなりません。さもなければ,ヱホバの御約束は果されないでしよう。―ヘブル 11:8,9,13,39,新口。
キリストと共に,霊者として天に生命を得る人間の数は限定されていますが,地上で永遠に住める人々の数は限定されていません。そしてその資格を得るために,謙そんと正義を求めなさい,『すべてヱホバの律法を行うこの地のへりくだるものよ汝らヱホバを求め公義を求め謙そんを求めよ然すれば汝らヱホバの怒の日にあるいはかくさるることあらん。』『へりくだる者は国をつぎ,また平安のゆたかなるを楽しまん。ただしき者は国をつぎその中にすまいてとこしえに及ばん。』― ゼパニヤ 2:3。詩 37:11,29。黙示 14:1,3。
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人々でなくて悪を憎みなさいものみの塔 1958 | 10月15日
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人々でなくて悪を憎みなさい
愛は,ヱホバの顕著な属性です。『神は愛なり』と使徒ヨハネは書きました。ヱホバの愛はあまりにも完全ですから,その愛が敵にまで及ぶのはイエスの言われた通りです。『「隣り人を愛し,敵を憎め」と言われていたことは,あなたがたの聞いているところである。しかし,わたしはあなたがたに言う。敵を愛し,迫害する者のために祈れ。こうして,天の父は,悪い者の上にも良い者の上にも,太陽をのぼらせ,正しい者にも正しくない者にも,雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて,なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて,なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから,あなたがたが天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい。』― ヨハネ第一書 4:8。マタイ 5:43-48。
もしヱホバが御自身の敵に対して忍耐を持たれるならば,私たちも持つべきではありませんか。彼らに対して示されるヱホバの愛は,ギリシャ語の「アガペ」で表現されています。そしてそれは,感傷的な愛情よりも範囲において広いものです。ストロング博士の述べているごとく,その愛には,『道義と義務と適正の問題として,特に,分別と意志の慎重な同意が包含されている。』その愛は,敵のためにさえも良き事を願い,たとえ彼らの行為のすべてを是認できなくても,彼らの福祉のために働きます。神の愛は神に対して罪を犯していた者の福祉のために働きました,『まだ罪人であつた時,わたしたちのためにキリストが死んで下さつたことによつて,神はわたしたちに対する愛を示されたのである。』神が罪人の刑執行を待つておられるのは,神がのろいからではなくて,神の愛によるのです,『ある人々はおそいと考えているが,ヱホバは彼の約束に関しておそいのではない。ヱホバはあなた方に忍耐されているのである。というのは彼はひとりでも滅びるのを望まれずすべての者が悔い改めるよう望まれているからである。』神はその御親切と寛容と忍耐とによつて,罪人たちを悔い改めにいたらせようとされているのです,『神の恵みの徳は,あなたを導いて悔い改めにいたらせるということを知らないか。』神は罪を是認されません。しかし,罪人に対しては愛を示されます。―ロマ 5:8,新口。ペテロ後 3:9。ロマ 2:4,新世。
私たちが憎むもの
悪を憎むのは正しいことです。そうすることはヱホバにならうことであり,キリストの模範に従うことになります。ヱホバは,『高ぶる目,偽りを言う舌,罪なき人の血を流す手,悪しき計りごとをめぐらす心,すみやかに悪に走る足,偽りをのべる証人,また兄弟のうちに争いをおこす人』を憎まれます。イエスは,『義を愛し,不法を憎まれ』ました。それでもヱホバとキリストは,罪人の罪を憎みながら彼らに愛を示されました。ですから私たちもそうしなければなりません。―シンゲン 6:17-19。ヘブル 1:9,新口。
愛は罪人の心を変えるかも知れません。私たちは罪を犯す人々に伝道します。しかも愛を持つて伝道します。というのは愛の中に伝道されなければ何にもならないからです,『たとえわたしが,人々の言葉や御使たちの言葉を語つても,もし愛がなければ,わたしは,やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた,わたしに預言をする力があり,あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても,また,山を移すほどの強い信仰があつても,もし愛がなければ,わたしは無に等しい。たといまた,わたしが自分の全財産を人に施しても,また,自分のからだを焼かれるために渡しても,もし愛がなければ,いつさいは無益である。』私たちは罪に対してではなくて,罪人に愛を示します。―コリント前 13:1-3,新口。
私たちは,人が若いとか年老いているとか,男であるとか女であるとか,背が高いとか低いとか,肥つているとかやせているとか,金髪だとか黒い髪の毛だとか,美しいとかみにくいとかの理由で,人を憎みません。憎しみをさそうのは人の外見や顔かたちではありません。悪いのはその人の行為です。そして私たちが正義を愛するならば,彼の悪を憎みます。もし彼がそれらの行為をやめるならば,私たちの憎しみの原因はなくなり,従つて私たちの憎しみもなくなります。迫害者が迫害をやめて,ヱホバの真理を受け入れる時は,私たちは彼を愛します。彼が悪を行つている間でも,愛を示しなさい。そうすれば,その愛は彼を正しい行いに導くかも知れません。これはヱホバの愛の道です,『また,わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言つても,もし彼がその罪を離れ,公道と正義とを行うならば,すなわちその悪人が質物を返し,奪つた物をもどし,命の定めに歩み,悪を行わないならば,彼は必ず生きる。決して死なない。彼の犯したすべての罪は彼に対して覚えられない。彼は公道と正義とを行つたのであるから,必ず生きる。』― エゼキエル 33:14-16,新口。
罪人は自らの罪を憎む
悪を行う子供はこらしめを受けます。それは彼が愛されているからです,『それヱホバはその愛する者をいましめ給う,あたかも父のその愛する子を戒むるが如し。』子供はいろいろな悪い行いをするかも知れませんが,それでも両親は自分の子供を愛します。親は悪い行為を憎みますが子供を憎みません。そしてこらしめによつて子供を矯正しようと努力します。ヱホバもまたその通りです。ヱホバは,罪深い人が救える可能性がある時にそうされます。人が悪に落ち込むのは,多くの場合肉の弱さのためであつて,その人自身が実際に望むからではないということを,ヱホバはよくご存じです。パウロは,彼自身が犯した罪に対する憎しみをこのように示しています,『なぜなら,わたしは自分の欲する事は行わず,かえつて自分の憎む事をしているからである。それで,この事をしているのは,もはやわたしではなく,わたしの内に宿つている罪であるわたしの内に,すなわち,わたしの肉の内には,善なるものが宿つていないことを,わたしは知つている。なぜなら,善をしようとする意志は,自分にあるが,それをする力がないからである。すなわち,わたしの欲している善はしないで,欲してない悪は,これ
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血液を用いない治療法を選ぶものみの塔 1958 | 10月15日
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血液を用いない治療法を選ぶ
1957年5月の「サザン・メデカル・ジャーナル」の中でJ・B,トムソン博士は,こう述べています。貧血症の婦人が婦人に特有な病気で手術を受ける準備としてヘモグロビンの量を増すためには,輸血よりも鉄分サルフエイトを服用する方が望ましい。『輸血からは不運な死亡が起つた』ことから見て,これは特にそうであると同博士は述べました。
この型の治療法によって,重い貧血がよくなった5つの例を挙げて,同博士は『たとえ重い貧血の患者でも,充分の時間があれば手術前の貧血の治療として輸血を必ずしも必要としないこと,また軽度の貧血症患者は鉄分を服用しただけで,輸血に伴う一つ又はそれ以上の危険を避けたことを示して』います。鉄分服用療法の短所は殆んどなく,また小さいものです。
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