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愛は高価なもの ― しかしその代価を払うだけの価値がある目ざめよ! 1975 | 7月8日
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て,他のすべてのものの名にまさる名をイエスにお与えになりました。―フィリピ 2:9-11。啓示 14:1-3。
キリストの弟子になるための代償
真のクリスチャンは,自分たちが示す愛の点で神のみ子に見倣います。エホバ神に献身し,バプテスマを受けられるよう,多くの人が進んで支払おうとしている代償は,そのことを示すものです。例えば,アルゼンチンの一婦人の場合,15年間の結婚生活の後,夫はその婦人の元を去りました。しかし,それはその婦人が聖書を研究してからエホバ神を崇拝し,その王国の関心事に仕える決心をしたからです。去って行ったのは夫のほうであり,その婦人ではありませんでした。とはいえ,その婦人は夫と別れないようにするため自分の信仰を捨てようとはしませんでした。神との間の是認された関係は,そのためにどんな代価が求められたとしても,そうするだけの価値がありました。その婦人は,1974年の1月に開かれたエホバの証人の「神の勝利」大会でバプテスマを受けました。
ほかの人たちの場合,神への愛を示すためには,自分の生活を清くしなければなりませんでした。(コリント第一 6:9-11)そうした人たちは,とばく,アルコール飲料による泥酔,不正な業務などはもとより,麻薬を乱用する習慣や喫煙をもやめました。不正な業務をしないことの典型的な例として,ニューヨークの自動車修理工の場合があります。その人はある種の自動車修理工場が行なっている不正な行為に,もはやくみしようとしなかったため,解雇され,自動車修理工場を何箇所か転々としました。神とその義の道に対する愛には相当の代価が求められていました。しかし,その人はそうするだけの価値が十分あるという強い確信を抱いていました。
弟子であることには知識が関係しており,それを得るには研究が必要です。クリスチャンがエホバ神への愛を表明する一つの方法は,神の特質やご意志や目的について学ぼうとして,それに専念することです。聖書の個人研究を行なうためには何かを犠牲にしなければなりません。その個人研究には時間と労力が必要です。そしてそれは,自分の肉的性向をより一層満足させるかもしれないほかの活動に費やす時間と労力を研究に振り向けることを意味します。しかし,犠牲を払うなら,わたしたちは増し加わる理解,信仰,そして希望によって豊かに報われるのではないでしょうか。確かに報われていますし,そのうえに喜びがあります。そうした研究は詩篇作者と同じ感情を人に抱かさせるからです。「わたしは大いなる獲物を得た者のようにあなたのみ言葉を喜びます」― 詩 119:162,口語。
また,仲間のクリスチャンと交わる際にも同じことが言えます。時には,交わるために大きな努力の必要な場合があります。それは,一日の仕事で疲れていたり,頭痛がしたり,少し風邪気味だったり,天候が悪かったり,急いで処理しなければならないと思われるような他の事柄があったりするからです。しかし,犠牲を払うなら人は豊かに報われます。また,仲間のクリスチャンと交わるために払った努力が大きければ,それだけ祝福も豊かなものになります。―ローマ 1:11,12。
クリスチャンの行なう証言によって愛を表明する
エホバのクリスチャン証人は,神の王国の良いたよりを他の人々に分かち合うという点でもこの原則を適用しています。それら証人たちが,戸別訪問のために1,2時間,あるいはそれ以上の時間を費やしても,留守の家が多かったり,聞く耳を持つ人が一人もいなかったりすることも珍しくありません。しかし,会う人がみな反対する人や無関心な人だけであっても,証人たちはざ折感を抱いたままでいることはありません。なぜですか。なぜなら,愛の労苦であるその働きがむだにはならないからです。―コリント第一 15:58。
一つの理由として,クリスチャンが語るほんの2,3のことばが,家の人に,神とその王国について考え始めさせる点で,どんな良い影響を与えるかは本人にとって予想のつかないことです。その上,クリスチャンには悪い人々に警告を与える責務がゆだねられていますから,その責務をわきまえて宣べ伝えるなら,たとえ明らかな結果がなくても,流血の罪を負わずにすみます。また,良い結果がほかに何もないとしてもそうした努力によって信仰と希望は強められることになります。反対に耐え,家の人の無関心にもかかわらずたゆまず努力し続ける時に,クリスチャンは霊的に強くなります。人は自分の確信や信仰や希望を大切にして強めてゆかないならば,そうした確信や信仰や希望に基づいて行動することなどとてもできません。―ペテロ第二 1:5-8。
しかし,そうした事柄は愛を表明することに対する報いの一部にすぎません。その報いのより大きな部分を占めているのは,エホバ神がご自分に無私の気持ちで仕える人すべてにお与えになる報いです。それは神が『不義なかたではなく,その働きと,み名に示した愛とを忘れたりはされない』からです。(ヘブライ 6:10)神に忠実に仕える者たちに対して,神はその義の新秩序におけるとこしえの命を約束しておられます。
快く許すこと
愛は高価なものですが,その代価を払うだけの価値があるということは,家族や会衆の成員間の関係によっても実証できます。霊感を受けた次の訓戒に注意を払うには相当の代価が求められます。「互いに親切にし,優しい同情心を示し,神がキリストによって惜しみなくゆるしてくださったように,あなたがたも互いに惜しみなくゆるし合いなさい」。(エフェソス 4:32)そうするためには忍耐が必要であり,わたしたちを怒らせる人のことをがまんしたり,わたしたちの感情を害した人に対して寛大であったりするためには神経を使わなければならないこともあります。人を快く許すには,自分の誇りの気持ちを抑え,謙そんさを示すことが必要かもしれません。またそのために,物質面での損失を被ることさえあるかもしれません。―コリント第一 6:1-8。
そうするだけの価値があるでしょうか。快く許すために個人的に不都合なことがあっても,家族やクリスチャン会衆内にもたらされる一致と平和のことを考えればそうするだけの価値があります。さらに,快く許すなら,イエスが明らかにされたように,神からの同情を受けられるという確信をも持つことができます。(マタイ 6:14,15)快く許すことによって,わたしたちは一層愛情のある者,そして愛される者として成長し,また,心暖まる友情という結果がもたらされます。聖書はこう述べているからです。「あやまちをかくしてやる人は,友情をそだて(る)」― 箴 17:9,バルバロ訳。
イエス・キリストは次のことを語られたと言われています。「受けるより与えるほうが幸福である」。(使徒 20:35)「与える」ことによって人は愛を示しているのです。確かにそうするには何らかの代価を払わねばなりません。しかし,生活のすべての面,すべての活動,そしてすべての人間関係などにおいて,愛は高価なものですが,その代価を払うだけの価値があると言えます。
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災害に見舞われたダーウィン目ざめよ! 1975 | 7月8日
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災害に見舞われたダーウィン
オーストラリアの「目ざめよ!」通信員
オーストラリアの都市ダーウィンは,どちらかといえばまだ歴史の浅い都市でした。人口は近年になって急増し,1954年には8,071人だったのが昨年は,4万3,000人に達しました。第二次世界大戦中,68回に及ぶ爆撃に耐えたダーウィンは,1974年12月24日夜半から25日未明にかけてわずか数時間のうちに死の町と化してしまいました。その日ダーウィンは,サイクロン(台風),トレーシーに襲われたのです。
風速65ないし90㍍にも達したトレーシーがやっと過ぎ去ったころには,市街地の実に95%は廃虚と化していました。あとには,50名余の死者と,家を失った3万人近くの罹災者が残されました。
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