-
どのようにして本当の幸福を見いだせますか目ざめよ! 1977 | 10月22日
-
-
でなく,他の人々の福祉にも何らかの点で役立っているのです。そのような見方をすれば,自分の仕事を立派に成し遂げようとすることに幾らかの満足感を抱けます。カナダ王立銀行の月報が述べているとおりです。
「自分に任されている小さな事柄を立派に果たせる従業員は,極めて大きな事業の成功に貢献している。そして,熱意と決意をもって自分の務めに打ち込み,自分の能力を出しきる者は,物事を成し遂げたという満足感を抱く。その満足感が幸福の一つの要素となる」。
より肝要な要素
幸福になるためのより肝要な要素の一つは,他の人々との関係とかかわりがあります。他の人々の示す友情,愛情,温情,そして理解 ― そうです,愛なくしては本当の幸福を味わうことができません。
確かに,雑踏している都市のようなところにいると,人間がみないなくなれば良いと思うことが時にはあるかもしれません。しかし,全く独りだけになりたいと本当に思う人がいるでしょうか。少しの間であればそれも望ましく思えるかもしれません。しかし,たとえ失望したり,怒りを覚えたりすることがあっても,他の人々がいなければ本当の幸福は見いだせないというのが事実です。ある期間独房に監禁されていて幸福になった人は一人もいません。
しかし,単に他の人々が周りにいるというだけで,幸福になれるわけではありません。本当に重要なのは,幸福になるための肝要な要素である愛を自分が示すことです。そして最善の結果をもたらす種類の愛は,暖かくて,愛情深いだけでなく,正しい原則に基づいた愛です。
「愛: 幸福に資する最も大切な要素」。これは,「今日の心理学」誌に載せられた一つの見出しです。その記事の中で,心理学者ロバート・M・ゴードンは次のような注解を述べています。
「愛は人間の生活の中で最も重要な資産である。愛は,生活上の選択や生活様式を導く価値感を形成するのに大きな役割を果たす。子供のころに愛の欠如を経験した人は,その時点ですでに不幸であり,さらに将来いつまでも不幸が付きまとうような価値感を身に付けてしまう」。
愛が欠如していて,愛の結果である幸福が見られないと,金銭や物質がその代わりになってしまうことは珍しくありません。しかし,愛の示される人間関係から得られる幸福を,金銭や物質が十分に補なうことは決してありません。
では,子供のころ十分に愛を受けなかったなら,本当の幸福を味わうことは決してできないという意味ですか。いいえ,そうではありません。愛は,何歳になってからでも,培ったり,育んだりできるものだからです。どうしてそのようなことが言えるのですか。生来備わっている人間の社交性の一部として,人は愛を示し,また愛に答え応じるよう造られているからです。神は人間を創造する際,この能力を賦与されました。そして,幼少時に失意をもたらす経験をしたとしても,愛を再び燃えたたせることは可能です。
そうです,人間は生来,他の人々の愛を求め,その愛に答え応じるものなのです。カナダのマクリーンズ誌は次のように述べています。
「多くの科学者たちは,幸福感の最初の表われである,赤子が笑顔で示す反応について研究してきた。……
「それらの科学者たちは,普遍的に当てはまる人間のパターンを発見した。どの人種に属する赤子も,生後六か月になるまでは,親しみ深い大人に対して必ずといって良いほどほほえみかける。
「人類のこの本能的な社交性は,赤子がおもちゃや哺乳びんにほほえみかけることはめったにないのに,人間には必ずといって良いほどほほえみかけるという事実に表われている」。
「黄金律」
他の人々の行なう事柄は,わたしたちの幸福に影響を及ぼします。それと同様に,わたしたちの行なう事柄も,他の人々の幸福に影響を及ぼします。わたしたちの幸福は,家族や友人など他の大勢の人々の生活と密接な関係があるという事実を無視するわけにはゆきません。
他の人々の幸福を犠牲にして自分の快楽を追求するようなことは何としても避けなければなりません。この原則は「黄金律」と呼ばれ,聖書の中に記されています。「黄金律」の次の言葉を語ったのはイエス・キリストでした。「それゆえ,自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」― マタイ 7:12。
そのようにして,愛,親切,正直,そして公平などの特質を示して他の人々を扱うなら,どんなことが起きますか。他の人々を親切に扱うなら,赤子が笑顔に答えて笑うように,それらの人々も親切な行為に答え応じるでしょう。確かに,すべての人がそのような反応を示すわけではありません。しかし,大抵の人は,好意的な反応を示すでしょう。
そうすれば自分の幸福を増し加えることになります。イエスの言われたとおり,「受けるより与えるほうが幸福である」からです。(使徒 20:35)この良い例は,夫を亡くしたある老婦人の場合です。その婦人はこう書いています。
「[夫]の亡きあと,私は子供や孫たちに与えるよう心掛けており……子供や孫たちはそれを喜んでいます。しかし,正直なところ,彼らに与えるときに私のほうがはるかに大きな喜びを味わっています」。
この老婦人が「与え」なかったとすれば,他の人々からある程度の幸福を奪い,自らも相当程度の幸福を得そこなったことでしょう。この婦人は,英国の哲学者ジョン・スチュアート・ミルの言葉が真実であることを悟りました。ミルは,本当に幸福な人々というのは,「自分の幸福以外の事柄,つまり他の人々の幸福について常に考えている人」だと述べました。
優れた結果
人々の間でふさわしい種類の愛が示されると,人々を隔てる障害すべてを打破することができます。あらゆる国のエホバの証人は,他の人々に分け隔てなく示される愛のもたらす優れた結果を見ているので,それが真実であることを知っています。エホバの証人は,「黄金律」を実践し,「与えること」を行なってゆこうとしています。
それゆえにこそ,世界的な見地からしても,エホバの証人は,国家主義や民族主義など分裂を引き起こす障害を克服する点で,他のどんな人々よりも進んでいるのです。例えば,百人余りのナイジェリア人のエホバの証人が,米国ペンシルバニア州で開かれたエホバの証人の大会に出席するための旅を終えた後,アフリカ人の代表者はこう語りました。
「このような訪問のすばらしい一面は,エホバの民が一つの大きな,そして幸福な家族として生活している有様をじかに見,『あなたがたの間に愛があれば,それによってすべての人は,あなたがたがわたしの弟子であることを知るのです』というヨハネ 13章35節のイエスの言葉の成就を見られたことです」。
同様に,エホバの証人の集会に出席し始めた二人の新しい人々はこう述べました。「私たちが最も感銘を受けたのは,互いに対するエホバの証人の愛のこもった関心です。現在,私たちが最も高く評価しているのは,この愛のこもった交わりです」。米国ニューメキシコ州に住む,新しく交わり始めた一人の人はこう書いています。「私は幾つかの集会に出席して,会衆の示してくれた愛と親切に感銘を覚えました」。別の男の人は,以前の望ましくない生活の仕方を変えて,より良い生活をするようになりましたが,変化するために何が役立ったかと尋ねられて,「私に愛を示してくれた人がいたのです。私に関心を示してくれた人がいたのです」と答えました。
「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」と言われたのはイエスでした。(マタイ 22:39)隣人愛を示すことには,他の人々の権利や財産を尊重するだけでなく,協力する精神も含まれています。協力して物事が行なわれると,多くの場合に良い結果が得られます。例えば,最近,カナダのブリティッシュ・コロンビア州ケロウナで開かれた,エホバの証人の大会の後,大会の開かれた競技場の責任者はエホバの証人に次のような手紙を寄せました。
「私はこの競技場で20年以上働いておりますが,このような手紙を書く必要に迫られたことはこれまでにありません。この催しの間競技場の職員に示してくださったこれほど優れた協力に,心から感謝する手紙を使用者に書き送るのはこれが最初で最後になるでしょう。
「管理およびこの大会関係の一般的な仕事に当たった皆様がたの兄弟姉妹たちは,とても有用なかたばかりでした。これらの兄弟姉妹のお陰で,この催しは私共が競技場経営の道に入って以来,扱わねばならなかった務めの中で最も楽しいものとなりました。
「当競技場をご利用いただきましてありがとうございました。再度ご利用いただけるときに,私共がこの職にあることを願っております」。
また,イエスは「隣人を自分自身のように愛さねばならない」と言われたのですから,それにはわたしたちの最も近い隣人も確かに含まれねばなりません。最も近い隣人とは自分の家族の成員を指しているといえるでしょう。家族の取り決めを造られたのは神ですから,その取り決めの中に幸福が見いだされるのは至極当然なことです。
ここでも「黄金律」を当てはめ,家族内の他の成員に無私の気持ちで与えるなら,良い結果がもたらされるでしょう。離婚寸前であったにもかかわらず,イエスの言葉を実行に移して,大いに強められ,より幸福になった家族は少なくありません。行動に関するこれらの優れた原則を適用すればするほど,家庭は幸福になります。それらの原則を無視するなら,取り返しのつかない結果を招きかねません。
また,ちょっと考えてみれば,家族生活の中には幸福の源となる素朴な楽しみが数多くあるものです。マクリーンズ誌の中には,その一つの例が示されています。
「歴史家ウィル・デュラントは,知識を取り入れることに幸福を見いだそうとして,幻滅を見いだしたことについて語っている。旅行をすることに幸福を見いだそうとして疲れ果て,富に幸福を見いだそうとして不和と心配を見いだした。著作活動に喜びを見いだそうとしたが,疲労を味わうことに終わった。
「ある日,デュラントは,一人の婦人が赤子を抱いて,小さな車の中で人を待っているのを見た。一人の男が列車から降りて車のところへやって来て,その婦人に優しく口づけし,寝ているのを起こさないよう注意しながら,赤子にも軽く口づけした。その家族は車に乗って畑を横切って去って行った。後に残されたデュラントは,真の幸福とは何かを認めさせられてぼう然としていた。
「後日デュラントはこう記している。『生活のごく普通の働きすべてには,何らかの喜びがある』」。
そうです,自分の持っている良いものを認識し,あらゆるレベルの人間関係において正しい種類の愛を示すなら,幸福を増し加える面で驚くべきことを行なえます。これは,問題に満ちた世界においてさえ真実です
しかし,さらに重要な要素があります。その要素なくしては,わたしたちの生活は真に幸福なものとなり得ない,といえるほど重要なものがあるのです。幸福になるためのこの極めて重大な要素とは何ですか。次の記事はそのことを教えてくれます。
-
-
幸福であるための最も肝要な要素目ざめよ! 1977 | 10月22日
-
-
幸福であるための最も肝要な要素
物質はある程度の幸福をもたらすことができます。幸福になるためのより重要な要素は,(前の記事に指摘されていたとおり)人間が互いに対して示すことのできる純粋な愛です。しかし,人間の幸福の源として,他の何物にも勝って重要な要素があります。
イエスが「隣人を自分自身のように愛さねばならない」と言われたとき,イエスはそれが人々の守るべき最大のおきてのうちの第二のものであると語られました。(マタイ 22:39)それでは,第一の,そして最も重要なおきては何でしたか。
イエスはこう言われました。「あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない」。(マタイ 22:37,38)このおきてを守るときにのみ,現在,そして将来に最大の幸福を見いだせます。
なぜそう言えるか
どうしてそう言えるのですか。それは,エホバ神が人間の創造者であられるからです。神は人間の体と精神を形造られました。ですから,人間が幸福であるために何が最も役立つかを,人間よりもはるかによくご存じです。
心理学者や哲学者は,人間が行動する際にどんな原則や規則に従うのが最善かについて,実験をしたり,推測したりしますが,エホバ神にはそのようなことをする必要はありません。神は人間を創造したのですから,どの道が人間にとって最善であるかをよくご存じです。ですから,神の語られる事柄に注意を払うなら,幸福になる上で人間が入手できる最善の助言を得ることになります。
神の律法と原則に従った生活をすればするほど,わたしたちは幸福になります。例えを用いて考えてみましょう。もし自動車を運転する人すべてが,各々自分の交通規則を作ることができたらどうなりますか。その結果として生じる混乱を容易に想像できるでしょう。交通量の多い交差点を車で通りかかったり,さらに歩行者としてそうした交差点を横断しようとしたりするのは命懸けのことになってしまいます。運転をする際の道理にかなった規則を定める上位の権威がどうしても必要です。そのような規則があれば,すべての人が益を受けられるでしょう。
-