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    ものみの塔 1955 | 2月1日
    • の大きな愛である御親切と善であります。真理をより一層に学べば学ぶ程に,神の無私の愛により深く感謝し,ついには『わが子よ,汝の心を我に与えよ』との招きの御言葉に答え応ずる程になります。(シンゲン 23:26)つまり,献身の心から私たちは自分自らをヱホバに献身して,ヱホバの御意を行い,真のクリスチャンになります。それは,私たち自身の発意で発展させた愛によるのではないことは明らかです。むしろ,パウロの言うように,それは『神の愛が,聖霊により私たちの心に注がれたから』であります。―ロマ 5:5,新世。

      13 この愛は,兄弟たちと結ぶ私たちの関係に,どのように影響しますか?

      13 これと同じ時に,私たちは全く同じ道を通り,同じ順序を経て来た他の人たちと交るように導かれているということを認識いたします。これらの人々は,それ故に,私たちの仲間のクリスチャンであり,今日すべての者はみな新しい世の社会の成員であります。丁度果実が自然の産物であつて,無理矢理のものでもなければ人工でつくられたものでないように,私たちの兄弟,姉妹と関係が結ばれることは,自然なことであり,また当然なことであります。ヨハネはこのことを支持して,次のように書いております『愛はここにある。すなわち,私たちが(最初に)神を愛したのではなく,神が私たちを愛し,御子を遣して私たちの罪のために贖の犠牲とされたのである。……(そして)神はこのようにして私たちを愛されたのであるから,私たちは互いに愛し合わねばならない。』それで,神と同じく温い,親切な,無私の仕方で愛し合わねばなりません。(ヨハネ第一書 4:10,11,新世)私たちは,全くたがいに愛し合わなければなりません。神の愛が私たちの心に充ち,真理の智識と御国の希望が私たちの心を一杯にして,私たちが真のクリスチャンになる時,私たちの全生涯と気質は必らずや変り,変化するでありましよう。

      14 御霊の実について,聖書は個人の責任を強調しますか?

      14 この記事を読んでいる人で,御霊の実を結ぶことは非常に簡単でたやすいことであるという印象をうけていますか? いいえ,それは全くたやすいことではありません。この実は,自己修養のものではありませんが,しかし私たちのなすすべてのことは,ぼんやりと坐り,神の御手にすべてを任して,動かずに得心していることでは決してありません。前にも述べましたように,自分自身と,そして私たちが行う役割について正しい見解を得ましよう。イエスは葡萄の樹の譬話の中で『私の父は農夫である』と言われました。(ヨハネ 15:1,新世)そうです。ヱホバは,御国のすべての実について,大いなる栽培者であられ,あらゆる誉は,ヱホバのところに行きます。しかし,私たちは神の指示をうけて,ある栽培の仕事をいたします。それは,パウロの示すように,植えたり,水を注いだり,雑草を取り除くというような面でありますが,しかし『成長させて下さるのは神』であることを決して忘れてはなりません。それで私たち各個人は,自分自身では無のものではあつても,しかし使徒が続けて述べているように,各人その責任をどのように果して行くかを『それぞれ気をつけるがよい。』なぜならば,『それぞれの仕事は,はつきりと分つてくる。すなわちその日(いまの裁きの日)は,それを明らかにする。』― コリント前 3:6,7,10,13,新世。

      15 私たち個人の責任は何ですか? その責任は,どのようにして一番よく果すことができますか?

      15 それでは,愛に関する限りに,御霊の実を栽培することについての私たちの役目とはいつたい何でしようか? その質問に答えることは難しくありません。愛の一番の源であるヱホバに見られるように,真の愛が何であるかをより一層に深く認識するにつれ,そしてヱホバとより一展の親密さに結ばれてくるにつれ,私たちはその同じ性質を表現したいという深い,燃える願いを持つようになります。愛とはそのようなものであります。愛は自らを表現したく欲し,活動することを欲します。愛は無私のものである故に,私たちにとつて非常に貴重なものを,私たちと同じく,他の人もたのしみ,分け与えるのを見たいと願います。それでいま次のように質問いたします。ヱホバが新世社会に集められた献身の民の群とできるだけ十分密接に共にすること以外に,愛がより良く十分に実を結ぶ方法はあるのでしようか? また,地方的な会衆のすべての集会に出席し,そしていろいろな面における野外奉仕に積極的に参加すること以外に,より良く『愛された子として,神を真似る者となり,愛の中に歩き続けよ』という命令を守る方法はあるでしようか? この道に従つて行くならば,無私の神の如き愛,および親切と善を行使する終りのないなんとすばらしい機会を私たちは持つているのでしよう! 実際に,際限はありません。パウロの言いましたように,「これ以上行つてはならない」と言うような律法は『このようなものに対しては,一つもない。』― エペソ 5:1,2。ガラテヤ 5:23,新世。

      16 新しい世の社会の成員として,私たちの責務は何ですか?

      16 注意いたしますが,このことは,祝福を得るためにただ集会に行つても,いつも一言も話さずに,すべての良いことを取り入れるだけということとか,あるいはまた奉仕の仕事をする時に,義務の気持から定まりきつた事としてするのとは全然違うものです。これと一致しているものに果実の木があります。果実の木は,太陽から,空気から,そして地からすべての良いものを吸収いたします。しかしなぜ? それは,他のものの益と元気のために,実を結べるためです。そのことは,私たちの毎日の生活と気質の実を結ぶことと,また御国の伝道の実を結ぶことにもあてはまるものです。私たちの個性はそのような良い特質を持つ故に仲間のクリスチャンや,またこの世の上品な心を持つ人々によろこばれ,深く認められるべきです。それで,あなたの個性はよろこばれていますか?

      17 『御霊によつて生活し』『御霊によつて正しく歩む』とは,どういう意味ですか?

      17 御霊の実を産出する一番良い方法とは,神の集められた民とできるだけ十分に共になるという考えを助けるものとして,前にすでに引用されている言葉『御霊によつて生活するならば,また御霊によつて正しく歩もう』を再び見てみましよう。(ガテラヤ 5:25,新世)そこに,この望ましい実を栽培し,結ぶ際に私たちに対する奥義があるのです。使徒は,精神修養の課程による自己訓練の道については,一言も言つてはおりません。まつたく,それは『御霊によつて生活し』また『御霊によつて正しく歩む』ことであります。そのことは,私たち自身をシオンに集められた集合の民と見ることです。ヱホバはシオンでその僕級の上に御霊を注ぎ,またシオンでヱホバは私たちの口にその御言葉を置いて,私たちの先生となり,個々別々ではなく,一つの民として,その御霊によつて生活の仕方を私たちに教えられています。それで,私たちは正しい道に出発したのですから,もはや神権的な指示の下に着実で正しい進歩をすることであります。そして恐れることはありません。御霊の実は,ヱホバの讃美および,他の者の祝福と,そして新しい世の生命を受けるという私たち自身の救にいたるように結ばれるでしよう。―イザヤ 54:13; 59:21。

      18 制度はこのことにつき,実際的などんな仕方で,私たちを助けますか?

      18 実際の面から言つて,ヱホバの制度は正しく歩み,良い進歩をする際の多くの助けを備えております。『ものみの塔』や『通知』を通し,また真理,および真理の中に含まれる助言の討議される集会を通し,私たちは励ましと矯正の両方により絶えず助けられ,そして正しい行為と奉仕をはつきりと見て,守り続けることができます。この悪い苦難の時代には,いつたいどんな態度を取り,どんな道を取るべきか疑問に思わせるような問題にしばしば会います。この面についても,私たちは制度にかたく従うことにより,また実際の益を受けます。なぜならば,制度の中には,使徒の時代と同じく,今日でも円熟し,信頼するに足る僕たちが備えられているからです。それら僕たちの行と性質は,良い模範を示し,そして,その僕たちのいるということは,たとえその助言が必らずしも期待していたものでもなく,また希望したものでなくても,全く私たちを助けるという目的のためなのです。パウロは,そのことについてピリピ人に次のように書きました。『達し得たところに従つて,正しく歩み続けよう。兄弟たちよ,どうか私にならう者になりなさい。私たちの模範に一致して,歩く人たちに,注意をとめなさい。』― ピリピ 3:16,17,新世。

      19 クリスチャンになる時に,個性の変化は可能であり,また必要なものですか?

      19 私たちの研究のこの部分を結ぶにあたつて,すでに述べられている性質と個性の変化についていま一言述べたいと思います。私たちは一人のこらず,みなこのことについて全くはつきりしているべきです。次のように言うことは,とうてい許されないものです。『まつたく,真理に来る以前の私の行や個性については,なにも特別悪いところはなかつたと思う。特に変化をしなければならないという必要は,別段に見当らない。結局のところ,私たちは自然でなければならない。』それで,イエスの愛された良い育ちの,富んだ若い支配者の場合のように,あなたの日常生活は正しくして良く,あなたの個性は人によろこばれるものであると認めましよう。その支配者は,若い時からすべてのいましめを真面目に守り,不足のものは何であるかを知ろうと欲しました。何が不足していたか,あなたは憶えていますか? 実際のところ,その若者には,御霊の実の一番の中心,無私の愛が不足だつたのです。(マルコ 10:17-22)さあ! 私たちは自分自身について正直になり,ヱホバの御前に身を低くしましよう。私たちは,みなエペソにいた兄弟たちと同列にならぶべきです。パウロは,そのエペソの兄弟たちにむかつて次のように書きました。『以前の生活に属し,その惑しの慾にしたがつて腐敗して行く,古い人(古い自己中心の我)を脱ぎ棄てなさい,しかし,……あなたの心に働きかける力によつて新しくされ,……神の御意にしたがい,まことの義と愛のうちに創造された(自己発展ではない)新しい人を着なさい。』― エペソ 4:22-24,新世。

  • 品行良く歩む
    ものみの塔 1955 | 2月1日
    • 品行良く歩む

      『品行良く歩こうではないか』― ロマ 13:13,新世。

      1 御霊の実の源と径路は,どこにありますか? このことをよく認識いたしますと,それは私たちにどのような影響を及ぼすべきですか?

      一般にいつて御霊の実について,特に愛について,いままで討議されたものは,述べられている他の事柄にも適用されるものです。これら他の性質は,それぞれヱホバの中に一番優れて具えられていることが,先づ分ります。それらは又,ヱホバの愛された子キリスト・イエスの中にも全く完全にあることが分ります。それで,私たちは真理の正確な知識により,ヱホバはその御処置のすべての中で,これらの性質をなんと素晴らしく示されるのでしようと知ります。それで,私たちはそれらの性質を尊敬し,どんな場合でも『愛された子らとして,神にならう者になり』それらの性質のうちに『歩み続け』たく思います。そして,私たちと接するすべての人と結ぶ交渉においてもそれらの性質を表わすことを欲します。パウロは,ガラテヤ人への手紙の終りで,こう言いました『時がかなう限り,だれに対しても,特に信仰の仲間に対して,善の業を行う。』― エペソ 5:1,2。ガラテヤ 6:10,新世。

      2 ガラテヤ書 5章22,23節で,愛はなぜ最初に述べられていますか?

      2 それで,全部で御霊の実をつくりあげるこれら他の特質を簡単に見てみましよう。しかし,『これらのうちで最大のものは愛である』ことについては疑問がありません。愛は一番大切な主因であつて,愛なしでは他のもの

  • 何処に安全を求めるか
    ものみの塔 1955 | 2月1日
    • 何処に安全を求めるか

      今日は儲け主義です。『どうして儲けようか?』という態度は,ほとんどすべての行為にしみ渡つています。金や富は,あたかも安全をもたらすもののごとく見なされて拝まれており,『安全』を望む願いで,他のあらゆるものを無視する場合は多くあります。神や家族への愛はおろか,自分の持つ礼儀・正直という本性をもふみつけている始末です。しかし,この『安全』は落ちつきのない不安定のもので,インフレ,犯罪,戦争というような多くの要素は,この『安全』をなくしてしまいます。それよりも,さらに勝れたもの,さらに堅固なものはないでしようか? アブラハム・ヨブ・そしてモーセの如き古代忠信者は,あると考えました。イエスや彼の使徒たちも同じくあると考えました。それらの人にとつて,金があるとか,または金が不足しているかということは,最大の関心事ではなく,彼らは神の奉仕と祝福を第一に置きました。それは,天に貯えられる宝であつて,『虫も錆もつかず,盗人も押入つて盗むということはない。』(マタイ 6:20,新世)全能の神から与えられる祝福 ― これこそ真の安全です。その祝福はかたく,動かず,そして確かです。それこそ真実の価値を持つています。あなたからそれを奪い取れる人は一人もいません。それは,あなたにいま満足を与えるだけでなく,永遠の生命にみちびくものです。この真の富を取りなさい。金ではなく,ヱホバをあなたの神にしなさい。

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