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  • 神の王国をめざして種をまく
    ものみの塔 1980 | 9月15日
    • 16 栄光を受けたイエス・キリストが,クリスチャン会衆の生長について,うとうとした,あるいは眠った状態であったかどうかを示しているのは,聖書の巻末の書にあるどの幻ですか。

      16 しかし,会衆の生長に関しては,西暦33年のイヤル25日(西暦33年5月12日)木曜日のイエスの昇天から約63年後に書かれた,聖書巻末の啓示の書に,イエス・キリストが,小アジアの七つの会衆を表わす七つの燭台の間を歩んでおられるものとして描かれています。「火の炎」のような目を持っておられるとありますから,イエスは,それら七つの顕著な会衆の霊的状態をお調べになる際に十分に目ざめておられるはずです。ですからイエスは,会衆の生長に関してうとうとしたり眠ったりしておられるとは描写されていません。イエスはそれらの会衆が,ご自分の説明された霊的状態に生長していった様子を知っておられたに違いありません。―啓示 1:14; 2:18。

      17 地面に種をまき夜に眠る人が,栄光を受けたイエス・キリストを表わし得たかどうかは,啓示 5章6節に記されているどの幻からわかりますか。

      17 イエスが昇天して天におられる神のみ前に出られたことに関しては,イエスは,ほふられたばかりでありながら再び生きて『七つの目を持つ』子羊として表わされています。「その目は,全地に送り出された神の七つの霊を表わして」います。(啓示 5:6)神の子羊に関するこの七部から成る幻は,うとうとした,または眠そうな状態を暗示するどころか,絶えず十分に目ざめており,完全な洞察力を備えている状態を意味するものです。ですから,地面に種をまき,夜には眠って,自分のまいたものがどのように生長するかを知らない者が,栄光を受けたイエス・キリストを表わし得ないことは明らかです。

      18 では道理からいって,例えに出てくる人はだれを表わしていますか。

      18 では,例えに出てくる人はだれを表わしているのでしょうか。福音筆記者のマルコは,イエスが親しい弟子たちに対して,聞いている事柄に注意を払いなさいと忠告されたことを記した直後に,この特定の農夫にわたしたちの注意を引いています。ある程度の注意を払うことには,それに比例した報いがあり,それにさらに多くが加えられることさえありました。ですから,道理からして,例えに出てくる人は,神の王国の主要な宣明者であるイエス・キリストに学ぶ者,あるいはその弟子であることを公言する各人を表わしています。

      例えが示す特色

      19,20 例え全体は,二つのどんな主要な事柄で成っていますか。したがって例えの要点は何ですか。目ざすべきものは量ですか。それとも質ですか。

      19 「こうして[あるいは,このように],神の王国はちょうど,人が地面に種をまく場合のようです」と言って,イエスは例えを語りはじめておられます。―マルコ 4:26[王国行間逐語訳]。

      20 この例え全体は二つの主要な事柄から成っていることがわかります。その一つは,神の王国に関連して種をまくことであり,もう一つは,まいた種から実ったものを収穫する,つまり刈り取ることです。要するに,種が確実にまかれた,もしくは植えられたのと同じように,それを収穫すること,もしくは刈り取ることも確実に期待できるということです。一つのことを行なえば,もう一つのことが必ず生じるということです。人が神の王国に関連してまくものは,その人が収穫する,もしくは刈り取る結果になるということは,厳粛な真実です。刈り取る量よりも,刈り取るものの質のほうが大切です。

      21 イエスは種の種類,または種がまかれる土の型を明示されましたか。それでも種についてどんな質問が生じますか。

      21 イエスは,この種まきに関しては種の種類や土の型をはっきり述べておられません。「しかし,実の状態からそれができるようになるとすぐ,人はかま[小さな手道具]を入れます。収穫の時が来たからです」と,イエスは言われました。(マルコ 4:29)イエスから例えを聞かされたユダヤ人は,1年に3回収穫を行なっていました。第1回は春の過ぎ越しの祭りのすぐあとで,ニサン16日にはエルサレムの神殿で大祭司が,取り入れられた大麦の束をささげました。それから50日後に大祭司は小麦の収穫の初穂をささげ,そのあとこの収穫の仕事は進行しました。3回目の収穫は夏の終わりになされ,それを記念して取り入れの祭り,すなわち仮小屋(幕屋)の祭りが行なわれました。この祭りは陰暦の第七月,つまりチスリの15日に始まりました。(出エジプト 23:14-17)例えに出てくる収穫の時がこの三つの収穫期のどれに当たるかは述べられていません。しかし,まかれた種の種類はともかく,この種は何を表わしているのでしょうか。

      22 もしクリスチャン会衆の成員を表わしていないとすれば,その種は何を表わしますか。その「種」の生長はわたしたちの力の及ばないものですか。

      22 イエスの語られた例えによると,まかれた種は芽ばえてたけが高くなり,成熟して穂の中に熟した穀粒ができます。そのまかれた種がクリスチャン会衆の成員を表わしていないことはすでに検討しました。次の記事からわかる通り,地面にまき散らされた種は,まく人の人格の特質,態度,神の王国に関係した奉仕のための能力という種を表わしています。これらを養う滋養物は,地面から得るかのように,求めなければなりません。こうした人格の特質が生長し,成熟し,刈り取れるようになる過程は漸進的なものです。わたしたちが注意しなければならないのはこの点です。というのは,これはわたしたちの力の及ばないことではないからです。

  • 神の王国にふさわしい実を収穫する
    ものみの塔 1980 | 9月15日
    • 神の王国にふさわしい実を収穫する

      1 エレミヤ記 4章3,4節の中で,エホバは何に注意を促しておられますか。

      エレミヤ記 4章3,4節の中でエホバは次のように述べておられます。「自分たちのために耕地を耕せ。いばらの中に種をまき続けてはならない。ユダの人々とエルサレムの住民よ,あなたがたはエホバのために割礼を受け,あなたがたの心の包皮を取り去れ。わたしの激怒が火のように出て行き,あなたがたの行ないの悪のために必ず燃え,消す者がだれもいなくなることのないためである」。エホバはここで,ご自身の契約の民の悪い心の状態に注意を促しておられます。

      2 いばらのはびこる地面に落ちた種の例えは,わたしたちが霊的種まきを行なう環境に注意しなければならないことを,どのように示していますか。

      2 同様に,イエス・キリストは一つのたとえ話の中で,いばらの中に種をまけばその結果は失望に終わることを示されました。マタイ 13章1-9節でも,マルコ 4章1-9節でも,イエスは種まき人の手から離れた種の一部が,いばらの種のある場所に落ちる様子を描いておられます。その場所では種まき人は何の成果も得ませんでした。いばらが生え出て穀草をふさいでしまったために,穀物を取り入れることができなかったのです。(ルカ 8:4-8)このことは,霊的な種まきを行なう際にその環境に注意しなければならないことを示しています。

      3 マルコ 4章26-29節の例えに出てくる種は何を表わしていますか。今日クリスチャンは,1世紀のクリスチャンたちと同じように,自分の人格に関して何を培わねばなりませんか。

      3 マルコ 4章26-29節の,種をまく人と種のたとえ話では,種は人格の特質を表わしています。種をまく人のたとえ話や他のたとえ話を拒否したユダヤ人に対してイエスは,「神の王国はあなたがたから取られ,その実を生み出す国民に与えられるのです」と言われました。(マタイ 21:43,45,46)この言葉は,神の王国の「実」があることを示しています。(ルカ 3:8)王国の実と同類のものとしては,「霊の実」と呼ばれているものがあります。「愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制」がそれです。(ガラテア 5:22,23)一世紀当時,使徒パウロが手紙を書き送ったクリスチャンたちは,ちょうど今日のクリスチャンが神の王国に関して行なわねばならないのと同じように,クリスチャンの特質という「種」をまいて育てる必要がありました。それらの人格特質は,十分に円熟し完全になるまで伸ばされなければなりません。―ゼカリヤ 8:12。ヤコブ 3:18。

      4 クリスチャンとしての人格特質という「種」は,栄養物を得るのに何を必要としますか。

      4 それらが十分に熟した時が,当然それらを収穫する時です。しかし,その「種」をまくクリスチャンは,最後に望み通りの収穫を得られるよう,どんな所を選んでまくべきですか。神の王国に関係して受け入れられるにふさわしい者とみなしていただけるように,収穫物は神の是認を得るものでなければなりません。自然の種が地面を必要とするのと同じく,クリスチャンの人格の特質という種,「霊の実」も環境を必要とします。―箴 18:1。

      5 期待通りの作物を刈り取るには,ルカ 8章14節で強調されているように,何に関して注意を払わなければなりませんか。

      5 種まき人の種が落ちた4種類の土に関するイエスのたとえ話を思い出してください。(マルコ 4:3-20。ルカ 8:5-15)期待通りの収穫をあげようと思えば,種のための環境をどのように正しく選びそれに注意を払わねばならないかが,このたとえ話には示されています。いばらのある環境の中の種に関するイエスの次の説明にある通りです。「いばらの間に落ちたもの,これは聞いた者たちですが,生活上の思い煩いや富や快楽にさらわれてしまい,すっかりふさがれて,何も実らせません」― ルカ 8:14。

      6 ガラテア 5章7-9節で,パウロは悪い環境が及ぼす影響に,どのように注意を促していますか。

      6 この線に沿って使徒パウロは,ガラテアのクリスチャンたちに関し自らの観察に基づく所見を述べ,「霊の実」について書きます。それは彼らが悪い環境に大いに影響されていることを警告するためでした。「あなたがたはよく走っていました。あなたがたが真理に従いつづけるのをだれが妨げたのですか。その種の説得は,あなたがたを召しておられるかたからのものではありません。少しのパン種が固まり全体を発酵させます」と,パウロは言いました。(ガラテア 5:7-9。マタイ 13:33)ガラテアのクリスチャンたちはユダヤ教主義者の影響を受けていました。ユダヤ教主義者は,キリスト教を全面的に受け入れる心を持たず,その耳は反応がなく,その目はのりばりされたかのように閉じていました。(マタイ 13:14,15。ガラテア 5:10)そのような妨げになる交わりは避け,捨てなければなりません。

      7 悪い環境がコリントのクリスチャンたちに影響を及ぼすことについて,パウロは同じような心配をどのように言い表わしましたか。

      7 使徒パウロにはまた,コリント会衆が「霊の実」を培っていないのではないかという心配がありました。その証拠にパウロは彼らにこう書いています。「わたしは,自分が着いたとき,あなたがたがわたしの願うとおりでないのを見,わたしもあなたがたにとって,あなたがたの願うとおりではなかったというようなことになりはしないだろうか,そして,闘争,ねたみ,怒り,口論,陰口,ささやき,思い上がり,無秩序な事態があるようなことになりはしないだろうかと気づかっているのです」。(コリント第二 12:20)人々が言う,「ただ食べたり飲んだりしよう。あしたは死ぬのだから」という言葉を取り上げてから,パウロは,「惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣をそこなうのです」と警告しましたが,それには十分の理由がありました。―コリント第一 15:32,33。

      8 クリスチャンが眠っていても,人格特質が生長しつづけるのはなぜですか。最初に生え出たものからは確実に判断できないのはなぜですか。

      8 種の落ちる地面に,小麦かいばらのどちらかを育てる,神から与えられた力があるのと同様に,クリスチャンが人格の特質を培うために選ぶ環境は,クリスチャンに良い影響かまたは悪い影響を及ぼします。その環境にひたり切っている限りは,たとえ眠っていても,環境の影響の法則はそのクリスチャンに容赦なく作用し,その作用は,その人個人の収穫の時が来て成熟したものにかまを入れる時までつづきます。この点に関連してイエスは,「地面はおのずから,最初には葉,ついで穂,最後に穂の中に満ちた穀粒といったぐあいに,しだいに実を結んでゆきます」と言われました。(マルコ 4:28)まいた者にとってその生長はほとんど気がつかないほどのものです。それは自分に理解できない力によるものです。一つの方向,あるいは別の方向への生長は徐々に見られ,最初に葉のようなもの,次に穂のようなもの,そして最後に穂の中に満ちた穀粒のようなものができます。

      9 小麦と雑草のたとえ話は,特定の環境に種をまいても,それから得る最終的結果を確定できないことを,どのように示していますか。

      9 種が発芽して葉を出すときには,その様子から判断して,何を収穫することになるのか,まいた者には正確にはわからないかもしれません。生長のその初めの段階では,何が生え出しているのかをはっきり見定めることができず,どんな種をまいたかをおぼえているにすぎないでしょう。これを例えで説明してみましょう。マタイ 13章26-30節に記されている小麦と雑草のたとえ話の中で,イエスは次のように言っておられます。

      葉が生え出て実を生み出すと,そのさいに雑草も現われました。それで,その家あるじの奴隷たちがやって来て言いました,「ご主人様,畑にはりっぱな種をおまきになったのではありませんでしたか。では,どうしてそれに雑草が生えてくるのでしょうか」。彼は言いました,「敵である人がこれをしたのだ」。彼らは言いました,「では,わたしどもが行ってこれを集めることをお望みですか」。彼は言いました,「いや。雑草を集めるさい,小麦をいっしょに根こぎにすることがないようにだ。収穫まで両方ともいっしょに成長させておきなさい。収穫の季節になったら,わたしは刈る者たちに,まず雑草を集め,焼いてしまうためにそれを縛って束にし,それから,小麦をわたしの倉に集めることにかかりなさい,と言おう」。

      10 どんな環境に種をまいた場合でも,その結果が間違いなくわかるのはいつですか。

      10 そういうわけで,人が自分の人格の特性という種をまいたあと,葉のように出てくるものは,土が何を生え出させたのか最初のうちは見分けがつかないでしょう。あとになって初めて,つまりすっかり生長し実を結ぶときになって,その人がそこにまいたものに対して土が何を産出したかが,間違いなくわかるでしょう。

      11 土で栽培されるものの質を決める点で重要なものとして,土の物理的特徴のほかに何がありますか。

      11 土は,最終的に何が産出されるかに関係のある重要な要素です。「[神でなく]地面はおのずから,最初には葉,ついで穂,最後に穂の中に満ちた穀粒といったぐあいに,しだいに実を結んでゆきます」と,イエスは言われました。(マルコ 4:28)四つの型の土のたとえ話では,イエスは土の物理的特徴だけを説明されました。しかし土の化学的特性も,酸性土壌であったり,塩分が含まれていたり,あるいは無機肥料または有機肥料が施されていたりする場合のように,産出されるものの質を決めるのに重要です。

      12 それで,地面すなわち土は何を表わしていますか。

      12 地面すなわち土は,生長とその質とに関してそのように重要な役割を果たすものです。それで土は,人格特性という種を養うわたしたちを取り囲む社会的,道徳的,宗教的環境を表わしており,当然,人々が関係してきます。a これは選択する価値のあるものです。

      特性を養うことに関連した要素

      13 クリスチャン会衆の中にも,クリスチャンとしての正しい生長にとって助けとならない環境があり得ますか。

      13 クリスチャン会衆内にさえ,霊的にあまり有益でない環境や交わりがあるかもしれません。最近この世から出,水のバプテスマを受けて神への献身を表わした人の中には,まだ自分につきまとっているもの,つまり幾分この世的なものを会衆内に持ち込む人がいるかもしれません。パウロが次のように書いたのは,クリスチャン会衆に対してであったことを忘れないようにしましょう。「わたしは[前の]自分の手紙の中で,淫行の者と交わるのをやめるようにとあなたがたに書き送りましたが……今わたしは,兄弟と呼ばれる者で,淫行の者,貪欲な者,偶像を礼拝する者,ののしる者,大酒飲み,あるいはゆすり取る者がいれば,交わるのをやめ,そのような人とはともに食事をすることさえしないように,と書いているのです」― コリント第一 5:9-11。

      14 ガラテア 6章7,8節で,パウロは,間違った方向に種をまかないよう,クリスチャンたちにどんな注意を与えていますか。

      14 同使徒はまた,小アジアのローマ領ガラテア州にあった会衆に対しても,次のように書き送りました。「惑わされてはなりません。神は侮られるようなかたではありません。なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。自分の肉のためにまいている者は自分の肉から腐敗を刈り取り,霊のためにまいている者は霊から永遠の命を刈り取ることになるからです」。(ガラテア 6:7,8)自称クリスチャンは,自分の堕落した肉を満足させるこの世的な環境の中で自分の人格特質を培うようにして,堕落した肉にまいていることがあります。

      15 それで,クリスチャン会衆内で自分の環境を探し求めることに関し,どんな質問が生じますか。

      15 今日わたしたちは,会衆内で,依然この世的なものを好んでいる成員たちに,気づかぬうちに引き寄せられているでしょうか。彼らは定期的にそれにふけり,ほかの成員たちもそれに加わることを望みます。それは,自分たちがしばしばそれにふけっていることに対し,ある程度の安心感を得るためです。わたしたちは,永遠の命をめざす競走においてよく走ることを,自分たちの住む社会環境,あるいは会衆内での交わりによって妨げられているでしょうか。会衆の成員でまだこの世的な傾向のある人から,その人と同じ方向に行くように勧められるなら,それが自分の堕落した肉にとって非常に喜ばしいものであるために,その勧めに応じるでしょうか。

      16 試みの日を首尾よく通過するためには,自分の活動の場となる環境について,どんなことを考慮すべきですか。

      16 その気ままな行き方に影響されて,最終的にどんな口さきだけのクリスチャンになってしまうか,初めのうちは,はっきりわからないかもしれません。それは「地面」,すなわちわたしたちが活動の場として選ぶ環境は,しだいに実を結ぶからです。出て来た「葉」は,見ている者の目には罪のないものに映り,害を与える危険なものとは思えません。わたしたちは夜に眠り昼に起きます。そしてわたしたちの人格特性は容赦なく生長していきます。でも,どのようにしてかはわかりません。この自由で安易な,いわゆるこだわらない行き方を続けているなら,必ず次のような結果になります。つまり地面に相当する環境の力により,人格特性が生長しきってしまうのです。その環境の中で養われるままになったわけです。わたしたちがかまを入れて刈り取るものは,清算の試みを首尾よく通過する資格をわたしたちに与えてくれるでしょうか。

      17 わたしたちは,自分の人格特性の種をまく環境について,どんなことを忘れてはなりませんか。

      17 人の人格特性という種が埋められ,養われる環境は,「地面」すなわち土のように,人の生長に影響を及ぼすものであることを忘れないようにしましょう。わたしたちがまき始めたときに意図した真意とあまり食い違いのない結果を生じさせるのは環境なのです。

      18 民数紀略 11章4-34節には,悪い交わりのどんな実例が記されていますか。

      18 エホバの民の間にさえ悪い交わりの影響があることを示す実例が,モーセの時代にシナイの荒野で生じました。わたしたちは,「入り混じった大集団」が,イスラエル人と共にエジプトを出て紅海を渡ったことをおぼえています。(出エジプト 12:38,新)その非イスラエルの集団について,預言者モーセは次のように述べています。

      また,彼ら[イスラエル人]の中にいた入り混じった群衆が利己的な願望を表わし,イスラエルの子らもまたもや泣いて,こう言い出した。「だれが我々に肉を与えて食べさせるのだろうか。我々は,エジプトでただで食べていた魚を,きゅうりやすいかや,にらや玉ねぎやにんにくをいかに思い出すことか。しかし今や,我々の魂は乾き切っている。我々の目の前にはこのマナの外は何もない」。……その場所の名はキブロト・ハタアワ[利己的な願望の墓場]と呼ばれるようになった。―民数 11:4-34,新。コリント第一 10:1-6,10,11も参照。

      19 その「入り混じった大群衆」についてイスラエル人が荒野で経験したことは,わたしたちが自分で選んだ環境から悪い影響を受けてもそれを神の責任にはできないことを,どのように示していますか。

      19 こうしてその「入り混じった大群衆」は,イスラエル人の間で問題を起こしました。エホバが備えてくださった天からのパンに満足していなかった彼らは,かつてあの偶像礼拝の地で楽しんだ物に対して利己的な願望を抱き,心の中ではエジプトに引き返していました。(詩 105:40)彼らは自分の腹を神としていました。なぜなら,悪霊の支配するエジプトにあった,生活を楽しくする物への利己的渇望を持ったままでいたからです。(フィリピ 3:19)そのために,イスラエル人もそのような物を食べたいという欲望のとりこになりました。入り混じった大群衆はしばらくの間,エホバの選ばれた民イスラエルにとって悪い仲間でした。この歴史的実例は,今日のわたしたちにとってよいみせしめです。自分が選んだ悪い環境から悪い影響を刈り取っても,それを神の責任にすることはできません。

      20 わたしたちが選ぶ道から得る結果は,神ではなくてむしろ何に原因しますか。

      20 四つの型の土の例えや,小麦と雑草の例えの場合に,神が関係していると考えることができないのであれば,マルコ 4章26-29節の成就には神が関係していると個人的に決め込むのは,道理にかなった,首尾一貫したやり方でしょうか。一般に,「地が芽を生じさせ」,「園がそこに植えられる物を芽生えさせ」ます。(イザヤ 61:11,新)ですから,耕地からはマリファナ(“草”),ハシッシュ,たばこ,アヘンをつくる目的で栽培されるけしなどが,穀草と同じように生えて来ます。であれば,刈り取られる作物は明らかに,まく者が何をまくか,どんな土にその種をまくかによって決まります。

      21 種を取り囲む環境が影響力を持つことは,オランダのどんな例からわかりますか。

      21 種を取り囲む環境は影響を及ぼします。忘れてならないことは,すべての土がみな同じ化学的性質を有しているわけではないということです。酸性の土もあれば,塩分その他を含んだ土もあります。オランダ人は,ゾイデル海を埋め立てるときに,まず堤防を築いて人工排水地帯に塩水を閉じ込め,それからポンプでその海水をかい出し,低地帯を造成しました。しかしその埋立地には海の塩がしみ込んでいたので,すぐには,食糧となる穀物の栽培に向きませんでした。それで,塩分を含む土でもよく育つあしのような草を植えて,まず土壌の調整をしなければなりませんでした。このことは塩分を除くのに役立ちました。それで穀類もそこで栽培できるようになり,多くの収穫を上げています。

      22 わたしたちは一般に,自分の人格特質の種をどこにまくことになりますか。その結果についてはどんなことが確実ですか。

      22 わたしたちの人格特性という種についても同じことが言えます。わたしたちはその種を必ずどこかにまくことになります。たいていは自分が選んだ環境にまきます。そしてそれを収穫する,つまり刈り取る時も必ずやって来ます。わたしたちが収穫するものは,神の王国との是認された関係にふさわしいものでしょうか。環境や,常に求める交わりは,これと大いに関係があります。クリスチャン会衆の中でさえ,バプテスマを受けていても依然この世的なものに愛着を感じている人,それらを会衆内にひそかに持ち込むことに良心のとがめを感じない人との交際を求めようと思えばできます。クリスチャン人格や振る舞いが,そのような伝染性の強いものから影響を受けることは間違いありません。

      23 わたしたちの最終的幸福を決めるのは,事の始まりの様子ではなくて何ですか。

      23 影響を受けたクリスチャンがこの世的な方向に向かって伸びて行く様は漸進的なものですから,クリスチャンの道からそれている角度は,最初はごくわずかで目につかないほどです。それは種から「葉」がのぞくのに似ています。しかし収穫の時には間違いなく,わたしたちがどんなものに生長したかがわかります。その結果を刈り取ることになるからです。ついに真のキリスト教だけが試みを通過できる時,各人は,自分が生長して達した状態にかまを入れて刈り取らねばならないでしょう。その刈り取られるものは,クリスチャンであるというその人の公言が偽りであることを暴露し,その人に幻滅を感じさせるものでしょうか。自分のかまが刈り取るものに満足できる聖書的理由を持つクリスチャンは幸いです。―詩 126:5,6と比較してください。

      24 わたしたち個人の神聖さは,絶えず接触する環境の影響を相殺しますか。

      24 わたしたちは,この世的な方向か,霊的な方向か,そのどちらかに徐々に生長しています。クリスチャンの有益な習慣を損なうことなく悪い交わりを楽しめるという考え違いを自分でしたり,人からさせられたりするとすれば,わたしたちには災いが及びます。(コリント第一 15:33)まいたものは刈り取らねばならず,まく場所は刈り取るものに影響する,という神の不変の法則を無にすることを試みて,神をあなどることはできません。神は,わたしたち個人の神聖さが自動的に移って他の人々を神聖にすることはない,と警告しておられます。むしろ,清くないこの世的な人々と絶えず不用意に接触して,自分も汚れる結果になるのです。―ハガイ 2:10-14。

      25 ガラテア 5章19-24節によると,わたしたちが神の王国とのふさわしい関係を保つのに役立つものは何ですか。

      25 自分の行ないの結果は,前もって聖書的な考えを持つことにより定めることができます。わたしたちは神の王国との平和な関係を保つことを目標にしているでしょうか。この目標は「肉の業」によっては決して達成されません。これに対し「霊の実」があります。この実を培えば,激情や肉の業に屈することはありません。こうして注意深く歩むなら,キリストの支配する神の王国にふさわしい実を収穫する,満足のいく結果を得ることになります。―ガラテア 5:19-24。

      26 どんな道を取るとき,報われて,是認された人格特質を収積しますか。

      26 キリストの弟子たちが長い間祈り求めて来た神の王国は今や,神の宇宙主権を立証するために,敵の政府すべてに反対して立つばかりになっています。それと共に,その神の王国に関連して,個人の収穫の時もわたしたち各自の前途にあります。ですから,わたしたちが人格特性の種をまいている環境という「地面」に関して,非常な注意を払う必要があります。社交,娯楽,道徳,宗教などのうえでの交わりは,キリストの支配する神の王国を終始一貫して支持する人々との交わりでなければなりません。何をどこにまくかを前もって真剣に考え,常に神の王国をめざしているなら,その報いとして,円熟した,活動的な,キリストのような人格の実を豊かに刈り取ることになります。それをエホバはどんなに喜ばれることでしょう。エホバはわたしたちに無条件の是認を表明してくださり,その是認に伴う祝福をすべて与えてくださるでしょう。

      27 どうするときに,マルコ 4章26-29節の例えはわたしたちに有利に成就しますか。

      27 ますます緊迫の度を加えるこの時代にあって,時宜にかなった次の勧めに従うのは良いことです。「また,互いのことをよく考えて愛とりっぱな業とを鼓舞し合い,ある人びとが習慣にしているように,集まり合うことをやめたりせず,むしろ互いに励まし合い,その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか」。(ヘブライ 10:24,25)これを行なえば,マルコ 4章26-29節の,短いながら人を動かす,種をまく人と種のたとえ話は,わたしたちに有利に成就します。そのときわたしたちは,「収穫時の歓び」を経験するでしょう。そして深い感動に胸を震わせながら,「霊のためにまいている者は霊から永遠の命を刈り取る」ということを,十分に味わうでしょう。―ガラテア 6:8。イザヤ 9:3。

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