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クリスチャンにふさわしい行儀を示すものみの塔 1961 | 9月15日
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いたエフライム人に対するギデオンの答からもそのことが分かります。それはシシ記 8章1-3節に記録されています。―テモテ後 2:24,25。箴言 15:1。
28 クリスチャンにふさわしい行儀は成果をおさめます,「怒をおそくすれば君も言を容る,柔かなる舌は骨を折く」。自制力の行使がすくなければすくないだけ,その行儀は悪くなります。クリスチャンが自制して良い行儀を示すことは大切です。「主の寛容は救」である故,クリスチャンが他の者に忍耐を示せば,彼らは救をうけるでしょう。―箴言 25:15。ペテロ後 3:15。
正義の愛
29 クリスチャンにふさわしい行儀を示すときするどい正義感はなぜ助けになりますか。
29 するどい正義感もクリスチャンにふさわしい行儀に肝要なものです。どうしてそうですか。「人々にしてほしいと,あなたがたの望むことを,人々にもそのとおりにせよ」とイエスは言われませんでしたか。たしかにそうです。善と公正という見地に立って判断するとき,クリスチャンにふさわしい行儀を示すことは,同様な環境下で自分にしてもらいたいと思うとおりに,他の人にしてもらうことです。自分の家を訪問する人が思慮なく,らんぼうで,たいへんしつこく,そして自分の持物を不注意に取りあつかってもらいたいとのぞまないでしょう。気持は善良で,動機が清いといっても,クリスチャンにふさわしい行儀を忘れても良いということではありません。―ルカ 6:31,新口。
30,31 (イ)しかし,クリスチャンにふさわしい行儀には特質が必要ですか。そして,なぜ?(ロ)この面においてパウロはどんな模範を残しましたか。
30 しかし,あらゆるものにもまして,クリスチャンにふさわしい行儀をするために愛の性質を適用することは必要です。愛は思慮深いこと,思いやりのあること,暖かさ,親しみ深さ,心地良いことをつくります。その全部はクリスチャンにふさわしい行儀を構成するものです。特に,思いやりの欠如というおとし穴を避けさせるのに愛は大きな助けを与えます。愛があると,他の人のことを考えて,その見解や福祉を考えるようになります。クリスチャンは,心を清く保って神に無私の奉仕をささげることをのぞむだけでなく,もっとも効果的な仕方のうちに愛でもってその清い動機を表現したいとのぞみます。愛は行儀についての両極端 ― 偽善的なへつらいの言葉と巧みのないことあるいは思慮のないこと ― を避けるのを助けます。愛があれば,口あたりの良いことを言わず,妥協せず,また反対者を「焼き払ってしまうように天から火をよび求め」ることをのぞまないでしょう。―イザヤ 30:10。ルカ 9:54。
31 テサロニケのクリスチャンたちに宛てた手紙からも分かるとおり,使徒パウロはこれら二つの極端を避けることについて良い模範を示しました。「わたしたちは,あなたがたが知っているように,決してへつらいの言葉を用いたこともなく,口実を設けて,むさぼったこともない」。実業界の行儀とは,しばしばその程度のところ,つまり貪欲をみたすためにお世辞の良い言葉と行いを示すだけです。パウロはこう言葉をつづけています,「むしろ,あなたがたの間で,ちょうど母がその子供を育てるように,やさしくふるまった」。パウロは,その意図が良かったというだけでなく,彼らにたいして愛のある,しずかな思いやりを示しました。―テサロニケ前 2:5,7。
32 なぜ愛はクリスチャンにふさわしい行儀のシネ,クア・ノンと言われますか。
32 クリスチャン奉仕をする者たちは,愛の気持でします。またその愛がある故に,その状況下での最善の行いと言葉に気をつける目と耳を持つようになります。愛があると最善のことをするのに注意を払い,害をひきおこしても最少限に食いとめようとします。そして,彼らは注意ぶかくなります。愛は「真理を喜ぶ」。しかし,時には明白な真実をむき出しに告げるという巧みさのない行いをするよりも,あいまいな,ほこ先を避けるような答をするでしょう。愛はクリスチャンにふさわしい行儀の中で,シネ・クア・ノン・すなわち欠かすことのできない要素と言われます。「愛は寛容であり,愛は情深い。愛は高ぶらない,誇らない,不作法をしない,自分の利益を求めない,いらだたない……すべてを忍び……すべてを耐える」。―コリント前 13:4-7,新口。
33 外部の人たちは,新しい世の社会のクリスチャンにふさわしい行儀についてどんな証言をしていますか。
33 疑問の余地はありません。クリスチャンにふさわしい行儀は大切です。エホバの証者の新しい世の社会は,クリスチャンにふさわしい行儀を示すので,名声を得ています。そのことからクリスチャンにふさわしい行儀の価値はすべての人に銘記されます。典型的なひとつの報告として,某アメリカ合衆国上院議員が,「議会記録」に読んだ長い報告があります。その報告の要旨は,エホバの証者の行儀は,「この世のものでない」ということです。ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンのある報道員は,こう書きました,「彼らは清潔な外見で,行儀が良く,あらゆる年齢の人々に尊敬を示す。彼らは気持良く社交的であるので,このきたない冷いニューヨーク市のお行儀の悪い市民は恥ずかしく感ずる」。
34 結論として,クリスチャンにふさわしい行儀の価値について何と言われますか。
34 クリスチャンにふさわしい行儀は小さなもの,意味のすくないものに見えるかも知れませんが,それは肝要なものです。「この務がそしりを招かないために,わたしたちはどんな事にも,人につまずきを与えないようにし……」。クリスチャンはその良い行儀によって「外の人々にもよく思われている」だけでなく,家族内とクリスチャン会衆の両方にあって良い関係を楽しみます。かくして互に建ておこし,エホバ神に栄光をささげることができます。―コリント後 6:3-7。テモテ前 3:7。
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フィジー諸島の島民は新しい人格を着けるものみの塔 1961 | 9月15日
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フィジー諸島の島民は新しい人格を着ける
クリスチャンは「造り主」エホバ神の「かたちに従って新しくされ」神の言葉の「真の知識に至る新しき人を着」るようにと命ぜられています。(コロサイ 3:10)フィジー諸島からの最近の報告は,使徒パウロのこのすすめに従う人々がその島々にもいることを示しています
フィジー諸島のある町で家から家に伝道していた証者の一宣教者は,その町の有名な実業家の家を訪れました。宣教者がエホバの証者の一人であることを知ると,その人は宣教者を直ちに招じ入れ,証者ならば何時でも歓迎しますと語りました。そして聞かれるままに次の話をしました。「何年ものあいだ村は暴力団になやまされ,その実業家も大きな被害を受けていました。ところが1年ほど前にエホバの証者が町に来て,暴力団の重だった者幾人かが間もなくエホバの証者になったのです。そして彼らは今では平和を好む礼儀正しい市民になりました。このため,過去1年ほどのあいだに事態は著しく改善されました」。
暴力団の中からエホバの証者になった者の一人にアイソアという人がいます。ある殺人事件のあったとき,被害者の友人たちは彼を説得して偽証を行なわせ,証拠はなかったのですが,犯人の疑いをかけられた人を有罪に定めようと図りました。殺された人の友人たちに親切にするつもりで,彼は被疑者が殺された人と一緒にいるのを見たと,法廷で2回にわたり証言しました。裁判は何ヵ月も長びき,そのうちにアイソアはエホバの証者になったのです。
さてアイソアは自分のなすべき事について深く心を悩ませました。彼はこの疑われた人の血に対して責任を負うことを望まなかったからです。彼は土地の会衆の監督に相談し,会衆の委員はよい助言を与えました。そこでアイソアは治安判事に手紙を書いて,自分が子供の時から教えられていた宗教に従えば,友人のために偽証することは何ら悪いことではなかった,しかしエホバの証者になったいま,その非を十分に悟ったから偽証したことを告白し,証言を徹回すると述べました。その結果,疑われていた人は釈放されました。言うまでもなく,この事は法廷に少なからぬ波紋を投げかけました。
アイソアの偽証のために事件を解決していた警察では,たいそう怒って偽証罪で彼を法廷に訴えました。幸いにもその時ヨーロッパ人の判事が訪問中で,すべての事実を聞いた判事は証拠なしとしてアイソアに対する告訴を却下しました。そのためエホバの証者の名はいまでも尊敬されています。
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