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『結合のきずな』としての愛は,「完全な」ものであるものみの塔 1983 | 3月15日
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の証人もまた,エホバに対する強力な信仰により,まだ見ていない事柄を希望し,それを待ち望みます。やがて彼らが「望んでいる事柄」を見る時が訪れれば,そうした事柄に関する彼らの信仰と希望は終わり,成就を見るのです。このことは,ローマ 8章24,25節でパウロがさらに述べた事柄の中に示されています。こう記されています。
11 「わたしたちはこの希望のもとに救われたからです。しかし,見えている希望は希望ではありません。というのは,その事柄が見えるとき,人はそれに対して希望を抱くでしょうか。しかし,見ていないものに希望を抱くのであれば,わたしたちは忍耐してそれを待ちつづけるのです」。
12 エホバの証人たちはどんな意味で,使徒 3章21節に述べられている「すべての事柄の回復」を見てきましたか。そして時がたてばどんな特質は終わりますか。しかしどんな特質は終わりませんか。
12 同様に戦後の年1919年以降,地上のエホバの証人たちは,「神が昔のご自分の聖なる預言者たちの口を通して語られたすべての事柄の回復」を見てきました。目に見えるエホバの組織が,第一次世界大戦による致死的な打撃から立ち直り,次いで再建されるのを見てきました。その組織は,まさにここ地上の霊的パラダイスにおいて,再びエホバ神を崇拝しています。(イザヤ 35章)偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンからの救出も得られました。(啓示 18:1-4)聖書巻末の啓示の書に予告されていた事柄の多くの部分は既に成就したか,現在成就しつつあります。こうして,このような信仰と,聖書的な信仰に基づいた希望とは,その目的にかなうものとなっており,その目的がいったん十分に果たされると,それらは終わります。確かにそれらは終わるのですが,愛についてはどうでしょうか。それはこれまで残ってきましたし,これからも残ります。この世は崩壊状態にあり,この世の諸要素が激しい熱のため溶け去ろうとしているのに対し,神からの愛に基づいた『結合のきずな』は溶解しません。神と神が是認しておられる組織とに対する愛,また「小さな群れ」の残りの者と,喜んで迎え入れられた「ほかの羊」の「大群衆」との間の愛は依然として損なわれていません。それは「完全な」ものです。「きずな」としての愛は神の霊の実なのです。
13 愛が決して死に絶えないのはなぜですか。
13 神は愛を体現しておられる方で決して死ぬことがないため,愛も決して死に絶えません。「神は愛です」とは真実の言葉です。
14 一致をもたらす愛の力に関しては,どんな真理を再び述べることができますか。
14 一致をもたらす愛の力に関しては,ヨハネ第一 4章8,16節に述べられている霊感による真理を再び,詳しく述べることができます。「神は愛であり,愛にとどまっている者は神とずっと結ばれており,神はその者とずっと結び付いておられます」。
15 人間を創造された時,神はどんな動機でそうされましたか。その動機となる力に対し,人間が認識を示し,正しく反応することができるのはなぜですか。
15 したがって,最初の人間を地上に造られた時,神は愛を動機としてそのことを行なわれました。創世記 1章27節はその点についてこのように伝えています。「そうして神は人をご自分の像に創造してゆき,神の像にこれを創造された」。最初の人間は,身体的に神と同じ形を持っていたからではなく,神ご自身が持っておられるような特質を付与されたために,これらの精神的,霊的,また心の特質は,最初の人間を地上にいた下等な創造物の命と区別するものとなりました。この理由で,この賜物を与えられた人間という被造物は,自分に対する創造者の愛を認識することができ,息子が自分の父親に対してするように,その愛に対し正しい方法で反応できました。神を見てなお生き続けることのできる人はいないためにみ父は地上の子たちからは見えないという事実にもかかわらず,み父と地上の子たちの間には家族のきずなが存在し,それは相互の定期的な親しい交わりによって現実のものとされました。神は後にこの事実をモーセにこう語られました。「人はわたしを見てなお生きていることはできない」。(出エジプト記 33:20)この法則は変わっていません。その時から1,500年以上たった後に,使徒ヨハネは仲間のクリスチャンたちに次のように書いているからです。「いまだ神を見た人はいない。父に対してその懐の位置にいる独り子の神こそ,彼について説明したのである」― ヨハネ 1:18。
16 ヨハネと仲間の弟子たちは,何をもって父親のような神の愛にこたえ応じましたか。そして,『愛のきずな』は,油そそがれた残りの者と「ほかの羊」に関してどのようなものとなりましたか。
16 霊によって生み出された神の子の一人として,使徒ヨハネは,エホバ神およびそのみ子であられる「独り子の神」,イエス・キリストと家族関係にありました。ヨハネと仲間のクリスチャンたちは,子としての愛を持って,父親のような神の愛情にこたえ応じました。その愛は,彼ら相互の間,また目に見えない彼らの天的な父との間の『結合のきずな』でした。加えてその愛は,霊によって生み出された人々を,神の霊的な子たちとして,またクリスチャンの兄弟姉妹たちとして固く結び合わせました。今日その『結合のきずな』を調べてみると,それが「完全な」ものであることが分かります。油そそがれた残りの者の成員はエホバ神の共なる崇拝者またその証人として,離すことができないほどにぴったり結び合わされているからです。この愛は,神の家族内に,またクリスチャンの兄弟関係のうちにとどまれるよう彼らを守っています。注目すべきことに,神の神殿にいる彼らの仲間の崇拝者たち,つまりキリストの「ほかの羊」の「大群衆」も,今日のエホバの証人たちを申し分なく完全に結合させる,冷えることのない同じ愛を示しています。わたしたちは心を固くし,どんな「創造物も,わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛からわたしたちを引き離しえない」という使徒パウロと同じ確信を抱くことができますように。―ローマ 8:38,39。
どのように答えますか
□ どのような意味で,すべての家族はその名を神に負っていますか
□ この事実は,クリスチャン会衆内のすべての人にどのような影響を及ぼすはずですか
□ ヨナタンはだれを予影していましたか
□ 愛が信仰や希望よりも偉大なのはなぜですか
□ 愛はどのようにわたしたちを神と結合させますか
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愛を身に着け,常にそれを身にまとうものみの塔 1983 | 3月15日
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愛を身に着け,常にそれを身にまとう
1 わたしたちが身に着けるべきものとは何ですか。それに関して最大の試練が臨むのはいつですか。
愛が「結合の完全なきずな」である以上,それはわたしたちが偽善的にではなく身に着けるべき最重要な特質です。わたしたちは,誠実さを尽くしてそれを絶えず身にまとっていなければなりません。それは本当の自分を隠すための外とうではありません。今日のわたしたちを諭すため,次のような霊感による言葉が保存されてきました。「あなた方の愛を偽善のないものにしなさい。……兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情を抱きなさい」。(ローマ 12:9,10)わたしたちの愛,この『結合のきずな』の純粋さを試す最大の試練は,これから ― 近い将来に臨みます。
2 愛は,予備的なものが何もなくても身に着けることができるものですか。
2 それで今は,わたしたちがその愛を培う絶好の時です。その特質を身に着けることにつながるすべての段階をいま踏まなければなりません。それゆえに使徒パウロは,イエス・キリストの献身してバプテスマを受けた弟子たちが行なうべき様々な事柄を推薦したその結びとして,「これらすべてに加えて,愛を身に着けなさい。それは結合の完全なきずななのです」と述べました。(コロサイ 3:14)では,わたしたちが身に着けなければならない愛のほかの「これら」とは何でしょうか。
分裂をもたらす要素に打ち勝つ
3 コロサイ 3章9-13節によると,愛を身に着けるために踏まなければならない段階とは何ですか。
3 使徒パウロやヨハネの時代にも,分裂の原因となり得た幾つかの特色もしくは要素がありました。しかし,以前にはもっともであったそれらの理由を,その重要性の点で無視し,無価値なものと考えるべき時が来ていました。クリスチャンすべては一人の霊的な頭,イエス・キリストのもとにある一つの会衆,一つの協同体でした。分裂を生み出すすべての肉的な理由は,断固はねつけなければなりませんでした。一致をもたらす霊的な事柄こそ,絶えず前面に押し出されるべきでした。この点と一致して,使徒パウロはさらにこのように述べています。「古い人格をその習わしと共に脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けなさい。それは,正確な知識により,またそれを創造した方の像にしたがって新たにされてゆくのです。そこにはギリシャ人もユダヤ人もなく,割礼も無割礼もなく,異国人も,スキタイ人も,奴隷も,自由人もありません。ただキリストがすべてであり,すべてのうちにおられるのです。したがって,神の選ばれた者,また聖にして愛される者として,優しい同情心,親切,へりくだった思い,温和,そして辛抱強さを身に着けなさい。だれかに対して不満の理由がある場合でも,引き続き互いに忍び,互いに惜しみなく許し合いなさい。エホバが惜しみなく許してくださったように,あなた方もそのようにしなさい」― コロサイ 3:9-13。
4 1世紀の会衆内で互いに仲良くしてゆく必要があったのはなぜですか。どんな根拠に基づいてある事柄は無視されたと思われますか。
4 生まれた国,宗教的背景,社会的立場,人種また皮膚の色などに関して前述の相違点があったため,会衆内で互いに仲良く生活することには難しさもありました。互いを理解し,互いを受け入れる必要がありました。こうした点は肉的な人々にとっては重大な問題であったかもしれませんが,神とみ子イエス・キリストにとっては全く重要な問題ではなかったからです。イエス・キリストは,これらのすべての相違が行き渡り,存続していた時代に全人類のために死なれたのです。もちろん,広い心を持った人なら,自分自身の魂の寛大さから,一般的な原則に従ってそうした相違を無視することもあったでしょう。そのようにすることはまさしく良いやり方,いやそれどころか正真正銘の人道主義的行為だったかもしれません。それでも,そこには純粋な無私の愛は欠けていたかもしれません。
5 分裂の種となりうる事柄を無視するに際し,エホバの証人は普通の人間が示すどんなものにとどまっていてはなりませんか。そうすることによって彼らはだれと結び合っていることを示しますか。
5 その理由で,献身してバプテスマを受けたわたしたち,完全な人間の命をあらゆる種類の人のためにお与えになった方の追随者であるわたしたちは,単なる形式的行為や,愛想の良さ,感じの良さ,行儀の良さ,優しさなどにとどまっていてはなりません。エホバ神の霊の実である誠実で私心のない愛を動機としなければなりません。この実は他の人々の益と福利を求めます。他の人々の霊的な福祉や幸福に役立つことなら喜んで行ないます。この実はわたしたちが,愛を具現しておられる神と結び合っていることを示すものです。この愛には引き付ける力があります。この点と調和して,ヨハネ第一 4章19節には,「わたしたちは,彼がまずわたしたちを愛してくださったので愛するのです」と述べられています。
6 「一つの群れ」の成員は何によって互いに引き付けられますか。神の霊の実は何に基づいたものではありませんか。
6 その結果,「一人の羊飼い」のもとにある「一つの群れ」を構成する様々な人々が互いに対する愛を表わすとき,それは彼らを引き寄せて堅く結び合わせ,「一つの群れ」の成員たちの異なった背景から生ずる分裂を引き起こす影響を相殺します。彼らは「新しい人格」を身に着けているために,互いに引き付けられます。彼らはみな,唯一の神聖な源,つまり万物の命の授与者であられる神から出る「一つの霊」を持っています。神の霊の心温まる実は愛であり,それは性や利己的で貪らんな欲望ではなく,「新しい人格」という神に似た特質に対する心からの認識に基づいたものです。それだけが「結合の完全なきずな」として機能し,調和と協力の精神を守るのです。
特別な業のために結び合わされる
7 1914年以来,エホバの証人の側には何が必要ですか。これは,どんな業のためですか。
7 1914年以来の「事物の体制の終結」の時も終わりに近い今,この事物の体制のものでないエホバの証人の側には一致協力した行動が必要です。人類史上最も重要な出来事について,世界的に証しを行なう義務が彼らに課せられているのです。(マタイ 24:14。マルコ 13:10)その状況には,使徒パウロが当時も顕著に見られた,と述べる際立った特色が伴っていなければなりません。この点に注意を引きつつ,パウロはコロサイ 1章23節でこう言いました。「自分たちの聞いた良いたよりの希望……その良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです。私パウロは,この良いたよりの奉仕者となりました」。では,今日における良いたよりの奉仕者であるすべての皆さん,わたしたちのこの決定的な時のために蓄え置かれてきた,同じく創造物全体に良いたよりを宣べ伝える業についてはどうですか。
8 今日わたしたちは,啓示 14章6-12節でヨハネが描写したどんな幻が現実に遂行されているのを見ていますか。
8 今日のわたしたちは,使徒ヨハネに与えられた幻の成就となる事柄が現実に遂行されているのを見ています。その幻を使徒ヨハネは啓示 14章6節から12節で次のように描写しました。「また,わたしは別のみ使いが中天を飛んでいるのを見た。彼は,地に住む者たちに,またあらゆる国民・部族・国語・民に喜ばしいおとずれとして宣明する永遠の良いたよりを携えており,大声でこう言っ
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