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人格性をもつ神目ざめよ! 1979 | 7月8日
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られているとしたら,どうして人は命を選ぶことができるでしょうか。また,人々をとこしえの責め苦に遭わせる神を想像しているとすれば,その神に近づいてどうして楽な気持ちになどなれるでしょうか。しかも,その選択は,命ととこしえの責め苦のいずれかではなく,「命と死」のいずれかであることに注目してください。そのような慕わしい神が,残虐にも人をとこしえの責め苦に遭わせるようなことは決してありません。しかし,ご自分の忠節な臣民に対する関心に動かされて,神はご自分の義の原則に従って生きようとしない人々を滅ぼされます。神はわたしたちがそれらの原則を学び,それに従って生活できるよう,愛をもって助けを備えてくださいました。そうです,創造者は本当に近づきやすい方です。わたしたちは神に近づけることが分かると,本当に気分がさわやかになります。しかしそうせざるを得ないと感じるからではなく,そうしたいと思うので神に近づくのです。―詩 145:20。
愛すべき神
あなたはどんな人を愛するようになりますか。気立ての優しい人で,あなたを愛し,その愛を様々な利他的な方法で示し,あなたのために大きな犠牲をさえ払うような人ではありませんか。聖書は,神がまさにそのような方であると述べています。神が『痛みを覚え』また「痛みを与え」られている,と述べられている事実は,神が気立ての優しいかたで,他の人々に深い関心を抱いておられることを物語っています。―詩 78:38-41,新。
ほぼ6,000年前,わたしたちすべてに累を及ぼす悲劇が人類に臨みました。神の支配に反逆した霊の被造物であるサタンの勧めに従って,わたしたちの最初の親たちは,神の語られた律法にそむき,死の刑罰を身に受けました。―創世 3:1-19。
まだ生まれていなかったその子孫であるわたしたちは,不完全さと死を受け継ぎました。天の父は,ただ全人類がそうした状態の下にとどまるに任せ,やがて次々に死んでゆき,永遠に存在しなくなるようにすることもできました。神は何に動かされて別の措置を取られたのですか。利他的な愛です! しかも,神はそのために実に高い代価を支払われたのです!
神の律法は,失われたものに対して同等の犠牲をもって償うよう求めていました。(申命 19:21)(アダムの)完全な命が失われました。その結果,不完全さに染まっていない人の命が犠牲にされねばならなくなりました。霊者であるみ使いたちが大勢存在しているのですから,神はそのうちのだれであろうと遣わすことができたわけですが,実際にはそのようにされませんでした。神はわたしたちを非常に愛しておられたので,ご自分が「特に好意を持つ者」,「ご自分の愛する者」を地に遣わし,人間にならせ,それから,人類を贖うのに必要とされる犠牲としての死を遂げさせました。(箴 8:30,新。エフェソス 1:6)神は実に大きな犠牲を払われ,それはわたしたちにとって多大の益となりました。何と愛すべきご性質をお持ちなのでしょう。
「愛さない者は神を知るようになっていません。神は愛だからです。わたしたちの場合,これによって神の愛が明らかにされました。すなわち,神はご自分の独り子を世に遣わし,彼によってわたしたちが命を得られるようにしてくださったからです。愛はこの点,わたしたちが神を愛してきたというよりは,神がわたしたちを愛し,ご自分のみ子をわたしたちの罪のためのなだめの犠牲として遣わしてくださった,ということです」― ヨハネ第一 4:8-10。
確かにこの神は,愛の気持ちから崇拝されるにふさわしいかたです。この点は,前の記事の中で触れた,パスカルの「かけ」を思い起こさせます。フランスのこの思想家は,次のような論議で懐疑主義者たちを納得させようとしました。『神を信じなさい。そうしたからといって,何も失うわけではない。もし神が存在すれば,あなたの宿願はすべて成就される。たとえ存在しなくても,何も失うことにはならない』。しかし,それは,神に仕える正しい動機づけではありません。パスカルの「かけ」は利己心に基づいています。神を信じるのは優れた推論である,とパスカルは主張しました。とこしえに至る祝福と比べれば,数年間犠牲を払うことなど何でもないではないかというのです。その意図は誉れあるものだったにせよ,パスカルは知らずして,神の主要な敵対者の論議を裏付けていたのです。
古代の忠誠な人に関して聖書に記録されている事例史(ヨブ 1章と2章)は,神の被造物は愛の気持ちからでなく,利己心に動かされて神に仕えている,とサタンが主張したことを明らかにしています。こうしてサタンは暗黙のうちに,エホバがご自分の支配権または主権に対する支持を買い取っており,それゆえ後者は買収で手を汚していると主張したのです。a しかし,サタンはいずれの論点においても誤っていました。エホバは愛によって支配をしておられますし,その真の崇拝者たちは利己心のない愛に動かされて神に仕えることを選ぶのです。愛の気持ちから神に仕える人々のために,神はすばらしい将来を意図しておられます。―詩 84:10,11; 110:3。ヤコブ 1:12。
神との個人的な関係
以上のような情報を検討して,神に関するご自分の考えを再調整する必要をお感じになりますか。聖書は神を,幸福で,寛大で,愛すべき存在者であるとしています。畏怖の念を起こさせる力を有しておられても神は近づきやすいかたです。実際,神はご自分に近づくようわたしたちを招いておられます。そのような神と親しくなりたいと思われるのではありませんか。聖書にはそのかたに関してさらに多くの事柄が記されており,エホバの証人は喜んでその点を説明します。費用は無料です。
自分が神に近づくに“ふさわしい”かどうか心配する必要は全くありません。神のみ言葉はこう述べています。「エホバはご自分を呼び求めるすべての者の近くにいてくださる,真実に呼び求めるすべての者に」。(詩 145:18,新)祈りを通して誠実な気持ちで神に語りかけ,聖書に関する正確な知識を育んでゆくなら,神のご要求を学び,それに従って生きてゆく喜びを味わえます。あなたは本当に神を知ることができ,その結果,この偉大な存在者の愛ある世話の下で永遠に暮らす見込みを心に抱けるのです。―ヨハネ 17:3。
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私たちに子供が生まれた日目ざめよ! 1979 | 7月8日
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私たちに子供が生まれた日
ドイツの「目ざめよ!」通信員に語られた経験
昨年,私はドイツの雑誌シュテルンに掲載された一記事に目を止めました。その記事には,生まれたばかりの赤ちゃんを,母親と同じ部屋に置くことを許している病院のことが書かれていました。一般に“ルーミング・イン”と呼ばれるこの取決めを絶賛する医師もいますが,一方,その取決めの是非に疑念を差しはさむ医師もいます。
シュテルン誌の記事は次のよう
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