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  • エホバは忠節な者たちを祝福される
    ものみの塔 1974 | 1月15日
    • に告げて言いたまわく ミデアン人にせまりてこれを撃て そは彼ら謀計をもて汝にせまりペオルのこととその姉妹なるミデアンの牧伯の女すなわちペオルのために疫病の起これる日に殺されしコズビのことにおいて汝らを惑したればなり』。(民数 25:16-18)ミデアンの町々と城壁をめぐらした宿営とは火で焼かれ,ミデアンの5人の王と全部の男,性交を行なった女すべて,それにバラムは殺されました。(民数 31:1-20)アブラハムのおいロトの子孫であったモアブ人は処刑されませんでしたが,彼らもそのたくらみに加わったので,神は彼らが『十代までも……いつまでも』神の会衆にはいることをはばまれました。―申命 23:3,4。

      忠節な者は祝福された

      21,22 ピネハスはどのようにエホバに対する忠節の模範でしたか。忠節でなかった者たちに生じた事からわたしたちは何を学ぶことができますか。

      21 祭司ピネハスは忠節な者たちのひとりであることを証明し,ジムリとコズビに対して機敏な処置を取ったことをほめられました。彼はエホバの崇拝に「対抗することを決して」許しませんでした。そしてこのことは「義とせられ」ました。彼はこのことのために,『彼とその後の子孫永く祭司の職を得べし』という,エホバとの平和の契約を授けられました。―民数 25:11-13。詩 106:30,31。

      22 今日わたしたちが従わねばならないのは,忠節なピネハスの示したりっぱな模範であって,肉欲に屈した人びとの例ではありません。忠節でなかった人びとに生じた事柄は,わたしたちにとってよいみせしめです。(コリント第一 10:11)悪い欲望を心にいだくことは,たとえそれがささいな取るに足りないことに思えるときでも,災いを招きかねません。―ヤコブ 1:14,15。

      23 今日の忠節なクリスチャンの立場は,モアブの平野にいた忠節なイスラエルの立場とどのように似ていますか。彼らはどんな祝福を楽しみにしていますか。

      23 ピネハスのようにエホバに対する忠節を守ったイスラエル人は,約束の地にはいる特権に恵まれました。それと同じく,エホバへの忠節を守る今日のクリスチャンも,神を愛する者のために神が貯えておられるすばらしい祝福を得ることを期待することができます。彼らは油そそがれた王イエス・キリストの支配によって到来するすばらしい新時代にはいります。『その政事と平和とはましくわわりて窮りなし』。彼は『今よりのちとこしえに公平と正義とをもて』支配します。(イザヤ 9:7)これは,肉の誘惑に負けて神に対する忠節を欠いた行為をしないようにする,なんと強い励ましでしょう。

      24 肉欲についてわたしたちは何を認めなければなりませんか。わたしたちの境遇が,モアブの平野にいたイスラエルのそれと似ているのはなぜですか。

      24 新時代という希望が前途にあるのですから,わたしたちには,エホバが悪とする事を行なわせようとする誘惑に抵抗しなければならない強力な理由があります。しかしわたしたちは次のことを認めなければなりません。つまり肉欲は,モアブの平野に野営したイスラエル人の時代と同じく,今日でも人間のひとつの弱点であるということです。わたしたちは,放縦と不純な性にふけるこの世的な人びとに取り囲まれていますから,そうした欲望にふけらせようとする誘惑は非常に強いものがあります。ある意味で彼らはモアブ人やミデアン人のように性崇拝を行なっているのです。彼らの文学,ステージ・ショー,映画,テレビ番組は,堕落した精神が想像しうるかぎりのあらゆる腐敗した肉欲を呼びものにします。わたしたちはその悪い影響に抵抗しなければなりません。それに屈し,神が悪とされることを行なうようになるならば,それはわたしたちにとって,忠節でないために滅びた2万4,000人のイスラエルの場合と同じく,致命傷となりかねません。

      25 肉の誘惑に出あったなら,わたしたちは何を思い起こすべきですか。

      25 ですから,一見ささいに見えながら実は神が悪とされることに人を導く誘惑に直面したなら,モアブの平野で生じたこの忠節の試みを思い起こしてください。そして忠節な人びとの道を選び,詩篇 97篇10節〔新〕にしるされていることに留意してください。『エホバを愛しむものよ悪をにくめエホバは〔ご自分に忠節な者たち〕のたましいをまもり……たまう』。

  • 終わりの時における忠節
    ものみの塔 1974 | 1月15日
    • 終わりの時における忠節

      「というのは,過ぎ去った時の間,あなたがたは,不品行,欲情,過度の飲酒,浮かれ騒ぎ,飲みくらべ,無法な偶像礼拝に傾いていましたが,諸国民の欲するところを行なうのはそれでじゅうぶんだからです」― ペテロ第一 4:3。

      1 なぜ人類の悪はこの時代に悪化の一途をたどっているように思えますか。

      第一次世界大戦以来,わたしたちは先例のない暴力行為,大がかりな流血行為,広範囲にわたる道徳の退廃などを特色とする,人類史上最も異常な時代に住んでいます。幾千年か昔の,これによく似た時代について,聖書の歴史的記録は次のように述べています。『エホバ人の悪の地に大いなるとその心の思念のすべてはかるところのつねにただ悪しきのみなるを見たまえり』。(創世 6:5)彼らは人類に対する神のご意志に「注意しませんでした」。これはノアの時の大洪水前の時代の事物の状態を説明したものです。人間が支配する現体制の終わりの日にもそれと同じ状態が存在するであろう,とイエス・キリストは言われました。(マタイ 24:37-39)1914年以来,わたしたちはその「終わりの日」に住んでいます。

      2,3 クリスチャンはどんな悪い影響を感じますか。なぜ彼らはそれに抵抗しなければなりませんか。

      2 人類の道徳水準が着実に低下の一途をたどっているので,真のクリスチャンたちに不道徳な行為を許容させようとする圧力は増しています。いわゆる「新しい道徳」の考えは彼らの周囲のこの世的な人びとに浸透しており,そういう人びとがつくりだす文学や娯楽に満ちています。これはすべてのクリスチャンに悪い影響をおよぼします。それでクリスチャンは堅い決意をもってそれに抵抗することが要求されます。ある人びとは真のクリスチャンになる前に,不道徳な生活さえしていたかもしれません。しかし今は,神のことばの高い道徳規準にしたがってつくられた新しい人格を着たのですから,諸国民のような生活をする時は過ぎ去りました。そういう生活に逆もどりすることは,犬が自分の吐いた物に帰るのに似ています。―ペテロ第二 2:22。

      3 しかしながら,真のクリスチャンになったということは,堕落した肉の欲を経験しなくなるという意味ではありません。彼らはそれを経験します。その欲望は彼らのひとつの弱点です。もし自制力という道徳的防備を絶えず保持しないならば,この弱点は攻撃を受けやすくなる恐れがあります。この腐敗した人類の世の神であるサタンは,彼の世の,人を堕落させる影響力をとおしてこの弱点に働きかけます。彼は今日でも,紀元前15世紀にモアブ人とミデアン人がイスラエルを堕落させてエホバをイスラエル人に敵せしめようとした時に彼らに用いさせたのと同じ策略を用います。ですから今日,サタンは肉欲によってクリスチャンを誘惑して神の律法にそむかせ,そうすることによって神の不利な裁きを彼らの上にもたらそうとします。―ペテロ第一 5:8。

      4 クリスチャンが悪い欲望をいだいてそれを思いめぐらすならば,どんなことになりかねませんか。

      4 もしあるクリスチャンが,悪魔の事物の体制がつくり出した,道徳的に腐敗した文学や他の形の娯楽に楽しみを見いだすなら,そのクリスチャンは自分の身をさらし,無防備でいることにならないでしょうか。まちがった欲望を心にいだけば,時のたつうちにその欲望に負け,神のみ前に罪を犯す結果にならないでしょうか。(ヤコブ 1:14,15)そのような道を歩みつづけるなら,モアブの平野で殺された2万4,000人のイスラエル人の場合のように,神からの確実な滅びが臨むでしょう。サタンは,イスラエル人をして彼らの主なる神への忠節を失わせることにより,彼らに勝利を得ました。―民数 25:1-9。

      すべてのことにおいて忠節である

      5,6 (イ)神に対する忠節には何が関係していますか。(ロ)クリスチャンは王国に加えて何を求めねばならないとイエスは言われましたか。どのように求めますか。

      5 あるクリスチャンは,王国の良いたよりを熱心に宣べ伝えているから,自分はエホバ神に忠節であると考えるかもしれませんが,忠節ということにはそれ以外の事柄も関係しています。アモリ人と勇敢に戦ったイスラエル人も,自分たちは神に対して忠節であると考えました。しかし彼らの多くは,次のことを悟りませんでした。つまり人はまた,その行ないすべてによって忠節を示さねばならないということです。もしクリスチャンが悪い欲望に負けるなら,その人が神の王国について宣べ伝えることは意味がなくなります。その人は神の王国の道徳律を犯すことによって,自分が実際に神の王国に忠節でないことを示しています。クリスチャンにふさわしくないその人の行ないは,王なる神のみ名に非難をもたらします。―ペテロ第二 2:2。

      6 クリスチャンはその生き方全体によって,たとえささいに思える事柄においても,神と王国に忠節を示さねばなりません。クリスチャンの生き方は,この世の腐敗した生き方とは大きく異なっていなければなりません。たとえそのためにこの世的な知人や親族から非難されることがあっても。(ペテロ第一 4:3,4)神の王国に対する関心に何が伴わねばならないかをイエスが明示されたことに注意してください。「それでは,王国……をいつも第一に求めなさい」とイエスは言われました。しかし次に「神の義」をつけ加えられました。(マタイ 6:33)したがって,神の王国を忠節に擁護するためには,神の力によってしるされた聖書の律法や助言に明示されている神の義と一致した生活をしなければなりません。クリスチャンはその生き方によって,真のキリスト教を表わさねばなりません。

      7 (イ)真のクリスチャンはエホバと個人的な関係を持つゆえに,とりわけ何を愛さねばなりませんか。なぜですか。(ロ)クリスチャンが正しいことを捨てるとき,それはなぜ不忠節の罪になりますか。

      7 モーセの時代のイスラエル人のように,真のクリスチャンはエホバ神と個人的な関係を持っています。このことは,神と同じく,清く正しいことを愛するよう彼らに要求します。神の主要な敵サタン悪魔は,腐敗した正しくないことを愛します。ですから不従順な人類のこの世は,その支配者である邪悪な神の,堕落した不義の実を生み出します。(ヨハネ 8:44。コリント第二 4:4)クリスチャンが悪い欲望に負けて正しいことを捨てるとすれば,それは不忠実にも他の神,すなわちこの世の邪悪な神に従うことを意味します。彼はその邪悪な神の悪い実を結んでいるのです。モアブ人とミデアン人の祭りに行ったとき悪い欲望に誘惑されてバアル崇拝に巻き込まれた不忠実なイスラエル人のようです。エホバの義を求めるとき,わたしたちは考えと行ないを非常に清くするよう努力しているのです。わたしたちは聖書の次の訓戒に注意を払います。「自分をこの事物の体制に合わせてはなりません。むしろ,思いを作り直して自分を変革しなさい。それは,神の善にして受け入れられる完全なご意志を自らはっきり知るためです」― ローマ 12:2。

      8 わたしたちの生活には,エホバの前で内密と呼べる部分がありますか。例をあげて説明しなさい。

      8 エホバのみ名は,エホバの王国について証言する真のクリスチャンの上にあります。そのみ名は,宇宙内のすべての正しいこと,清いことを象徴します。み子が採るエホバの王国の王笏は「方正の笏です」。(ヘブライ 1:8)その王国と王国の至高の王エホバ神に対して忠節な臣民は,彼らの生活のあらゆる面でその方正を反映すべきではないでしょうか。忠節はそれを要求しないでしょうか。彼らは四六時中エホバのみ名を負っているのです。そしてもし人が,隠れてなら悪いこと,あるいは「いかがわしい」ことさえもできると考えるなら,その人はそのみ名を傷つけます。実際,エホバにかんするかぎり,わたしたちの生活には「内密」と呼べる部分はありません。もしひそかに悪いことをするなら,それは他の人間にわからないだけです。エホバはそれを見てこられました。忠節を欠いたイスラエル人がモアブ人やミデアン人の天幕の中でしたことをごらんになりませんでしたか。幾世紀かのち,イスラエルの忠節でない長老たちが,エルサレムのエホバの神殿の内庭の隠れたへやの中で行なったことを見られなかったでしょうか。彼らがそこで偶像崇拝を行なっていたのを見られませんでしたか。神に対するそのような忠節を欠いた行ないを隠すことはできません。『エホバは我らを見ずエホバこの地をすてたり』と言ったとき,彼らは自分をあざむいていたのです。(エゼキエル 8:9-12)真のクリスチャンは,神は死んでいると主張する今日のにせのクリスチャンのように,このまちがった考え方を採りいれる誤りを犯してはなりません。

      9,10 (イ)肉の欲はどのようにクリスチャンを問題に引き込む危険があるか,説明しなさい。(ロ)この場合忠節はどう関係していますか。

      9 クリスチャンは,強力な防備の維持をやめるときに問題を起こし始めます。まちがった肉の欲を誘う状況から遠くへ離れる代わりに,できうるかぎりそれに近いところを歩もうとするかもしれません。良心がその欲望の正しくないことを告げてもそれを心にいだきつづけるかもしれません。長くそれをもてあそべばもてあそぶほど,その欲望は強くなります。忠節でなかったイスラエル人のように,「害になる事」に対するまちがった欲望を退けません。(コリント第一 10:6)結婚していないふたりの異性が,人目につかない場所で互いの陰部に触れ合い,互いに相手を性的に興奮させるようなことをし始めると,そのような状況の発展する恐れがあります。これは一種のわいせつ行為であって,神の義を反映する生き方をすべきクリスチャンにはふさわしくありません。

      10 こうした問題においてわたしたちは,一般の世間で許容されることを指針にすることができますか。それはできません。というのは,この世はわたしたちに健全な規準を与えはしないからです。この世は,エホバ神の義を反映するのではなく,エホバの敵である「この事物の体制の神」の不義を反映するものだからです。(コリント第二 4:4)だまされて平気になったり,自分自身をあざむいたりすることなく,むしろ正直に次のことを認めるべきです。つまり,情欲がかきたてられると,性的結合によってそれを満足させようとする非常に強い衝動にかられる場合があるということです。これは生の実態です。結婚している人たちの場合には,それを満足させることは正常で適当なことです。しかし未婚の人たちがそのような結合によってそうした情欲を満たすことは,神の律法に対する重大な違反行為です。実際にそれは,神に対するクリスチャンの忠節を欠いた行為です。そうであれば,忠節はそのような違反の危険からわたしたちを守り,性欲を刺激する危険な行為を避けさせるものではないでしょうか。

      11 (イ)激しい「ペッティング」を正当化するためにある人びとはどのように論じますか。なぜそれはまちがいですか。(ロ)実際の性的結合が関係していなくても,汚れた行ないはどのように「淫行」(ポルネイア)に達する危険がありますか。

      11 現代の習慣となっている「デート」で,多くの若い男女は,強い情欲的感情をかきたてる「ペッティング」を行ないます。しかしなかには,性器の実際の結合がないかぎりこれは悪いことではない,彼らが問題を理解しているところによると,聖書が未婚の人びとに明確に禁じているのはそのことだからである,と主張する人もあるかもしれません。そのような推理はまちがいであり,また危険です。クリスチャンはその肢体をもはや「不法と汚れの奴隷として」ささげるのではなく,「神聖さの見込みを伴う義の奴隷として」ささげるよう勧められています。(ローマ 6:19)たとえ激しい「ペッティング」が,聖書的意味の「淫行」(ギリシャ語,ポルネイア)にまで達しなかったとしても,それはやはり「汚れ」(ギリシャ語,アカタルシア)であって,みだらな,清くない行ないと言えます。「汚れ」は,使徒が列挙した堕落した肉のわざの中で「淫行」の次にあげられています。そして使徒は,悔い改めることをせずに「そのような事柄をならわしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません」と警告しています。(ガラテア 5:19,21)それにそのような汚れた行ないは,その性質もしくは程度において徐々に悪化し,ついに「淫行」(ポルネイア)の部類に入れられるのが当然のところまで発展するかもしれません。というのは,聖書的に言ってこの語は,未婚者間の性的結合だけを指すのではなく,売春宿で行なわれるようなあらゆる種類のひどい不道徳あるいはみだらな行為をも指すからです。

      12 (イ)婚約していれば激しい求愛行為にふける権利がありますか。(ロ)独身者はどんな状況を避けるべきですか。なぜですか。

      12 婚約したふたりが互いに対して愛情を示すのは当然です。しかしそれは,既婚者の正当な領域とされている親密な関係を楽しんでよいという意味ではありません。結婚するまでは,実際の性的結合を持つ自由はないのですから,結婚における性関係の予備行為である親密な『愛戯』のようなことをすべきではありません。それをすることは汚れたことであって,神の取決めを尊重する気持ちが欠けており,神がお定めになった神聖さの清い標準に対する忠節心が欠けていることを示すものです。ですからどんな愛情の表現においても,ふたりは忠節であるために注意し,正しく抑制しなければなりません。人前で土地の習慣に反するふるまいをして人びとをつまずかせるようなことをすべきでないのはもちろん,ふたりだけでいるときでも,ほかの人が急に現われたら恥ずかしくなるような行ないをすべきではありません。ほかの人たちがいるということは,自分の弱さや肉の欲に対するよい保護となる場合が少なくないのは事実ではないでしょうか。一方,暗い所や人目につかない所は防御力を低め,決意を弱める恐れがあります。(箴 9:16-18。ヨハネ 3:20,21。エフェソス 5:7-13)たとえ婚約していても,クリスチャンであるふたりは,汚れた行ないを助長する事態を避けることにより,自尊心と互いに対する敬意を危うくすることを避けるのが賢明ではないでしょうか。自分たちのいるへやまたは場所にはだれでもたやすくはいってこられるという健康的な抑制を感じなくなるほど,他の人たちから離れたところにいないようにすれば,そうした事態を避けることができます。確かに,婚約していない人たちは,人目につかない場所での交際ではなく,他の人びととのおおっぴらな交際の中でお互いの交わりを楽しむようにして,より大きな抑制を働かせなければならない理由があります。

      会衆が取る措置

      13,14 クリスチャン会衆が取るどんな処置は,イスラエルの忠実な長老たちが,不忠節な者たちに関して取った処置に似ていますか。不道徳なことを常習的に行なっている者に対するこの処置はなぜ必要ですか。

      13 イスラエル人が,モアブ人とミデアン人の祭りに行って,肉の欲に負けたとき,神およびイスラエルの会衆の代表たちは彼らを処罰しました。それらの代表はおそらく1,000人という多数の不忠節なイスラエル人を自分で殺したでしょう。(民数 25:3-5)これに似たことは今日のクリスチャン会衆内でも見られます。重大な罪を常習的に犯す不忠節なメンバーを処刑する権限は神から与えられてはいませんが,もし悔い改めなければ会衆から排斥する,という処置をとる権限は与えられています。(コリント第一 5:11-13)これは会衆を清く保つために必要なことです。もしそれをしなければ,どうして義であられるエホバとイエス・キリストに属すると正当に主張できるでしょうか。神の義の律法を支持するのは義務です。

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