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終わりの時における忠節ものみの塔 1974 | 1月15日
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なら,悪魔はわたしたちがまっさかさまに不品行に飛び込むところまでわたしたちを連れて行くでしょう。もしわたしたちがそれに引きずられて行くなら,そして自分のしていることを合理づけようとするなら,わたしたちは必ず起こる問題を自ら招いているのではないでしょうか。それよりも最初から誘惑を退けるほうが賢明ではありませんか。もしバアル崇拝に巻き込まれたイスラエル人が,モアブ人とミデアン人によって彼らの前に置かれた最初の誘惑を退けていたなら,あのようなことにはならなかったのではないでしょうか。
18 (イ)聖書は『女に触れる』ということにどんな意味を付していますか。なぜですか。(ロ)この事実から独身者はどのような見方を持つべきですか。
18 エバの場合を考えてみましょう。彼女は,エデンの園の中の禁じられた実には触れることさえしてはいけないということを知っていました。触れることはそれを食べる最初の段階だからです。(創世 3:3)食べることを許されていた果実がほかにたくさんあったので,その一本の木の実を食べることを禁じられても,彼女にとってそれはつらいことではありませんでした。彼女がそれに触れることは,神が禁じたことに対してまちがった欲望をいだいていることを示しました。このことを念頭において,コリント第一 7章1節の,「男は女に触れないのがよい」という助言を注意深く検討してみましょう。ヘブライ語聖書では,『触れる』ということばは時々性的接触を表わすのに用いられています。(箴 6:29。創世 20:6,7とくらべてください)これはおそらく,性的結合に至る一連のできごとが,情熱的な方法で異性に触れることから始まるためでしょう。イエスは,「女を見つづけてその女に情欲をいだく」ようなことさえしてはいけない,と警告し,そうする者は「すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」と言われました。(マタイ 5:28)それで『女に触れる』ということには,不義な情熱から生じた,あるいは不義な情熱を刺激する仕方による異性との肉体的接触すべてが含まれるようです。もし人が情熱を制御することができず,情熱的な,あるいは清くない仕方で異性に触れる傾向があるなら,使徒パウロがつづけて述べているように,結婚するほうがよいでしょう。(コリント第一 7:2,9)一方,まだ独身でいるクリスチャンたちにとって賢明な道は,容易ならぬ非行を招きやすい,情熱をいだいて「見る」ことや「触れる」ことを避けることです。そうすれば,神と人との前で清い良心を持つという満足のいく喜びがあるでしょう。
19 わたしたちはなぜ自分の生活にエホバの義を反映させるべきですか。
19 わたしたちはエホバ神の義と,良い律法と,愛のこもった親切または忠節な愛とのゆえに,エホバ神を愛することを学びました。わたしたちは全地が,不義の政府の妨害を受けることなくエホバ神の王国の支配下にはいるという見込みに喜びをいだいています。わたしたちはそれが人類にとって,永遠の平和と安全を伴う公正で義なる支配を意味することを知っています。この義なる宇宙支配者の地的組織の一員としてその支配者の近くにいることを喜びとする人はみな,神の律法に従って生活することにより,自分の生活の中で神の義を反映するよう,力のかぎり励むべきではないでしょうか。これは確かに神に対して忠節を示すことではありませんか。
20 忠節を示すことは,なぜイエス・キリストの模範にならうことの一部であると言えますか。
20 キリスト教に対する人の信仰は,水中に浸されることによりエホバ神への献身を公に示すことだけでなく,クリスチャンにふさわしい人格を持つことによっても示されます。それには,「神のご意志にそいつつ真の義と忠節のうちに創造された」新しい人格が関係してきます。(エフェソス 4:24)イエス・キリストは四六時中,神の義の律法に一致した行動をされました。それらの律法はイエスの心のうちにあり,イエスがその心に神のご意志に従うことを願う動機となりました。(ヨハネ 5:30)わたしたちの心の中にもそれと同じ義の律法があって,そのような願いをいだかせるようでなければなりません。
忠節であることから来る益
21,22 エホバに忠節であることから来る益をいくつかあげなさい。これは肉の快楽とどのように比較できますか。
21 人が今まちがった肉の欲を満たすことから得るかもしれない快楽は一時的なものです。しかし,エホバに対する忠節から生まれる益は永久的なものになる可能性があります。なぜそのような永久的な益をつかのまの快楽のために捨てますか。モーセは,「罪の一時的な楽しみを持つよりは,むしろ神の民とともに虐待されることを」選びました。なぜなら,エホバの忠節なしもべとなることから来る益のほうがはるかに大きかったからです。(ヘブライ 11:25)わたしたちが今日期待しうるきわめて著しい益は,現体制に悲惨な終わりをもたらすきたるべき「大患難」の時に守られて生き残る,エホバの忠節な崇拝者の「大群衆」の一員となることです。―ダニエル 2:44。啓示 7:9,14。
22 もうひとつの顕著な益は,神の王国が招来する新しい時代に限りなく生きることです。つかのまの不義の快楽よりも,義の支配者たちのもとで平和に安全に暮らすことのほうが,はるかに大きな益ではありませんか。そのような快楽よりも命そのもののほうが大きな価値を持たないでしょうか。エホバに対する不忠節は永遠の死を意味しかねませんが,エホバに対する忠節はその反対,つまり永遠の命を意味しえます。「さらに,永遠の命,これが,ご自身がわたしたちに約束してくださったその約束のものなのです」。(ヨハネ第一 2:25)これらや他の多くの顕著な益が忠節な者たちにもたらされます。
23 それで今日歩むべき賢明な道とは何ですか。
23 クリスチャンが,新しい時代のまさに入口まで来て,まちがった肉の欲をいだき,真の神に不忠節になって落伍するのは悲劇です。それよりも,この終わりの時に神に忠誠をつくす正しい道を歩んで,清い良心を保つほうがどんなにか賢明でしょう。―詩 37:28,29。
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しんぼう強さは実を結ぶものみの塔 1974 | 1月15日
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しんぼう強さは実を結ぶ
● インド洋のレユニオン島でのこと,年配のあるエホバの証人は娘夫婦に聖書の真理を伝えようと10年以上も努力していました。ついに(義理の)息子は,しゅうとめが『自分の宗教を伝道する』ことに非常にいらだつようになり,ある日彼女がやって来た時,「お入りなさい。でも,あなたのエホバは外においてきてください」と言いました。息子が真の崇拝についてふれたくないというあまりに強い態度で話し始めたので,彼女は泣きだしました。涙が彼女のほほを伝わって流れました。しゅうとめは涙声で,せめてエホバの証人の集会に来て,自分で調べることはできるはずだと言いました。しゅうとめが涙を流しているのを見て動かされた息子は,「わかりました。涙をふきなさい。泣くのをやめれば集会に行きましょう」と言いました。そして,彼は集会に来ました。実際,彼はその集会を非常に楽しんだため,続けて集会にやってきました。今では,この夫婦はふたりともバプテスマを受けたエホバの証人です。
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