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ただひとり忠節なかたとはだれですかものみの塔 1982 | 6月15日
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ただひとり忠節なかたとはだれですか
この部分の資料と続く二つの研究記事の資料は,エホバの証人の「王国の忠節」地域大会の第1日目に話されたものです。過去1年にわたり北半球及び南半球の各地で開かれたクリスチャンの大会に302万8,796人が出席し,3万3,627人がバプテスマを受けました。今年の夏の「王国の真理」地域大会におけるさらに豊かな「宴」に向けて準備が行なわれている今,ここですぐれた霊的食物を復習するのは時宜にかなったことです。
全宇宙において,忠節という特質が最も際立っているのは創造者ご自身です。理知ある創造物すべてのうちに見られる忠節という特質はこの方を源としています。忠節を高く評価する人々は,いざという場合,この方に忠節を示していただきたい,と求めることができます。ですから,王たちの先祖である族長アブラハムの僕は,無礼な態度をとることなく自分の主人の神であるエホバに,忠節な愛を示していただきたいと懇願しました。(創世記 24:14)アブラハムの子孫であるダビデは,イスラエルを支配する王権をまだ得ていなかったとき,自分自身の経験から一つの詩の中でエホバに次のように呼びかけました。『忠節な者には,あなたは忠節をもって行動されます』。(サムエル後 22:26。詩篇 18:25,新)また,イスラエル国民の天の王であるエホバを代表していた預言者モーセは,祭司の職にあったレビ族の人々を祝福した際,エホバ神への忠節という特質を次のように賛美しています。
「あなたのトンミムとウリムとはあなたに忠節な人[レビ]に属している。あなたはその人をマッサにおいて試された。メリバの水のそばで彼と闘われるようになった。自分の父と母に,『わたしはそれを見なかった』と言った人。自分の兄弟たちをさえ彼は認めず,自分の息子たちをも知らなかった。彼ら[レビ人]はあなたの言われたことを守り,あなたの契約を守り続けた」― 申命記 33:4,5,8,9,新。
預言者モーセは,もし生きていれば,それから1,600年以上たって作られた歌を,ためらうことなく一緒に歌ったことでしょう。それは「神の奴隷モーセの歌と子羊[イエス・キリスト]の歌」という題の歌で,次のように歌われています。「全能者なるエホバ神,あなたのみわざは偉大であり驚くべきものです。とこしえの王よ,あなたの道は義であり真実です。エホバよほんとうにだれがあなたを恐れないでしょうか,あなたのみ名の栄光をたたえないでしょうか。ただあなただけが忠節なかただからです。あらゆる国民はみまえに来て崇拝するのです。あなたの義なる定めは明らかにされたからです」― 啓示 15:1-4。
詩篇作者ダビデも,これら神の特質の重要性を同じように評価し,次のように書きました。「エホバはそのすべての道において義にかなっておられ,そのすべてのみ業において忠節です」。(詩篇 145:17,新)最高の裁判官であられるエホバは,ご自分を崇拝し,ご自分に仕える人々の訴えを取り上げてくださるでしょう。その証拠に,ひとりのみ使いはエホバに向かって次のように述べたと伝えられています。「いまおられ,かつておられたかた,忠節なかた,あなたは義にかなっておられます。こうした裁きを下されたからです」― 啓示 16:4,5。
預言者モーセと詩篇作者ダビデが用いた言葉で,今考慮している忠節を表わすヘブライ語には,親切,愛のこもった親切という考えが含まれています。聖書の翻訳者たちはこのヘブライ語(ヘセド)を,「愛ある親切」と訳すことを好みます。わたしたちが忠節を親切であること,見過ごしてはならない特定な事柄を考慮に入れることとみなすとき,それは物事を親切な仕方で見るということを意味します。ですから忠節とは,冷淡なものでも,単なる法や公正に基づいたものでもありません。それは愛と感謝を動機とした個人的な特質です。
ここで思い浮かぶのは,カナンの地のある支配者が,そこに滞在していたアブラハムと共にまことの神がおられるのを見て,アブラハムのもとに来て次のように述べたことです。「ここで,わたしとわたしの子孫また後裔に対して不実なことはしないと,神にかけてわたしに誓ってください。すなわち,わたしがあなたに対し忠節な愛をもって行動してきたように,あなたもわたしに対し,またあなたが外国人として住んできたこの土地に対してそのように行動すると」。(創世記 21:22,23,新)さらに,アブラハムが後日愛する息子イサクに妻をめとらせるため僕のエリエゼルを遣わしたとき,この僕がエホバ神に祈り,こう述べたことも思いだされます。「その者[わたしが述べた女性]をあなたの僕,イサクのためにぜひ選びとらせてくださいますように。そのようにして,わたしの主人に忠節な愛をお示しになったことを,わたしに知らせてくださいますように」― 創世記 24:14,新。
何に対する忠節か
族長アブラハムはカナンの地で,そこの支配者に対して行なうと誓った事柄を実行しました。そしてエホバ神はアブラハムの僕エリエゼルが祈りのうちに願い求めた事柄をかなえ,イサクのためにふさわしい妻をお与えになりました。しかし,至高者であられるエホバ神は何に対して一番忠節なのでしょうか。それはご自分の王国,ご自分の王権に対してです。エホバ神はご自分が創造された全宇宙に対する正当な主権を持っておられます。エホバは現実のご自分を否定することはできません。アブラハムとの不変の契約を守り行なうために,エホバはアブラハムの特定の子孫の上に,つまりイスラエル国民の上に王となられました。神が彼らをエジプトの地の奴隷状態から解放し,西暦前1467年に約束の地に彼らを導き入れた時には特にそう言えます。それから裁き人サムエルの時代までの350年間,エホバは裁き人という形でご自分の見える代表者を彼らにお与えになりました。サムエルの母親ハンナは,シロの聖なる幕屋でサムエルを神の聖なる奉仕に差し出したとき,イスラエル国民を治める将来の見える王を指し示す預言を語り,こう述べました。「エホバが地の果てを裁かれます。その王に力を与え,その油そそがれた者の角を高めるために」― サムエル前 2:10,新。
この裁き人サムエルの時代に,イスラエル人は自分たちに対する支配の仕方を変更するように求めました。イスラエル人は裁き人サムエルに向かって,「どうか,私たちを裁く王をお与えください」と要求しました。これはサムエルだけではなく,エホバ神をも怒らせることでした。神はサムエルにこう言われました。「彼らが[裁き人として]退けたのはあなたではない。彼らは,わたしが彼らの王であることを退けた」。(サムエル前 8:1-7,新)神は彼らが見える人間の王,つまりキシの子サウルを持つことをお許しになりました。それでも神は彼らに対するご自分の主権を放棄なさいませんでした。神はご自分の契約の目的に従い,ご自分の選民に対する目に見えない天的な王権に忠節であられました。彼らの2番めの人間の王は,ユダヤの町ベツレヘムに住むエッサイの子で,以前羊飼いをしていたダビデでした。
ダビデが王権を執っていた時代に,忠節はどのように際立ったものとなりましたか。それは何を表わすものでしたか。そして忠節の問題は今日のわたしたちにどのような影響を及ぼしますか。次の記事はこれらの質問に答えを与えます。
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「わたしたちの主とそのキリストの王国」に対する忠節ものみの塔 1982 | 6月15日
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「わたしたちの主とそのキリストの王国」に対する忠節
『わたしの力,エホバよ,わたしはあなたに愛情を抱きます。忠節な者には,あなたは忠節をもって行動されます』― 詩篇 18:1,25,新。
1 (イ)ダビデはエホバの忠節さに対し,どのような反応を示しましたか。(ロ)ダビデは正に老齢に至るまで,どんな認識を示しましたか。
エホバは忠節のうちに,全イスラエルを治める王座へとダビデを高められました。それは西暦前1070年のことでした。王となったダビデはこの神の愛ある親切に感謝し,終始神を自分の王として,すなわちイスラエルを治める最高の王として認めました。特に,ダビデの遠い子孫に当たるメシアに関連して,神はこのように言われました。「わたしは,わたしの聖なる山シオンに,わたしの王を立てた」。(詩篇 2:6,新)ダビデは真実の天的な支配者を認識し,次のように述べました。『助けを叫び求めるわたしの声に注意を払ってください。わたしの王,わたしの神よ。わたしはあなたに向かって祈るからです。エホバよ,朝にあなたはわたしの声を聞いてくださいます』。(詩篇 5:1-3,新)ダビデはその晩年に王座を息子のソロモンに譲り渡したとき,イスラエルの全会衆の前で神に祈り,こう言いました。「すべてのものの頭として自らを高めておられる方,エホバよ,王国もあなたのものです。富と栄光はあなたによるものです。あなたはすべてのものを支配しておられます」― 歴代志略上 29:11,12,新。
2 (イ)今日わたしたちは,古くからあるどんな論争点を認識すべきですか。(ロ)今わたしたちは,どんな重要な質問に各々答えなければなりませんか。
2 ダビデ王がはるか昔に人々の前で認めたその非常に重要な事実こそ,王ではないわたしたち人間という創造物も,同様に恥じることなく認めなければならない事柄です。エホバ神による全宇宙の支配,つまり主権の行使という問題は,聖書の中で教えられている古くからある論争点です。それはあらゆる国民と民の前で最終的な決着をつけなければならない,神の法的な問題なのです。この終わりの日にこそ,この論争点に対する最終的な決着を,天と地すべての前でつけなければなりません。勝利とみ名の立証がエホバにもたらされ,エホバの宇宙的な主権,その王権が疑問の余地なく証明されます。わたしたちすべての前にある重要な質問は,今,エホバの王国に忠節を保つのはだれかという質問です。わたしたちが今この問題でどんな立場を取るかは,永遠の命を得るか,永遠の滅びを被るかという点に関係してきます。
3 西暦前607年にどんな災厄が生じましたか。しかし,このことはなぜエホバの側の不忠節を表わすものではありませんでしたか。
3 しかし,エホバ神はご自分の王国を西暦前607年の昔にすでに放棄されたのではないでしょうか。こうした質問が生ずるのはなぜですか。その年に,神はネブカデネザルの率いるバビロニア帝国を用いてエルサレムとその神殿を滅ぼさせ,ユダヤ人の王国を覆されたからです。そのユダヤ人の王国は今もって覆されたままです。それは確かですが,それでも神はこの方法でご自分の王権つまり支配を放棄されたわけではありません。事実,王の住む都市エルサレムの滅びを命令されたのは,ほかならぬ神でした。でもこれは,ご自分が選ばれた民を支配する模型的で副次的な王国に対する不忠節な行ないだったのではありません。神は,イスラエルと結ばれた契約の条項,つまり古代のアブラハム契約に付け加えられた契約の条項に従って行動なさったに過ぎません。あの西暦前607年の決定的な年までに,ユダと,イスラエルの残りの者は,大変悪質な契約違犯者となっていました。そのため神は,シナイ山でモーセを仲介者として結んだ律法契約の条項に従って彼らを扱われました。
「法的権利」を持つ王
4 霊感によるエゼキエル書 21章25-27節の言葉は,エホバの忠節さをどのように示していますか。
4 神は,エルサレムのユダ人の最後の王に関し,(すでにバビロンに捕らえ移されていた)預言者エゼキエルに霊感を与え,次のように述べさせました。「そして,致命的な傷を負ったイスラエルの邪悪な長よ,その日が終わりのとがの時に来たあなたについて,主権者なる主エホバはこのように言われた。『ターバンを取り除き,冠を取り外せ。これは同じではなくなるであろう。低いものを高くし,高い者を低くせよ。わたしはそれを破滅,破滅,破滅とする。これについてもまた,それは法的権利を持つ者が来るまで,決してだれのものにもならない。わたしはその者にこれを必ず与える』」― エゼキエル 21:25-27,新。
5 (イ)王国の破滅が一時的なもので終わることになっていたのはなぜですか。(ロ)このことはその600年余りあとに,どのように確証されましたか。
5 これらの言葉から,主なる神エホバは,依然として王国に関する事柄をしっかり管理しておられたことが分かります。地上のその副次的な王国の破滅は,ただ一時的なもので終わるはずでした。ご予定の時に,メシアの王権に関する正当な法的権利を持つ者が到来し,主なる神エホバはその者にその権利をお与えになるのです。その時まで,王権に関する法的権利の行使は待たなければなりません。契約上の権利はダビデの王族が所有していたので,到来すべき方,王権が与えられることになっていた方は,忠実なダビデ王の子孫でなければなりませんでした。ダビデの家系において永遠に続く王国のための契約がダビデと結ばれたのは,ダビデがエホバのとこしえの王権に忠節であったからです。(サムエル後 7:8-16)それから6世紀余りたった西暦前2年に,神から遣わされたひとりのみ使いがダビデ王の子孫である女に現われ,その女が約束されたダビデの後継者の母親になるということを告げました。そのみ使いはさらにこう述べました。「エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」。その方はイエスと呼ばれることになっていました。―ルカ 1:32,33。マタイ 1:18-23。
6 (イ)どのようないきさつを経て,イエスはダビデの王国の正当な相続者となりましたか。(ロ)この王国が地上の王国以上のものになったのはなぜですか。
6 天から遣わされた神の子イエスは,ダビデが生まれた町ベツレヘムで誕生し,神がイエスの先祖ダビデと結ばれた王国契約という約束の生来の相続者となりました。王国に関する権利は,法的にも,血筋の上からいってもイエスのものとなりました。しかしイエスがバプテスマを受け,天の父である神の聖霊によって油そそがれた時,その王国はヤコブ,つまりイスラエルの家を治める地上の政府以上のものとなりました。その際にイエスは,天のみ父の霊によって生み出され,そのようにして自分のために蓄え置かれている天的な命を持つ霊的な神の子となりました。そうした者としてイエスは神の霊によって油そそがれ,メシアとなりました。メシアという称号は油そそがれた者を意味します。―使徒 4:27; 10:38。イザヤ 61:1-3。
7 (イ)イエスにメシアの王国が直ちに与えられなかったのはなぜですか。(ロ)一方,イエスの油そそがれた追随者たちは,どんな王権を認めていましたか。
7 王国は今や天的なものであったため,イエスが地上におられたときにも,また天に昇られた直後にも神は王国をイエスにお与えになりませんでした。イエスが,地上の油そそがれた弟子たちの霊的な会衆を治める王であることは認められていましたが,メシアの王国がイエスに与えられることは,イエスご自身が「異邦人の時」つまり「諸国民の定められた時」と呼ばれた期間が終わるまで待たなければなりませんでした。―コロサイ 1:13。ルカ 21:24,欽定訳と比較してください。
8 (イ)「諸国民の定められた時」とはどんな期間のことですか。その終わりを特色づけるものとして,どんな意義深い出来事がありましたか。(ロ)その「しるし」はどのように強い印象を与えるものになりましたか。どんなことが顕著な特色となってきましたか。
8 この「定められた時」は,バビロニア人によってエルサレムが最初に滅ぼされた西暦前607年にもう始まっていました。その事件のあとに,ユダの地の完全な荒廃が続きました。ダニエルの預言的な本の第4章によると,これらの「時」は7という数であり,合計2,520年に相当します。したがって,その時が西暦前607年の初秋,エルサレムと,ユダおよびベニヤミンの地の完全な荒廃から始まったので,それは西暦1914年の秋に終わるはずでした。意味深いことに第一次世界大戦が1914年の後半にぼっ発しました。このようにして,イエスが「事物の体制の終結」を特色づける「しるし」について述べた預言が成就するようになりました。(マタイ 24,25章。マルコ 13章。ルカ 21章)それ以来,予告された「しるし」は一層明確に,一層強い印象を与えるものになっています。この「しるし」の顕著な特色を成すものを示し,イエスは次のように述べました。「そして,王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」― マタイ 24:14。
9,10 (イ)忠節という論争点に関してどのような時が今や到来しましたか。(ロ)その時不忠節な天的な者たちはどのように取り除かれましたか。また地球にはどのような結果が臨みましたか。
9 そうです,その時,天において栄光を受けた神のみ子にダビデの王国を与える時がようやく到来しました。というのは神の最高の律法に調和し,その王国に関連した「法的権利」を持つ者は,この神のみ子以外にはいなかったからです。その結果,天で戦争が生じることになります。なぜでしょうか。
10 なぜなら,その時メシアの王国が統治を開始し,メシアが新しい政府の反対者すべて,つまりサタン悪魔と悪霊たちの軍勢を天から追い出す時が到来したからです。サタンと悪霊たちは,悪霊の支配下にある事物の体制が存続していた地上に投げ落とされました。このような邪悪なみ使いの勢力は,神の忠節なみ使いたちが住む神の天から永久に締め出されました。これら投げ落とされた反逆的な霊者たちは,千年間底知れぬ深みに入れられて全く活動できなくなる時まで,ずっと地の近くに拘束されているのです。この『天での戦争』とその結果については,啓示 12章の中で預言的に描かれています。悪魔と悪霊たちが天から追い出されたあと,み使いたちの歌う勝利の歌声が響きわたりました。「今や,救いと力とわたしたちの神の王国とそのキリスト[メシア]の権威とが実現した! わたしたちの兄弟を訴える者,日夜彼らをわたしたちの神の前で訴える者は投げ落とされたからである」。(啓示 12:10)このことは地球の住民にとって何を意味するでしょうか。地上の全人類にとって災いが深刻化することを意味します。
忠節な者たちに対する試みの時
11,12 (イ)今や,忠節に関するどんな試みが行なわれますか。(ロ)王国を宣べ伝えることはどのように関係していますか。(ハ)今が収穫の時であるとどうして言えますか。そしてみ使いたちはどのように用いられていると思われますか。
11 この期間については,「地と海には災いが来る。悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだいてあなたがたのところに下ったからである」と述べられており,それは忠節を試みる時となりました。それは滅びに定められた悪魔の事物の体制に忠節を示すか,それとも今や天に立てられた,イエス・キリストの手中にある神の王国に忠節を示すかという試みです。(啓示 12:12)それは,キリストの弟子であると自任するあらゆる人が試され,設立されたその王国にどの程度まで忠節であるかをはっきり示さなければならない時です。彼らは,王国の良いたよりを「あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で」熱心に宣べ伝えるでしょうか。この転換期は,真のクリスチャンを偽りのクリスチャンから分ける収穫の時期にもなぞらえられています。イエスが小麦と雑草(つまり毒麦)の例えの中で預言された通りです。イエスは「収穫は事物の体制の終結であり,刈り手はみ使いたちです」と述べています。(マタイ 13:39)これらのみ使いたちは,詩篇 50篇5節(新)の中で示されている主権者なる主エホバの命令を実行するために用いられていると思われます。そこにはこう書かれています。「わたしの忠節な者たちをわたしのもとに集めよ。犠牲をもってわたしの契約を結ぶ者たち[ヘブライ語: わたしの契約を切る者たち]を」。
12 クリスチャンを自任しながら王国に対する忠節の試みを通過できない者に対して神は,「あなたにはどんな権利があってわたしの定めを並べ立て,わたしの契約を口にするのか」と言われます。―詩篇 50:16,新。
13,14 (イ)詩篇 50篇5,16節の「契約」とは何のことかをどのように確認できますか。(ロ)油そそがれたクリスチャンはどんな二つの契約に「忠節」でなければなりませんか。
13 この詩篇の二つの節(5節と16節)の中で言及されていた「契約」は,一人の人がささげた個人的な犠牲をもって,忠節な者たちが取り交わした個人的なものではありません。むしろそれは国家的な契約です。アラビアのシナイ山でイスラエル国民と結ばれたモーセの律法契約は,預言的に,大いなるモーセ,イエス・キリストを仲介者として霊的なイスラエルの「聖なる国民」と結ばれる新しい契約を表わすために用いられました。(エレミヤ 31:31-34)西暦33年の過ぎ越しの晩に,イエスは主の夕食つまり晩餐を制定され,こう言われました。「この杯は,わたしの血による新しい契約を表わしています。それはあなたがたのために注ぎ出されるものです」。(ルカ 22:20)ですから新しい契約は,イエス・キリストの死に際して流された犠牲の血によって有効となりました。イエスによって新しい契約に入れられるこの「忠節な者たち」は,「王国のための契約」にも入れられます。(ルカ 22:28-30。マタイ 26:29。マルコ 14:25。詩篇 116:15,新)するとどういうことになりますか。
14 『犠牲をもって結ばれる契約』,つまり新しい契約に入れられるクリスチャンは,その契約に忠節であるだけではなく,「王国のための契約」にも忠節でなければなりません。これらの人々は霊的なイスラエル人,つまり「神のイスラエル」です。―ガラテア 6:16。
15 霊的イスラエル人はどんな点で「忠節な者たち」であることを証明しなければなりませんか。
15 この「事物の体制の終結」の時には,まだこのような霊的イスラエル人の残りの者が地上に存在します。特に彼らは,次のイエスの預言に一致して行動する責務があります。それは,「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう」という預言です。(マタイ 24:14)彼らは,「わたしたちの主 [エホバ] とそのキリストの王国」に忠節でありたいと思うなら,この責務から逃れることはできません。(啓示 11:15)政治活動や利己的な商業主義や偽りの宗教などから成るこの滅びに定められた事物の体制の一部となることはできません。油そそがれたクリスチャンたちは,彼らの主人から教えられた次のような祈りを熱心にささげます。「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように。あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においても成されますように」。(マタイ 6:9,10)彼らはこの分裂した事物の体制の政治活動に参加するのではなく,彼らの主人,「王の王また主の主」であられる方が述べた言葉どおりのことを一心に行なわなければなりません。その方は,「それでは,王国と神の義をいつも第一に求めなさい。そうすれば,これらほかのものはみなあなたがたに加えられるのです」と言われました。(啓示 19:16。マタイ 6:33)このようにして初めて,彼らは『犠牲をもってエホバ神と契約を結んだ』霊的イスラエルに属する「聖なる者たち」であることを証明できるのです。その犠牲とは,新しい契約の仲介者となられたイエスの犠牲です。
忠節な「ほかの羊」
16 ここに参照されている聖句は,大勢の他の忠節な人々の級をどのように指し示していますか。
16 今日,それに劣ることのない忠節を示さなければならない人々がいます。それは献身し,バプテスマを受けた人々で,イスラエル人と共にエジプトを出て,シナイ山で律法契約が結ばれた際にそこにいた「入り混じった大集団」によって予表されていた人々の級です。(出エジプト記 12:38,新。民数紀略 11:4)これらの人々は,使徒ヨハネが啓示 7章9-17節で描写している「大群衆」に相当します。彼らは,羊とやぎに関するイエスのたとえ話の中で,王イエス・キリストが統治を始められた西暦1914年以来,王の霊的兄弟たちに善を行なう「羊」としても描写されています。―マタイ 24:3; 25:31-46。
17 (イ)「大群衆」は何の一部ですか。彼らはだれと「一つの群れ」になりますか。(ロ)彼らはどのようにして「必ず自らを祝福する」ことができますか。(創世記 22:15-18,新)
17 このような忠節な者たちは,「ほかの羊」の一部です。それは,イエスの言葉によれば,14万4,000人の「小さな群れ」が入っている「この [アブラハムに関係した] 囲い」のものではありません。それでもこの忠節な者たちの「大群衆」は,天の父の王国のこれら相続者たちの親しい仲間として迎えられることにより,その「囲い」の人々と「一つの群れ」になります。(ヨハネ 10:16。ルカ 12:32)キリストの犠牲をもってエホバ神と結ばれたこの新しい契約に入っている「忠節な者たち」とその「一つの群れ」にとどまるためには,彼らもわたしたちの主なる神エホバとそのキリストの王国に対する忠節を示さなければなりません。
18 (イ)忠節を示す人々に現在与えられる報いとはどんなものですか。(ロ)エホバがわたしたちに示してくださる忠節さに対して感謝をどのように表わすことができますか。
18 忠節を示す人すべてに与えられる現在の報いは大きなものです。古代の王ダビデは,天の王であられるエホバ神への感謝の気持ちから,次のように述べました。『忠節な者に対してあなたは忠節をもって行動されます』。(詩篇 18:25,新。サムエル後 22:26)さらにダビデはこう述べています。「エホバは公正を愛される方であり,ご自分の忠節な者たちを捨てられない」。(詩篇 37:28,新)箴言 2章8節(新)は,『神はその忠節な者たちの道を守ってくださる』と保証しています。そうです,エホバは忠節の極致であられ,キリストはこの特質においてエホバに全く見倣っておられます。キリストを通して示された神の忠節に感謝しながら,わたしたちはこの裁きの日に,エホバと,その最も忠節なみ子イエス・キリストによる,設立された王国に対して揺らぐことのない忠節を示すことができますように。
要約すると,次の場合に忠節さはどのように示されていますか
□ ダビデがエホバを王として認めたこと
□ エホバが不信仰なエルサレムに裁きを執行されたこと
□ 1914年,神がみ子にダビデの王国を与えられたこと
□ メシアである王が天で戦ったこと
□ 今日の油そそがれた残りの者の活動
□ 残りの者に「大群衆」が与えている支持
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