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神のみことばの忠節な擁護者ものみの塔 1970 | 5月15日
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持っていません。あなたも同じ信仰を持っておられますか。
21 (イ)聖書がほんとうに神のことばであるということを信ずる人には,どんな特権と責任がありますか。(ロ)神に喜んでいただくためには,聖書に対する信仰はどれほどのものでなければなりませんか。
21 もしそうなら,あなたには他の人たちを援助する特権と責任があります。聖書を一度も読んだことのない人がいたら,聖書を読むように励ましてください。それが神のことばであることの証拠を討議してみてください。その教えに親しむように助けてください。そうすることがどんなに重要であるかを強調してください。もちろん,その後どうするかは,それらの人が自分で決定しなければならないことです。しかし,なまはんかな信仰では不十分です。神に喜んでいただくためには,真心を尽くさねばなりません。神のみことばの忠節な擁護者でなくてはならないのです。
『忠節をもって神聖な奉仕を行なう』
22 聖書は忠節をどのように,またなぜ強調していますか。
22 聖書自体,忠節さが重要であることを強調しています。それはどうしてですか。なぜなら,それが聖書の著者であられるエホバの著しい特質だからです。心の定まらないイスラエルの民に向かって,エホバはエレミヤを通してこう語られました。「わたしは忠節なものである」。(エレミヤ 3:12,新)また,将来のできごとに関する幻影を見ている際,使徒ヨハネは,神によって天の栄光に高められた者たちが神に向かって次のように歌っているのを聞きました。「全能者なるエホバ神よ,あなたのみわざは偉大であり,驚嘆すべきものです。永遠の王よ,あなたの道は正しく,かつ真実です。エホバよ,だれかあなたをほんとうに恐れないでしょうか。あなたの御名をたたえないでしょうか。あなたこそ忠節なかただからです」。(黙示 15:3,4,新)かれらは,忠節さがエホバに源を発すること,そしてそれがエホバを特徴づけるきわだったものであることを正しく評価しているのです。
23 エホバに対するわたしたちの奉仕は,なぜ「忠節をもって」なされねばなりませんか。そのことは,神のみことばに対するわたしたちの態度について何を意味していますか。
23 このことから,人間の奉仕が神に受け入れられるためには,神の持たれるこの特質がその人の上に表われなければならないことがわかります。バプテスマのヨハネの父ザカリヤは,この点を認識していました。聖霊に満たされた彼は,「御前に〔忠節〕と義とをもておそれなく事へ」たことを神に感謝しました。(ルカ 1:74,75〔新〕)しかし,神のみことばに疑いばかりいだいている人が,どうして神に忠節でありえますか。疑問があるならば,質問をして答えてもらい,提出される証拠を調べ,それから決定を下すことこそ道理にかなっています。しかし,ふたつの意見の間をいつまでも迷う優柔不断な態度は神に喜ばれません。(列王上 18:21)「汝らの中もし知恵のかくる者あらば,とがむることなく,また惜むことなく,すべての人に与ふる神に求むべし,さらば与へられん。ただし疑ふことなく,信仰をもて求むべし。疑ふ者は,風に動かされて翻へる海の波のごときなり。かかる人は,〔エホバ〕より何物をも受くと思ふな。かかる人は二心にしてすべてその歩むところの途定りなし」― ヤコブ 1:5-8〔新〕。
24 (イ)キリスト教世界にはどのように忠節の欠如が表われていますか。(ロ)そういう人々がイエス・キリストの真の追随者となるためには,どんな変化を遂げることが必要ですか。
24 創造者に喜んでいただくためには,創造者の示される道が正しいという自信を持たねばなりません。しかしこの特質は,クリスチャンと自称する人たちの間に著しく欠けているものです。聖書の中で,「終わりの日」に広く見られる顕著な態度の一つとして,テモテ後書 3章(新)に予告されていたのは忠節の欠如でした。配偶者や雇い主に対する忠節の欠如が見られるだけではなく,神に対しても忠節の欠如が見られるのです。そのゆえに,「敬虔の形」だけの崇拝をしている人々は,「その力において偽りな者」となります。(テモテ後 3:1,2,5,新)聖書が神のことばであるという個人的な確信がないため,聖書を真剣に考慮しようとしません。聖書はそのような人の生活を導く力とならず,彼らを動かさないのです。しかし,イエス・キリストに心から従う者となるためには,変化が必要です。エペソ書 4章23,24節(新)で,クリスチャンは次のようにさとされています。「あなたがたの心に働く力によって新たにされ,真の義と忠節にそいつつ,神の御心にしたがって造られた新しい人格を着けるべきである」。あなたはそうなさいましたか。神に対するあなたの忠節はゆるがないものですか。そしてそのことを,神のみことばである聖書に対するあなたの態度に表わしていますか。そうしておられるならば,あなたは神のみことばに信仰を置くよう他の人々を援助して,それらの人の祝福となることができるでしょう。
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エホバとそのみことばに対して忠節を表わすものみの塔 1970 | 5月15日
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エホバとそのみことばに対して忠節を表わす
1 聖書に関して表明される教会員の見解は,なぜしばしば矛盾していますか。なにが原因でそういう状態が見られますか。
今日の物質主義的な世にあって,聖書の信頼性について疑問を発する人がいても少しも珍しいことではありません。聖書が神のことばであることを信じますかと尋ねられると,教会員は即座に,信じますと答えるかもしれません。しかし,そう言う口の先から,聖書にはどうも信じがたい箇所がある,と答える人がよくあります。問題は知識の欠如か,あるいは,懐疑主義者たちの発言に影響されているのかもしれません。しかし,原因はどうであれ,そのような態度は神と神のみことばに対する忠節を示すものとは言えません。
2 聖書の記述に対して多くの僧職者はどんな態度を表明していますか。例をあげなさい。
2 僧職者自身,聖書に不信を表明するものが多くなっています。しばしば攻撃の的になるのは聖書に記録された奇跡です。そして,その中でも,もっとも嘲笑されるものに,イエスの処女による誕生があります。これに関して英国国教会の一牧師はこう語りました。「20世紀の知識人で……イエスが人間の父親の働きを受けず,全くの処女から生まれたことを信じられる者がいるだろうか。処女による誕生を信じない者すべてに対し,英国国教会から去ることを求めたとすれば,教会は深刻な教師不足に陥り,神学校には教授がほとんどいなくなるであろう」。―「ザ・サンデー・エクスプレス」紙,1967年8月6日付。
3 処女による誕生は今日起こっていません。しかし,それはイエスの処女による誕生を否定する納得のゆく論議とは言えません。なぜですか。
3 しかし,神に信仰を持つと唱える人にとって,ユダヤ人の処女マリヤが神の聖霊により妊娠し,イエスを産んだとしるす聖書の記述がなぜ信じがたいのでしょうか。(ルカ 1:30-35。マタイ 1:18-25)処女による誕生が,今日の女性の間に見られないのは確かです。しかし,それだからといって,信じ
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