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  • マラウィのクリスチャンに対する残虐行為
    目ざめよ! 1976 | 2月22日
    • マラウィのクリスチャンに対する残虐行為

      東アフリカの国マラウィでは身を守るすべのない少数者に対する残忍な行為の記録になおあらたな一章が書き加えられています。それは人間性の喪失,全くの非常識,人間的な同情心の無感覚を思わせる記録です。それは人間が同じ人間それも自分と同じ民族であり国民である人に対してこうもなし得るものかを慨嘆させる事実です。当然にそれは正義と公正,そうです,人種,皮膚の色,宗教にかかわりなくすべての人の自由を愛する人だれもの心を深く動かす記録です。

      今日,たとえひとりでも人が過激派によって人質にされる時,事件は広く報道されます。人質が解放されるまで人々は興味をいだいて事件の進展を見守ります。ところがマラウィではエホバの証人である何万人のマラウィ人が1975年9月以来,恐怖の支配下に生きることを強いられています。三年前に彼らはマラウィの恐怖政治を逃れてモザンビクとザンビアに避難しました。今や彼らは戻ることを強制されました。自分の故国で彼らはののしり,暴力行為,あらゆる侮辱の的とされています。彼らはわずかな持ち物を奪われ,家族の生計の手段のないままに放置されています。

      このすべてにおいて彼らは司法機関から何らの救済をも得られないでいます。マラウィ政府の役人すべての中で彼らの訴えを聞いて助ける者はひとりもなく,彼らは殴打,強奪,強姦をほしいままにする凶暴な者たちの攻撃から保護されていません。彼らは自分たちの生まれ育った自分の国で捕らわれの身となっているのです。彼らにとってその国は国境に壁をめぐらした一大刑務所のようになりました。何千人のエホバの証人が投獄されて死んだナチスドイツとあまり変わらない状態が見られることは無視できません。しかもその類似性は今や増し加わっています。マラウィはエホバの証人用の独自の強制収容所を設置しはじめたからです。そして子供やいたいけな幼児からさえも父母を引きさいてしまうという,信じられないほどの事態まで起きています。

      このすべては一体なんのためですか。この人々は国家にとって危険分子 ― 政府の転覆を企てる反逆的な革命分子ですか。その正反対です。彼らが国中で最も穏健かつ勤勉で,法を守る国民であることは否定できない事実です。彼らが度重なる残虐行為と侮辱を受けている理由はひとつ,ただひとつしかありません。それは彼らが政治に関与しないからです。これは聖書とキリスト・イエスの教えを信ずる良心的な信仰のゆえです。キリスト・イエスはその追随者が『世のものではない』と言われました。(ヨハネ 15:17-19)それゆえに,マラウィの支配政党であるマラウィ会議党の党員であることを宣言したカードを購入することは彼らの良心が許さないのです。この理由で彼らは,ふつう,人間が動物に対してさえしないような仕打ちを受けています。

      ‘つまらない事だ’と,ある人々は考えたがるかもしれません。‘カードを買って面倒を避けたらよいではないか’。それが安易な道であることは間違いないでしょう。もしこれが何かの税金の支払いあるいは(多くの国でエホバの証人がそれぞれの国の法律に従ってその代金を支払い,携行しているような)身分証明書すなわちセドュラに対する支払いであれば,彼らにとって何の異存もないでしょう。しかしここで問題はクリスチャンとしての彼らの信仰と立場の核心にふれるものなのです。キリスト・イエスはローマ総督ポンテオ・ピラトに向かってこう告げられました,「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは……戦ったことでしょう」。(ヨハネ 18:36)エホバの証人がこの世の政党に加わり始めるならば,彼らの信じ,擁護すると唱える事柄を公然と否定することになるでしょう。彼らは苦しみに遭うことを少しも望んではいませんが,神とみ子に不従順になるよりはこの事あるいは死そのものをさえ甘受するでしょう。

      西暦初めごろの世紀のクリスチャンもこのように考えていました。歴史の本を読むとわかるように,ローマの役人たちは,たとえ祭壇の上に供物としてひとつまみの香をたくような小さい行為であっても,それをさせることによって初期クリスチャンに皇帝の“守護神”を崇拝させようと試みました。死の場所である闘技場に引き出されたクリスチャンについて,ある歴史の本には次のことが記されています。「彼らの便宜をはかって闘技場には火を燃やした祭壇がたいてい設けられていたにもかかわらず,信仰を撤回したクリスチャンはほとんどいなかった。囚人は炎の上にひとつまみの香をばらまきさえすればよかったのである。そうすれば捧げ物をしたという証明書を与えられて釈放された。……それでも逃れる機会を利用したクリスチャンはまずいなかった」― ダニエル・P・マニックス著「まさに死なんとする人々」,135,137ページ。

      考えてごらんなさい。政党のカードを買って持ち歩くことと ― これなら犯罪者でも,たとえ国賊でもすることができ,またするでしょう ―,国の法律に従って生活し,勤勉で穏健,礼儀正しく,自分のように隣人を愛する人になることと,一体どちらが良い市民であることのいっそうの証拠ですか。マラウィの役人でさえ,政治的なカードの所持を良い市民の証しとして重大視することの愚かしさを悟っているに違いありません。さもなければ,これが問題点であることをしばしば否定したり,あるいはだれもこのようなカードを買うことを実際に人に強制していないと主張したりはしないでしょう。

      しかし事実は全く明白です。そしてこれらの事実はひどいものであり,ショッキングであり,胸を悪くさせるものです。過去十年間そして今に至るまでエホバの証人がマラウィで耐え忍ばねばならなかった事柄をいま簡単に考慮してみてください。

  • 悪の分子はマラウィの憲法を空文化する
    目ざめよ! 1976 | 2月22日
    • 悪の分子はマラウィの憲法を空文化する

      1966年に採択されたマラウィ共和国の憲法はその第一章に次の事を定めています。

      「(iii)マラウィの政府および国民は国際連合の人権宣言に盛られた個人の自由の尊厳ならびに国際法を遵守すべきことを,引き続き認めるものとする」。

      その尊厳がうたわれている,これら個人の自由にはどんなものがありますか。つづく条文には次のことが記されています。

      「(iv)公正な補償の支払いなしに,且つ公共の利益のために必要とされるのでなければ,何人も財産を奪われることがあってはならない。

      「(v)皮膚の色,人種,信条にかかわりなく,すべての人は平等の権利と自由を享受しなければならない」。

      しかし憲法の採択とほとんど同時に,そしてその時以来,国内の犯罪的な分子はこれらの条項を無意味なものにしてきました。

      現行のこの憲法が起草される以前でさえ,マラウィでは1964年にエホバの証人に対する暴徒行為が続発しています。合計1,081戸に上るエホバの証人の家および王国会館と呼ばれる彼らの集会所百か所以上が焼き打ちにされたり,破壊されたりしました。彼らの畑は何百か所も荒らされ,彼らは必要な食物を奪われました。しかし少なくとも1964年にはいくらかでも法律に頼ることができました。

      当時なお正義が行なわれていたことは,エホバの証人であるマラウィ人エルトン・ムワシャンデの殺害に加わった八人が起訴され,有罪になったのを見てもわかります。この証人が加害者の行為を誘発したという主張あるいはマラウィのエホバの証人が国民の義務を果たすことに怠慢であるとの非難に反論して,代理判事L・M・E・エメジュール裁判官は当時,次のように述べました。

      「挑発の証拠は認められない。エホバの証人が断固としてその信仰をひろめ,改宗者を得ることに努めていたのは事実であるが,彼らは公民の義務を果たすことにも活発であった。また地域の発展をも含めて,求められる事をすべて行なった。彼らはどの政党にも加わることを拒絶しただけである。……彼らの宗教を受け入れるように彼らがだれかを強制した,あるいは強制しようとした証拠はない。証拠は彼らがそうしなかったことを示している。彼らがいずれかの政党に属しても,あるいは属さなくても,それは憲法に保証された彼らの権利である。挑発の証拠は見いだされていない」。

      消え去った公正

      これは1964年のことでした。しかし1967年以来,身を守るすべのないこの少数者に関しては,公正らしきものの片りんさえもとどめられていません。

      すべての人は平等の権利と自由を保証されるという憲法の条項にもかかわらず,1967年10月23日,マラウィのタイムズ紙に発表されたごとく,政府はエホバの証人を“非合法団体”として正式に禁令下におきました。これが口火となって,エホバの証人に対する迫害が全国的に起きました。当時エホバの証人の数はおよそ1万8,000人でした。ふたたび彼らの粗末な家は略奪され,焼き打ちにされたのです。マラウィ中央部の都市リロングウェではわずか三晩のうちに170軒の家が焼かれました。その合計は1,095軒に達し,115の王国会館が破壊されました。何千人のエホバの証人が欧打され,また投獄されました。ほかに何千人が国境を越えて隣国のザンビアとモザンビクに一時的に避難しました。

      そして‘法と秩序’の源,マラウィ国民すべての権利の‘公の保護者’であるはずの政府は何をしていましたか。この犯罪行為のすべてをなんら非としなかったのです! とはいえ,暴力行為のあまりの拡大を見てさすがの政府も残忍な迫害の手をゆるめるよう党員に呼びかけました。その後しばらくはある程度の平和と平穏が行き渡り,国外に難を避けていた人々も戻って来ました。同国人であるマラウィの人々に神の王国の福音を伝える彼らのわざは続けられ,禁令下にあって公に活動することはできなかったにしても,彼らのわざは繁栄しました。

      およそ二年後の1969年10月6日,マラウィ大統領H・カムズ・バンダ博士は,国民のだれも政治的なカードを買うことを強制されるべきではないと公に言明しました。このことばは無意味なものではなくて効力を持ち,尊重されることがその後示されるでしょうか。それともその後の出来事によってこの声明はやはり無意味なものに化するでしょうか。

      暴力の第三波が引き起こされる

      1972年にその答えが与えられました。マラウィ会議党の年次大会でひとつの決議が採択されました。それはエホバの証人が‘マラウィの政治的,経済的発展を妨げた’という偽りの主張を掲げ,以下に見るとおり,ほとんど信じられないような事柄を言明しています。

      「(b)これら狂信的な宗派のメンバーで商工業に雇用されている者はすべて直ちに解雇され,この決議に従わない商業あるいは工業の企業は免許を停止されるべきことを決議する。

      「(c)これら狂信的な宗派のメンバーで政府に雇用されている者はすべて直ちに解雇されるべきこと,またこれら宗派のメンバーのうち,商業あるいは農業を自営している者はその商業あるいは農業活動をやめるように仕向けられることを決議する。

      「(d)これら宗派のメンバーで村に居住する者はすべて村から追放されるべきことを決議し,これら宗派の信者を扱う党員には可能なかぎり最大限の保護が与えられるよう政府に訴える」。

      エホバの証人を人間社会から追放することを求めて多くのことばを費やした残酷で扇動的なこの決議はどんな結果を生みましたか。ほとんど同時に暴動の空気が全国的にかきたてられました。その年(1972年)の7月以降,党の戦闘的な青年同盟とその青年開拓者運動はエホバの証人に対する事実上の戦争において先鋒となりました。

      残虐行為のかぎりをつくした党員たちはだれをも,老人や妊娠中の婦人さえも容赦しませんでした。若い婦人は何度も暴行され,男は意識を失うまで殴打されました。自分の宗教上の信念と良心を否定して党員カードを買うことをこれらの人々に強制するため,15㌢の釘を男の足に打ち込んで無理やりに歩かせるといった残虐行為が行なわれました。病んだ精神の持ち主でなければこのような事を考え出すことはできません。この度は破壊された家が何千戸に上りました。マラウィ会議党の決議どおり,証人たちは村や畑から森林また奥地へと追いやられました。彼らの家畜は盗まれたり,殺されたりしました。a

      このすべてにおいて,これら犯罪行為に加わった者のうち,逮捕されたり起訴されたりした者はひとりもいません! 憲法のうたい文句はこれによってなんと空しく響くことでしょう! 人々は党員カードを買うことを強制されないという大統領の約束は無価値なもの,尊重されることも守られることもない無力な空しいことばと化しました。青年同盟のメンバーは「我々が警察である」と,よく自慢しました。このような青年同盟のメンバーの行動は,国の憲法と,「皮膚の色,人種,信条にかかわりなく,すべての人」に自由を認めた憲法の条文につばきするものです。

      エホバの証人は大挙してマラウィから脱出するに至りました。時たつうちに(子供を含めて)およそ3万6,000人が隣国モザンビクにある十の別々の難民収容所に住むようになったのです。そこで彼らは幾らかの土地を与えられて耕作し,生き延びるように助けられました。これら難民収容所の中に彼らは幾つもの王国会館を建設し,そこで神のことばの研究を続けました。彼らは事実上,無一物になりましたが,信仰を失うことはありませんでした。

      迫害者の手中に追い返される

      ところが1975年になって反ポルトガル革命の成功の結果,モザンビクはポルトガルの植民地から独立国に移行する過渡期を迎えました。一部の急進的な政治分子はこの機会を用い,難民収容所のマラウィ人の証人に対する敵対感情をかき立て,また彼らも「フレリモ(モザンビクの主要な政党の名前)万歳」などの政治的なスローガンを叫ぶことに加わるべきであると主張しました。政治的な事柄に関係することを拒絶したため,証人たちはモザンビクの難民収容所から強制的に退去させられる結果になりました。彼らは国境を越えてマラウィに戻ることを余儀なくされたのです。

      戻って来た難民をマラウィ国境に待ち受けていたマラウィ中部地方相クムウェザ・バンダ氏は彼らに次のように告げました。「おまえたちは自発的にマラウィを去り,今また自発的に戻って来た。村へ帰り,党の議長および党の他の役員と協力せよ」。マラウィ青年同盟のメンバーのことを指して同氏はこうつけ加えました,「わが青年たちはおまえたちが党に協力するのを見届けるため,待機している」。

      難民たちにとって事態が改善される希望はこれでほとんどなくなりました。彼らの多くは自分の村に帰るバス賃さえも持たずに戻って来たのです。大ぜいの者は子供連れで160㌔以上歩き,480㌔以上歩いた一グループの婦人たちの足は,帰り着いた時にはすっかり腫れていました。彼らを待ち受けていたものは何でしたか。

      彼らの帰国が始まって間もなく後の1975年8月27日,ヌコタユタにあるマラウィ会議党本部の地方部長は次のような文面(シンヤンジャ語から訳したもの)の回状を出しました。その最初のことばは,エホバの証人が自発的に帰国しているというクムウェザ・バンダ氏の主張とは全く違っています。

      「リロングウェの党中部地方事務所より受け取った知らせをお伝えします。その知らせによると,禁止された‘エホバの証人’の教会の人々は,彼らが逃れたモザンビクの土地を追われました。この人々は今,自分たちの家に戻りつつあります。

      「我々は次の事を明確にしたいと思います。この人々が彼らの家に着いたならば,あなたがた地区および支部のリーダーは村の酋長と共に次の事を確かに行なわねばなりません。すなわちこの人々が各自,党カードを買うのを見届けてください。知ってのとおり,あなたがたの村々ですべての人がマラウィ会議党カードを買うのは極めて肝要なことです。これはマラウィの国を発展させたことに対して,我々の生涯の指導者ヌグワジ[バンダ博士]に我々国民が感謝を表わすひとつの方法です。

      「党活動におけるあなたがたの同志,

      「[署名]P・カムスリ チルワ

      地方部長」

      今や暴力行為が再び始まり,非常な激しさを加えたため,4,000人以上の帰国難民は再びマラウィ国境を越え,避難所を求めてこの度はザンビアのシンダ・ミセイルに逃れました。しかし10月までにザンビア政府は彼らを強制的に退去させ,マラウィに送り返しました。そこでは他の何千人の証人が残酷な仕打ちに遭っていたのです。

      マラウィでエホバの証人は実際にどんな仕打ちに耐えていますか。情況は伝えられるとおり,まさに悲劇的なものですか。マラウィ国内から報告された実状をごらんください。

      「兄弟たち,そのゆえにわたしたちは,あらゆる窮乏と患難にありながらも,あなたがたに関し,あなたがたの示す忠実さのゆえに慰められているのです。なぜなら今,あなたがたが主にあってしっかり立っているのであれば,わたしたちは生きるからです。わたしたちの神のみまえにあってあなたがたのゆえに喜ぶその喜びすべてに対し,わたしたちはあなたがたに関するどんな感謝のことばを神にささげることができるでしょうか。しかし,それとともにわたしたちは,あなたがたの顔を見,あなたがたの信仰について欠けたところを補いたいと,夜昼ひとかたならぬ祈願をささげてもいるのです」― テサロニケ第一 3:7-10。

      [脚注]

      a こうした行為が行なわれた場所および行なった人々の名前を掲げた,実証された証拠については,1973年2月22日号の「目ざめよ!」誌,9-29ページをご覧ください。

  • 獣的な行動の記録 いつになったら終わるか
    目ざめよ! 1976 | 2月22日
    • 獣的な行動の記録 いつになったら終わるか

      モザンビクにある難民収容所を追い出された幾千人ものエホバの証人は,自分たちの郷里の村に戻るため,マラウィの北部や中部の主要道路に集まって来ました。彼らの多くにとって,それは厳しい試練に至る道でした。

      40人のエホバの証人の男女から成る一グループは,マラウィ北部にある自分たちの家に帰る途中,ムジンバの市の立つ広場に着きました。人々は,疲れ果てた旅人たちを嘲笑するために集まり,その後,マラウィ青年同盟の会員たちが襲って来ました。その証人たちは,午前八時半から午後二時まで容赦なく殴打されました。その場に居合わせた警察官は,ただそれを傍観するだけでした。殴打された人の中には,80歳を超えた老人もいました。まだ100㌔以上も歩かねばならないのに,食糧はなく,わずかな所持金も,青年同盟の会員に取り上げられてしまったのです。

      郷里の村に着くと,ひとまず自分の家に住むことを許された証人たちもいました。しかし大抵の場合,ほどなくしてやって来た,青年同盟の会員から同党の党員カードを買うよう求められました。それを拒むと,ありとあらゆる虐待が加えられました。幾つかの例について考慮してください。

      中部地方ソソラ村,1975年8月26日。地元選出の国会議員エルソン・ムルジ氏と地元の党委員長スチュアート・マエレを含む一群の男女が,エホバの証人の家々を取り囲み,党員カードを買う用意があるかどうかを尋ねました。証人たちがそれには応じられないと答えると,党員たちはその家を荒し回り,次のように言って証人たちを村から追い出しました。「ここから出て行け。カードのない国にでも行ってしまえ」。

      カソンジョラ地方,1975年9月4,5日。マラウィ会議党の青年たちは,ヌサンベ,カンピニ,タンガ,ムバラメ・アイ,ムブジヤムワナそしてムセレラの各村にある証人たちの家に行き,党員カードを買うよう要求しました。証人たちがそれを拒むと,党員たちは家に押し入り,金銭,自転車,腕時計,皿,茶わん,その他の家財道具など,所有物すべてを奪い取りました。兄弟たちはひどく殴打され,そのために一時間半も意識を失っていた人もいました。青年同盟(その議長はモザンギウィラと呼ばれる)の会員たちは,二か所で,家の中にあったトウモロコシの粉の上に放尿し,食べられないようにしてしまいました。証人たちの一人が警察に行き,襲撃されたことを通報して帰って来ると,その証人は再び殴打されました。

      中部地方マカンバレ村。エホバの証人の男女五人は,裸にされ,殴打され,その上10㌔余りも追い掛け回されました。その責任を問われるべき人々は,マンゴチ地区選出の国会議員アビダビル氏,および青年同盟と青年開拓者の会員です。

      マゾンダ,ムソおよびミンゴラ,1975年9月2,3日。20人以上のエホバの証人の男女は,ヌシュー地域から来たマラウィ会議党の党員たちによって襲われ,容赦なく殴打されました。一人の証人は,殴打されたために二時間も意識を失いました。襲った者たちは,男女双方の傷口にかゆみ豆をすり込みました。1975年9月4日。青年開拓者の隊員マドゥカとサモラに率いられた一群の若者は,ベニ・チャウヤ村の証人たちを襲いました。証人たちは,男女共に,意識を失うまで殴打されました。

      リロングウェ地区リンガジ,1975年9月29日。マラウィ会議党の幹部および青年同盟の会員から成る群衆は,午前六時に,14人のエホバの証人男女を,ツォカ村にある党支部に連行しました。そこで証人たちは,容赦なく殴打されました。襲った者たちは,すでに口と耳から血を流している一人の証人の衣服をはぎ取り,その人を後ろ手に縛り,頭髪と目に泥をすり込みました。この件に関して責任を問われるべき人々は,地区議長ヌガンベ,副議長スヤワ,および青年同盟支部長ムチェゾと副支部長ムチェンガです。

      目に余る性的暴行

      聞くに忍びない性的暴行を伝える報告は少なくありません。中には,次のようなものもあります。

      北部マラウィ,ムポネラ地区。その村の村長クウィンダングウォ氏は,証人たちをムポネラ警察署に連れて行きました。彼らは,食事を与えられずに五日間拘留され,その後,主要な地区であるドワの警察署あての手紙を渡されました。ドワ警察署に着くと,責任の立場にある警官は,証人たちをマラウィ会議党の地区事務所に連行しました。そこには,すでに他の証人たちもおり,全員,容赦なく殴打されました。襲い掛かる前に,ドワ地区のマラウィ会議党の議長カムテパ氏はこう叫びました。「今すぐ,我々がお前たちを殴る前に,イエス・キリストに来てもらい,我々がお前たちを殴るのをやめさせてみろ」。それから,同議長と青年同盟の側近者たちは,男女の別なく証人たちを殴打し始めました。そして,証人たちの衣服をすべてはぎ取り,かゆみ豆aのさやの毛とこしょうを混ぜたものを,裸体の至る所にすり込みました。さらに,この同じ混ぜ物を男女の生殖器にもすり込み,女性の上に男性を押し付け,無理やりに性の不道徳を犯させようとしました。その間,証人たちは絶え間なく殴打されました。しかし,こうした拷問を受けても,証人たちは一人も屈服しませんでした。

      リロングウェの南方にあるブンダ,ヌヤンガおよびファタの各村,9月4日から9日。その一人の名をジークというマラウィ会議党の地方議長たちに率いられた暴徒は,証人たちすべてを家から追い出し,衣服をはぎ取り,殴打しました。百人以上の人々から成る襲撃者たちの一群は,証人たちに危害を加えるための武器を一式持っていました。彼らは,エホバの証人の男性を説得して,証人の女性と性の不道徳を犯させようとしました。ブンダから来た群衆も警察へ案内され,一緒になって証人たちを殴打しました。警察は証人たちにこう告げました。「政府は我々のものだ。神がいるものなら,お前たちは神のところに行って,助けを求めるがいい」。他の残虐行為が警察に通報されると,次のような答えが返ってきました。「神に訴えて,神に助けてもらえ。もし神が助けないなら,お前たちは今年で終わりだ」。

      確かにこうした言葉は,ドイツのサディスト的なナチ政権の時代よりもさらに昔,イエス・キリストが政府に対する扇動のかどで偽りの訴えを受け,杭にくぎ付けにされた一世紀の事を思い起こさせます。ご自分の聖書を開いて,イエスがどのような扱いを受けたかをお読みください。ユダヤ人の祭司長や書士や長老たちは,「彼を嘲弄」して,こう言いました。「ほかの者は救ったが,自分は救えないのだ! 彼はイスラエルの王だ。だったら今,苦しみの杭から下りて来てもらおうではないか。そうしたらわれわれは彼を信じよう。彼は神に頼ったのだ。神が彼を必要とされるのなら,いま神に救い出してもらうがよい。『わたしは神の子だ』と言ったのだから」― マタイ 27:41-43。

      今日,それとほとんど同様のあざけりの言葉が,マラウィのエホバの証人に浴びせられています。彼らも,「わたしの王国はこの世のものではありません」とポンテオ・ピラトに告げた,み子イエス・キリストに倣って,神に対する忠節を守り続けたからです。―ヨハネ 18:36。

      リロングウェの北西にあるカンチェンチェ,1975年8月31日。青年同盟の会員がエホバの証人を襲い,男性を殴り倒してその首を踏みつけ,女性も裸にして殴り,その陰毛をたいまつの火で焼きました。土地の女たちも一緒になって証人たちを殴打しました。エホバの証人の既婚の婦人五人が強姦され,17歳の一少女は,三人の男に犯されました。この迫害を指揮したのは,ランドゥ村のマラウィ会議党地区議長ヨワセ・カプルラ,タンダザ村のビリヤティの息子カンジャエ,チロンバ村のマガディの息子アセディ・チャベシ,ムサンダ村のベナラ・ムツクワなどです。

      リロングウェ地区チマソングウェ村,1975年9月7日。大勢のエホバの証人は,マラウィ会議党の地区支部に連行され,そこで襲い掛かった者たちの手で男女とも裸にされました。それから彼らは,証人たちを二人ずつ一緒に縛り付け,性関係によって,むりやりに姦淫を犯させようとしたのです。一人の60歳になるエホバの証人は,証人の少女と一緒にそのように縛られ,別の青年は自分の妹と一緒に縛られ,月経中の女性も男性のエホバの証人と一緒に縛られました。土地の青年同盟の議長チプクプクは,たいまつを取って,男性のエホバの証人十人の陰毛,胸毛,わき毛などを焼きました。地元のマラウィ婦人同盟の会員にせき立てられたそれら襲い掛かった者たちは,一人のエホバの証人の女性を裸にし,その人の脚や腹の上を跳びはね,その間,彼女が気を失うまでリュウゼツランの葉でむち打ちました。月経中のある婦人は,口や鼻から血が出るまで殴打されました。

      リロングウェ市内チリンデ,9月8日。青年同盟の会員は,夜間,証人たちを容赦なく殴打しました。四人の男に輪姦された婦人や自宅に監禁されて三人の男に犯された婦人もいます。証人たちがこうした事件を警察に通報しても,返ってくる答えはこうでした。「お前たちの神に訴えろ。お前たちが物を奪われているのは神のせいだ。神は死んでいて,目が見えないのか」。

      リロングウェの北方にあるランバジ,9月24日。難民となっていた証人たちは自分の家に戻り,村長は彼らが村に入るのを許しました。ところがその晩,マラウィ会議党地区議長と青年同盟の一群がやって来て,証人たちをドワの党事務所に連行しました。襲った者たちは彼らを殴打し,そして男性の証人二人を選んでその生殖器をひもで結び付けました。それから二人の生殖器を打ちたたき,一方が打たれまいとして逃げようとすれば,他方を傷つけるようにしました。また,別の証人たちの生殖器には重いれんがが結び付けられ,それを下げたまま歩かせました。この件で責任を問われるべき人の一人は,ルンバジから来たチルンジェという名の男です。こうした残虐行為が警察に通報されても,返ってくる答えはこうでした。「お前たちが殺されたとしても,何の助けも与えられない」。

      ゾンバの西方にあるチンダンバ村,10月2日。ゾンバ警察は,15人のエホバの証人を逮捕し,拷問にかけました。食物を与えないで,容赦なく殴打しただけでなく,拷問を行なった人々は,党員カードを買わせようとして,木のはさみを使って男女の生殖器を傷つけました。

      さらに別の報告は,若い党員がエホバの証人の婦人の局部に棒を突き刺したことを伝えています。確かにこのすべては,悲劇的であるだけでなく,吐き気を起こさせるようなものです。ところが,これがすべてではないのです。

      仮収容所に追い集められる

      マラウィ政府は,昨年十月の初めに,すべての警察署にあてた同文通ちょうを発しました。それは,犯罪的な攻撃をやめさせて法と秩序を回復させるためのものではなく,エホバの証人を逮捕して,ドザレカ,カンジェザ,そしてマラクなどにあるような仮収容所に入れるようにという内容のものでした。ある地方で,その仮収容所は大きなものですが,所によっては,警察署周辺を有刺鉄線で囲っただけのものもありました。

      しかし,エホバの証人にとって最悪の事態となったのは,その命令が大人だけを収容所に入れるよう指示していた点です。これは,親が,乳児も含め,自分の子供から引き離されることを意味していました。政府の命令は,エホバの証人を他国に逃亡させないことを意図しているようです。引き離しておけば,子供を連れて行けないからです。あるいは,証人たちの母親に悲痛な思いをさせ,クリスチャン良心に反して政党に加わらせるためかもしれません。エホバの証人の会衆全体が,今や逮捕され,そうした仮収容所に入れられた場合もありました。ナチ・ドイツでのエホバの証人の経験が,今度はアフリカで繰り返されているのです。

      このようにマラウィのエホバの証人は,暴行に対する公正な裁きや保護を,どんな政府機関にも求められない状態に置かれています。襲撃をした者たちではなく,襲撃されたエホバの証人の方が逮捕されているのです。警察に保護を求めると,次のような言葉が幾度となく返ってきました。「お前たちのように党と協力しない者のため,時間をむだにすることはできない。ひどい目に遭ったとしても,我々のところに通報に来るだけむだだ。我々はお前たちを助けるためにここにいるのではない。党員カードを提示しない限り,我々はお前たちを助けることはしない。死者が出た場合にのみ通報に来るがよい,そうしたら書類だけは作成してやろう」。

      マラウィのエホバの証人にとって唯一の安全な場所は,獣のような人間ではなく,文字通りの動物の住む奥地や森林の中である,というような地区もあります。リロングウェ地区からは,マラウィとモザンビクの国境にあるドザランヤマ森林に逃げ込んだ,エホバの証人の十五の会衆の一覧表が寄せられています。他の多くの会衆には,家を失ったため,あるいは夜間の襲撃を避けるために,昼は町で過ごし,夜は奥地で睡眠を取る成員もいます。

      いつになったらこの残虐行為は終わるか

      こうした残虐な迫害に見舞われても,マラウィおよび全世界のエホバの証人が,クリスチャンの原則を堅く守る決意や自らの信仰を揺るがされることはありません。エホバの証人は,一世紀当時のクリスチャンが同様の迫害を受けた時に与えられた,使徒ペテロの言葉を思い起こします。当時クリスチャンは,『世のものではなく』,キリスト・イエスによる神の王国に対する全き忠節を保つがゆえに迫害されました。使徒ペテロは,そうした人々にあてて次のように書きました。「愛する者たちよ,あなたがたの間の燃えさかる火は,試練としてあなたがたに起きているのであり,何か異常なことが身に降りかかっているかのように当惑してはなりません。かえって,キリストの苦しみにあずかる者となっていることを喜びとしてゆきなさい」。―ヨハネ 17:16。ペテロ第一 4:12,13。

      しかしこの言葉は,無実な人々にそうした迫害を加えている人々に帰せられる重大な責任を,いささかも軽減するものではありません。エホバ神は,敵対する世界にご自分の裁きを執行する時に,ご自分を信頼して厳しい試練の下で忠実を保つ人すべてに,解放と救出をもたらすことを約束しておられます。その時から先いつまでも,自らを守るすべのない人々に対して残虐で残忍かつ不当な行為がなされるような情景が,この地を汚すことは決してありません。そうなれば,世界的な規模で,「温順な者たちが地を所有し,また,平和の豊かさに無上の喜びをほんとうに見いだす」でしょう。―詩 37:11,新。

      しかし,それ以前にマラウィにおける残虐行為をやめさせることができますか。できます。当局者がマラウィの憲法を尊重しさえすれば,今すぐにでも,こうした許し難い残虐行為をやめさせることができるのです。マラウィの官憲は,自分たちの党の者であるとはいえ,犯罪分子がマラウィの憲法を侮り,世界中の人々の前に自国の恥をさらすがままにさせておかねばならないのでしょうか。

      マラウィの当局者たちの中に,ガマリエルの知恵と勇気を持つ者は一人もいないのですか。もしいるのなら,今こそ,そのような度量を持つ人が,逮捕されたクリスチャンの使徒たちに関してガマリエルと同じように,同僚たちに次のように諭すべき時です。「諸君に申し上げる。あの人たちから手を引いて,そのなすままにしておきなさい。その企てや,しわざが,人間から出たものなら,自滅するだろう。しかし,もし神から出たものなら,あの人たちを滅ぼすことはできまい。まかり違えば,諸君は神を敵にまわすことになるかも知れない」― 使徒 5:38,39,口。

      確かに,現在マラウィで迫害を受けている人々は,神と義に信仰を持つすべての人々の真剣な祈りに含められるに値します。(使徒 12:5と比較。)それに加えて,これら無実な人の苦しみを心から気遣っておられるなら,自国にあるマウラィ政府代表部か,この記事にある一覧表に住所氏名が記されているマラウィ政府当局者に今すぐ手紙を書いてはいかがですか。その国で行なわれている残虐行為に終止符を打つために,できる限りのことを行なうようそうした人々に求めてください。

      [脚注]

      a “かゆみ豆”は,シンヤンジャ語で,チテゼと呼ばれています。スコットとヘザーウィクのシンヤンジャ語辞典はこう述べています。「S字形をした,豆の一種。さやはビロード状の茶色で,熟して落ち,その毛が膚に触れると,極度のかゆみを催す。その毛が首筋に付いたりすると,奇妙な衝撃を感じ,気も狂わんばかりになる」。

      [11ページの囲み記事]

      手紙を書くべき,政府高官の住所氏名

      His Excellency the Life President of Malawi

      Ngwazi Dr. H. Kamuzu Banda

      Central Government Offices

      Private Bag 301

      Capital City

      LILONGWE 3

      Malawi, Central Africa

      The Honourable R. A. Banda, S.C., M.P.

      Minister of Justice and Attorney General and Minister of Local Government

      Private Bag 333

      LILONGWE

      Malawi, Central Africa

      The Honourable P. L. Makhumula Nkhoma, M.P.

      Minister of Health

      P.O. Box 351

      BLANTYRE

      Malawi, Central Africa

      The Honourable D. Kainja Nthara, M.P.

      Minister of Community Development and Social Welfare

      P.O. Box 5700

      LIMBE

      Malawi, Central Africa

      The Honourable R. T. C. Munyenyembe, M.P.

      Minister of Education

      Private Bag 328

      Capital City

      LILONGWE 3

      Malawi, Central Africa

      The Honourable N. P. W. Khonje, M.P.

      Speaker of the Parliament of Malawi

      P.O. Box 80

      ZOMBA

      Malawi, Central Africa

      The Honourable D. T. Matenje, M.P.

      Minister of Finance, Trade, Industry and Tourism

      P.O. Box 30049

      Capital City

      LILONGWE 3

      Malawi, Central Africa

      The Honourable R. B. Chidzanja Nkhoma, M.P.

      Minister of Organization of African Unity Affairs

      P.O. Box 211

      LILONGWE

      Malawi, Central Africa

      The Honourable A. A. Muwalo Nqumayo, M.P.

      Minister of State in the President's Office

      P.O. Box 5250

      LIMBE

      Malawi, Central Africa

      Mr. Aleke K. Banda

      Deputy Chairman/Managing Director

      Press (Holdings) Limited

      P.O. Box 1227

      BLANTYRE

      Malawi, Central Africa

      Mr. Richard Katengeza

      P.O. Box 5144

      LIMBE

      Malawi, Central Africa

  • わたしは市長でした
    目ざめよ! 1976 | 2月22日
    • わたしは市長でした

      健全な道徳的信念を備えた家庭で育てられたのは,わたしにとって幸せなことでした。当然のこととして,正直さ,誠実さそして真実を語ることなどを教えられました。こうした特質は,後日わたしが迫られた重大な決定に大きな影響を及ぼすものとなりました。

      わたしは,世の中の政治および社会的な発展に人は積極的に寄与すべきである,つまり,人は自分の生きている歴史的瞬間の欠くことのできない要素とならねばならないと考え,カトリック行動運動から政治活動に入りました。

      こうして,わたしは1970年の地方選挙で市議会議員に選ばれ,さらに市議会によって市長の職務に就くよう選任されました。それはイタリアのカンパーニャ・モンフェラト(アレッサンドリア)市のことです。その新たな職務に就いたわたしは,自分が,特に納税者としての一般市民と官僚主義の対立する政治の場に,投げ込まれたことを知りました。

      政治家が権力の座にとどまろうと自分の利益のために活動するので,腐敗が社会のあらゆる階層に及んでいることが,やがてわたしの目に明らかになりました。ですから,下される決定も極めて

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