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マラウィにおける虐待行為は抑制されることなく続く目ざめよ! 1976 | 6月8日
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マラウィにおける虐待行為は抑制されることなく続く
世界中の人々は,1975年の末,東アフリカの国マラウィで,クリスチャン ― エホバの証人 ― に対して行なわれた大掛かりな残虐行為について聞き,衝撃を受けました。強姦,殴打,男女を問わずに加えられる拷問などの暴虐に対する,嫌悪感が各地で表明されました。
こうした虐待行為は過ぎ去りましたか。マラウィの憲法が保証している自由を宗教上の少数者から奪う行為を終わらせるため,官憲当局は事態に介入しましたか。同国の高官は,政治上の大義を推し進めるための蛮行を非とする声明を発しましたか。
否,というのがその答えです。
1976年の1月中旬,マラウィとモザンビークの国境に位置する,エホバの証人のカリロンベ会衆に属する14人のクリスチャンの身に降り懸かった事柄を検討してみてください。マラウィ青年同盟(マラウィの第一党である会議党の一部門)の会員は,3人の男性と11人の女性を捕らえ,半日にわたって監禁した上,ひどく殴打しました。警察は,病院で手当てを受けさせるため,九人の女性を連れ去り,残ったエホバの証人は保護拘置処分に付されました。その人たちはどんな状態にありましたか。そのうちの二人,ジョシヤ・A・チャンバラとテニソン・ジオヤベは,青年同盟員によって手足の骨を折られていました。二人の女性も,殴打された結果,腕の骨を折られていました。その獣のような襲撃者たちはどうなりましたか。その者たちを法に照らして処罰することも,またその虐待行為を非とする声を上げることもないまま,彼らは相変わらず自由に大手を振って歩いています。
さらにひどいのは,テンベヌ村の二人のクリスチャン男子,ハリー・カンパンゴとアイゼキ・ゾヤヤの身に起きた出来事です。その村の村長兼マラウィ会議党議長であるチンテンゴは,ジェナラにある同党地区支部の前で二人を告発しました。その罪状は何でしたか。それは,マラウィを支配している政党の党員カードを購入しなかった,という罪です。穏やかに自分たちの菜園を耕していた二人のクリスチャンは,連行され,党支部に引き渡されました。カチョカという名の青年同盟の議長は,二人を後ろ手に縛り,浴場に閉じ込めました。二人は,三日間にわたってひどく殴打され,食べ物も飲み物も与えられませんでした。そして,1976年1月2日に,これら二人のエホバの証人は,性器を切り取られて,殺害されました。二人の死体は深い穴に投げ込まれました。
やがてこの殺人事件は警察の知るところとなり,1月7日に警察は死体を片付けるためにやって来ましたが,その穴から死体を引き上げることはできませんでした。そこで警察は,その穴を埋めて,死体を葬るよう人々に命じました。その同じ日,南部地方担当相マクムラ・ヌコーマ氏が,ゾンバから同村へやって来ました。同氏は,人々がエホバの証人を迫害したことを一言も非難しませんでした。
確かに,殺害者であるカチョカは投獄されました。二人を殺したのはだれか,と尋ねられた際,カチョカはこう答えました。「わたしがこの手で殺したのだ。奴らは飢えで衰弱しており,力がなかったので,殺すのは簡単だった」。
しかし,同様の残虐行為が起こらないことを保証するどんな処置が執られましたか。こうした殺人事件の発端となる騒ぎを引き起こした人々についてはどうですか。政府や党の当局者は,新聞やラジオを通して,そうした行為に対する,どんな非難声明を発表しましたか。やはり,何一つ処置は執られなかった,というのがその答えです。
これがごくまれな例であれば,事態はそれほど嫌悪感を催させるものではないかもしれません。ところが,これは,身を守るすべもない宗教上の少数者を根絶しようとする大規模な運動の実例にすぎないのです。その運動はすでに十年余り続いています。とても信じられないと思われるなら,以下の点を考慮してみてください。
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全世界に伝えられた恐怖政治目ざめよ! 1976 | 6月8日
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全世界に伝えられた恐怖政治
マラウィでエホバの証人の身の上に降り懸かっている事柄は,マラウィの新聞では全く報じられていません。こうした残虐行為が明るみに出ないようにするための努力が払われています。その理由は,キリスト・イエスの次の言葉の中に,はっきりと示されています。
「いとうべき事がらをならわしにする者は,光を憎んで光に来ず,自分の業があばかれないようにするのです。しかし,真実なことを行なう者は光に来て,自分の業が神に従ってなされていることが明らかになるようにします」― ヨハネ 3:19-21。
国内で沈黙を守らせようとする努力が払われているにもかかわらず,事実は人の知るところとなりました。1976年1月6日付のジャパン・タイムズ紙はこう述べています。「西側諸国の新聞記者はマラウィとモザンビークに入れないため,その地での迫害に関する同派の報告を個別に確認することはできない。しかし,エホバの証人に対する虐待に関して,同派の報告の信ぴょう性を裏付けるのに十分な報告が,南アフリカに達している」。
それよりも前,1975年12月7日,コリン・リガムは,ロンドンのオブザーバー紙に次のように書きました。「残忍な殴打,強姦,性的暴行,拷問などを含む,エホバの証人に対する残虐行為の報告は,マラウィの幾十もの村々から漏れ始めている……この新たな恐怖政治に関する詳しい証拠は,エホバの証人のものみの塔協会の集めた情報に基づいているが,それは,村々から伝わって来る報告によって,個々に確認されてもいる」。
マラウィの外では,衝撃を受けた人々から非難の声が上がっています。例えば米国で,1976年1月16日付のパブリック・エンプロイイ・プレス紙は,「中央アフリカにおけるナチのような策略」と題する見出しの下で,エホバの証人の苦しみについて述べ,次のような非難の声を上げています。
「『ウフル,ウフル!』 これは1964年7月6日,以前はニアサランドと呼ばれた,中央アフリカのマラウィ共和国に,響き渡った叫び声である。それは同国の産声でもあった。同国はその時,欧州の支配から自由になったのである。その叫び声の訳語は,『自由』である。同国の新しい名称[マラウィ]には,『炎のように輝く水』という意味がある。1975年,同国では,まさに炎が燃え上がったが,それはマラウィの少数者から再びウフルを奪い去ってしまう火の手である。自由の終わりを告げているかのような,強姦,拷問,言うに耐えない侮辱,そして所有物の破壊などのすべてのほこ先が法を守る市民に向けられている」。
恐怖の十年間
平和を愛好するクリスチャンに対する,こうした残虐行為の歴史は長くて暗いものです。マラウィのエホバの証人に対して,迫害の第一波が押し寄せてきたのは,1964年のことでした。当時エホバの証人が迫害された理由は,現在と変わりありません。エホバの証人は,『[イエスの]王国はこの世のものではなく』,イエスの弟子たちもこの世のものではない,というキリスト・イエスの言葉を知っています。(ヨハネ 18:36; 15:19)ですから,良心,そして聖書に基づく原則のゆえに,マラウィだけでなく全世界のエホバの証人は,政治に関与したり,政党に加入したりしないのです。その理由で,しかもその理由だけで,1964年にマラウィでは,エホバの証人の家1,081棟,そして百余りの王国会館,つまり集会所が,焼かれたり破壊されたりしました。
1967年に,マラウィのザ・タイムズ紙は,政府がエホバの証人に禁令を下したことを発表しました。それが引き金となって,全国的に新たな襲撃が始まりました。エホバの証人の家や王国会館の焼き打ちに加えて,殴打や投獄が行なわれました。幾千人ものエホバの証人は,激しい迫害が収まるまで,避難所を求めて隣国のザンビアとモザンビークに逃れました。
五年後,マラウィ会議党は,エホバの証人すべてを職場から追い出し,その農業や商業活動を妨害し,彼らの住む村から力ずくで追い出すことを正式に決議する,という暴挙に出ました。この決議の引き起こした襲撃の残忍さは,これまでになくひどいものでした。少女は繰り返し強姦され,男子は意識がなくなるまで殴打され,様々な拷問の手段が用いられました。そのすべては,エホバの証人の宗教上の信念を捨てさせ,彼らの良心に反して,有力な政党の党員カードを買わせるためになされました。家を焼かれ,穀物を台なしにされ,家畜を盗まれたり殺されたりしたため,大勢のエホバの証人は同国から脱出しました。やがて,子供を含め約3万6,000人のエホバの証人は,隣国モザンビークに設けられた十か所の難民収容所に落ち着きました。
1975年になり,これらの収容所の大半はモザンビークの新政府の手で閉鎖され,幾千人ものエホバの証人は国境を越えてマラウィに戻らざるを得なくなりました。この強制送還に続いてエホバの証人の経験した,いまわしい襲撃の恐るべき記録は,1976年2月22日号の「目ざめよ!」誌をはじめ,新聞,雑誌,ラジオ,テレビなどの報道で全世界に伝えられました。数々の虐待行為に,新たな要素が加えられました。常習的な殴打,強姦,拷問だけでなく,今度は,エホバの証人を追い集めるための仮収容所が設けられたのです。
よみがえるナチ強制収容所の記憶
1975年12月の第三週までに,エホバの証人の男子3,000人余りは,リロングウェの北方にあるドワに近いドザレカ仮収容所に閉じ込められました。すべての人は,懲役二年の刑に問われ,有罪を宣告され,投獄されました。女性のエホバの証人も,同じような収容所に入れられました。1976年1月に受け取った情報は,その時点で5,000人余りのクリスチャン男女が投獄されており,逮捕者が続出していることを示しています。ある収容所にいる婦人たちは幼い子供を連れて来ていました。こうした収容所から寄せられる報告の中でも特に痛ましいのは,食糧不足や他の辛苦のために相当数の幼い子供が命を失ったという事実でしょう。
投獄されたエホバの証人の一人はこう書いています。「囚人の数は多いのに,皿はわずか400枚しかありません。ですから中には,熱いニシマ[マラウィの常食]を片手に,そしてもう一方の手に副食を載せられる人もいます。多くの場合兄弟たちは,熱いニシマを地面に置いて,そこから食べねばなりません。
ナチ党員同様,こうした仮収容所の所長は,エホバの証人を奴隷労働力として用いています。伝えられるところによると,係官たちはエホバの証人に,「政府の取決め通り,お前たちをトラクター代わりに使ってやる」と述べました。ドザレカ収容所の当局者は,エホバの証人たちに一つの丘を見せ,それを指で30㌢の深さまで掘らされるであろうと告げました。そして,女性であればすぐにあきらめて,自分たちの良心にそむくことに同意するだろうと考え,まず女性のエホバの証人にそうするよう命じました。ところが彼女たちは,その重労働を成し遂げ,自分たちの信念を堅く守りました。男性のエホバの証人は,重い丸木を切って運び出すよう命ぜられました。また,大きな石を約4㌔も離れた所へ運ぶよう強いられもしました。監督官たちは,病人をも無理やりに働かせ,「お前たちの神が助けてくれるだろう」とあざけりの言葉を浴びせました。
依然として迫害の先頭に立つ政治家たち
マラウィの連邦政府当局者は,エホバの証人を救うことを拒んだだけではありません。中には,続発する襲撃の扇動者として活動を続けている者もいます。
マラウィの一地区で,国会議員であるカトーラ・フィリ氏は,公開の集会で演説し,エホバの証人を苦しめるよう土地の人々をそそのかしました。同氏は,その地方のエホバの証人を撲滅するよう人々に勧めました。その結果,同地区にあるエホバの証人の会衆四つが襲撃に遭い,エホバの証人の男性は殴打されました。
1975年11月11日,チェンダウシク村で,別の国会議員ムルズ氏は,エホバの証人の所有する家屋三軒に放火しました。11月13日,ムルズ氏は同村の村長と一緒に,エホバの証人の粗末な家屋をさらに四軒焼きました。そして1975年11月15日には,ムダラ村とムゴチ村で,エホバの証人の家がさらに二軒焼かれました。
マラウィ警察にも罪がないわけではありません。ヌチュ地区の数か所で,マラウィ会議党の青年たちは,クリスチャン男女をひどく殴打しました。そのうちの一人の女性は,余りにもひどく殴打されたため,入院しなければなりませんでした。病院側はその事件を警察に通報しました。そのエホバの証人が退院すると,警察がやって来ました。ところが,襲撃者を逮捕するための協力を求めるためではなく,何と彼女を逮捕するためにやって来たのです。クリスチャンの婦人たちは,スネープ渓谷警察署で,刑務所に連行される前に一晩中強姦されました。
そうです,信じられないことのようですが,マラウィ政府は,この宗教上の少数者に対する残忍な襲撃の恐ろしい繰り返しを終わらせようとはしていません。確かに,同国の中でもある程度平穏が保たれている場所もあるにはあります。中には,マラウィ人のエホバの証人が悩まされることなく自分たちの村に住み,各々の菜園を耕すことを許すだけの品位と同情心を持つ地方官吏もいます。こうした官吏は国の誉れと言えるでしょう。しかし,残念なことに,そうした人も,やはり少数者にすぎないのです。
1975年12月26日付のザ・ナイジェリアン・クロニクル紙は,当局者が何もしないというこの問題に注目しています。同紙は,ケニアのデーリー・ネーション紙の次の言葉を引用しています。アフリカ大陸は,「二重の基準を持っているとの悪名がいよいよ高まっている」。そして,この引用に対する次のような説明を載せています。「米国,ソ連,南アフリカ,インド,そして中国などで,ある人々が迫害されると,他の人々はその迫害の責任者を非難するため一斉に立ち上がる。ところが,そうした出来事がアフリカ諸国の人々の身に降り懸かっても,アフリカ統一機構(OAU)の役員でさえ,論評しようともしない」。
そうです,当局者が何もせず,迫害に共謀さえしているので,マラウィのエホバの証人は,再び国外に避難所を求めることを余儀なくされました。モザンビークのミランジ難民収容所に逃げ込むことのできた人もいました。1976年1月に受け取った一報告によれば,その時点で同難民収容所には,約1万2,000人のマラウィのクリスチャン,そしてやはり同じような試練に遭っているモザンビークの同信の仲間たち約1万人が収容されていました。
この残酷な恐怖政治が続けば,最後にはエホバの証人も抵抗をやめ,エホバ神に対する忠誠を破るでしょうか。それとも,最終的にマラウィの当局者が,これらクリスチャン男女に対する迫害を中止するでしょうか。こうした質問に対する答えは,次の記事の中で考慮されます。
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この虐待行為は果たしていつ終わるか目ざめよ! 1976 | 6月8日
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この虐待行為は果たしていつ終わるか
難民収容所にいようと,強制収容所にいようと,マラウィのエホバの証人から寄せられるのは,確固とした勇気と信仰に関するたよりです。彼らは,刑務所の中でも,クリスチャンの霊性を保つために,定期的な聖書の討議と会衆の集会の計画を維持しています。そして,使徒ペテロの次の言葉などから,励ましと慰めを得ています。
「愛する者たちよ,あなたがたの間の燃えさかる火は,試練としてあなたがたに起きているのであり,何か異常なことが身に降りかかっているかのように当惑してはなりません。かえって,キリストの苦しみにあずかる者となっていることを喜びとしてゆきなさい」― ペテロ第一 4:12,13。
マラウィのエホバの証人は,全世界のエホバのクリスチャン証人とは異なった別個の規準や見解を持つ,特異な“分派”などではありません。他の土地のエホバの証人同様,マラウィのエホバの証人も,納税や法律を守ることに関して模範的であるよう努めています。彼らは疑いを抱くことなく,ローマ 13章7節にある使徒パウロの次の戒めを受け入れています。「すべての者に,その当然受けるべきものを返しなさい。税を要求する者には税を,貢を要求する者には貢を」。マラウィのエホバの証人に対する攻撃は,市民としてのそうした義務を彼らが果たさないことに端を発しているのではありません。また,国家を転覆させようとする活動に端を発しているのでもありません。全世界のエホバの証人同様,彼らは平和的で平和を愛好する人々です。ですから,ザ・クリスチャン・センチュリー誌に載った,アーニー・レゲールの「アフリカのエホバの証人」に関する報告は,彼らが「勤勉で,道徳的に方正な市民であるとして広く称賛されている」ことを伝えています。
これらのクリスチャンを脅して,強制的に自分たちの政党の党員カードを買わせようとする人々こそ,マラウィの法律に違反しているのです。党員カードは,すべての市民のための身分証明書のようなものではありませんし,納税とも関係はありません。それは,それ自体に明記されている通り,政党の党員カードなのです。1969年の10月6日のことになりますが,マラウィの終身大統領H・カムズ・バンダ博士は,同国内ではだれ一人として政治的なカードを買うよう強制されることがあってはならない,と公に宣言しました。しかし党員カードを買わない人々に加えられる高圧的な策略やあからさまな暴力行為などから,そうした人々を守るという政府の処置によって,同大統領の言葉が裏付けられることはありませんでした。
政治的な中立の立場を取ることに同意されるかどうかは別にして,そのような立場を取る人々を迫害し,投獄し,殴打し,不具にし,殺害さえすることが許されると思われますか。マラウィのクリスチャンに対する,こうした不当な迫害に驚いておられるなら,どうすることができますか。ここに住所と氏名が掲げられている,マラウィ政府の高官に手紙を書き,ご自分の気持ちを表明したいと思われるかもしれません。
こうした残虐行為は,全世界の人々に注目されただけでなく,これらクリスチャン証人の仕えるエホバ神の目にも留まっているのです。エホバ神が『普通を越えた力』を付与されたので,彼らは忍耐してきました。マラウィのエホバの証人は,全世界の人々の前で,驚くべき忠誠と信仰の記録を作り上げているのです。―コリント第二 4:7-9。
真理のスポットライトはマラウィに注がれています。同国において,平和を愛好し,法律を守る,品行方正なエホバのクリスチャン証人に加えられている残忍な行為は,暗やみに葬られたり,公衆の目から隠されたりしてはいません。そうした行為は,全世界に知らされています。マラウィの政府当局者は,虐待行為を終わらせるためにどんな行動を執るでしょうか。自由と公正を愛する人々は,どんな処置が執られるかを見守っています。
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