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マラウィの残忍な迫害をのがれるクリスチャン目ざめよ! 1973 | 2月22日
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マラウィの残忍な迫害をのがれるクリスチャン
最近,何千人ものクリスチャンの男女子供が東アフリカの国,マラウィから国外へのがれました。
隣国モザンビクにはおよそ11,600人もの人びとが殺到しました。ロンドン・デーリー・テレグラフ紙に寄せられたザンビアからの報道は,去る10月中旬までに8,925人がザンビアに避難し,その後もさらに毎日難民が到着したと伝えました。中には,わずかに持てるだけの持ち物を携えて,560キロもの道のりを歩いてきた人たちもいます。ザンビア・タイムズ紙は,ザンビアは「難民危機」に見舞われていると報じました。さらに他の人びとはローデシアにのがれました。
これほど大勢のクリスチャンがマラウィから集団出国したのはなぜですか。
何千人もの目撃者から寄せられた確認された報告は,マラウィで起きた,近代の歴史におよそ類例のない恐るべき残忍な迫害の実情を物語っています。あわただしく建てられた難民収容所で今生活している人たちの中には,ひどい殴打や拷問を受けた跡を身に帯びている人が多数います。
難民問題を扱う国際連合の高等弁務官は,ユゴー・イドヤガ博士を代表としてザンビア-マラウィ国境に派遣しました。同代表は,「難民の多くは,東アフリカで一般に用いられている大型のナイフであるパンガでつけられたと思われる切傷や深傷を負っていた」と報告しました。―1972年10月22日付,ニューヨーク・タイムズ紙。
それらの難民はすべてエホバの証人でした。彼らはそれまで母国マラウィで生活していたアフリカ人のエホバの証人23,000人の大半を成す人たちです。
それら難民の多くにとってその苦しみは事新しいものではありません。1967年に起きた以前の迫害の大波は彼らに非常な苦難をもたらしました。彼らの家や倉庫や崇拝のための場所が破壊されたり略奪されたりした例は何千件にものぼり,幾人かの証人たちが殺され,何百人もの女性が強姦され,中には輪姦された人たちもいました。また,彼らのクリスチャンとしての活動や聖書文書の使用,また崇拝のための集会などはすべて公に禁止されました。
さて,5年余の後の今,以前にもましていっそう大規模な迫害の波が荒れ狂っているのです。一致団結したクリスチャンのグループとしてのマラウィのエホバの証人を滅ぼそうとする努力が全国的な規模で行なわれており,証人たちはすべての職場を追われ,生計の手段や住みかさえ奪われています。殺された人でこれまでにわかっている数は10人ですが,合計は60人にも達するものと推定されています
20世紀の今日,それは信じがたいことかもしれませんが,真実なのです。マラウィで起きている,あまりにも忌まわしい暴虐行為に関する目撃証人の報告を読んでください。そして,こうした侵害が果たして許されるものかどうかを考えてください。人道に反する悲惨な,それゆえに早急に救済措置を要する反道徳的行為がマラウィで犯されているということに読者も同意なさるに違いありません。
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人道に反する恐ろしい行為目ざめよ! 1973 | 2月22日
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人道に反する恐ろしい行為
マラウィで無防備の少数者に対して犯されてきた行為は,この国の内外を問わず,慎み深い人びとに衝撃を与えてきました。
その暴虐行為は1972年の中ばごろ,小規模な仕方で始まりました。そして,同年秋には恐るべき規模に達しました。当初,マラウィ唯一の政党,マラウィ会議党の年次大会に続いて,暴徒行為に訴える機運があおられました。同大会はエホバの証人を激しく攻撃する内容の三つの決議を採択して幕を閉じました。7月以降,同党の好戦的な青年同盟とその青年開拓者運動の会員たちが先頭に立ってエホバの証人を苦しめ,今や証人たちに対する実質上の戦いを行なうようになりました。彼らは十数人から多い時は百人もの集団となって,棒や投げ棒,パンガやおのなどで武装して村々をめぐり,エホバの証人を捜し出しては襲いかかって証人たちの所有物件を侵害しました。
サンフランシスコ・イグザミナー紙(1972年10月17日付)の常時特約寄稿家ガイ・ライトはその実情を,「信仰に対して力で対抗する,あまりにも一方的な戦い」と評しました。しかし,彼らの信仰は残虐行為などで打ち破られるものでないことを証人たちが次々に実際に示したので,信仰のほうが事実上いっそう強いものであることが実証されました。
ここに,引き起こされた残虐行為に関する目撃証人の何百件もの報告のほんの幾つかの例を掲げます。
● リロングウェのカルズィ村のディビィッド・バンダの報告は,各地の村で生じたできごとの典型的なものといえるでしょう。「国会議員のひとり,ギデオン・バンダ氏が公開集会にやって来て話をしたのは,9月23日のことでした。わたしの家はその集会場のすぐそばでしたから,拡声器から聞こえてくる話をほとんど全部聞き取れました。その集まりでバンダ氏は,先の年次集会で論じられたことを述べて話をはじめ,次いでエホバの証人に関する問題を論じました。そして,エホバの証人は党員カードを買わないのだから,証人たちを過酷に取り扱うべきであるという同年次大会の決議について述べるのを私は聞きました。
「9月25日の晩のことでした。スウィラ兄弟が私のところにやって来て,若者たちが幾つかの群れとなって,いっしょにやって来るのを見たと伝えてくれたので,私たちはすぐさま兄弟たちに危険を知らせることにしました。しかし,私たちが行動を起こす間もなく,若者たちは攻撃を始め,証人たちの家々の窓や戸を叩き破り,兄弟たちをだしぬけに襲いました。私たちはみな四方に逃げたので,おのおのがどうなったかは知るよしもありませんでした。それに,すっかり暗くなっていました。私は身をひそめ,翌朝早く警察に行って事情を報告しました。警察は私の訴えを聞くどころか,私を追い返すのでした。私がまだその警察にとどまっていたとき,他の会衆からも兄弟姉妹が続々とやって来て,同様の事件について報告しましたが,警官は,各自自分の村へ戻れと命じるだけでした」。
しかしながら,それらの証人たちは身の守りとなるものがないので,村には戻らず,市場に行きました。ディビィッド・バンダはそこで起きたことをこう述べています。
「それらの証人たちが市場に行ったということを聞くや,若者たちもそこにいって,兄弟姉妹を棒や握りこぶしでなぐり,からだ中をけりました。警察はそうした暴行をやめさせる何らの処置も講じませんでした。次いで,リロングウェの町中で暴力行為が繰り広げられました。それでも兄弟たちはどうにかしてのがれ,私たちはやっとザンビアに逃げました」。
● マウァル村のエバンズ・ノアはこう述べました。「1972年9月18日,私は兄弟たちのひとりを尋ねに行きました。すると一台の車が近づいてきました。その運転者はマラウィ議会の議員,ガムファニ氏でした。そのそばには若者が2人いました。同氏は私を捜していたようでした。というのは,彼らが近づくなり,『あいつがいる』とひとりの男の言うのが聞こえたからです。ガムファニ氏は車を止めるなり,同乗するよう私に命じました。それから,車を警察に回しました。彼は私が党員カードを持っていない理由を問いただしたのち,警官に私を拘留するよう命じ,私は7日間留置されました。その7日間,食べ物も水もいっさい与えられませんでした。
「私のからだが弱ったのを見て取った警官は,草を食べ物に変えて見ろと言って私を嘲笑しはじめました。ついに,警察側はどうしても私に党員カードを買わせることができないのを知って,私を釈放し,自分でどうにかして家に帰れと命じました。何も食べていなかったので私は弱っていましたが,35㌔余の距離を歩いて,どうにか無事に家に着きました」。
ところが,それからほどなくしてエバンズ・ノアと他の十人の証人たちは自分たちの村を捨ててマラウィを去らねばなりませんでした。
● マラウィの主要都市,ブランタイア地区でリチャディ・ニヤスル,グレイソン・カピニンガと他のエホバの証人たちは,マラウィ会議党の南部地区の本部に連行され,党員カードを買わない理由を問われました。自分たちは聖書の信仰ゆえに政治的な関係はいっさい持たないことにしていると答えたところ,証人たちは,青年開拓者と青年同盟の会員およそ16人に引き渡され,彼らはかわるがわる証人たちをひとりびとり殴打しました。それでも証人たちが党員カードを買うのを拒んだところ,若者らは塩と唐がらしをまぜたものを証人たちの目にすり込みました。ある人たちは,釘のささっている厚い板で背中やでん部を打たれました。痛さを表わした人は,さらにひどく打たれたあげく,「神に来てもらって救ってもらえ」と言われました。そのうえ,彼らは1本のびんを割って,割れたガラスの破片で何人かの男子の証人たちの『ひげをそり』ました。9月22日,ブランタイア地区のジャステニ・ムクフナは殴打されて,ついに片腕を折られました。
● マラウィ湖南端のケープ・マクレアで,証人のひとり,ゼルファト・ムバイコは草の束をからだに結きつけられ,その草に石油をかけて,火をつけられました。彼はやけどがもとでなくなりました。
だれも容赦されなかった
暴徒のしわざは残忍をきわめ,エホバの証人で年齢や性別のゆえに容赦された人はいませんでした。リロングウェからは全員がのがれえたわけではありません。たとえば,証人のひとり,マゴラ夫人は身重だったので,速く走ろうにも走れませんでした。彼女はマラウィ会議党の党員に捕えられ,市場の近くで多数の町民の目の前で激しく殴打されて死亡しました。だれひとりとして彼女を助けようとはしなかったのです。どうして介入しなかったのかと問われた一警官は,『警察の権力は奪われてしまったからだ』と答えました。
● ブランタイア南部のタトンダ地区ではスミス・ブバラニとその年老いた母そのほかエホバの証人の男女が青年同盟の会員たちに殴打され,失神したまま地面に放置されました。青年同盟の会員のひとりは証人たちのポケットをさぐって,ある証人のお金を見つけ出し,それから,そのお金で証人たち各人のために党員カードを買ってきて,それぞれの証人の名前を書き込み,地面に横たわっている失神した証人たちのそばに投げつけました。そして,青年同盟側は,証人たちは今や屈服し,信仰の点で妥協したと言いました。ところが,スミス・ブバラニの母が意識を取り戻して党員カードを見るなり,たとえ死んでも党員カードは受け取らないと断わりました。すると人びとはまた彼女を殴打し,再び失神させました。
● ムチンジのクエレ村の73歳になるイズラエル・フィリはこう述べました。「1972年の7月中,私たちはマラウィ会議党が党員カード検査運動を全国的に開始する予定だという噂を聞きました。そうなれば,エホバの証人は苦境に立たされるということがわかったので,私たちは村を離れて森林地区に身を穏すことに決めました。私たちエホバの証人は全部で30人でした。私たちは森林地区に2か月間とどまっていましたが,10月5日,突如私たちは大勢の若者たちの一団に取り巻かれてしまいました。それら若者たちはみな,私にとっては見知らぬ人でした。
「私が歩いて逃げようとすると,数人の若者が私をつかまえて,私を棒で打ったり,私のからだを所きらわず蹴ったりしはじめました。他の兄弟たちがどうなったか見届けることは私にはできませんでした。ついに暴徒は私を失神させて地面に置きざりにしました。意識を取り戻したのち,他の兄弟たちを捜そうとしてみましたが,兄弟たちを見いだせないまま,私はマラウィを去ってザンビアに行くことにしました。私はからだ中がはれて,両眼は出血であふれていましたが,それでもエホバの助けを得て,何㌔かの道のりを歩き,ようやくのことでザンビアのサマンダ病院にたどりつくことができました」。
● ブランタイア南東のカブンジエ村ではエホバの証人の男女全員が激しく打たれたあげく,裸で道を歩かされました。彼らの子どもたちのひとりは,殴打されて死にました。マラウィ北部のヌクホタコタでは,妊娠中の証人の一女性が衣服を脱がされたうえ,激しく打たれました。会議党の地方の一指導者は子どもたちに命じて彼女の腹部を蹴らせました。それは流産を起こさせようと考えてのことでした。
胸の悪くなるような性的暴行
エホバの証人の女性に対する性的暴行の例はあまりにもおびただしいうえに,その詳細をここに述べるにはあまりにもいまわしいものがあります。その典型的な例を次に掲げましょう。
● カスングのモトンソ村の17歳になるラハブ・ノアは述べました。「1972年9月26日,私たちは,若者たちが村々を回ってエホバの証人を襲い,証人たちの家や資産を破壊しているという知らせを受けました。兄弟たちは,まず森林地区にのがれて身を穏し,それから夜ザンビアに逃げるべきだと提案しました。5人の姉妹と3人の兄弟たちでなる私たち一行は無事に村を出たのですが,狭い道の途中で20人ほどの一群の人びとに出会いました。彼らは党員カードを見せるよう要求しはじめました。私たちはひとりとして党員カードを見せることができなかったので,彼らは棒やこぶしをかざして私たちを打ちはじめました。次に,私たち全部を裸にして,さらに打ち叩きました。それから,10人ほどの一群の若者が私をわきへ押しのけ,私は他の人たちから離れた所に連れてゆかれ,数人の者たちに手足を押えられたうえ,他の者たちによって強姦されました。私は8人の者がひとりずつかわるがわる私を犯すのを見ました。それら一群の人たちの中には私たちの知っている人はひとりもいませんでした。彼らは私をさんざん打ったあげく,私たちを放置して去ってゆきました。あとでわかったのですが,私たちのグループの他の4人の姉妹たちもやはり強姦されました」。
● リロングウェのニヤンクフ村のフナシ・カチパンディは彼女の経験をこう述べています。「1972年10月1日,エホバの証人が襲われているという報告を聞いたので,私はザンビアに逃げることにし,直ちに,19歳になる娘デイルズ・カチパンディを連れて家を出ましたが,ほどなくして見知らぬ若者たちの一団につかまりました。彼らは党員カードを見せるよう要求しましたが,私たちは見せることができませんでした。彼らは私たちを連れ戻して,チレカ市場の近くの自分たちの事務所に連行しました。そして,私の目の前で5人の若者がかわるがわる私の娘を輪姦しました。ついで,そのうちのひとりが私をつかまえて,地面に倒したのです。私は妊娠9か月の身重で非常に弱っていましたので,私を犯すようなことをしないでほしいと訴えましたが,その男は一片の人情も示してはくれず,私の娘の目の前で私を強姦しました。それから,彼らは私たちを置いて去って行きました。私はこれらのことを警察に報告しました。警察側は私たちの述べたことを記録に取っただけで,何もしてはくれませんでした。翌朝,私は子どもを生み,それから同じ日のうちにザンビアに向かい,途中何度も休んで,ようやくザンビアに着きました」。
他の多くの事件の場合,犠牲者は暴徒の名前を知っていました。その中には,マラウィ会議党の要職者もいました。
● カムフィンガ村ではグゥズィ村のマティリナ・チツロはマラウィ会議党の支部の議長カチゴンゴによって強姦されました。1972年10月2日,ムコムベ村ではベレニカ・ホスィテニが,同党地方支部の議長と書記の手で同党の事務室に一晩中監禁され,そのふたりによって強姦されました。その同じ事務室で,ネゼリヤという名の別の証人は7人の男によって輪姦されました。ザンビアにのがれたそのふたりの女性は,こうむった身体的な虐待のため入院して手当てを受けました。
繰り返して述べますが,これらの事件は例外的なものではありません。記録された何百件もの事件のほんの一部にすぎないのです。
しかし,エホバの証人に対してなされた今回の全国的な規模の攻撃には,1967年当時に始まって証人たちを苦しめた以前の迫害よりもなおいっそう重大な意味を持つもう一つの著しい事がらが見られるのです。
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決議: 『これらの者たちを人間社会から放逐すべきである』目ざめよ! 1973 | 2月22日
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決議: 『これらの者たちを人間社会から放逐すべきである』
この標題は,1972年マラウィ会議党年次大会でその国のエホバの証人に関して採択された決議を一言で要約したものです。
昨年9月16日,首都ゾンバのカトリック系の中学校で開かれた集会にさいして,マラウィ会議党の代表者たちは一連の決議を採択しました。マラウィ政府の情報および放送省発行の1972年9月18日付,「マナ・デーリー・ダイジェスト」誌の一部をここに掲げます。その17ページは,同党の代表者たちが明らかにした態度を次のように示しています。
「(イ)活動を禁じられたエホバの証人派のような特定の狂信的宗派がわが国の政治および経済上の発展を妨げてきたのは遺かんなことである。
「(ロ)その種の狂信的な宗派の成員で,商工業に携わる従業員はすべて即刻解雇すべきであり,この決議に従わない事業所は商工業のいずれを問わず,営業許可を取り消すべきことを決議する。
「(ハ)それら狂信的な宗派の成員で,政府に雇われている職員はすべて即刻解雇すべきであり,またそれらの宗派の成員で,事業もしくは農業の個人経営者は,その事業もしくは農業の経営活動を思いとどまらせるべきであることを決議する。
「(ニ)その種の宗派の成員で,村に住む者はすべて村から追い払うべきであることを決議し,それらの宗派の信者を取り扱うわが党の党員に対して政府が最大限の保護を与えるよう訴える」。
実際のところ,これらの決議の影響をこうむったのはエホバの証人だけでした。マラウィの他の宗教団体で,エホバの証人のように苦しめられた団体は一つもありません。
これらの決議が実際に言わんとしているのは何ですか。それがはっきりと述べているのは,マラウィのエホバの証人は,職種や場所を問わず,有給の職業につくことは許されないということです。みずからを養うための食物を作ることさえしてはならないのです。そして,彼らを村から追い出せというのです。証人たちにはどんな道が残されているのでしょうか。
彼らに残されているのは,人間社会から放逐された者として野獣のように森や叢林で生活する道だけです。
しかしそれはわたしたちの解釈にすぎないのでしょうか。それらの決議は,生活必需品をさえ仲間の人間から奪うというような現実の意図など少しもない,単なる非難の表現にすぎないのでしょうか。
事実は,それらのことばを聞いた人がそれをエホバの証人に対する徹底的な追放宣言,事実上の死刑宣告と解したことを示しています。
「事業もしくは農業の個人経営者」たちがどのようにしてその活動を「思いとどまらせ」られたか,その二,三の例を考慮してみましょう。
破滅をこうむったマラウィの実業家たち
● マラウィの一実業家で,エホバの証人のひとりであるB・ラメク・チルワが,ローデシアのソールズベリで開かれたクリスチャンの大会から帰ってみると,肉親の弟ベネィヤが意識を失って倒れていました。野菜の店の経営者であったその弟は,エホバの証人であるとの理由で青年同盟の会員によってひどく殴打されたのです。5時間後,ようやく意識を回復したその弟は,病院に運ばれ,3日間入院しました。
ところが,ラメクがその弟を援助しているのを青年同盟の一会員が見つけ,ほどなくして何人かのその会員がズィングゥアングゥアにあるラメクの店にやって来ました。そして,彼は党員カードを持っているかどうかを問いただされました。しかし,党員カードを見せることができなかったため,自宅と店を閉鎖され,家から締め出されてしまいました。次いで,それらの会員たちはその妻の経営している衣料品店のあるリンムベにラメクを連れて行きました。その妻が党員カードに関して夫と同様,良心上の立場を表明したところ,彼らはその店をも閉鎖しました。ラメクがマラウィ会議党の事務総長,アレケ・バンダのもとに行って,自分たちの店が閉鎖されたことを伝えようとしたところ,青年同盟の者たちの手で自分の車のタイヤの空気が抜かれ,車のかぎが奪われていることに気づきました。ラメクは政府当局者と面会しましたが,党員カードを買わないかぎり,有利な措置を講じてもらえるなどとは決して期待できるものでないことを指摘されました。彼の銀行預金は他の証人たちすべての場合と同様,凍結されました。最後に彼は保険証書を換金できたので,建物,家具,在庫衣料品,店の設備,7トン車のトラックと乗用車各1台など総額12万1,800ドル(3,750万円余)相当の資産を残しながらも,飛行機でローデシアにのがれることができました。彼は1959年以来,事業を経営してきましたが,今やすべてを失ってしまいました。
● 別のエホバの証人で,マラウィの一実業家チノンドは,この国の主要都市ブランタイアでモダン・ドライビング・スクールという名称の自動車運転教習所を経営していましたが,自動車全車両を押収されました。後に,彼はそれらの車両がマラウィ会議党の南部地方事務所の外に置かれているのを見ました。
● マラウィでおよそ40年間暮してきた64歳になるウィリアム・マックラッキーは,ブランタイア市で骨董品店を経営していました。彼はその店で11人の従業員を雇っていたうえ,それぞれ家族をかかえているマラウィ人の彫刻師120人からいつも骨董品を買い入れていました。マックラッキーの推定によれば600ないし700人が彼の事業に依存して収入を得ていました。しかし,彼はエホバの証人であるとの理由で法廷に連れ出され,48時間以内に国外に退去するよう命じられました。彼が追放命令を受けて1日もたたないうちに,今度はその妻と3人の子供が24時間以内に国外に退去するよう命じられました。
● しかしながら,中には事業以上のものを失った人もいます。1972年10月1日付,ローデシアン・サンデー・メール紙は,「マラウィの著名な一実業家が殴打されて死亡した」ことを報じました。その人は,ブランタイアで野菜と酒類の店を経営していたM・L・チルツです。この同じ事件を報じたローデシア・ヘラルド紙は,「これまでのところ,チルワ氏の死亡事件に関しては公式の措置は何ら講じられていない」と伝えました。
『彼らを即刻解雇せよ』
同様に,エホバの証人の従業員をすべて職場から追放せよという決議も,単なるおどしのことばではありませんでした。
● 1949年以来,郵便局に勤めてきたM・R・カリテラは,23年間勤続したのちの今,給料の支払いや恩給の特典を受けることもなく解雇されました。
● 別のエホバの証人,カデウェレはアメリカで医師として研さんを積み,各地の病院を回って視察する検査官として保健省に勤めていました。彼はゾンバの自宅へ帰る途中,自分のとうもろこし畑が青年同盟の会員たちの間で分けられているのを見ました。ブランタイアに戻ってみると,自分はすでに職場から解雇されていました。このエホバの証人,カデウェレは9人の子供の父親なのです。
● ウィリアム・ヌサングゥエは,公認書記協会の中間試験にパスして,ブランタイアの市役所で5年間働きましたが,エホバの証人にとって苦しい事態が生じはじめたとき,市役所の書記長の事務室に呼び出されて質問を受けました。ついで,市長の前に呼び出されましたが,そのいずれの場合も,彼が良心上の理由で断わっていた党員カードを買うか,受け入れるかするように仕向ける努力が払われましした。『妻や親のところへ行って問題を相談するように』と命じられた彼は,『これは自分自身の信仰の問題であって,親や妻の意向で左右される事がらではない』と答えたところ,解雇されました。その妻ジョイはマラウィ大学の卒業生で,教師をしていましたが,別のエホバの証人で,同大学の同窓の卒業生で,やはり教師をしていたベネンシア・カブゥイラと同様,解雇されました。
官公吏の場合と同様のことが,個人経営の商社の従業員の身の上にも生じました。
● ブランタイアのマンダラ自動車株式会社に10年余勤めたW・ルサンガズィは,同市のホーラス・ヒックリング株式会社にやはり10年余勤めたウィッダス・マドンナと同様,解雇されました。別のエホバの証人リホマは合同運送株式会社に15年間勤めましたが,彼もやはり解雇されました。
幾人かの雇用者は,エホバの証人の従業員を解雇するよう強制されたことに反対して敢然と抗議しました。
● 事務弁護士を雇っているブランタイアのある会社は,直接大統領に問題を持ち出して,非常な信任を受けていたふたりの従業員,ルイスィ・クムベンバとL・D・コホワの解雇を避けようと努力しましたが,失敗しました。(コホワの妻は教師でしたが,彼女も官吏としての職を失いました。)
● ブランタイア市のある衣料品会社のインド人の経営者は,旅行から戻ってみると,会社の仕事の監督をまかせておいた従業員が,留守中強制的に解雇されていました。その従業員は,スケンナルド・ミテンゴというエホバの証人でした。その経営者は,クレセント衣料品会社を閉鎖すると言明しました。というのは,その大事な従業員の働きなしには,会社は経営できないとのことでした。同社は,ある政府要人の所有するプレス商事株式会社に引き継がれるものと見られています。
以上は,仕事を失ったエホバの証人の例すべてを網羅したのではなく,ほんの2,3の例を示したものにすぎません。これまでにわかっているかぎりでは,現在マラウィ全土で職場についているエホバの証人はひとりもいせん。しかも,この運動はここで中断されたわけではありません。
生活上の基本的な必要物を奪われる
マラウィは工業の国ではなくて農業国です。国民の大多数は農業に携わり,それぞれの小さな村で先祖伝来の狭い土地を耕やして生活しています。マラウィのエホバの証人のほとんどは同様の事情のもとで生活しています。彼らは他の人間すべてと同様,食物や水,衣服や住まいなどの基本的なものを必要としています。ところが,そのようなものさえ彼らに与えまいとする一致結束した努力が払われたのです。
● チクワワ地区のスプニではエホバの証人の畑はすべて取り上げられ,村の井戸から水をくむことさえ差し止められました。そして,水を得るために,6キロ余離れた川まで水をくみに行かねばなりませんでした。
文字どおり何千軒もの家が焼き払われたり,こわされたりしました。ゾンバ地区のジャリ村だけで,エホバの証人の家が40軒焼かれました。
● この国のずっと南にあるチロモ地区からは次のような報告が寄せられています。「チロモ,バングラ,ヌグルウェなどの地方では兄弟たちの家や所有物はみな,青年開拓者たちの手で焼かれました。チャメラ村の兄弟姉妹たちは全部四散し,森林地区にはいっています。彼らの所有物はみな焼かれました」。
● ゾンバに近いゴールデン村からの報告は次のように伝えています。「兄弟姉妹たちの家は全部こわされました。彼らの食糧や所有物はみな,地方のしゅう長たちの手で運び去られ,兄弟姉妹たちはすべてこの村からのがれました」。
ある報告は証人たちがどこに住んでいるかを次のように要約しています。「これがエホバの証人の多くの家族の実情である。女や子供たちは屋外で寝ている。駅で寝る人々もおれば,バスの停留所で寝る人たちもおり,苦しめられるおそれのない所を見つけしだい,そこで寝ている」。
● ブランタイア地区のある村では,青年同盟の会員たちが,60歳になるやもめでエホバの証人のマゾンゴザのところにやってきて,党員カードを買うよう要求しました。彼女が良心上の立場ゆえに買うのを拒んだところ,9月24日から同30日までの1週間にわたって彼らはそのやもめのにわとりを1羽ずつ殺し,それでもなお彼女が変えなかったので,今度は彼女の山羊を1頭ずつ殺しました。しかも,そのやもめの資産はそれらのにわとりや山羊だけでした。次いで彼らは,そのやもめの命を脅かし,彼女を村から追い出しました。
多くの報告はごく短いものですが,マラウィの事情を知っている人にとって,それは多くを物語るものです。
それらの報告の中でも典型的なのは,『戸や(「おのおの6枚の窓ガラスの付いた」)窓がこわされた,あるいは持ち去られた』という説明です。このようなことを強調するのは奇妙に聞こえるかもしれませんが,マラウィの村のたいていの家は泥の壁と草ぶきの屋根でできているので,もし戸や窓がついているとすれば,それは建物全体の中で最も貴重なものなのです。
同様に,多くの報告はそれぞれ,「夜具のマット3枚,毛布3枚,いす2脚,テーブル1個,テーブル掛け1枚,ネクタイ2本,からを取った落花生(ピーナツ)8袋,からのついた落花生を入れた物置き1軒』といったようなものがこわされたり,盗難に会ったりしたことを伝えています。これもまた,工業国に住んでいる人たちにとっては,ほんのわずかな損失のように思えるかもしれません。しかし,それらのものを失う人たちにとっては,それは自分たちの小さな家の家具のすべてであり,わずかなお金を得るもとでともいうべき唯一の作物を失うことを意味しているのです。その『1枚のテーブル掛け』は,エホバの証人の妻が家庭に楽しさを添えるのに用いうる唯一の品物だったのかもしれません。
時には,証人たちから自転車やラジオあるいはミシン(たとえば,「手動ミシン1台」)などが奪い去られました。しかし,彼らにとって1台の自転車を失うのは,他の土地の人びとが自動車を失うことに匹敵します。こうした物品はいずれも,数か月分の収入,もしくは農事に1年あるいはそれ以上携わって貯えて得られるお金の額に相当する物件なのです。
ザンビアのスィンダ・ミサレ収容所から直接寄せられた報告は,その収容所にいる何千人ものエホバの証人について次のように述べています。
「兄弟たちは牛,羊,にわとり,豚,山羊などをすべて奪われました。大勢の人びとは衣服をはぎ取られたため,彼らが持っているのは,自分たちのからだについているものだけです。姉妹たちのひとりは,裸だったので,つまりマラウィ会議党の若者たちの手で丸裸にされていたので,難民収容所にはいりかねていました。そして,収容所内の他の姉妹たちから身をまとうものを送ってもらって初めて収容所にはいることができました。事実上,マラウィからのがれてきた兄弟たちはあとに残してきたものを何一つ入手していません。言いかえれば,故郷に帰っても,自分たちの手に戻る物質上の資産は一つもないのです」。
今や実例によって証拠だてられたこうした処置は,果たして正当なものとして容認できるでしょうか。マラウィのエホバの証人にあびせられた非難を考慮したうえで,読者ご自身が判断を下してください。
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彼らは『マラウィの発展を妨げる』者ですか目ざめよ! 1973 | 2月22日
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彼らは『マラウィの発展を妨げる』者ですか
仮にエホバの証人が,マラウィ会議党の決議文どおり,マラウィの「社会的,経済的発展を妨げる狂信者」であるとしても,殴打,強姦,家や財産の破壊,すべての職場からの追放 ― こうしたことを彼らに対して行なうことを正当化できるでしょうか。
マラウィは,民主的理念に基づいてつくられた共和国で,平和と公正と秩序を維持するための法律は十分にあり,教育のある有能な裁判官がいて,法廷の裁判上の制度は完備しています。
もしエホバの証人がほんとうに法律違反者であるならば,なぜこの行政機構を用いてその問題を扱わないのでしょうか。問責,逮捕,裁判,場合によっては投獄と,正しい順序で事が運ばれないのはなぜでしょうか。円熟し訓練を受けた人びとが行使し果たすべき権限と責務を,なぜ未熟で,訓練も規律もない若者たちに与えるのでしょうか。政府たるものが,なぜ無政府主義的な分子にその仕事を代行させるのでしょうか。それは,政府自身の無能さ,憲法にのっとり裁判という手段を通して問題を扱う能力が政府にないことを,示すことにならないでしょうか。
マラウィの崇高な目標
マラウィ会議党は,国民の道徳的行為の標準の向上に対する関心を表明しました。9月14日のマラウィ・タイムス紙が伝えたところによると,1972年党年次大会で代表たちが強調した問題のひとつは,「正しい,人の感情を害さない行為の重要性」でした。同紙はさらに,代表たちが,「マラウィ人として『恥ずかしくないマラウィの評判を傷つけないように』物事をする方法を学ぶべきであることを強調した」ことを述べています。
こうした点を力説したのは,終身大統領H・カムズ・バンダ博士自身であったとされています。9月19日付のマラウィ・ニュース紙は「1972年マラウィ会議党年次大会が採択した決議文にかんし,終身大統領閣下は,良いマナーと伝統を守ることの重要性を強調した」と報じています。同紙によると,終身大統領は,「子どもたちに年長者と両親を尊敬することを教えて,伝統を復活させるよう国民に呼びかけ,また教師たちにも子どもたちに作法を教えるよう勧め」ました。
正しいふるまいを奨励するこうした声明は称賛に価します。また,バンダ終身大統領の開会演説とも一致しています。その演説で大統領は,「道徳的,霊的基盤こそ規律ある国民をつくる基礎石であるとして,それを建国の基礎とすべきことを強調しました。
そこで問題は,エホバの証人が受けた残虐なしうちとこれらの声明とをどのように調和させうるのか,ということです。そのしうちは,「マラウィの評判」を傷つける以外の何ものでもありません。そのような暴力行為がどうして『国を道徳的,霊的基盤の上に築く』のでしょうか。
この目標の達成を実際に妨げている者はだれか
マラウィのエホバの証人は,人びとの家庭で,神のことばである聖書を無償で教え,隣人に道徳的,霊的啓発をもたらすべく,骨身惜しまずに働いてきましたし,何千というマラウィ人に読み書きも教えてきました。また自分自身も,道徳的に清い,神と隣人を愛する模範的な生活を送ることに熱心に努めてきました。これは確かにマラウィの,マラウィ政府,マラウィ国民の利益を『阻害』するものではありません。
しかし,若者たちに,家や所有物を破壊し,男女子どもの肉体に危害を加える全国的暴力運動に従事させることが,どのようにそれらの目標達成の助けに,あるいは国益の助長になるでしょうか。
攻撃,破壊,略奪,強姦などの味をおぼえた若者たちが,その犠牲となったグループがいなくなったというだけの理由で,そうした行為をやめ,平和な秩序ある行いにもどることを保証するものがありますか。彼らが新しい獲物を求めないこと,現政権の頭痛のたねにならないことを何が保証しますか。そのような暴力行為を鎮圧する手段を講じようとしない政府は,実際には『パンドラの諸悪の箱』のふたをあけているのではありませんか。
青年同盟のメンバーは,エホバの証人を攻撃するさいにしばしば,「われわれは警官だ」と,誇らしげに言いました。警察署はその若者たちに報告をするよう指示していましたが,彼らはそれを無視しました。そのことは彼らが,適法に任命された現在の政府職員に対して敬意をいだいていないことを物語っています。
現職員の地位を認めて敬意を払ってきたのは攻撃者ではなくて,犠牲者のエホバの証人でした。なぜそう言えますか。なぜなら,マラウィの新聞も述べているように,彼らは攻撃を受けた時にはいつでも警察に訴えたからです。従順に必要事項を報告書に記入してマラウィの法律が与える保護を求め,自分勝手に制裁を加えるようなことは決してしませんでした。
エホバの証人は,ある初期クリスチャンの手本に習い,法律上の権利に基づいて司法当局に訴えました。使徒パウロは,自分を暴徒の手から救い出してくれた当の兵士たちが,今にも自分にむちを当てようとしたとき,自分がローマの市民権所有者であることに注意を引き,その結果むち打ちは中止されました。(使行 21:30-34; 22:24-29)後日,パウロはカイザルに上訴するさいに再び自己の法律上の権利を用いました。―使行 25:9-12。
カイザルのものはカイザルに納める
キリスト・イエスは弟子たちに,「カイザルの物はカイザルに,神の物は神に納めよ」と教えました。(マルコ 12:17)エホバの証人を攻撃する人たちは,時々このことばを引用して,エホバの証人はこのことばを守らないから,苦しまねばならないのだと主張します。しかし事実はその正反対です。
聖書でこのことばの文脈を検討してみてください。そして,イエスがその時税を納めることについて論じておられたことを,ご自分で確かめてください。エホバの証人はどの国でも,最も良心的な納税者の部類にはいることで国際的な評判を得ています。
特別寄稿家のガイ・ライトは,サンフランシスコ・エグザミナーの中でマラウィの事件を論評し,エホバの証人について,「彼らは模範的市民とみなしてよい。まじめに税金を払い,病人の世話をし,文盲と戦っている」と述べています。10月22日付のニューヨーク・タイムズ紙の社説も同様に,エホバの証人は,「納税などにかんする世俗の法律には従わなくてはならない」と信じている,と述べました。マラウィを含め,どの国の政府の徴税記録も,それが真実であることを物語っています。マラウィのエホバの証人は,1953年から1972年までの間に,故意に脱税した人たちを18人彼らの会衆から正式に排斥することさえしています。証人たちは,世俗の法律に対するそのような不服従を大目に見るようなことをしないのです。
問題の難解な点は,エホバの証人は「カイザルの物はカイザルに返す」一方,「神の物を神に返す」ことにおいても同様に注意深く,それを決してカイザルには返さない,ということにあります。
『狂信的な宗派』?
しかし,党員カードの購入による政党への加入を拒むことは,『狂信的行為』とは言えないのではありませんか。あるいは,死に直面してもそのような態度を変えないとなれば少なくとも『狂信者』とは言えないのではないでしょうか。
もしこれを『狂信』と言うのであれば,一世紀のクリスチャンたちも『狂信者』の部類に入れるべきではありませんか。古代ローマ帝国においては,国の元首であった皇帝が,全市民に,忠誠のしるしとして犠牲をささげることを要求しました。わずかひとつまみの香を祭壇のほのおの上にまくだけでもよいとされました。それに対して初期クリスチャンたちはどんな立場を取りましたか。歴史は次のように伝えています。
「クリスチャンたちは…皇帝の守護神に犠牲をささげることを拒んだ。これはだいたい今日の国旗敬礼拒否や忠誠の誓いを拒むことに相当する。…たいていの場合,彼らに便利なように,火の燃える祭壇が闘技場に置かれていたが,ほとんどのクリスチャンは信仰を撤回しなかった。囚人は,ひとつまみの香をほのおの上にふりまくことさえすれば,犠牲証明書を与えられて釈放された。また,皇帝を崇拝するのではなく,ローマの国の元首としての皇帝の神性を認めることにすぎないということも,囚人に注意深く説明された。それでも,ほとんど全部のクリスチャンは,そののがれる機会を利用しようとはしなかった」― ダニエル・P・マンニックス著,「ドーズ・アバウト・ツー・ダイ」,135,137ページ。
エセル・ローズ・ペイサー著「ブック・オブ・カルチュア」(549ページ)には次のように書かれています。
「ローマはしだいに,外国の宗教の信奉者たちでいっぱいになった。彼らは要求されると,皇帝の神聖な霊に対して忠誠を誓った。ところがクリスチャンたちは強い信仰を持っていて,そのような忠誠の誓いをしようとはしなかった。彼らは,今日の国旗に類似するものと考えられる物に対して忠誠を誓わなかったために,政治的に危険な存在とみなされた」
現代においては,ひとつまみの香をたいて犠牲証明書を得るというような問題はないかもしれませんが,その代わりに,敬礼や党員カード購入の問題があります。しかし,エホバの証人にとってはこれは良心の問題です。そのように良心的であるゆえに,彼らが『政治的に危険な存在』とならないことは確実です。彼らはクリスチャンとしてあらゆる政治問題に対し中立の立場を取りますが,それは神のことばである聖書に基づいているのです。
世から離れる
わたしの弟子は,わたしが世のものでないように「世のものではない」。「だから,この世はあなたがたを憎むのである」と,神のみ子は言われました。(ヨハネ 15:19,口語)キリスト・イエスは,世の政治問題に手を出しませんでした。イエスはヘロデ王の支持者でもなければ反対者でもありませんでした。
エホバの証人も同様の厳正中立を保ち,政治問題には決して手を出しません。反乱,暴動,反抗,クーデターなどには決して関与しません。また,現在のいかなる政府職員に対しても,おびやかしを行なうようなことはしません。それと同時に彼らは,神のみ子による神の王国政府に自己の希望を置き,全面的にそれを支持し忠誠をささげます。これは彼らが神に負っているものであって,人間の支配者や政府に与えることのできないものです。もし神のことばに反することを行なうよう命令されたなら,彼らは使徒たちと同様に,「人間に従うよりは,神に従うべきである」と答える以外にはありません。―使行 5:29,口語。
『経済的発展』の妨げとはならない
エホバの証人は,マラウィの経済的発展を妨げるでしょうか。その反対です。彼らはそれに寄与します。エホバの証人を雇い入れた人びとは,証人たちが仕事をする面で良い習慣を持っており,正直で,勤勉であることを人びとに話します。記録が示すとおり,雇用者たちは,役人ににらまれる危険をあえて冒して,自分たちが責任ある重要な地位を与えていた従業員のエホバの証人のために取りなしをしました。
だいぶん前になりますが,1964年2月11日,ものみの塔協会支部の責任者,ジャーカー・A・ヨハンソンは,H・カムズ・バンダ博士に面会し,村長たちが,エホバの証人は地方の『自助』計画をまっ先に支持すると言ってほめていることを指摘しました。エホバの証人が多年あずかってきた自助計画には,れんがの製造,学校の草刈り,校舎や教員住宅の建築,道路や橋の建設などがありますが,これらはそのほんの一部です。そしてこれらの仕事はすべて自発的に,無償で行なわれました。それどころか証人たちはたびたび金銭や物質を寄付しました。
党員カードの購入
主要な争点は一点に集中します。すなわち,エホバの証人の,マラウィ会議党党員カード購入拒否です。エホバの証人に絶えず浴びせかけられている非難は,ほかのことではなく,この事に関する非難です。このカードを買うことは税金を納めることとはちがいます。それは政党に加わることです。
しかし,党員カードを買わないという理由でエホバの証人を攻撃することは,マラウィ会議党の最高幹部が過去において行なった声明に反する行為です。次のことを考えてみてください。
1967年にマラウィのエホバの証人は激しい迫害を受け,活動を禁止されました。1967年11月30日付のブランタイアのザ・タイムス紙は,「悪質な中傷と大統領は言う」という見出しのもとに,バンダ大統領の次のことばを引用しました。「われわれがエホバの証人の活動を禁じたのは,彼らがマラウィ会議党に属していないからではない。これは,私個人に,とりわけ政府に反対する悪意ある宣伝である」。
2年後,大統領が中央地域の視察から帰ったあと,エホバの証人は再び世間の注目を浴びました。ザ・タイムス紙は一面の記事の中で,次のように報道しました。「大統領は,たとえば,『国民が自由な立場で,強制によらず自分の心から党員カードを更新することを望むと私に言わしめたのは』,禁止された宗派の者たちの祈りではない,と述べた」― 1969年10月6日付,
こうして,党員カード購入問題における強権の発動には反対するという,マラウィ最高の役人の意向は公表されました。
問題は再び言行の一致ということになります。だれも党員カードの購入を強制されないということが,ほんとうに終身大統領の希望であるなら,大統領にはそれを全国で実行させる権力と権威があるのではないでしょうか。それとも大統領は,自分の配下のマラウィ会議党のある分子に対して支配力を失ったのでしょうか。マラウィ全土でエホバの証人に向けられている大々的な暴力運動に,終身大統領が気づいていないということはあり得ません。
大統領は,党年次大会の最終日に出席していました。それは,エホバの証人に反対する決議が採択された日で,それが発端となって暴力の大波がエホバの証人に押し寄せたのです。その大会後,マラウィの新聞は,バンダ終身大統領が,エホバの証人のことを,「悪魔の証人」,「政府を尊敬せず」「税金を払おうとしない」「ばか者」の宗派と呼んだということを報道しました。(1972年9月18日付ザ・タイムス)エホバの証人が政府に敬意を払い,税金を納めることが確実で明らかな以上,諸新聞は,そのような扇動的なことばを国の最高の役人が口にしたと書きたてて,『悪意ある宣伝』を行なっているのでしょうか。
同様に,青年同盟と青年開拓者のメンバーも今『悪質な宣伝』を行なっているのでしょうか。彼らは最近エホバの証人を攻撃していますが,党員カードの問題を用いてその行為を正当化しています。彼らは表明されたマラウィ最高の役人の希望に反した行動を取っているのでしょうか。
さらに重大なことは,エホバの証人たちが殴打され,家や持ち物を強奪される時に,グワンダ・チャクアンバ・フィリ議員,J・クンウェザ・バンダ議員などの政府の役人がしばしば姿を見せることですが,これはどういうわけでしょうか。それらの役人は,そのような行為に賛成することによって,終身大統領の希望にそむく行ないをしているのでしょうか。
また,M・R・カリテラが,23年勤務した郵便局をやめさせられたことを考えてみてください。だれの指示によってそういう事態が生じたのでしょうか。彼はA・N・C・チャドダザ郵政長官から次のような手紙を受け取りました。
「今朝の話し合いにおいて,あなたはエホバの証人のメンバーであること,しかもマラウィ会議党員カードを購入もしくは更新する意志のないことを認めたので,1972年10月4日の本日をもって無給で職務を禁止する。
「2. このたびの処置は,元エホバの証人のメンバーと判明した文官のうち,辞職しようとしない者があればすべて免職せよとの終身大統領閣下の指示に基づくものである」。
カリテラ氏がこの職務禁止について問い合わせたところ,人事局長の事務所から一通の手紙がきました。その手紙の2節には次のように書かれていました。
「2. 私は,郵便局長がすでに述べたこと,すなわち,マラウィ会議党カードの購入を拒否する公務員は公務に必要ないゆえに辞職すべきであるとの指示が,終身大統領閣下より出されたことを確認する。私はあなたがたがカードの購入を拒否したことにかんがみ,1972年10月4日をもってあなたの辞表を受理する」。
官吏を免職になった他のエホバの証人もみな同様の手紙を受け取りました。これらの政府の役人は,終身大統領の希望を無視し,政府の書簡用紙を使ってそのような声明を出して大統領の見解を偽り伝えているのでしょうか。
国外への逃亡
エホバの証人は,マラウィ政府,とりわけ国家の元首である終身大統領H・カムズ・バンダ博士が法的保護を与える措置をとることを希望しました。しかしその気配もないので,彼らは命を守るために逃げることを余儀なくされました。そのようにして彼らは,「この町にて,責めらるる時は,かの町に逃れよ」という神のみ子の助言に従いました。(マタイ 10:23)マラウィ全土には,彼らが逃げてゆけるような町や村はひとつもないので,彼らはやむなく国外に逃亡しました。
それにしても,なぜ神は,神に奉仕しようとする者たちに対するそのような激しい迫害を許しておかれるのでしょうか。それはどんな目的を果たすのでしょうか。
[23ページの囲み記事]
マラウィでの追放は続く
● アフリカの国マラウィでは,現在学校の生徒たちが,政権を握るマラウィ会議党の党員カードを携帯することが要求されている。その不意の命令が知らされたさい,生徒たちはカードを買うお金を取りに急いで帰宅した。従わなければ授業は受けられないのである。今までカードを携帯するよう要求されてきたのは10歳以上の生徒のみであった。これは党員でない者を追放する最新の措置である。マラウィ会議党の取った以前の措置に関し,ローデシア・ヘラルド紙はこう報じている。「いちばん苦しんだのは,禁令下のエホバの証人の宗派のメンバーであった。彼らは宗教上の理由で,党への加入を拒否している」。約2万人のエホバの証人は隣国のザンビアとモザンビクに逃れることを余儀なくされた。
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マラウィの新聞は,エホバの証人にかんする扇動的な声明を,同国の終身大統領から出たものとして報道した
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エホバの証人であるM・R・カリテラは,1949年から1972年に免職になるまでマラウィの郵便局に勤務していた。ごらんのように,彼が免職になったのは税金を払わなかったからではなく,政党の党員カードを買わなかったからである
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神はなぜこのような迫害を許しておられるのですか目ざめよ! 1973 | 2月22日
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神はなぜこのような迫害を許しておられるのですか
ブランタイア地方のチロモニでは,エホバの証人を襲った人びとは証人たちにこう言いました。「もし神がいるなら,エホバの証人に起きていることを神に見てもらい,神に答えてもらえ。神は見ているはずじゃないか」。
チャルンダでは42人の証人たちが党の地方の支部長E・Y・ゼネンゲヤのもとに連行され,その命令で,証人たちは青年同盟の会員たちの手で殴打されました。それらの会員のひとりであるチモンボは言いました。「神に救ってもらえ。もし神がいるなら,神に爆弾を投げてもらって,おれを殺してもらおうじゃないか」。
こうした発言に接して,中には次のような疑問をいだく人がいるかもしれません。『神はなぜご自分の崇拝者がゆゆしい残虐行為に苦しむのを許しておられるのだろうか』。
迫害が起きる理由
神はご自分のみ子が反対者たちの手にかかって侮辱され,苦しめられ,そして死を遂げるままにされたのと同じ理由で,今日そうした迫害を許しておられることを,神のみことば聖書は示しています。キリスト・イエスは捕えられ,打たれ,あざけられ,笑いものにされました。イエスは杭に釘づけにされて死に面したとき,人びとから次のように言われて冷笑され,愚ろうされました。「他人を救ったが,自分自身を救うことができない,あれがイスラエルの王なのだ。いま〔刑柱〕からおりてみよ。そうしたら信じよう。彼は神にたよっているが,神のおぼしめしがあれば,今,救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。(マタイ 27:39-44,口語〔新〕)しかし,神は即座に嘲笑者を打ち殺したりはしませんでした。なぜそうしなかったのですか。
それは,天と地のあらゆる被造物が関係している重大な論争のためでした。それは宇宙に対する神の至上の支配権の正当性にかかわる論争です。聖書は,その支配権の正当性が神の敵対者によって挑戦されてきたことを示しています。ヘブル語聖書中のこの「敵対者」というヘブル語はサタンですから,この主要な敵対者は「サタン」と呼ばれています。この敵対者が幾千年もの昔にエデンで引き起こした論争は,力に関するものではありませんでした。というのは,全能の神はご自分の支配に対するどんな反対をも,砕こうと思えば一瞬のうちに,いとも容易に打ち砕くことができるからです。(民数 16:45)引き起こされたのは,むしろ,倫理上の論争でした。そのために,神の律法や明示された神の意志に忠実に従うことによって実証される,神の支配に対する全被造物の献身と忠節が疑われたのです。―創世 3:1-5。ヨブ 1:6-12。
エホバ神はこの宇宙的な論争に決着をつけるため時間の猶予を与えてきました。神は,地上の人間が神の支配を受け入れて支持するかどうかを実際に示せるようにしています。義を愛する人は,試練のもとで忠実と忠節を十分に実証する機会を持っています。
ですから,神の敵対者の目的は,神をまさしく崇拝している人たちの忠実性を破ることにあります。そのような人たちが神に対する忠誠を守るなら,サタンは彼らの死を図ったところで,得るところはほとんどありません。そのようなわけで,神のみ子は死に面していながらも,ご自分の弟子たちと過ごした最後の晩に,弟子たちに向かって,「我すでに世に勝てり」と言いえたのです。(ヨハネ 16:33)その父の敵対者は,イエスを忠誠の道から引き離そうとしましたが,その努力はすべて水泡に帰しました。神に忠実を保って刑柱の上で死ぬことにより,キリスト・イエスはサタンの挑戦に対してこの上ない答えを提供し,いかなる苦しみも,ご自分の父に対する愛や,神の主権に対するご自分の忠節を破らせるほどに大きなものではないことを示しました。
それより何千年も前のこと,中東にいたヨブという名の義人は同様の試練を耐えました。歴史上の記録によれば,ヨブは神の敵対者の手にかかって子どもたちと資産を失いました。ヨブの家畜を盗み,その家畜の世話をしていた男たちを殺した略奪者たちは心の中で,神は無頓着だと考え,次のように言ったかもしれません。『いったいエホバは今どこにいるのか。彼はどうして剣か火を送ってわれわれを殺さないのか』。しかし,たとえ神がその時彼らを滅ぼさなかったとはいえ,彼らを差し向けた見えないその敵対者は完全な敗北を喫しました。それはどうしてですか。サタンとその手先を敗北させるものとなったのは,『この事においてヨブは全く罪を犯さず神にむかいて愚なることを言わざりき』という事実です。ヨブは神に対する信仰を守り,忠誠をもって試練に耐えました。―ヨブ 1:22。
イエスの場合とは異なって,ヨブはその試練にさいして殺されなかったことに注目してください。ヨブはその苦難を切り抜けて生き残り,しあわせな生活を送り,長寿を全うしました。同様に,マラウィの証人たちの大多数は苦難を切り抜けてきました。こうしてヨブや,マラウィの証人たちの大多数が生き残ったということは,彼らは迫害のもとで死んだ人たち以上に神から特別に恵まれたことを意味していますか。そうでないことは明らかです。エホバ神はご自分のみ子が殺されるのをさえ許されたからです。しかし,ある人びとが死ぬというまぎれもない事実は,死そのものも,またその脅威も神の真のしもべたちを神のみことば聖書とその義の原則にそむかせるものでないことを示す確かな証拠となります。
昔の時代と全く同様,今日でも神のしもべたちは実にさまざまの試練に会います。また,そうした試練に会うことにより,サタンの挑戦に対して,忠節と忍耐のさまざまな面のどれ一つとして見落とされることのない十全の答えを供するのです。記録によれば,昔の神のしもべたちの中には,『さらにまさりたる復活を得んために』拷問を受けて死んだ人たちもいれば,『嘲笑と鞭と,またなわめと牢獄との試練を受け…石にて打たれ,試みられ,のこぎりにてひかれ,剣にて殺され,羊・山羊の皮をまといて経あるき,乏しくなり,悩まされ,苦しめられ』た人びともいます。(ヘブル 11:35-37)しかし,彼らは神に対する忠実を保ち,神の恵みを受けました。彼らはやがて神の新秩序で命の報いを刈り取るでしょう。なぜなら,神はご自分を『求むる者に報い給う』かただからです。―ヘブル 11:6。
現代の忠実な女性の中には,ゆゆしい侮辱的扱い,ぞっとするような忌まわしい非人道的な取り扱いに耐えねばならなかった人びとがいます。しかし,それに耐えることによって ― 強姦を含め ― どんな苦しみも,神の証人たちの忠誠を破れるものではないことを示す証拠をさらに提供しています。残忍な仕打ちは,からだに傷跡を残す場合があり,性的に犯されたり,わが子が目の前で打たれて殺されたりする場合には,精神的また感情的傷跡が残るかもしれません。
それでも,エホバ神はご自分のみ子の王国の支配のもとで,そうした傷跡をことごとく拭い去るでしょう。昔の神の民,イスラエルの場合と同様,神の約束はそうした苦しみについてもあてはまります。こうしるされています。『人さきのものを記念することなく これをその心におもいいずることなし』。(イザヤ 65:17-19)振り返って見るとき,そうした試みや試練はすべて,使徒パウロがみなしたように,自分の得た永遠のすばらしい報いと比べれば,『しばらくの軽い』悩みとなってしまうでしょう。―コリント後 4:17,18。
それ以外に成し遂げられる事がら
神が迫害を許すことによって成し遂げられる事がらはほかにもあります。その一つは,迫害者自身に関係する事がらです。
迫害者の中には,キリストの弟子たちに対して『おびやかしと殺害との気をみたし』た,タルソのサウロのような人がいるかもしれません。事実,サウロは,ある人たちを殺すことに賛成し,またそれに加担する一方,パレスチナの各地で他の人びとを追跡しました。(使行 9:1; 7:58–8:3)ところが,サウロはそれらの人たちの真実の見方に照らして物事を考えるようになったのち,彼はキリストの非常に熱心な使徒たちのひとりになり,次いで,迫害のもとでみずからの忠実さを実証しました。そして,彼は,神が大いなる忍耐と過分の親切を示してくださったゆえに誤った道から離れられたことを神に深く感謝しました。―コリント前 15:9,10。
ですから,今日,苦しみに会うクリスチャンも,神の忍耐ゆえに,迫害者の中には身を転じて神の新秩序で永遠の命を得られるような人が出ることを大いに喜べます。また,今起きている事がらを見たり,あるいはそれに関する報告を読んだりする他の大勢の人びとが,真の論争をはっきりと認め,神の側に立てるようになるかもしれません。
もちろん,ほかにも成し遂げられる事がらがあります。神が迫害を許しておられるため,神に敵対し,みずからを改めようとしない,ほんとうに強情な者たちはやがて暴露されます。クリスチャンが潔白であることを示す証拠を前にしながらも,執ようにそうしたクリスチャンを攻撃する人びとは,自分自身を故意に,また意識的に神に逆らう反対者として罪に定めることになるでしょう。そうなれば,神は,この全地にまたがる不義の凶悪な事物の体制にまもなく終わりをもたらす時,それらの人たちを滅びにふさわしい者として裁く十分の理由を持つことになります。―テサロニケ後 1:6-9。
昔,使徒ペテロは仲間のクリスチャンにあてて,『愛する者たちよ。あなたがたを試みるために降りかかって来る火のような試練を,何か思いがけないことが起こったかのように驚きあやしむ』ことがないようにしなさい,と書きました。(ペテロ前 4:12,口語)今日,マラウィでも,また世界のどこでもエホバの証人は,起きている事がらを驚きあやしんではいません。証人たちは,神が迫害を許しておられる理由を知っていますし,最終結果は神に誉れをもたらし,自分たちにとっては永遠の祝福となることを確信しています。
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エホバの証人が行なう事がらと,あなたが行なえる事がら目ざめよ! 1973 | 2月22日
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エホバの証人が行なう事がらと,あなたが行なえる事がら
マラウィのエホバの証人は他の土地の証人たちと同様,清い良心を持っています。彼らは人びとや政府に逆らうようなことは何もしていません。また,神の律法に忠実に従う自分たちの歩みによって神の不興を買っているわけでもありません。彼らは使徒パウロとともに次のように言うことができます。「わたしはまた,神に対しまた人に対して,良心に責められることのないように,常に努めています」― 使行 24:16,口語。
エホバの証人は神に対する自分たちの忠節を差し控えるつもりは少しもありません。彼らは,神のみことば聖書が教える事がらをあくまでも行ない続けます。また,キリスト・イエスの真の追随者として,どんな土地に住んでいようとも,「上にある権威」に引き続き従ってゆきます。(ロマ 13:1)彼らは勝手に制裁を加えたりして,自分たちを迫害する人びとに報復しようなどとはしません。神のみ子はそういうことをしませんでした。使徒ペテロは神のみ子についてこう書きました。『キリストも汝らのために苦しみをうけ,汝らをその足跡にしたがわしめんとて模範をのこし給えるなり。彼は罪を犯さず,その口に偽りなく,またののしられてののしらず,苦しめられて脅かさず,正しくさばきたもう者に己を委ね(給えり)』― ペテロ前 2:21-23。
脅迫手段に訴えたり,政治的あるいは経済的圧力を加えるとか,反対者に対抗して暴力行為を扇動するなどの手段に訴えたりしたのでは,エホバの証人は逆にみずからを自分たちの敵対者のかたちに合わせて形作ってゆくことになるだけです。そうなったのでは,その代償として神の是認を失いかねません。彼らはそうするどころか,使徒が霊感を受けて述べた次のような助言に従います。『悪をもて悪に報いず……愛する者よ,自ら復しゅうすな,ただ神の怒りにまかせまつれ。しるして,「〔エホバ〕いい給う,復しゅうするは我にあり我これを報いん」……悪に勝たるることなく,善をもて悪に勝て』。(ロマ 12:17-21〔新〕)したがって,エホバの証人は,永続する真の救済をもたらすエホバの公正な手だてを待ち望んでいます。
人をささえる神の力に対する全幅の信頼
エホバの証人は,神の約束を信頼しているからこそ,こうした道を取ることができるのです。神は,ある期間彼らが試みられるままにすることがあっても,決して彼らを見捨てるようなことはなさいません。反対は証人たちの生計の手段となるものをさえ奪い去ってしまうかもしれませんが,それでも,『われさらに汝を去らず,汝を捨てじ』という神の約束は依然として真実です。ですから,証人たちは勇敢にふるまい,『〔エホバ〕わが助け主なり,我おそれじ。人われに何をかなさん』と言うことができるのです。(ヘブル 13:5,6)彼らは,いざという時には物質的にも,また他の面でも神が力を貸して支えてくださること,またたとえ死ぬようなことがあっても,神は新秩序で自分たちを命によみがえらせてくださることを知っています。―使行 24:15。
彼らは問題に耐える力や問題に対処する知恵を神から与えられて神の助けを受けるという個人的な経験をするゆえに励みを得ます。パウロや仲間のクリスチャンのように,マラウィあるいは難民収容所にいるエホバの証人は次のように言うことができます。『われら四方より患難を受くれども窮せず,せん方つくれども希望を失わず,責めらるれども捨てられず,倒さるれども滅びず,常にイエスの死を我らの身に負う』― コリント後 4:8-10。
彼らはこのこと,つまりエホバ神はご自分の民が解体され,滅ぼされるままには決してなさらないことをよく知っており,そのことから真の慰めを得ています。財産や所有物を失う場合があるのは事実です。中には殺される人さえいるかもしれません。もっとも,普通,そのような人はごく少数です。しかし,神はご自分の任命した天的な審判者イエス・キリストを通してご自分の民を支持しておられるので,その民が絶滅されるままには決してなさらないことを彼らは知っています。
彼らはこの世の政治体制の法律に引き続き従順に従い,法に対する不敬な行ないをしたりはしません。同時に,エホバの証人は世から離れた自分たちの立場を堅持します。そして,自分たちの真の希望と信頼を置くものとしての神の王国政府の側にしっかりと立ち続けます。彼らが神の是認を得るかどうかはそのことにかかっているのです。―ヨハネ 18:36。
迫害されている人たちを助けるための努力
マラウィのエホバの証人は,自分たちの面している危機の時を首尾よく,また忠実を保って切り抜けるのに必要な助けを神に祈り求めてきました。同様に,世界中の彼らの霊的な兄弟たちも,使徒ペテロが投獄されて死の危険に面した時,初期のクリスチャンが行なったように,彼らのために祈っています。(使行 12:5)使徒パウロは自分がユダヤの不信者たちの手から救い出されるよう祈ってもらいたいと仲間の兄弟たちに願い求めました。(ロマ 15:30,31)ですから,あなたも,不当な苦しみを受けている今日のクリスチャンのために神にささげられている祈りに声を和することができます。
昔,神のみ子はあるたとえを述べ,その中で地上の諸民族を,羊飼いによって分けられる羊と山羊にたとえました。そして,裁きを行なうためにご自分が臨在する時にその分けるわざをみずから行なうであろうと説明されました。その臨在が目に見えないことは,たとえの中に出てくる者たちが彼に次のように尋ねるだろうと述べたそのことばから見て明らかです。『主よ,いつなんじの飢えしを見て食らわせ,渇きしを見て飲ませし。いつなんじの旅人なりしを見て宿らせ,裸なりしを見て着せし。いつなんじの病み,また獄にありしを見て,汝にいたりし』。それに対してイエスはこう答えると述べました。『わが兄弟なるこれらのいと小さき者の一人になしたるは,すなわち我になしたるなり』― マタイ 25:31-40。
マラウィその他の場所の人びとの中には,エホバのクリスチャン証人が苦しんでいるのを見て,援助と慰めを差し伸べている人たちがいます。中には,それら証人たちが潔白であること,その音信の真実性を認めて,正しいことを支持し,証人たちの味方をしている人たちもいます。そのために,中には,みずからも迫害されている人もいます。しかし,彼らは歓喜できます。なぜなら,エホバ神とそのみ子は彼らのことを見ており,報いを与えてくださるからです。『羊のような』人たちに,イエスは次のように述べるであろうと約束しました。『わが父に祝せられたる者よ,来たりて……汝らのために備えられたる〔王国〕を嗣げ』。そうすることによって,彼らは『永遠の〔切断〕』,つまり反対の道を取る人びとに定められている完全な滅びに陥らずにすみます。―マタイ 25:34,46〔新〕。
これからもマラウィの大勢の人びとがエホバのクリスチャン証人に対して同情を示し,そうです,神のみ子の治める神の王国のために証人たちが示してきた確固とした信仰と破れることのない献身の目ざましい記録に対して賞賛の意を表すものと期待されます。同時に,この国の公の要職にある人たちが,エホバの証人はマラウィの存続を脅かすどころか,あらゆる人の永続する福祉に資する特質である正義や高い道徳規準を擁護する勢力であることを認め,それら証人たちに対してなされた不当な行為を正す措置を講じ,またそうすることによって,すべての傍観者たちの前で自国の品位を確保するようになることが期待されています。
マラウィの国内,あるいは国外の難民収容所内のいずれを問わず,マラウィのエホバの証人が訴えているのは,同共和国の憲法に定められている条項を証人たちのためにマラウィ政府に認めてもらいたいということ,ただそれだけなのです。その憲法条文は第一章でこう述べています。
「第三条 政府およびマラウィ国民は,国際連合世界人権宣言に収められている個人の自由,および国際法の遵守は神聖であることを引き続き認める。
「第四条 何人も正当な補償の支払いを受けずに,また公共の福祉の点で要求される場合を除いては,個人の財産を奪われることはない。
「第五条 皮膚の色,人種または信条を問わず,国民はすべて,平等の権利と自由の享有を妨げられない」。
エホバの証人の関係している最近のマラウィの一連のできごとは,マラウィ共和国憲法のこれらの条項に対する関心を実際に表明する機会を同政府の最高責任者各位に提供するものとなっています。では,マラウィの政府高官は,その国民のエホバのクリスチャン証人のそうした合法的権利の回復を図るべく行動するでしょうか。
読者の皆さんにも,マラウィの当局者に個人的に手紙を書いて,その国で非常な苦しみをこうむっている人たちのために,ご自分の考えを表明し,それらの人たちに対する心配と同情の気持ちを当局者に伝え,彼らのために救済策を早急に講ずるよう,訴えていただきたいと思います。そうした訴えの手紙を送るため,マラウィの当局者の住所氏名を次のページに掲げます。
政府高官の住所氏名
His Excellency the Life President, Dr. H. Kamuzu Banda
Central Government Offices Box 53 Zomba, Malawi
The Honourable A. A. Muwalo Nqumayo, M.P. Minister of State (President's Office)
Central Government Offices Box 53 Zomba, Malawi
The Honourable A. M. Nyasulu, M.P. Speaker of National Assembly
Central Government Offices Box 53 Zomba, Malawi
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ギレアデ卒業生の台湾への到着目ざめよ! 1973 | 2月22日
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ギレアデ卒業生の台湾への到着
前号の「目ざめよ!」誌では,第二次世界大戦前後の困難な時期における台湾省のエホバの証人のわざの進展状況が説明されました。厳しい迫害にもかかわらず,真理は,出井家族の住んでいた西海岸の新竹<シンチュウ>や東海岸の台東<タイツン>県の池上<ツウサン>周辺の数百人もの阿美<アミ>族の間に,しっかりと根を降ろしていました。しかし,1949年に至るまでは,反対していた地方の当局者たちがエホバの証人のことを新任の中国人官吏に偽って伝えていました。「1972年のエホバの証人の年鑑」(英文)に掲載されたその記録はさらに続きます。
1949年2月2日,ギレアデ第11回生ふたりが上海から基隆港に到着しました。彼らを出迎えたのはひとりの中国人のエホバの証人の兄弟と2,3人の阿美<アミ>族の兄弟でした。ふたりはしばらくの間,新竹<シンチュウ>の出井家に滞在したのち阿美<アミ>族の住む地域へ出かけました。彼らは何という大きな変化を経験したのでしょう。そこには浴槽もなければ電気や洋式ベッドもありませんでした。ふたりは,土間と草屋根の,そして寝る場所が一段と高くなっている家で阿美族式の生活をしました。豚小屋の片角が手洗いになっていました。ふたりは兄弟たちを助けるためにそこへ行ったのです。たいせつなのはそのことでした。
聖書の音信に関心を持つ人が300人ばかりでなく600人もいることを池上<ツウサン>で聞いたふたりは,その人たちの住む村を残らず訪問することにしました。土地の兄弟たちは数人の「使い」を走らせて各群れに通知させました。知らせが行き渡ると,300人や600人どころか,1,600人の人びとが招きに応じてやってきました。幸いにも,マックグラスおよびチャールズ両宣教者はギレアデで少し日本語を学んでいたので,聖書に関心を持つそれらの人に,日本語の聖書と辞書の助けを借りながら神の組織について話すことができました。ふたりの講演は日本語を理解できない人びとのために阿美語に訳されました。マックグラスとチャールズ兄弟は,新しく兄弟になった人びとが円熱に達するための組織的な聖書研究を必要としていることに気づきました。
ふたりは一度にひとつの事柄を教えることにし,その基礎として「神を真とすべし」と題する本を選びました。集まる兄弟たちに講義ができるようになるまでには,しんぼう強い研究と準備に5日間もかかりました。「使い」たちは集まる場所と時間を関心のある人びとに知らせました。マックグラス兄弟がひとつの方向に出かけて行けばチャールズ兄弟は別の方角に行きました。ふたりは各村で,質疑応答の形式による教えるわざに正味8時間以上費やし,夜には兄弟とくつろいだ交わりを持ちました。
土地の兄弟たちは誠実ではありましたが,聖書の音信の理解には空白のところがたくさんあり,その面の訓練を必要としていました。たとえば,多くの姉妹たちがときどき集会を休みました。そこで調べてみた結果,生理期間中の女性に関するモーセの律法上の制限が姉妹たちに適用されていたことがわかりました。エホバの証人の姉妹たちは,その期間中は集会に出席してはならないと言われていたのです。それで宣教者は,クリスチャンが「律法の下にあらず,恵みの下にある」ことをみんなが理解するように助けました。
マックグラス兄弟は,王国のわざの認可を得る目的で何度も首都に出かけました。一方,チャールズ兄弟は関山
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