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人間 ― 造られてからどうなったか目ざめよ! 1980 | 7月8日
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はエホバへの愛を脇へ押しやりました。二人が与えられた神の属性はもはや釣り合いの正しく取れたものではなくなり,二人は不備なところのある,不完全な者になってしまいました。そして,神の警告どおり,死の判決を受け,子孫に不完全さと死を伝えました。―詩 51:5。ローマ 5:12。
しかし,その子孫は今日でも,ある程度まで神のそうした属性を有しています。例えば知識欲があります。小さな子供でさえ,知識に飢えています。口がきけるようになるやいなや,その頭脳からは泉のように質問がわき出てきます。子供は答えを求め,思考の糧を切望します。この果てしなく続く質問に大人は目を見張り,時には途方に暮れ,いきり立ち,ついには疲れ果ててしまいます。しかし矢つぎ早の質問を浴びせるのは,自然に起きる好奇心や知識欲を満たすためです。これはどうしてなの。あれはどうしてなの。なぜ,どうして,なぜ。こうたたみかけられると,質問を浴びせられた方の親は,しまいに,やけを起こし,「お母さんに聞いておいで!」とか,「お父さんに聞いてきなさい!」と言って,悲鳴を上げるでしょう。しかし,幼い子供のこうした好奇心はいとうべきものではなく,年老いた人もこの好奇心を失うべきではありません。それは,知るというわたしたちの生来の必要を満たすためのものです。
「知識のある者は力を補強するもの」。(箴 24:5,新)今日までの知識の積み重ねの結果,人間には鳥よりも高く,速く飛ぶ力があり,どんな動物よりも早く陸路を走り,魚よりも早く水中を進む力があります。人間は地球の裏側で起きている出来事を見聞きできます。また,月まで行って,帰って来ました。わたしたちは力に魅せられます。クレーンが鋼鉄の玉を古いれんが造りの建物の横腹にぶつけて,その建物を跡形もなく取り壊してしまうのを見ると,心を奪われます。突進するサイ,ジャングルの中を一気に駆け抜けるゾウ,空を走る稲妻,轟く雷鳴,嵐にもまれる海 ― わたしたちはこのような力に畏怖の念を抱きます。
人間には公正の感覚があります。子供でさえ不公正には敏感で,自分たちが公平に扱われなかったと感じると,非常に気分を害します。大人も,不公正な仕打ちを被ると,正当なこととして憤りを覚えます。物語の中では,正義が勝利を収め,正義の味方が勝ち,悪者が公正に照らして当然の懲罰を受けてほしいと願います。自分のまいているものを刈り取るというのも全く公正なことです。わたしたちが自分にして欲しいと思うとおりに,他の人に行なうのは,公正で公平なことです。(ガラテア 6:7。マタイ 7:12)神の律法を持たない人々にさえ,生まれながらに正邪の感覚,および自らをとがめたり,釈明したりする良心が備わっているのです。悪いことをすると,わたしたちは罪悪感を抱きます。罪を犯したときに身を隠したアダムやエバと同じです。―創世 3:8-10。
多くの人は知恵を得たいと願い,研究と黙想を通してそれを得ようとします。人間の場合,他の多くの地上の生物と異なり,生まれつき知恵があるわけではありません。中には人間を驚かせるような知恵を持っている動物がいます。そうした動物は本能に従って,渡りをし,冬眠や夏眠をし,建設作業をし,知恵を反映する他の様々な活動に携わります。聖書は,「それらは生まれつき賢い」と述べています。(箴 30:24,新)しかし,人類には知識を習得し,それを賢明な仕方で用いる能力があります。人間は黙想によって,洞察と理解を得ます。こうした柔軟性に富む知恵を持っているのは,地球上の全被造物の中で人間だけです。
エホバは目的を持たれる神です。そして,人間は人生の目的を必要としています。もし目的がないと,また自分の人生に意味がないと,苦悩することになります。目的を成し遂げるには人間は働かなければなりません。働くと,自分が有用であると感じます。神は人間を働くものとして造り,「エデンの園に住ませ,それを耕させ,またその世話をさせ」て,なすべき仕事をお与えになりました。人間が「自分のすべての勤労によって善を見る」ことは,エホバの賜物です。(創世 2:15; 伝道 3:13,新)仕事の出来栄えは働き手の反映であり,働き手の価値を証しします。仕事が立派に成し遂げられ,完了し,目的が成就するのを見ると,満ち足りた気持ちになるものです。エホバはご自分の創造の業を非常に良いと宣言され,その成し遂げられた事柄によってさわやかな気分になられました。―創世 1:31。出エジプト 31:17。
何よりも,人は愛を必要としています。愛し,愛される必要があるのです。さもないと,心の中が干上がってしまいます。身体面では十分の世話を受けた子供でも,愛されないと,成長が止まり,死んでしまうことさえあります。大人も愛されないと,孤独を感じ,意気消沈し,落胆しきってしまいます。「人の霊はその人の病状に耐えることができる。しかしひしがれた霊については,だれがそれを忍ぶことができようか」。(箴 18:14,新)愛はすべての事に耐え,すべての事を忍耐します。愛がないと,生活の大半は耐えられない,忍耐できないものになります。(コリント第一 13:7)この多事多難な時代にはよく物不足のことを耳にしますが,地球上で一番不足しているのは愛です。精神科医の話では,今日の精神病のほとんどの背後に愛の不足がある,とのことです。
このことが分かったので,人間は何に動かされて行動するのか,という質問の答えを見いだす次の段階に進めます。人間の生来の必要が満たされないと,必ず問題が起こります。自動車は特定の必要を持つものとして設計されています。その必要が満たされないと車は走りません。必要が満たされるとしても,それが十分でないと,車は走っても,きちんと走りません。人間も同じです。最初の人間夫婦は満たされねばならない特定の必要を持つものとして造られましたが,今日の人間もその同じ属性を有しています。そうした必要が満たされなかったり,部分的にしか満たされなかったりすると,人間という信用のおけない機械も正しくその機能を果たしません。時として逆上し,信じがたいほど冷酷なことをやってのけます。
湾曲した鏡が人体を異様な姿に映し出すのと同じく,ゆがんだ人格は人間の特質を,ねじ曲げられ歪曲された形で明らかにします。公正・愛・知恵・力などの神の属性はいまだに人間に備わっています。しかし,不完全であるため,それらの特質が働く際に釣り合いが取れなくなっているのです。これらの特質に関して,人間は平衡を保てない者になってしまいました。
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人間 ― どうしてそのように行動するのか目ざめよ! 1980 | 7月8日
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人間 ― どうしてそのように行動するのか
遺伝のせいでしょうか。環境のためですか。選択の自由の問題ですか。それとも本当のことは分からないのでしょうか。
「遺伝のせいだ!」 自分の非行を弁解しようとして,一人の人はこう言います。確かに,遺伝によって,つまり遺伝子によって,人の行動は左右されます。聖書はこの点に同意して,次のように述べています。「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」― ローマ 5:12。
「環境のせいだ」と,別の悪行者は弁明します。それもやはり一つの要素です。「賢い者たちと歩んでいる者は賢くなり,愚鈍な者たちとかかわる者は悪い事態に陥る」と,聖書は述べています。
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