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人間 ― 何に動かされて行動するのか目ざめよ! 1980 | 7月8日
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人間 ― 何に動かされて行動するのか
人間は善悪二通りの行動を取ります。人間には善と悪が入り交じっています。的を射ていることも多々ありますが,的を外してしまうことも少なくありません。人間は矛盾しており,厳しい面と優しい面を兼ね備えています。なぜでしょうか。どうしてそうなるのでしょうか。実際,人間は何に動かされて行動するのでしょうか。人間のことを扱ったこの一連の記事は,その答えを探ります。
ある日,一人の人は部屋に入るなり,妻と四人の子供を射殺します。一方,別の人は自分の家族の世話をするために刻苦勉励の生活を送ります。なぜそんなことが起きるのでしょうか。
ある人は人類に奉仕するために生きるかと思えば,別の人は犯罪と暴力の生涯を送ります。人の苦難を和らげようと惜しみなく与える人もいれば,富をため込んで,苦痛や貧困を引き起こす人もいます。貧しい者に施しをする人もいれば,人が貧しいのは自業自得だ,という態度を取る人もいます。建てたり,創造したりすることから喜びを得る人がいる一方,無分別な蛮行から執ように喜びを得ようとする人もいます。異なった人がこれほど異なった行動をするのはなぜでしょうか。
さらに,同一人物でも非常に親切で,慈しみ深い時があるかと思うと,別の時には打って変わって厳しくなるのはなぜでしょうか。人類の益のために自分の知識とそれから得られる力を用いるような人が,今度は逆にその同じ知識を使って,婦女子を吹き飛ばすような爆弾を造ります。後になって後悔する人もいれば,何も感じない人もいます。この内面の矛盾,肉と霊とのこの戦い,一人の人間の内に内輪もめのようなこの状態が存在するのはなぜですか。それは受け継いだものでしょうか。環境によるのでしょうか。人間の内部に,満たされない必要があって,それが人々を悪行へと駆り立てているのでしょうか。もしそうした必要が満たされるなら,そのような人々は自分の行ないたいと思う善を行なえるようになるでしょうか。
パウロはこの内面の葛藤についてこう書いています。「私は自分のしていることを理解していません。自分のしたいと思うことはせずに,憎むところを行なうからです。私は自分の行ないたいと思う良い事柄を行なわず,行ないたくない悪を行なうのです。私の内なる存在は神の律法を喜んでいますが,私は自分の肉体に別の律法が働くのを見ます。それは私の思いが是認する法と闘うものです」― ローマ 7:15,19,22,23,「福音聖書」。
イエスの異父兄弟ヤコブは,人間の内なる矛盾についてこう書いています。「舌は,人類のだれもこれを従わせることができません。御しがたい,有害なものであって,死をもたらす毒で満ちています。わたしたちは舌でエホバを,すなわち父をたたえ,しかもその同じ舌で,『神に似た様で』存在している人間をのろいます。祝福とのろいが,同じ口から出て来るのです。わたしの兄弟たち,こうした事がこのようにして続いてゆくのは正しくありません」― ヤコブ 3:8-10。
「神に似た様で」存在するようになったと述べられていることに注目しましょう。これはどういう意味ですか。人間は何に動かされて行動するのか,という質問に答える鍵がそこにありますか。
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人間 ― その始まり目ざめよ! 1980 | 7月8日
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人間 ― その始まり
その始まりを知れば,人間の今ある姿を理解するのに役立ちます
最初の人間夫婦に関する聖書の記述は,論理的にも,科学的にも信じられるだけの根拠のあるものです。a その書物の第一章はこう述べています。「[神は]神にかたどってこれ[人]を創造された。男性と女性にこれを創造された」― 創世 1:27,新。
「神にかたどって」とはどういう意味ですか。最初の人間は身体的な特徴の点で,神に似ていたのですか。そうであれば,最初の人間やその子孫は,神に似せた彫像を作り得たはずです。しかし,それは不可能でした。そこでイザヤはこう尋ねています。「あなたがたは神をだれに例えることができるのか。どんな似た様をその傍らに置き得るのか」。イエスご自身,「だれもいまだ神を見た人はいない」と述べました。そこで,「神に似た様で」とはどういう意味か,という疑問が再び起こります。―イザヤ 40:18,新。ヨハネ 1:18。
ある男の子を見て,「お父さんそっくり」と言う場合でも,その子の外見は父親に似ていないことがあります。それでも,気質・個性・機械いじりの才・楽才・機敏さ・徳性など,外見以外の面では父親に似ています。父親に似た属性を持っているので,父親に似ていると言われるのです。
最初の人間夫婦が神に似た様に造られたというのも,この同じ意味においてです。両人には,神の属性のあるものが賦与されていました。これが人間と下等動物との間の途方もなく大きな隔たりを説明しています。神に似たこのような特質が備わっていたので,人間は動物を治めることができました。神は男と女の双方にこう言われました。「生んで,多くなって,地に満ち,それを従えよ。そして海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」― 創世 1:28,新。
神は人間を男と女に造られました。異なるものとしてお造りになりましたか。明らかに異なっていました。肉体的な造りが異なり,精神的な造りが異なり,感情的な造りが異なっていました。男と女はこうした相違点があることを喜んでいます。そのような相異があるので,男と女は互いに補い合う者となっています。二人は補うものとなるよう造られました。(創世 2:18,20)男は,女とは異なる特定の一つの面で神にかたどって造られていました。それは頭の権においてです。(コリント第一 11:3,7)創造の際に賦与された神の属性を有しているという点では,男も女も共に神に似た様であると言えました。
最初の人間夫婦に植え込まれた神の特質にはどのようなものがあるでしょうか。その幾つかは目に見える創造物に明らかに表われています。ローマ 1章20節はこう述べています。『神の見えない特質……は,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるのです』。言葉も声も言語も用いずに,天と地の神の業は神の属性を反映させることによりその栄光を告げ知らせています。―詩 19:1-4。
確かに,知識と知恵は,地球とその上の動植物の内に読み取れます。そして,雷雨があると,神の力を感じるのではありませんか。その創造物に見られる無限の多様性は,神が産出的な働き手であられることを実証しています。それらは神が目的を持たれる至高の設計者であられることをも明らかにしています。公正という神の特質は次の点に示されています。神は特定の必要を持つものとして創造物を設計されました。そして公正さをもって,そうした必要を満たされました。神は公正の要求するところを満たすにとどまらず,愛をもって邪悪な者たちにさえご自分の恵みを注いでおられます。イエスはこの点を示して,こう語られました。「あなたがたの敵を愛しつづけ,あなたがたを迫害している者たちのために祈りつづけなさい。それはあなたがたが,天におられるあなたがたの父の子であることを示すためです。父は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださるのです」― マタイ 5:44,45。
最初の人間夫婦はこうした特質を備えていたか,さもなくばそうした特質を獲得する能力を有していました。この点で二人は神に似た様であったのです。しかし,歴史の示すところによると,人間はこうした特質をいつも示してきたわけではありません。そして今日でも示していません。何が起きたのでしょうか。人間はもはや神に似た様ではなくなってしまったのですか。
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