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人生には確かに目的がある人生には確かに目的がある
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1章
人生には確かに目的がある
1,2 たとえ楽しい生活をしている人でも,どんな疑問に悩まされる場合がありますか。(伝道 1:2-4,10,11)
生きているというのは何と良いことでしょう。自分が何事かを成し遂げており,自分の生活に本当に意義があるのを知るのは何とうれしいことでしょう。漫然とした生活,目的のない生活はだれにとっても楽しいものではありません。
2 全地の幾億もの人々は骨折って働き,生きることに幸福を見いだそうとしています。それでも人はやがて立ち止まって考え,自分は一体どこに向かっているのだろうか,と問うようになります。人生とは,わずかな期間生きて家名を継ぐ子供たちを育て,次いで,その子供たちが同じ事柄を繰り返すことにすぎないと思えるかもしれません。人生にはそれよりも優れた目的はないのでしょうか。
3,4 (イ)どんな事柄のために人生の計画があっという間にすっかり変えられてしまう場合がありますか。(詩 90:10)(ロ)人生をより有意義なものとする何かを望むとするなら,どんな問題の答えを見いださねばなりませんか。
3 さらに人々は,経済的混乱や戦争その他の災難によって,生がいの努力が無に帰してしまう場合が多いことを知っています。さらに痛ましいのは,病気や事故や犯罪で自分の深く愛する者を失い,突如当てのないむなしい生活を余儀なくされることです。すべてが順調に進んでいる人の場合でも,人の命は余りに短く思われます。わたしたちを取り巻く無窮の宇宙と比べると,人の生がいは時計の一刻みにすぎません。
4 人類にはもっと良いもの,人生に真の意味を付与できる何かが備えられているに違いありません。とすれば,それは何でしょうか。この問題に答えるには,まず,もっと根本的な問題,すなわち,宇宙とその中のあらゆる生命は“優れた建築家”つまり神の所産か,という問題の答えを得なければなりません。
目的を持つ優れた建築家がいるか
5 神の存在に関してはっきりしなかったり疑問があったりするなら,自分の人生や周囲の人々の人生にどんな影響を及ぼしかねませんか。
5 わたしたちが物事の起源をどう見るかは,人生観や周囲の人々に対する態度に,多くの人が考えるよりはるかに大きな影響を及ぼします。宇宙の創造者が存在しているかどうかがはっきりしないなら,人生の明確な目的についても確信が持てないかもしれません。また,他の人間に対する真の義務についてもはっきりしなくなります。するとどうなりますか。もし確信が持てないなら,各人は自分に一番良いと思うところに従って生活を形造っていかねばなりません。ということは,わたしたちには正邪の明確な基準,他の人に対する本当の意味での責任感がないことになります。そのために,どれほど多くの問題が生じ,どれほど生活の喜びが失われるかは容易に理解できます。
6,7 (イ)ある人はなぜ創造者はいないと結論しますか。しかし,その人たちは何を見過ごしているかもしれませんか。(ロ)宇宙を時計と比較するなら,創造者に関して論理にかなったどんな結論を引き出せますか。(イザヤ 40:26)
6 優れた建築家,目的を持たれる神を信じるどんな根拠がありますか。ある人々は不正や苦しみがあまりにも多いのを見て,創造者などいないと結論します。しかし,そうした人たちは,創造されたとしか説明のつかない多くの事物があることを見過ごしているのかもしれません。時計を見せられて,その時計には製作者がいないと言われたら,人はそのことを信じないのではありませんか。そして恐らく,時を刻むその器械が明確な目的を果たしていること,それゆえ当然,その製作者には目的があることを示しているのを認めるでしょう。では,それよりはるかに複雑で畏怖の念を起こさせる,わたしたちを取り巻く宇宙についてはどうでしょうか。問題は,創造者の目的が何かを理解できないことにあるのではないでしょうか。目的を持つ創造者が必ず存在するという証拠を幾つか考慮しましょう。
7 天体は,計り知れないほど長い間,驚くべき正確さと猛烈な速度で広大な軌道を公転してきました。惑星は太陽の周りを秩序正しく運行しており,無数の星や他の天体は星雲や星雲団に編成されています。その運行の規模の大きさや驚嘆すべき正確さと比べれば,最も優れた時計でさえほんのおもちゃに過ぎません。わたしたちは次のように自問せざるを得ないのではないでしょうか。時計に製作者がいるのに,それよりはるかに畏怖の念を起こさせる精巧な宇宙に製作者がいないなどと言えるだろうか。さらに,それほど複雑で正確なものに目的がないということがあり得るだろうか,と。
8 宇宙を偶然もしくは盲目の力の所産とすることはなぜ証拠に反していますか。(ヘブライ 3:4)
8 こうした正確さと秩序が偶然とか盲目の力によって生じたと言うなら,それはあらゆる証拠に反することになるでしょう。単なる偶然によって秩序のあるものができた例がありますか。機械,生産ライン,家,あるいは簡単なほうきなど,どれを取っても,それぞれには設計者,つまり人間がいます。無生物が偶然の力で自らを何らかの整った製品にしたり,整然とした過程を踏んだりすることは決してありません。どれほど長い時間をかけても,風や水が物体を組み立てて,ごく簡単な機械にさえすることはありません。ある目的を果たすよう作られている物にはすべて,理知のある組織者,また製作者がいるはずです。
9 物質が常に存在してきたのでないことを,放射性物質はどのように裏付けていますか。
9 創造者はいないとする立場を取るとしましょう。すると,宇宙は常に存在してきたのであり,宇宙内の物質は永遠に存在しているということになります。しかし,厳然たる証拠は,物質が常に存在してきたのではないことを示しています。例えば,地球の元素の中には不安定なものがあります。いわゆる,放射性元素というのがそれです。ウラニウムの場合,放射線を出し続けてついに鉛になります。しかし,物質が常に存在してきたとすれば,今日放射性元素は残っていないはずです。水の,漏れるたるからついには水が完全になくなるように,放射能は遠い昔にすっかり“尽き”ているはずです。
10 温度差の存在は,宇宙に始まりがあったことをどのように示していますか。
10 もう一つの証拠は,太陽の炎熱から大気圏外の極寒に至るまで,宇宙内に温度差があることです。熱の作用に関して,科学的に受け入れられている法則(熱力学の法則と呼ばれる)によれば,熱は常に,熱いものからより冷たいものに流れ,両者は最終的に同じ温度になります。さて,もし,宇宙とその中の物質が永遠に存在してきたとしたら,(「熱力学」によれば)どこもかしこも同じ温度であり,しかも非常に冷たいことでしょう。しかし,ありがたいことに実際にはそうではありません。太陽は他の無数の星と同様,熱とエネルギーを放出し続けているのです。このことは,宇宙,およびそれを構成している物質に初めがあったことを証明しています。
11,12 原子を研究するとどんな結論に達しますか。
11 科学者は物質とくに原子を研究して,あらゆる物質はエネルギー,それも,膨大な量のエネルギーの所産であるという証拠を見いだしています。かつて科学者たちは原子を,物質の最も単純な形態,あらゆる物質を形成している,それ以上分割できない基本単位と考えていました。ところが,科学者たちは長年の研究の末,原子の構造は非常に複雑なので,今のところ原子の秘密を解明することは不可能であることに気付いています。原子やあらゆる物質を形成している,そして宇宙の運行を開始させた,途方もなく膨大なエネルギーの源は,当然人間のそれよりはるかに勝った知性を有する人格的存在であるに違いありません。確かに,これらの事柄は,宇宙が間違いなく過去のある明確な時に始まったことを示す,強力かつ事実に基づく証拠です。宇宙は創造されたのです。
12 では,わたしたち人間が住んでいる惑星,すなわちこの地球についてはどうでしょうか。地球に生命維持能力が備わっていることは,知的で目的のある造りにどのように表われているでしょうか。
太陽と地球には密接な関係がある
13,14 太陽は,強力で親切な優れた建築家の存在をどのように証明していますか。(詩 74:16)
13 人間は原子力発電所 ― 原子炉 ― を造っていますが,その出力は,他のどんな手段も及ばないほど大きなものです。しかし,壊滅的な爆発を起こさないよう,それを絶えず監視していなければなりません。そうしていても,すでに何件もの事故が起きています。ところで,人間の造った原子炉は,太陽に比べれば全く取るに足りません。もし太陽の強力な爆発作用が制御されないなら,地球はまたたく間に燃え尽きてしまうでしょう。ところが太陽は,一見して全く,あるいはほとんど変化せずに幾十億年もの間ずっと光と熱を放出してきました。太陽の質量のわずか1%をエネルギーに変換するだけで,少なくとも10億年の間今と同じ強さの光が放出されるのです。
14 では,人間の造った原子炉が知的な設計を要したのに,それよりはるかに大規模で,ずっと信頼できる原子炉である太陽が単なる偶然によって存在するようになったと結論するのはどれほど理にかなっているでしょうか。むしろ,ばく大なエネルギーのうち,ちょうど適量を1億5,000万㌔ほど離れた地球まで安全に伝える太陽“原子炉”を設計したことに対して親切で優れた建築家に誉れを帰すべきではないでしょうか。
15 太陽と地球の間の距離のうちに,目的のある設計がどのように示されていますか。
15 地球が太陽エネルギーを利用して生命を維持できるようにしている幾つかの要素をさらに詳しく考えましょう。太陽と地球の間にはちょうど良い距離が保たれています。太陽が今より少しでも近いと,地球は生命が存在するには熱すぎるでしょう。また,もっと遠かったなら地球は冷たすぎてしまいます。
16 (イ)地球が地軸を中心として自転することは,人間と動物に食物を供給することとどんな関係がありますか。(詩 104:14,19-22)(ロ)太陽を回る地球軌道面に対して地軸が傾いているため,わたしたちの益となるどんな目的が果たされていますか。(創世 1:14; 8:22)
16 地球は,どの地点においても植物が生長するのにほどよい長さで昼と夜が交互に訪れる速度で自転しています。植物は太陽エネルギーを利用して水と炭酸ガスを糖類に変えます。この過程は光合成として知られていますが,動物と人間の食物の生産に不可欠です。(創世 1:29,30)地軸は垂直の位置から一定の方向に約23.5度傾いているので,季節というものがあります。また,地球は各季節がほどよい長さになるような速さで太陽の周りを回っています。一日の長さや季節の長さは土地によって幾分異なりますが,それでも,種々様々な草木は生長に必要なエネルギーを得ています。
わたしたちを取り巻く大気 ― 生きるのに理想的な環境
17 地球の大気と太陽はどのように協働して,太陽光線の致死的な影響に対する保護となっていますか。
17 もし,これまでに述べた事柄のどれか一つが大きく変化したら,地上の生物は大きな害を被ります。しかし,それらとても,生命に必須なものの一部にすぎません。事実,地球を取り巻く大気がなかったら,太陽の光とエネルギーは無益なものとなり,危険でさえあります。地球の厚い大気は致死的な放射線から生命を保護しているのです。さらに太陽光線も,大気がオゾン層を形成するのに一役買っています。オゾンは酸素の一形態で,致死的な紫外線をしゃ断します。
18 地球の大気中に酸素が大量にあることや,それが窒素によって非常に薄められていることは“偶然”に過ぎませんか。説明しなさい。
18 生命が維持されるには,地球の大気の組成も極めて重要です。例えば,わたしたち人間は酸素がないと生きられません。わずか数分間でも酸素が切れると,脳ははなはだしく損なわれ,大抵は死にます。大気中に酸素が十分存在することは実に有り難いことではありませんか。しかしながら,酸素は,可燃性の物質でもあります。したがって,この気体がわたしたちの周りに大量に存在すると命は危険にさらされるでしょう。わたしたちが燃え尽きてしまうこともあり得るからです。なぜそうしたことが起こらないのでしょうか。それは,大気中の酸素が,比較的不活性な気体である窒素によって大いに薄められているからです。
19 太陽の大気と地球の大気を比較するとどんな結論に到達できますか。
19 さらに,大気は他の肝要な成分,つまり炭酸ガス,水蒸気などを適当な割合で含み,まるですばらしい“処方せん”によって作られているかのようです。太陽では主として水素からなる大気が必要ですが,地球の大気中では,水素は,その爆発性ゆえに,絶えず脅威となります。目的を持たれる優れた建築家がいないとすれば,太陽と地球の双方の大気中の“協力”とも言えるそうした平衡がどうして存在するのでしょうか。それがあるお陰で地球は生命に至極適しており,一方,太陽ははるかかなたにあって,その生命を維持するための備えを有しているのです。
水 ― 生命を支える液体
20,21 (イ)どんな重要な物質を大量に有している点で,地球は数々の惑星の中でも類のないものですか。(ロ)広大な海洋はどんな有益な目的を果たしていますか。
20 自然界の生物には,種々の気体がちょうどよい濃度で混ざり合っている大気のほかに,普通の形である液体としての水が,大量に必要です。あらゆる惑星の中で地球はその点で他に類を見ません。雨を降らす水の循環によって植物は育ちますが,その水の循環の元になっているのは広大な海洋です。海はまた温度が極端に変化するのを防いでいます。
21 もし海がないと,もう一つの,酸素と炭酸ガスの循環が壊れます。酸素は動物に用いられ,炭酸ガスは植物に用いられます。海は,必要とされる大量の炭酸ガスを吸収したり放出したりして,バランスを常に保っています。言うまでもなく,海は鉱物と動物の豊かな供給源でもあります。―申命 33:19。
22 動植物が養分を得るのに水はなぜそれほど重要ですか。
22 水は“奇跡の”液体とも言える,特異な液体です。水ほど溶解力のある液体はほかにありません。ですから,水は,植物の生命を維持するのに必要な化合物を含有できるのです。水は土じょうにしみ込んで,土中にある,命を支える化学物質を溶解します。次いで水は循環しながら植物の様々な部分に栄養分を運びます。(イザヤ 55:10)活力を与える養分を人間と動物の体細胞に運ぶ血液は主に水からできています。事実,わたしたちの体の約70%は水分です。
23 水が液体でとどまっている温度の幅が広いことは,なぜわたしたちの生活にとって重要ですか。
23 さらに注目に値するのは,水が液体の状態でとどまれる温度の幅が広いという点です。もし水が今よりも早く蒸発すると,雨水は地上や地中にとどまらないので,それがミネラルを溶かして植物に運ぶことはないでしょう。草木はあまりにも速く水分を失うので,広範な地域が不毛の地と化します。水の沸点が今よりずっと低いと,熱い太陽にさらされた時わたしたちの血液が沸騰するおそれがあります。水がずっと容易に凍る,つまり固体になるなら,ほんの少ししか雨が降らないことになるので,植物は枯れてしまうでしょう。
24 凍ると膨張するという水の珍しい特性はどんな目的にかなっていますか。
24 その上,水は氷になると幾分膨張するので,底に沈まないで浮かびます。そのお陰で湖や大きな水たまりが凍って固まり,生物が死んでしまうということはありません。この膨張する特性は土を作るのに一役買っています。というのは,水は岩の割れ目や裂け目に流れ込み,凍って膨張すると岩を砕いて細かな,耕せる土にするからです。人間が何も心配しなくてもそうした事は行なわれているのです。
25 地球にはこれほど多量の水があるという事実を考えると,どんな結論に達せざるを得ませんか。(エレミヤ 10:12,13)
25 様々な液体のうち,この貴重な水が地上に多量に存在するのはどうしてでしょうか。確かにそれは単なる偶然ではありません。地上の生きている被造物のことを真に気遣っておられる,優れた建築家ともいうべき方が,こうした備えをしてくださったに違いありません。
間違えようのない証拠
26 神が人間の目には見えなくても,そのような優れた建築家かつ創造者が存在することはどうして分かりますか。
26 確かに,身の周りの目に見える証拠を鋭く観察する人は,最高度の知性を持つ人格的存在者,優れた建築家かつ創造者が存在するに違いないことを悟ります。この親切な設計者は肉眼では見えませんが,『その見えない特質,そのとこしえの力と神性とは,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見え』ます。―ローマ 1:20。
27 神を見なければその存在は信じられないというのはなぜ道理にかなっていませんか。
27 ある人は,神を見なければ,神の存在を信じないと言います。しかし,こうしたすばらしいもののすべてを創造した方が目に見えると考えるのは理にかなっていますか。太陽をじかに見て耐えられる人はまずいません。もっと大きな太陽が,今ある太陽と同じほど地球の近くに幾つか存在していれば,わたしたちは,目がつぶれ,燃え尽きてしまうに違いありません。では,そのような太陽を創造された方が,人間の目に見えるようにご自身を現わされたなら,どれほどまばゆいことでしょう。神の栄光を見せてほしいと述べたモーセに対して,神はこう答えられました。「あなたは,わたしの顔を見ることはできない。人は,わたしを見てなお生きていることはできないからである」― 出エジプト 33:20,新。
28 宇宙を観察すると,ローマ 1章20節にある通り,愛を持ち配慮を示す優れた建築家が存在する証拠をどのように見いだせますか。
28 しかし,理性を働かせるなら,創造物の中に,無限の力と抑制力の表われを見ることができます。偶然,つまり盲目の力は,意図を持った抑制力を働かせたり法則を定めたりすることはできません。法則と抑制力は優れた建築家の目に見えない特質の証拠となっています。さらに,宇宙(わたしたちの太陽系と地球を含む)が注意深く組み立てられており,人間が生きるのに必要なあらゆる良いものが備わっていることに,大きな愛と深い関心が表われています。愛や気遣いは,理知があり,同情心に富む方にのみ備わっている特質です。
29 創造者は存在するという結論が出たなら,次にどんな問題を考慮するのはふさわしいですか。
29 ところで神は,現在ご自分の創造物を顧みておられるでしょうか。宇宙を設計し製作された神は,宇宙とのかかわりにおいてそれ以上の関心を示されますか。神は,人間の将来と,現在生きている人,あるいはこれまで生存した人すべてに対する目的を考えておられるでしょうか。
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神 ― 寛大な家主人生には確かに目的がある
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2章
神 ― 寛大な家主
1,2 地球が立派な住みかであることを考えると,この惑星の“客”としてわたしたちは普通どんな反応を示すでしょうか。
仮にあなたが旅行中で,休暇を過ごす適当な場所を探しているとしましょう。人里離れた土地をかなり行くと,美しい庭園があります。家が見えるので,泊めてもらえるかどうか聞こうとそこに近づきます。驚いたことに玄関には,「よくいらっしゃいました。おくつろぎください」という看板があります。家の中に入ってみると,そこには,「ご自由に召し上がってください」という札の掛かった,ぎっしり詰まった食料貯蔵庫に加えて,水道,暖房,照明など,快適な生活に望ましいものがすべて備わっています。あなたはどんな反応を示すでしょうか。「信じられないことだ。この家の持ち主はなんて親切で寛大な人なのだろう」と言いますか。
2 実を言うと,この例えは,地球の造り主である神に対する人間の立場をよく示しています。地球というこの惑星の「家」に住むようになった人々のために,創造者が寛大な家主のように必要なものをどのように備えられたかを考えてください。
3,4 わたしたちの立派な“住まい”には光,熱,動力源がどのように備わっていますか。
3 立派な家には,普通天井に,明かりが付いており,また柔らかい光の常夜燈も付いているので,住人にとって夜通し真っ暗やみになることはありません。地球には,主要な光源として太陽が,そして「夜の支配のために」月の柔らかい光があります。―創世 1:14-18,新。
4 家には,暖房や様々な電気器具のための動力源がありますが,地球には太陽があります。太陽は地球にエネルギーをそそぎ,そのエネルギーは人間や植物に利用されてきましたが,それに加え,幾世紀にもわたるその作用によって,膨大な量の燃料,特に石炭や石油などの化石燃料ができました。必需品が十分に蓄えてある家と同様,それらの燃料は必要な時に用いられるよう地球の“地下室”に保存されています。
5 “家”の“地下室”には,わたしたちを慰め,また喜ばす他のどんなものが蓄えられていますか。(ヨブ 28:1-6)
5 創造者はまた親切にもこの“地下室”に金属を豊かに蓄え,それを鉱石から抽出する方法を開発する能力を人間に付与されました。また,生命に欠かせない化学物質ばかりか,人間,特に女性を大いに喜ばせるため,生活の楽しみを増し加える貴重な宝石をもこの“地下室”に置かれました。
6 (イ)わたしたちの“住まい”である地球の“配管設備”は,わたしたちを顧みてくださる創造者をどのように明らかにしていますか。(ロ)神による,自然の丘や山と,人間が積み上げた石や土砂の山とを比較しなさい。(詩 104:10,11)
6 家には良い配管設備も必要です。地球という“家”の“配管設備”は一種の驚異です。仮に人間が石や土砂を積み上げて山を作ることができたとしても,その山の上に住む人は,山腹の泉から,澄んだ冷たい新鮮な水が得られるでしょうか。鉱山の付近には人工の山がありますが,それらはただ眺めを悪くしているに過ぎません。では,地下水の流路や地下圧力の複雑な仕組みと関係のある工学上の驚くべき諸法則のことを考えてみてください。それにより,地上では,高い山の上ですら水が得られるのです。しかも,雨がほとんど,あるいは全く降らないサハラ砂漠のような土地でさえ,わずか数メートル掘るだけで水の出る所があります。
7 創造者はわたしたちの“住まい”のために自ら回復する“じゅうたん”をどのように備えられましたか。(創世 1:11,12)
7 床がじゅうたんで覆われて美しく快適になっている多くの立派な家と同様,創造者は地球に草木や花や森の“じゅうたん”を敷かれました。また,ほんの少し造園をするだけで,荒廃した土地がまたたく間に公園になるではありませんか。人間の仕業によって台無しにされた土地は間もなく草の“じゅうたん”で覆われます。汚染された川は,汚染源が取り除かれると間もなくきれいになります。
8 寛大な“家主”はわたしたちの“住まい”の“食料貯蔵庫”に食料品を貯蔵するに際し,先見とどう察力をどのように表わしていますか。
8 良い家には食料品が十分備わった食料貯蔵庫があるように,畑や果樹園や海洋など地球の“食料貯蔵庫”にもあらゆる種類の食物があります。海や陸の草木,穀物,果物,実のなる木が幾千幾万年にわたって定期的かつ豊富に産物を出し,動物,昆虫,海の生物そして最後に人間が存続できるよう取り計らうのに要した知恵について思い巡らしてください。しかもその供給は決して尽きることがありません。地球に人間が快適な程度に『満ちた』と神が宣言されるまで,地球は豊富に産物を出してさらに多くの人々を養う能力を持っています。―創世 1:28。
9 人類は美しい“住まい”とその設備に関する誉れを自分に帰すことができますか。(ヨブ 38:4,26,27)
9 わたしたちのだれ一人として,この立派な“家”を作ることに関与してはいません。聖書には,神に「もろもろの天は属す。しかし地は,人の子らにお与えになった」と書かれています。(詩 115:16,新)わたしたちの住みかである地球に,生活を楽しむために必要なあらゆるものが備わっているのを見ると,思慮深く準備されたことが分かります。しかもそれは無料で与えられているのです! 強力で賢明であるばかりか,親切で寛大でもある造り主の存在を証明するのにこれ以上の有力な証拠が要るでしょうか。この方は,『邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださり』,すべての人に事実上「ご自由にお召し上がりください」と言っておられるのです。(マタイ 5:45)実際,人間が地球の潜在力や資源の管理を誤ったり,それを誤用したりしていなかったなら,全地の人々はこの美しい惑星で生活することに真の喜びを見いだせたはずです。
10 これまでの論議から,地球が盲目の力の結果存在するようになったという理論について何と言うことができますか。
10 人間からほとんど顧みられなくても,地球は幾世紀もの間自らの必要をすべて供給してきたという事実から,地球は盲目の力の所産であるとする理論に大きな疑問を抱かざるを得ません。その理論を受け入れると,幾千年にもわたって動物と人間すべてを養う地球の潜在力をどのように説明できるでしょうか。しかも,そこには目的と設計が明らかに見られます。盲目の力は目的を持ったり,事前に設計したりすることができません。―エレミヤ 10:12。
11 地上の創造物が単なる実験,つまり創造者の手による一時的なものでもおもちゃでもないことはどんな点から分かりますか。(イザヤ 45:18)
11 わたしたちの住みかである地球の卓越性は,地球が創造されたことの,そうです,それ以上に,地球がだれか上位者の単なる実験とかおもちゃではなく明確な目的のために創造されたことの強力な証拠となっています。また,地球は永遠に存在するように設計されています。「[地]は定めのない時に至るまで,あるいは永久に揺るがされることがない」,と霊感を受けた詩篇作者は述べています。―詩 104:5,新。
12,13 地上の創造物が改善の余地のないものであったことは神のどんな宣言から分かりますか。
12 人間の住みかとして地球が整えられたことに関する聖書の記録は,地球に対する神の目的についてこのように結論することと全く調和しています。神は地球を形造り整える初期の各段階で,ご自分が創造されたものを「良い」と宣言されたのをわたしたちは知っています。その業が完全に終わった時,神は「非常に良かった」と言明されました。(創世 1:4,10,12,18,21,25,31,新)神がそのように宣言されたのは,なされた業が完全で目的に全くふさわしく,不完全な人間では理解できないほど優れていたからです。―詩 145:3-5,16。
13 地球の創造物が『非常に良い』と宣言されたことは,地球が人類に必要なものを生産するかどうか確かめるために神が定期的に介入する必要がないことをも意味します。確かにその必要はありません。はるか昔に神は,定めのない時まで割り当てられた役目を果たせるよう地球というこの惑星を整え,備えを設けるために多大の時間を費やされたからです。こうした事実は創造者の知恵をたたえるものです。どのようにたたえているでしょうか。
神の先見
14,15 地球の創造の際,神は驚くべき先見をどのように表わされましたか。
14 では,地が生命を無限の時まで養うよう取り計らうには神の側にどれほどのどう察力,そうです,先見が必要とされたかを考えてみてください。人間が地上に現われる前には,動物のために植物という形で食物が豊かに得られるようにされ,十分の備えが設けられていました。それから,最初の人間夫婦は「殖えよ,地を満たせよ」と告げられました。(創世 1:28,新)それは,人間の数が幾十億にもなるということです。それでも地球は植物や動物や人間の生命を養い続けるのです。広大な土地が耕されずに放置され,人間はさらに他の地域を大いに荒らしたにもかかわらず,地は動植物を養ってきました。神が備えを設けられたすばらしい仕方について,詩篇作者は感謝の気持ちを込めて次のように書きました。
15 「[エホバ]は獣のために緑の草を生え出させておられる。そして人類の用のため草木を。食物を地からいだすため。また,死すべき人間の心を歓ばすぶどう酒を。油でその顔を輝かすため。また,死すべき人間の心そのものを支えるパンを。あなたのみ業はなんと多いのでしょう,ああエホバよ! そのすべてをあなたは知恵のうちに造られました。地はあなたの産物で満ちています」― 詩 104:14,15,24,新。
16 いつの日か地球はすべての人に十分の食物を生産することができなくなるのではないかと恐れる必要がありますか。(詩 65:9)
16 地球の,食物を生産する能力はどれほどでしょうか。国際連合部局間業務調整局の理事は,地球の潜在的農業生産力が最大限に生かされたなら,少なくとも380億人(現在の世界人口の10倍)を養えると語りました。むろんそれには現在よりも優れた国際協力が求められます。
神はご自分の“家”を誤用する“客”を追い出される
17 神は,ご自分の崇拝者のような特定の人だけに好意を示して,物質的に豊かな恵みを施しておられると非難する理由がありますか。(詩 36:7,8)
17 人類一般には不平を言う余地がありません。むしろ,地球の数々の恩恵に感謝すべきです。また,神は不公平であると非難することもできません。神を崇拝しない人々でさえ神の寛大さの益にあずかってきたのです。使徒パウロは小アジアのルステラに住む,ゼウスとヘルメス(マーキュリー)の崇拝者たちにこう語りました。「過去の世代において,神は諸国民すべてが自分の道を進むのを許されました。とはいえ,ご自分は善を行なって,あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え,食物と楽しさとをもってあなたがたの心を存分に満たされたのですから,決してご自身を証しのないままにしておかれたわけではありません」― 使徒 14:16,17。
18 (イ)人類は一般に,神がすべての人に行なっておられる善に対して神に感謝したり誉れを帰したりしてきましたか。(ロ)神が備えてくださった良いものは公平に分配されていませんが,その責任はだれにありますか。
18 しかし人類のほとんどは“客”として創造者に感謝を示してきませんでした。地のすばらしい備えに対してはなはだしい不敬を示し,それらをひどく荒らしてきました。貪欲さのために土地や食料の買いだめが行なわれてきました。そうした貪欲な人々は地上の仲間の“客”に少しも気遣いを示しませんでした。その結果,多くの人は必要な物を奪われてしまいました。また,貪欲がもとで残酷かつ破壊的な戦争が行なわれてきました。―ヤコブ 4:1,2と比較してください。
19,20 (イ)人間は,すべての人の益となるように地上の物事を正すことを期待できますか。(ロ)分別のある家主のような神は,当然何をするはずですか。
19 こうした状態ですから,地球というわたしたちの“家”の秩序を取り戻せるかどうかということが問題となります。人間の観点からすると,それは不可能です。ソロモン王が述べているとおりです。「曲げられたものをまっすぐにすることはできない。また欠けているものは到底数えることはできない」。(伝道 1:15,新)しかし,良い家主であられる神はご自分の“家”とそこにいる“客”に関心を持っておられます。分別のある家主であれば,備品を傷つける者たちを追い出して,感謝の念を持つ客の益のために家をきれいに掃除するのではありませんか。神も同様のことをなさると期待すべきではないでしょうか。―啓示 11:18。
20 長年の間誤用されてきた地を,創造者はどのように掃除なさるのでしょうか。神は地球をきれいに保つことを意図されていますか。地球が人間にとって永遠に楽園のような“庭園の住みか”となり得るでしょうか。
[20ページの図版]
よく整えられた家はその家の主人が賢明で寛大な人であることを物語っているように……
[21ページの図版]
……産出的な地も,寛大な創造者のそうめいな設計を表わしている
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前途にある楽園の住みか人生には確かに目的がある
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3章
前途にある楽園の住みか
1-3 (イ)生物の住まない所と化すまで地球を誤用することを人間は許されている,と考えるのはなぜ道理に合いませんか。(ロ)人間は,創造物を観察し,また自分で推論することによって,物事がこうなっている理由,また神の目的は何かということを知ることができますか。(ヨブ 28:12-14,28)(ハ)神およびその目的に関する理解はどこで得られますか。(ニ)神がご自分の考えや物事の行ない方の記録として聖書をお与えになったと考えるのは道理にかなっていますか。
「人間は地球を巨大なごみ捨て場と化している」という不満の声が世界中でますます大きくなっています。そうしたことが本当に生じるでしょうか。
2 人間の貪欲さや乱暴な処置のために損なわれてはいるものの,地球には,木々がうっそうと茂る谷,雪を頂く山々,勢いよく流れ落ちる滝,やしの木の立ち並ぶ浜辺,多種多様な動植物など,美しいものがまだたくさんあります。こうしたものすべての造り主は,人間が地球の資源を誤用したりその管理を誤ったりしてこのすばらしい惑星を生物の住まない所としてしまうのを許されると考えられますか。分別を持って考えるならその答えは否です。では,神は地球に対して何をもくろんでおられますか。物質の,目に見える創造物は地球の造り主について何かを教えてくれるかもしれませんが,わたしたちが知る必要のあることすべてを語ることはできません。将来に対して神がどんな目的を持っておられるかを教えることもできません。では何が,あるいはだれがわたしたちに教えることができますか。
3 それを知るためには,造り主ご自身からの啓示が必要です。全能の神であられるエホバは,ご自分の目的に関して人間が盲目のままでいることのないように文書の形で啓示を与えてくださいました。それは聖書に収められています。確かに,聖書を書き記したのは人間です。しかし,その人たちは記している事柄が自分自身の知恵ではないことを認めていました。聖書筆者の一人であるダビデ王はこう言明しています。「わたしによって語ったのはエホバの霊で,その言葉はわたしの舌の上にあった」。(サムエル後 23:2,新)人間の頭脳を設計された方が,人間の精神作用を促してご自分の考えを書き記させることは決して難しくありませんでした。聖書は,まさに地球の創造者であるエホバ神の霊感を受けたものであると公言している唯一の古い書物です。それで地球とそこに住む人間のために神がもくろんでおられる事柄をわたしたちに知らせ得るものは聖書以外にありません。―テモテ第二 3:16,17。
イエスは楽園を約束された
4 どんな傑出した人が,人類のすばらしい将来を指し示しましたか。その人の言葉をなぜ信じるべきですか。
4 19世紀ほど前に,霊感を受けた人が一人の罪人に語った言葉は,すばらしい将来のあることをはっきり指し示しています。その霊感を受けた人とはイエスです。彼は預言者として,またこれまで存在した偉大な教師の一人として広く認められています。聖書はイエスを約束されたメシアもしくはキリスト,すなわち,人間に生まれる前は霊者として存在していた神のみ子であることを示しています。(マタイ 16:13-16。ルカ 1:30-33。フィリピ 2:5-7)悪行者に対してイエス・キリストは,「あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」と言われました。―ルカ 23:43。
5,6 (イ)ルカ 23章43節に出ているイエスの言葉が,人によって様々に解釈される原因はどこにありますか。(ロ)悪行者に対するイエスの言葉をどのように理解すべきかに関して指針となるのは何ですか。
5 イエス・キリストのこの約束は聖書の読者によっていろいろに解釈されてきました。多くの聖書翻訳は,イエスの言葉を,「真実にわたしはあなたに言いますが,きょうあなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう」と訳出しています。(コモン・バイブル)ある人は句読点からして,悪行者は正にその日にイエスとともにパラダイスにいると結論するかもしれません。しかし,ギリシャ語原文にはほとんど,あるいは全く句読点がないことに注意すべきです。つまり,句読点をどこに付けるかは翻訳者が決めなければならないのです。したがって,句読点の打ち方によってイエスの言葉は,『わたしはきょうあなたに真実に言いますが,あなたはわたしとともにパラダイスにいるでしょう』と読むこともできます。こうして伝わる考えは,悪行者が将来のいつかイエスとともにパラダイスにいることを指し示します。
6 イエスの言葉をそのように理解することは聖書の残りの部分とも調和します。イエスは死んだその日に天とかどこか中継地のような所へ行かれたのではありません。イエスは三日の間(あしかけ三日)ハデスaつまり墓に死んでいました。―マタイ 27:62-66。使徒 2:24,27。
7 (イ)イエス・キリストが悪行者に約束をした当時,人々は“パラダイス”という言葉をどのように受け取りましたか。(ロ)イエスと話した男が,天のパラダイスに行くなどとは考えていなかったことをどのように証明できますか。
7 その上,悪行者はイエスが言われた「パラダイス」という言葉を当時の一般的な用法に従って理解したことでしょう。それはどのようなものでしたか。パラダイスとは庭園もしくは公園でした。その人はイエスの弟子ではありませんでしたから,天のパラダイスのことなど分からなかったはずです。当時入手できた聖書の各書は神と共に霊の領域で住む機会を信者に差し伸べてはいませんでした。イエス・キリストが到来して初めて,目に見えない天における命の希望に注意が向けられたのです。(テモテ第二 1:10)イエスの弟子たちはイエスが「天の王国」について語るのを聞きましたが,その意味を十分に把握していませんでした。(マタイ 13:24,31,33)後日彼らは復活したイエスにこう尋ねました。「主よ,あなたはいまこの時に,イスラエルに王国を回復されるのですか」。(使徒 1:6。ヨハネ 16:17,18に記されている,使徒たちの会話と比較してください。)ですから,彼らは依然として地に関して考え,イエスがエルサレムに王国を建てられることを期待していたのです。当時イエスご自身の弟子たちは天的な事柄を十分理解していなかったのですから,イエスが地上のパラダイス以外のことを話していると悪行者が考えることなどどうしてあり得るでしょうか。
8 イエスが悪行者に与えた約束は,ユダヤ人が一般に通じていたヘブライ語聖書とどのように調和していましたか。
8 イエスが悪行者に与えた約束は,地球が目的を持って造られたという聖書の言葉と一致しています。神は「それをただいたずらに創造したのではなく,人が住むために形造られ」ました。(イザヤ 45:18,新。詩 104:5)長い期間をかけて念入りに地球を整えた神が,それを認識しない人がいるからという理由だけで地球を滅ぼしたり荒れるにまかせたりされると考えるのは道理に合いません。事実,地球自体は非常に快適な住みかとなる可能性を持っています。
予告されている,楽園のような「新しい地」
9-11 (イ)ユダヤ人は事実上,地上の楽園とも言えるものを経験したことがありますか。(ロ)モーセは,パレスチナの地が住むのに快適な土地であることをどのように描写しましたか。
9 地上の楽園という概念は,イエスと同国人のイスラエル人に古くから知られていたことは注目に値します。彼らが移って行った約束の地は,彼らにとって楽園のように見えました。エホバがモーセを通して述べたところによると,そこは,イスラエル人がそれまで住んでいた肥沃なナイル川の流域よりはるかに美しくて産出的でした。こう語っておられます。
10 「あなたが行って取得しようとしている土地は,あなた方の出て来たエジプトの地のようではないのです。その所であなたは種をまき,自分の足で引き水をしなければならず,菜園のようでした。しかし,あなた方が渡り行って取得しようとしている土地,それは,山また谷あいの平地のある土地です。それは天の雨から水を飲むのです。あなたの神エホバが顧みておられる土地です。あなたの神エホバの目が絶えず,年の初めから年の終わりまでそこにあるのです」― 申命 11:10-12,新。
11 それ以前にモーセはその土地を次のように描写していました。
「あなたの神エホバは,あなたを良き地に携え入れようとしておられるからです。それは,水さかまく奔流の谷,また谷あいの平地や山地にわき出る泉や水の深みのある地,小麦,大麦,ぶどう,いちじく,ざくろの地,油オリーブと蜜の地,不足を感じずにパンを食べることができ,何にも欠けることのない地,そこの石は鉄であり,そこの山からは銅を掘り取る地なのです」― 申命 8:7-9,新。
12 イスラエル国民が捕囚から戻った時,神はユダの地に「新しい天」と「新しい地」をどのように備えられましたか。
12 神は,イスラエルの国民が不従順のために敵に連れ去られることをはるか以前から預言者イザヤを通して予告されました。したがって,かつて楽園のようだった土地は荒れ地となります。しかし,神はそう預言したからと言って,イスラエル国民を希望のないままに捨ておかれたわけではありません。神はこう言われたからです。「わたしは新しい天と新しい地を創造する。……わたしはエルサレムを喜ばしさの理由,その民を歓喜の理由として創造する」。(イザヤ 65:17,18,新)ここで神はイスラエル人をユダの地に復帰させ,エルサレムを再び首都とすることを約束しておられます。「新しい天」とは目に見えない新しい天ではなくて,ユダ族出身のゼルバベルにゆだねられたユダの地の総督の職務,その地に対する支配権を意味しました。また「新しい地」は,荒廃した土地に連れ戻された,悔い改め,清められ,訓戒を受けた民でした。彼らはその荒廃した土地を耕し,美しくし始めました。そしてそこにエホバ神の崇拝を復興し,エルサレムに神殿を再建しました。―エズラ 3:1,2,10。
13 荒廃した土地を楽園のような状態にしようとする復帰したイスラエルを,神が援助されたことは何から分かりますか。
13 イスラエル人は,ユダの地をかつての楽園のような状態にするうえで,神から直接援助を受けました。それは彼らの帰還に関するイザヤの預言を通して示されていたとおりです。神はこう約束されました。「荒野と水のない地域は歓喜し,荒れ野は喜びに満ち,サフランのように花を咲かせる」。(イザヤ 35:1,2,新)同様に詩篇作者は,イスラエル国民が神に従順であるなら,「エホバは,善いものを与えてくださり,わたしたちの地は収穫をあげるであろう」と述べました。―詩 85:12,新。
前途にある輝かしい「新しい地」
14 「新しい地」に関する預言が,今日のわたしたちにとってもっと大きな意味を持つというどんな保証がありますか。
14 「新しい地」に関するこの預言は今日のわたしたちと何か関係がありますか。確かにあります。それは神が全地に行なおうとしておられる事柄のべっ見なのです。イザヤが預言してから幾世紀も後に,使徒ペテロは,当時知られていた世界の各地に散っていたクリスチャンたちに手紙を書き送り,こう述べました。「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」。(ペテロ第二 3:13)したがって,この来たるべき「新しい地」の社会は,昔のユダのそれよりはるかに広範な地域に及びます。
15 使徒ヨハネに与えられた幻は,来たるべき地上の楽園に関して何を明らかにしていますか。
15 さらに,聖書の啓示の書に記録されている使徒ヨハネの見た幻を調べると,最終的な成就において「新しい地」の社会が全世界に存在することに疑問の余地はありません。使徒ヨハネは次のように書いています。「わたしは,新しい天と新しい地を見た。……『見よ! 神の天幕が人とともにあり,神は彼らとともに住み,彼らはその民となるであろう』」。(啓示 21:1-3)「新しい天」という表現は,神のみ座のある天から行なわれる神の支配に関係しています。(マタイ 5:34)やがて,人類は神の真の崇拝のみを行ない,神の恵みや援助や保護を得ます。そして,「新しい天」は美しくされた地上の人類に祝福を差し伸べます。―詩 115:16。
16,17 (イ)神はもともと,人間が楽園で永遠に生きることを目的としておられたことは,創世記にどのように示されていますか。(ロ)アダムが罪を犯した時,神はその目的を放棄されなかったことは,創世記 3章15節に記されている神の預言の中でどのように明らかにされていますか。
16 神が地球にこうした明るい見通しがあるように意図しておられることは,神が人類と持たれた交渉からも明らかです。聖書によれば,最初の人間アダムは不従順になった時にのみ死ぬと告げられました。ですから,もし従順を保っていたなら,アダムは死ななかったはずです。(創世 2:17; 3:19)アダムは生き続け,楽園は神から与えられた完全な人間の住みかとして存続したに違いありません。アダムの家族が増えるにつれ,彼らは神の指示のもとに楽園を外の土地へと次第に広げていったことでしょう。
17 アダムが罪を犯した後,神はアダムの子孫に,地球に対するご自分の目的を放棄していないことを示されました。神は,人類を解放する「胤」となる子孫を起こすことを約束されました。(創世 3:15)人類に対してこうした目的を持っておられた神は,アダムが子供をもうけることを許されました。人類はその約束を自分たちの希望として生きることができました。
18 (イ)「胤」に関する約束が,まさにこの地上にいる人類にとって重要であることは,後でどのように啓示されましたか。(ロ)だれが「胤」になりますか。その者にはどんな権威がありますか。
18 後になって,将来楽園が復興されるというこの希望はアブラハムに与えられた啓示によって強められました。その啓示によると,「胤」はアブラハムの子孫を通して現われ,『地のあらゆる家族を祝福』します。(創世 22:18,新)さらに八百年ほど経て,神はエルサレムのダビデ王に彼の子孫が永遠に王座につくと言われました。(サムエル後 7:12,13,16)あらゆる物事は,ダビデの家系の一人の男子,その家系のそれまでの王たちすべてをしのぐ方を指し示していました。それは,永遠にダビデの位につくメシア(「油そそがれた者」の意)です。(詩 45:6,7。ガラテア 3:16)使徒パウロは,地上でダビデの家系に生まれた神のみ子であるイエス・キリストにこの預言を適用しています。パウロはその方について,『神は永久にあなたの王座である』と述べています。つまり,神は将来永遠にキリストの王座の基であり支えであられるということです。―ヘブライ 1:8,9。
19 詩篇は,「胤」であるキリストによってもたらされる楽園が,永遠に続くことをどのように保証していますか。
19 幾百年もの期間にわたって書き記された詩篇全体を通して,地に対する神の正義の支配が「定めのない時まで」そして「定めのない時まで永遠に」行なわれることについて繰り返し述べられています。(詩 9:7,8; 10:16,17; 29:10; 145:21,新)これらの預言のすべてはイエス・キリストの支配のうちに成就を見ています。神はイエスを死人の中からよみがえらせ,ご自分の次に高い地位に高められました。(エフェソス 1:20-22)人間が楽園の住みかで永遠に生きるということは,詩篇 37篇29節(新)に次のようにはっきり述べられています。「義なる者たちは自ら地を所有し,そこに永久に住まう」。
楽園になる前に地上は清められる
20 神が,平和を損なうあらゆる分子を地上から取り除かれることは,どんな例から確信できますか。
20 しかし,地上が永遠に平和になり,生きる喜びが損なわれないことを神はどのように保証されるのかという疑問が生じます。家をきれいにするのにまず悪い住居人を追い出す場合のように,神は地から悪い分子を一掃することによって,新しくされた地上に永遠の平和が訪れるよう意図されています。神はそのようなことを古代のイスラエルに対して行なわれました。カナンの地を所有していた堕落したカナン民族を追い出してイスラエル人がその地を平和のうちに所有できるようにされたのです。―レビ 18:24-27。
21 たとえ多くの人が望んでいても,現在,全く義にかなった状態を実現できないのはなぜですか。
21 今日,多くの人は地上に平和と正義が行き渡ることを願っています。ところが,強力な宗教的,政治的,商業的分子が支配している現在の事物の体制は人々をしっかりと抑えつけています。人々が正しい事柄を行なうのは容易ではありません。しかも地球に対する神の目的についての良いたよりは,有力な宗教組織の僧職者や,増えている無神論者,およびニュースや宣伝によって妨害されているのです。聖書によれば,諸国民は,「思いのむなしさのままに」歩み,「精神的な暗やみにあり,神に属する命から疎外されています。それは彼らのうちにある無知のため,またその心の無感覚さのためです」― エフェソス 4:17,18。ヨハネ 3:19と比べてください。
22 正しいことをしたいと願う人々のために,神はどうすると約束しておられますか。
22 現在の事物の体制は,いわば目かくしのベールで地球を覆ってきました。しかし,神はそのベールを引き裂いて取り除くことを約束しておられます。神は預言的に,「すべての民のかぶっている顔おおいと,すべての国のおおっているヴェールとを破られる」と語られました。―イザヤ 25:7,口。
23 (イ)地球を清めるためになぜ戦争がなされねばなりませんか。(ロ)どんな人はその戦争を恐れる必要がありませんか。それはどうしてですか。
23 天にいる王イエス・キリストは,聖書の中で「全能者なる神の大いなる日の戦争」と呼ばれているものによって現在の事物の体制を終わらせます。(啓示 16:14)正しいことを行なおうとする人々はその戦争を恐れる必要はありません。その戦争は仲間の人間に害を及ぼし,神に仕えることを望まない者たちを除く選択的なものだからです。それら邪悪な者たちは,利己心や貪欲さから「地を破滅させて」おり,それゆえに彼らは滅ぼされねばなりません。―啓示 11:18。ペテロ第二 2:9。
24 仲間の人間に対抗し続ける貪欲な者たちを取り除く以外に,平和と幸福をもたらす方法はありません。それはなぜですか。
24 ですから神は,人々を圧迫している事物の体制を除き去ることを約束しておられるのです。それと同時に,仲間の人間を誤導し,詐取し,圧迫し続ける者たちを一掃することをも約束しておられるのです。(詩 72:4; 103:6)そのような“住居人”が神の地的な“家”にいる限り,平和と幸福を誠実に望む人々がその実現を期待することはできません。楽園の代価は,貪欲な者たちを取り除くことであり,それ以外に方法はないのです。通則はこうです。「邪悪な者は義なる者の贖い」。また箴言は,「義者は苦難からも救助される者である。邪悪な者が彼に代わって来る」と述べています。つまり,苦難を引き起こしてきた邪悪な者は罰を受け,正しい人が苦難から解放されるということです。―箴 21:18; 11:8,新。
25,26 (イ)聖書は,地球を清めることを何になぞらえていますか。(ロ)清められた地球の永続性に関してどんな疑問が起きますか。
25 こうして偽りの宗教,政治,商業,物質主義が優勢な現在の世の体制を一掃するなら,不公正と圧迫は除去されるでしょう。聖書はその時に用いられる力を大暴風になぞらえ,次のように述べています。「見よ! エホバの暴風が,激怒そのものが必ず出て行く。実に大旋風が。邪悪な者たちの頭上でそれは自ら旋回する。エホバの怒りは,達成なさるまで,またご自分の心の考えを実現させるまで引き返らない。末の日にあなたがた民は理解をもってそれを考慮するであろう」― エレミヤ 23:19,20,新。
26 そのとき神の支配は地上で疑問の余地のないものとなります。しかし,その支配は恒久的な平和をもたらし,後になって再び不従順な行為がなされて楽園が荒らされることはありませんか。では,神の支配が人間の支配よりはるかに勝っている理由を次に調べましょう。
[脚注]
a ハデスという語,およびそれに相当するヘブライ語のシェオールという語に関する詳しい説明については,ものみの塔聖書冊子協会から発行されている,「今ある命がすべてですか」と題する本をご覧ください。
[27ページの写真]
バチカン1209号写本に出ているルカ 23章42,43節のギリシャ語本文。右は各行ごとの字義訳
した そして彼は話していた イエスよ
思い出してください わたしを 時はいつでも
あなたが はいる 王国に
あなたの そして 彼は 言った
彼に 真実に あなたに わたしは言います
きょう, ともに わたしと あなたはいるでしょう
パラダイスに そして
[33ページの図版]
信仰の人たちは,天にあって地上を治める,神の政府を待ち望んだ
[34ページの図版]
神は害をなすものすべてを地上から一掃される
[35ページの図版]
清められた地には永続する幸福がある
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わたしたちは神の支配を必要としているか人生には確かに目的がある
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4章
わたしたちは神の支配を必要としているか
1,2 地上の悪い状態を見て,ある人はどのように考えるかもしれませんか。
周囲をながめると地上の至る所に,病気,不正,犯罪,憎しみ,戦争など,多くの望ましくない事柄が見られるので,宇宙を統治している至高の力が存在するという考えと,そうした状態とがなかなか結び付かないと思われるかもしれません。
2 「わたしが創造者だったら,今すぐにでも何らかの処置を取る」と言う人もいるでしょう。「なぜ神は行動を起こさないのか。神は配慮しているのか」と言って,そのような気持ちを表わす人は少なくありません。
3 もしある人に,今の世の中を強引に変える力があったとしたら,その人は人々を幸福にすることができますか。
3 しかし,仮にあなたに十分な力があり,問題となっているすべての事柄を直ちにやめさせたとしても,それによって人々は幸福になるでしょうか。それにはこの世のあらゆる制度や機構を一新させること,事実,世界の運営の仕方を全く変えることが必要です。あらゆる人の個人的な計画や生活の仕方を大きく変えることが要求されます。そのような強制的な変化は,すべての人に心から歓迎されるでしょうか。そのようなことはまずありません。人々はある生き方をするように強制されることを望みません。よく言われるように,人は「自らの道を行きたがる」のです。
自由意志は肝要
4,5 生活があらゆる面で規制されているなら,人々は幸福ですか。例を挙げなさい。
4 人々が幸福で仲良くやっていくには,思いと心の変化が必要です。この変化は,単に力や権威を振るって成し遂げられるものではありません。人々に,変化する意志がなければなりません。
5 例えば,息子や娘に,生活の必需品に加えて上等なものも幾らか備える,愛のある父親がいたとします。ところが,子供が大きくなっても,父親がその権威をもって,子供の生活の細かな点までことごとく規則を設けるならどうでしょう。確かにその子供の生活は,物質面では何の不足もなく安定したものに見えるかもしれません。しかし,その子供は幸福でしょうか。そうではありません。裕福な有力者の子供が次のように不平を漏らすのをしばしば耳にします。「わたしは自分らしい生き方をしたいと思います。自分で決定を下すほうが好きです。間違いをするかもしれませんが,少なくとも自分が本当に生きているという感じがします」。ですから,そのような人は,明らかに有利な点がいろいろあるにもかかわらず,実際には不安を感じているのです。全面的に抑圧することは人を幸福にしません。
6 基本的に言って,人々は自分がふさわしいと思ったことを行なう自由を欲しますが,それはなぜですか。
6 人類を造られた神は,人間にそのような根深い感情があることをご存じです。神は人間を「ご自分の像に」造られているので,人間は自由意志と選択の自由を十二分に持っていることになります。(創世 1:27,新)神は人間を,過ちを犯さないような仕組みになっている,ロボットのように造ることもできました。が,そうはされませんでした。人間は動物のように,生まれつき備わっている本能に支配されるのでもありません。神は人間が独自の自由意志と,それを行使する欲望を持つものとして造られました。
7 (イ)神は,人々が自由意志を賢明に行使できるようにどんな要素を備えてくださいましたか。(ロ)ローマ 2章4節とペテロ第二 3章15節で指摘されているように,神は,人間を無理やり自分に従わせないことにより,どんな特質を示されましたか。
7 その結果人間は自由を,時には命以上に大切にします。しかし,すべての人が自由意志を賢明に行使できるように,神は良心という指針となるものを備えてくださり,さらには,自ら賢明な助言と教訓を与えてくださいました。とはいえ,神は専横的な方ではなく,ご自分の勧める行動を人々に無理やり取らせることはされません。わたしたちをこのように賢明な仕方で扱ってくださったことに対してわたしたちは本当に感謝すべきです。―ローマ 2:4。ペテロ第二 3:15。
8 多くの人はなぜ神の支配よりも人間の支配を好みますか。
8 神の存在と神の支配を認めると,必ずや自由意志を行使できなくなるに違いないと思う人は少なくありません。ですからそのような人々は,人間の支配が特有の制約を課し,苦しみをさえもたらしても,人間の支配のほうを好むのです。神の支配を求めるよりも,人間による支配を我慢するほうを選ぶのです。なぜかというと,人間による支配は利己的な態度を相当程度容認するからです。それは根底からの内面的変化,つまり人格を変革することを求めません。神の支配は人が生活を全く正しい事柄に合わせるように求めますが,人間の支配はそうではありません。そのことを疑問に思う人がいるなら,人類の大部分の日常生活の中で,真の隣人愛や,清く正直で廉潔な原則に従っている様子が見いだせるかどうか,周りを見るだけで十分でしょう。
9 大多数の人は人間による支配を選びましたが,彼らが幸福で満足しているかどうかについて証拠は何を明らかにしていますか。
9 ところが,人間の支配のもとでさえ,人々は決して本当に満足してはいません。しかも今日,人々は人間のあらゆる政治形態に対してますます不満を抱いています。政府の政策に反対するデモが多いことはその証拠です。また,世界中に見られる内乱や革命,政府の交替はそのことをなお一層はっきりと示しています。それでも,多くの人は,神の支配が真の解決策であるとは考えません。それはなぜでしょうか。
神は「死んでいる」か
10 人はどういう意味で「神は死んでいる」と言いますか。それが正しくないことを示すどんな強力な証拠がありますか。
10 「神は死んでいる」,すなわち,神は人間の事柄に無関心であり,自分の権威を主張することを意図しておられないと言う人がいます。しかし,絶対にそのようなことはありません。神が宇宙を造る際に,非常に細かな点に至るまで配慮を示されたことを考えれば,創造物,とりわけ「ご自分の像に」造られた人間に強い関心を持っておられることは明らかです。
11 イエス・キリストおよび神ご自身の言葉は,神が人間の事柄に関心を持っておられることをどのように示していますか。
11 神のみ子は地上におられた時,信仰を持つ人々に,「あなたの王国が来ますように。あなたのご意志が天におけると同じように,地上においても成されますように」と神に祈ることを教えました。(マタイ 6:10)神は全地に対する疑う余地のない支配権を行使される時を待ち望むよう,人々に勧めたのです。自分たちに対する神の関心を疑い,神が「生きている」ことに疑問をさしはさんだある人々に,神ご自身が語られました。そして,「エホバが真実,公正,義のうちに生きておられる」ことを言葉と行動によって彼らに明らかにされました。―エレミヤ 4:2,新。
12 神はご自分の支配を人間が求めるのを待っておられません。それはなぜですか。
12 では神は,人々が人間の支配を捨て,ご自分に唯一の支配者になってほしいと求めるのを待っておられるのですか。そうではありません。諸国民は自ら進んで支配権を神に渡そうとはしないでしょう。聖書は預言的に次のように述べています。「なぜ諸国民は騒ぎ立ち,諸国家はむなしいことをつぶやきつづけているのでしょうか。地の王たちは立ち構え,高官たちは一団となってエホバに逆らい,かつその油そそがれた者[すなわち,キリスト]に逆らってこう言います。『彼らのなわを引きちぎり,そのつな[神の支配に伴う要求や制約のすべて]を我々から投げ捨てよう』」― 詩 2:1-3,新。
13 (イ)『わたしはアルファでありオメガである』という神の言葉は何を意味していますか。(ロ)神が人間の物事に介入されたという証拠がありますか。
13 エホバは,「わたしはアルファでありオメガであり,最初であり最後であり,初めであり終わりである」と言明しておられます。(啓示 22:13)アルファとオメガはギリシャ語のアルファベットの最初と最後の文字ですから,神は,ご自分が何かを始めた場合それを最後まで成し遂げるということを意味しておられるのです。その上,聖書の歴史的記録には,神が人間の物事に介入された数々の事例が載せられています。こうした処置によって,それぞれの時点でご自分の望んでおられる事柄を成し遂げようとする神の強い関心が表わされました。また,それらすべては,神が定めの時にご自分の意志を地上に成し遂げるという目的を実現させるためのそれぞれの段階なのです。この事については後に取り上げることにします。
14 人間の支配は地上に平和と幸福をもたらし得ないとどうして確信できますか。
14 神の支配はなぜわたしたちが必要とするものでしょうか。なぜなら,地を支配して平和と調和をもたらし得るものはほかにないからです。男女を問わずいかなる個人や団体といえども,人類をふさわしく支配することはできません。地球を造られた際,人間に人類を治めさせることは神の意図ではありませんでした。イスラエル人が他の諸国民のように王を求めた時,神は,人間の王を立てるなら様々な問題が生じ,自由も失われることを明らかにされました。そして実際にそうなりました。(サムエル前 8:7-9)多くの時間をかけて人生とその諸問題を研究したイスラエルの王の一人でさえ,『人が人を支配してこれを害している』と述べています。―伝道 8:9,新。
15 神が人間にお与えになった支配する権威はどれほどの範囲のものですか。
15 最初,神は人に,他の人間を支配したり治めたりする権威をお与えになりませんでした。神は人間に次のように言われたのです。「生めよ,殖えよ,地を満たせよ,それを従えよ。そして,海の魚と,天の飛ぶ生き物と,地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」。(創世 1:28,新)ところが人間はその域を越えて,他の人間に対する支配権を握り,そのために戦ってきました。
16,17 (イ)人間に他の人間を支配する権威を与えなかった点に神の知恵は表われていますが,どうしてそう言えますか。(ロ)人間が仲間の人間を支配できない理由を,神の霊感を受けた預言者はどのように言い表わしましたか。
16 世界史を調べてみれば,人間が互い同士を支配するようにされなかった点で神の知恵が認められます。地的な支配者の場合,しばらくの間は良い政治を行なうかもしれませんが,多くの場合,人民の益は当の支配者にとって次第に重要でなくなってきます。『権力は腐敗する』ということわざは真実です。というのは,人間の支配者はやがて自分の権威を不当に利用するようになるからです。たいていの場合,不公平になり,自分が好む人,特に物品をくれる人にえこひいきし,それによって他の人々を傷付けるようになります。側近の者たちは支配者を欺いて真実を語らず,他の人々を支配者に近づかせないようにする場合が少なくありません。中には,支配者が事の真相を察知するのを恐れる者がいます。
17 他の人を治めるということは,どんな人にとっても負担の大きすぎる事柄です。人間の支配者は次第に接触を失い,末端にいる一般の人々の間で何が行なわれているか分からなくなります。聖書の記録によれば,人間の非常に優れた支配者でさえ重大な間違いをしています。預言者が語ったとおりです。「わたしはよく知っています,ああエホバよ,地に住む人間にその道が属すのではないことを。自分の歩みを導くことさえ,歩んでいる人に属しません」― エレミヤ 10:23,新。
神の支配は申し分のない唯一のもの
18 神の支配はなぜ満足のゆく唯一の支配ですか。
18 しかし,全能の神の場合にはそうではありません。宇宙の創造物に反映されている知恵を見れば,神の理解が非常に広い範囲に及んでいることは明らかです。(詩 147:5)神は創造物のあらゆる細かな点,また,それを支配しているあらゆる法則をすべてご存じです。(イザヤ 40:12-14)論理的に考えるなら,ある至高の力が物質宇宙を支え,維持し,統御していると結論せざるを得ません。そのような支配者に服することは賢明ではありませんか。
19 個々の人を扱う点で,神は人間の支配者よりどのように際立って優れていますか。
19 神の支配には,地的な支配者の場合のように不公平がありません。神の友になる機会はすべての人に開かれています。神は創造物から何一つ受け取る必要はなく,買収されるはずもありません。(詩 50:9-12)創造者に何かを与え得る人がいるでしょうか。したがって,すべての人は神の前に同等です。使徒パウロもこう尋ねています。「だれがまず神に与えてその者に報いがされねばならないようにしただろうか」― ローマ 11:35。
20 各人にとって最善の事柄が何かを知り得る支配者はなぜ神のほかにはいませんか。
20 人間を治めるふさわしい支配者は人間の造りを知り尽くしていなければなりません。エホバ以外のだれについて次のように言い得るでしょうか。『あなたはわたしのすべての道を熟知されることになりました。わたしの舌には一語すらないからです。しかし,ご覧ください! ああエホバよ,あなたはすでにそれをすべてご存じです。あなたの目は胎児のわたしをさえご覧になりました。そしてあなたの書の中にそのすべての部分は書き記されていました。それらが形造られた日々に関して,そしてそれらの中の一つもまだなかった時に』― 詩 139:3,4,16,新。
21 神の関心は単に民全体に対してだけでなく,各個人にも向けられていることを示しなさい。
21 神はわたしたち各人のことを気にかけておられ,また,関心を払っておられます。「エホバの目は至る所にあって悪人と善人とを監視し続ける」と,霊感によって書かれた箴言は述べています。(箴 15:3,新。歴代下 16:9; ペテロ第一 3:12と比較してください。)神のご配慮にどの程度頼ることができますか。イエス・キリストはこのように言われました。「すずめ二羽はわずかな価の硬貨一つで売っているではありませんか。それでも,あなたがたの父の知ることなくしては,その一羽も地面に落ちません。ところが,あなたがたの頭の毛までがすべて数えられているのです。それゆえ,恐れてはなりません。あなたがたはたくさんのすずめより価値があるのです」。(マタイ 10:29-31)創造者だけが人間の思いと心を知っておられます。「エホバはといえば,心がどうかを見る」のです。(サムエル前 16:7,新)神のみが,心から喜んで行なう人々をご自分との間の平和と一致の状態,また互い同士の間の平和と一致の状態に導き入れるべくそれらの人々を形造るのに何が必要かを知っておられます。
22,23 「なぜ神は今地球に対する支配権を行使しないのか。神は遅いのか」,という質問にどう答えられますか。
22 では,次のように尋ねる方もおられることでしょう。「なぜ神は人間に支配させておられるのか,神はどうして,今ご自分の至高の支配を行使し,人類の苦しみを取り除いて平和を確立されないのか」,と。神はそうすることを確かに約束しておられます。ただし,神はそのために時を定めておられるのです。その時が必要以上に遅くなることは決してありません。神は遅いと考える人々に対して,使徒ペテロは次のように書きました。「エホバはご自分の約束に関し,ある人びとが遅さについて考えるような意味で遅いのではありません。むしろ,ひとりも滅ぼされることなく,すべての者が悔い改めに至ることを望まれるので,あなたがたに対してしんぼうしておられるのです」― ペテロ第二 3:9。
23 ペテロはまた,こう助言しました。「しかし,愛する者たちよ,この一事を見過ごしてはなりません。エホバにあっては,一日は千年のようであり,千年は一日のようであるということです」。(ペテロ第二 3:8)エホバは永遠に生きておられて時間に制約されておられませんから,短い期間に目的を成し遂げねばならない人間とは異なります。神は無限に広い視野から過去や現在,また将来をご覧になるので,最もふさわしい時,すなわち,最大多数の人々に救いと命がもたらされるような時に行動することができます。しかも,神は死者を復活させる力を持っておられるので,かつてその人たちになされたいかなる害も消し去ることができるのです。―ルカ 20:37,38。
24 (イ)広大な宇宙の支配者である神は,宇宙と比べて微々たるこの地球という惑星に無関心ですか。(ロ)星や惑星を自分の意のままに運行させることよりも,人々を自分に従わせることのほうが神にとって一層の誉れとなるのはなぜですか。
24 星を散りばめた広大な宇宙と比べれば地球はほんの一点にすぎませんが,宇宙の支配者であり管理者であられる神は,その「一点」に大きな関心を持っておられます。天と地の理知を持つ創造物に対して至高の支配を完全に行ない,創造物の幸福を図ることに関心を持っておられるのです。理知のある生きた創造物を治め,それらがご自分の主権に理解をもって自発的に服するようになることは,理知のない無生の星を自分の意のままに運行させることよりはるかに,神とその支配権の輝かしさに誉れをもたらします。神はこのような理知的な一致を回復させようと意図しておられるのです。(詩 66:3,4)それを達成する際に,神は絶対に必要な事柄を一つの過不足もなく行なわれます。
25 次に考慮すべき重要な質問とは何ですか。
25 ところで,何が原因で不一致が存在するようになり,地球に平和を回復するため神が行動しなければならなくなったのでしょうか。その答えは,例えば,「悪はなぜ許されてきたのか」,「なぜそれほど長い期間許されているのか」など,他の多くの疑問の答えを得る助けになります。この問題に関して正確で深い理解を得ることはきわめて大切です。ご一緒にそのことを調べましょう。
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良い父親は,息子が決定すべきことを認めて息子と推論する。同様に,神はご自分の地的な創造物の自由意志を認めておられる
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神はわたしたちの性向と各人の必要をその誕生の時から知っておられる。ゆえに,全人類に正しい支配を行ない得る
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神はなぜ地上の苦しみを許しておられるのか人生には確かに目的がある
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5章
神はなぜ地上の苦しみを許しておられるのか
1,2 人類はどのように出発しましたか。それはどんな出発でしたか。
科学的証拠および聖書は,全人類の起源が最初の一組の夫婦にあることを証言しています。そして洪水後,ノアの三人の息子の子孫から,人類家族の三つの主な支族が形成されました。―創世 3:20; 9:18,19。
2 使徒パウロは次のように述べています。『神はひとりの人からすべての国の人を作って地の全面に住まわせました』。(使徒 17:26)その人アダムと彼の妻エバは,神の業がすべてそうであるように,完全に造られました。―申命 32:4。創世 2:18,21-23。
3 創造された時のアダムはみ使いたちとどのように比較されますか。
3 アダムは,み使いたちより少し低く造られた,神の子で,神の家族の十分資格ある成員でした。(ルカ 3:38)み使いたちは力と能力の点で人間に勝る霊的な被造物です。(ペテロ第二 2:11)しかし,み使いたちがより優れた道徳的能力を持っていると述べた箇所は聖書のどこにもありません。イエス・キリストが女から生まれ人間として地上におられた時,その道徳的な高潔さは天と地に及ぶ神の宇宙的な家族のだれの道徳的な高潔さとも等しいものでした。―詩 8:4,5。ヘブライ 2:6-9; 7:26。
4,5 病気,悩み,苦しみはどのように全人類に臨みましたか。
4 では,不完全さとそれに伴う悩み,病気および争いはどのように人類にとって避けられないものとなりましたか。アダムとエバ以後の人間すべては,自分たちの過失によるのでないとはいえ,不完全さを持って生まれてきた,と聖書は述べ,こう言明しています。「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」― ローマ 5:12。
5 遺伝の法則に従い,子供たちは両親から性向や特徴とともに欠点を受け継ぎます。ところで完全なアダムはどうして欠点のある不完全な罪人になったのでしょうか。それ以来苦しみや悩みの存在が許されているのはなぜですか。
アダムの優れた立場
6 アダムはどんな点で『神の像と様に似せて』創造されましたか。
6 アダムは神の像と様に似せて創造されました。(創世 1:26)したがって,彼は道徳的な資質と霊的な事柄を把握する能力を有していました。アダムは神について知り,かつ学ぶことができ,神と親子のような関係を持てたのです。彼には推論する力と良心の機能,すなわち善悪の感覚がありました。アダムは生まれてくる者たちに神の栄光,その優れた属性を表わして,地上で神を代表することができました。
7 (イ)神は地上の新来者であったアダムの必要をどのように満たされましたか。(ロ)アダムはそれにどう応じるべきでしたか。
7 神は,恐らく毎日,アダムと話をされたことでしょう。創世記 3章8節によれば,アダムとエバが「エホバ神の声を聞いた」のは「一日のうちそよ風の吹くころ」でした。一日のうちの特定の時が言及されていることは,その時刻に神が人間と話をするのがならわしだったことを示唆しています。そうです,至高の方は時間を割いて,地上の新来者であるアダムを教えられたのです。(創世 1:28-30)その最初の人間は神の援助と指導を必要としていました。それは,彼が自分より低い創造物をふさわしく支配するようになるためでした。アダムは霊的に成長するための,そして愛を培うための能力を十分に持っていました。知識が増すにつれて,創造者に対する感謝と愛を深めることができたはずです。(ヨハネ第一 4:7,8)創造者とのさらに親密な関係を築き得たのです。
8 アダムが動植物について深く学ぶことはなぜ肝要でしたか。
8 神がどのくらいの時間をかけて息子を指導されたか,聖書は何も述べていません。とはいえ,アダムが,とりわけ植物と動物について学ぶことは肝要でした。彼は熟練した耕作者,また造園や牧畜の技術を子供たちに教える者とならねばならなかったからです。(創世 2:15,19)そのためにはかなりの時間のかかることは明らかでした。
9 創世記 2章19,20節によれば,神はアダムにどんな割当てを与えましたか。アダムはその割当てをどのようにふさわしく果たせましたか。
9 アダムは神が彼のために造られたエデンの園の住みかに住んでいました。そこは恐らく,アダムが旅をすることができるほど広い地域だったことでしょう。したがってアダムは,神が設けられたいかなる方法にせよ,生息地にいる動物を観察することができました。それで彼は動物たちに,その特徴や性格に従って名前を付けることができました。そうするのにあわてる必要はありませんでした。―創世 2:8,19,20。
10 アダムは,受けた訓練をもって何をすることができましたか。しかし,何に注意しなければなりませんでしたか。
10 アダムは自分の持つ知識の範囲内で,生ずる問題を解決できたものの,『地を従える』方法に関しては設計者および指導者として神に頼らねばなりませんでした。エデンの園の外の耕されていない土地は,将来生まれてくる幾十億もの人々の“住みか”になるはずでした。建築業者が建築家の設計図に従うのと同様,人は地球を人類に最大の安らぎと楽しみを与える美しい場所に形造るため,神の賢明な指導に忠実に従う必要がありました。―ルカ 16:10。
11 最初アダムは自分の責任をどのように果たしましたか。彼の前途にはどんな務めがありましたか。
11 アダムは,神から祝福として与えられた事柄についてはどうしましたか。しばらくの間,アダムは首尾よく行ない,自分が神から学んだとおりに妻を指導しました。(創世 2:16,17と創世 3:2,3とを比較してください。)エホバは創造者であるゆえに,ふたりにとって神でした。神とふさわしい関係を保ち続けるには,アダムとエバは主権者なる支配者としてエホバに頼り,また従う必要がありました。ふたりが家族を大きくして,人間が地の全面に広がる時,神の支配権に服従することは,秩序と一致を保つのに絶対欠かせませんでした。アダムとエバは,今度は子供たちが神に栄光を帰すよう,子供たちを教え訓練することができました。
「知識の木」
12 創世記 2章17節によれば,アダムとエバにはどんな見込みがありましたか。
12 神はアダムに,善悪の知識の木以外なら,園のどの木からも自由に食べて良いと言われました。(創世 2:17)その夫婦とふたりの子孫の前途には永遠の命が置かれていました。そのために彼らに求められたのはただ従順を保つということのみでした。アダムが神に不従順になるほど不敬を示すことは,天と地に住む神の全家族にとって恥辱となります。
13,14 (イ)アダムが神に従うのは全く正しくかつふさわしいことでした。なぜそう言えますか。(ロ)アダムは自分が持っていた良い事柄に関して何をしませんでしたか。彼はどんな態度を取るようになりましたか。
13 神がアダムに与えたすべてのものは彼を楽しませるためのものでした。アダムはおいしい食物を産する地球を自分で作りはしませんでした。アダムはエバという美しい伴りょも,自分の持っているものを楽しむ能力を備えた体も作りませんでした。ところがアダムは,親切に与えられたすばらしい生活を愛し,楽しんでいたにもかかわらず,従順の道を歩み続けなかったのです。
14 やがてアダムは,自分の関心事と思えたことを天のみ父の関心事よりも優先させるようになりました。神の家族および自分がもうけることになっていた子孫のことより,当面の欲望の方を重要視したのです。不完全な人間でさえ,家族を裏切って自分の子供を売り,奴隷にして死に至らせるような者を軽べつします。しかし,アダムが行なったのは正にそのことでした。―ローマ 7:14。
15,16 (イ)「善悪の知識の木」は実際の木でしたか。(ロ)その木に関してほかにどんな質問が起きますか。
15 アダムはどんな罪を犯したのですか。それは,「善悪の知識の木」に関連していました。この木に関しては多くの憶測がなされてきました。それは実際の木でしたか。その「知識」および「善悪」は何を意味しましたか。神はなぜそのような木を園に置かれたのですか。
16 聖書は,園の実のなる木々の間にあったものとしてそのことを述べ,それが実際の木であったことを示しています。(創世 2:9)その木が表わしていた「知識」とは何でしたか。カトリックの「エルサレム聖書」は創世記 2章17節に関する脚注の中で,それに関して次のように述べています。
17 カトリックの「エルサレム聖書」の脚注によれば,その木が象徴していた「知識」は何でしたか。
17 「この知識とは,神がご自分のために取っておかれる権利であり,人が罪を犯すことによって取得する権利である,[創世] 3:5,22。したがって,それは堕落した人間が持っていない無限の知識ではない。また,それは道徳的識別力でもない。というのは,堕落する前の人間がすでにそれを持っていたし,神は理性のある人間にそれを拒むはずがないからである。その知識とは何が善で何が悪かを自分で決定し,それに従って行動する力のことであり,人間が創造された者という自分の立場を認めようとしない,完全な道徳的独立を求める権利のことである。最初の罪は神の主権に対する攻撃,すなわち誇りの罪であった」。
18 (イ)木は何の象徴でしたか。(ロ)完全な人間が『知識の木』から食べて罪を犯すには,その者はまずどんな決定を下しますか。
18 その木は,事実上,境つまり境界線,あるいは人間の正当な領域の限界を象徴するものでした。神がアダムにその境を教えたのは適切かつ正しいこと,そうです,肝要なことでした。完全な人間がその木から食べるには,自分の意志で,故意に,同意することが必要でした。それはすなわち,神の支配権に対する服従を捨て,自分勝手に歩んで自分で“善”,もしくは“悪”と決めた事柄を行なうという事前の決定を意味します。
神の主権が挑戦を受ける
19 ローマ 1章28節の原則に従い,アダムは故意に罪を犯すことによって自分自身と子孫に何をもたらしましたか。
19 こうして,人間は神から独立した道を歩むようになりました。神はアダムの自由意志に干渉なさいませんでした。とはいえ,アダムの誤った選択のために,アダムとその子孫は困難な,人間の力では解決できないあらゆる問題を経験するようになりました。―ローマ 1:28。
20 アダムの誤った行為は全人類が関係するどんな疑問を提起しましたか。
20 さらに,その問題にはアダムと彼の妻の単なる反逆以上の意味がありました。神の地的な子の反逆は次のような疑問を提起したのです。神の地的な家族の中で,自分の自由意志を用いて神の支配権に忠節であることを選ぶ者がいるだろうか。圧力のもとでも,あるいは不従順になれば自分自身に何らかの利得があるという誘惑を受けても神に忠節を保つ者がいるだろうか。したがって生まれて来るすべての男女の忠誠,忠実さが,天と地にある神の全創造物から疑問視されるようになるのです。
21 アダムの罪は,人間の忠誠の問題よりもはるかに大きいどんな論争を提起しましたか。
21 しかしこの問題は,それよりおよそ2,500年後の事態の進展によって例示されているように,神の主権つまり支配権の正当性に対する挑戦というはるかに重大な問題と比べれば副次的もしくは二次的なものです。関係した問題の一例はヨブという人の実生活に生じた出来事に見られ,その記録はわたしたちの益のために保存されています。
22 ヨブ記は,実際には,あらゆる人間の忠誠と忠節が論争点となったことをどのように示していますか。
22 ヨブ記は神の天のみ使いが挑戦の主導者であったことを明らかにしています。その者は至高の方の前に現われ,ヨブが神に忠節なのは全く利己的な理由からであると言って,神の献身的なしもべであるヨブを無礼にも非難しました。神は,その霊的な子がヨブにひどい災難をもたらして試みるのを許されました。ヨブが試練の下で忠実さを証明したにもかかわらず,反逆者はヨブが悪い心を持っているとなおも非難しました。エホバはその反逆者に次のように言われました。「あなたは,わたしのしもべヨブのように全く,かつ正しく,神を恐れ,悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは,わたしを勧めて,ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが,彼はなお堅く保って,おのれを全うした[とがめられるところがない,神への忠実さ]」。そのみ使いは答えてこう言いました。「皮には皮をもってします。人は自分の命のために,その持っているすべての物をも与えます。しかしいま,あなたの手を伸べて,彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって,あなたをのろうでしょう」― ヨブ 2:2-5,口。
23 ひどい苦しみの下でも忠実を守り通したヨブはどんな結果を見ましたか。
23 神はヨブが忠実さを保つのを知っておられて,ヨブが試みられるのを許されました。ヨブは,しばらくの苦しみによって実際には損をすることがありませんでした。というのは,試練の終わりに,神はヨブに,ヨブがそれ以前に享受していたものよりも豊かな報いを与え,ヨブの寿命を140年長くされたからです。―ヨブ 42:12-16。ヘブライ 11:6と比較してください。
24 (イ)神に対する反逆の扇動者,また推進者は実際にはだれでしたか。(ロ)それゆえ,アダムとエバは弁解できますか。
24 目に見えない天での出来事をこのようにかいま見ると,神が悪を許しておられることの真相を知る助けとなります。反逆の扇動者は実はサタン悪魔という挑発的なみ使いでした。とはいえ,サタンが挑戦し始めた時にその側に組した最初の人間夫婦は故意に罪を犯したのであり,言い訳は許されません。
25,26 (イ)神への忠節に関してアダムを攻撃したのがサタン悪魔である以上,神は不公正にもアダムを攻撃にさらされるままにされましたか。(ロ)エバを攻撃し始めた時のサタンの論法はどのようなものであったと考えられますか。
25 神は,ご自分に忠節であるための十分な備えをアダムに与え,そうするのに必要なあらゆる指示と機会を彼にお与えになりました。神はご自分のしもべを無防備のまま攻撃にさらすようなことをされないからです。(コリント第一 10:13)したがって,自分の意志を行使する完全な自由を持っていたアダムは,堅く立って忠節と忠実さを表わすことができたはずです。今日の不完全な人間の場合とは違い,アダムに罪を犯させるような,制御できない要因は何もありませんでした。彼の罪はあくまでも自ら望んで行なった故意のものでした。
26 それにもかかわらず,神の敵対者で反抗的な,神の霊の子は宇宙内で反逆を起こす機会をうかがいました。その者は神の支配権に対する挑戦を推し進めるための手段としてアダムとエバを用いたいと考えました。聖書の記録は,彼がまず最初に女を攻撃したいきさつを述べています。エバを自分の側に引き寄せたサタンは,アダムに大きな圧力を掛けることができる,との自信を持ちました。
神に対する反逆
27 へびがエバに話しかけたとはいえ,へびは悪魔の手先にすぎなかったとどうして分かりますか。
27 サタンがたくらんだ神の支配権に対する挑戦は実際どのように始まったのでしょうか。聖書の記述によれば,野の低い動物であるへびがエバに話し掛けました。言うまでもなく,動物は自分では話せません。実際に話していたのはサタン悪魔であり,彼はへびを用いていたのです。そうした欺きを行ない,へびを用いたゆえに,神はサタンを「初めからのへび(欺く者)」と呼びました。(啓示 12:9)サタンは「偽りの父」であり,エデンで反逆を始めた時から人殺しであると述べた際,イエスは,サタンが神の主権に対する挑戦の扇動者であることを指摘しました。(ヨハネ 8:44)その最初の偽りと反逆に関して,聖書は次のように記録しています。
28 創世記 3章1-5節の記録から,(イ)エバに対するサタンの質問は,エバが持つべきものを神が差し控えていることをどのように示唆していますか。また,(ロ)エバは,「知識の木」から食べてはならないという神の律法について知らなかったのですか。
28 「さて,エホバ神が造られた野のすべての野獣のうち蛇が最も用心深かった。それで蛇が女に言いはじめた,『あなたがたは園のすべての木からは食べてはいけない,と神が言われたのは本当ですか』。それに対して女は蛇に言った,『園の木の実をわたしたちは食べてよいのです。しかし,園の真ん中にある木の実を食べることについて,神は,「あなたがたはそれを食べてはならない。それに触れてもならない。あなたがたが死ぬことのないためである」と言われました』。それに対して蛇は女に言った,『あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその日にあなたがたの目が必ず開け,あなたがたが必ず神のようになって善悪を知るようになることを,神は知っているのです』」― 創世 3:1-5,新。
29,30 サタンが偽りを語る前,エバは「知識の木」の実をどのようにみなしていましたか。偽りが語られた後,それをどうみなしましたか。
29 その時まで,女は,へびが語った「知識の木」から食べてはならないという命令に従っていました。彼女にはあらゆる種類の食物があり,不足しているものは何もありませんでした。女はその木から食べるなら悪い結果になることを理解していました。その実に毒があったというわけではありませんが,それを食べるなら死の裁きがもたらされると神は言われました。ところで,森の中で毒のつたとか,その実を食べると危険な木を見た時,それに触れ,実を取って食べたいという気持ちになりますか。いいえ,そうした魅力は感じません。エバの場合もそうでした。ところが,サタンの偽りによって,その木は魅力的に見えるようになったのです。エバは創造者の言葉よりも,低いへびを通して語られたサタンの言葉を信じました。次のように記録されています。
30 「そこで女が見ると,その木は食物として良く,目に慕わしいものであった。実に,その木はながめて好ましいものであった。それで彼女はその実を取って食べはじめた」― 創世 3:6,新。
エバは欺かれた
31 へびがエバに語り掛けた時,エバはどのように考えたと思われますか。
31 へびが不意に話し掛けた時,彼女はなぜあぜんとしなかったのですか。また,なぜ逃げなかったのですか。聖書は何も述べていません。木の上にいるへびを見掛けたエバは,へびの動きに注意を引かれたのかもしれません。エバはへびが非常に用心深い動物であることを知っていました。したがって,へびはたいへん賢そうに見えたのかもしれません。へびが話した時,それには特別な知恵がありそうに見えたのです。
32,33 (イ)エバは,その実を食べるとどんな自由が得られると考えましたか。(ロ)エバは,夫より先走った行動を取り,実際にはどのように自由を失いましたか。
32 いずれにしても,その動物を通して語られた偽りは,例の実を食べても死なないことをエバに確信させました。エバは,かえって,特別な力を得ること,つまり,取るべき道を自分で自由に判断して神のようになることを信じました。彼女がだれかに頼るとか従うとかいうことはありませんでした。そして確かに,神の命令をエバに告げた夫に従うことをやめてしまいました。彼女はためらわずに行動し,夫に相談しないで木の実を取ったのです。
33 その理由で使徒パウロはクリスチャン婦人の柔順さを強く勧めました。完全な独立を得ていると考えていたエバは,実は正反対のことを行ない,最も困難な事態を自分の身に招いたことをパウロは指摘しました。エバは自分にふさわしくないことをしようとしました。パウロはこう述べています。「アダムは欺かれませんでしたが,女は全く欺かれて違犯に至ったのです」― テモテ第一 2:11-14。
アダムの信仰の欠如
34,35 (イ)欺かれなかったアダムはなぜ反逆に加わりましたか。(ロ)エデンの園を管理する上で日々起こる問題に比べ,エバが罪を犯したことによって提起された問題のほうがアダムにとってずっと深刻だったのはなぜですか。アダムはどのように信仰の弱さを表わしましたか。
34 アダムが欺かれなかったなら,どうして彼は,妻の反逆に加わったのでしょうか。アダムは妻のエバを欲する気持ちを神との関係よりも優先させました。それで,彼は妻に会った時に彼女から木の実を受け取ったのです。―創世 3:6。
35 聖書はアダムとエバの間で交わされた言葉を記録していません。しかしここで,アダムは極めて深刻な問題を突然かかえ込んでしまいました。アダムには,動物を治めたり園を耕作したりすることに関連して解決しなければならない問題があったかもしれませんが,エバにかかわるこうした事態はアダムの心にまともに響き,彼の忠節を試すものとなりました。彼は次のように考えたかもしれません。『幸福な生活を送っているさなかに,どうしてこのようなびっくりすることが突然わたしに起きなければならないのか。神はなぜそれを許されたのだろう』。神に対するアダムの信仰は試みられました。アダムは神に一層優れた愛を示すべきでした。神が自分を支持してくださることをアダムは知っていたはずです。―詩 34:15。
36,37 (イ)アダムは信仰の欠如に加えて,弁解がましい人間であることをどのように示しましたか。(ロ)しかし,反逆のすべての責任はアダムにありましたか。
36 もしアダムが忠節であることを証明したなら,神はご自分の子であるアダムを顧みられ,アダムが完全に幸福になるよう物事を成し遂げられたに違いありません。(詩篇 22:4,5と比較してください。)ところがアダムはそのような信仰を働かせませんでした。その上,「わたしと一緒にいるようあなたが与えてくださった女,その者がその木の実をわたしにくれたので,わたしは食べました」と言って,言い訳をしようとしました。―創世 3:12,新。
37 アダムの弁解がましい返答は,有罪者として女をとがめるものでした。しかし,すべての責任はアダムにあったのです。神が直接交渉を持たれたのは,家の頭であるアダムでした。彼は責められるべきでした。実際,アダムはヤコブ 1章13節から15節に述べられている道を取ったのです。
38 ヤコブ 1章13-15節は,完全な人間であったアダムとエバが罪に陥った過程をどのように描写していますか。
38 「試練に遭うとき,だれも,『わたしは神から試練を受けている』と言ってはなりません。悪い事がらでもって神が試練に遭うということはありえませんし,ご自身がだれかに試練を与えることもないからです。むしろ,おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。ついで欲望は,はらんだときに,罪を産みます。そして罪は,遂げられたときに,死を生み出すのです」。
全人類に害が及ぶ
39 (イ)アダムはどんな意味で,罪を犯した「日に」死にましたか。(創世 2:17)(ロ)霊性のそう失はアダムの体にどんな影響を与えましたか。子孫にもどう影響しましたか。
39 アダムはそのようにして罪人となりました。ヘブライ語の「罪」という言葉の意味に従えば,彼は“的を逸し”ました。アダムはもはや完全な標準に達することができなくなりました。霊的に死んだだけでなく,その日のうちに身体的に死に始めました。今やアダムは身体的にも影響を及ぼす欠陥,つまり道徳的弱さを持っていました。なぜなら,『死を生み出しているとげは罪である』からです。(コリント第一 15:56)アダムの霊性が損なわれたので,精神の働きは平衡を失い,それは身体の平衡がくずれ,堕落する一因となりました。アダムは死ななければなりませんでした。(創世 3:19)アダムはもはや道徳的にも,身体的にも十分な強さを子供たちに伝えることができませんでした。もはやそれを持っていなかったからです。したがって,「すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しない」のです。アダムはかつて完全であった時に神の栄光を反映していました。―ローマ 3:23。
40 (イ)アダムが罪を犯した後,エホバ神はなぜアダムをエデンの園から追い出しましたか。(ロ)コリント第一 5章11-13節に示されているように,今日クリスチャン会衆ではそれに似たどんな処置が取られますか。
40 罪人となったアダムは,エホバ神と親交を持つ権利を持っていませんでした。また,パラダイスの園でそれ以上生活する権利もありませんでした。それで神はご自分の初子である天のみ子に話されたものと思われます。このみ子は創造の業においてエホバによって用いられた方です。(コロサイ 1:13,15,17)エホバはこう語られました。「『さあ,人は,善悪を知る点でわたしたちのひとりのようになった。今,彼が手を出して,まさに命の木からも実を取って食べ,定めのない時まで生きることにならないように ―』。そこでエホバ神は,彼をエデンの園から出して,その取られた地面を耕させた」。(創世 3:22,23,新)今日でも同様に,悔い改めることをしない不正なもしくは不道徳な者は,クリスチャン会衆から排斥され,その者との親交や交際があってはならない,と聖書は命じています。―コリント第一 5:11-13。
41 すべての人は弱さを受け継いでいますが,あらゆる悪行をそのせいにすることができますか。(ローマ 3:23; 5:12)
41 こうした事柄のすべては人類にとって何を意味しましたか。無力さを受け継ぐ結果になりました。とはいえ,自分が行なう悪い事柄すべてをそのせいにすることのできる人はだれもいません。なぜなら,実際,だれでも故意に罪を犯し,そのため,個人の責任を負うことはあり得るからです。人類の間で罪は増大しました。その結果,極端な悪および,それが招く様々な苦しみや悲しみが現われてきました。罪は王のように人類を支配し,ほとんどどんな考えや行動にも浸透してきました。それで根深い利己主義が存在するのです。―ローマ 5:14。
神は挑戦にどう応じられたか
42 (イ)神の支配もしくは主権に関するどんなことが挑戦を受けましたか。(ロ)そのことに関する悪魔の主張,つまり論議はどんなものでしたか。
42 幸いにも神は,人類に対するその過分のご親切と愛のゆえに,人類を見捨てて,人類が永久に絶えてしまうようにはされませんでした。しかし,神の置かれた立場を考えてください。神の支配権,および主権の正当性,公正さ,その価値の有無が挑戦を受けたのです。悪魔によれば,エホバは愛に基づいて支配していませんでした。知性を持つ創造物が従順なのは,神の支配権を愛し,他の何にもまして神の支配を好むからではない,と悪魔は主張しました。神の主権は,神が自分に従順な者にすべての良いものを与える結果支持を受けているに過ぎない,つまり,神は事実上買収による支配を行なっている,と主張したのです。(ヨブ 1:9-11)さらに悪魔は,創造物が受ける権利のあるものを神は彼らに与えていないと非難しました。神が創造物に対して差し控えているとされたもののひとつは,神に依存しない完全な独立,自分たちの好き勝手に行動する権利でした。―創世 3:5。
43 全能の神がたちどころに悪魔を滅ぼすことをされず,ある期間悪の存続を許されたのはなぜですか。
43 神は自分の支配が正しいことをご存じでした。そして,たちどころに悪魔を滅ぼすこともできました。しかし,そうしたところで,提起された問題は解決されなかったでしょう。なぜなら,サタンの挑戦は,アダムとエバの支持を受けて,神のお名前と政府にそしりをもたらしただけでなく,宇宙内の理知を持つものすべての名前に暗い影を投げかけたからです。王としてのご自分の名前のために,また,当時およびその後に存在する忠実な人々から成るご自分の全家族のために,神は悪が一定の期間存続するのを許されました。
44 (イ)神がただちにアダムとエバを死なせていたなら,わたしたちは今ごろどうなっていたでしょうか。(ロ)生まれて来る人々に対して神はどんな確信を持っていましたか。その確信が正しかったことは証明されましたか。
44 もし神がアダムとエバを直ちに死なせたなら,これまで地上に生存した人々のだれ一人として生まれて来なかったことになります。アダムとエバが悪くなっても,その子孫すべてが悪くなるわけではないことを神は知っておられました。多くの人は悪魔のもたらし得るあらゆる試練を経て神に仕えるでしょう。それゆえ,神は,サタンが無法者として存在するのを許され,アダムとエバに子供をもうけさせたのです。聖書の記録が示しているとおり,彼らの子孫の中には忠実さを立証した人が数多くいます。―ヘブライ 11章。
45 (イ)神が悪を許されたことによって,一番長い間苦しんだのはだれですか。(ロ)神がある期間悪を許されたことにより実際に益を受けたのはだれですか。
45 不利な状況下にあったにもかかわらず,人間は大抵の場合,人生をある程度楽しんで幸福を味わってきました。事実,ほとんどの人は人生の比較的短い期間苦しんだに過ぎません。ですから,苦しいこともありますが,大抵の人は生まれて来てよかったと感じています。ところがエホバ神は,邪悪な事柄や苦しみを見ながら,そうした悪を約6,000年間我慢してこられたのです。それは,宇宙の家族の父親であるエホバにとって悲しいことでした。(詩篇 78:40と比較してください。)エホバはいつ何時でも悪を終わらせる力をお持ちですが,ある目的のためにそうすることを差し控えておられます。それはご自分の益のためではなく,現在および今後生存する理知のある創造物の益のためです。(ルカ 18:7,8。ヨブ 35:6-8)世界の歴史と聖書からすれば,その問題が完全に解決される時は間近です。
46 神の支配に関する論争が十分に審理されるのに約6,000年かかったとはいえ,そのことによってどんな益が得られますか。
46 神が取られた処置には法的な理由がありました。一例として,ある事件が国の最高裁判所に持ち出されて徹底的に審理され,最終的な判決が下されると,最高裁判所の判決はその後に起きる同様の問題各々に判決を下す際の判例となります。それと同様に,宇宙的な論争の場合も,天の最高法廷で解決されると,それは判例となるのです。悪がそれに伴う苦しみと共に宇宙をかき乱すことは決して許されないでしょう。ダニエル 7章9,10節にはエホバの法廷の様子が描かれています。
47 ご自分の主権の正しさに関する宇宙論争の解決に伴い,神はほかに何を備えられましたか。
47 このようなわけで,神はご自分の宇宙主権の論争を解決するために悪と苦しみを許してこられました。また,神は,論争を解決するに当たって,人類をみじめな状態から引き上げる備えをも設けられました。この備えは罪が王として人類を支配することによって及んだあらゆる弊害を除き去ります。神がどのようにその備えを設けられたか,という興味深い点は6章で取り上げられます。
[51ページの図版]
アダムは神の指導を受け,動物を治める仕方を学んだ
[63ページの図版]
法廷で事件が十分に審理されたなら,判決は判例となる。同じように天の最高法廷が宇宙論争に判決を下す時,全創造物は益を受ける
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神は人類を救助するために来られる人生には確かに目的がある
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6章
神は人類を救助するために来られる
1 神が人類を助けに来られることをどのように確信できますか。
エホバ神は,ご自分の宇宙支配権の威厳と調和して,解決不可能と思われる問題を驚くべき仕方で解決されます。その結果を見て,わたしたちは,『これ以外の方法ではできなかっただろうし,これは実に徹底していて義にかなっており,全く良い方法だ』と言うのです。(イザヤ 55:9をご覧ください。)したがって,聖書が示しているとおり,神の支配の正しさが挑戦を受けたその時点で,神は人類を助けに来ることを明らかにされました。神は,『彼[胤]はおまえ[サタン]の頭を砕くであろう』と発表されたのです。(創世 3:15,新)神はご自分の目的が完成してゆくのを時代を追って人間に示そうとされました。
2,3 (イ)約束された「胤」となるべく,神から指名されたのはだれですか。(ロ)その方はどんな理由で,選ばれて然るべき方でしたか。
2 特にだれが神によって「胤」に指名され,ついにはサタンの頭を砕くのですか。それはエホバの独り子です。神のみ子は,エホバの支配もしくは主権のふさわしさと公正さに関する論争を解決するために働く主要な方として選ばれました。エホバにとって非常に大切なその偉大な方が選ばれたのはなぜですか。サタンが挑戦した時,神のみ子に至るまで,宇宙内のすべての者の忠節が問題になりました。そればかりか,神の創造物の他のいかなる者にもまして神のみ子に対して忠節の問題が向けられました。なぜなら彼は宇宙で神に次ぐ地位にある,エホバの主要な子だったからです。しかも,神のみ子は宇宙の創造に際して神と共に働きました。(コロサイ 1:15-17)神の挑戦者は,『神に忠実に仕える全創造物の中でも,彼こそ忠実であるべきだ』,と言うこともできたはずです。したがって,サタンの挑戦によって神の力強いみ子は注目を受けるようになりました。
3 その上,箴言 8章(新)の中で,知恵によって予表されていたみ子は,神の創造の業について語り,「わたしの好む事柄は人の子らと共にあった」と述べました。(31節)み子は人類を深く愛しておられたのです。彼は,第一にみ父への忠節から,加えて,人類に対して抱いている愛から,み父の正しさを立証する割当てを喜んで引き受けました。
4 神はなぜ,罪を無視し,罪の釈明をせずにすますことはできませんでしたか。
4 ところで,エホバ神は人類を愛しておられたので,サタンがアダムと共に宇宙内に持ち込んだ悪を大目に見ることができましたか。神は罪を犯した者に,『わたしはあなたが好きだから憐れみを示したいと思っている。それであなたの罪を見過ごすことにしよう』と言うことができましたか。ご自分の公正と義に調和して,神は罪を無視し,罪の釈明をせずにすますことはできませんでした。もしそうしたとすれば,ご自分の政府の基礎を弱めていることになったでしょう。―詩 89:14。
5 不法が大目に見られたり,法律違犯者が不法行為をうまくやり遂げたりするなら,政府はどうなりますか。
5 “寛大”であることの,そして事実上不法を大目に見ることの実例は今日の地上のある国々のうちに見られます。そうした国々は多くの場合手ぬるく,悪行者を処罰することに熱意を示しません。犯罪者たちは野放しにされてきました。その結果人々は政府に対する信頼を失い,あらゆるものがついには崩壊します。宇宙の支配者はご自分の律法に関してそうしたことが起こるのを許されません。
6 預言者ハバククと使徒パウロは,神が罪を見過ごされないことをどのように指摘していますか。
6 ゆえに,宇宙主権者であられるエホバは,宇宙の法と秩序を擁護する責任上,罪を見過ごされないのです。「神は侮られるようなかたではありません」。(ガラテア 6:7)ハバクク 1章13節(新)で,預言者はエホバにこう述べています。「あなたは悪を見るにはその目があまりに浄く,また難儀を見ていることがおできになりません。不信実に振る舞う者たちを見ておられるのはどうしてですか」。ただ良い目的のために,比較的短い期間,神は悪が行なわれるのを許してこられました。事実神が決めた方法は,人類を真に助け得る唯一の方法です。
法的な問題
7 (イ)アダムは人類をどのように罪と死の奴隷状態に“売り渡し”ましたか。(ロ)詩篇 49篇6節から9節は,自らを救い出し得ない人間の無力な状態をどのように言い表わしていますか。
7 アダムは将来生まれる子孫を,承諾を得ることなく,罪と死の奴隷状態に売り渡しました。アダムは“売り渡した”代償として,神に対する反逆の歩を進め,自分のしたい事を利己的に行ないました。(ローマ 7:14)人間には,死への隷属から自由になるすべのないことは,詩篇 49篇6節から9節(新)で次のように言い表わされています。「自分の資産により頼んでいる者たち,そして自分の富の豊かさを誇り続ける者たち,その一人として,兄弟をさえ受け戻すことは全く不可能である。また,彼のために神に贖いを与えることもできない。(彼らの魂を受け戻す価は極めて貴重であるため,定めなき時に至るまで存在しなくなった。)彼がなおも永久に生き,坑を見ないように」。その価はあまりに高く,あまりに貴重なため,全人類の手の届かないものでした。不完全な人間の能力に関する限り,救助はとてもおぼつかないため,そうした状況は「定めなき時に至るまで」存在し,実際望みはありませんでした。したがって,人間が救われるには,神が備えを設けるべく行動しなければなりませんでした。―詩篇 79:9と比較してください。
8,9 ご自分の政府の尊厳と義を保ちながら人類を助けるのに,エホバ神は何をしなければなりませんでしたか。
8 罪のうちに生まれた人々と交渉を持つためには,それが彼ら自身の落度によらないにしても,神はその人たちと交渉する法的根拠を持つ必要がありました。(詩 51:5。ローマ 5:12)さもないと,すべての人は永遠に死を免れません。なぜなら神の律法によれば,罪人は宇宙から取り除かれねばならないからです。“貴重な”価として別の,しかも完全な人間の犠牲だけが,アダムの失ったものを買い戻せたのです。―テモテ第一 2:5,6。
9 したがって,エホバが必要としておられた方とは,その犠牲が法的根拠となり,その方を通して交渉を持ち得るだれかでした。人間の政府が犯罪者と正式に交渉できないのと同様,エホバ神も罪深い人間と直接交渉を持ち,なおかつご自分の政府の尊厳と義を保つことはできません。
10,11 罪を許し,人々を義と宣するにあたり,神は(イ)ご自身の義と公正,および(ロ)罪が悪であることとご自分の憐れみをどのように示されましたか。
10 その法的根拠を確立することにより,エホバはご自分の宇宙支配権の正しさを実証し,また罪のはなはだしさをも明らかにすることができます。同時に,神は人間に憐れみを示すことができます。使徒パウロはその点を次のように言い表わしています。
11 「というのは,すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しないからであり,彼らがキリスト・イエスの払った贖いによる釈放を通し,神の過分のご親切によって義と宣せられるのは,無償の賜物としてなのです。神は彼を,その血に対する信仰によるなだめのためのささげ物として立てられました。これはご自身の義を示すためでした。神は過去に,すなわちご自分が堪忍を働かせていた間になされた罪をゆるしておられたからです。こうして今の時期にご自身の義を示し,イエスに信仰を持つ人を義と宣するさいにもご自分が義にかなうようにされました」― ローマ 3:23-26。
12 憐れみの気持ちから,“望ましくない人物”を自分の家族の一員として迎え入れようとする人は,どんな問題に直面しますか。(ローマ 5:8)
12 神のご処置が道理と法にかなっていることは,日常の生活から例証できます。例えば,一家の主人である男の人に,方正で清潔で従順な家族がいたとします。その人は,ある悪行を犯したために多額の罰金を科せられて刑務所に入っている若者のことを知っています。その若者は悪い仲間と交わっていて,悪い行ないを覚えました。しかし,前述の男の人は,その囚人を援助し,やがては社会に復帰させることができると信じます。自分自身と自分の清潔で品行方正な家族にとって当然なことながら,その人は若者を直ちに家の中へ連れて来て,そのままの状態で家族と交わらせることはできません。では,援助するにはどうしたらよいでしょうか。
13 その人は,若者を自分の家の,法にかなったふさわしい成員にするためにどんな段階を踏むことができますか。
13 その人は,友人に,罰金を払ってもらい,囚人が刑を免除されて保護監督を受けられるようにすることができます。若者にふさわしい訓練と懲らしめを与えた後,友人は彼を社会復帰した状態でその人に引き渡せます。その結果,若者は一家の清潔で品行方正な成員として受け入れてもらえます。こうして,法的な要求は完全に満たされることになります。一家の主人は全く公正で義にかなった処置を取ったことになり,しかも,若者に憐れみが示されたことになります。
14 神はどんな根拠に基づいて,人間家族をご自分と和解させますか。
14 実際に神は,この問題におけるエホバの代表者として行動するみ子イエス・キリストを介して人間家族と交渉を持たれます。神の取決めに従順な人々は神との間に法的な立場を持つようになります。それらの人々は贖われ,神と和解した,つまり神と一致した関係に入れられるのです。(コロサイ 1:13,14,20)そして個人的な関係を持ち,神を「父」と呼ぶことができます。―マタイ 6:9。
神のみ子は地上に来る
15 神のみ子はなぜ地上に遣わされねばなりませんでしたか。
15 このようなわけで,神のみ子は女性から生まれて人間になるため,地上に遣わされました。み子は,論争が起きたこの地上で忠誠の試みを受けることができ,また,人類のために贖いの代償になることもできました。処女マリアを通して奇跡的に誕生し,人間として神の子となりました。―ガラテア 4:4。
16 (イ)イエスはなぜ,不完全な母親を持ちながら完全な子供として生まれましたか。(ロ)イエスは子供の時も,大人になってからも特別な保護を必要としたのはなぜですか。
16 この息子は不完全な女性から生まれましたが,彼自身は完全で,きずのない方でした。彼の完全な生命は天の霊的な領域からマリアの子宮に移されたのです。み使いガブリエルはマリアにこう告げました。「聖霊があなたに臨み,至高者の力があなたをおおうのです。そのゆえにも,生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます」。(ルカ 1:35)神の聖霊はマリアの周りに見えない力の壁を作り,その結果イエス・キリストは完全な赤子として生まれました。サタン悪魔は言うまでもなく,そのみ子を,できれば誕生以前に滅ぼすか損なうかしたいと願いました。サタンが後にイエスを殺そうと図ったことについて考えてみてください。それはマタイ 2章7節から16節およびルカ 4章28節から30節で述べられているとおりです。
17 イエスが死に至るまで完全さを保たれたことを聖書はどのように示していますか。
17 イエスは,人間としての全生がい中その完全な状態を保たれました。イエスは「忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ」ていました。(ヘブライ 7:26)地上におけるイエスの生がいは,神への忠誠の問題を疑問の余地なく全く完全に解決しました。犠牲の死を遂げる前,イエスはこう述べました。『世の支配者が来ようとしています。そして,彼はわたしに対してなんの力もありません』。また,「今,この世の裁きがなされています。今やこの世の支配者[悪魔]は追い出されるのです」とも語りました。(ヨハネ 14:30; 12:31。コリント第二 4:4)サタンが圧力をかけてイエス・キリストを屈服させることは決してできませんでした。したがって,イエスに対してなんの力もありませんでした。イエスを非難し得る正当な根拠がなかったのです。イエスは世と共に罪に陥るのを拒絶して「世を征服し」ました。―ヨハネ 16:33; 8:46。
18 (イ)地上におられた時イエスが持っていた義の立場はなぜ賜物ではありませんでしたか。(ロ)人類の中で他のだれかが義と宣せられる場合,なぜそれは無償の賜物ですか。
18 使徒パウロはイエスに関して次のように言明しました。「彼はみ子であったにもかかわらず,苦しんだ事がらから従順を学ばれました。そして,完全にされたのち,自分に従う者すべてに対し,永遠の救いに責任を持つ者となられました」。(ヘブライ 5:8,9)ですから,イエスの地上の生がいの終わりに神がイエスを義と宣言されたのは,キリスト自身の功に基づいてのことでした。イエスは霊において生命によみがえらされ,「霊において義と宣せられ」ました。(テモテ第一 3:16)イエスは人類のため完全な大祭司として資格を得られ,天でその立場に就かれました。神は賜物としてキリストに義を与える必要はありませんでした。なぜなら,イエスは罪のない人間として神のみ前に義の立場を持っていただけでなく,最初から最後までその立場を保たれたからです。ゆえにイエスの犠牲は完全であり,他の人間が義と宣せられる根拠となり得ました。他の人々が義と宣せられる場合,それはその人々自身の義に基づくものではなく,イエス・キリストの贖いの犠牲に基づくものです。彼らの場合それは確かに賜物です。―ローマ 5:17。
19 神に仕えたいと願う人々に対して,イエスはどんな立場にありますか。
19 こうした忠実な歩みにより,イエスは神に仕えたいと望むすべての人の仲裁者となる資格を得ました。使徒ヨハネはこう記しています。「もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手[もしくは仲裁者],すなわち義なるかたイエス・キリストがおられます。そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの[覆いの]犠牲です」。(ヨハネ第一 2:1,2)イエスはまた,「神と人間との間の仲介者」とも呼ばれています。(テモテ第一 2:5)悪魔はアダムの息子のアベルの時以来,神の僕の欠点を見つけることに努めてきました。サタンは,「わたしたちの兄弟を訴える者,日夜彼らをわたしたちの神の前で訴える者」と呼ばれています。―啓示 12:10。
20 仲裁者かつ仲介者として,イエスは神の僕たちのために何を行なわれましたか。
20 したがって,法的な闘いにおいて,イエス・キリストは法律上の仲裁者として神の前に現われました。神の忠実な僕たちが間違いをしたり罪を犯したりすると,イエスは彼らが死に価しないということ,つまりイエスの贖いの犠牲が彼らの間違いと罪を覆うということの証拠を裁判官である神の前に提出してきました。彼らは不完全さにもかかわらず正しいことを行ないたいと願っていることをイエスは示してきました。(ローマ 7:15-19)そして,神の忠実な僕たちの信仰の行ないや,彼らが罪を犯した時には真に悔い改めて神を呼び求めることに注意を喚起してきました。(ヘブライ 6:10)彼らはそうした事柄すべてを,イエスの犠牲に基づいて行なうのです。(ヨハネ 16:23)そして神は彼らのためのイエスのとりなしを受け入れられます。
イエスはどのように「子たち」を得るか
21 (イ)一人の人間イエスは「多くの人と引き換える贖い」としてどのようにご自分の魂を与えましたか。(ロ)イエスはなぜ「最後のアダム」として知られていますか。
21 イエスは地上におられた時,人間として,自然の方法で自分の家族をもうける力を持っておられました。イエスはそうした家族をもうけず,犠牲となられて,その潜在能力を放棄されたのです。イエスはこう述べておられます。『人の子は,仕えてもらうためにではなく,むしろ仕え,かつ自分の魂を,多くの人と引き換える贖いとして与えるために来たのです』。(マタイ 20:28)ゆえにイエスは「最後のアダム」になりました。アダムは悪い性向を持つ不完全な家族をもうけました。イエス・キリストは義に達する家族をもうけます。個々の人はアダムの家族から移って,イエス・キリストの義によって再生され,新しい人格を身に着けることにより『彼の像に』似るようになります。「最後のアダム」の子たちとして清くされうるのです。―コリント第一 15:45,49。
22 (イ)イザヤ 53章10節は,キリストが子たちをもうける方法をどのように述べていますか。(ロ)キリストはその子たちをいつまでも自分のものにしておきますか。それともどうしますか。
22 預言者イザヤは霊感を受けてキリストの苦しみを描写し,さらに,エホバに語りかけて,『あなたが彼の魂を有罪の捧げ物とするなら,彼は自分の子孫を見るであろう』と述べました。(イザヤ 53:10,新)キリストは自然の方法によって子孫をもうけません。しかし,エホバが人類のために「彼の魂を有罪の捧げ物と」されたゆえに,キリストは「とこしえの父」として,イザヤが述べた方法で,自分のような性向を持つ家族をもうけるのです。(イザヤ 9:6,新)しかし,イエス・キリストは人々を人間としての完全さにまで到達させた後,買い戻して更生させた人類を,『父,すなわち,天と地のあらゆる家族がその名を負うかた』であるエホバ神に引き渡されるということを念頭におかねばなりません。―エフェソス 3:14,15。コリント第一 15:26,28。
贖いは罪を無効にする
23 イエス・キリストを通して備えられた贖いは罪を無効にすると言えるのはなぜですか。
23 要約して言えば,神のみ子を通して備えられた贖いはアダムの罪を無効にするのです。アダムの罪はすべての人を窮地に追いやりました。もちろん贖いは,人間である魂をことごとく救うわけではありませんが,私たちが生まれつき持っている罪の影響を無効にするのです。どのようにしてですか。罪と不完全さから自由になりたい人は一人残らずそれらをぬぐい去ってもらい,完全に清くなることができるのです。死からよみがえらされた人々でさえ,贖いを利用する機会を得ます。(使徒 24:15)命が得られない人々とは,エホバが自分たちを支配するのを望まない人々です。そうした人々は,義を愛さず,不法を憎みません。受け継いだ罪の上に自分自身の故意の罪を加えて,自らを罪に定めているのです。―ヨハネ 3:17-21,36。
24 (イ)最後には,アダムの反逆行為の“業績”のしるしとなるものが何か残りますか。(ロ)サタンの努力は宇宙に永遠に消えない跡を残しますか。
24 したがって,キリストの王国の支配によって適用されるその贖いの犠牲は,アダムが行なった事柄を完全にぬぐい去ります。最後の敵である死(アダムの罪によって人類にもたらされた死)は無に帰せられます。死がぬぐい去られると,アダムが行なったすべてのこと,彼が人類にもたらしたあらゆる事柄は一切なくなります。アダムの罪のしるしとなるものは何も残っていません。(コリント第一 15:26,55-57)また,悪魔の罪のしるしとなるものも何も残っていません。聖書には,「神の子が現わされたのはこのためです。すなわち,悪魔の業を打ち壊すためです」と書かれているからです。(ヨハネ第一 3:8)サタンは全く無駄骨を折り,しかも自分の命を失うことになります。神のお名前に投げ掛けられた暗い影は全く消されます。神のお名前が永遠にわたり完全に立証され,神の主権を望む人々は生きてそこにおり,神に賛美を帰すのです。―詩篇 150篇。
25 神が人類を救うためになさったことを考えると,わたしたちの心はどう反応すべきですか。
25 神の,なんという愛ある親切なのでしょう! また,主イエス・キリストのなんと深い愛なのでしょう! わたしたちは使徒の次の言葉に和することができます。「ああ,神の富と知恵と知識の深さよ。その裁きはなんと探りがたく,その道はなんとたどり出すことのおよばないものなのでしょう」。(ローマ 11:33)この世が,疑いを抱かせたり,わたしたちの信仰を攻撃したりするために,いかなる手段を講じようとも,わたしたちは,神の愛ある親切やイエスの愛に対する偽りのない感謝を持って,『このような神こそ,わたしたちの全き専念と奉仕を受けるにふさわしい方です』と叫ぶことができます。―フィリピ 3:8,9をご覧ください。
[69ページの図版]
不法を働いた見知らぬ若者を家族の一員として迎える前に,一家の主人は若者に身ぎれいにしてもらいたいと望む
[74ページの図版]
あなたは罪人アダムを父として生まれた……
[75ページの図版]
……しかし,イエスを「とこしえの父」として選ぶことができる
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命の源またその維持者人生には確かに目的がある
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7章
命の源またその維持者
1 エホバを自分の神とするかどうかを考慮する際にどんな疑問が生じますか。
人間男女を罪と不完全さから解放する道を備えたエホバ神は,その後人間を生き続けさせることがおできになりますか。エホバを自分の神とした人が,健康と幸福を享受しつついつまでも生きられるという確かな保証がありますか。
2 宇宙を創造された神は,宇宙を永遠に運行させる能力をも持っておられますか。
2 神は創造する力をお持ちなのですから,地球自体を存続させる力を持っておられるに違いありません。神は,必要なら,太陽のエネルギーを絶えず更新させることができるのです。地球について言えば,神はそれを,廃棄物を“還元”してその表面を絶えず更新する,自給“宇宙船”に造られました。森や河川はほうっておいても,人間の破壊的な行為によって生じた傷をわずかな期間で消し去り,元の姿を取り戻します。
3,4 (イ)伝道之書 1章4節にあるソロモン王の言葉は,人間が永遠に生きられるという考えと矛盾しますか。説明しなさい。(ロ)現在の悲惨な世の中にあってさえ,わたしたちの人生が必ずしもむなしい,あるいは目的のないものとなるとは限らないことを,ソロモンが下した結論はイエスの言葉と相まってどのように示していますか。
3 地上の人間の場合はどうでしょうか。人生の偉大な観察者であるソロモン王は次のように述べました。「代はゆき,代は来る。しかし地は,実に定めのない時に至るまでも立ち続ける」。(伝道 1:4,新。コリント第一 7:31)ソロモンは,人間の代が常にそのようであると述べていたのではありません。死が「王」として支配する現在の事物の体制下で見られるような人生のむなしさについて述べていたのです。伝道之書を読むと,ソロモンはこの時代に生きることに関して賢明な助言を与えていたことが分かります。基本的に言ってソロモンが述べていたのは,現在の世の体制,世の物質的な事柄や世のやり方に希望を置くべきでないということです。
4 人類の現在の状態を描写した後,ソロモンは自分が調べた結果をこう報告しています。「すべてのことが聞かれたからには,事の結論はこうである。真の神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の務めの全体だからである」。(伝道 12:13,新)また,ソロモンより偉大な方であるイエスは次のように述べました。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」― ヨハネ 17:3。
5,6 (イ)人が永遠に生きることはなぜ可能ですか。(ロ)人間の作りに関するどんな事柄は,わたしたちに対して良い目的を持つ,生ける神がおられることを証明しますか。
5 愛する友人や親族と死別するという悲しみに耐えなくてもよいことが分かっていて彼らと交われたら,すばらしいことではないでしょうか。
6 それは可能なばかりか,全く確かなことなのです。なぜなら,『エホバは真実に神であられ,彼は生ける神,また定めのない時まで王であられる』からです。(エレミヤ 10:10,新)モーセは祈りの中で,神が永遠に存在されることについて,「実に定めのない時から定めのない時に至るまであなたは神です」と述べました。(詩 90:2,新)永遠に生きておられる神は,生命活動を開始させてそれを永遠に続けさせることができます。人類が,優れた想像力,美的感覚,親切,愛などの特質やその他の感情を有して存在しているという事実は,人間には生きた創造者がいること,また,その方は人類に対して良い目的を持っておられることを証明しています。世界が偶然,つまり盲目の力で動いているなら,感情というものは存在しないでしょう。確かに,生命には生きた源がなければなりません。
“生命の自然発生”説は誤り
7,8 生命は無生物から自然に発生し得ないことをルイ・パスツールはどのように証明しましたか。
7 医学に大きく貢献した著名な科学者であるルイ・パスツールは,1864年に,有名なパリのソルボンヌ大学における講演の中で次のように語りました。
8 「みなさん,わたしがその[殺菌した]液を指して,広大な広がりを持つ創造物から一滴の水を採り,下等な生き物が成長するのに適した要素を十分に有する状態でその水を採ったと申し上げよう。そして,最初の創造の見事な光景が再現されることを願いながら,それを待ち,観察し,調べるのである。ところがその液は,数年前にこれらの実験が始められて以来ずっと沈黙を保ったままである。それが沈黙しているのは,人間が作り出すことのできない唯一のもの,空気中で生きる細菌,つまり生命をその液に寄せつけなかったからである。というのは,生命は細菌であり,細菌は生命だからである。自然発生の理論はこの簡単な実験によって受けた致命的な打撃から決して立ち直れないであろう」。
9 今日の科学者や他の,経験に富んだ人々は,パスツールの発見に信仰を置いていることをどのように示していますか。
9 この言葉は百年以上も昔に語られましたが,これは現在でも真実です。科学者たちが,生命のない物質から生命を自然発生させ得たことは一度もありません。実際,内科医も歯科医も外科医も,そして科学者たちもパスツールの実験に頼り,信仰を置いています。自分たちの病院や外科器具を殺菌しますし,牛乳や水を殺菌します。それは細菌による感染や腐敗を生じさせないためです。殺菌されたものから生命が発生するとすれば,そのようにすることがどれほど役立つでしょうか。もし殺菌処理は効果がなく信頼できないことが分かれば,世の人々はいつまでもそのために多額の費用を掛けるでしょうか。
10 (イ)聖書はわたしたちに命の源をどのように示していますか。(ロ)『だれが神を創造したのか』と尋ねる人は,何をしていることになりますか。
10 したがって,あらゆる証拠はそれ自体生きている,生命の源が存在することを示しています。聖書はエホバ神について,「命の泉はあなたと共にこそあり」と述べています。(詩 36:9,新)ある人は,「もし生命を生むには生命が存在しなければならないとするなら,だれが神を造ったのか」,と尋ねるかもしれません。しかし,そうした質問は単に答えを遠ざけているにすぎず,問題からの一種の逃避です。そのような人は,無生物が常に存在したことを信じるのに困難を覚えないようですが,それは矛盾していると言わねばなりません。
無限の創造者
11,12 威厳のある創造者についてすべてを理解することはとてもできそうにないことをどんな事柄が示していますか。(イザヤ 40:18,22)
11 広大な宇宙の創造者がその創造物によって十分に理解されるとはとても期待できません。(ローマ 11:34)しかし,少なくとも,科学と数学には“無限”という概念があります。わたしたちは無限の空間を想像できますし,天文学者の知る限りでは,宇宙は広大無限のようです。望遠鏡でさらに遠方が見えるようになればなるほど,天文学者はより多くの星雲を発見しています。
12 次に,反対の方向,無限に小さな物について考えると,物理学者は今もってそれ以上分割できない微粒子を発見していません。原子が発見された時,それは単一であるかに見えました。つまり,原子は分割できない物質単位である,と科学者は考えたのです。ところが,原子をいろいろ実験した結果,その理論が誤りであることが分かりました。原子を構成している物質単位,もしくは物質単位と思われるものが次々に発見されて,その一覧表は長いものとなり,しかも,それがどこで終わるのかまだ分からない状態です。
13 申命記 32章40節の神の言葉を受け入れるなら,わたしたち自身の存在に関してどんなことを信じられますか。
13 では,わたしたちは,始まりがなく,永遠に存在する神という概念を持てないでしょうか。神はご自分が正にそのような存在であることを言明しておられます。(申命 32:40。ローマ 16:26)神のその言葉を受け入れるなら,神がご自分に従順な者に命を吹き込まれ,その命を永遠に存続させ得る,と信じることができます。
地球上の自然界の循環作用は人間の益となる
14 わたしたちの周囲のいたる所で崩壊と死を見る時,わたしたち自身の生命に関して当然どんな疑問が生じますか。
14 こう尋ねる人がいます。「生き物はみな崩壊に向かう傾向があるという事実はどうなのか。細胞や組織は衰え,その結果老化が起きて遂には死に至るのではないか。このことは人間の生命にいつまでも起きるのではないだろうか」,と。では考えてみましょう。
15 腐ったり破壊したり,組成が変わったりするものが何もないなら,地上の状態はどうなりますか。
15 地上のあらゆる物質は年月と共に崩壊に向かいます。岩は砕け,木は腐ります。しかし,考えてみてください。岩や木その他の物質が風雨にさらされなければ,また,有機物の腐敗がないとしたら,実情はどうなっているでしょう。地球は不毛の地となります。化学反応はほとんど起きないでしょう。人体の消化器官はふさわしく機能できません。なぜなら,消化器官は化学的な作用,および細菌による作用で機能し,食物の組成を破壊したり変えたりするからです。化学構造を変えることのできる物が少ないため,行なえる仕事はわずかしかありません。現在でさえ,容易に壊れないある種のプラスチックは廃品処理の問題を起こしています。
16 (イ)生命が地上に存在するには,物質にどんな変化がなくてはなりませんか。(ロ)人間が死ぬ理由に関して人間は動物とどのように違いますか。
16 ですから,地上の生物が存続するには,有機物と無機物に変化がなければなりません。生と死の循環は元々,地上の,人間以外のすべての生き物に意図されたことでした。なぜ人間は例外なのですか。それは,人間が神の像と様に似せて造られたからです。人間だけが神の“息子”とか“娘”とか呼ばれ得るのであり,動物はそのように呼ばれることはありません。動物に関してではなく,人間に関して,『罪を通して死が入った』と述べられています。―創世 1:27。ローマ 5:12。
17,18 地上の生命の存続に肝要な循環を幾つか挙げなさい。
17 こうした循環のうちの幾らかを考えてみましょう。まず植物が挙げられますが,これはあらゆる動物に食物を供給し,実際,地上の全生物の出発点となっています。植物は,動物にできないような事をすることができます。日光を利用して自分の食物を生産するのです。この過程は“光合成”と呼ばれています。ですから,動物は植物に依存しなければなりません。植物は生長して食物を供給し,死ぬことになっているのです。次いで,種子の発芽という驚嘆すべき過程を経て,再び作物ができます。
18 海では,“食物連鎖”によって各段階の生命が維持されています。微小な植物プランクトンは動物プランクトンのえさになり,一方,動物プランクトンは,人間の食物となる魚を含むもっと大きな魚のえさになります。次に,バクテリアは死んだものを植物プランクトンのえさに変え,食物連鎖が再び最初から始まります。
19,20 細胞と組織が崩壊してもどうして人間が永遠に生きられるかを説明しなさい。
19 その過程でそれぞれの動物は死んで,子孫がそれに取って代わり,こうして種が保存されます。では,個々の人が生き続けるというどんな希望があるのですか。この点に関して人間と動物には違いがありますか。
20 確かに違いがあります。生物の細胞や組織は損なわれ,死んでしまう細胞もある一方,生物には“衰える”過程を逆にしようとする傾向があります。生物は比較的単純なものから,高度に組織立った複雑な合成物を作ります。もし生命力が最高の効率を保って作用し続けるなら,損なわれた組織は絶えず補充されるか修復されるかします。老化は起こらず,人は決して死にません。創造者だけが,人間に対して,そうしたことを行なえます。創造者は,従順な男女に永遠の命を約束しておられるのです。動植物の誕生と死の循環を含め,地上のあらゆる循環は,実は,専ら人類の究極の福祉を図って取り決められたものなのです。
21 (イ)不完全だったにもかかわらず,かつては人間の寿命が今よりもずっと長かったことを示すどんな証拠がありますか。(ロ)現在,人間の寿命が人類史のごく初期のころよりも短いのはなぜですか。
21 聖書の記録が明らかにしているとおり,人間は動物よりもはるかに長生きするように造られました。アダムからそれほど隔たっていない子孫の一人は,完全に近い状態で969年も生きました。この例からも,その年月の間ずっと細胞が補充されていたこと,中枢神経系の細胞(科学者によると,この細胞は修復され得るが補充はされない)が幾世紀間も健全に修復され維持されたことが分かります。(創世 5:27。同5節から31節および9章29節もご覧ください。)いうまでもなく,今日の短命な世代はその当時から見るとはるかにかけ離れ,長年の間に強まった罪と不完全さを持っています。人類は堕落しました。しかし,神はご自分に頼る者が定めのない時まで生きられるよう,彼らに力を与えることができます。―イザヤ 40:29-31。
「命のパン」
22,23 (イ)動物はなぜ死にますか。(ロ)はるかに優れた有機体を持つ人間を神はどのように造られましたか。(ハ)地上の全創造物の中で人間はどんな独特の資質を持っていますか。(ニ)定めのない時まで生き続けるために,人間には何が求められていますか。
22 さて,人間が地上に現われるはるか以前から,動物は死を経験していました。発見された化石が証明しているとおりです。動物は限られた寿命を持つものとして創造されたのです。ところが人間は,同じ元素から造られているとはいえ,より高位のもの,はるかに優れた本質を持つものとして創造されました。
23 動物に関してではなく,人間に関して,神は『定めのない時を彼らの心の中に置い』たと述べておられます。(伝道 3:11,新)人間だけが過去とか未来という概念を持っています。また,人間だけが,霊的な能力,すなわち,神に関する知識を取り入れたり,神の霊的な資質と倫理的に優れた特性にあずかったりする能力を持っています。(ヘブライ 12:9)神が人類にそうした霊的能力を備えさせたのですから,人間が正しく機能する,つまり生き続けるためには,それが満たされ充足されねばなりません。イエスは言われました。「自分の霊的な必要を自覚している人たちは幸いです」― マタイ 5:3。
24 完全な人間であったイエスは,自分の命が何によって維持されていると述べましたか。
24 イエス・キリストは,地上で完全な人間であったにもかかわらず,命を保つために神に頼りました。イエスはこう言われました。「わたしの食物とは,わたしを遣わしたかたのご意志を行ない,その[神の]み業をなし終えることです」。さらに,『わたしは父によって生きている』とも言われました。(ヨハネ 4:34; 6:57)イエスはご自分について次のように語りました。「わたしは命のパンです。あなたがたの父祖は荒野でマナを食べましたが,それでもなお死にました。……だれでもこのパンを食べるなら,その者は永久に生きます」― ヨハネ 6:48-51。
25 イエスはどんな意味で,ヨハネ 6章48節から51節の言葉を語りましたか。
25 当然のことながら,イエス・キリストは,人々が彼の文字通りの肉の体を食べるという意味でそう言われたのではありません。しかしながら,キリストの贖いの犠牲に信仰を働かせ,キリストを通して神が備えられた霊的な食物を「食べる」ことにより,人は永遠に生きられるのです。それはいつのことですか。キリストの王国が支配する「新しい地」においてです。その時,大祭司であるイエスは,仲間の王また従属の祭司たちaと共に,地上の従順な人々に対してその贖いの犠牲を十分に適用します。その結果,それらの人たちの体はいやされます。それから彼らは,神のご意志を行ない続け,永遠に生きるのです。―ヨハネ 3:16。
26 (イ)神は,人間にほんのつかの間良い生活を送らせるために,み子を遣わして苦しみに遭わせたと考えるのは道理に合っていますか。(ロ)エホバはすべての人に何を,どんな条件で差し伸べておられますか。
26 エホバは最大の犠牲を払って,ご自分の独り子を地上に遣わされました。神は,ほんの短い間,より良い生活が送れるようにするためにみ子を苦しみと死に遭わせたのでは決してありません。神はすべての人にこう言われました。「悪から遠ざかり,善を行ない,そうして定めなき時に至るまで住むように。エホバは公正を愛する方,そして,ご自分の忠節な者たちを捨て去ることはないからである。定めなき時に至るまで彼らは必ず守られる」。(詩 37:27,28,新)そうです,エホバは,命の源また支える方であられ,ご自分に従順であり続ける者すべてに対して永遠にわたり命の偉大な守護者でもあられます。
[脚注]
a 12章と15章をご覧ください。また,ものみの塔聖書冊子協会発行の「とこしえの命に導く真理」と題する本もご覧ください。
[82ページの図/図版]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
酸素の循環
植物は炭酸ガスを吸収して酸素を放出する
動物と人間は酸素を吸い,炭酸ガスを出す
[83ページの図/図版]
(正式に組んだものについては出版物を参照)
窒素の循環
雷は窒素と酸素を結合させ,その結合したものは雨によって地上に降下する
植物は動物と人間の食物となる
バクテリアは,腐った植物や動物の排せつ物に作用し,窒素を放出して空中へ戻す。植物の養分を作るバクテリアもある
バクテリアは窒素を空気中から吸収してそれを植物が用いる
[80ページの図版]
病院では手術用具が殺菌消毒されます。それはなぜですか。殺菌されたものから生命(病原菌)は生じないからです
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愛の神を明らかにする顕著な賜物人生には確かに目的がある
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8章
愛の神を明らかにする顕著な賜物
1,2 聖書の詩篇 25篇8節とマルコ 10章18節を読むと,どんな疑問が生ずるかもしれませんか。
神が善良な方であるとどうして分かりますか。なぜ全能の神が,同時に悪い方であり得ないのですか。自らの内に幾らかの悪を持ち得ないのですか。神の人類に対する態度と目的はどこまでも慈愛深いとどうして分かりますか。
2 「エホバは善良で正しい方」という詩篇作者の言葉や,イエスが述べた,「ただひとり,神以外には,だれも良い者はいません」という言葉を考えると,こうした疑問が頭に浮かぶかもしれません。―詩 25:8,新。マルコ 10:18。
3-5 (イ)神が善良であるためには,どんな特質が求められますか。(ロ)神は理性を持つ創造物に対してどんな二つのものを備えられましたか。なぜですか。
3 神が善良であるためには,ご自分の創造物を,そのあらゆる部分にわたって顧みる神でなければなりません。まず第一に,創造物が生存できるような備えを設ける神であるはずです。
4 第二に,神が善良であるなら,創造物が生き続けるのに必要な単なる物質以上のものを備えられるはずです。人間の場合特にそう言えます。というのは,人間は,単なる生存以上のものを人生から得たいと願うからです。神の知的な創造物は明らかに,単調で退屈な生活を送るように造られていません。それで神は,五感を通して精神を養う備えを設けられるはずです。人が五感を用いるのはただ生きるためだけではありません。人は,周囲の物事を観賞したり楽しんだりする能力を持っています。事実,人は,視力や聴力,きゅう覚,味覚を奪われている人のことを気の毒に思います。なぜなら,その人は生きる喜びを増し加える様々な楽しみを得損なっているからです。
5 したがって,人間の住みかである地球には,生活を楽しくするものが備わっているはずです。事実はそのことを示しているでしょうか。
わたしたちを楽しませてくれるもの
6,7 果樹は,どうして神の善良さの証拠と言えますか。
6 果樹に関する驚嘆すべき事柄を考えてみましょう。果樹は文字通り果物“工場”であり,その枝々は滋養に富んだ果物という驚くべき収穫物でずっしりと垂れ下がります。しかも,この果物“工場”は静かに操業し,汚染,ばい煙,放射線その他の迷惑な問題を出しません。果樹は果物を実らせると同時に目を楽しませてくれます。果樹園を散歩するのは気持ちの良いものです。樹木は涼しい木陰を与えると共に,酸素を放出したり,しばしば心地よい香りを放ったりして,雰囲気をさわやかなものにしてくれます。
7 その上,果物は,単に命を保つための必要物以上のものです。神が備えてくださったすべての食物の例にもれず,果物もおいしくて,食べる喜びを与えてくれます。果たして人間で,桃やオレンジやさくらんぼ,りんごやバナナやマンゴの香りを思いついたり,発明したりできた人がいるでしょうか。人間はせいぜい,本物より質の劣る模造品を作れるにすぎません。
8,9 音楽は,慈愛深い神からの特別の賜物以外の何ものでもないとどうして言えますか。
8 音楽はもう一つのすばらしい賜物です。音楽は,人の気分を和らげたり,うっとりとさせたりします。音楽を聴いて真剣に黙想する人もいます。また,音楽が人を行動に駆り立てることもあります。ある音楽の調べは気持ちのよい場所や楽しい出来事を思い出させてくれます。
9 音楽がなぜ人の思いと心にそのような際立った影響を及ぼすかを正しく説明できる人がいるでしょうか。わたしたちが音楽に反応でき,しかも音楽を楽しめるように,生来リズム感や音感を持っているということは,実際には美しいものの真価を認められる創造者がわたしたちの体内に付与された肝要な賜物なのです。また,良い音楽を作る才能のある人々,その人たちは仲間の人間を楽しませることができ,神のその賜物から実に大きな喜びを得ています。
10 会話は,人類を『神の様に似せて』造った神からの賜物だと思いますか。説明しなさい。
10 会話をする能力も,非常にすばらしい賜物の一つです。もし意思の伝達ができないとしたら,あるいは,書き文字や指話法,ブーブー鳴く声やうなり声しかなかったなら,どんなに惨めなことでしょう。人間の思いは,例えば,印刷物を通してよりも会話でのほうが,よりよく表現でき,またよりよく反応を見ることができます。とはいえ,読んだり書いたりすることも,楽しみをもたらす賜物です。
11 単に生きるだけなら必要不可欠ではなくても,生活を楽しむ上で非常に価値のある賜物として,ほかにどんなものがありますか。
11 それから,創造物に見られる非常に豊かな色彩があります。ありとあらゆる種類の美しい花々,どんな画家もその美しさを再現できない壮麗な日没,そのほか地上にはあらゆる種類の美しいものが数え切れないほどあります。これら数多くの楽しみは,わたしたちが親切にも与えられた感覚を,最も楽しく用いるための愛のこもった賜物なのです。
12 創造者の存在を疑い,わたしたちが楽しみを得ているものは,実際には実用的な目的のためにあるのだ,と言う人々にどのように答えられますか。
12 それでもなお,創造が行なわれたことを疑う人は異議を唱えるかもしれません。例えば,花の香りや色は,それらが植物に受粉させるこん虫を引き付けるので,必要上あるにすぎないと言うかもしれません。それは一面では確かに真実です。しかし,もしそれが,この際立った賜物の存在する唯一の理由だとしたら,なぜそれらの賜物は人間をも楽しませるのでしょうか。なぜそれらはわたしたちに精神的な安らぎや幸福感を与えてくれるのですか。しかも,美しい日没に,果たして純粋に実用的な目的があると言える人がいるでしょうか。音楽は生存を続けるのに不可欠なものであり,楽しみをもたらす賜物ではないとだれが言えますか。
13 実用的なものの多くが楽しみをも与えてくれるということについて何と言えますか。
13 生活上の多くの実用的な事柄は,同時に大きな慰めと楽しみの源でもあるという事実は,神の驚くべき経済性,多様な知恵,ご自分の創造物に対する愛を如実に物語っています。
感謝しそこないがちな賜物
14 わたしたちは,自分たちを楽しませてくれないものに対して,どんな誤った見方を持ちがちですか。
14 時々わたしたちは,自分に美しく思えないものを,考慮に値しないと考えます。特に虫の場合がそうです。しかも,わたしたちは虫を“やっかい者”と考えがちです。しかし,ここでも創造者は,わたしたちのためにすばらしい事をしてくださいました。わたしたちが正に軽べつしている虫の中には,実は,わたしたちが行なう長時間にわたる単調な骨折り仕事の手間を省いてくれ,もっと良い事柄を楽しむ時間が持てるようにしてくれる虫がいるのです。
15 下等なミミズは,わたしたちのためにどんな有益な働きをしてくれますか。
15 一例として,ミミズを考えてみましょう。この小さな生き物は全く無害です。1ヘクタールの土地に,約500万匹あまりのミミズがいることもあります。ミミズは絶え間なく働きます。年間1ヘクタールにつき15㌧から40㌧もの土を掘って,地表から2.4㍍の深さまで穴を掘ります。ミミズの体は土の中の有機物を消化し,植物がすくすくと育つのに欠かせない,カルシウム,マグネシウム,カリウム,リン,硝酸塩を豊富に含む排せつ物を出します。ミミズは,また,土の酸性とアルカリ性の均衡を保つのに貢献します。その穴掘りのおかげで土の通気とかんがいが行なわれ,腐敗が抑えられます。ミミズは木の葉や他の植物を地中に引きずり込むので,土地が肥よくになります。
16 ミミズやこん虫は,どのように人間が人生を楽しめるようにしてくれていますか。
16 さて,もしミミズがいなかったとしたら,そうした作業のすべてを人間が行なわねばなりません。しかし,どうでしょう,農夫が夜昼働いても,ミミズがするように,作物のために土地を整えることは不可能です。しかも,その費用は,農夫が負いきれないほど高くつくでしょう。したがって,人間が少ししか,あるいは全く努力しなくても,果樹や草本が人間のために産物を出すのと同様,ミミズも人手を煩わさないで人間のために貢献してくれているのです。それに加え,人間がより知的で楽しい事柄を追求できるよう,多くの単調で退屈な仕事をしてくれる,虫の大群がいます。
17,18 虫はどれほど人類の益になっていますか。
17 虫が人間のために行なう働きについて,サン・ホセ州立大学の生態学および植物学の教授カール・D・ダンカンは次のように述べています。
18 「人間自身よりも虫のほうが,人間の世界の性格をはるかに大きく左右しており,もし虫が突然にしかも全く姿を消したなら,世界は大きく変化するので,どんな形態であろうと人間が組織的な社会を維持できるかどうか極めて疑わしい,と言っても過言ではない」。
“有害な生き物”についてはどうか
19,20 (イ)“有害な生き物”の問題を引き起こしている大きな要因は実際には何ですか。(ロ)ある種の動物や虫や病原菌を殺すと,どんな自然の過程を経て問題が増大しますか。
19 ダンカン教授はもう一人の科学者フランク・ラッツ博士の言葉も引用しました。ラッツ博士の推定によれば,アメリカにいるこん虫で“有害”と言えるのは,全体のせいぜい0.5%です。
20 “有害な生き物”の問題を考慮する際に,人間が不均衡をもたらしたことを認めなければなりません。人間の不潔さや汚染は環境を混乱させる一因となってきました。時には,人間があるこん虫や動物を絶滅させ,そのために別のこん虫や動物が異常に増えることがあります。次いで,そうした増加を薬剤で抑えようと努力します。その結果大部分を殺しますが,薬に対して抵抗力の強いものは生き残って増え,元の数を“しのぐ”ほどになります。これは,非常に強力で危険な薬でしか殺せない,いわゆる“大ねずみ<スーパー・ラット>”などの,もっとやっかいな問題を招きます。同様の問題はある種のこん虫と病原菌にも起きています。
21 そうした“有害な生き物”はなぜしばしば人間の領域を侵しますか。
21 いわゆる“有害な生き物”は,異常に増えると,本来の生息地を棄てて人間の個々の領域にまであふれ出ます。侵入して,人間の食物を食い荒らしたり,人間の所有物を汚したりします。有害な生き物は普通,それ自身に病原菌があるというよりも,ごみ箱や下水から病原菌を運んで病気を広めます。これは特に大都市で見られます。無造作に捨てられたごみの山は,ハエやネズミ,今では“大ねずみ”を引き寄せ,それらの増える原因になっています。
22 “有害な生き物”でさえ,どのように益となっていますか。
22 しかし,これらの下等な生物でさえ,“有害な生き物”であるがゆえに一つの役割を果たしています。“有害な生き物”はごみをある程度片付けてくれるだけでなく,それがいるために人間は自分の周囲をより清潔に保つよう何らかの処置を講ずることを余儀なくされます。“有害な生き物”がやってきて自分の生活を不快なものにしないためにそうするのです。こうして,人間の不注意や怠慢,不潔をある程度抑制するものとなっています。
23 “有害な生き物”とみなされるものをも含め,動物は人間のためにどんなことをしていますか。
23 こん虫,微生物,それらより大きな動物から成る,自然界の“公衆衛生部隊”は,人間には決して成し得ない他の事柄も行なっています。それら掃除をする生物は枯れ枝や枯れ木のくずを森の地面から片付け,動物の死がいを処分し,そのようにして,多くの恐ろしい山火事とかひどい汚染や病気を防いでいます。
悲しみの原因があっても,幸福であり得るのはなぜか
24 これまで考えた幾つかの賜物は,神が幸福な方であられ,わたしたちが幸福になることを願っておられることをどのように証明していますか。
24 神からのこうした賜物,また枚挙にいとまのないさらに多くの賜物は人間の荷を軽くします。また,人間を病気から保護し,人間に喜びを与えます。ですから,それらは,神が本当に善良な方であり,それゆえに「幸福な神」であられることの証拠です。(テモテ第一 1:11)神は生きることを楽しんでおられるのであり,創造を行なわれた目的はその喜びを他の者たちと分かち合うことです。(啓示 4:11)ところで,わたしたちは,持っている命を楽しみ,現在の事物の体制で本当の幸福を味わえるでしょうか。
25,26 神の目的に関する知識を持っていれば大抵克服できる悲しみの例を一つ挙げなさい。
25 現在の混乱した事物の体制の下では時々悲しい経験をします。しかし,人間に対する神の良い目的を理解するなら,全体的に見てわたしたちは幸福であり得ます。
26 例えば,家族のだれかが死ぬかもしれません。それは確かに悲しいことです。なぜなら,死は敵だからです。(コリント第一 15:26)しかし,神と神の善良さを信じている人々は,悲しみに打ちひしがれることはありません。この点に関して使徒パウロは次のように書きました。「兄弟たち,死んで眠っている者たちについてあなたがたが知らないでいることを望みません。希望を持たないほかの人びとのように悲しむことのないためです」。次いでパウロは復活に関して慰めの言葉を語りました。―テサロニケ第一 4:13。
27 苦しい状況の下でも幸福感を失わなかった方に関するどんな優れた手本がありますか。
27 しかしわたしたちは,悲しみゆえに幸福感をすっかり失ってしまう傾向があるかもしれません。しかし,この点でエホバ神はわたしたちに最大の模範を示しておられます。神がみ子を人間として地上に遣わし,わたしたちのために死なせ,それによってご自分の善良さを最高に発揮されたことを考えてみてください。それは普通ではとても考えられないことであり,あくまでエホバの過分のご親切でした。同使徒は,その行為の愛の深さのほどにわたしたちの注意を喚起し,「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです」,と述べています。(ローマ 5:8)そのことは神を悲しませなかったと思いますか。愛する息子が死ぬのを見ることほど父親にとって悲痛なことがあるでしょうか。にもかかわらず,神はみ子の従順さや忠実さ,人類のためにみ子が進んで死ぬのを見て,大きな幸福感を味わわれました。神はまた,ご自身とみ子を悲しませたとはいえ,その犠牲がわたしたちに及ぼす数々の益に思いを巡らし,幸福を感じられました。(イザヤ 53:10,12)確かに,神ご自身のみ子という賜物は,あらゆるものの中で最大の愛の表現です。
28 エホバ神は,罪に起因する人類の悪い状態を見て何かを感じられますか。
28 創造物である人類が神の律法を拒絶して従わなかったために苦しんでいるのを見て,エホバがどれほど心を痛めておられるかを考えたことがありますか。人間が悪を行ない,自分たち自身および共に住んでいた,神の僕たちに苦しみをもたらした時,神は『その心に痛みを覚えられました』― 創世 6:6,新。
イエス,苦しみの間も幸福であることの手本
29 イエスは地上での生がい中どんな経験をされましたか。
29 イエス・キリストは地上におられた時,み父の性質と物事を行なう仕方とを完全に反映しました。イエスはこう述べました。「わたしを見た者は,父をも見たのです」。(ヨハネ 14:9)したがって,神を理解するのに文字通りの目で神を見る必要はありません。イエスには悲しい時がありましたか。イエスは預言的に,『苦痛に定められた人』と言われたり,また『彼はさげすまれ,わたしたちは彼を問題にしなかった』と述べられています。それにもかかわらず,イエスは,ご自分が成し遂げていた事柄のゆえに幸福でした。その同じ預言は次のように述べています。『彼は自分の魂の難儀ゆえに見,満ち足りるであろう。[彼は]多くの民に義の立場をもたらすであろう』― イザヤ 53:3,11,新。
30 特にどんな事柄はイエスを悲しませましたか。
30 神を知っているはずのイスラエルの人々が,人間の作った宗教的伝統によって神から離反していることを,イエスはしばしば悲しく思われました。『その心の無感覚さを憂え』られたのです。(マルコ 3:5)イエスは群衆に哀れみをお感じになりました。「彼らが,羊飼いのいない羊のように痛めつけられ,ほうり出されていた」からです。(マタイ 9:36)それはイエスを悲しませたに違いありません。死んで間もない友人のラザロの墓に行った際,「イエスは涙を流され」ました。―ヨハネ 11:35。
31 多くの悲しむべき事柄があったにもかかわらず,決して喜びを失わなかったことをイエスはどのように示しましたか。
31 ですから,イエスも,わたしたちと同様,悲しみを感じることがありました。しかし,そのために,み父の業を行なっているという自覚から生じる幸福感を奪われましたか。イエスは,3年間交わって教えた弟子たちに喜びを表わされませんでしたか。弟子たちに対して,あるいは彼らの面前で,悲しそうで消極的な気持ちを表わしておられたという証拠はありません。イエスは信仰や行動の面で弱ったりぐらついたりしませんでした。イエスは「彼の手にあってエホバの喜びとされることは成功する」ことを知っておられ,また,ご自分がみ父から「死とハデスの鍵」を受け取り,やがてその鍵で,罪と死のもたらすあらゆる害を取り除くことを知っておられました。―イザヤ 53:10,新。啓示 1:18; 20:13。
32 (イ)神の賜物を考えると,どんな結論を引き出せますか。(ロ)一方,わたしたちはどのように神を喜ばせることができますか。(詩 149:4)
32 こうした事柄すべてから,神の善良さの一端がうかがえます。そのことによって,神を見ならうようわたしたちの心は動かされます。神を見ならうことのすばらしさは,現在の事物の体制で悲しみにあっても幸福でいられることです。さらに,神に従順であることによってエホバご自身を喜ばせることができます。(詩 149:4。箴 27:11)わたしたちは,「もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない」時代に生きられることを知っています。―啓示 21:4。
[89ページの図版]
神はわたしたちに美しい日没,花の香り,食物の風味,音の楽しみを与えられた。これらすべては生きる喜びを増してくれる
[92ページの図版]
ミミズはどんな農夫もまねのできない仕事をする
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宇宙の法則は人生の目的を明らかにする人生には確かに目的がある
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9章
宇宙の法則は人生の目的を明らかにする
1 多くの場合人々は法律をどのようにみなしますか。
人は,老若を問わず,生活に何らかの規制が加えられるのを好まないものです。しかし,実際のところ,自分の行動を規制するものに腹を立てたり抵抗したりした場合,わたしたちは幸福になるでしょうか。それとも,ある規則に服し,それらに,とりわけ創造者によって設けられた規則に進んで自分を合わせるなら,個人の自由を一層楽しめるでしょうか。
2 わたしたちはどんな法則を免れられませんか。とはいえ,それらの法則はどうして有益ですか。
2 法則には生活を快適なものにするという益がありますが,そのことはしばしば“法則”と呼ばれている宇宙の支配的もしくは拘束的な力のうちに見られます。その一つは引力の法則です。物質を支配しているそうした法則は免れられないもので,無視したり,無効にしたりできません。それらの法則を犯せば必ず害を被ります。例えば,だれかが高い建物から飛び降りた場合のように,普通,宇宙の法則を犯すと直ちに害を被ります。
3 物理的な法則が安定していて信頼できるということは,わたしたちにどのように益となりますか。
3 物理的な法則は定常不変です。それが日ごとにどのように作用するか予告し得ないとしたら,わたしたちはごくわずかな仕事しか行なえません。太陽が毎日昇ることや,一定の順序で季節が巡って来ることを当てにできないなら,わたしたちは気が違いかねません。自然の法則に一貫性がないなら,生活はきわめて困難なものとなるでしょう。
4 厳密な法則に支配されている物質の例を挙げなさい。また,それがどのようにわたしたちの益となるかを示しなさい。
4 一例として,日常生活でなじみの深い物質を取り上げましょう。生きるために取り入れなければならない気体である酸素を考えてください。酸素は,普通の状態では人間と動物になくてはならないものですが,酸素原子が三個結合してできるオゾンは有毒です。といっても,空中にオゾンが発生するには特別の条件が必要です。偶然にできたり,いつでもどこでもできるわけではありません。あらゆる物質の原子の場合と同様,酸素原子の活動はそうした偶然の変化を妨げるきびしい法則に支配されているのです。したがって,酸素がオゾンに変わったのではないかと一々心配しながら呼吸する必要はありません。
5 物理的な法則の存在は,創造者に関してわたしたちに何を明らかにしていますか。
5 法の施行されているところには秩序があります。法はふとした偶然で生じたものではなく,継続的で安定したものを指します。物質を支配している法則にそうした安定性が存在するのを見ると,物質には目的があることが分かります。それは,創造者があらゆるものに目的を持っておられることを認識する助けになります。神は,また,そうした法則を支持し,それらの法則を維持するに際し,ご自身が個人的に関与なさるはずです。神が「遠く離れている」方であったり,ご自分の宇宙に実際に関与しない方であったりするはずはありません。―使徒 17:27。
6 (イ)科学者たちは,実際には,宇宙を支配する物理的な法則に信仰を持っていることを説明しなさい。(ロ)そうした法則が信頼できるものであることを知ると,もっと大きなどんな事柄を信じられるはずですか。
6 宇宙の法則は十分信頼するに値します。宇宙飛行士は月に旅行した時,引力の法則および軌道上の月と地球の正確な速度やタイミングに頼りました。それらの法則が正確に作用し,信頼できることを知っていたのです。ほんの少しのずれがあっても,宇宙飛行士は宇宙へ投げ出されたまま永久に戻れないことになります。宇宙飛行士は無線通信の原理とか他の多くの法則にも依存しました。それらの法則の確実さを信頼していた,実際にはそれに信仰を持っていたのです。全くのところ,彼らはその信仰に命をかけていました。宇宙飛行士の成功は宇宙の法則に対する際立った証言となっています。天体が混乱や衝突もなく秩序正しく時間どおりに運行し続けているという事実は,立法者が目的を持ってそれらの天体を維持しておられることを意味していないでしょうか。―イザヤ 40:26。
生殖の法則に明示されている目的
7 物理的な法則を観察することによって,人は目に見えない性質を知ることができますか。(ローマ 1:20)
7 善良さと知恵は,自然界の法則,およびそれが生き物に作用している仕方のうちにはっきりと表われています。善良さは知的な目的があってはじめて存在するものです。その極めて著しい例は神が定められた生殖の法則のうちに見られます。どのようにですか。
8,9 (イ)神が設けられた生殖の法則には善良さがどのように明らかに見られますか。(ロ)そのことから,わたしたちは神のどんな約束に信仰を持つべきですか。
8 聖書の歴史によれば,アダムとエバは約6,000年前に地上に現われました。二人は神の律法を破って罪を犯し,遺伝的な欠陥を子孫に伝えました。それらの欠陥は世代を重ねるにつれて増大しました。各世代はそうした不完全さを増し加え,大勢の人は体を損なうありとあらゆることをしてきました。大酒飲みや麻薬中毒者になった人や,不道徳なことをして数々の病気にかかった人も少なくありません。悪い考え,憎しみ,殺人も有害な影響を及ぼしました。
9 とはいえ,完全な人はだれもいないにもかかわらず,今日大多数の赤ん坊は比較的健全な状態で生まれています。二つの目,二本の腕と足を持ち,あらゆる機能を備え,いわゆる“正常な”生活を送ることができます。幾千年にもわたって人類に作用してきたあらゆる不利な力を考えると,このことは奇跡にも等しく,人類に対する創造者の愛と配慮,およびそのみ業の優れた質と確実さの証拠とも言えます。人類が自ら悪い状態を招いたにもかかわらず,神は非常に注意深く人類の存続を図られたのですから,わたしたちは,神が完全な状態のうちに永遠の命を与えると約束される時,その言葉を信ずべきではありませんか。
道徳律 ― 有意義な生活に重要
10 神とその目的に関する十分な理解を得るには,他のどんな律法を考慮すべきですか。
10 神は,知的な創造物に対してもう一そろいの規則,つまり道徳律をお与えになりました。それは神の目的をさらによく反映しています。事実ある目的がはっきりと述べられている場合,それに,神の道徳律が結び付けられていることが少なくありません。(例として,申命 5:16,33,マタイ 19:17,詩 19:7-11,テモテ第一 4:8をご覧ください。)
11 道徳律は物理的な法則よりも変化しやすい,もしくは免れやすいものですか。
11 道徳律は,無生物や知性のないものを支配している法則と同様,その作用の点で安定していて確実です。道徳律を破る者が「罰を受けずにうまく逃れる」ことはできません。それを破った罰は必ずしも突然に来るとは限りませんが,その規則は引力の法則と同じほど確実に施行されます。
12 神の道徳律が必ず施行されることについて聖書は何と述べていますか。
12 聖書は道徳律に関する原則を次のように述べています。「神は侮られるようなかたではありません。なんであれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです。自分の肉のためにまいている者は自分の肉から腐敗を刈り取り,霊のためにまいている者は霊から永遠の命を刈り取ることになるからです」― ガラテア 6:7,8。
13,14 使徒パウロはどんな意味で,『肉においてまく』,また,『霊においてまく』と言いましたか。説明しなさい。
13 同使徒は,「肉」という言葉を,不完全な肉体の欲望という意味で用いました。(エフェソス 2:3)また,神の僕を健全な方向に導くために働く,神の霊もしくは活動力という意味で「霊」という言葉を用いました。パウロはそうした力の働きをガラテア 5章19節から23節で次のように例示しています。
14 「さて,肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,不品行,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事がらです。……一方,霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制です。このようなものを非とする律法はありません」。
『肉においてまく』ことの返報
15,16 神の道徳律に対する違犯によって人類一般に及ぶ結果を使徒パウロはどのように示していますか。
15 神の道徳律は無視できないという事実に対する証拠として,使徒パウロは人類が行なってきた事柄に注意を向けています。彼によれば,人間には,神の創造の業を観察することによって,神についてさらに多くを学び,神に仕えようと努める十分の機会がありました。ところが,人々は大抵神を退けて,自分たちが造った神々に仕えたのです。パウロはこう続けています。
16 「そのため神は,彼らをその心の欲望に合わせて汚れに渡し,彼らの体が自らの間で辱しめられるようにされました。……このゆえに神は,彼らを恥ずべき性欲に渡されました。その女性は自らの自然の用を自然に反するものに変え,そして同じく男性までが女性の自然の用を去り,互いに対し,男性が男性に対して欲情を激しく燃やし,卑わいな事がらを行なって十分な返報を身に受けました。それは彼らの誤りに対して当然なものです」― ローマ 1:24-27。
17,18 人類は,神の律法を犯すことにより,病気のほかにどんな問題を招きましたか。
17 この「返報」は多くの病気,特に性病から成っています。しかし,また,正しい事柄からそのように逸脱した結果,精神的な問題やあらゆる悪が生じました。パウロは言葉を続け,「返報」に関してさらに詳しく述べています。
18 「そして,ちょうど彼らが神についての正確な知識を身につけることをよしとはしなかったように,神も彼らを非とされた精神状態に渡して,不穏当な事がらを行なうにまかされました。彼らがあらゆる不義・邪悪・強欲・悪に満たされ,ねたみ・殺人・闘争・欺瞞・悪念に満ち,ささやく者,陰口をきく者,神を憎む者で,不遜,ごう慢,またうぬぼれが強く,有害な事がらを考え出す者,親に不従順な者であり,理解力がなく,合意したことに不実で,自然の情愛を持たず,あわれみのない者であったからです」― ローマ 1:28-31。
19,20 現在地上には,今の邪悪な事物の体制が終わりに近いことを示すどんな状態が見られますか。
19 そうした,『肉においてまく』ことは人類の悲惨な歴史の主要な原因となってきました。しかし今日,かつてなかったほど深刻で世界的な規模の苦悩を引き起こしている肉の業が見られます。人種的,国家主義的憎しみ,偽善,不道徳,不正,麻薬の濫用,犯罪,破壊行為,テロ行為は地上に非常な恐怖と不幸をもたらしてきました。聖書によれば,神の道徳律がそのように広範にわたってはなはだしく侮られていることは,現在の事物の体制が終わりの時にある証拠です。こう書かれています。
20 「このことを知っておきなさい。すなわち,終わりの日には,対処しにくい危機の時代が来ます。というのは,人びとは自分を愛する者,金を愛する者,うぬぼれる者,ごう慢な者,冒とくする者,親に不従順な者,感謝しない者,忠節でない者,自然の情愛を持たない者,容易に合意しない者,中傷する者,自制心のない者,粗暴な者,片意地な者,誇りのために思い上がる者,神を愛するより快楽を愛する者,敬神の専念という形を取りながらその力において実質のない者となるからです。こうした人びとからは離れなさい」― テモテ第二 3:1-5。
宗教的な偽善
21 テモテ第二 3章5節の使徒の言葉は今日どのように成就していますか。
21 使徒によるこの言葉の後半の部分から,今日最もはなはだしい偽善,神の僕であると唱えながらその主張において実質のない者を見ても驚くに値しないことが分かります。彼らは敬神の専念の形を取っていますが,それはうわべだけのものです。その者たちは敬神の専念が真の富,つまり霊性や命や平和をもたらすことを信じていません。実は,彼らはそうした種類の利得を得たいとは思っていないのです。その「敬神の専念という形」は,利己的で不道徳な生き方を“神聖”なものに装うための単なる見せかけにすぎません。神の言葉は次のように述べています。「彼らは神を知っていると公言しながら,その業によって神を否認しています。彼らはいとうべき者,不従順な者であり,どんな良い業に対しても是認を受けていないからです」― テトス 1:16。
22 地上におられたイエスを最も困らせたのはだれですか。イエスはなぜ人々に,その者たちの慣行に従わないよう警告しましたか。
22 イエス・キリストはユダヤ人の宗教指導者のそのような者たちとの間に問題を持っておられました。イエスは彼らにこう言われました。「偽善者よ,イザヤはあなたがたについて適切に預言して言いました。『この民は口びるでわたしを敬うが,その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを崇拝しつづけるのはむだなことである。人間の命令を教理として教えるからである』」。(マタイ 15:7-9)イエスは,単に人に見せるために人前で義を行なわないよう注意するように,と人々に警告しました。また,イエスは,偽善者たちが「人から栄光を受けようとして」会堂や街路で「あわれみ」の行為をしている,と語りました。―マタイ 6:1,2。
23 裁きが近い今日,それら宗教家に対応するものがありますか。
23 人類の審判者として行動する日について,イエスはこう語られました。「その日には,多くの者がわたしに向かって,『主よ,主よ,わたしたちはあなたの名において悪霊たちを追い出し,あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか』と言うでしょう。でもその時,わたしは彼らにはっきり言います。わたしはいまだあなたがたを知らない,不法を働く者たちよ,わたしから離れ去れ,と」― マタイ 7:22,23。
24 (イ)神の律法がもはや犯されない時が来ますか。(ロ)どんな人は不利な裁きを受け,そしてだれが憐れみを受けますか。
24 イエスの言葉から,宇宙の立法者であられるエホバは,ご自分の法が施行されるのを見届けられることが分かります。エホバは,また,あらゆる知的創造物をご自分の道徳律と完全に調和させ,その結果,もはや違犯がなくなることを意図されています。そのためには,しつようで改善の余地のない律法違反者に不利な判決が下されねばなりません。(ペテロ第一 4:17,18)また,道徳律を犯した他の人々に憐れみのある配慮が求められます。(詩 103:8-10)それはどういう人々ですか。無知,不完全さ,弱さのゆえに罪を犯した人々です。ちょうど群集心理のように,正直さや道徳の律法を犯すよう人々を動かすこの世の精神があります。(エフェソス 2:1-3)そうした精神に押し流された人々は,後になってそれを悔い改め,神から憐れみを示されるかもしれません。―ルカ 19:8-10。使徒 7:57-60。コリント第一 15:9。
25,26 創造者と再び和合することはなぜ道理に合い,時宜にかなっていますか。
25 そのような公正で,しかも憐れみのある処置を確信を持って期待できますか。確かに期待できます。なぜなら,物理的なものであれ道徳的なものであれ,神の律法の全体系は実は,最終的に人類を有罪とするのでなく人類を益するためのものだからです。
26 したがって今は,地上の心の正直な人々が宇宙の立法者に頼り,宇宙の立法者と再び和合すべき時ではありませんか。その律法に従うことは重荷とならず,今日わたしたちが見ているものとは全く逆の状態,すなわち自由をもたらします。―ヨハネ第一 5:3。コリント第二 3:17。
27 命と平和を愛する人は,神から平和と恵みを受けるために何をすることができますか。
27 ですから,平和と安全な状態下での命を愛する人はだれでも,そうした事柄を真剣に心に留め,生活を直ちに調整すべきです。そして生活をできる限り神の律法に調和させるべきです。エホバはイスラエルの国民にこう警告されました。「さあ,来なさい,あなたがた民よ。わたしたちの間で事をまっすぐにしよう……あなたがた民の罪が緋のごときものであろうと,それらはまさしく雪のように白くされるであろう」― イザヤ 1:18,新。
28 今どんな重要な質問は考慮するに値しますか。
28 ある人はこう言うかもしれません。『しかし,わたしは神と事を正すことができるだろうか。エホバ神はわたしを顧みられ,わたしを個人として扱われるだろうか。神がわたしの言うことを聞いてくださるには,わたしはあまりにも悪いのではないだろうか』。神があなたに関心を持っておられるかどうかに関しては次の章で取り上げます。
[100ページの図版]
月に行く宇宙飛行士は,地球と月の速度,引力,軌道を支配する法則に信仰を表わしている
[101ページの図版]
人間の不完全さは幾千年も続いているが,神の法則のおかげで大半の赤ん坊はなお正常に生まれる
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神はあなた個人を重視しておられますか人生には確かに目的がある
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10章
神はあなた個人を重視しておられますか
1,2 神が人々を“だれとも分からない”単なる群衆として見るのでなく,各個人に関心を持っておられることはどうして分かりますか。
神は人類をどう見ておられますか。単なる人々の集団としてですか。それとも個々の人間としてですか。神は特定のグループの人々を選んで好意を示し,残りの人々を無視されますか。
2 神にとっては,どの人も一個の人間として重要です。(使徒 17:26,27)神は,「すべての人が救われて,真理を悟るに至ることを望んでおられ」ます。(テモテ第一 2:4,口)使徒ペテロは,神が異邦人をクリスチャン会衆内に受け入れられるのを見て,力強くこう語りました。「わたしは,神が不公平なかたではなく,どの国民でも,神を恐れ,義を行なう人[個人]は神に受け入れられるのだということがはっきりわかります」― 使徒 10:34,35; 15:8,9。
3 イエス・キリストは,ご自分がみ父と同様に各個人を尊重しておられることをどのように示されましたか。
3 イエス・キリストは,「すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与え」るために神から遣わされました。(テモテ第一 2:6)そして,「すべての人のために死を味わ」われました。(ヘブライ 2:9)したがって神のみ子が無関心な態度で,『わたしはすべての人のために自分の血を与えたが,この一人の人間がどれほど重要なのだろうか。この者が命を失おうと失うまいとわたしには関係ない』,などと言うのは筋の通ることですか。断じてそうではありません。各人に注意が注がれ,命を得る機会が与えられるのです。
4 イエス・キリストは人類に対してどのような立場を占めておられますか。イエスはその立場をどのように受けましたか。
4 イエスは,その贖いの犠牲ゆえに人類を「買い戻される方」です。エホバ神は創造主として人類を所有しておられます。しかし,反抗的なアダムの子孫である人類は,「罪の奴隷」として「罪のもとに売られて」います。(ローマ 7:14; 6:16,17)ですから人類は和解する,つまり,神との良い関係に戻されることが必要です。(ローマ 5:10)最初のアダムは人類を罪に売ったがゆえに,イエスは人類を助けるため,また,新たな家の頭もしくは「最後のアダム」である父になるために,人類を買い戻さねばなりませんでした。(コリント第一 15:45)この法的処置は,レビ記 25章47節から49節に出ているモーセの律法の中で予表されていました。
5 (イ)イエスはどのようにして「裁きを行なう権威」を持つようになりましたか。(ロ)イエスはどんな裁きを行ないますか。
5 ゆえに,神はイエス・キリストに『裁きを行なう権威をお与えになりました。彼が,人の子であるからです』。(ヨハネ 5:27)イエスは地上で,人と同じ様の,しかも罪を持たない人間となり,人類を買い戻す権利と代価を持つ,人類の身近な親族となりました。(フィリピ 2:7。ローマ 8:3)イエスが持つ「人の子」という称号はそのことを表わしています。(ヘブライ 2:11,14,15)全く公正な裁判官として,イエスはだれをも軽視されません。イエスはこう言われました。「わたしが行なう裁きは義にかなっています。わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わしたかたのご意志を追い求めるからです」。(ヨハネ 5:30)ですからイエスは外見によって裁いたり,人々を“ひとまとめに”して裁いたりせず,各人の状況や態度に応じて裁きます。―イザヤ 11:3,4。ヘブライ 4:15。
6 使徒パウロとペテロは神が個々の人を取り扱われることをどのように強調していますか。
6 神のご処置,とりわけイエス・キリストを用いられたことは,あらゆる人がその祝福を受けられるようになるのを神が望んでおられることを明らかにしています。それには個々の悪行者も含まれています。使徒パウロは,悪行をならわしにしていた者たちに次のように書き送りました。「神の温情があなたを悔い改めに導こうとしていることを知らないために,その親切と堪忍と辛抱強さとの富を侮るのですか。……神はおのおのにその業に応じて報います」。また,使徒ペテロは神のことを,「おのおのの業にしたがって公平に裁かれる父」と述べて,神が個々の人を取り扱われる点に注意を引いています。―ローマ 2:4-6。ペテロ第一 1:17。
すべての人に機会が開かれている
7 自分は,立ち直って神の僕になるには悪すぎると考えるのはなぜ間違っていますか。
7 しかし,ある人は,『わたしが今神に仕えようとしてもむだです。わたしは立ち直れないほど悪い人間です。わたしには望みはありません』と言うかもしれません。そのように考えるのははなはだしい間違いです。言うまでもなく,自分自身の功績で神の配慮を受けるに値する人はだれもいません。(ローマ 5:6-10)もしも完全さが求められるなら,すべての人は排除されてしまいます。しかし,神はそのご親切によって,過去の悪い業に関係なく,悔い改める人を退けられないことを示す幾つかの例を記録させました。神はただ,人がなすべきことを喜んで学び,神と調和するよう進んで誠実な努力をすることを求めておられるのです。―イザヤ 1:18。啓示 22:17。
8-10 (イ)悪行を犯したものの,神に助けを求めたいと思う人に慰めとなる二つの例を挙げなさい。(ロ)神にとって重要なのは,わたしたちが過去に行なった事柄でなく,現在行なっている事柄である点を,エゼキエル 33章14節から16節とコロサイ 3章5節から8節はどのように示していますか。
8 使徒パウロはそのよい例です。パウロはかつて実際にクリスチャンの殺害に関係していました。(使徒 7:58,59; 9:1,2)パウロ自身こう述べています。「キリスト・イエスが罪人を救うために世に来られたとは,信ずべく,また全く受け入れるべきことばです。わたしはそうした罪人の最たる者です。それなのにわたしがあわれみを示されたのは,わたしの場合を最たる例としてキリスト・イエスがその辛抱強さのかぎりを示し,永遠の命を求めて彼に信仰を置こうとしている者への見本とするためだったのです」― テモテ第一 1:15,16。
9 ユダのマナセ王は,非常に悪い人間のもう一つの例です。マナセは国民をはなはだしい偶像崇拝と神に対する反逆に導くことに率先しました。そしてユダの国民は立ち直らなかったのです。(列王下 21:11,16)しかし,マナセ自身は後に悔い改め,彼の祈りは神に受け入れられました。―歴代下 33:11-13,16,17。
10 神にとって重要なのは,男女を問わず人が過去に行なったことではなく,現在および将来行なっていることです。―エゼキエル 33:14-16。コロサイ 3:5-8。
11 人は自分自身の義により,あるいは十戒やモーセの律法に従って行動することにより,命と神の恵みを得られますか。
11 他方,神の恵みは自分自身の善良さや正しい行為によって受けるものと考えるべきではありません。(ローマ 3:10)そうするなら自分が罪人であることを否定することになります。(ヨハネ第一 1:8-10)そのように考え違いをしている人はキリストの犠牲を不必要なものとして退けているのです。それは業によって自らを義としようとすること,自分自身の“善良さ”ゆえに,神に,自分を受け入れる“義務を負わせ”ようとすることです。(ローマ 4:2-8)そのような態度を示す人は実際には神に仕えているのではなく,神の規準の代わりに自分自身の規準を定めているのです。そうした努力がむなしいことは,モーセの律法によって義を得ようと努めたユダヤ人によって証明されています。―ローマ 10:1-3。ヘブライ 10:1,2。
12 神がお金や地位を持つ人々だけを助ける不公平な方でないことを,イエスはどのように示されましたか。
12 また神は特定のクラスの人々だけをえこひいきされることもありません。み子イエスは,すべての人に思いやりを持たれたのではありませんか。それとも,自分が好む人とか金銭をくれる人にのみいやしの力を用いられましたか。そうではありません。あらゆる疾患を持つ大勢の人がイエスのもとに来たという記録が数多くあり,しかもイエスはそれらの人をみないやされました。―マタイ 14:14。
エホバはご自分に仕える人々に「愛着」を示される
13 神の愛が強力で不変であることは,アブラハムや他の人々のどんな例から分かりますか。
13 エホバは,それを受け入れる人にはだれにでも,いつも喜んで援助と愛を差し伸べられます。また,その愛の強さと不変性は,わたしたちが他の人々に表わせるものよりはるかに優れています。不完全でありながら全き心をもって仕えたアブラハム,イサク,ヤコブに対する神の愛を考えてください。数世紀後に,モーセはイスラエルの国民に,『あなたの父祖たちに対してエホバは愛着を示されて彼らを愛されました』と述べました。(申命 10:15,新)エホバはその愛ゆえに幾世紀にもわたってイスラエル国民のかたくなさを辛抱されたのです。―申命 7:7,8。
14 誠実さと真実さをもって神を呼び求める人は確信して神の助けを期待できますか。
14 エホバは今日ご自分に仕える人々に対しても同様の深くて変わらない愛を示されます。(ローマ 8:38,39)エホバは,誠実さと真実さをもってご自分を呼び求めるだれに対しても,『愛着を示す』機会をいわばうかがっておられます。(ヤコブ 4:8)「エホバに関しては,その目はあまねく全地を行き巡り,ご自分に対して心の全き者たちのために御力を表わしてくださるのです」,と聖書は述べています。(歴代下 16:9,新)また,『その耳は彼らの願いに向けられます』― ペテロ第一 3:12。
15 エホバ神がわたしたちをご覧になる時,どんな点を探しておられますか。
15 エホバは地を見て人々の経験する幾多の苦難を目にされるにつれ,人類に対して深い同情を覚えられます。エホバの願いは人類を助けることです。悪行を“見て見ぬふりをする”ことはないにしても,人々の欠点ではなく長所を探しておられるのです。(詩 130:3)エホバは『人々が塵であることを覚えておられ』ます。―詩 103:14,新。
16,17 (イ)イエスは人々を助けたいと本当に願っていることをどのように示されましたか。(ロ)今日,エホバとみ子は人々に対してどんな感情を持っておられますか。
16 地上におられた時,神のみ子は自分の持つ力で人々を助けることを強く願っておられました。一人のらい病人がイエスに「あなたは,ただそうお望みになるだけで,わたくしを清くなさることができます」と言った時,イエスは「哀れに思い,手を差し伸べて彼に触り,『わたしはそう望むのです。清くなりなさい』と言われ」,そのらい病人をいやされました。―マルコ 1:40,41。
17 助けを求めて自分のもとに来た人々をイエスがいやしたことには深い同情の念が伴っていました。同じように,神とみ子は今この時にも,日常の物事の中で時間を取って神の目的に関する良いたよりに考慮を払うすべての人に愛と関心を示しておられます。あなたは今,神についてより深く知るため,純粋に探し求める態度で神のみ言葉を調べておられますか。そうでしたら,そのこと自体,神があなたに関心を持っておられる証拠です。確かにそうであると言えるのはどうしてでしょうか。
理解するには神の助けが必要
18,19 (イ)神のみ言葉を誠実な態度で調べるなら,どのように助けが得られますか。(ロ)なぜわたしたちには神の霊の助けが必要ですか。
18 それは真実なことです。なぜなら,神は,誠実にみ言葉を調べる人の心の中に良い点を認められるからです。その結果,神はその人の思いを開いて理解を得させてくださるのです。イエスは言われました。「わたしを遣わしたかたである父が引き寄せてくださらないかぎり,だれもわたしのもとに来ることはできません」。(ヨハネ 6:44)神の霊,神の目に見えない活動力の助けなしに神の目的を理解することはできません。神の霊はあなたの思いに働きかけ,思いを導くことができるのです。
19 使徒パウロは次のように書きました。「神の事がらも,神の霊をほかにしては,だれも知らないのです。[すなわち,神の霊は神のお考えと目的をわたしたちに伝えるのに肝要です。]そこで,わたしたちが受けたのは,世の霊ではなく,神からの霊です。それは,そのご親切によって神から与えられている物事をわたしたちがよく知るようになるためです」。(コリント第一 2:11,12。使徒 16:14と比較してください。)もしそのような援助がないなら,あなたは,この世の混乱や信仰の欠如,この世の精神など,神に敵するものによって圧倒されるでしょう。なぜなら,「信仰はすべての人が持っているわけではない」からです。―コリント第一 2:14。テサロニケ第二 3:2。
20 ご自分について学び,ご自分に仕えようと勤勉に努力している人々に対して,神はどれほど深い認識を持たれますか。
20 理解を得ようとするあなたの努力にこうして応じつつ,神はもう一つの優れた特質をも発揮されます。それは物事に対する認識の特質です。あなたは他の人が自分にしてくれる親切に対して認識を持ち,それを表わすに違いありません。しかし,人間が抱く認識は,神に信仰を示し,そのみ言葉に敬意を持つ人々に対する神の認識に比べればずっと浅く,それより心情が乏しいのです。神はそうした人々について喜びを持たれます。イエスは,悔い改め,神を喜ばせるために悪を離れる一人の罪人に関して天にある喜びについて話されました。(ルカ 15:10)イエスは,神の僕と認めて人に冷たい水ほんの一杯を与える者が必ずその報いを受けることについても語られました。(マタイ 10:42)エホバは,そのみ名に敬意を示してご自分の民を親切に扱う一人一人の人を見守って,それに認識を示されます。神はそのような人を心に掛け,援助されるのです。―マルコ 14章3節から9節に記録されている例を考えてください。
21 小アジアのある異邦人は,わたしたちが神のご親切にどう応じるべきかをどのように示しましたか。
21 わたしたちとしても,その目的について知るのを助けて永遠の命を得る機会を与えてくださる神のご親切に当然認識を示すべきです。自分が,小アジアの一都市でパウロから伝道を受けた人々のようになるのを神によって許されたことを,感謝すべきです。そこのユダヤ人たちは,神に仕えると唱えていましたが,真理に逆らっていました。しかし記録はこう述べています。「諸国[異邦人]の人たちは[神に受け入れられる機会のことを]聞いて喜び,エホバのことばに栄光を帰するようになった。そして,永遠の命のために正しく整えられた者はみな信者となった」。(使徒 13:48)それらの人々は神のご親切を感謝しました。そうした認識のゆえに,それらの人々は神が喜んで迎え入れる人々となったのです。
復活,神が関心を持っておられる証拠
22 復活というエホバの備えは,エホバが個々の人に非常に深い関心を抱いておられることをどのように示していますか。
22 神がどの人にも関心を持っておられることの強力な証拠は,「義者と不義者との」復活という備えを設けられたことです。(使徒 24:15)人を復活させるには,神はその人のすべてを知らねばなりません。そうした情報をもってして初めて,神は同じ個性を持つ同じ人物をよみがえらせることができ,その結果,当人は本来の自分に戻り,自分自身を認めます。したがって神は,その人の作りの詳細な点をことごとく復元しなければなりません。その中には,外見や遺伝的な性向,環境や経験が当人に及ぼした影響,および完全な記憶が含まれます。それは何と深い関心と配慮の表われなのでしょう。
23,24 (イ)取るに足りない人間が作った,人間に関するどんな優れた記録は,神が個々の人をいかに容易に復活させ得るかを理解する助けになりますか。(ロ)幾千年も前に死んだ人を神が記憶していて復活させることについてはどうですか。
23 「そんなことはありそうにない」と言う人があるかもしれません。しかし,今日でさえ人はある人物のビデオテープとか映画を作ることができます。そしてその人が死んでからでも,それをスクリーンに写して,その人の声を聞きながら動きを見ることができます。多くの詳細な点が記録されているからです。人間にそうしたことができるなら,『すべてのことが可能な』神にとって,一個の人格を作り上げている数々の詳細な点を記録しておくことはできないことでしょうか。―マタイ 19:26。ヨブ 42:2。
24 不完全な人間であるわたしたちでも,親しい友人に関して細かな点をたくさん知っていて,かなり正確にその人のことを描写できます。もっとも,時の経過と共にその人のイメージは薄れてきます。神は,はるかに鋭いどう察力を持っておられ,すべての人のどんな細かな点も完全にご存じです。すべての人の心の中に何があるかを知っておられます。(ヘブライ 4:13)さらに,たとえ人が何百年も前に死んでいたとしても,その人に関する神の記憶は薄れません。―ヨブ 14:13-15。
25 海で死んだ人や動物に食べられて死んだ人など,墓に葬られなかった人々も復活しますか。
25 ですから,墓にいるおびただしい数の人々は,今なお神の思いの中にはっきりととどめられているのです。(箴 15:11)海で死んだ人とか,焼死した人,その他の方法で死んで墓に葬られなかった人々でさえ,神の記憶の中にありありと存在しています。―啓示 20:13。
26 イエスはエホバに関して,「アブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神」と述べ,また,「彼は死んだ者の神ではなく,生きている者の神です」と言われましたが,それは何を意味していましたか。(ルカ 20:37,38)
26 神が復活させようとしておられる人々に関してイエスはこう言われました。「彼は死んだ者の神ではなく,生きている者の神です。彼らはみな,神にとっては生きているのです」。(ルカ 20:38)神の力と知恵はその目的を確実なものとするため,神は「死人を生かし,無い物を有るかのごとく呼ばれ」ます。―ローマ 4:17。
27 キリストは死者を復活させる権威と力を持っておられるとどうして確信できますか。
27 神は復活させる力をイエス・キリストに与えました。地上におられた時,イエスは幾度かその力を表わされました。―ルカ 7:14,15; 8:49-56。ヨハネ 11:39,43,44。
28 (イ)エホバがわたしたちのためにしてくださったことに対し,感謝の念をもってどのように応じることができますか。(ロ)普通の人であれば,自分には聖書からエホバの目的を学ぶ知的能力がないと感じるべきですか。
28 であれば,神とみ子は自分に関心を持っていないと言い得る人がいるでしょうか。エホバのそうした配慮と関心にあなたの心は答え応じますか。あなたは,神についてさらに多くを学ぶことによって,またそうするよう他の人を励ますことによって神への感謝を表わすことができます。神に関する知識を取り入れるよう誠実に努力すればするほど,神について一層学ぶことができます。そして神はあなたに「知的な能力」を授けてくださいます。―ヨハネ第一 5:20。
[108ページの図版]
神は人間を単なる顔の集団として見ておられますか……
[109ページの図版]
……それともわたしたちひとりひとりに関心を持っておられますか
[117ページの図版]
人間は人の動きや声をその人の死後も長く保存する映画を作ることができる。神はそれよりもはるかに多くの事柄を記憶しておられ,死者を復活させる力を持っておられる
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神の目的は知ることができる人生には確かに目的がある
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11章
神の目的は知ることができる
1-4 何が真理であるかはどのようにして分かりますか。
「真理とは何ですか」とか,「自分が真理を持っているとどうして分かりますか」とかいう質問をよく耳にします。人類に対する神の目的をはっきりと知ることは可能でしょうか。―ヨハネ 18:38。
2 イエスは次のように述べて,それらの質問に答えました。「わたしのことばのうちにとどまっているなら,あなたがたはほんとうにわたしの弟子であり,また,真理を知り,真理はあなたがたを自由にするでしょう」― ヨハネ 8:31,32。
3 イエスはご自分が真理を持っていることを確かに知っておられました。なぜなら,地上に来る前にエホバ神と共におられたからです。(ヨハネ 3:13; 17:5)次に,使徒たちは自分たちが真理を持っていることを知っていました。なぜならイエスから,そしてヘブライ語聖書からその真理を学んだからです。イエスはヘブライ語聖書が神からの真理であることを認めておられました。その上,イエスの語られたことや行なわれたことは,ヘブライ語聖書の多くの預言を成就するものとなりました。一般に「旧約聖書」と呼ばれる聖書のその部分は,神がご自分の僕たちに霊感を授けることにより,イスラエルの国民に与えられたものです。
4 今日,聖書全巻がそろっています。それには,ヘブライ語聖書(しばしば「旧約聖書」と呼ばれる)と使徒およびその親しい仲間が書いたギリシャ語聖書(いわゆる「新約聖書」)の両方が含まれています。
書かれた記録はより有用
5-7 神は最初,人間に対する意思の伝達をどのようにされましたか。しかし,神から伝達された事柄が書き記されてきたのはなぜ良いことですか。
5 それにしてもなぜ書物という形で与えられたのですか。神の声や,遣わされたみ使いによって直接意思の伝達が行なわれなかったのはなぜですか。
6 確かに,最初神は口から言葉を出してアダムと話をし,アダムを教えられました。しかし神はそれ以来,同じように効果的で,しかも不完全な人間に一層適した他の方法を用いられました。事実,すべての人の記憶は不確かですから,アダムの時以来神がご自分の言葉を書き記させたのは良いことです。
7 文字を使って人類に意思を伝達させた神の知恵を考えてください。確かにそれは,単に話された言葉よりもはるかに信頼できる記録です。人から人へ口伝えに情報を送るのは非常に不正確な方法です。神はご自分のすべての教えを,各世代ごとに繰り返し話さねばなりません。しかも,全人類に対する音信を伝えたい場合,神はご自分の代表者もしくは預言者としてある人々に話さなければなりません。次いでその人たちは音信を他の人々に伝えるのです。さもないと,神は天から雷のような恐ろしい声ですべての人に話さねばなりません。それは非常に厳粛さを感じさせますが,出エジプト記 20章18,19節から分かるように,望ましくない影響もあり得ます。
8 聖書には,今日のわたしたちに対する神の助言がすべて収められていますか。
8 しかし,聖書にはあらゆる人が読むべき「神のみ旨」が書かれています。(使徒 20:27)付け加えたり削除したりすべきものは何一つありません。(箴 30:5,6)人類を支配している原則はいつの時代でもどこの場所でも同じです。そして,わたしたちに対する神の意思の伝達すべては一冊の本に収められているので,人間の抱える問題に導きを得るためどの部分でも思いのままにすぐ調べることができます。
9 聖書中の歴史的な記録からどんな益が得られますか。
9 また,聖書には神の助言ばかりか,神に仕えた人々と仕えなかった人々の個々の経歴や記録も収められていることを念頭に置かねばなりません。聖書には神が人類と交渉を持たれた記録が載っていますから,神がある事柄についてどのように感じられるかが分かります。(ローマ 15:4)無数にある歴史上の出来事の中から,神はある出来事を記録させて原則を例示されました。その中には預言的な出来事もありました。(ガラテア 4:24)また,今日のわたしたちの導きとなる,実生活から取られた模範もあります。―コリント第一 10:11。
10 聖書を書くのに人間が用いられたことは,わたしたちが理解を深め,信仰を持って行動する点でどのように役立ちますか。
10 わたしたちは適切な導きを得るためにそれらの記録を持っており,またそれらを必要としているのですから,実在した人々により,実在した人々について,しばしば彼ら自身について書かれたのは良いことではありませんか。しかもその人たちは非常に正直かつ誠実で,間違いや罪を隠したりしませんでした。実在した人々の経験,苦難,喜び,勇気,信仰について読むと心を打たれるのではありませんか。そうした事柄は一冊の規則書よりもはるかに心に,良心に訴えます。聖書に記録されている出来事をそれが起きているかのように頭に浮かべることができます。事実,あなた自身彼らと行動を共にすることさえできるのです。モーセ,ダビデ,エレミヤ,パウロの実生活の経験を読むと,ほのぼのとした気持ちになりませんか。しかもそうした記録には真理の響きがあります。それらが持つ現実性と迫力に感動を覚えるのではありませんか。―エレミヤ 20:8-11。使徒 23章12節から24節と比較してください。
人間によって書かれたが,信頼できる
11,12 不完全な人間によって書かれたとはいえ,聖書に信ぴょう性があり,聖書が正しいことはどうして分かりますか
11 確かに,神は不完全な人間の手を通してわたしたちに音信を伝えました。しかし,聖書が,口伝えやみ使いによって,あるいは天で書かれて地上に落とされた本によって,神から伝えられた音信ほどの信頼度はないと考える理由はありません。むしろ,聖書には,はるかに人間に訴えるものがあります。その証拠に,聖書は他のどの本よりも多くの言語に翻訳されていて,一番広く流布されている書物です。聖書は非常に永続的であり,あらゆる場所のあらゆる年齢層の男女に導きを与えています。
12 神は偽らない方です。(民数 23:19)人類に音信を伝える際,神はそこに偽りが入らないよう注意されたに違いありません。“変ぼう”の幻は,神の言葉を伴う神からの幻が,“旧約聖書”に出ている出来事と人物の信ぴょう性を確証している例です。―マタイ 17:1-9。
13 神は聖書の記述をどのように監督されましたか。
13 聖書の中に書き記されている情報が伝えられた方法はいろいろあります。しかし神は常に直接関与されました。イスラエルと結んだ契約の基本的な律法である十戒は,神ご自身が書いたものです。(出エジプト 31:18。申命 10:1-4)神はモーセと「口から口に」語り,モーセは聞いた事柄の多くを一語一語書き留めました。(民数 12:8,新)幕屋の型は幻によってモーセに示されました。(出エジプト 25:9。民数 8:4)さらに,神からの直接の音信を伝えるのにみ使いが用いられたこともあります。(創世 19:1。士師 6:12,21。ルカ 1:26-28)預言者たちは幻や神の導きによる夢を見ましたし(創世 46:2。ダニエル 1:17),他の記述者たちは,神の,目に見えない活動力である聖霊によって何を書くかについて導きを受けました。―サムエル後 23:2。テモテ第二 3:16,17。ペテロ第二 1:20,21。
14 本当に神の道を知ることができるという,一層強力などんな証拠がありますか。
14 さらには,エホバ神の直接の代表者として来られたイエス・キリストの言葉と行動の記録があります。イエスはエホバを完全に表わされました。(ヨハネ 16:27,28)み父の考えや方式をことごとく見事に描いたので,イエスは,「わたしを見た者は,父をも見たのです」と言うことができました。(ヨハネ 14:9)イエスの生がいの記録は聖書に収められていますから,イエスがどのように話され行動されたかが分かります。これ以上に優れた意思の伝達方法が果たしてあるでしょうか。―ヘブライ 1:1,2。
聖書の編さんは見守られた
15,16 現代の聖書には,神の民に対する神の助言全体が収められているというどんな証拠がありますか。
15 神が,ふさわしいと思われる方法でご自分の目的を完全に果たすのは難しいことではありません。(イザヤ 46:10)神は聖書の記述に霊感を与えたのですから,ヘブライ語聖書を確かに神からのものとして忠実な人々に編さんさせたと考えるのは理屈にかなっています。ヘブライ語聖書は,ユダヤ国民が何百年もの間神から自分たちへの意思伝達方法であると考えていた書物です。編さんが人間の好みによらず,神の導きを受けていたことは,その書物が,不従順な道を取ったゆえに同国民をしばしば非としていることから一層確信できます。
16 次いで,初期クリスチャンも,神の同じ霊によって導かれ,使徒とその仲間が霊感を受けて書いたものを選択分類しました。それらの書物は過去19世紀間クリスチャンを教えるために重要な役割を果たしてきました。
17 聖書が神からの書物であることを証明するどんなものがありますか。
17 したがって,わたしたちは神のお目的を知るために天からの声や,もう一冊の本をも待つ必要はありません。聖書には唯一の信頼できる人類史が最初から収められています。世界の宗教書を調べても,聖書に書かれている次のような事柄すべては見いだせないでしょう。すなわち,現実的で道理にかなった創造の記録,人間が死ぬ理由,アダム以降の人類の系図および年代記,罪と死から救出される方法,人間と地球に対する神の目的,とこしえの命を得るための生活の原則です。それに加えて預言があります。その中にはすでに成就した預言もあり,また永遠にわたる地上の平和な統治という喜ばしい結末を見るこれから成就する預言もあります。
18-22 原本から多くの写本が作られてきましたが,それにより,多数の誤りが生じて現代の聖書は信頼できなくなってはいないでしょうか。説明しなさい。
18 聖書が書き始められてからすでに何千年も経過しました。では,今日わたしたちが持っている聖書については何と言えますか。いうまでもなく,聖書筆者の自筆による原本はありません。しかし,元の言語で書かれた写本が数多くあります。聖書が書かれた元の言語はヘブライ語とギリシャ語で,アラミア語の節や単語も交じっています。聖書に霊感を与えた神はそれが写本されるのを見守られたので,重大な間違いが入って聖書を読む人が誤導されるようなことはないと確信できます。入手できた,多数の原語の写本を研究した学者たちは何と言っていますか。
19 聖書学者であり,かつて英国博物館の理事をしていたフレデリック・ケンヨン卿は,「チェスター・ビーティー聖書写本」(「新約聖書」の非常に古いギリシャ語写本)に関する七巻にわたる著作の序論の中で次のように述べています。
20 「[それらのパピルス]の調査から出た最初の,そして最も重要な結論は,それらが現存する本文の本質的な正しさを確証している,という満足すべきものであった。旧約聖書にも新約聖書にも,著しい,もしくは基本的な変化は見られない。問題となる,節や句の削除や挿入もなく,重要な事実や教理に影響する変化もない。本文の変化は,語順とか用いられた的確な言葉の使用といったささいな事柄に影響するにすぎない。……しかしそれらのパピルスの真の重要性は,今までに入手できたものよりさらに日付が古いという証拠により,現存する本文が元のままの状態であることを確証する点にある。この点それらは画期的な評価を得たものと言える」。
21 この学者は「新約聖書」に関して次のようにも述べました。
22 「最初に書かれた時代と現存する最古の確証との間の間隔は,実際に無視してよいほど小さくなり,聖書が実質上書かれた時のままの状態で現在まで伝わってきたということに対する疑いの最後の土台は取り除かれた。新約聖書の諸文書の典拠性と,全体的な保存性とは,ついに確証されたと考えてよいだろう」。
23 今日様々な聖書翻訳が入手できることにはどんな利点がありますか。
23 今日,聖書を現代語に翻訳するに際して,聖書の研究に一生をささげた学者たちの非常に注意深い研究の成果があります。ほとんどの翻訳はヘブライ語とギリシャ語の写本を比較して入念に編集したもので,神の目的に関してよい理解を与えてくれます。ある聖句の意味があまりはっきりしない場合,自国語の幾つかの翻訳を比べることができます。主に言葉の選択の点で少し違っている箇所が幾つかあるものだからです。そのようにすれば,元のヘブライ語とギリシャ語の表現の味わいが分かり,一層明確な理解が得られます。
聖書,完ぺきな指針
24,25 (イ)聖書が出来事の詳細を逐一述べていないのはなぜですか。(ロ)したがって,聖書はどのように“完全”ですか。
24 聖書を読み,『これが神のみ言葉で,わたしたちの指針であるなら,ある記録に詳細な点がごく乏しいのはなぜだろうか』と不満を述べる人がいます。とりわけ,創造の記録が簡単であることを指摘します。聖書自体は,神が十分な事柄,わたしたちの本当に必要とするものすべてを聖書に収めた,と答えています。「聖書全体は神の霊感を受けたものであり,教え,戒め,物事を正し,義にそって訓育するのに有益です。それは,神の人が十分な能力をそなえ,あらゆる良い業に対して全く整えられた者となるためです」。(テモテ第二 3:16,17)したがって,聖書は「あなたを賢くし……救いに至らせる」のに十分なのです。(テモテ第二 3:15)その意味で聖書は“完全”です。
25 留意すべきもう一つの点があります。聖書は神のみ言葉,もしくは人類への音信として,神を真に探し求めていない人々,神に純粋な信仰を持っていない人々に“本性を表わ”させるような仕方で書かれています。例えば,聖書に記録されている事柄は例外なく詳述されているわけではありません。聖書の中に,ある問題に関する神の行動や裁きが書かれていますが,その理由が述べられていないことがあります。また,二人の筆者が一つの出来事を別の観点から観察している場合もあります。a 神に仕えたくない人には,望むなら,“出口”,つまり非難する口実を見つける余地があります。聖書はその点でも完ぺき,もしくは完全です。なぜなら,人々をしてその心の中にあるもの,すなわち高慢であるか謙遜であるかを明らかにさせるという神の目的にかなっているからです。―ヘブライ 4:12。マタイ 13:34,35。ルカ 8:10。
神との意思の伝達
26 逆に,わたしたちの方から神に対して自分の意思を伝達できますか。
26 聖書は神の音信をわたしたちに伝える一方,今度はわたしたちの内奥の考えや心からの願いを神に伝える方法を示しています。それは祈りという方法です。神は自分の言うことを聞いてくださらないのではないかと心配する必要はありません。神が求めておられるのは,誠実な心,そして自分が助けを必要とする罪人であるということを認めることのみです。(詩 119:145; 34:18)神に叫び求める人には,何をすべきかが教えられます。そうした人は,神への祈りを,神が任命した大祭司であるイエス・キリストを通してささげねばならないことを知るようになります。―ヨハネ 16:23,24。ヘブライ 4:15。
27 どんな事柄を祈るのはふさわしいですか。(マタイ 6:9-13)
27 祈りの内容としてふさわしいのはどんな事柄ですか。自分と神との関係に影響すること,霊的に自分に影響のあることなら何でも祈れます。使徒ヨハネは,「なんであれわたしたちがそのご意志にしたがって求めることであれば,神は聞いてくださる」と書きました。―ヨハネ第一 5:14。
28 (イ)『神のご意志に従って』祈るとはどういうことですか。(ロ)個人的などんな事柄を祈り求めるのはふさわしいですか。
28 「そのご意志にしたがって」とは,富,仲間より上の地位,復しゅう,利己的な快楽およびそれに類する事柄など,厳密に利己的な益を図る事柄を,当然ながら,祈らないということです。一方,例えば,結婚に関して,ふさわしい配偶者を備えてくださるよう神に援助を求める嘆願を神にささげることができます。結婚している人なら,子供をもうけることや,子供を育てる際の知恵を祈り求められます。(サムエル前 1:10,11,17,20。士師 13:8-14)そうした事柄は明らかにわたしたちの生活に影響を及ぼすもので,神の知恵を必要とする調整を要します。神はわたしたちの個人的な問題に関心を持っておられます。別の土地へ移転したり転職したりすることさえ祈りに含めることができます。なぜなら,それによって家族は経済的に,また霊的に影響を受けるかもしれないからです。その内容がどのようなものであれ,神のご意志を見いだしてそれを行ないたいという願いが第一の要素になります。むろん,各人には他の人とは異なる,それぞれの事情がありますから,それによっても祈りの内容は違ってきます。
29 ある事柄についての自分の祈りにどのように答えが得られますか。
29 神からの答えは,その人の個々のケースに対する賢明な導きという形で与えられることが期待できます。(詩 32:8)言うまでもなく,その人は言行を一致させ,祈りに調和した行動を取るべきです。問題に関する助言を聖書に求めなければなりません。それについて聖書が何と述べているかが分かるよう自分を援助してくれる他の人々に相談することもできます。取るべき道がはっきり分かるまでその問題についてあきらめずに祈るべきです。(ルカ 18:2-5)そのようにしたからには,良心的に下された決定に対して他のだれもその人を正当に批判することはできません。なぜなら,「その人が立つも倒れるも,それはその主人[神]に対してのことなのです。実際,その人は立つようにされるでしょう。エホバはその人を立たせることができるからです」― ローマ 14:4,10,12。
30 (イ)祈りによって,わたしたちはどんな優れた立場に立ちますか。(ロ)祈りの中で何かの問題を神に申し上げるのを恐れるべきではありません。なぜですか。
30 神に信仰を置いて祈り,行動する人は,最も有益な道を取るよう導かれることを確信できます。(箴 3:5,6)その人は本当に神を知るようになります。神はこう約束しておられます。「エホバとの親密さは,彼を恐れる者たちのもの」。(詩 25:14)それは病的な恐れではなく,神に対する健全な敬意です。というのは,神を愛しているなら,自分の問題を神のところへ持って行きたいという気持ちになり,拒絶されるのではないかという恐れはありません。そうした抑制的な恐れについて,使徒ヨハネは「愛には恐れがなく,完全な愛は恐れを外に追いやります。恐れは拘束となるからです」と述べています。(ヨハネ第一 4:18)自分の罪を含め,それが何であれ,最も私的な事柄をエホバに申し上げることを恐れたり,ためらったりすべきでは決してありません。神はあなたの問題を愚かなこととみなして,あなたを笑ったりなさいません。「神はすべての者に寛大に,またとがめることなく与えてくださるのです」― ヤコブ 1:5。ヨハネ第一 1:9。
31 聖書を理解してその原則に従うことは,現在,健全で幸福な生活を送るのにどのように役立ちますか。
31 非常に困った,あるいは落胆させる状況に直面することがあるので,「神は地上になぜこんなひどい状態を許しておかれるのか」と不満を述べる人があるかもしれません。しかし,わたしたちは,地的な被造物に聖書を与える面で神が行なわれたことを見過ごすべきでしょうか。霊感によって書かれたみ言葉に従うなら,全人類はたとえ不完全な状況下でも幸福な人生を送ることができます。一例として,もし人々が,「自分にして欲しいと思うことはみな,同じように人にもしなければなりません」という規則に従うなら,世の中の様子がどれほど違うか考えてみてください。(マタイ 7:12)それは地上にどれほど大きな変化をもたらすことでしょう。神の新しい事物の体制では,すべての人がそうした原則に導かれるのです。そのことは,地球がその時非常に望ましい住みかとなる一つの理由です。
32 聖書に疑問を持っている人も,どんな事柄を見て聖書は調べるに値する本であることに気付きますか。
32 イエスは言われました。「たとえわたしを信じないとしても,[わたしが行なう]その業を信じなさい。父がわたしと結びついておられ,わたしが父と結びついていることをあなたがたが知り,かつ忘れないでいるためです」。(ヨハネ 10:38)聖書の価値について疑問を持つ人がいるなら,聖書を自分たちの指針としている大勢の人々の生活に見られる結果を観察してその価値を知ることができます。ゆえに,わたしたちは,その導きに従う人々に対して聖書に述べられている命の約束は必ず成就するとの確信を抱けるのです。
[脚注]
a ものみの塔聖書冊子協会発行の「聖書はほんとうに神のことばですか」と題する本(7章)をご覧ください。
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どこまで準備が進んでいるか人生には確かに目的がある
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12章
どこまで準備が進んでいるか
1,2 (イ)人々は普通どういう意味で「神は死んでいる」と言いますか。(ロ)どうしてそう言う人がいるのですか。
これまでの研究で神の目的については多くの事が述べられてきました。ところで,神はその目的を達成するために何をしてこられましたか。世界情勢が良くならないのを見て,ある人々は,神は人類を助けるために何もしていないという意味で,「神は死んでいる」と言います。
2 そうした態度の人がいるのは,地球を治める,義にかなった事物の新体制を神が漸進的に準備されるのを見るにはある程度の信仰が要るからです。聖書によれば,「信仰とは,望んでいる事がらに対する保証された期待であり,見えない実体についての明白な論証です」― ヘブライ 11:1。
3 信仰のない人に物事はどのように見えますか。
3 信仰のない人は,神が約束しておられる事柄を信じていないので,神に関して現実的な期待や希望を持っていません。そのような人にとって,見える事柄は,信仰のある人が予期している事柄と表面的には相いれないように思えるのです。ところで,なぜ神は信仰を求めておられるのですか。
4 なぜ神は信仰を要求されますか。
4 父親は,子供が自分を善良さゆえに愛してくれ,すべてを見なくても自分を信じて,その約束を受け入れてくれることを望みますが,神はそのような父親です。良い父親を信じない子供は反抗的で,ついには問題を起こしたり家族に恥をもたらしたりします。そのような子供は親の愛情を受けるに値しません。しかし,良い父親の場合と同様,神は信仰をもってご自分に頼る地上の創造物に答えて,それら創造物を援助なさいます。―詩 119:65-68。
5,6 (イ)信仰のない人々にとって出来事が非常に欺きやすい場合があることを例証しなさい。(ロ)西暦66年から70年には,クリスチャンと大半のユダヤ人の間にどんな違いが見られましたか。
5 信仰があれば実状が分かるのに対し,上辺のものは人を欺くことの例として,西暦70年のエルサレムの滅びが挙げられます。その33年前にイエスはエルサレムが軍隊に囲まれる時が来ることを予告しました。イエスによれば,そういうことが起きたなら,クリスチャンは直ちに都市から出るべきでした。エルサレムの滅びが近かったからです。(ルカ 21:20-24)一世紀の歴史家ヨセフスによれば,ケスチウス・ガルス将軍は西暦66年に,エルサレムを奪うため同市を包囲しました。しかしその後,明らかな理由もなく撤退したのです。すでにクリスチャンになっていたユダヤ人や他の人々は直ちに逃げました。それは正にイエスが預言されていたことだと悟ったからです。しかし,他のユダヤ人たちはガルスの軍隊を追跡し,大きな打撃を与えました。
6 エルサレムのユダヤ人の大多数は勝利に大喜びでした。危険は過ぎ去ったかに見えました。が,クリスチャンはエルサレムに戻ろうとはしませんでした。それは,都に残っていたユダヤ人にはばかげて見えたかもしれません。ところが,4年もたたないうちに,ローマ軍はティツス将軍の下に引き返してきて,エルサレムを完全に破壊し,そこの住民の九割余りを滅ぼしました。そうです,信仰を持っていた人は表面に表われないことを見て命拾いをしました。彼らは一般のユダヤ人が,機会があったにもかかわらず見なかったものを見たのです。ユダヤ人は一国民としてイエス・キリストを拒絶し,自らの救いとなったはずの知恵を退けました。―エレミヤ記 8章9節と比較してください。
7 神が約束を成就するために働いておられることはどうして分かりますか。
7 神が,ご自分の約束にしたがい,人類の苦しみを終わらせるために行なってこられた事柄を,わたしたちは正しい観点から見る必要があります。どのようにそうすることができますか。歴史を調べることによってできるのです。そうすれば,人類に問題が起きた当初から,神が漸進的に目的を成し遂げてこられたことが分かります。単なる理論や空論ではなく,堅い信仰を築く土台となる「実体についての明白な論証」を見るのです。
基礎を据える
8 神が地上にご自分の支配をもたらすのに長い時間をかけてこられたのはなぜですか。
8 エホバは全世界を治めて平和と一致をもたらすと約束されました。とはいえ,エホバは単に力によって支配しようとしておられるのではありません。人々が啓発され,ご自分を知ってその管理に喜んで服するよう教育することを意図しておられます。(詩 110:3)そうした目的で,神に仕える人類の全世界の土台を築くには時間がかかりました。神は,ご自分の義の管理とその働きの規準と原則に関する知識を備えなければなりませんでした。
9 神がわたしたちを教える方法は,天から大きな声で話すよりも優れているのはなぜですか。
9 もっとも,エホバは目に見えない神です。(テモテ第一 1:17)神はどのように血肉を持つ人間に理解させるのですか。天から畏怖の念を抱かせる調子で語り,単に力を示すことによってではありません。神は,人々と交渉を持つことによってその原則と特質を啓示されます。忠実な人々が記録した神の宣言を聞いたり読んだりするだけでなく,神がご自分の語った事柄を果たされたという証拠を歴史の中に見るのは,どんなにか教育的かつ感動的で,確信を与えるものなのでしょう。
10 ご自分が無活動な神ではなく,人間の事柄に関心を持っていることを,神が最初に驚くべき仕方で世に示されたのはいつですか。
10 人類史の初期,つまり洪水の時まで,エホバ神は人間に,ご自分を信じるかどうか彼らの選んだ道に行かせました。しかし,神はその世を滅ぼし,ご自分が「死んだ」無活動の神でないことを実証されたのです。滅ぼした理由は,その世が非常に堕落して,清い崇拝や,正しいことを行ないたいと願う人々の命を脅かしたからです。神は,当時ご自分の支配権を認めた少数の人々を箱船によって救われました。―創世 6:11-13,17-20。ペテロ第一 3:20。
11,12 (イ)神は大洪水後どのように事を運ばれましたか。(ロ)神は,地に対するご自分の政府の基礎を据えるに当たって,人間にどんな事情を分からせるようにされましたか。
11 洪水後,引き続き神は,約束された「胤」,メシアによる来たるべき地上の物事の管理のための基礎を据えられました。一方,神は諸国家に独立的な道を進むままにさせ,人間には人間を治める力がないことの証拠となる記録を作らせました。
12 地を治める神の政府の基礎を据えるに際して,エホバは次のような必要なものを備えました。(1)神が備える管理に対する信仰の確かな根拠,(2)神の政府の諸原則に関する知識,(3)宇宙支配者としてのご自分の特質を示すこと,そして(4)人類の救出者であり,エホバの名によって支配する王である方,メシアを確実に,間違いなく証明するもの。(ガラテア 3:24)同時に,人間の支配との比較によって神の支配の優越性,正当性,正しさが証明されました。
一国民が,すべての人を益するために仕えるよう選ばれた
13,14 神は,古代のイスラエル国民を用いてわたしたちの益となるどんな事を成し遂げましたか。
13 そうした基礎を据えるのに,神はどんな手段を用いましたか。まず一国民,つまり古代イスラエル国民を選び,ご自分の原則や交渉の生きた例証とされました。そうすることによって,エホバはご自身を啓示され,また,罪を犯したイスラエル人を罰する際に公平と知恵という優れた特質を示されました。彼らが罰せられたのはイスラエル人の大半が不従順だったからです。(ローマ 10:21)次いでエホバは,イスラエル人が悔い改める時にはいつでも彼らに愛や憐れみや辛抱強さを示されました。
14 さらに,イスラエル人の歴史は,知恵に満ち義にかなった神の律法が守られた時と守られなかった時にそれぞれどんな結果になったかを示しています。一方,世の歴史は,神の律法の益にあずからずに生活する人々に臨む結果を明らかにしています。―コリント第一 12:2。エフェソス 4:17-19。
イスラエルを選んだ理由
15 神がイスラエル国民を用いたのはえこひいきでしたか。説明しなさい。
15 よりによって,なぜイスラエルが選ばれたのですか。イスラエルが他の国民よりも優れていたからではなく,その父祖アブラハムを神が愛されたからです。(申命 7:7,8。列王下 13:23)大洪水から約400年後,エホバはアブラハムが全き信仰と従順をもって,エホバの言葉を信じた人物であることを知りました。(創世 15:1,6。ローマ 4:18-22)こうして,アブラハムが忠実な妻サラによって得た子孫は,エホバ神が意図しておられた目的を成し遂げるために用いる民として選ばれるという,たぐいまれな祝福を得ました。約束された「胤」はアブラハム,イサク,ヤコブを通して来ることになっていました。
16,17 古代イスラエルと交渉を持たれた神は,他の国民に対して不公正でしたか。説明しなさい。
16 当時の他の国々は自己統治を行ない,神に不従順で自分勝手な道を歩みました。神はそれら他の国民が太陽や雨の恩恵を受け,地の産物を楽しむのを許されました。(使徒 14:16,17。マタイ 5:45)しかし,その中の個々の人が信仰をもって神のもとへ来たり,それら諸国民が選ばれた国民とかかわり合いを持たない限り,神は彼らと交渉を持ちませんでした。―申命 32:8。
17 とはいえ,エホバは他の国民を忘れてはおられませんでした。イスラエルとのみ交渉を持っていたものの,それら諸国民を祝福する目的を達成するために神は事を進めておられたのです。もっとも,諸国民はそのことを全く知りませんでした。―創世 22:18。
18 神に用いられ祝福されたイスラエルは,より重い裁きを受けましたか
18 今日わたしたちが信仰と理解を持つためにこうした基礎を備えるべく,神が一国民を選ばれたことにだれも不平を言うことはできません。その間,確かに,イスラエルは他の国民に勝って祝福されました。しかし,エホバのみ名を負っているゆえにイスラエルは,他の国民が担わなかった非常に重い責任をも果たさねばならなかったのです。イスラエルは神に直接申し開きをしなければなりませんでした。神の律法を破ると,エホバから厳しく懲らしめられました。―申命 28:15-68。
19 ローマ 3章1,2節で述べられているとおり,神が古代イスラエルを用いることによってわたしたちにはさらにどんな益がもたらされましたか。
19 一国民を用いて達成したもう一つの目的は,真理を存続させることでした。そのために,神はイスラエルを周囲の不信仰な人々から守り,懲らしめ,律法契約下に結合させました。また,ご自分の「神聖な宣言」をイスラエルに託され,そしてそれは今日聖書に収められています。(ローマ 3:1,2)一方,他の国民は人間の支配下にあって引き続き,自分たちが作った種々様々の偽りの神々に,当惑するほど入り交じった教理をもって仕えていました。―詩 96:5; 115:2-8。
20 (イ)イスラエルに与えられた律法はどんな主要な事柄を成し遂げましたか。(ローマ 10:4)(ロ)ヘブライ語聖書を調べると,他のどんな良い事柄が分かりますか。
20 さらにその間にもエホバは,人類にとって最も優れた賜物,すなわち,約束の「胤」の主要な者,地球を支配する神の王国の王であるキリスト・イエスを備えるために物事を進めておられました。神はイエスを通してすべての従順な人々に命をお与えになるのです。(使徒 17:30,31)間違いなく見分けるしるしをお与えになり,それゆえやがてメシアが到来した時にその方に信仰を持つ根拠を備えた点で神の知恵は非常に際立つものとなりました。至高者はその見分ける確かなしるしをヘブライ語聖書の系図,年代記,そして預言の中に備えられました。(ヨハネ 5:39)その上,ヘブライ語聖書に保存されている歴史上の記録は慰めや希望を与えるだけでなく,今日生活する上で指針としても役立ちます。「事物の諸体制の終わりに臨んでいるわたしたち」に対するひな型および実例ともなっているのです。―コリント第一 10:11。ヘブライ 10:1。
イエスは支配する仲間を選ぶ
21,22 地上におられた時,イエスは親密な弟子を選ぶのに慎重でした。それはなぜですか。(ルカ 9:57-62)
21 ついに待望久しいメシアが現われました。イエス・キリストは神の油そそがれた者として,親密な弟子となる人々を,神がなさったように入念に選ばれました。(ルカ 8:38,39)確かに,イエスは,それを受け入れるすべての人の救いのために贖いを備える目的で地上に来られました。(マタイ 20:28。ヨハネ 3:16)しかしイエスは,ご自分の犠牲の益を全人類に及ぼす王国の頭となるのは後になってからであることをご存じでした。どんな支配者でも,就任する前に,自分の配下の要職に任命する人々のことをまず考えるように,イエスもまず,王国の政府でご自分と共になる人々に関心を持たれました。―ルカ 22:28,29。ヨハネ 17:12。
22 こうして,イエスは,祈りと神の霊の導きにより,最初に使徒たちを選びました。(ルカ 6:12-16)この人々は,イエスの頭の権の下で働く管理機関の基礎となることになっていました。
23 (イ)イエスと使徒の伝道によってどんな希望が差し伸べられましたか。(ロ)それらの弟子は地上にいる間他の人々を支配することになっていましたか。(コリント第一 4:8)
23 クリスチャン・ギリシャ語聖書を読むと,イエスと使徒たちの伝道を受け入れた人々すべてに差し伸べられた希望は,天でイエス・キリストと王国の支配にあずかる希望だったことが分かります。(テモテ第二 2:12。ヘブライ 3:1。ペテロ第一 1:1-4)とはいえ,地上にいる間,それら弟子たちは支配者ではなく,単に「神の会衆」として知られていました。そして,人々に神の卓越性を宣明したにすぎませんでした。―ペテロ第一 2:9。
24 キリストの復活の時から今日まで,神のどんな主要な業が進められてきましたか。
24 したがって,イエスが死んで王国の権威を得た後の長い期間は専ら,キリストと共に統治する人々を選び,訓練,吟味,試験し,資格を得させることに費やされました。その要求は非常に厳しく,聖書によれば,神は,イエス・キリストの配下で管理する,選ばれた一団の数を14万4,000人に限定されました。―啓示 14:1-3。
25 キリストの王国政府の未来の成員が厳しい試練を受けたことにはどんな目的がありましたか。
25 エホバはそれら未来の王兼祭司を,多くの試練を経験させることによって訓練し,懲らしめられました。そのようにして,彼らは,神が政府でその人々のために設ける地位に全くふさわしい者となるのです。(エフェソス 2:10。ローマ 8:29)加えて,そうした完全な訓練や試験ゆえに,彼らが支配の面で永遠にわたって忠実であり,堕落しないことを神は確信できるのです。彼らについてこう述べられています。「その口に偽りは見いだされなかった。彼らはきずのない者たちである」。(啓示 14:5)つまり,その献身と忠誠には欠点がないのです。(ローマ 7:25と比較してください。)その人々はあらゆる点で信頼に足る人々です。エホバは彼らに天的な不滅の命を何の不安もなく与えることができます。(コリント第一 15:50-54)しかし,神は,政府を構成する人々を試験し是認した際,人類の残りの人々のことをも念頭に置いておられました。ここでそのことを調べましょう。
憐れみ深い支配者たちが保証されている
26 キリストは,人類の大祭司かつ支配者となるための資格をどのように得ましたか。
26 会衆の頭であるイエス・キリストはご自分が資格を持っていることを証明するため非常に厳しい試練に遭われました。イエスについてこう書かれています。「わたしたちは,わたしたちの弱いところを思いやることのできないかたではなく,すべての点でわたしたちと同じように試され,しかも罪のないかたを,大祭司として持っているのです」。(ヘブライ 4:15)神は何と優れた知恵と公正さを示されたのでしょう。したがって,神が人類の上に置かれた支配者は不公平やえこひいきなどを決して示されません。
27 イエスはどんな経験を通して,わたしたちが全幅の信頼を置けるような支配者となられましたか。
27 さらに,キリストは以前に天におられたことがあり,他のすべてのものの創造に際してみ父と共に働いたので,男女の造りを理解しておられます。(ヨハネ 1:10; 2:25)しかし,そればかりか,地上の血肉を持つ人間となることにより,逆境下にあって神に仕えることを経験されました。人間が抱える問題を十分に理解しておられますし,苦しむとはどういうことかをご存じです。(ヘブライ 5:7-9)あらゆる人は,イエスが同様の試みを首尾よく切り抜け,人間の必要をご存じであることを知って,キリストの支配権に全幅の信頼を置くことができます。―ヘブライ 4:16。ヨハネ 16:33。
28 神が現在まで1,900年間猶予されたのが時間の浪費でなかったのはなぜですか。
28 また,14万4,000人から成る共同の王兼祭司の一団を選ぶ方法に見られる神の知恵を考えてください。それは時間の浪費ではありませんでした。過去19世紀の長い期間に,その一団の男女は,あらゆる職業,人種,言語,背景の人々から選ばれました。その人たちの間で直面しなかった,また克服しなかった問題は一つもありません。彼らも同情心に富み,憐れみ深い共同の支配者で,あらゆる種類の男女を助けることができます。
「新しい地」の基
29 神の王国が,「天におけると同じように,地上においても」神のご意志を行なえるようにするために,神はさらにどんな準備をしなければなりませんか。(マタイ 6:10)
29 キリストと共に天で王兼祭司となる人々の最後の成員を選び終えればそれで神のご準備は完了しますか。つまり,その時に千年統治が始まって,死者の復活が起きるでしょうか。そうではありません。なぜなら,神はまず,現存する堕落した事物の体制を滅ぼして地球を清めなければならないからです。しかし,そうした後,“からっぽの状態”にしておかれることはありません。大洪水の時に神がそうしなかったように,地球を,生物や神に仕える人々のいない荒廃した所にしておかれることはありません。(イザヤ 45:18)それどころか神の民は生き残って楽園の状態を実現させ始めるのです。それらの人々は死者を迎える時が来たならその場に居合わせ,復活した人々が命の道を歩むのを助けます。
30 現在の事物の体制の滅びを生き残る,さらにどんなグループを神は集められますか。
30 その滅びを生き残るのはどんな人々ですか。使徒ヨハネは,イエスから与えられた幻の描写の中で,14万4,000人の王国相続者について語った後,「これらのことののち,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆」と述べています。次いで幻を伝えたみ使いは,その数え尽くすことのできない大群衆がだれかをこう説明しました。「これらは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした」― 啓示 7:9,14。イザヤ 2:2-4。
31 神の漸進的な目的の中で「大群衆」はどんな役割を果たしますか。
31 それらの人は「新しい地」の「基」,中核を成します。(イザヤ 51:16と比較してください。)「大患難」を生き残った彼らは,キリストおよび14万4,000人の仲間の王兼祭司から成る「新しい天」の指導の下に地を従える仕事に直ちに取り掛かります。そして,神の代表者として地上で真の崇拝を続け,死からよみがえらされた人々に真の崇拝を紹介します。当然ながら,それらの人々に食物と家が備わっているようにし,義の道を教える者として仕えます。
32 だれが「大群衆」を構成しますか。それらの人々はいつ選ばれ,集められますか。
32 「大群衆」は「大患難」を生き残る以上,現在の事物の体制の終わりの直前に生存する人々の中から集められることは明らかです。したがって,その人たちを集める業も,キリストの千年統治が始まる前に神が行なわれる準備の業の一つです。とはいえ,神がイスラエルと交渉を持たれた場合や,後にキリストと共なる14万4,000人の相続者を集めた場合のように,「大群衆」を集めるのに幾世紀もかかることはありません。それでも,時間は必要です。その選択と集める業は現在行なわれており,一世代の生がい中に完了することは明らかです。その世代の中には,生き残ってキリストの千年統治期間に入る人もいます。―ルカ 21:32。
33,34 (イ)約6,000年に及ぶ人類史を通して,神は何を成し遂げられましたか。(ロ)「神は死んでいる」,とか神は遅いとか言うのは正しいことですか。
33 要するに,神が時間を無駄にされることは決してなかったということです。(ペテロ第二 3:9)人間が首尾よく世界を支配し得ないことを神は記録に残させたのです。神は王国の支配を招来する上でご自分の取った漸進的な処置を通して忍耐や優れた特質を表わされました。神はご自分がどんな種類の政府を管理するかを示されたのです。またイエス・キリストが,アブラハムの約束された「胤」の主要な方であり,メシア,つまり義をもって地を支配する王であることの豊富な証拠をお与えになりました。―ガラテア 3:16。
34 ですから,エホバ神を知りたいと誠実に願う人は,そうすることができるのです。そして,そうした信仰を裏付ける実体があるので,エホバの目的に対する堅い信仰を得ることができます。
[140ページの図版]
大患難を生き残るのは,神の約束に対する信仰をいま表わしている人々
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来たるべき事柄のひな型人生には確かに目的がある
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13章
来たるべき事柄のひな型
1 現今の法律上の取り決めの下で,公正な扱いを受けるのが難しいのはなぜですか。
今日,ほとんどの国には非常に込み入った成文法があるので,公正を求める人が,法律によって自分を弁護しようとしてもそれは大方無理なことです。しかも大抵,金持ちに有利な“抜け穴”があるものです。単刀直入で簡潔な法典があって,普通の人でもお金を掛けずに裁判をしてもらうことができ,金持ちも貧しい人も形式ばらずに問題を法廷に持ち込んで,それを偏ぱなく聴いてもらえる世の中に住めたら,楽しいのではありませんか。
2,3 神がイスラエルに与えた律法を考察することにはなぜ益がありますか。
2 神がイスラエルに与えたモーセの律法はそのような法典でした。モーセの律法について,聖書は,「エホバの判決は真実であり,ことごとく義にかなっていることが明らかになった」と述べています。(詩 19:9,新)エホバの判決が優れていることは,600余りの律法から成るこの法典を構成している法令の2,3の例を調べると分かります。
3 クリスチャンはイスラエルに与えられた律法の下にはいませんが,それを考察することから益が得られます。なぜなら,モーセの律法は,エホバの物の見方を明らかにし,エホバが創造物を扱う際に常によって立つ原則を明確にしているからです。
4 古代イスラエルの政府でエホバはどんな立場と権威を持っておられましたか。
4 イスラエルの行政は,エホバが至高の絶対的支配者であったという点で他に類を見ないものでした。エホバは王かつ,宗教上の頭である神でした。預言者イザヤはこう述べています。「エホバはわたしたちの裁き主,エホバはわたしたちの法令授与者,エホバはわたしたちの王だからである。彼自らわたしたちを救ってくださる」― イザヤ 33:22,新。
5 イスラエルでは,律法に対する従順は真の崇拝を行なうことでもあったとどうして言えますか。
5 したがって,偶像崇拝つまり他の神を崇拝することは,とりもなおさず反逆,政府に対する罪でした。また,国の法をはなはだしく犯すことは,国家の崇拝の対象である神に対する不敬行為でした。律法を故意に犯すことは冒とくに等しかったのです。ですから,律法への従順は真の崇拝の一部でした。
市民権
6,7 市民権がどのように保護されたかを述べなさい。
6 裁く人と支配者が神に従った時には,モーセの律法下で市民権の問題は起こりませんでした。律法は生来のイスラエル人,外人居留者,一時的にイスラエルにいる外国人を保護しました。―出エジプト 22:21; 23:9。レビ 19:33,34。
7 モーセの律法下では,貧しい人が貧しさゆえに,また,富んだ人がただ富んでいるというだけで公正に扱われないということはありませんでした。―レビ 19:15。出エジプト 23:3。
貧しい人に対する親切な配慮
8 モーセの律法は貧しい人々にどのように配慮を示していますか。
8 イスラエルの主要産業は農業で,男子は各自の相続地を有していました。しかし中には,経営のまずさや財政困難のため,貧しくなり,相続地を売らねばならない人が出ました。外人居留者の中にも困窮する人がいました。そうした人々への思いやりとして,各農夫は収穫の際に畑の端を刈り取ってはならないという取り決めがありました。また,刈り入れ人が忘れた穀物の束もそのまま残しておかねばなりませんでした。(レビ 19:9,10。申命 24:19-21)それは貧しい人が落穂拾いをするのに取っておかれたのです。―ルツ 2:15,16。
9,10 すべての人は,貧しい人を保護する律法からどのように益を得ましたか。
9 言うまでもなく,貧しい人がその益にあずかるためには努力しなければなりませんでした。落穂拾いは楽な仕事ではなかったからです。したがって政府の世話を受ける怠惰な貧乏人はいませんでした。失業手当とか福祉国家というものはなかったのです。(申命 15:11。ルツ 2:3,7)これは,テサロニケ第二 3章10節に出ているクリスチャンの原則と類似しています。そこにはこう書かれています。「働こうとしない者は食べてはならない」。
10 貧しい人が生計を立てられるようにする取り決めと共に,国民すべてには,困窮した人を寛大に扱う義務が課せられていました。そのことによって,兄弟愛や国家的一致が促進されました。―レビ 25:35-38。
かこくでなかった“奴隷制”
11 古代イスラエルにおける奴隷制が,比較的近代における奴隷制のように,厳しく圧制的でなかったのはなぜですか。
11 イスラエルの“奴隷制”は,比較的近代に見られたかこくな奴隷制のようなものではありません。イスラエルのそれは,実際のところ,財政困難や大きな災難に見舞われて相続地を売らねばならなくなり,ついには,売ったお金を使い果たして困窮した家族を保護する手段でした。さもないと,多額の借金を背負う家族が出ることになります。それで,それまでのように自家の営業に従事する代わりに,家族ぐるみ,あるいは家族のだれかが“奴隷”になりました。しかし,奴隷制といっても,それは,他の人のために働き,多くの人にとっては一種の“経済的奴隷制”である,今日の雇用の原則とたいへんよく似ています。
12 ヘブライ人の“奴隷”のためにどんな取り決めがありましたか。
12 例えば,ヘブライ人の“奴隷”は所有物としてではなく,“雇い人”として扱われるべきでした。その上,6年間働いた後に解放されることになっていました。(レビ 25:39-43)解放の時に,その主人つまり“雇い主”は,可能な範囲内で,“奴隷”に物質的な援助をしなければなりませんでした。“奴隷”とその家族が新しい出発をするのを助けるためです。(申命 15:12-15)その取り決めにより,家族は自活できる時まで暮らしに困ることなく,衣食を得られたはずです。
13 (イ)奴隷として奉仕する6年の期間が終わらないうちに,自由になるどんな可能性がありましたか。(ロ)奴隷になった,若いヘブライ人の女性にはどんな保護が設けられていましたか。
13 その上,“奴隷”になっている人は,事業や商売あるいは投資をすることができたので,自分自身を奴隷状態から買い戻せる場合もありました。あるいは近い親せきが負債を払って,その人を自由人にならせることもありました。(レビ 25:47-54)“奴隷”になった娘は多くの場合主人の妻にされました。その女性には,どの妻の場合とも同じように,妻としての分が十分に与えられねばなりませんでした。―出エジプト 21:7-11。
女性に対する保護
14 離婚された女性はどのように保護されましたか。
14 女性は結婚に関する律法によって保護されていました。男性は,正当な理由がなければ妻と離婚することができず,しかも,離婚証書を書くことが求められました。離婚証書は,女性が再婚する際に偽りの非難をされないようにその女性を保護しました。―申命 24:1。マタイ 19章3節から9節に出ている,離婚に関するイエスの説明をご覧ください。
15 どんな律法は,不品行を抑制しましたか。
15 自分の婚約者でない未婚の女性を犯した男性は,その女性の父親の判断により,彼女と結婚しなければならず,しかも,その女性と離婚することはできませんでした。(申命 22:28,29。出エジプト 22:16,17)他の男性と婚約している女性を犯すことは,殺人にも等しいこととみなされ,犯した男性は死刑になりました。それは女性を性的な危害から保護しました。―申命 22:25-27。
16 (イ)一夫多妻はもともと神が取り決めたものですか。(マタイ 19:4-6)(ロ)古代イスラエルにおいて神はなぜ一夫多妻を許されましたか。
16 一夫多妻は許されていましたが,女性に有利な規定が設けられていました。長い間の風習であった一夫多妻は,すべての物事を正す神の時が来ていなかったので,容認されていました。神はキリスト教の時代まで待ってから,本来の一夫一婦主義を回復されました。(コリント第一 7:2)ご自分の民が矯正の意味を理解してそれを受け入れる力がある場合に,民を教え導く,というのが神の方法です。イエスはヨハネ 16章12節で,弟子たちに,「わたしにはまだあなたがたに言うべきことがたくさんありますが,あなたがたは今はそれに耐えることができません」と言われました。ですから,イエスが死んでよみがえらされた後,弟子たちのために多くの事柄は明らかにされ,正されました。
17 一夫多妻の結婚関係で,比較的愛されていない妻はどのように保護されましたか。
17 一夫多妻の結婚関係では,妻たちのうちの一人が夫に特に愛されるということがよくありました。しかし,それほど愛されない妻には律法による保護がありました。例えば,その妻から生まれた息子が夫の長子である場合,その子供は長子の権を取り上げられることはありませんでした。夫は,後に最愛の妻に生まれた息子にその権を与えることができなかったからです。―申命 21:15-17。
18 イスラエルの敵側の女性でさえどのように保護されましたか。
18 敵の町の女性でさえ,辱めを受けることはありませんでした。軍隊の野営付近には売春婦もいませんでした。戦闘に携わっている兵士は性関係を持つことを許されなかったからです。―申命 21:10-14。
刑法
19 古代イスラエルには刑務所がありませんでした。それにはどんな利点がありましたか。
19 犯罪に関する律法は,今日の法令集に収められている刑法よりもはるかに優れています。モーセの律法下では刑務所というものはありませんでした。不適当にもイスラエルに刑務所が設けられたのは,後代,王が支配していた時のことです。(エレミヤ 37:15,16; 38:6,28)どんな犯罪の場合でも,懲役刑が課されませんでしたから,律法に従う勤勉な人々の費用で犯罪者に食物と住居があてがわれることはありませんでした。
20 盗みに対する刑罰は何でしたか。それにはどんな益がありましたか。
20 ある人が盗みを働いても,その人が投獄されることはありませんでした。このようにして,盗んだ物を,自分が働いて得たお金で償うことができたのです。また,被害者も損害を被りませんでした。しかも加害者は,盗んだ物や,それをどう処分したかによって,盗んだ物の2倍かそれ以上を払わねばなりませんでした。(出エジプト 22:1,4,7)支払わないなら,加害者は奴隷に売られました。自分が盗んだ物に対する負債を支払うまで,被害者か他のイスラエル人のために働かねばなりませんでした。(出エジプト 22:3)しかし,その者が厚かましくも刑に服そうとしないなら,その者は死刑に処せられました。(申命 17:12)この律法は,盗まれた人の助けとなったばかりか,盗みに対する強い抑制となりました。
21 (イ)故意の殺人にはどんな刑罰が与えられましたか。(ロ)誤って人を殺した人には,どんな取り決めがありましたか。
21 モーセの律法の下で,命は神聖なものとみなされました。故意に殺人を犯した者は罰を免れることはなく,必ず死刑に処せられました。それで,民数紀略 35章30節から33節(新)には次のように書かれています。「魂を打って殺した者は皆,証人たちの口により殺人者として殺されるべきであるが,ただ一人の証人がある魂を責める証言をしてその者を死に至らせてはいけない。またあなたがたは,死に価する殺人者の魂に対する贖いを取ってはならない。その者は必ず死に処せられるべきだからである。……こうしてあなたがたは,あなたがたのいるその土地を汚してはならない。血は地を汚すものだからである。また,地に対しては,その上に流された血に関し,それを流した者の血による以外には何の贖いもないのである」。この律法は,イスラエル人の社会からそうした邪悪な人間を取り除きました。そのような者がうろついて殺人を繰り返すことはありませんでした。しかし,誤って人を殺した人は憐れみを施されました。―民数 35:9-15,22-29。
22 命の神聖さは特にどのように強調されましたか。
22 未解決の殺人事件でさえ,償われずには済まされませんでした。殺人現場に最も近い町では,町の長老が必要な儀式を行ない,神の前に犯した連帯の流血の罪を許されない限り,流血の罪に問われ,のろいのもとに置かれました。そのようにして,命の神聖さが人々に深く印象付けられたのです。―申命 21:1-9。
23 誘かいに関する律法を説明しなさい。
23 人体は犯すべからざるものと考えられ,人を誘かいする者は死刑になりました。人を誘かいして手元に置いていたり,奴隷に売ったりした者は死刑を免れませんでした。―出エジプト 21:16。申命 24:7。
非行の問題はなかった
24 家族に対する敬意はどのように保たれましたか。それにはどんな結果がありましたか。
24 国民がモーセの律法を守った時に,少年の非行問題はほとんどありませんでした。国家の基本的な単位は家族でした。国家の長たる者たちに対してばかりか,両親に対しても深い敬意を払うべきことが教えられました。(出エジプト 20:12; 22:28)暴徒行為は禁じられていました。(出エジプト 23:1,2)責任能力を持つ年齢に達していて,大食や大酒にふけったりし,矯正できないほど反抗的な息子は殺されることになっていました。(申命 21:18-21)父か母に暴力をふるったり,ののしったりした者はだれでも死刑になりました。(出エジプト 21:15,17。レビ 20:9)家庭や家族を尊重することはとりもなおさず国家の支配者たち,とりわけ主要な支配者であられるエホバ神に対して敬意を示すことにもなります。
所有権は尊重された
25 落し物はどのように扱われましたか。
25 今日,落し物については,“見付けた人のもの”というのが一般的な風潮です。しかし,イスラエルでは,動物その他を見付けた人はそれを持ち主に返さなければなりませんでした。もし持ち主が遠方の人で,だれか分からない場合,持ち主が捜しに来るまで落し物を保管しておかねばなりませんでした。(申命 22:1-3)持ち主が村に捜しに来た時のために,見付けた人は当然,町の長老すなわち役人に自分がそれを持っていることを報告しなければなりませんでした。
26,27 (イ)人の家や持ち物に対してはどれほどの敬意が保たれましたか。(ロ)貧しい人に対するこれらの律法にはどんな益がありましたか。
26 家の神聖さには非常に深い敬意が払われました。人は抵当物件を取り立てるのに負債者の家に入って行って負債を取り立てることは許されませんでした。債権者は,家の人が抵当物件を持って来るまで外で待っていなければなりませんでした。(申命 24:10,11)また,負債者の当面の生活の資力や,絶対必要な衣類を抵当流れにしてもなりませんでした。貧しい人にはわずかな穀物しかなく,それをひいて家族に与えなければならないかもしれず,身を覆う外衣が一枚しかないかもしれないからです。
27 その点について申命記 24章6,12,13節(新)には次のように書かれています。「だれもひき臼もしくはその上のひき石を質物として取るべきではありません。魂を質物として取っていることになるからです。そして,もしその人が難儀に遭っているなら,あなたはその質物を預ったままで床に就いてはなりません。日が沈んだらすぐその質物を是非とも彼のもとに返すべきであり,こうして彼は自分の衣を着て床に就き,またあなたを祝福することになるのです。それは,あなたの神エホバの前にあってあなたのための義となるのです」。
動物に対する優しさ
28 動物に関する律法の中で,神は思いやりや優しさをどのように示されましたか。
28 動物も優しい配慮を受けました。家畜が難儀しているのを見た人は,たとえそれが敵のものであっても,その家畜を助けなければなりませんでした。(出エジプト 23:4,5。申命 22:4)荷物運搬用の動物を過度に働かせたり,虐待したりすることは禁じられていました。(申命 22:10。箴 12:10)脱穀中の雄牛にくつこを掛けてはなりませんでした。それは雄牛がその働きの実を楽しめるようにしてやるためです。(申命 25:4)野生の動物に対する思いやりも培われました。人間は親鳥と卵の両方を取り去って,鳥の家族を絶滅させてはなりませんでした。(申命 22:6,7)また家畜では,雄牛や羊をその子供といっしょに同じ日にほふることも禁じられていました。こうした事柄のすべては,残酷な精神を抑制しました。―レビ 22:28。ヨナ 4章11節およびレビ 25章4,5,7節に述べられている,動物に対する神の配慮と比較してください。
真実な事柄に対する熱意
29,30 裁判に立つ証人に関してどんな律法がありましたか。
29 公正と憐れみのために,裁判に立つ証人は,事件に関して自分の知っていることをすべて証言しなければなりませんでした。そうしない者は,裁き人から公にのろわれました。そのようにのろわせたのは神でした。(レビ 5:1。箴 29:24)偽証は許されませんでした。それは,『エホバの前に』うそをつくことだったからです。他の人に対してなされた訴えが故意に偽ってなされたものであることが判明したなら,告発者は,偽って訴えられた人に課されたと同じ刑罰を受けることになっていました。
30 したがって,申命記 19章16節から19節(新)には次のように書かれています。「暴虐をたくらむ証人がある人に敵して立ち,その人に対して反抗の責めを負わせるような場合,論争のあるその二人は,さらにエホバの前,その時期に勤めを果たしている祭司と裁き人たちの前に立たねばなりません。そうして裁き人たちは徹底的に調べねばならず,もしその証人が偽りの証人で,自分の兄弟に対して偽りの責めを負わせていたのであれば,あなた方としては,その者に対しその者が自分の兄弟にたくらんだと同じように行なわねばなりません。こうしてあなたは,あなたの中から悪しき事を除き去るのです」。
31 他のどんな律法は正義感を高めましたか。また,法廷での偽証や不注意な証言を抑制するどんな律法がありましたか。
31 状況証拠だけで人が死刑になることはありませんでした。真実性を証明するには少なくとも二人の目撃証人が必要とされました。(申命 17:6; 19:15)死刑に値する罪を犯した者を石打ちにする際,最初に石を投げるのは,その者の証人たちでした。この律法はイスラエルの人々の正義感を強めました。こうして,裁き人だけでなく,市民各自が,神の前に流血の罪を犯すことなく国を清く保ちたいとの願いを表わすよう求められたのです。また,それによって,虚偽,性急あるいは不注意な証言が抑制されました。申命記 17章7節(新)に記されている律法からは益が得られました。そこにはこう書かれています。「その者を死に処するために証人たちの手が最初に付けられるべきであり,民すべての手がその後に付けられます。こうしてあなたは,あなたの中から悪しき事を除き去らねばなりません」。
性関係に関する戒め
32 どんな性関係は禁じられ,死の処罰に値するものでしたか。
32 姦淫を犯した者は男女双方とも死刑にされました。(レビ 20:10)同性愛とか獣姦などの嫌悪すべき行為もレビ記 20章13,15節(新)によると死の処罰をもたらしました。そこにはこう書かれています。「男が,女と寝ると同じようにして男子と寝た場合,その二人は共に嫌悪すべき事を行なったのである。彼らは必ず死に処せられるべきである。自らの血がその者たちの上にある。また,男が自分の射精を獣に与えた場合,その者は必ず死に処せられるべきであり,あなたがたはその獣をも殺すべきである」。―レビ 20:16,17; ローマ 1:24-28もご覧ください。
清さ
33,34 律法は身体的な清さをどのように促進しましたか。
33 モーセの律法は,イスラエルの民に,道徳的に清いだけでなく身体的にも清くあることを命じていました。清さに関する律法によれば,イスラエル人は自然死した動物に触れた土器を砕かねばなりませんでした。衣類ばかりか他の器類も洗わなければなりませんでした。そうした律法のお陰で,イスラエル人は清くあることに絶えず敏感でいられました。伝染性の病気の人は隔離されました。(レビ 13:4,5,21,26)ばい菌の付いた衣類は別にされ,そうした家は孤立させられました。場合によっては,衣類は処分され,家は取り壊されました。(レビ 13:47-52,55; 14:38,45)血を食べることは許されませんでした。―レビ 7:26。
34 清潔さや隔離に関する律法,および道徳律とか血を禁じる律法は,医学的な見地からして,腸チフス,発疹チフス,腺ペスト,肝炎,淋病,梅毒その他多くの病気を大いに予防しました。
悔い改めた者に示された憐れみ
35 法廷の裁き人は,事情に応じて憐れみを示す自由を与えられていましたか。
35 モーセの律法は厳格なものでも,融通のきかないものでもありませんでした。裁きを行なう人には,憐れみを示す余地が残されていたのです。仲間の人間に対して罪を犯してから悔い改めた人は,まず被害者の間で問題を正し,次いでエホバに愆祭をささげることによって再び神の恵みを受けられるようになりました。(レビ 6:2-7)イエス・キリストはその律法に言及して次のように言われました。「それで,供え物を祭壇に持って来て,兄弟が自分に対して何か反感をいだいていることをそこで思い出したなら,あなたの供え物をそこ,祭壇の前に残しておいて,出かけて行きなさい。まず自分の兄弟と和ぼくし,それから,戻って来たときに,あなたの供え物をささげなさい」。(マタイ 5:23,24)今日,神の僕は,仲間の人間に悪を行なっているなら神との平和な関係を保つことはできません。
ヨベルの年
36 ヨベルの年の律法はどんなすばらしい備えを設けていましたか。
36 50年目ごとに訪れたヨベルは大きな喜びの時でした。“売られた”相続地はみな元の所有者に返されました。6年の奉仕期間が満ちていなくても,ヘブライ人の奴隷は解放されました。(レビ 25:8-13,39-41)この律法は,イスラエルが約束の地に入った時に神が設けた元の,平衡の取れた状態に経済を回復するのに大いに効果がありました。今日多くの国で見られるような,非常に富んだ地主階級と非常に貧しい“農奴”階級とが存在する状態を防げました。律法が施行される時,土地の独占はあり得ませんでした。
37 要約すると,イスラエルに対する神の律法をわたしたちが調べるべきどんな理由を挙げることができますか。
37 こうして,モーセの律法は市民を自由人にしました。どの家族も,絶えざる貧困状態に陥らずに済みました。家族の尊厳は維持され,家族の霊性は高い状態に保たれました。父親は家族と時間を過ごすことができ,安息日とか安息年には,子供を教育するといった事柄に注意を向ける時間がありました。ですから,クリスチャンは今日モーセの律法下にいませんが,その律法は「きたるべき良い事がらの影」であり,神の道や処遇の一端を明らかにしています。―ヘブライ 10:1。
[144ページの図版]
律法は,貧しい人が刈り残しを収穫するために畑の端を残すよう命じて,貧しい人に必要物を備えた
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ヨベルの年が宣せられると,すべての土地は元の所有者に返されねばならなかった
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犯罪と不公正は取り除かれる人生には確かに目的がある
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14章
犯罪と不公正は取り除かれる
1 この世は,正しいことに従って生活するのをどのように難しくしていますか。
自分がどれだけ正しく生きようと心掛けても,周囲の状況がそれを難しくしているというのが現実ではありませんか。生存競争の激しい実業界では,生き残るためにごまかしをするよう圧力を受けます。日常生活では,不道徳,麻薬の濫用,悪い言葉,憎しみ,復しゅう心などをよく見聞きします。しかも芸能界や宣伝機関によって,そうした事柄が,大方,普通で正常なことのように思い込まされているのです。
2 人々は悪い環境の及ぼす影響に気付いていますか。
2 とはいえ,悪い環境が大きな影響を及ぼすことに気付いている人は少なくありません。そうした人々は,しばしば,特に子供のために,もっと良い環境を求めて別の地域へ引っ越します。悪い環境が,子供に教えた良い原則を曲げ得ることを知っているからです。
3,4 (イ)古代イスラエルの環境はイスラエル人にどのように影響しましたか。(ロ)悪い環境を作るのに何が主な要因となってきましたか。
3 モーセの律法下にあった古代イスラエル人の場合でも,律法それ自体は優れたものでしたが,彼らの置かれた環境は必ずしも良いものではありませんでした。イスラエルは偶像を崇拝する諸国家に囲まれていたのです。(申命 13:6,7,12,13)全人類がそうであるように,イスラエル人も罪人でした。そして律法は,神に対する真の崇拝に堅く立ち続けるよう幾多のイスラエル人を助けましたが,大半の人々は不従順であることを示しました。(歴代下 36:15,16)彼らは環境に屈したのです。その上,サタン悪魔は,最初の人間が堕落して以来長年にわたって強い影響を及ぼし,人々に神に関する知識を得させないようにしてきました。使徒パウロは次のように書いています。
4 「そこで,もしわたしたちの宣明する良いたよりに事実上ベールがかけられているとすれば,それは滅びゆく者たちの間においてベールがかけられているのであり,その者たちの間にあって,この事物の体制の神が不信者の思いをくらまし,神の像であるキリストについての栄光ある良いたよりの光明が輝きわたらないようにしているのです」― コリント第二 4:3,4。
環境は変化する
5,6 現在の環境をどうすることが神の目的ですか。
5 したがって,罪深い人間が「思いを作り直して」神の優れた原則に従うのに環境の変化が大いに助けとなることは明らかです。(ローマ 12:2)神はイエス・キリストの一千年の統治のもとで正にそうした環境をもたらすことを意図しておられるのです。
6 最初に,邪悪な事物の体制は神によって滅ぼされて過ぎ去らねばなりません。(ヨハネ第一 2:17)次いで,人類をそそのかしてエホバ神に反逆させることができないように,「この事物の体制の神」である悪魔は縛られねばなりません。(啓示 20:1,2)悪魔はこれまで人類を欺いたり,人間の不完全さにつけ込んで死を招く罪を犯させたりすることにより,エホバ神に反逆させてきました。―啓示 12:9。ヘブライ 2:14,15。
7-12 キリストの王国の支配によって実現する状態を述べなさい。
7 詩篇は,キリストが王として支配する時,地に行き渡る状態の一端を次のように預言しています。
8 『その日に,義なる者はもえいで,豊かな平和が及ぶ』。『地には穀物が十分にできるであろう』。「真実が地そのものから生えいで,そして義が実に天から見下ろすであろう。また,エホバは,善いものを与えてくださり,わたしたちの地は収穫をあげるであろう」。―詩 72:7,16; 85:11,12,新。
9 さらに,預言者イザヤはイエス・キリストについてこう書いています。
10 「君としての支配がその肩の上に宿る。そしてその名は,驚くべき助言者,強力な神,とこしえの父,平和の君と呼ばれるであろう。あまねく行き渡るその君としての支配と平和に終わりはない。ダビデの王座とその王国について,公正によりまた義によってそれを固く据え,かつ支える。今より,そして定めのない時まで。万軍のエホバの熱心が,これを行なうのである」― イザヤ 9:6,7,新。
11 新しい事物の体制がもたらす助けとなる環境を,イザヤは次のように説明しています。
12 「義なる者の行路は廉潔さである。あなたは廉潔であり,義なる者の行程を平らかにされる。そうです,あなたの裁きの行路ゆえに,エホバよ,わたしはあなたに望みを置きました。……地に対しあなたから裁きがある時,義を産出的な土地の住民たちは必ず学ぶからです」― イザヤ 26:7-9,新。
13 復活した人々が神に関する真理を学ぶのは,以前に生きていた時よりも容易ですか。それはなぜですか。
13 エホバの裁きが宣明され,全地で施行されるとともに,現在の事物の体制の滅びを生き残って新しい体制に入る「大群衆」は,神とキリストに反対する邪悪な者に妨げられることなく,復活した人々を教えることができます。(啓示 7:9,10,14-16)公正と平和が行き渡っていますから,真理は一層際立ったものとなります。耳を傾ける人々は,従順に命への行程を『平らかにする』ことがどんなにか容易にできることでしょう。
14 不完全な両親から受け継いだ悪い傾向は,現在の事物の体制によってどのように強められましたか。
14 現在,人々は犯罪を犯し,中には,いわゆる“常習犯”になる人がいます。すべての人は何らかの形で罪に誘われる弱さを持っています。(ローマ 6:19)そうした弱さを遺伝的に受け継いでいるのです。(詩 51:5)例えば,ある人にはかっとなって暴力を振るう傾向があります。他の人々よりも攻撃的で,不公正がなされたと感じると,勝手に制裁を加える性向の人もいます。また,不道徳やアルコール飲料の飲み過ぎその他に誘惑されやすい人もあります。しかし,そうした人が犯罪を犯すのは比較的まれなことです。悪い環境が,悪い傾向を養い助長する“培養地”となり,機会を与え誘発する状況が不法行為の“引き金”となって,犯罪を犯すのです。―コリント第一 15:33。
15 (イ)キリストの王国の下での環境は良い傾向をどのように向上させますか。(ロ)人が更生するには,当人によって何がなされなければなりませんか。
15 しかし,現在の邪悪な世界が取り除かれ,サタンが縛られて干渉できなくなると,人類が次第に回復することは可能になります。人々の良い傾向は良い環境によってはぐくまれ強められますが,悪い傾向は妨げられます。悪い欲望と行為は“場違い”な,取り除くべきものとみなされます。しかし,そのためには,『怒り,悪,ののしりのことばを捨て去り,新しい人格を身に着ける』よう努力しなければなりません。その新しい人格は,『正確な知識により,またそれを創造したかたの像にしたがって新たにされてゆくのです』。(コロサイ 3:8-10)人は,変化したいとの強い願いを持たねばなりません。なぜなら,神は喜んで従順を示す臣民を求めておられるからです。(詩 81:11-13)キリストと仲間の王兼祭司たちの管理のもとで,変化をする人は可能な限りあらゆる方法で助けられ,その努力が妨害されることはありません。―啓示 7:17。
命を得損なう人々
16,17 (イ)新しい事物の体制で永遠の命を得損なうのはだれですか。(ロ)イエスが地上におられた時,宗教指導者たちはどのように大きな危険に身をさらしていましたか。
16 新しい事物の体制では,「霊に対する冒とく」の罪を犯す人だけが死にます。(マタイ 12:31,32)それは神に対する,考え抜いた,故意の,反抗的で冒とく的な行為です。ではそれはどうして「霊に対する」ものですか。
17 パリサイ人の例を考えてみましょう。パリサイ人はその罪を犯す大きな危険に身をさらしていました。その中には明らかに罪を犯した者もいます。パリサイ人たちは,後に使徒パウロとなったサウロの場合のように,信仰に欠けていたがゆえにイエスがメシアであることを信じなかったのかもしれません。(テモテ第一 1:12,13)しかし,イエスが許されない罪について語られた時,パリサイ人は,神の霊がイエスに臨んだ結果としてイエスの強力な言葉や業を目撃したばかりでした。神の霊がイエスを通して働いているのを見て知っていたのですから,パリサイ人たちは実際に聖霊に対する冒とくの罪を犯していたのです。というのは,意識的に,イエスの業を悪霊の力に帰したからです。パリサイ人は全く利己的な目的を念頭に置いていました。自分たちの目立つ立場を保持するために,人々を誤導しようと願ったのです。―マタイ 12:22-30。
18 クリスチャンが永遠の命を得損なうことがありますか。
18 クリスチャンとなって後,神の清い崇拝から故意に離れる人の場合がそうです。ヘブライ 10章26,27節によれば,『真理の正確な知識を受けたのち,故意に罪をならわしにするなら,罪のための犠牲はもはや何も残されておらず,むしろ,裁きに対するある種の恐ろしい予期があるのです」。―ヘブライ 6:4-6と比較してください。
19 (イ)「死をきたす罪」とは何ですか。(ロ)そうした罪を犯していると思われる人を,真のクリスチャンはどのようにみなすべきですか。(ハ)クリスチャンは,人が許されない罪を犯したと判断できますか。説明しなさい。
19 使徒ヨハネも,死をきたさない罪と対照させて,「死をきたす罪」について述べています。(ヨハネ第一 5:16,17。民数 15:30と比較してください。)クリスチャンと唱えていても,目に見える証拠から,神の霊を冒とくし,故意に罪を犯して悔い改める様子のないと思われる人と,真のクリスチャンは交わりを持ちません。(ヨハネ第二 9-11)クリスチャンはそうした人のために祈りません。しかし,クリスチャンは人の心を読めないのですから,人が許されない罪を実際に犯したかどうか判断することはできません。その人が後に悔い改めることはないと言い切ることはできません。キリストは神のために裁き主として行動され,「腎臓」(内奥の感情や考え)と「心臓」(動機の主要な座)を探ることがおできになり,したがって,人が聖霊に対する冒とくの罪を犯したかどうか判断がおできになることをクリスチャンは知っています。―啓示 2:23。ヨハネ 5:22,30。
20 キリストの千年統治中,矯正の見込みのない,悔い改めない罪人はどのように扱われますか。
20 がんこで矯正の見込みのないそうした人間は,キリストの千年統治中に殺されます。それが永遠の滅びであることは,その者たちが象徴的な「火の湖」に投げ込まれると聖書の中で描写されていることからも分かります。それはつまり,アダムから受け継がれた死と区別される「第二の死」です。(啓示 20:14,15)したがって,その新しい事物の体制の平和を乱す者は,とどまって問題を起こすことを許されません。
現在でさえより良い生活ができる
21,22 (イ)より良い,より幸福な生活を送るのにキリストの千年統治まで待たねばなりませんか。(ロ)テモテ第一 4章8節にある,この問題に関する使徒パウロの言葉を検討しなさい。
21 ところで,今この本を読んでおられる方には,神の円熟した僕になろうと努めていた人々に使徒が語ったように申し上げましょう。『しかし,愛される者たちよ,あなたがたに関して,より良い事がら,また救いを伴う事がらを確信しています』。(ヘブライ 6:9)神への奉仕を順調に始めるのにキリストの千年統治まで待つ必要はありません。今そうすることができますし,またそうすべきです。
22 同じ使徒はさらにこう述べました。「身体の訓練は少しの事には益がありますが,敬神の専念はすべての事に益があるからです。それは,今の命ときたるべき命との約束を保つのです」。(テモテ第一 4:8)わたしたちは世の多くの混乱に巻き込まれないで済み,思いの平和や人生の目的を持てます。家族や仲間の人間とより良い関係を保ちつつ,人生を楽しむことができます。しかし,それだけではありません,来たるべき「大患難」を死なずに生き残るという見込みがあり,神の新しい事物の体制で満ちあふれた確かな命を期待できるのです。
23,24 (イ)神のみ言葉の内容を調べた以上,真理を得るのに待ったり,どこか他の所を探すべきですか。(ロ)別のメシアとか,わたしたちの解放のために立ち上がるだれか偉大な人物を捜す必要がありますか。(ハ)では,なすべき正しい事柄とは何ですか。
23 わたしたちは,約束の地に入ろうとしていた時のイスラエル国民と同様の立場にいます。モーセはイスラエル国民に次のように告げました。「わたしが今日命じているこのおきては,あなたにとって難しすぎるものではなく,また遠く離れた所にあるのでもありません。それは天にあるというので,『だれがわたしたちのために天に昇って,わたしたちのためにそれを取り,わたしたちにそれを聞かせてそれを行なえるようにしてくれるのか』と言うようなことはありません。またそれは海の向こうにあるというので,『だれがわたしたちのため海の向こうに渡って,わたしたちのためにそれを取り,わたしたちにそれを聞かせてそれを行なえるようにしてくれるのか』と言うようなこともありません。その言葉はあなたに非常に近く,あなたの口の中,あなたの心の中にあり,それを行なえるようになっているのです」― 申命 30:11-14,新。
24 神があなたに求めておられる事柄を知り,それを行なうのは決して難しいことではありません。信仰を働かせ,その信仰に基づいて行動するなら,イエス・キリストは助けてくださいます。(マタイ 11:28-30)必要な音信を得るためにだれかに天へ行ってもらわねばならないということはありません。イエス・キリストはすでに音信を携えて来られ,その命令は聖書に収められています。「海の向こう」のどこか遠い国へ旅をして,そこの人々の知恵や哲学を学ぶ必要もありません。真理を見いだすのに,高等教育を受けたり,古今のあらゆる宗教を調べなくてもよいのです。あなたは聖書を読み,すでに神の目的を学んだので,それはあなたの口の中,あなたの心の中にあります。それは「王国のこの良いたより」です。(マタイ 24:14)キリストの使徒は正にこう述べました。「その『あなたの口の中にあることば』,つまり,イエスは主であるということを公に宣言し,神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。人は,義のために心で信仰を働かせ,救いのために口で公の宣言をするからです」― ローマ 10:5-10。
25 神はわたしたちに何か際立った事柄を求めておられますか。それとも何を求めておられますか。
25 ですから神はあなたに際立った強力な行ないを求めておられるのではありません。ただし,次のように語っておられます。「地の人よ,何が良い事かを主はあなたに告げた。そして,エホバがあなたに求めておられるのは,ただ公正を行ない,親切さを愛し,慎みをもってあなたの神エホバと共に歩むことではないか」。(ミカ 6:8,新)これは道理にかなっており,実際にすべての人が行なうべきことではありませんか。
26,27 現在有利なスタートを切るためにわたしたちにできるどんなことがありますか。
26 したがって,今自分の生活から悪い行ないを除いて有利なスタートを切ることができます。悪い環境に影響されて道からはずれないようにするため,悪いことを行なっている人々と親しく交わらないようにしなければなりません。神に仕えようと努めていた人々にパウロはこう書き送りました。「わたしは自分の手紙の中で,淫行の者と交わるのをやめるようにとあなたがたに書き送りましたが,それは,この世の淫行の者,あるいは貪欲な者やゆすり取る者,また偶像を礼拝する者たちと全く交わらないようにという意味ではありません。もしそうだとすると,あなたがたは実際には世から出なければならないことになります」。(コリント第一 5:9,10)間違ったことを行なう友人や仕事仲間がいるかもしれません。むろん,そうした人たちとの接触を完全に絶つことは不可能です。しかし,いっしょになって悪行を行なったり,その人たちの仲間になって絶えず親しく付き合ったりはしないのです。正しいことを行なっているクリスチャンとの良い交わりこそ求めてゆくべき交わりであり,そうした交わりはあなたを強めるでしょう。―ヘブライ 13:7。
27 これらの事柄を行なったなら,この道にしっかりとどまってください。神を信頼し,神がその義の新しい事物の体制で不公正,犯罪,悲惨な事柄を全くぬぐい去るのを待ってください。―イザヤ 32:1,16-18。
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環境が悪いと犯罪が起きやすい
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イエス・キリストの支配下における健全な環境は,良い振る舞いを促進する
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病気と死は無くなる人生には確かに目的がある
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15章
病気と死は無くなる
1 人々は,死に対する恐れからしばしばどんなことをしましたか。
人類にとって悲しみと苦しみの原因は多々ありますが,病気と死はその最たるものです。死を恐れるだけで,人は一種の束縛状態に陥り,命が脅かされたために良心に反する行為をした人は少なくありません。例えば,ナチの支配下である人々は脅迫されて自分の友人を裏切りました。(ヘブライ 2:15)これらの敵,すなわち病気や死が取り除かれるなら,人類はどんなにか大きな解放感を味わうことでしょう。―コリント第一 15:26。
2,3 (イ)死が除かれることにより,他のどんな望ましくない事柄も除去されますか。(ロ)死を滅ぼすという神の約束によって,現在わたしたちは何から解放されますか。
2 創造者のみが,そうした悲しむべき状態から人々を助け出すことができます。創造者はそうすると約束しておられるだけでなく,イエス・キリストと仲間の王また祭司による「新しい天」の支配の下で死を完全かつ永久的に取り除く基礎を据えられました。神は人類に,その『目からすべての涙をぬぐい去り,もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない』ことを約束しておられます。そして,わたしたちに信仰と確信を得させるため,「これらのことばは信頼できる真実なものだからである」と言い添えておられます。(啓示 21:4,5)病気と死が取り除かれるとともに,しわや白髪などの老化現象もなくなります。
3 神のこの約束を知り,それを信じるなら,死に伴う悲しみは大いに減少します。『希望を持たないほかの人びとのように悲しむことはありません』― テサロニケ第一 4:13。
新しい希望ではない
4 死が滅ぼされるという希望は新しい希望ではない,とどうして言えますか。
4 この希望は新しいものではありません。幾千年も昔に神に仕えた男女は,彼らを慰め力付けたその希望を持っていたのです。自分たちが死ぬことを知ってはいましたが,よみがえらされて永遠の命を得る機会を与えられるという信仰を神に対して抱いていました。それら忠実な人々の中には,預言者たちを通して,またイエスや使徒たちを通して神が行なわれた復活を実際に目撃した人々もいました。むろん,復活した人々はやがて死にました。しかし,当時の神の僕たちは,メシアによる王国の下における「勝った復活」を待ち望んでいました。その王国のもとでは,故意に不従順にならない限り再び死ぬ必要はないのです。―ヘブライ 11:16,35。
5 アブラハム,ヨブ,ダニエルは死ぬ時に,永久に死んだままでいないと確信していたというどんな証拠がありますか。
5 アブラハムは復活に対する信仰を際立った仕方で表わしました。(ヘブライ 11:17-19)忠実で忍耐力のあったヨブは,シェオールつまり墓に居ることや,ご予定の時に神に思い出していただくことについて述べました。(ヨブ 14:13)また,預言者ダニエルが,「終わりの時」に成就することになっていた長期間にわたる預言の意味を尋ねた時,神のみ使いはダニエルにこう告げました。「あなたは休みに入る。しかし,日々の終わりに自分の分のために立つことになる」― ダニエル 12:8,9,13,新。
だれが地的な復活を受けるか
6 (イ)大別してどんな二つのグループの人々が地的な復活を受けますか。(ロ)生前に神の僕だった人は,復活の際にどんな態度を示しますか。
6 死からの復活は,死んだ人を復帰させる神の目的の第一段階に過ぎません。死者は,現在の邪悪な事物の体制が滅びた後に墓から出て来て,「大患難」の生存者で成る「大群衆」によって迎え入れられます。復活して地上で再び生きる人々は次の二つのグループに分けられます。(1)過去において神への忠実さを証明した人々で,その中にはヘブライ 11章に出ている人々が含まれる。(2)死ぬ前は神の僕でなかった人々。「義者と不義者との復活がある」,と使徒パウロは述べました。(使徒 24:15)最初のグループの人々は,キリストの犠牲を通して命を得させる神のご準備について学んだり,それを捕らえたりするのに問題がありません。それらの人々はその時に定められている律法に喜んで服するでしょう。そうした忠実な人々は,墓にいる今でさえ,神から「生きている者」とみなされています。神が必ず復活させるからです。―ルカ 20:37,38。
7 復活した人で,かつて神に仕えなかった人にはどんなことがなされましたか。
7 かつて神に仕えなかった人々は,よみがえらされた後,真の神エホバと,イエス・キリストを通して与えられる神の親切な備えについて学ばねばなりません。大患難を生き残る「大群衆」はその人たちを教える責任があります。(ローマ 10:14)良いたよりはそれら復活する人々に明らかにされねばなりません。なぜなら神はこう言明しておられるからです。『天にあるもの,地にあるもの,地の下[墓]にあるもののすべてのひざがイエスの名においてかがみ,すべての舌が,イエス・キリストは主であると公に認めて,父なる神に栄光を帰します』― フィリピ 2:10,11。
8 復活した人は過去の行ないに基づいて裁かれますか。それとも何に基づいて裁かれますか。
8 復活した人はその時に施行されている律法に従うことが求められ,「それらの巻き物に書かれている事がらにより,その行ないにしたがって」裁かれます。(啓示 20:12)その「巻き物」は,一千年の期間に神から与えられる,人類に対する神のご意志に関する啓示を表わしているものと思われます。
直ちに完全になるのではない
9 その時「大群衆」はどんな状態にありますか。
9 「大群衆」を構成する人々は,「大患難」が過ぎ去った後直ちに完全にされるのではありません。信仰と従順さゆえに現在の事物の体制の滅びを生き残り,「新しい地」の「基」となるのです。(啓示 7:14-17。イザヤ 51:16と比べてください。)ですから,それらの人々は明らかにそのまま忠実な歩みを続け,「巻き物」に書かれている事柄に従う際に,完全さへ向かって急速に進歩するでしょう。―詩 37:30,31。
10 「大群衆」の成員と復活した人々のある人々が持つ身体的な重い障害はどうなりますか。
10 では,その「大群衆」を構成する人々のうち,心臓疾患,まひ状態,盲目,手足がないなど重い障害のある人々はどうなりますか。それらの障害は早い時期にいやされると考えるのは妥当です。地上におられた時,イエスはそのようないやしを例示されました。その場で,なえた手や腕をいやしたり,まひした脚を強めたり,視力を回復させたりしたのです。障害のあった箇所が少しずつ回復したのではありません。(ルカ 6:8-10。ヨハネ 5:5-9)同様に,復活する人も当然障害のない体でよみがえります。聖書の中で復活したことが記録されている人たちのいずれの場合もそうでした。(ルカ 8:54,55)例えば,ラザロは腐りかけていましたが,その部分は元通りにされて墓から出て来ました。(ヨハネ 11:39-44)昔,故国に復帰させようと考えていたご自分の民に向かって,神は次のような約束をなさいました。「居留者はだれも,『わたしは病気だ』と言う者はいない。その土地に住んでいる民は自分の誤りを赦された者たちである」。まだ完全になっていなくても,人々は生活の正常な営みができるのです。―イザヤ 33:24,新。
どのように完全になるか
11 (イ)どのようにして完全さに達しますか。(ロ)身体的ないやしに先立って,霊的な変化がなされねばならないのはなぜですか。
11 しかしながら,個々の人がキリストに対する信仰に基づいて,「新しい人格を着ける」面で霊的に進歩して初めて,体も申し分なく完全になることは明らかです。重い身体的障害をいやされた人でも,正しい事柄を行なう時,徐々に完全さに近づきます。キリストの贖いの犠牲によるいやしのための神の備えを定期的に取り入れます。(啓示 22:2)キリストは憐れみをもって,その人のすべての不完全さを取り除いてくださいます。そうした霊的な変化がまずなされねばなりません。罪は死の原因であり,人の人格から罪が完全に除去されない限り,その人は身体的に完全になれないからです。聖書は一貫して病気と罪を結び付けています。―ルカ 5:18-25。コリント第一 15:56。ローマ 6:23。
12 神の僕各人は人格を作り直す面で現在どんな戦いをしていますか。それはなぜですか。
12 神に十分に喜ばれる者となるため,人格を変化しようと努める人が今行なっている「戦い」を,使徒パウロは次のように描写しています。「自分の願うところ,それをわたしは実践せず,かえって自分の憎むところ,それを行なっているのです。……自分の願う良い事がらは行なわず,自分の願わない悪い事がら,それが自分の常に行なうところとなっているのです。……それを生み出しているのはもはやわたしではなく,わたしのうちに宿る罪です」。(ローマ 7:15-20)遺伝によって人類はすべて「誤りをもって」,罪のうちに生み出されて来ました。(詩 51:5)さらに,すべての人は,環境の悪影響を受けて,生涯中にその罪を増し加えています。
13 人は,(イ)環境から“拾った”悪い傾向,それに(ロ)受け継いだ悪い傾向をどうすることができますか。
13 今日でさえ,人は,神のみ言葉や神の霊,また神の僕たちとの交わりの助けを得て,環境から“拾った”悪いものを真に取り除くことができます。しかし,身体的にも精神的にもその人の一部となっている,遺伝的な作りが原因となっている場合は話が違います。なるほど,そうした欠点を克服しようとしてかなり成功を収めることはできます。なぜなら,使徒たちは,わたしたちが「思いを作り直し」,「新しい人格を着け」,『霊の実を結び』,「正しい良心を保ち」,『いつもりっぱに行動する』ことができると述べているからです。(ローマ 12:2。エフェソス 4:24。ガラテア 5:22,23。ペテロ第一 3:16; 2:12)しかし,受け継いだ悪い傾向をそうした努力だけで完全にぬぐい去ることはできません。使徒は自分の状態をこう語っています。「わたしはなんと惨めな人間でしょう。こうして死につつある体からだれがわたしを救い出してくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通してただ神に感謝すべきです! こうして,わたし自身は,思いでは神の律法の奴隷ですが,肉においては罪の律法の奴隷なのです」― ローマ 7:24,25。
14 (イ)クリスチャンが,受け継いだ弱さのために罪を犯した時,引き続き神の恵みを受けるには何をすることができますか。(ロ)罪や苦悩の原因である受け継いだ弱さのすべてから,人は最終的にどのように解放されますか。
14 イエス・キリストと,イエスがわたしたちの過ちのために命を犠牲にしてくださったこととに対する信仰により,今日,クリスチャンは罪の許しを得られます。そして,クリスチャンは,許しを求める祈りをささげるならば,その祈りにふさわしく,正しい方向に自分を合わせるよう最善を尽くさねばなりません。悪い性向に対する戦いにおいて,決して手をゆるめることはできません。しかも,神の霊の助けがあれば,それが負け戦になる必要はないのです。その人は清い良心を持つことができます。(ローマ 8:2,11-13。ヘブライ 9:14)しかし,新しい事物の体制では,キリストがご自分の犠牲の益を十分に及ぼすので,受け継いだ弱さ,先祖から受けた遺伝的な“誤った情報”は正されます。人はあらゆる点でいやされるのです。何と大きな安らぎなのでしょう。自分が心の中で行ないたいと願っている良い事柄をいつもその通りに行なえるとは,何とすばらしい救いなのでしょう。確かに,イエス・キリストを通して神に感謝できます。
15 (イ)常に正しいことを行なうのがもはや戦いでなくなるのはいつのことですか。(ロ)使徒パウロはテモテ第一 1章8,9節でその点をどのように強調していますか。(ハ)正しい人は,殺人,盗みその他を禁ずる法典を必要としないという点で,イエスはどのように良い例でしたか。
15 こうして,キリストの千年統治の間,各人の罪深い傾向は次第に弱まっていきます。人は正しい事柄をますます行なうようになります。そして完全さに到達すると,もはや,正しいことを行なう戦いをしなくてもよくなります。正しいことをするのが自然なことになるのです。人は,盗んだり,不道徳を行なったり,他の人を憎んだり中傷したりする傾向を全く持ちません。使徒パウロは,そうした事柄を禁じているモーセの律法について次のように述べました。「しかしわたしたちは,次の点を知って適法に扱うかぎり,律法が優れたものであることを知っています。すなわち,律法は,義にかなった人のためにではなく,不法な者や無規律な者,不敬虔な者や罪人……のために公布されているのです」。(テモテ第一 1:8,9,11)完全な人は,それらの邪悪な事柄を行なわないように警告する律法を必要としません。地上におられた時,イエスにとって正しいことをするのは自然なことでした。イエスは『義を愛し,不法を憎み』ました。(ヘブライ 1:9)良いことを行ない,悪を退けるという反応を心から即座に示されました。イエスがサタンから誘惑された時の記録や,神がイエスの前に置かれた行なうべき事柄をイエスにさせまいとしたペテロの間違いに関する記述を調べてください。―マタイ 4:1-11; 16:21-23。
復活した人を受け入れる
16 (イ)復活した人は自分自身や友人をそれと認められますか。(ロ)人を地上に復活させる神の目的は何ですか。(ハ)復活した人は過去の行ないによって裁かれませんが,過去の行為は復活後の生活に影響を与えますか。
16 復活する人について言えば,神は,生前と全く同じ生命の型,人格,記憶を付与して,各人を正確に「再創造」されます。復活した人は自分が同一人物であるということが分かります。また,生前その人を知っていた人たちも,外見や特徴からその人だということが分かります。その人は,その時,生前に表わしていたのと同様の動機や傾向や特徴を持ち,死んで中断していた生命の営みを再び始められます。しかし,かつての罪や過ちが問い正されることはありません。というのは,人を地上によみがえらせる神の目的は,キリストの犠牲の益にあずかって,罪から解放される機会をその人に与えることにあるからです。とはいえ,人が生前に行なったことは,悪いことであれば,その人の人格に悪い影響を及ぼしているはずですから,そうした悪い特徴を克服しなければならないでしょう。過去の生き方が不義なものであればあるほど,その人は一層大きな変化をしなければなりません。中には変化する機会を利用しない人もいるかもしれません。―イザヤ 26:10。
17 遠い昔に死んだ人の場合,死んでから復活するまで長い時間が経過したように感じますか。
17 死とは無の状態ですから,復活した人にとって,死んでいた期間はほんのつかの間のように思えることでしょう。聖書の中で死は深い眠りに例えられています。(ヨハネ 11:11-14。テサロニケ第一 4:13,14。伝道 9:5,10)幾千年も一日もほんのひと時のように思えます。復活した人にとって,それは,現在の邪悪な事物の体制から戸口をくぐって,秩序のある正義の新しい事物の体制へ歩いて行くようなものです。
18 (イ)復活した人は何を学ばねばなりませんか。(ロ)復活した人が全く見知らぬ世界によみがえるとか,意思を通じ合わせられないといった経験をすることは,当然ながらどうしてありませんか。
18 むろん,昔に死んだ人は地上の様子があまりにも違うので驚くことでしょう。死んでいた間に神が行なわれた事柄,特に,贖いの犠牲としてみ子をお与えになったことを,「大群衆」の成員から教えてもらわねばなりません。また,キリストの王国の支配のお陰で良い状態になったことも学びます。神の愛ある親切を思えば,聖書に記録されている復活の場合がそうであったように,家族や友人が死んだ愛する人を再び迎えることができると考えるのは当を得たことでしょう。(ルカ 7:12-15; 8:49-56。ヘブライ 11:35)その後,復活を受けた人は,ある期間訓練を受け,今度は,続いて死の状態からよみがえらされる愛する者を迎えて援助することができます。こうして,すべての人は,全く見知らぬ世界に復活するのでなく,“意思の交流のとぎれ”のない,温かな交わりに迎え入れられるのです。このことは,贖われた死者すべてが復活するまで続きます。それは何と喜ばしい時となることでしょう。
神は「だれに対してもすべてのものとなる」
19 キリストの千年統治によって完全になっても,地上に住む人々が永遠の命を与えられるのはいつですか。
19 一千年の終わりに,罪とその結果である死の最後の名残は全く消えうせてしまいます。(コリント第一 15:26)しかし,その時地上にいるすべての人が完全になるということは,その人たちが決して罪を犯さないという意味ですか。そうではありません。なぜなら,聖書が示すところによれば,完全な状態に達した人は,サタン悪魔による最終的な攻撃を受けて忠実さを証明するまで,永遠の命を保証されていないからです。キリストの王国と祭司職が回復の業を完成し終えた時,キリストは王国を神に返し,人間と神との関係は再び,アダムが神との間に持っていたような関係になります。事態は,人類史の初めのそれに戻り,各人の最終的,永遠の運命は神によってのみ決定されます。神はサタンとその悪霊の大群による攻撃を許されます。
20 千年の終わりに,地上の完全な住民にどんな試みが臨みますか。
20 啓示 20章7節から10節は地上の住民にどんな試みが臨むかを次のように描写しています。「さて,千年が終わると,サタンはすぐその獄[一千年が始まる直前にサタンが入れられた底知れぬ深み]から解き放される。彼は出て行って,地の四隅の諸国民,ゴグとマゴグを惑わし,彼らを戦争のために集めるであろう。それらの者の数は海の砂[はっきり述べられていないので,人間が確定できない数]のようである。そして,彼らは地いっぱいに広がって進み,聖なる者たちの宿営と愛されている都市を取り囲んだ。しかし,天から火が下って彼らを焼き尽くした。そして,彼らを惑わしていた悪魔は火といおうとの湖に投げ込まれた。そこは野獣と偽預言者の両方がすでにいるところであった。そして彼らは昼も夜もかぎりなく永久に責め苦に遭うのである」。―啓示 20章1節から3節と比較してください。
21 (イ)どんな論争が再び提起されますか。(ロ)それはどんな結果になりますか。
21 この預言によると,その時地上にいる人間のうちある者たちは,集団で地上の忠実な人々を攻撃することが分かります。その者たちはサタンと悪霊に唆されてそうするのです。完全な人間がなぜそのようなことをするのですか。アダムとエバが行なったように,独立を求めて神から離れるのです。そして,今こそそうする機会だと信じます。こうしてサタンは,最初に提起した大論争,つまり,神の支配権の正当性に関する論争で勝利を得るため“最後の抵抗”をします。しかし,サタンは敗北します。人類の大多数を成しているに違いない忠実な者たちは確固とした立場を取るからです。次いでサタンと彼に従う者たちは「火の湖」に投げ込まれます。それは「第二の死」であり,そこにおいてその者たちは永久に“苦しみ<トーメント>”に遭います(昔,牢番のことを英語でトーメンターと言った。[マタイ 18:34,欽定訳聖書(英文)])。彼らは無の状態に永遠に“閉じ込められ”るのです。
22 (イ)最終的な試みを受けて忠実を保つ人が,地上で永遠に生きるのを,神はどのように間違いなく保証できますか。(ロ)神がある人のことを完全に知っておられ,その人が決して罪を犯さないと確信することがおできになるというどんな例がありますか。
22 神の支配権もしくは主権を擁護して忠実に堅く立った人々は,その時永遠の命を保証されます。『生き返る』,すなわち,保証された真の命を得るのです。(啓示 20:4-6)こうして神は『だれに対してもすべてのものとなり』ます。(コリント第一 15:28)ところで,神は,忠実な人々が永遠に生きるのをどうして間違いなく保証できますか。なぜなら,神は,ご自分を愛し,ご自分から決して離れない人々がだれかを完全に知っておられるからです。神にそうした能力のあることは,イエス・キリストの場合に示されました。神はみ子を十分知り尽くしておられたので,キリストがあらゆる試みを受けても忠実であることを予告できました。神はご自分の預言者たちに,キリストが非常な苦難のもとでも神に従順を保って行なう事柄の詳細な点を数多く前もって書き記させることさえされました。―イザヤ 53:7,11。詩 40:7-10; 45:7。
地球に対する神の目的は成就する
23 地上のすべての人の福祉のために,才能や能力を用いる十分の機会が開かれて,生活はどのように楽しいものとなりますか。
23 ですから,時間はかかりますが,地球に対する神の目的は輝かしく成就することでしょう。地球は,神を賛美し,互いに愛を示し合う人間で満ちる,壮大なパラダイスになるのです。しかし,地球上が人口過剰になることはありませんか。いいえ,そのようなことはありません。神は,どれほどの人口なら人々が地上で快適に住めるかを確かにご存じです。ですから,神は美しい景色や,行楽地のために,山や海,それに野生生物の住みかを広々と残しておくことがおできになるのです。また,今日大都市に見られるような過密状態がないように物事を調整されるでしょう。すべての人が一致していて,生活は楽しいものとなります。それでも,賜物すなわち才能や技能,および個性は人によって様々ですから,人々と交わって得られる楽しみや益には際限がありません。多くの活動分野は,永続的で真の目的を持つ,興味深い研究や調査や事業の対象となり,永続する真の目的を持つものとなります。人はそれぞれ,自分の才能や能力を公共の福祉のために用いることができ,しかも,そうする体力と時間があるのです。―イザヤ 40章29節から31節と,伝道の書 5章18節から20節で述べられている原則を比較してください。
24 (イ)その時,人間と動物の関係はどうなりますか。(ロ)大きな事故は起きますか。
24 神は男と女を創造した時,二人に地を従えて動物を治めるように命じました。(創世 1:28)地球は人間への贈物として,つまり人間の住みかとして造られました。(詩 115:16)したがって,人間は将来,動物を正しく愛をもって治めつつ,地球を管理する方法を知っているはずです。また,動物は人間の友となり,人間の支配を本能的に敬うでしょう。神は,古代のイスラエル人をバビロンの捕らわれから復帰させた時に,そのことを実際に示されました。(ホセア 2:18)十分の機能を備え,あらゆる感覚が鋭敏なので,人間が大きな事故を起こすことはないでしょう。自然の環境の中にいる種々の動物をご覧になってください。コウモリは,“電波探知機”を持っていて,ピアノ線のような細い障害物にすら決してぶつからずに暗やみを飛びます。鳥は大枝や小枝に見事に降ります。コウモリも鳥も生きるのに必要な十分の機能を備えていて,生きるのを楽しんでいます。それでは,動物より優れている人間が,置かれている環境に全くくつろげると保証されているのはもっともなことです。
25 その時,生活が退屈だったり,単調だったりすることがないのはなぜですか。
25 その時,労働は楽しいものになります。罪を犯した後にアダムが宣告されたように,「顔に汗して」パンを食べる必要はありません。(創世 3:19,新)人間は自分の持つあらゆる機能を使って,やりがいがあり目的のある仕事に従事し続けます。律法に従順だった時の古代イスラエル人の場合に予影されていたように,新しい人と知り合いになる時間も,非常に親しい人々と交わる時間も十分にあります。ですから,世界中には,変わることのない友情を示してくれる友人がいるのです。このことは,人類を非常に深く愛しておられる方,つまりエホバ神とそのみ子,イエス・キリストを友とすることによって可能となります。―ヨハネ 15:14。
[168ページの図版]
地上におられた時,イエス・キリストは死者を実際によみがえらせた
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あなたは報いを確信できます人生には確かに目的がある
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16章
あなたは報いを確信できます
1 わたしたちは自分が現在地上に存在していることをだれに感謝できますか。
命は神からの賜物です。神がその寛大さゆえに最初の男女を創造されなかったら,だれ一人この世に生を享けられなかったことでしょう。(啓示 4:11)わたしたちは罪深い者ですから,神がわたしたちの歩み方を辛抱強く“がまん”してくださらないなら,わたしたちはここに生きていないことでしょう。「あなたの見守るものが誤りであったなら,ああヤハよ,ああエホバ,だれが立ち得るでしょうか」,と詩篇作者は書いています。―詩 130:3,新。
2 命は無償の賜物ですが,生き続けることは何に依存していますか。
2 命は確かに無償の賜物です。しかも,人類が生き続けることは神のご意志なのです。(テモテ第一 2:3,4)神は人類に,単なる命ではなく,目的のある命をお与えになりました。しかし,神はご自分の敵に永遠の命を与えることはありません。なぜなら,それらの者たちは地上に混乱を引き起こし,他の人々を害するだけだからです。したがって,永遠の命を得ることは,神に対してわたしたちが信仰を持っているかどうかに依存しています。そのことは,実際には,わたしたちが神の友にならなければならないことを意味します。「信仰がなければ,神をじゅうぶんに喜ばせることはできません。神に近づく者は,神がおられること,また,ご自分をせつに求める者に報いてくださることを信じなければならないからです」― ヘブライ 11:6。
3 聖書を学ぶ主な目的は何ですか。
3 ですから,わたしたちは信仰によって神の友情を得るのです。そしてその友情は報いを意味しています。あなたは,今行なっている聖書研究を通して,実際には神を尋ね求めているのです。つまり,神を知り,神を喜ばせ,神の友となることを求めているのです。したがって,神について学べば学ぶほど,あなたの信仰は一層強いものになり,より確かな裏付けを持つものになります。―ペテロ第二 1:5-8。
4 み言葉を学んで神を誠実に尋ね求めているなら,何を確信できますか。
4 「友人知己の多くは神の目的が分からないのに,どうして自分だけがそれについて理解できたのだろう」,と思う人もあるでしょう。神は,大勢の人の中から,あなたにその目的を学ばせるのを良しとされたのですから,それは確かに喜ぶべきことです。神はご自分の望む者を引き寄せます。しかし,気まぐれに,また十分の理由もなくそうされるのではありません。わたしたちは,神が見ておられるものすべてを見ることができません。イエスが指摘したとおり,神は,ご自分を誠実な気持ちで知ろうとする思いを持つ人々にその秘密を明らかにされます。(マタイ 13:10-15)また,人が良いたよりを知ってそれを理解するのにちょうどふさわしい状況になる時をご存じです。(使徒 8:25-36)神は友を正しく選ばれ,間違いをすることはありません。ですから,永遠の命を得る機会は確かにあなたに開かれているのです。―使徒 13:48。
5 誠実に神を尋ね求める人々に,神はどのような慈愛に満ちた認識を示されますか。
5 エホバ神は心をご覧になります。そして,推論する力を用いて誠実にみ言葉を調べる人々を祝福されます。たとえごくわずかでも自分に奉仕する人々を評価し,その人々に恵みを示して,ご自分を知る機会をさらにお与えになります。―マタイ 10:40-42。
6 神がわたしたちのために開いてくださった神を知る機会を,過小評価したりあなどったりすべきでないのはなぜですか。
6 とはいえ,使徒パウロは次のように警告しています。「彼とともに働きつつ,わたしたちはまたあなたがたに懇願します。神の過分のご親切を受けながらその目的を逸することがないようにしてください」。(コリント第二 6:1)神のご親切を感謝し,神との永続する真の関係を進んで築くかどうかは,神から親切を示された人次第です。(コリント第二 6:2)神の好意を受けながら,それに背を向けて,すばらしい報いを得損なう人は何と哀れなのでしょう。―箴 4:5-9。
現在の生活における個人の目標
7 (イ)これまで学んだことから,どんな結論が出ますか。(ロ)神のご意志を無視して人生の目的を追求するならどんなことが起きますか。
7 神の目的に関してここまでそのみ言葉を調べてきて,あなた自身の生活にも確かに目的があるということがはっきりしてきたかもしれません。神のご意志はわたしたちが自分の生活を神の目的に一致させることです。神の知恵と導きのみがわたしたちを幸福な望ましい目標に到達させ得るからです。男性女性を問わず,良い意図を持ってある目的を達成しようとする人はいます。しかも,その目的がしばらくの間成功しているように見えることがあります。しかし,もしそれが神の導きを無視したものであるなら,その目的はただざ折に終わってしまうでしょう。そのような人は実際のところ,神の残りの創造物と調和しないのです。
8,9 目的を持たずに生活する人はどんな結果になりますか。
8 使徒パウロは,神の道を追い求めることをわたしたちの目的とする理由を若者であったテモテにこう書き送りました。「大きな家には,金や銀の器[容器]だけでなく,木や土の器もあり,あるものは誉れある目的のため,あるものは誉れのない目的のために用いられます。そこで,これらあとのものから離れているなら,その人は誉れある目的のための器,神聖にされたもの,持ち主[エホバ神はみ子の犠牲を通して全人類を買われた]に有用なもの,あらゆる良い業のために備えのできたものとなります」― テモテ第二 2:20,21。
9 ところが,人生に目的がないと,今の世にあって人は容易に悪い影響の犠牲になり,「人間のたばかりや誤らせようとたくらむ巧妙さによって,波によるように振りまわされたり,あらゆる教えの風にあちこちと運ばれたり」します。(エフェソス 4:14)そうした人は,誉れのない目的のために用いられる器になります。
バプテスマは重要な,しかし踏まねばならない段階
10 人はいつバプテスマを受けるべきですか。
10 神のご意志を学んでそれを確認し,永遠に神のご意志を行なうためにキリストを通して献身したなら,水のバプテスマを受けられます。バプテスマは非常に重要な段階です。それで,あなたは自分が本当にバプテスマを受ける気持ちがあることを確信していなければなりません。それによってあなたはイエスの模範に見習い,その命令に従っていることになるのです。バプテスマは,人がイエス・キリストの追随者になるために受けなければならないものです。(ヘブライ 10:7。マタイ 3:13-15; 28:19,20)バプテスマを受けることによって,あなたの人生の目的が,教えられる神のご意志と目的どおり十分に神に仕えることであることを公に宣言するのです。自分自身で決定してください。だれかから“圧力”をかけられたからとか,だれかほかの人がバプテスマを受けるからとかいうだけでバプテスマを受けるべきではありません。
11 バプテスマを受けて間もない人は,もうこれ以上助言や援助を必要としないと考えるべきですか。なぜですか。
11 ところで,献身を象徴するバプテスマはクリスチャンの道のほんの初まりにすぎません。この世での教育や立場のいかんを問わず,あなたは,聖書的に見れば霊的な“赤子”です。あなたが学び続け,神に仕える人々から引き続き援助を受けることは絶対に必要です。(コリント第一 14:20)また,クリスチャンの会衆と定期的に交わることが必要です。自分勝手に歩もうとしてはなりません。―ヘブライ 10:24,25。
12 長く“真理に入っている”というだけで,人が円熟したクリスチャンであると言えますか。なぜですか。
12 “真理に入っている”年数だけで人の霊性を計ることはできません。円熟を示す実を生むには,聖書の原則を研究し,それを適用し続けることも必要です。(ヘブライ 5:14。ローマ 12:1,2)使徒パウロは,初期のヘブライ人のクリスチャンたちにその点を明らかにしてこう語りました。「実際あなたがたは,時間の点から見れば教える者となっているべきなのに,神の神聖な宣言の基礎的な事がらを,もう一度だれかに初めから教えてもらうことが必要です。そして,固い食物ではなく,乳を必要とするような者となっています」。パウロは次いで,「円熟に向かって進んでゆきましょう」と諭しました。―ヘブライ 5:12; 6:1。
報いを期待することは利己的でない
13 報いを期待しながら神に仕えるのは利己的ですか。説明しなさい。
13 イエス・キリストの追随者として人生の目的を追い求める際に,神への忠実さゆえに自分に報いを与えてくださるよう神に期待するのは,極めてふさわしいことであり,利己的なことではありません。(コロサイ 3:24)エホバは,ご自分を愛する人々に報いを与える神であり,そのことをわたしたちに知ってほしいと願っておられます。この世の多くの人々は,愛や忠節心から何かをしてくれる人に感謝の気持ちや思いやりを示しませんが,エホバはそのような方ではありません。認識や忠節心がなく,仕える者に報いを与えない神は崇拝に値しません。しかし,エホバ神は忠節であり,心が暖かく,ご自分の友に近づきます。(エレミヤ 3:12)たとえ大きな過ちをしたとしても,祈りの中で神の許しを懇願してください。(ヨハネ第一 1:9; 2:1,2。ルカ 18:1-8)仲間のクリスチャンの助けを求めてください。(ヤコブ 5:16-18)神への信仰を堅く守るなら,神は「決してあなたを離れず,決してあなたを見捨て」ません。―ヘブライ 13:5,6。
14 たとえ全力を尽くして神に仕えるようになっても,わたしたちはどんな態度を取るべきですか。
14 とはいえ,わたしたちとしては,神に“恩恵を施して”いるとか,神に仕えて命を報酬として受けるとか考えるべきではない,とイエスは言われました。ご自分の弟子たちにこう語られました。「自分に割り当てられた事を全部したときには,『わたしたちはなんの役にもたたない奴隷です。わたしたちのしたことは,当然すべきことでした』と言いなさい」。(ルカ 17:10)それでもなお,神はわたしたちを愛してくださり,わたしたちの努力が神にとって無価値であるとは感じられないのです。
15 忠実さは現在および将来にどんな報いをもたらしますか。
15 ですから,わたしたちの想像をはるかに超える,期待すべき大きな報いがあります。神への忠実を保ち続けるなら,まず第一に,今,目的のあるより良い生活ができます。(テモテ第一 4:8)次に,「新しい地」の「基礎」の一部となる見込みがあります。地球を楽園にする「土台」の一部になるのは確かに大きな喜びです。そればかりでなく,よみがえらされる人々を迎えて,それらの人の教育,援助,訓練に携わるのは実にすばらしいことです。前途の命には優れた目的があります。
16 現在神に仕えることはなぜ非常にすばらしい特権ですか。
16 しかし,今神に仕える絶好の機会を軽視しないでください。なぜなら,今は,神の備えを知らない人々からなる世界の中にあって,宇宙支配の論争で人々が神の側に立つ機会を得る最後の時だからです。さらに,今は,反対されている状態のもとでそのような人々に良いたよりを宣明する最後の機会なのです。あなたが神への忠節を証明する何と良い方法なのでしょう。(マタイ 24:14)そうすることは最大の報いをもたらします。今こそ,「生ける神の会衆であり,真理の柱また支え」である「神の家の者たち」とともに働いて,王国の良いたよりを他の人々に宣べ伝え,分かち合うチャンスです。―テモテ第一 3:15。
反対に遭っても動揺してはならない
17 なぜ反対を予期できますか。それをどのようにみなすべきですか。
17 あなたは,神がご自身とご自分の目的に関する真理を“託した”その会衆と交わることができます。しかし,神のみ言葉の真理を生活の中で生かし,真理を語ろうとする時,反対に直面しても驚いたり動揺したりしてはなりません。使徒ペテロは次のような慰めとなる言葉を述べています。「愛する者たちよ,あなたがたの間の燃えさかる火は,試練としてあなたがたに起きているのであり,何か異常なことが身に降りかかっているかのように当惑してはなりません。かえって,キリストの苦しみにあずかる者となっていることを喜びとしてゆきなさい。それは,彼の栄光の表わし示される時にも,あなたがたが喜び,また喜びにあふれるためです。キリストの名のために非難されるなら,あなたがたは幸いです。栄光の霊,すなわち神の霊があなたがたの上にとどまっているからです」― ペテロ第一 4:12-14。
18 (イ)どうすれば,自分に反対する人々に一層同情心を示せますか。(ロ)自分に反対する人々を全く「邪悪だ」と考えるべきですか。(ハ)たとえ厳しく扱われても,あなたはどう反応すべきですか。
18 反対に直面した時にするとよいのは,自分のかつての状態,神の目的を知る以前の生活や態度を振り返ることです。そうすれば,反対する人々を思いやって,その人たちに同情することができます。かつて,神の道に無知だった時,あなたもその人たちが現在行なっている過った事をたくさん行なっていたことに気付くかもしれません。神に対して,また聖書やエホバの証人になっている人々に対して悪い態度を示してさえいたかもしれません。(コロサイ 3章5節から7節を比較してください。)その時の自分の気持ちを振り返ってみると,耳を傾けないからといって,それらの人々が全く「邪悪だ」と思わずに済みます。あなたはその人たちをとがめたり,見込みがないとあきらめたりはしないでしょう。あなたの信仰がだれかから厳しく挑戦されたなら,あなたは,『あなたがたのうちにある希望の理由を問う人のだれにも,その前で弁明できるよう常に備えをし,柔和な気持ちと深い敬意をもってそうするようにします』― ペテロ第一 3:15。
「義に過ぎる」ことを避ける
19 (イ)どうして「義に過ぎる」というわなに陥ることがありますか。(ロ)神に仕えていない人々よりも自分は優れていると考えないで,むしろ何を認めまた行なうべきですか。
19 正しい生き方を知った人には,「義に過ぎる者」となる誘惑があります。そうした人には“完全主義者”になろうとする傾向があり,そのために他の人を批判したり,軽べつしたり,仲間を裁いたりするようになります。(伝道 7:16,新。マタイ 7:1,2)自分は,まだ真理を知らない人よりも幾分優れていると思うようになる場合もあります。しかし,キリストは全人類のために死なれたことを忘れてはなりません。あなたはその中の一人であり,キリストの助けがなければ,あなたも他の人と何ら変わらないのです。イエス・キリストはすべての人に同情を寄せておられます。イエスは,状況とか,サタンを神とするこの世の精神のために多くの人が悪い生き方を余儀なくされていることをご存じです。「闇が地を,濃い暗闇が国民を覆う」と預言的に述べられていましたが,今日それは確かに成就しています。(イザヤ 60:2,新)ですから,理解と思いやりを示し,非難したり,とがめたりするよりもむしろ助けることをわたしたちの目標とすることは大切です。―テサロニケ第一 2:7,8。
20,21 人は自分に身近な人々に対してどんな原則にのっとり,どのように振る舞うべきですか。
20 したがって,真理を知るようになった夫もしくは妻は,自分がより良い夫もしくは妻になることに重点を置くべきです。子供は,より良い,一層従順な子供にならねばなりません。そうすれば,口で言うよりもはるかに大きな影響を他の人に与えるでしょう。真理を受け入れた人はだれでも非常に熱心であるべきですが,未信者である配偶者や親族,あるいは友人に“無理強い”しようとするなら,実際には耳をそむかせる結果になることを知っておかねばなりません。自分には良いと思えない習慣や信条を持っていても,その人に“小言を言って”はなりません。むしろ,忍耐と,普通以上の親切を示してください。敵意を表わす人々に対してさえ,「へびのように用心深く,しかもはとのように純真」であって,愛の動機から可能な限りあらゆる方法を用いて他の人が真理を知るのを助けてください。(マタイ 10:16。コリント第一 9:20,23)あなたが夫であれ,妻であれ,あるいは子供であれ,ペテロ第一 3章1,2節に書かれている使徒ペテロの述べた次の原則に従ってください。
21 「同じように,妻たちよ,自分の夫に服しなさい。それは,みことばに従順でない者がいるとしても,ことばによらず,妻の行状によって,つまり,深い敬意のこもったあなたがたの貞潔な行状を実際に見て引き寄せられるためです」。
忠誠を守り,幸福な人でありなさい
22 (イ)聖書の原則を適用することに努力するなら,問題は必ず取り除かれますか。(ロ)物事が自分に都合良くいかなくても,どんな態度を避けるべきですか。
22 わたしたちはまだ神の新秩序にいないので,クリスチャンとして生活する際,物事が自分に都合良くいくとは限りません。聖書の原則を適用するように努力しても,問題が完全に解決して取り除かれるわけではありません。とはいえ,聖書の原則は問題に対処するのに大いに役立ち,また問題をより小さくするためにできるだけのことをするよう助けてくれます。ですから,困った事が起きても,不平家にならないでください。むしろ,幸福であってください。真理にあって歓喜してください。原因となっているのはアダムの罪と「この事物の体制の神」であるサタンの影響であって,神ではないことを自覚してください。―コリント第二 4:4。
23 神の民の会衆内に何か良くないことが起きた場合,それは,落胆したり,腹を立てたり,不平を言ったりする理由になりますか。
23 したがって,神の民には起こらないと自分が思っていた苦難や望ましくない事柄が起きたことに不平を言う代わりに,その機会を利用して,自分がキリストのように,忠誠を守る者であることを示してください。悪魔が非難したように,すべての人間が苦しくなると神から離れるわけではなく,人間は忠誠を守り得ることを実証してエホバのお名前を立証してください。
24 (イ)神に仕えることはどのように,生活に満足のゆく目的を与えてくれますか。(ロ)退屈さや単調さがなく,人生には永遠にわたって絶えず目的があることを期待できますか。
24 人生には確かに報いを伴う目的があるのです。わたしたちが神をたたえ,隣人を助けるために自分の持つ「賜物」つまり能力を用いて,現在行なえるやりがいのある事柄がこんなにもあるのですから,生活には真の満足があります。つまり,わたしたちは人生のうちに自分の場を見いだすのです。しかも,神はわたしたちを用いる際に,わたしたちが普通の,生産的な生活をやめて,禁欲主義者になるとか狂信者のような者になることを求めてはおられません。むしろ,神は人生をより良いもの,永続的な価値のある事柄をもっと産み出すものにされます。そのうえ,わたしたちは神から成し遂げるべき新たな,興味深い事業を永遠にわたって与えられるので,人生は一層目的のあるものになり,退屈になることは決してありません。正に,使徒パウロがクリスチャンの仲間に書き送ったとおりです。「わたしの神は,キリスト・イエスにより,あなたがたの必要すべてを,その栄光における富に応じて十分に満たしてくださるでしょう」― フィリピ 4:19。詩 145:16。ローマ 8:38,39。
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