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人間 ― 何に動かされて行動するのか目ざめよ! 1980 | 7月8日
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人間 ― 何に動かされて行動するのか
人間は善悪二通りの行動を取ります。人間には善と悪が入り交じっています。的を射ていることも多々ありますが,的を外してしまうことも少なくありません。人間は矛盾しており,厳しい面と優しい面を兼ね備えています。なぜでしょうか。どうしてそうなるのでしょうか。実際,人間は何に動かされて行動するのでしょうか。人間のことを扱ったこの一連の記事は,その答えを探ります。
ある日,一人の人は部屋に入るなり,妻と四人の子供を射殺します。一方,別の人は自分の家族の世話をするために刻苦勉励の生活を送ります。なぜそんなことが起きるのでしょうか。
ある人は人類に奉仕するために生きるかと思えば,別の人は犯罪と暴力の生涯を送ります。人の苦難を和らげようと惜しみなく与える人もいれば,富をため込んで,苦痛や貧困を引き起こす人もいます。貧しい者に施しをする人もいれば,人が貧しいのは自業自得だ,という態度を取る人もいます。建てたり,創造したりすることから喜びを得る人がいる一方,無分別な蛮行から執ように喜びを得ようとする人もいます。異なった人がこれほど異なった行動をするのはなぜでしょうか。
さらに,同一人物でも非常に親切で,慈しみ深い時があるかと思うと,別の時には打って変わって厳しくなるのはなぜでしょうか。人類の益のために自分の知識とそれから得られる力を用いるような人が,今度は逆にその同じ知識を使って,婦女子を吹き飛ばすような爆弾を造ります。後になって後悔する人もいれば,何も感じない人もいます。この内面の矛盾,肉と霊とのこの戦い,一人の人間の内に内輪もめのようなこの状態が存在するのはなぜですか。それは受け継いだものでしょうか。環境によるのでしょうか。人間の内部に,満たされない必要があって,それが人々を悪行へと駆り立てているのでしょうか。もしそうした必要が満たされるなら,そのような人々は自分の行ないたいと思う善を行なえるようになるでしょうか。
パウロはこの内面の葛藤についてこう書いています。「私は自分のしていることを理解していません。自分のしたいと思うことはせずに,憎むところを行なうからです。私は自分の行ないたいと思う良い事柄を行なわず,行ないたくない悪を行なうのです。私の内なる存在は神の律法を喜んでいますが,私は自分の肉体に別の律法が働くのを見ます。それは私の思いが是認する法と闘うものです」― ローマ 7:15,19,22,23,「福音聖書」。
イエスの異父兄弟ヤコブは,人間の内なる矛盾についてこう書いています。「舌は,人類のだれもこれを従わせることができません。御しがたい,有害なものであって,死をもたらす毒で満ちています。わたしたちは舌でエホバを,すなわち父をたたえ,しかもその同じ舌で,『神に似た様で』存在している人間をのろいます。祝福とのろいが,同じ口から出て来るのです。わたしの兄弟たち,こうした事がこのようにして続いてゆくのは正しくありません」― ヤコブ 3:8-10。
「神に似た様で」存在するようになったと述べられていることに注目しましょう。これはどういう意味ですか。人間は何に動かされて行動するのか,という質問に答える鍵がそこにありますか。
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人間 ― その始まり目ざめよ! 1980 | 7月8日
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人間 ― その始まり
その始まりを知れば,人間の今ある姿を理解するのに役立ちます
最初の人間夫婦に関する聖書の記述は,論理的にも,科学的にも信じられるだけの根拠のあるものです。a その書物の第一章はこう述べています。「[神は]神にかたどってこれ[人]を創造された。男性と女性にこれを創造された」― 創世 1:27,新。
「神にかたどって」とはどういう意味ですか。最初の人間は身体的な特徴の点で,神に似ていたのですか。そうであれば,最初の人間やその子孫は,神に似せた彫像を作り得たはずです。しかし,それは不可能でした。そこでイザヤはこう尋ねています。「あなたがたは神をだれに例えることができるのか。どんな似た様をその傍らに置き得るのか」。イエスご自身,「だれもいまだ神を見た人はいない」と述べました。そこで,「神に似た様で」とはどういう意味か,という疑問が再び起こります。―イザヤ 40:18,新。ヨハネ 1:18。
ある男の子を見て,「お父さんそっくり」と言う場合でも,その子の外見は父親に似ていないことがあります。それでも,気質・個性・機械いじりの才・楽才・機敏さ・徳性など,外見以外の面では父親に似ています。父親に似た属性を持っているので,父親に似ていると言われるのです。
最初の人間夫婦が神に似た様に造られたというのも,この同じ意味においてです。両人には,神の属性のあるものが賦与されていました。これが人間と下等動物との間の途方もなく大きな隔たりを説明しています。神に似たこのような特質が備わっていたので,人間は動物を治めることができました。神は男と女の双方にこう言われました。「生んで,多くなって,地に満ち,それを従えよ。そして海の魚と天の飛ぶ生き物と地の上を動くあらゆる生き物を服従させよ」― 創世 1:28,新。
神は人間を男と女に造られました。異なるものとしてお造りになりましたか。明らかに異なっていました。肉体的な造りが異なり,精神的な造りが異なり,感情的な造りが異なっていました。男と女はこうした相違点があることを喜んでいます。そのような相異があるので,男と女は互いに補い合う者となっています。二人は補うものとなるよう造られました。(創世 2:18,20)男は,女とは異なる特定の一つの面で神にかたどって造られていました。それは頭の権においてです。(コリント第一 11:3,7)創造の際に賦与された神の属性を有しているという点では,男も女も共に神に似た様であると言えました。
最初の人間夫婦に植え込まれた神の特質にはどのようなものがあるでしょうか。その幾つかは目に見える創造物に明らかに表われています。ローマ 1章20節はこう述べています。『神の見えない特質……は,造られた物を通して認められるので,世界の創造以来明らかに見えるのです』。言葉も声も言語も用いずに,天と地の神の業は神の属性を反映させることによりその栄光を告げ知らせています。―詩 19:1-4。
確かに,知識と知恵は,地球とその上の動植物の内に読み取れます。そして,雷雨があると,神の力を感じるのではありませんか。その創造物に見られる無限の多様性は,神が産出的な働き手であられることを実証しています。それらは神が目的を持たれる至高の設計者であられることをも明らかにしています。公正という神の特質は次の点に示されています。神は特定の必要を持つものとして創造物を設計されました。そして公正さをもって,そうした必要を満たされました。神は公正の要求するところを満たすにとどまらず,愛をもって邪悪な者たちにさえご自分の恵みを注いでおられます。イエスはこの点を示して,こう語られました。「あなたがたの敵を愛しつづけ,あなたがたを迫害している者たちのために祈りつづけなさい。それはあなたがたが,天におられるあなたがたの父の子であることを示すためです。父は邪悪な者の上にも善良な者の上にもご自分の太陽を昇らせ,義なる者の上にも不義なる者の上にも雨を降らせてくださるのです」― マタイ 5:44,45。
最初の人間夫婦はこうした特質を備えていたか,さもなくばそうした特質を獲得する能力を有していました。この点で二人は神に似た様であったのです。しかし,歴史の示すところによると,人間はこうした特質をいつも示してきたわけではありません。そして今日でも示していません。何が起きたのでしょうか。人間はもはや神に似た様ではなくなってしまったのですか。
[脚注]
a 32ページの広告にも出ている,「進化と創造 ― 人間はどちらの結果ですか」と題する本をご覧ください。
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最初の人間に賦与された神の属性の幾つか
公正
「その道はみな公正」― 申命 32:4,新。
力
「主はその御力によって地を造られた方」― エレミヤ 10:12,新。
愛
「神は愛……です」― ヨハネ第一 4:8。
「神は世を深く愛してご自分の独り子を与え(たのです)」― ヨハネ 3:16。
知恵
「エホバ自ら知恵を与えてくださる」― 箴 2:6,新。
知識
「エホバは知識の神」― サムエル前 2:3,新。
目的
「エホバはすべてのものをご自分の目的のために造られた」― 箴 16:4,新。
業
「エホバよ,あなたの御業はなんと多いのでしょう!」―詩 104:24,新。
[4ページの図版]
父親にそっくり ― だが外見は異なる
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人間 ― 造られてからどうなったか目ざめよ! 1980 | 7月8日
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人間 ― 造られてからどうなったか
「神は人間を廉潔に造られたが,人は多くの計画を捜し出した」。「彼らは自分たちの方で滅びをもたらすことを行なった。彼らはその子供ではなく,欠陥は彼ら自身のもの」。―伝道 7:29; 申命 32:5,新。
遊園地には,湾曲した鏡を置いているところがあります。そうした鏡に映る物はゆがんで見えます。人々はその前に立ち,そこに映る姿を見て笑います。頭部は細長く見え,胴は短くずんぐりとし,両脚は実際の長さの三倍にも見えます。鏡に近づいたり,離れたりすると,ゆがみ方が変わります。それでも,映る像が実際の体つきと同じになることはありません。もしその恐ろしくゆがんだ姿が本当に自分を映し出したものであるとしたなら,わたしたちは望みを失って,泣き悲しむでしょう。しかし,それはすべて遊びであって,わたしたちはそこに立ち,ポーズを取り,鏡に映るこっけいな姿を見て笑います。その鏡には体全体が映っていますが,非常にゆがんでいます。
わたしたち自身の像で,釣り合いの取れていない像がほかにもあります。しかし,これは実像であり,決して笑い事ではありません。それは内奥の自己,自分の内面の人,「心の中の秘められた人」の像です。(ペテロ第一 3:4)この像はエホバ神の属性を表わすはずです。人間は当初,その方に似た様で創造されました。人間にはまだ神の属性が残っていますが,湾曲した鏡に映った体の像のように釣り合いが取れなくなっています。
エホバ神は最初の人間夫婦を造られた際,ご自分の属性,ないしはそれを培う能力を賦与してくださいました。目的を持ち,目標を目指して働くには,公正と愛,知識と知恵,そして力などの特質が必要とされました。最初の人間は人生に目的と意義を与える仕事を割り当てられていました。そして,その仕事を成し遂げるだけの能力を備えていました。(創世 1:28; 2:15,18)また,二人は自由意志を持っていたので,自分の好む道を選択できました。―ヨシュア 24:15。
アダムとエバは廉潔な者として創造され,命を意味する道を示されてはいましたが,『別の計画を捜し出し,自分たちの方で滅びをもたらすことを行ない,欠陥を持つようになった』のです。(伝道 7:29; 申命 32:5,新)二人は選択の自由を誤用しました。エバは利己的な仕方で知識を強奪しようとして,愚かにも神に不従順を示しました。この不従順は,命を与えてくださった方に対する愛の欠如の表われです。「そのおきてを守ること,これがすなわち神への愛……です」。(ヨハネ第一 5:3)エバの反逆を支持するために,アダムはエホバへの愛を脇へ押しやりました。二人が与えられた神の属性はもはや釣り合いの正しく取れたものではなくなり,二人は不備なところのある,不完全な者になってしまいました。そして,神の警告どおり,死の判決を受け,子孫に不完全さと死を伝えました。―詩 51:5。ローマ 5:12。
しかし,その子孫は今日でも,ある程度まで神のそうした属性を有しています。例えば知識欲があります。小さな子供でさえ,知識に飢えています。口がきけるようになるやいなや,その頭脳からは泉のように質問がわき出てきます。子供は答えを求め,思考の糧を切望します。この果てしなく続く質問に大人は目を見張り,時には途方に暮れ,いきり立ち,ついには疲れ果ててしまいます。しかし矢つぎ早の質問を浴びせるのは,自然に起きる好奇心や知識欲を満たすためです。これはどうしてなの。あれはどうしてなの。なぜ,どうして,なぜ。こうたたみかけられると,質問を浴びせられた方の親は,しまいに,やけを起こし,「お母さんに聞いておいで!」とか,「お父さんに聞いてきなさい!」と言って,悲鳴を上げるでしょう。しかし,幼い子供のこうした好奇心はいとうべきものではなく,年老いた人もこの好奇心を失うべきではありません。それは,知るというわたしたちの生来の必要を満たすためのものです。
「知識のある者は力を補強するもの」。(箴 24:5,新)今日までの知識の積み重ねの結果,人間には鳥よりも高く,速く飛ぶ力があり,どんな動物よりも早く陸路を走り,魚よりも早く水中を進む力があります。人間は地球の裏側で起きている出来事を見聞きできます。また,月まで行って,帰って来ました。わたしたちは力に魅せられます。クレーンが鋼鉄の玉を古いれんが造りの建物の横腹にぶつけて,その建物を跡形もなく取り壊してしまうのを見ると,心を奪われます。突進するサイ,ジャングルの中を一気に駆け抜けるゾウ,空を走る稲妻,轟く雷鳴,嵐にもまれる海 ― わたしたちはこのような力に畏怖の念を抱きます。
人間には公正の感覚があります。子供でさえ不公正には敏感で,自分たちが公平に扱われなかったと感じると,非常に気分を害します。大人も,不公正な仕打ちを被ると,正当なこととして憤りを覚えます。物語の中では,正義が勝利を収め,正義の味方が勝ち,悪者が公正に照らして当然の懲罰を受けてほしいと願います。自分のまいているものを刈り取るというのも全く公正なことです。わたしたちが自分にして欲しいと思うとおりに,他の人に行なうのは,公正で公平なことです。(ガラテア 6:7。マタイ 7:12)神の律法を持たない人々にさえ,生まれながらに正邪の感覚,および自らをとがめたり,釈明したりする良心が備わっているのです。悪いことをすると,わたしたちは罪悪感を抱きます。罪を犯したときに身を隠したアダムやエバと同じです。―創世 3:8-10。
多くの人は知恵を得たいと願い,研究と黙想を通してそれを得ようとします。人間の場合,他の多くの地上の生物と異なり,生まれつき知恵があるわけではありません。中には人間を驚かせるような知恵を持っている動物がいます。そうした動物は本能に従って,渡りをし,冬眠や夏眠をし,建設作業をし,知恵を反映する他の様々な活動に携わります。聖書は,「それらは生まれつき賢い」と述べています。(箴 30:24,新)しかし,人類には知識を習得し,それを賢明な仕方で用いる能力があります。人間は黙想によって,洞察と理解を得ます。こうした柔軟性に富む知恵を持っているのは,地球上の全被造物の中で人間だけです。
エホバは目的を持たれる神です。そして,人間は人生の目的を必要としています。もし目的がないと,また自分の人生に意味がないと,苦悩することになります。目的を成し遂げるには人間は働かなければなりません。働くと,自分が有用であると感じます。神は人間を働くものとして造り,「エデンの園に住ませ,それを耕させ,またその世話をさせ」て,なすべき仕事をお与えになりました。人間が「自分のすべての勤労によって善を見る」ことは,エホバの賜物です。(創世 2:15; 伝道 3:13,新)仕事の出来栄えは働き手の反映であり,働き手の価値を証しします。仕事が立派に成し遂げられ,完了し,目的が成就するのを見ると,満ち足りた気持ちになるものです。エホバはご自分の創造の業を非常に良いと宣言され,その成し遂げられた事柄によってさわやかな気分になられました。―創世 1:31。出エジプト 31:17。
何よりも,人は愛を必要としています。愛し,愛される必要があるのです。さもないと,心の中が干上がってしまいます。身体面では十分の世話を受けた子供でも,愛されないと,成長が止まり,死んでしまうことさえあります。大人も愛されないと,孤独を感じ,意気消沈し,落胆しきってしまいます。「人の霊はその人の病状に耐えることができる。しかしひしがれた霊については,だれがそれを忍ぶことができようか」。(箴 18:14,新)愛はすべての事に耐え,すべての事を忍耐します。愛がないと,生活の大半は耐えられない,忍耐できないものになります。(コリント第一 13:7)この多事多難な時代にはよく物不足のことを耳にしますが,地球上で一番不足しているのは愛です。精神科医の話では,今日の精神病のほとんどの背後に愛の不足がある,とのことです。
このことが分かったので,人間は何に動かされて行動するのか,という質問の答えを見いだす次の段階に進めます。人間の生来の必要が満たされないと,必ず問題が起こります。自動車は特定の必要を持つものとして設計されています。その必要が満たされないと車は走りません。必要が満たされるとしても,それが十分でないと,車は走っても,きちんと走りません。人間も同じです。最初の人間夫婦は満たされねばならない特定の必要を持つものとして造られましたが,今日の人間もその同じ属性を有しています。そうした必要が満たされなかったり,部分的にしか満たされなかったりすると,人間という信用のおけない機械も正しくその機能を果たしません。時として逆上し,信じがたいほど冷酷なことをやってのけます。
湾曲した鏡が人体を異様な姿に映し出すのと同じく,ゆがんだ人格は人間の特質を,ねじ曲げられ歪曲された形で明らかにします。公正・愛・知恵・力などの神の属性はいまだに人間に備わっています。しかし,不完全であるため,それらの特質が働く際に釣り合いが取れなくなっているのです。これらの特質に関して,人間は平衡を保てない者になってしまいました。
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神の律法を持たない人々にさえ,生まれながらに正邪の感覚が備わっている
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人間 ― どうしてそのように行動するのか目ざめよ! 1980 | 7月8日
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人間 ― どうしてそのように行動するのか
遺伝のせいでしょうか。環境のためですか。選択の自由の問題ですか。それとも本当のことは分からないのでしょうか。
「遺伝のせいだ!」 自分の非行を弁解しようとして,一人の人はこう言います。確かに,遺伝によって,つまり遺伝子によって,人の行動は左右されます。聖書はこの点に同意して,次のように述べています。「ひとりの人を通して罪が世に入り,罪を通して死が入り,こうして死が,すべての人が罪を犯したがゆえにすべての人に広がった」― ローマ 5:12。
「環境のせいだ」と,別の悪行者は弁明します。それもやはり一つの要素です。「賢い者たちと歩んでいる者は賢くなり,愚鈍な者たちとかかわる者は悪い事態に陥る」と,聖書は述べています。また,「惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣をそこなうのです」とも述べています。―箴 13:20,新。コリント第一 15:33。
受け継いだ特質と環境の影響は,いずれも,個々の人を形造る上で強力な要素となります。それでも,自分の行動に対する責任を,遺伝や環境に転嫁することはできません。なぜなら人間は道徳的に自由な行為者だからです。ですから,「わたしたちはおのおの,神に対して自分の申し開きをすることになるのです」。人間はロボットのようなものとして造られたのではなく,自分の意志を持ち,それをどう行使するかについて責任を負っています。―ローマ 14:12。
人間には,知識や知恵を習得し,愛や公正の感覚を示す能力があります。また,目的のある仕事を行ない,人生を意義あるものにする力もあります。しかし,人間が堕落した結果,こうした潜在力が十分に育まれず,またその各々の間にほどよい平衡が保たれてもいません。そのため,必要が満たされず,不完全な行動に走ります。設計上求められる必要の満たされていない車と同様です。
靴の中の小石や目に入ったごみが気になるのと同様,新聞に書き立てられるのは人々の行なう悪い事柄です。体の他の部分は異常なくても,また人が良い事をたくさん行なっていても,目に付くのは障害となる事柄のほうです。ですから,人間はどうしてそのように行動するのか,とか,人間は何に動かされて行動するのか,という質問が生ずるのは,その欠陥に目をやった上でのことなのです。
その欠陥が小さなものであることもあります。ある必要が満たされなかったり,願いがかなえられなかったり,目的どおり事が運ばなかったりして,きげんが悪くなり,他の人に当たり散らす人もいます。もっと深刻な場合も多々あります。差別があるために,受け入れてもらったり認めてもらったり働く機会を与えられたりすることがなく,欲求不満になり,ついにはふんまんやる方なくなって,暴力という形でそれを爆発させることがあります。金銭や財産について貪欲になるあまり,他の人を平気で踏み付けるような人も少なくありません。自分の欲望に取りつかれた“自分第一主義者<ミー・ファースター>”は,自分たちの肉欲を満足させるために強奪や強姦や殺人を働きます。野心的な人々や組織や国々は,異端審問や戦争を手掛け,恐るべき残虐行為をやってのけ,有毒な化学物質で地球を破滅させ,無数の人々に飢饉と疫病と死を広めています。
なぜでしょうか。もはや神に似た様ではなくなり,神の属性によって導かれてはいないからです。人間と動物の間を分ける隔たりが狭まり,極端な場合には「捕らえられ,殺されるために生まれてくる,理性のない残忍な野獣」のような人間になってしまいます。(ペテロ第二 2:12,フィリップス訳)そうした人々は神から与えられた属性をねじ曲げてしまいます。知識は,腐敗や破壊をきたらせるための力を増し加えることに悪用されます。知恵は世の痴れ事へと堕落します。公正は過酷で無慈悲なものになります。愛は内面へ,自分へと向けられます。良い働きをする大きな潜在力を秘めた特質がゆがめられ,どんな「理性のない残忍な野獣」をもはるかにしのぐような悪を行なうことになるのです。
人々は,都会でも,本や演劇や映画の中でも,街頭でも,自宅の居間の中でも,暴力に囲まれています。テレビのために,幼いころから暴行と殺人で思いが満たされてしまいます。ある調査の推定によると,アメリカのごく普通の子供は14歳になるまでに,テレビの画面で1万1,000件の殺人を目にします。米国議会の一小委員会は学校内暴力を調査し,歴史的意義を持つ次のような報告を提出しました。「1970年から1973年にかけて,ベトナムでの戦闘で死んだ兵士よりも多くの子供が学校内で殺された。その多くは他の生徒との銃撃戦で殺された」。
進化論を奉じる科学者たちは,このすべては自然なことだと自信をもって語ります。その説によれば,人間が攻撃的なのは生まれつきであり,先祖である動物から受け継いだ特性である,ということになります。それは間違っている,と他の科学者たちは異議を唱えます。人類学者であるアシュレー・モンタギューは次のように書いています。
「攻撃的な行為に携わるどころか,驚くほど穏やかで,協力的な社会は少なくない。例を挙げれば,ミンダナオ島のタサダイ族,南インドのトダ族,タヒチ島民,タンザニアのハザ族,太平洋のイファラク族,西太平洋のヤミ族,ラップ人,ニューギニアのアラペシおよびフォア族などがある。……
「人類学者がそのような攻撃的ではない社会を調査すると,その住民の間に協力的で穏やかな人格が生み出されるのは,主にその子育ての習慣を通してであることが分かる。子供たちには深い愛情が惜しみなく注がれる。幼い子供は乳児のころから,ほとんど例外なく,自分を抱き締めたり運んだりしてくれる人との体の接触を持つ。……
「攻撃性の有無は,いずれも習得した行動様式である。どんな社会にもそこで好まれる行動形態を生み出す規範がある。その規範は個人の行動を絶えず強化する。アメリカは子供の前に最も攻撃的な規範を置いている。それでいて,どうしてこんなに暴力的な犯罪が多くなっているのかと不思議に思っているのである」。
ジョン・リンド博士は,赤ちゃんを優しく揺すってやったり,子守歌を歌ってやったりすることに帰るよう勧めています。それは,「脳の発達を早める」からです。1979年12月号の「今日の心理学」誌はこう述べています。「脳の成育の形成期間中に,ある種の感触を与えられないと ― 例えば,母親が接触したり,揺すったりしないと ―,愛情を制御するノイロン系統の発育が不全に終わったり破壊されたりする」。その記事はさらにこう述べています。「この同じ系統が暴力と関連のある頭脳中枢に影響を及ぼすので,その種の感触を与えられなかった幼児は,大人になってから暴力的な衝動を抑えるのに困難を覚える」。
リチャード・レスタク博士は,その著書,「脳 ― 最後のフロンティア」(1979年)の中で,次のような点を指摘しています。実験は,「大脳辺縁系が脳の中でも特に感情と関係のある部位であることを示す決定的な証拠を提出して」います。この部位を破壊したり刺激したりすると,行動に変化が生じます。電気刺激で,喜びや怒りを引き起こすことができます。「未発達の脳が正常に成育してゆくかどうかは,感覚の刺激にかかっており」,「乳幼児を揺すってやったり,抱き締めてやったりすると,小脳が刺激され,それが小脳の発達を促す」のです。これは重要なことです。というのは,小脳は運動をつかさどっており,上記のような快い刺激が与えられないと,十分な数の神経接合部<シナプス>が形成されないので,発達は異常なものになるからです。その結果,衝動的で,制御されない,粗暴な人格が形成されることがあります。
前の二つの節から,人間の行動の仕方に影響を及ぼすのは遺伝や環境,そして社会がわたしたちの前に置く規範だけではないことが分かります。無力な赤ちゃんのときに受けた扱いも,脳の発達や感情の状態,そして結果として生じる行動に影響を及ぼすのです。
しかし,さらに別の要素も働いています。多くの人はその存在にさえ気づいていません。とはいえ,ウォール・ストリート・ジャーナル紙はその存在に気づいています。「テロリストを動かす衝動」と題する,1977年10月28日付の社説の中で,同紙は狂ったような怒りと暴力に疑念を投げかけています。社会に責任を転嫁する風潮がありますが,その社説は,「悪そのものに魅力を感じる」人々の内にある「根深くて,不条理な衝動」を不思議なものとしています。その結論となる文は次のとおりです。「社会を責めるよりも,サタンを責めるほうが真理に近いと言えよう」。
聖書はサタンを「この事物の体制の神」と呼び,「天の場所にある邪悪な霊の勢力」を真の敵とし,「悪魔が,自分の時の短いことを知り,大きな怒りをいだいてあなたがたのところに下ったから」地には災いが来る,と述べています。(コリント第二 4:4。エフェソス 6:12。啓示 12:12)エデンでの問題の根となったのはサタンでした。その時,サタンはエバを誘惑し,神の『像』と神に『似た様』を捨てさせたのです。サタンは今日でも,人々を怒り狂った暴力的な行動へと駆り立てる面で,強力な勢力を成しています。
人間がどうしてそのように行動するかを説明する要素は,知られているものだけでも数多くあります。遺伝,環境,選択の自由,必要が満たされないことなどは,いずれも行動に影響を及ぼします。幼児期の脳の発達は重要な役割を果たします。しかし,脳に対する人間の理解も,まだ幼児期の段階にあります。脳はしばしば,この神秘的な宇宙にあって,最も神秘的なものと言われます。そしてその上,サタンの影響もあるのです。
では,人間がどうしてそのように行動するかをわたしたちは本当に知っているでしょうか。細かい点で分かっている事もありますが,詳しい事の多くは分かっていません。しかし,根本的な理由は分かっています。それは,『神の像』と神に『似た様』を完全に反映している者は一人もいない,ということです。
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1970年から1973年にかけて,ベトナムでの戦闘で死んだ兵士よりも多くの子供が学校内で殺された
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テレビのために,幼いころから暴行と殺人で思いが満たされる
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抱き締めたり,子守歌を歌ったりすることは脳の発育を促す
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人間 ― 神に似た様に戻る目ざめよ! 1980 | 7月8日
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人間 ― 神に似た様に戻る
「古い人格をそのならわしとともに脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けなさい。それは,正確な知識により,またそれを創造したかたの像にしたがって新たにされてゆくの(です)」― コロサイ 3:9,10。
エホバは地球を永続するもの,いつまでも人の住む所として創造されました。そしてそれを人の子たちにお与えになり,地の温和な者がそれを受け継ぐようにされました。また,イエスが追随者たちに教えた祈りの言葉どおり,神のご意志は天におけると同じように,地上においても成されます。最初から,人間が地球の管理者として働くようになることが神のお目的でした。その目的は今でも変わっていません。しかし,この特権を享受するのは神に似た様に戻る者たちだけです。―詩 104:5; 37:29; 115:16。マタイ 6:9,10。
そのような人は,古い人格をそのならわしとともに脱ぎ捨て,新しい人格を身に着けなければなりません。(エフェソス 4:22。コロサイ 3:9)どのようにして? 正確な知識,すなわちエホバとその神々しい特質についての知識,そしてそれを実践することを通してです。ですから,その第一歩は,使徒パウロがフィリピ 4章8,9節で述べている次の助言に従うことになります。「なんであれ真実なこと,なんであれまじめなこと,なんであれ義にかなっていること,なんであれ貞潔なこと,なんであれ愛すべきこと,なんであれよく言われること,またなんであれ徳とされることや賞賛すべきことがあれば,そうしたことを考えつづけなさい。あなたがたがわたしとの関係で学び,また受けたり聞いたり見たりした事がらは,これを実行しなさい。そうすれば,平和の神があなたがたとともにいてくださるでしょう」。
こうした事柄を考えるように,というのがこの助言の趣旨です。考えは感情を生み出し,感情が熟しきると,人は行動するよう促されます。聖書記述者ヤコブは,わたしたちが邪悪な事柄を頭の中でじっくり考えると欲望が募り,最後には罪深い行為に至る,と述べこの点を指摘しました。それはヤコブ 1章14,15節に記されている言葉で,次のようなものです。「おのおの自分の欲望に引き出されて誘われることにより試練を受けるのです。ついで欲望は,はらんだときに,罪を産みます。そして罪は,遂げられたときに,死を生み出すのです」。
イエスも,姦淫に関して,この同じ点を示し,こう語られました。「わたしはあなたがたに言いますが,女を見つづけてその女に情欲をいだく者はみな,すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです」。(マタイ 5:28)見つづけたり考えつづけたりするなら,欲望が募りに募って,実際に姦淫そのものが犯されることになりかねません。
健全な考えについても同じ原則が当てはまります。それは健全な感情を生み出し,健全な行為に至ります。ですから,選択の自由を賢明な仕方で用いるようにしましょう。健全な事柄を考えつづけ,それを希求し,それを行なうようにするのです。
この助言を与えたのは使徒パウロですから,パウロはそれを実践していたに違いありません。それでもパウロは,「自分の願うところ,それをわたしは実践せず,かえって自分の憎むところ,それを行なっているのです」と,嘆いています。そして,肉と霊との内面的な闘いを悲嘆して,「わたしはなんと惨めな人間でしょう。……だれがわたしを救い出してくれるでしょうか」と述べています。パウロは正確な知識を持ち,神に似た様に戻ろうと努め,自分に備わっていたエホバの様々な属性を平衡の取れた仕方で用いようとしていました。パウロは自分自身としては失敗しましたが,それでも勝利を得ました。パウロの次の叫びは,どのようにしてそれが得られたかを示しています。「わたしたちの主イエス・キリストを通してただ神に感謝すべきです!」―ローマ 7:15,24,25。
神からいただいた属性を調和よく平衡の取れたものにする点で第一歩を踏み出すのはわたしたちかもしれませんが,キリストを通して神のみが人間を神に似た様に完全に戻れるようにしてくださるのです。
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