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最善の行儀ものみの塔 1955 | 4月15日
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しかし私たちの愛する人よりも,初めての人は良い接待をうける資格があるでしようか? 私たちの家族や友人には,外部の人よりももつと良い取り扱いをすべきです。良い行儀とは,人を訪問する時に着る外出着であると考える人はいます。しかし,真実に行儀の良い人とは,どんな時にも行儀正しく振舞う人のことです。
最善の行儀を教え,かつ学ぶところは,クリスチャンの家庭です。家庭は微妙な機械であつて,その各部門はお互いに密接な結びつきを持つているものです。巧みに滑らかにすることによつて,その機械は円滑に動くのです。助け合い,礼儀正しく,気持良く,丁寧に行う仕方を知ると,家庭を幸福にするものです。毎日使う気持良い言葉で,礼儀と思い遣りの言葉の言い方を学ぶと,附合う際に起る危険な摩擦を避けるのに大に役立ちます。それらは一寸した言葉ですが,大きな意味を持つものです。誰でもそれを正しく言うことができます。それには一銭も費用が掛かりませんが,しかも友を買うことができます。毎日良い行儀を実践すると,良い行儀を必要とする時,つまり家庭から離れて公共の人中にいる時も,善い行儀は私たちの身についているものです。
例えば最近のヱホバの証者の大会のときに,一寸憎々しいある初めての人が群衆にもまれ,一人の証者にぶつかりました。その証者は,よろめきから立ち直り,ほほえんでお詫びを言いました。その人は,自分が過失をしたものと知つていたために,大へんびつくりしました。しかし,お詫びを言つたのは証者だつたのです。その人が後に語つて言うのに,この礼儀正しいことに心を打たれ,神の言葉の真理を考えるようになつたとの事です。その人はいまはヱホバの証者です。
見知らぬ人から,別の例が告げられましたが,それは親切と礼儀正しくする必要を説明しています。ヱホバの証者は,国際大会の会場近くに居り,交通の混雑は大へんなものでした。この人は大道を横断しようとしていましたが,車がづーと並んで走り,どうしても横断することはできません。ヱホバの証者の標識をつけている車が近づくのを見て,その人は自問しました『ヱホバの証者は,人の言う程に親切な者たちだろうか。私を通して呉れるだろうか?』 よろこびもし,また驚いたことに,その車は止まりその人は横断することができました。この古い世でそのような親切をすることは必要です,そしてこの世は私たちの礼儀を必らず見ています。
1953年7月23日のドネレン(ニュー・ジャーシー州)ウイクリー・コール紙は,こう述べていました『ヱホバの証者が去つてしまうと,全く淋しく感ずる。……彼らは国の中で一番善い人々のようである。礼儀正しく,丁寧で,そして我々大部分の者が近頃全く顧ないような他の事柄についても非常に良い。……彼らは非常に礼儀正しい人々である。我々はホテルに居る時に礼儀正しく振舞うが,彼らは自動車を運転している時でも,それと同じ程に礼儀正しい。それは注目に価する素晴らしいことである。』1953年7月28日,モーニンク・コール紙(アレントン,ペンシルバニヤ州)の社説は,ヱホバの証者についてこう述べました。『彼らは数においても勢力においても増加している素晴らしい人々である。何処に行つても彼らは歓迎される。その行動振舞はそんなにも良く,また人々の意見は良いので,彼らは又是非来るようにと頼まれる。』クリスチャンの振舞は彼の負う良い名前にほまれをもたらすか,あるいは不名誉をもたらします。それは,神とキリストに誉をもたらすか,あるいは不名誉をもたらします。
食事の時
善い行儀を験す確かな試験は,食事をする時です。食べ始める時を知つていますか? どのように始めますか? 何を言つて,それをどのように言いますか? その国の習慣に従い,そこで礼儀正しいと思われる仕方でどのように食べますか? 何時止めますか? クリスチャンの食事の時はよろこびの時,交りの時であつて,それは幸福な時です。それは馬鹿らしい規則の長い表で束縛されてはならず,また不秩序のものであつてはなりません。それは愉快な時であつて,すべての人は援助をうけ,お互いに思い遣りを持つことができます。
祈りを捧げてから食物を食べます。食物をひつたくつてはなりません。食物が廻されてくる時,みな礼儀正しく自分の分を取ります。取る食物の分量は,自分の食慾で決めるのではなく,家族の大きさと食卓にある食物の量で決めるのです。大変行儀が悪く,貪欲な人は,自分の食べる分量以上を取るか,または多くのものを取つてしまい,他の人は殆ど食べられないか,全然食べられないようにします。他人の感情を害する仕方で,しかも住んでいる国の正しい食事の習慣の規則を無視して食べること ― 自分の家庭でこれらの違反をするとき,他の人と一緒にいる時も失敗をします。そして『クリスチャンとしては行儀が悪い』と言われるでしよう。クリスチャンは,非難をうけてはなりません。
会衆で
会衆の集会に出席する時,遅く来るのは悪い行為です。礼儀善くするには,私たちは講演者と会衆に思い遣りを持ちましよう。子供を持つ母親は,会場の後ろで通路に近いところに坐る方が具合良いでしょう。子供のために退場の必要が生じた時でも,講演者や出席者に迷惑をかけません。金特ちであろうと,この世の勢力家であろうと,どんな時でも依怙贔負を示すべきではありません。人種,皮膚の色,または国籍の故に,不公平があつてはなりません。講演の間,囁いたり,くすくす笑うことは,隣りの人に迷惑をかけます。会衆の集会は,人々が来て学び,崇拝し,そして奉仕するところです。どの場所に優つて,会衆の集会では,一番善い行儀をするべきです。
親切に飢え,礼儀や丁寧さが殆んどないこの世で,クリスチャンはその親切と良い行儀の行を大水の上に豊かに播きましよう。なぜならば,その多くは報いとなつて戻つてくるからです。それに,播くこと自体気持良く,やさしく,また費用のかからぬものです。微笑して気持良くすることは,非常にやさしく,また小さな親切な事をするのも大変やさしいものです。それで,そういう事をしないという言い訳は立ちません。その外に,お互のために毎日行うこのような小さい親切な事柄は,すべての人の生活の美を増進させるものです。
違つた国では,人々の違つた習慣がありますが,丁寧でふさわしいものであるならば,どんなものでも認めて行えるということを忘れてはなりません。決して狭い量見でもつて,これらの事柄を言つたわけではなく,また一国の生活様式を他国のすべてのクリスチャンは守らねばならないということでもありません。すべての人が健全な心を働らかすならば,あらゆる人々に対する行は親切なものとなるでしよう。
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『ものみの塔』の研究ものみの塔 1955 | 4月15日
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『ものみの塔』の研究
5月15日 人類の危機を救う神の愛 1-18節
5月22日 人類の危機を救う神の愛 19-37節
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読者よりの質問ものみの塔 1955 | 4月15日
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読者よりの質問
☆ 黙示録 20章8節によると,新しい世に国民の区別がありますか? この聖句の中のゴグとマゴグとは誰ですか? ―カナダの一読者より
黙示録 20章7,8節(新世)は次のようです『さて千年が終るとすぐにサタンはその獄から解放される。それから出て行き,ゴグとマゴグである地の四隅の諸国民を惑し,戦争のため彼らを召集する。その数は海の砂のようである。』国家の境界を持つ国民や,国籍を基礎にして国家内に集められる国民というものは,新しい世に存在しません。新しい世に生活する国民は,諸国民から来たもので,かつてはこの古い世の国民の成員でした。丁度『大いなる群衆』が,『すべての国民から』来ても,区別をつける国家主義を持たないことと同じです。この聖句の中で,『諸国民』という言葉が使われているのは,以前に諸国民から集められたということを念頭に置いているからです。―黙示 7:9,新世。
エゼキエル書 38章と39章は,マゴグの地のゴグについて述べていますが,その予言の中でゴグは1914年以来天から追い落されたサタンを表し,マゴグとは1914年以来地の近くに限定されたサタンの霊界を表しています。(1953年12月15日号のものみの塔を見て下さい)しかし,黙示録 20章8節では,時の場合が違つており,ゴグとマゴグは地上の場所の名前です。ここで,サタンはゴグマとゴグを欺いていると言われているのですから,ゴグはサタンを意味するものではありません。それに,その聖句は,ゴグとマゴグをサタンの惑しをゆるす『地の四隅の諸国民』と述べています。昔のゴグがどんなもので,マゴグの地が何処にあったかは確定していませんが,だいたい地理の面から見て北東ヨーロッパと中央アジアに当り,そこは恐ろしいスキタイ人やダツタン人がいたところでした。しかし,黙示録の中で,ゴグとマゴグは,サタンに唆かされてエホバの忠実な地上の住民に激しく襲いかかる地またはその地の人々を表します。
その数は『海の砂のようで』あるといつても,大多数の人間が千年統治の終りにサタンと共に反逆するわけではありません。むしろその数は海辺の砂のように不定であるということです。キリストの体の成員の数が示されたとき,それは海の砂のように多いものとなぞらえましたが,しかし数が最終的に示されたとき,それは14万4000で『小さな群』と呼ばれました。それで,千年統治の終りにサタンと共に反逆する者たちは,小数の人類です。―創世 22:17。ガラテヤ 3:29。黙示 14:1。ルカ 12:32。
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