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  • 人間の危機を救う神の愛
    ものみの塔 1955 | 4月15日
    • なぜならば,今でさえ神とキリストを愛することを学び,また自分自身のように隣人を愛することを学ぶことによつて,彼らは死の状態から生命の状態に移り,永遠の生命への道を歩んでいるからです。このことのために,世は私たちを憎むでしよう。クリスチャン使徒ヨハネはこう言つています『私たちは兄弟を愛すために,死より生命に移つたことを知る。』― ヨハネ第一書 3:14,新世。

      36 私たち生けるものに対して,神のいま開かれている手は何をなし得ますか? しかし,ある者はなぜ不満足のままにハルマゲドンで滅亡しますか?

      36 それで私たちは,いままでのうちで最大な危機にいるのです。ヱホバ神は,すばらしい愛を持たれて私たちを助けに来られたという事実に目覚めるならば,私たちは悩む代りに幸福になり,そしてヱホバ神の道によろこんで従い救われたく思います。神の開かれている手をうけ入れるならば,私たちは愛ある心の願いを満すことができます。美しい御国の詩篇は,神の愛の御親切を説明し,次のような言葉で神に呼びかけています。『なんじ御手を開きてもろもろの生けるものの願いをあかしめたもう。』しかし,贈物をするには,二人が必要です。与える者がいるならば,受け取る者が必要です。全人類は,利己的な気持ちから,ヱホバの開かれた手の準備される物質的な良い物だけをうけ入れ楽しもうと欲しています。しかし,すべての人が,ヱホバの開かれた手の与える最大な提供,つまり霊的な提供物を心から認め感謝するわけではありません。永遠の生命という神の贈物は私たちの主イエス・キリストを通して来るという理由で,それらの人々はその神の贈物の提供を排斥し,また,物質的な食物だけでなく生命を与える霊的食物で養おうと差し出す手を彼らは咬みます。彼らは全くの意味で満足を感ぜず,不満足のままにハルマゲドンで滅亡してしまうでしよう。

      37 (イ)それで私たちは永遠の満足をどのように見出しますか?(ロ)何をすることにより,私たちは生命を得る決定をなし,また行い果しますか? そして何を立証いたしますか?

      37 しかし,詩篇はこう言つています『ヱホバは己をおそるるものの願いをみちたらしめ,その叫びをききて之を救いたもう。ヱホバはおのれを愛しむものをすべて守りたまえど,悪しき者をことごとく亡したまわん。』(詩 145:16,19,20)それで,いまヱホバの開かれた手にある愛の提供をうけいれることによつて,私たちは永遠に満足を見出すでしよう。私たちは愛の感謝の気持ちのうちに,私たちの救いの大きな手段,つまりイエス・キリストによるヱホバの御国を認めうけ入れます。その御国は,いまや天で設立されており,私たちは終りの来るまで証しとしてその御国を全世界に宣べ伝えます。(マタイ 24:14)私達は新しい世の社会として互いに結び合い,また定期的に集会します。それを必らずすることにより,互いに愛と正しい業にはげましすすめ合い「あの大いなる日が近づくのを見つめれば,ますます」そういたします。(ヘブル 10:24,25)これをすることにより,私たちは人間の危機のこの時にあつて生命を得るか否かを決定をなし,また行い果すことになります。そして私たちを救いに来る神の愛は立証されます。

  • 最善の行儀
    ものみの塔 1955 | 4月15日
    • 最善の行儀

      クリスチャンは最善の行儀をすべきです。神と人間に対するその真の愛から,クリスチャンは穏やかで礼儀正しく,親切な振舞をいたします。クリスチャンは神とキリストの大使であり,世の中で最高の地位を占める者です。この理由からも,彼らは正しい礼儀をなすべきでしよう。神は御旨のままに,クリスチャンを『御使と人間の両方に,この世の見もの』にし,見せものにされました。それで彼らの生活やすべての行為は,常に観察され,批評されています。彼らは生ける実例であり,神に誉をもたらすか,或は不名誉をもたらします。

      使徒パウロは,この事を知り,クリスチャンに次のことを思い起させています『キリストについての善いたよりにふさわしく振舞いなさい。』『何事も争や利己主義の気持からするのではなく,へりくだつた心を持ち,他の者を自分より優れた者と考えなさい。自分自身の利害だけに気をつけず,他人の利害にも気をつけなさい。』クリスチャンは何故そう振舞わねばならぬかについて,ペテロはこう語つています『諸国民のあいだで,正しい行をしなさい。それは,彼らがあなた方を悪人呼ばわりしても,あなた方の正しい業を見て,かえつて裁きの日に神を崇めるようになるためである。主のために,あなた方は人の立てたものに従いなさい。』この正しい振舞は,本質には良い行儀です。それは,互に平和を保つて生活する仕方を知る技術です。それは神と隣人の愛から出る礼節です。―ピリピ 1:27; 2:3,4。ペテロ前 2:12,13,新世。

      イエスは完全な紳士でした。彼は行儀を一度も間違えたことはありません。『人にして貰いたいと思う如く,他の人になせ』という神の規則を完全に実践しました。イエスを見守り,彼の言葉を聴き,その智恵の言葉を聞き,大いなる業と恵み深い行儀を見た人々は,全く驚きました。イエスの良い行儀は,人間の書いた行儀作法の本に述べられる規則を守つたためになされたのでなく,むしろ誠実な心を持つたためと,幼い時より全能の神の正義の原則,特に愛の律法を守り,それを実践したことによるのでした。―マタイ 13:54-56,新世。

      良い行儀は,神の愛と人間の愛に根ざしています。良い行儀をするのに一銭も費用が掛かりませんが,しかし非常な価値を持つものです。奇妙なことに,行儀は往々にしてぴつたり時に適つて話される言葉です。適当な時に正しい事を言うのは,技術です。言葉は真心からなされ,自然のもので美しくなければなりません。聞いて貰いたいと願うならば,言葉は自然のもので誠実でなければなりません。さもなければ,言葉は深みのない,不誠実に聞え,おそらくお世辞と考えらるれでしよう。お世辞は侮辱であつて,愛想ではありません。

      『美しい振舞は美しい形よりも優る。それは,彫刻品や絵よりも多くのよろこびを与える。それは,立派な芸術のうちで一番立派なものである。』この世的の智恵がなくても賢明になり得ると同じように,行儀作法についてこの世的の本にある規則や形式を知らなくても,善い行儀をすることはできます。それに,この世の本は精々良くても常識の代品に過ぎません。行儀作法の規則は,流行のように変り,また殆どどの国でも違つていますが,しかし良い行儀は全世界同じであります。

      悪い行儀の源

      虚栄,ひねくれた気質,同情を強く求める心,良い常識の欠如は,悪い行儀が生ずる主要な源です。虚栄の心を持つ人々は,人に良く思われたいが,しかし他の人を考えることはまずありません。いつも自分の事だけを考えています。虚栄は自己中心意識に導きます。ヱホバをよろこばしたいと思うならば,私たちは他の人を考えねばなりません。他の人を考え,他の人の感情に注意を払うことは,礼節の一番大切な特性です。しかし,行儀の悪い人は,しばしば大声で話をして,自慢をなし,自分と自分の家族のことを誉めます。また,自分の仕事の業績を誇り,自分より不運の人を見下し,そして概して,人の名を傷つけながら冗談を言う人は,行儀の悪い人です。

      言葉は危険な道具です。言葉を注意して話すようにとイエスは弟子たちを警めました。『兄弟にむかつて,言つてはならない侮蔑の言葉を言うものは,誰であつても裁きをうけるであろう。また「ばか者」と言う者は,誰であつてもゲヘナの火に入れられるであろう。』イエスは更にこうつけ加えました『良い人は良い倉から良いものを出す。しかし,悪しき人は悪い倉から悪い物を出す。あなた方に言う。裁きの日に人はその語る無益な言葉に責任を取らねばならぬ。あなた方は,その語る言葉で正しいとされ,その語る言葉で罪に定められる。』(マタイ 5:22; 12:35-37,新世)行儀の善いクリスチャンは,自分の兄弟を「ばか者」「のろま」または他の礼に失した言葉で呼びかけません。

      ある人は自分は良い生まれで,賢く,また富んでいるから,他人が何を言おうか,あるいは考えようか一向に気にかけないと思つています。そのような人は,自分たちの地位の故に,粗野であつても大丈夫と考えています。しかし,それは自分自身および交る人々に侮辱を与えるものです。他の人々は,またいろいろな無礼な仕方で隣人に軽蔑を示しています。例えば,人々の前で衣服をきちんと着ていないとか,体と心を清潔に保たないとか,忌むべき習慣に耽けるとかいうことです。『悪い交りは,有益な習慣を台無しにする』故に,クリスチャンはそのような者と交つてはならぬと,パウロは警めています。

      卵の外観からでは,その品質を判断することは難しいものです。それと同じく,人々の外に表われた行儀からだけで人を判断するのは賢明でありません。多くの人は着る物が多くなく,他の人は不健康で,ある人は圧迫されてくるしんでいます。しかし,普通の人は,外観と実際の人間は違うだろうなどと時間をかけて,考えるようなことは先ずありません。すべての人は清潔を保つことができます。私たちは心から正しい事を語れます。私たちは親しみ深く,もてなし良く,親切で礼儀正しくすることができます。私たちは気取る必要はありません。私たちは正直で丁寧にすることができます。之らの事には全然費用が掛からず,無料のものです。金持ちでも貧乏人でも,すべての人はそれらを持つことができます。初めての人が近づくと,『しかつめらしく構える』またはつんつんした冷い態度を取るのは愚かなことです。クリスチャンは会話をする人でなければなりません。クリスチャンは話をし,人々を愛します。

      すべての人に対する良い行儀

      行儀の良い人は,あらゆる状況の下でも,すべての種類の人に礼儀正しくします。その人は,自分の『下の者』(子供たち,精神的に病気な者,不幸な者たち,その他)にも,又自分と匹敵する者(兄弟たち)そして自分の『上の者』と見る者たち(特別の資格の僕たち,支配者,王そして統治者)をも丁重に取り扱います。金を支払う人とか,恐れる人にだけ行儀良くするのではありません。夏の太陽のごとく,その親切と礼儀は,一様にすべての人にされるべきです。―ペテロ前 2:13-20。

      普通一般に,友人や家族よりも初めての人に礼儀を厚くして取り扱いますが,

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