ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 大論争でエホバの側に立つ
    ものみの塔 1963 | 6月1日
    • ていました。その中にはノア兄弟の訪問も含まれていました。私たちは期待に胸をふくらませて楽しく笑いました。これらの日付をみて私は思わず言ったものです。「アルフレッド,将来どんなことが起きても,私たちはいままで長い間,ふたりでほんとうによく奉仕してきたわね」。私は,この最後の静かな回顧の時を,深い感謝をもってなつかしく思い出します。というのは,つぎの日の夜夫は病気になり,数時間後に心臓まひで ― 忠実な奉仕に精力を使い果たして亡くなったからです。ショックと悲しみでぎょうてんした私は,思わずベッドのかたわらにひざまづき,「あなた! あなたはきっと早く復活するのよ」と,強い確信を口にしました。それから数ヶ月して母が亡くなりました。私は,死というものがいかに大きな敵であるかをいやというほど経験しました。

      その後は,多くの仕事があったので,自動人形のように働きましたが,なんとも言えないさみしさにおそわれ,エホバを力の柱としてより頼みました,私はこの最愛の家族の中に住んで,彼らの親切と思いやりにあずかりました。心の傷をいやすには,ほかの人々に奉仕するのがいちばんです。しだいに私の心はいえ,落着いてきました。空虚な感じはまだ残っていますが,しかしそれに甘んじるように努めています。悲しみの波に打ちひしがれそうなそういう時に,「エホバに対して歌い,よろこばしき声をあげる」ことこそ最も強い保護です。

      いまもエホバの側に

      私にはいま孫があり,髪もだんだん白くなってきています。この孫に会って,「おばあちゃん,きて聖書のお話してちょうだい」というのを聞くのはほんとうに楽しみです。私がこのベテルの家族の一員としてすごした30年余りの間に,多くの人が来ては去りました,私は彼らをみんな愛しました。ベルの合図で秩序正しい生活が行なわれ,忙しい人々でいっぱいのこの家では,ひとりひとりの性格を尊敬し,ただひとりの人と親しくなりすぎることなくすべての人と友だちになり,えこひいきをせず,融通をきかせ,だれもが当然に望む少しのプライバシーを尊重するようになります。たしかにベテルの生活は,正しい,充実した生活です。

      私の経験談が終りに近づいた頃,一通の手紙がとどきました。それはカリフォルニアの親しい友人からきたもので,間もなく始まる世界一週大会に一緒にゆかないかという招待の手紙でした。「わたしたちが求めまた思うところのいっさいを,はるかに越えて」祝福し下さるエホバのこのいつくしみに対し,心から感謝して頭を下げました。私の心の中には,何年も前に私をして決意させた同じ生きた希望がもえています。それはエホバとキリスト・イエスにまみえ,エホバの御名を立証することです。私は,感謝のうちに,大論争における勝利を確信して,賛美者の大群衆に声を合わせ,エホバを賛美いたします。

  • 読者よりの質問
    ものみの塔 1963 | 6月1日
    • 読者よりの質問

      ● 改訂版の新世訳付録にルカ伝はマルコ伝よりも前に書かれたとありますが,その証拠は何ですか。―アメリカの一読者より

      キリスト教国の神学者の多くは,マタイ伝とルカ伝がマルコの福音書および「Q」と呼ばれる資料に基づいていると論じています。Qはドイツ語で「出典」を意味するQuelleの頭文字をとったものです。従ってこれによるとマルコ伝と「Q」が先に書かれたことになります。多くの人がこのように主張するのは,聖書を霊感によるものと認めずに,福音書の類似性を説明しようとするためです。しかしこれら不信仰な論を事実と対決させるならば,すぐに崩れ去ってしまうでしょう。たとえば初期教会の監督は,マタイが最初に福音書を書いたことを述べています。「最初の福音書はマタイによって書かれた」とオリゲン(西暦185–254)は述べています。

      ではマタイの次に福音書を書いたのはマルコですか,あるいはルカですか。聖書の研究者はマルコがルカよりも先に書いたと長い間考えてきましたが,深くしらべると,ルカのほうがマルコよりも先であったことはほぼ確かです。使徒行伝 24章27節–27章1節はこの問題に光を投げかけています。この記録によるとパウロがカイザリヤの獄につながれてからほとんど2年を経たとき,ポルシオ・フェストがアントニウス・ペリクスの任に代り,フェストはカイザルに上訴したパウロをローマに送りました。それは何年のことでしたか。

      正確な年代については意見がわかれますが,大勢の意見に従うと,フェストが背教者のペリクスの任に代ったのは西暦58年のことです。新標準聖書辞典によると「フェストが長官の職についたのは,いろいろな点を考慮すると西暦58年であったと思われる」。ヤングの聖書索引もこの年をあげており,ブリタニカ百科事典もこれを裏づけています。1959年版第3巻528頁,聖書の年代記の項に次の言葉があります。「2つの論議を考量すると,ペリクスが呼び返されてフェストが任についたのは,58年であったようだ。パウロが56年に逮捕され,58年フェストの着任と共にカイザルに上訴したとすれば,パウロは翌年のはじめにローマに着き,まる2年間,獄につながれていたのであるから,使徒行伝の記録は西暦61年までにわたっている事がわかる」。―使行 27:1–28:1,2-16,30。

      従って使徒行伝はその時に書かれたに違いありません。それ以後に書かれたとすれば,ルカはパウロのその後の消息を伝えているはずです。さて使徒行伝の冒頭においてルカは,自分が先に福音書を書いたことを友人のテオピロに告げています。ゆえにルカ伝は61年以前に書かれたに違いありません。しかし何年のことですか。ルカがパウロと共にローマにいた時ですか。そうとは考えられません。ルカの述べている「人々が伝えたとおり物語に書き連ね」たものはローマでは手にはいらず,またイエスの家族,他の弟子や使徒に親しく会って聞く機会もローマにはなかったに違いないからです。(ルカ 1:1-4)そこでパウロがローマで獄につながれる前,そしておそらくはカイザリヤで獄につながれていた56-58年の間にルカがその福音書を書いたと結論するのは妥当と思われます。

      マルコの福音書について言えば,それがローマで,またローマ人のために書かれたことは,文体,ラテン語法,説明の句などから明白です。初期教会の監督もそのことを証言しています。(62年2月1日号「ものみの塔」86-90頁)しかし何時書かれましたか。マルコがパウロおよびバルナバと別れたこと,パウロがマルコのことでバルナバと別れ,バルナバがマルコを連れてキプロスに行ったことは聖書に記録されています。(使行 12:12; 13:13; 15:37-39)しかしその後何年間にもわたる期間のマルコの消息は聖書にしるされておらず,次にマルコのことが出てくるのは,マルコと共にローマにいると述べたパウロの言葉の中です。(コロサイ 4:10,11。ピレモン 24)パウロが釈放されたとき,マルコはローマを去ったものと思われます。パウロが再びローマに戻ったとき書いたテモテ後書の4章11節によると,パウロはテモテになるべく早く来るように,またマルコを連れてくるようにと書き送っているからです。この事から次のように言えるのではないでしょうか。すなわちマルコがローマに行ったのは,パウロもローマにいた時のことで,従ってパウロの入獄後になってはじめてマルコはローマ人のためにその福音書を書いたとする論です。

      疑いなくマルコはペテロから資料を得ました。またペテロが「わたしの子マルコ」と語っていることから,ある期間マルコがペテロと共にいたことは明らかです。これはマルコがパウロと別れてのち,そしてパウロの第1回目と第2回目の入獄の間のことと思われます。この中間の期間にペテロはその第一の手紙,あるいは第二の手紙をも書いたようです。―ペテロ前 5:13,新口。

      このように聖書の述べる事柄に基づいて考えをすすめると,ルカ伝がマルコ伝よりも前に書かれたとする論の妥当性がわかってきます。

      ● 1962年4月15日号「ものみの塔」242頁には,カトリックの諸団体がヒットラーの破門を要請する電報を法王に送ったと書かれています。これに関して幾人かのかたから疑問が寄せられたので,オハイオ州シンシナチ,1939年9月1日付カトリック・テレグラフ・レジスターに掲載された全文を以下にかかげます。

      「カトリックの育ちで信仰をいなむと,法王に打電「シカゴに集まった宗教,在郷軍人,労働組合諸団体の各国代表250名は,アピールを行なった

      「(以下の記事はニュースとして掲載するのであるが,編集者の意見としては破門のような重大な行動を求めるのは賢明ではない。このような問題は教会に一任するのが最善の策である。教会の権威者は問題点を知り,また問題の帰着するところを十分に承知している―(編集者)

      「(ジェイムス・コルビン)

      「シカゴ(特報)― アドルフ・ヒットラーの破門を要請するアピールがピオ12世に送られた。

      「ヨーロッパ各国の宗教,在郷軍人,労働組合団体は民主主義擁護のために結束し,決議を送った。

      「電文の写しはシカゴのジョージ・マンデレインボストンのウィリアム・オコーネル,フィラデルフィアのデニス・ドーティ各枢機卿,ワシントン駐在使徒使節アメルト・ジオバンニ・チコグナニ大司教に送られた。

      「電文の一部は次の通りである,『アドルフ・ヒットラーはカトリック信徒の両親を持ち,カトリックの洗礼を受け,カトリックの教育を受けた。その公の言葉と行動,命令を見れば,ヒットラーはキリスト教および文明をおびやかす最悪の人間である。しかしそれにも拘わらず,ヒットラーはその両親の教会との関係を今に至るまで断絶していない。それでいまだに教会のメンバーであって教会法と教会の規律の下におかれている。

      「『アドルフ・ヒットラーの破門が自由,キリスト教,人道主義および文明のためになると信ずる我々は,アドルフ・ヒットラーの破門を公に宣告することを教皇閣下に請願する』。

      「大会において次の発言があった,『我々はある人が聖徒の列に加えられることを請願する。これはすなわち法王の権限を認めているからである。このような請願の効力はこの場合にも応用され得るであろう』。この集まりに代表を送った団体の中にはポーランド全国同盟,ポーランド・ローマカトリックユニオンの各派およびスロバク諸団体の合同委員会などがあった。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする