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独身者の直面するジレンマ目ざめよ! 1977 | 4月22日
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独身者の直面するジレンマ
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上記のような“求人広告”を出す人は少ないとはいえ,ここに言い表わされている痛々しいジレンマを自分でも感じている人は大勢います。そうした人々も,もっと巧妙な方法で自分を“宣伝”しましたが,今の世の中で結婚相手を探すのは,失意を伴う複雑な問題であることに気付きました。
30歳台の孤独な女性イレインは,自分の行き着いた絶望的な状態についてこう語っています。「本当に話し相手になってくれる人は一人もいません。食欲がなくなり,理由もなしに泣き出してしまうこともありました。その上,だれにも自分の心を打ち明けることができませんでした。自分の感情が余りにも高ぶっていて,恥ずかしかったからです。……結婚に関する限り,人々は私のことを見捨ててしまったようです」― ニューヨーク・ポスト紙。
イレインのような幾千幾万もの男女は,気をもみつつも,自分がどうしてそのような境遇に置かれているのか大抵考えていません。そうした人々は,良い結婚相手を見付けるのがますます難しくなっていることを示す社会学者たちの研究結果を多くの場合見過ごしています。またそうした調査が,良い結婚相手を見付けるのが困難になっている原因として,田舎の生活を捨てて都会へ出て来た人が増え,それに伴って男女関係のあらゆる面に疑問を投げ掛けた「道徳革命」が起きたことを挙げている事実についても知りません。
しかし大抵の人は,正式には“離婚”と呼ばれる,結婚関係の完全な解消が急増していることには気付いています。そうした人は,今日多くの人々が突然に冷淡な態度で恋人を捨てて,別の恋人を作ることを知っています。また,様々な方面から受ける数多くの矛盾する助言や,独身の友人たちが結婚相手を見付けるために使うそれぞれ全く異なったアプローチなどに気付いています。そして,混乱してしまうのです。
このすべてから抜けだす道がありますか。結婚相手を選択することは全く個人的な性質の事柄ですが,それでも老若を問わずこの問題を抱えている人々が従える指針や原則があるでしょうか。避けるべき明確な落とし穴がありますか。
“結婚に関する伝説”に対処する
当然のことながら,小さな子供を抱えたやもめや離婚した中年の男性の場合と若い人々の場合では,それぞれ状況や必要も異なってきます。しかしあらゆる年齢層の独身者は,結婚に関するよく知られた特定の“伝説”に直面し,その結果ジレンマは一層深刻になります。こうした伝説の真意を調べてみれば,混乱が少しは収まるはずです。
良く知られた伝説の一つは,“正反対の性格は引き付ける”ので,自分と全く異なった人を配偶者にすれば結婚関係に趣を添えることになる,というものです。もちろん,環境,宗教,そして国籍などの全く異なる人に対して,わたしたちは強い好奇心を覚えます。しかし最新の科学的な調査は,そのような結婚が離婚に終わる率が大きいことを圧倒的に示しています。例えば,「結婚関係の崩壊」という本の中で,ドミニアン博士はこう語っています。「主要な調査のどの結論を取ってみても,[宗教の]異なった人同士の結婚は……崩壊に至る危険が高いということを示しているようである」。
これは信じ難いことですか。しかし,常識的に物事を考えれば,自分の友だちというのは自分と似たような関心事を持つ人であることが分かるのではありませんか。いつも別の方向に引っ張ろうとしたり,あなたの楽しむ事柄を蔑視したりするような人とどれほどうまくやってゆけますか。聖書は,創世記 二章の中で,女が男の「助け手」となるよう造られたことを述べています。では,あなたとあなたの助け手が仲良く,幸福に暮らしてゆくには,同様の関心事や目標そして道徳規準を持っていなければならないのではありませんか。
実際のところ,夫婦が共に,生活の中で最も大切な事柄とみなしている点で同意していれば,日常生活はそれだけスムーズになります。互いに異なる点は,最初のうちは好奇心をそそるかもしれませんが,ほどなくして緊張を生み出す原因となりかねません。
結婚に関するその他の伝説の多くは,疑いもなく,夢中になった状態と関連しています。夢中になった状態を意味する英語の言葉は,「愚かな賞賛」,つまり自分が知りもしない人を理想化すること,と定義されています。“理想の人”や“一目ぼれ”に関する伝説は,どちらも夢中になった状態の症状です。
ぴったりな男性や完全な女性と言えるような相手を探している人は,突然おあつらい向きの相手が現われると期待している場合があります。もちろん,人が最初から他の人と比べてある特定な人に引き寄せられるのは自然なことです。相手の容姿や振舞い,およびその時の自分の気分などすべてがそれに影響を及ぼします。しかし,そのような人に魅惑的な王子様(あるいは王女様)の持つ神秘的な特質があると決め込んで,すぐにその人に対するあこがれの気持ちを抱き,『それからずっと幸せに暮らす』ことを期待するのは非常に危険なことです。
しかし,最初は夢中になっていても,求愛の過程を通して,相手の“本当の姿”がやがて分かるようになるものだ,と言われるかもしれません。残念ながら,必ずしもそうとは限りません。夢中になっている状態は,そのまま結婚まで続いてしまうこともあるからです。どのようにしてですか。最初からそれほど感情的に“燃え上がった”関係であれば,ほどなくして非常に親密な肉体的接触にまで進んでしまうことが少なくありません。そのようにして夢中になった人は,大抵の場合,ペッティングで情熱をかき立てることによって,一致しない点をうやむやにしてしまおうとします。こうして,二人の事実上見ず知らずの人間が,人生で最も親密であるはずの絆で結ばれるという悲惨な結果になるのです。
「結婚を最大限に活用する」という本は,「だれでも,自分にとって“理想的な人”を世界中のどこかに見いだせる,という考えは,人々の心に深く根を下ろした作り話であり,言い伝えである」と述べています。その本はさらに続いてこう述べています。「順応性のある人は数多くの人のうちだれと結婚しても幸福になれるが,順応性のない不幸な人はだれと結婚しても,うまくやってゆけない,というのがより実際的な物の見方である」。この言葉の真実性は,配偶者に先立たれた人がやがて再婚し幸福をつかんでいることからも分かります。
独身は“異常”か
不幸なことに,結婚に関する伝説の中には,独身者にかなりの圧力を与えるものもあります。そうした伝説のうち,親族や友人たちがしばしば唱える二つの伝説は,『結婚しない人にはどこか悪い所がある』とか,『だれもいないよりはだれかいたほうが良い』という考えです。そのような言葉は,独身を保つことが元来悪いことであると決めつけています。そうした非難の対象になる人は,自分が“異常”で,時には同性愛的な傾向があるとさえ思い込まされます。
もし結婚する必要がありながら,結婚生活に伴う諸問題を恐れるゆえに結婚しないのであれば,それは一つの問題です。一方,独身者が自分には結婚する必要がないと認める場合,それはかなり性質の異なる別の問題となります。教育者であるヘンリー・ポーマン博士はこう語っています。「独身のままでいることがより大きな幸福をもたらすと考えるなら,その人は何としても独身を保つべきである。……独身者でも順応性のある人がいるかと思えば,既婚者でも“オールドミス”や“独身男”と変わらないような人もいる」。
そうです,びくびくしながら,したくもない結婚に“追い込まれる”よりも,賢明な教え手イエス・キリストが人々について知っておられた事柄を認識するほうが優れています。イエスは,独身のままでいることに喜びを見いだす「賜物」,すなわち能力を持っている人がいると語り,そのような「賜物」を持つクリスチャンに,それを手放すことなく,神に仕えるためにその賜物を用いてゆくよう励ましました。―マタイ 19:10-12。
伝説とは幻想であり,広く知られたうそです。そして,これまでに論じたどの伝説に従ったとしても,結婚か独身かという問題を考えている人を一層混乱させる結果になるということは明白です。しかし,現代の若者の多くは,どんな幻想をも恐れる必要は全くないと言います。感情の赴くままに行動せよ,と言うのです。失敗することなど心配せず,少しの間一緒に住んでみて,“愛し合った状態”が続くなら結婚すればよい,とそうした人々は言います。では,“試験結婚”は,このジレンマから抜け出す道でしょうか。
“試験結婚”― それは満足のゆく解決策か
もちろん,二人の男女が最初は結婚しないで同棲するということは,何ら目新しい概念ではありません。目新しい点と言えば,それを公然と行なっている人の数が増えていることです。米国政府の一報告の示すところによると,同国では,1960年から1970年の間に,同棲している男女の数が700%も増加しました。最近の報告は,さらに大きな増加率を示しています。
クリスチャンの良心に明らかに反するという点を別にしても,次のような疑問が起きます。これらの男女は,“結婚生活”を楽しんでいますか。この同棲関係は,当事者を混乱から導き出し,有意義で永続的な関係へと導くことになりますか。
実を言えば,同棲している男女の中には一生寝食を共にする人たちもいるとはいえ,一般的にそうしたつながりは短命です。その生み出す実は,離婚と同じほど苦く,大抵の場合,離婚と同じほど感情的に非惨な結果をもたらします。それはなぜでしょうか。
ちょっとの間,正直な気持ちになって考えてみてください。“別れる自由”を,互いに対する真の確約よりも高く評価する関係は,一体どんな関係なのでしょうか。その二人が,自分たちは単に利己的な意味で喜びを“得ている”のではなく,喜びを“分かち合っている”のだと主張したとしても,それほど貴重で親密なものを,確約もなしに与えてしまうのは理にかなっていますか。
“試験”という言葉の一つの定義は,“実験”です。実験的な結婚などできる人がいるでしょうか。結局のところ,わたしたちは一枚の衣服を共有することについて論じているのではないのです。それが衣服であれば,裂けてしまっても,捨てられたとしても,新しい衣服を買いに行けばそれで事は足ります。しかし,親密な関係が損なわれた際にもたらされる感情的な“傷跡”は,ずっと根深いものです。そのために,自殺を企てた人さえいるのです。
同棲している者同士が互いに真の配慮を示しあっている場合でも,感情面での問題に直面することがあります。それは不安感です。同棲していたある男女は,なぜ結婚することにしたのか,と尋ねられた際,こう答えました。「結婚したかったからです。確約となるものがほしかったのです」。
しかし,『実際にやってみないことには,その人との結婚生活がどんなものになるか,本当に分かるはずがない』という論議についてはどう言えますか。ある作家は,同棲している男女に関して,賢明にも次のように述べています。「独身の状態では,結婚生活にかかわる調整を試してみることはできない。そうした試みが成功したように見えても,その人たちが,一緒に幸福な結婚生活を送れるということにはならない」。また,幾人かの人と同棲したことのある人は,新たな関係に入る際に少しも見識を増やしていません。少しでも学んだ事柄があるとしても,感情面で失ったもののゆえに,問題に対処する能力,与える精神,相手を信頼する気構えなどが少なくなっています。
確かに今日では,「自制」という古めかしい美徳は人気のあるものではありません。それは抑圧的で,制止的な特質で,人格に悪影響を及ぼすとみなされています。しかし,「性の抑制は危険か」との質問に対して,「現代人のための結婚」と題する本はこう答えています。「結婚前に性の欲望を抑えることに伴う身体的,精神的,および社会的な危険は,性の欲望を充足させることに伴う危険よりも少ない」。
“試験結婚”は,結婚に関する他の伝説同様,その上に結婚生活を築いてゆくには不安定で危険な土台です。しかし,次のように論じる方もおられるでしょう。「なるほどこれまでの論議は避けなければならない見方を知るのには役立ちます。しかし,それでは“積極的”な原則が残らないではありませんか。結婚の備えが自分にできていることがどうすれば分かるのですか。どのようにしたら,賢明な仕方で結婚の相手を選べるのですか」。
こうした難しい問題に対する,簡単な“うたい文句的な回答”はありません。しかし,『念には念を入れる』ほどの洞察力のある人にとって有益な指針は存在します。次の記事の中で,そうした指針を探ってみることにしましょう。
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結婚の相手を見付ける目ざめよ! 1977 | 4月22日
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結婚の相手を見付ける
「賢明な結婚をしたければ,分相応の相手と結婚せよ」とある詩人は言いました。『でも,自分にとって分相応の相手とはどんな人のことですか』とお尋ねになることでしょう。その答えは,ダンスパーティーの会場を見回すことではなく,自分を正直に見つめることから始まります。あなたにも人格上およびその他の欠点があり,完全ではありません。一方,あなたには一定の信念,才能,好み,そして必要なものなどがあります。そうしたものを見定めるよう努力してみてください。
さらに,結婚するための備えが自分にできているかどうかをも見定めねばなりません。ただ,「誓います」と言う用意ができているだけでは不十分です。結婚の誓いが求めるとおり,「愛し,尊び,いつくしむ」用意があり,実際にそうすることができなければなりません。夫や妻の役割にどんな事柄が関係しているか,正しく理解していますか。結婚をも含め,生活に対して現実的な見方をしていますか。
実際のところ,自分を正直に評価できるなら,それは感情面で円熟している証拠です。そして,自分および自分が結婚したいと思っている相手のうちに見いださねばならない特質は,感情面での円熟性なのです。小さな子供が大人と結婚することを考えれば,それだけでもこっけいで,おかしいことだと思えるでしょう。しかし,結婚してから,自分の配偶者が体付きだけは大人でも,考え方や感情面では子供であるのを知ったとすれば,それは何と悲惨なことなのでしょう。
あなたは,他の人の感情面の水準をどう評価しますか。良い結婚相手を見付ける秘訣はこの点にあります。それを思考力,常識,あるいは識別力などどんな名で呼ぼうとも,それは自分の感情によって真実を“ゆがめる”ことなく,他の人を客観的に観察できる能力を意味しています。例えば,いつも自分の方法で物事を行なわねば気が済まず,すぐに失望して投げやりになり,注目の的になっていようとする人を見たなら,どんな人のことを思い起こしますか。そうです,子供です。「でも,彼(あるいは彼女)はとてもすてきなのです」と声を上げられるかもしれません。それでは,その人はとても魅力的な子供にすぎないのです。この点についてもう少し考えてみてください。
思考力をこのように強調することをあざける人は少なくありません。そうした人々は,他の人を好きになるかどうかは単なる性的誘引力に基づいているにすぎず,『それこそ現実的な生活というものだ』と主張します。確かに,普通,性的な誘引力は大きな要素となります。しかし,現実の生活,つまり日常生活には,性以上の多くのものが関係しています。事実,一日中どれほど仲良くしてゆけるかどうかは,性の適合性を決める上で大きな役割を果たします。また,感情面で“大人”になった人は,自分が性的には多くの人に,しかも時を同じくして引き付けられることがあっても,結婚して幸福になれるような相手は比較的少ないことを認めます。
ですから,永続的で幸福な関係を求める人にとって,思考力と感情面の円熟性は欠くことができません。このために,若者たちは取り分け難しい障壁に直面します。なぜそうなるのか考えてみましょう。
“感情面での大人”― いつ?
実際のところ,人が感情面で円熟に達したと一律に言える年齢はありません。中には,いつまでたっても成長しない人もいます。しかし,一つだけ確かなことがあります。それは,だれかと結婚したからと言って,その人がすぐに大人になるという訳ではないということです。それで,結婚したいと考えている若者は,次の重大な質問を検討しなければなりません。あなたの配偶者になろうとしている人が感情面で十分に成長した大人になる見込みはどれほどありますか。次のような事態に直面したいと思われますか。
「どうしてこんなことになったのか分かりませんが,私はもうビルを愛していません。どうしようもないのです。ビルは,私が結婚した時のビルではないのです」。
「私には妻が物足りなく思えます。妻は私の必要とするものを与えることができないのです。妻には私を満足させることができず,これからも決してできないでしょう。結婚する前にそのことを見抜けたらよかったのだが」―「結婚生活のみぞ」。
一体何が起きたのでしょうか。幾つかの要素が関係しているに違いありません。しかし,結婚した当時,一方,あるいは双方が,精神および感情面での“育ち盛り”と言える状態にまだあったのでしょう。人間の身体面での成長は,普通十代の後半で止まりますが,「多くの人は,20代の前半になっても,依然として,態度,好み,選択などの急速な変化を経験している。ある時点で永久的な選択と思えた事柄が,後日になって,一時的なものであったことが分かる場合が多い」というポーマン博士(「現代人のための結婚」)の意見に同意する心理学者は少なくありません。
早い時期に結婚した十代の夫婦の受ける影響について考えてみてください。極めて現実的な意味で,両者はそれぞれ大きな変化を遂げ,相手から期待されていたとは全く異なった人格を結婚後築き上げてしまうかもしれません。もちろん,そうした夫婦は,このような障害を克服するよう努力できます。前述の夫婦のような消極的な態度を取る必要はありません。しかし,このすべては,「若さの盛りを過ぎて」から,すなわち感情面でもっと落ち着いてから結婚に関する決定を下すようにと述べる聖書の知恵を例証するものです。―コリント第一 7:36。
しかし,感情面で十分成長した人々の間でさえ,結婚の相手を探す場合に識別力を働かせねばならない分野が数多くあります。その一つは,自分の交際範囲です。
他の人々との関係
友人を必要としない人はいません。しかし,もし結婚したいと思っているなら特に,自分の交際に注意を払う必要があります。なぜですか。それは,“お見合い”結婚の行なわれている土地に住んでいない限り,互いの友人を通して知り合った人と結婚するようになる可能性が大きいからです。そして,あなたがいつもどんな人々と交わるかは,あなたの属する社交グループによって左右されます。ですから,恋愛感情を抱く前に,自分の友人たちを評価してみてください。
彼らがあなたの“友人”になっているのは,あなたが金銭面で何かを与えているからですか。それらの人々と有意義な関係を築き上げていますか。あなたは本当に,それらの人々と同じ信念や関心事を抱いていますか。その人の影響はあなたをより良い人間に変えましたか。こうした交際範囲を検討することは結婚と関係がないように思えるかもしれませんが,実際には関係があるのです。あなたは,いずれかの友人を切り捨てたり,注意深く交際範囲を“広げ”たりして,自分の友人関係に調整を加える必要があることに気付かれるかもしれません。
また,他の友人たちと一緒に“新来者”を招待し,共に晩の一時を過ごすのも,新しい友人を知るための最善の方法の一つと言えるでしょう。この方法は,すぐにだれかとデートをして,二人だけの関係を持ち,感情によって現実がゆがめられるままにするよりもはるかに安全です。
しかしこの時点で,「一体どんな交際範囲があるのだろう」と考える方もおられるでしょう。多くの人にとって友人を作り,結婚の相手となり得る人と知り合うのは本当に困難です。内気や不安感が問題なのかもしれません。過敏であることが問題となる場合もあります。また,自分にふさわしい人はだれもいないという感情,つまり優越感が問題となっている人もいます。
いずれの場合でも,その問題に関して自分を正直に見つめ,それを克服するよう努力してください。必要ならば,円熟した人の助言を求めるとよいでしょう。しかし,自分を孤立させてはなりません。聖書の箴言は,「自分を孤立させる者は利己的な願望を求め(る)」と述べています。(箴 18:1,新)問題の原因が何であれ,内向的になればなるほど自己中心的になり,他の人に友情の基盤となるものを提供できなくなります。
幸福は,自分から与えること,他の人のために尽くすことからもたらされます。他の人との意志の疎通を十分図り,どのようにしたら他の人を助けたり,他の人に愛を示したりすることができるかという見地から物事を見る能力は,結婚する際に携えて行ける貴重な資産です。夢の世界に引きこもるなら,たとえ結婚したとしても,もう一人の不完全な人間との日常生活に対する備えができていないことになります。
どこかに招待されたなら,自分が本当に感謝していることを表わすとよいでしょう。一方自分が独身であるというだけの理由で,他の人々がいつも自分を歓待すべきだ,というような態度を培ってはなりません。ちょっとしたことでも,人をもてなす心構えでいてください。
しかし,この点で注意を一言。パーティーで楽しみ,“遊ぶ”ことが自分の唯一の生きがいであるかのような印象を他の人に与えるのは賢明ではありません。実際的で,知力を向上させるような関心事を培うよう努力します。身体面でも自らに注意を払わねばなりません。あなたの身繕いは,あなたが自分のことをどう考えているかを反映するからです。また,魅力的な人格を表わすことにも,しばしば平衡を保つという問題が関係してきます。会話やグループの活動に全く加わらないほど引っ込み思案にならないよう努める一方,それとは正反対に,横柄な態度で,会話を独り占めにするようなことも避けねばなりません。
デートをすることに決めた場合,時を同じくして幾人か別の人とデートをするのは極めて無分別なことです。感情的に非常に混乱してしまい,理知的な選択をすることが事実上不可能になってしまいます。それだけでなく,あなたは一人の人としか結婚できないのですから,実際には人を欺いていることになります。そして,他の人を傷付けることに加えて,“浮気者”とか“誠意のないうそつき”というような評判を得ることになります。相手が自分の望むような人であるかどうかそれほど定かでないなら,どうして親密な付き合いを続けてゆくのですか。
さて,ある“特定な友人”と自分との間に,互いに引かれるものを感じたとしましょう。思考力と感情面の円熟性は求愛期間中どのように導きとなり得ますか。
実際的な求愛
求愛期間は幸せなときであるはずです。しかし,春に美しい花を咲かせた木が,後日悪い実を結ぶとすれば,咲き誇る花の思い出も,単なる慰めにしかなりません。
笑ったり,共に楽しんだりできるのは良いことです。浜辺を散歩して,ただ「語り合う」ことが非常に有意義な場合もあります。しかし,求愛期間には,結婚のための備えをするという,別の目的もあることを忘れてはなりません。求愛期間中に,一緒に買い物や研究をするというような実際的な事柄を行なえば,結婚生活への難しい移行に対するより良い備えができるでしょう。
ボーイフレンドやガールフレンドを喜ばせたいという強い欲望があるとはいえ,“虚勢”を張って別人のように振る舞うことは極力避けてください。将来配偶者となる見込みのある人を失いたくないために,事実上,演技をしている人は少なくありません。問題は,いつまでそうした演技を続けられるか,ということです。求愛期間を十分に取ることが勧められている一つの理由はそこにあるのです。
求愛がスムーズに進展するとしても,どうすれば自分の感情や“相性”の良し悪しを本当に見定めることができますか。若い人々が既婚者にこうした質問をすると,大抵,「自然に分かるものだ」というような答えが返って来ます。でも,何が分かるのでしょうか。
互いを求め合うだけでなく,互いに信頼し合えるようになったことを悟るようになるのです。互いのために物事を行ない,互いに与え合いたいという気持ちになります。共通の信念や関心事が数多くあるということがはっきり分かるようになります。また,現在の関係だけでなく,将来その関係が深まる可能性をも認めるでしょう。このすべては,純粋の愛の表われです。
今日では,若者たちが自分勝手に事を運び,突然見知らぬ人を連れて来て,自分の“婚約者”として家族に紹介するようなことが多くなってきました。しかし,自分が結婚しようとしている人について,また自分の気持ちについて,年長の人に相談するという,“旧来”の方法は,確かに賢明です。感情的に事態に巻き込まれていない人は,大抵の場合,より現実的な決定を下せるよう助けを与えてくれるものです。
誠実なクリスチャンは,知恵の最大の源である,結婚の創始者の下に行く必要性をも認めます。そのように末長く影響を及ぼす決定を下すには,絶えず祈り,黙想しなければならないことを神のしもべは認めています。そのような人は,『あなたは良い妻(あるいは夫)を見いだしたであろうか。その人は善いものを見いだしたのである。そしてエホバから善意を得る』という聖書の箴言を覚えています。(箴 18:22,新)首尾よく結婚生活を営む上での様々な障害を考えると,確かに神の「善意」を熱心に求めねばなりません。
婚約した後も,婚約者について知ろうとする点で怠ってはなりません。ある大学の調査は,「今日の婚約した男女は,婚約期間中,結婚式について心配することに終始し,結婚式の後どんな結婚生活を送るかについて十分の計画を立てていない」という結論を出しています。実際のところ,結婚生活に入ってからも,自分の配偶者を知り,配偶者に自分を合わせようと努める態度は肝要です。それは,調和と幸福のために“投資”をしているようなものです。
しかし,結婚の相手を見付けるためのこうした指針を読んで失望する人もいるでしょう。こうした提案の多くを試してみたのですが,今だに結婚の相手が見付からないのです。
「相手が見付からないのです」
今日,多くの独身者は非常に難しい現実に直面します。そうした人々は,身体障害,年齢,家族の責任などの事情のゆえに,自分たちに結婚する機会があったとしても,それはごくまれであるということを知っています。一人の年配の未亡人が述べたとおりです。「私ぐらいの年齢になると,女性よりも男性の方が少なくなり,その男性の多くはもっと若い婦人に関心を持っています」。そのような立場に置かれているなら,どうすればよいでしょうか。
これまでに述べられた事柄は,自分の場合には当てはまらないと思われるかもしれません。しかし,少しの間考えてみてください。これまでに,自分自身を正直に評価し,自分の交友を注意深く広げることが勧められました。また,夢の世界に引きこもるのではなく,むしろ他の人々と有意義な関係を築くよう促されました。そうすれば,確かに受けるよりも与えるほうが幸いであることを必ず悟るようになるでしょう。やがて結婚するかどうかは別問題としても,人生に対する積極的な見方を持っていれば,後悔することはありません。そうした見方は豊かな益をもたらすからです。
残念なことに,幸せな結婚をする機会が突然訪れても,それに対する備えが依然としてできていないような人もいます。一方,自分が持っていないものについて思い巡らしてばかりいるなら,情緒的に不健全な結果をもたらします。それは既婚者が,もし独身だったら持っているはずの自由についていつも思い巡らしているのと同じほど危険です。それは幸福をもたらしません。
孤独な人々の中で,自分が幸福になる道は創造者との親しい関係を築くことである,という点を自ら経験した人は少なくありません。愛ある神の存在を悟り,神がどれほど配慮を払ってくださるか,また神に仕えることによってどんなに有意義な生活を送れるかを知った人々は,決して見いだせないと思っていた満足感を味わっています。―詩 55:22; 73:28。
その結果彼らはまた,自分たちを助けてくれる人々との楽しい交わりにも導き入れられました。一人の婦人は次のように語っています。「私が特にエホバの証人に引き付けられた一つの点は,彼らの示す暖かさや誠実な親切心です。王国会館で私の受けた歓迎はとても印象的でした。私は自分のことにしか関心を払わない,非常に自己中心的な人間でした。しかし,聖書の真理は,受けるよりも与えるほうが幸いであるということを私に悟らせてくれました」。そして,そのような信頼の置けるクリスチャンの間でこそ,正直で平衡の取れた結婚の相手を見付けるより良い機会があるに違いありません。
ですから今日,結婚生活に至る道には困難や危険があるとはいえ,思考力を行使することによって,現代の“独身者”の傾向を避けることができます。そうした傾向は,多くの場合,不幸の連続にすぎないからです。結婚に関する伝説や多くの人がならわしにしている感情的に有害な行為を退け,聖書の原則に従うなら,ふさわしい結婚相手を見付ける機会がずっと多くなるでしょう。そして,しっかりした結び付きが築き上げられてゆきます。というのは,神のお定めになった結婚というこの取り決めの範囲内で,自らを与えようとする人がまだ残っており,その取り決めには永続的な喜びをもたらすあらゆる可能性が秘められているからです。
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