-
『すべての国の人々を弟子とする』ものみの塔 1970 | 3月15日
-
-
でいます。エホバの奉仕者がある日の朝最後に訪問した家の若い女の人は,聖書を理解したいと長年のあいだ考えていました。強い関心を持った彼女は,1週間になん度も開拓者の家を訪れて聖書研究をし,4か月立たないうちに伝道者になりました。また,「目ざめよ!」誌を予約し,一昨年の11月から家庭聖書研究を始めた人の場合があります。1月からすべての集会に出席するようになったこの人は神の民の暖かさにすぐ心を動かされました。2月から週に2回研究し,4月には聖書研究を司会する伝道者となりました。看護婦をしているひとりの人は一昨年の8月に研究をはじめ,病院で「血」に関する問題のない部門に移してもらうことができました。彼女は1月までに伝道者となり休暇開拓をする計画を立てています。4年制の仏教系の大学の一学生は,2度目の再訪問を受けるまでに,「偽ることができない」の本の最後まで答えとなる部分に印をつけて調べていたので,伝道者を驚かせました。二,三か月しないうちに,この学生は家族の激しい反対に直面しました。彼女が,それまで属していた仏教の宗派から籍を抜いたからです。そして,自分の姉妹や友人を集会に伴い,そこで模範的な注解もしています。現在この人は喜びにあふれた伝道奉仕者です。つぎは商店の経営者で,店のお客に証言したひとりの姉妹の経験です。その客との研究は11月に始まりました。関心を持つこの人は2月から伝道者になり,現在自分の子供たちと研究をしています。そして,子供のひとりは伝道者になりました。
最初の訪問で研究を始める仕方について奉仕会でよく取り上げられましたが,家庭聖書研究を一つも司会していなかったある姉妹は,それらの助言を十分活用するために休暇開拓奉仕をすることにしました。その結果,2週間の休暇開拓中に五つの新しい研究を取り決め,その月の後半にさらに三つの研究を始めることができました。また13歳の伝道者は,進歩のためにいつもより高い目標を持たねばならないという話を奉仕会で聞いて心を動かされました。それで,雑誌配布のわざをするだけでなく,雑誌の予約を提供するわざにも参加しはじめました。予約を提供する奉仕に初めて参加した日に,商店の経営者から「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌両方の予約を得るという喜びを味わいました。翌日,以前雑誌を求めたことのある学友に学校で証言し,ふたたび2種類の雑誌の予約を得ました。それだけでなく,その場で「見よ!」の小冊子を用いて研究を取り決めることもできたのです。この若い伝道者は東京で開かれた「地に平和」国際大会でバプテスマを受け,一つの目標を達成しました。
ひとりの新しい伝道者は,喜びと驚きの入りまじった気持ちで,神権宣教学校の最初の割り当てを受け取りました。その伝道者は割り当てを果たせましたか。エホバにより頼んで資料を集めました。しかし,どのように効果的に練習することができましたか。その伝道者は,以前奉仕している時に,聖書にいくらかの関心を持つ教会に通う婦人に出会ったことを思い出しました。彼女はその婦人を再訪問して「神の民はバビロンから出るように指示される」という主題の割り当ての話をし,婦人がどのように受け答えをするかに注意しました。割り当ての相手役の人に,その婦人と同じような応答をしてもらうようにするためです。彼女が話し終えると,その婦人は強い関心を示し,もっと教えてほしいと言いました。次の週に再訪問する約束ができました。さらにうれしいことに,新しい研究が始まったのです。彼女は神権宣教学校の最初の割り当てをこのように真剣に準備したことから大きな喜びを得ました。
以前は仏教徒でも,エホバの証人になり,聖書の原則に従って生活するようになっている人々がいます。最近証人になったひとりの婦人は,妊娠と乳ガンという二つの問題に直面しました。夫は中絶するように言いましたが,彼女は良心のゆえにそうしませんでした。またガンの手術の際に輸血を受けることも断わりました。その結果,夫は彼女と離婚し,他の女性のもとへ行きました。この姉妹はやがて輸血なしで手術を受け,健康な子供を産みました。夫はすぐれた妻を失ったことに気づき,この姉妹に再び結婚を申し込みました。ところが姉妹は,法的にも聖書的にも結婚のきずなが解かれているので,「主にある者とのみ」結婚しますと答えました。以前の妻と再婚するための資格を得たいと願う夫は,今エホバの証人と聖書を学んでいます。
-
-
読者からの質問ものみの塔 1970 | 3月15日
-
-
読者からの質問
● 性に関連して世間でさまざまな意見が広められているため,結婚した人々から,夫婦間の行為・産児調節・不妊手術・妊娠中絶などについて多くの問い合わせを受けました。ここでは,わたしたちに許されていると考えられる範囲で,そうした問題を取り上げます。
結婚は神授のものであり,エホバ神が始められたものです。アダムに妻を与え,アダムを補うものとされたのは,人間の創造者ご自身です。これは夫婦間に性行為のない精神的な恋愛にすぎませんでしたか。聖書に従えばそうではありません。聖書によれば,神は最初の人間夫婦に,『生めよ,ふえよ,地に満てよ』と命じたのです。―創世 1:28。
これはエホバご自身が結婚をどう見ておられるかを知る助けになります。そのおもな目的の一つは,生殖つまり子供を産むことです。(創世 1:28; 2:18)これは単為生殖,つまり卵子が受精しないで成長することによってなされるのではありません。神の指示に従うためには性関係をもつこと,つまり夫婦間の性行為が必要でした。それゆえ,この親密な行為は清く,喜ばしいものであり,みだらなこと,また恥ずべきことと見るべきではありません。それは生命を伝える手段であり,神聖な,そして誉れある事柄です。しかし聖書が明確に示すとおり,クリチャンは性交を夫婦間に限らねばなりません。創造者は結婚関係外の性行為を非としておられます。「神は淫行のもの,姦淫の者をさばきたまふ」としるされています。―ヘブル 13:4。
しかし,夫婦間の行為が性欲の充足ともなっていることから,性交に伴うある種の性行為の妥当性について尋ねる人もいます。しかし,結婚生活上のこの親密な面で各夫婦が何を行なうべきかは,局外者の指示する事柄ではないと答えねばなりません。
男女の生殖器官は,『生めよ,ふえよ』という高貴な任務を果たすべく神によって付与されたものです。その目的のためこれらの器官がどのように協働するかをここで述べる必要はないでしょう。その設計からして明らかです。結婚している人々は,夫の性器が妻の産道に適合し,生殖という重要な目的にかなっていることを知っています。
夫婦間ではどんな行為も許されると唱える人がいます。しかし,そうした考え方は聖書と相いれません。聖書はロマ書 1章24-32節で,男女それぞれの同性愛を含む性の不道徳行為をする人々について述べ,その中で,「女の自然の用」という表現を用いています。これは性的な興奮を求める欲情を満たすために生殖器官を曲用することが神の是認を受けないことを示しています。同じことは結婚した夫婦にもあてはまるでしょう。夫婦も「女の自然の用」を曲用すべきではないのです。このことを法律的に定め,夫婦間のある種の行為を禁じている土地さえ少なくありません。たとえばアメリカ合衆国について,タイム誌1969年8月8日号は,「夫婦間をも含め,男色その他の不自然な交接は[この国の]ほとんどの州で禁じられている」と述べました。(どんな到錯した行為が行なわれているかを知らない人は,そのことをむしろ感謝すべきです。エホバ神はクリスチャンに対し,「悪においては幼児とな(れ)」と命じておられるからです。―コリント前 14:20)
双方の必要という点から見て,性交は夫婦がやさしい愛情と互いへの深い思いとを表現する方法の一つです。ただ自分の感覚を満足させるため,配偶者の感情もかえりみず,生殖器官を卑しめるような行為に加わらせるのはこのことにかなっていますか。それはやさしく,また愛のあることですか。正常な人なら,自分のからだを痛めつけたり,嫌悪を感じさせる行為を自分のからだに強制したりはしません。聖書は夫と妻が一体であると述べています。(エペソ 5:28-31)それで愛と分別とのある夫もしくは妻は,自分の配偶者が当然に不自然とみなし,また嫌悪するような性行為を要求しないでしょう。自分の配偶者のからだに対する権威は無制限なものではなく,聖書の原則にのっとるべきなのです。―コリント前 7:1-5。箴言 5:15-19。
独身者にとって性に関する自制心は必要であるが,ひとたび結婚すれば,この面での自制心はもはや必要でないと感じる人がいます。しかしこの考えは正しくありません。自制は霊の実の一つであり,人のすべての行動に表わされるべきです。(ガラテヤ 5:22,23)男子の性欲は女子の場合より強いのが普通です。妻が愛の心から自分の夫を満足させようとするにしても,夫は自制心を余分に働かせるべきです。夫は『自分の妻を弱き器としてとうとば』ねばなりません。(ペテロ前 3:7)そのためには,性に対する妻の気持ちが自分と異なっていることを認めることも必要です。『知識にしたがってともにすみ』,自分がいつ,どれだけ望むにしても,自分の満足だけを急いで求めるべきでなく,身体的にも感情的にも妻を思いやらねばなりません。
しかし,夫婦の行為についてこれ以上述べることはできません。愛と敬意と無私の心とに基づいて,夫婦各自は自分たちの行なう事柄を決めるべきです。そして自制心の大切さ,および「与ふるは受くるよりも幸福なり」という原則を銘記すべきです。―使行 20:35。
これと関連して産児調節の問題があります。初めに述べたとおり,聖書に従えば,生殖は結婚のおもな目的の一つです。そしてわたしたちは子供が祝福であることを確信しています。つまり,詩篇 127篇3節が述べるとおり,『胎の実は報い』です。しかし,これは,クリスチャンすべてが結婚し,子供
-