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  • エホバへの奉仕の挑戦を全面的に受け入れる
    ものみの塔 1972 | 5月15日
    • は価なくして売られたり金なくして贖はるべし」。いいかえれば,この地上にいる献身した神のしもべたちをとりこにした人びとは,それらとりこのために支払わず,ただで彼らを手に入れました。5節と6節はさらにこう述べます。「エホバ宣給く わが民はゆえなくして俘れたり されば我こゝに何をなさん……この故にわが民はわが名をしらん このゆえにその日には彼らこの言をかたるものの我なるをしらん」。それで神はご自分の民をゆえなく,つまりただで連れ去らせます。敵が彼らを買わずに所有するままにさせます。ゆえに,地上にいるナオミ級の残れる者で代表される神の女は,大いなるバビロンから請け戻される,つまり買い戻される必要がありました。

      19 見捨てられた状態にあったナオミは特に,ユダに対するヤコブのどんな約束について知っていましたか。

      19 これは子どものいない,そしてあたかもエホバに見捨てられ,懲らしめられたかに見えるやもめ,ユダの支族のベツレヘムのナオミの直面した挑戦でした。しかし彼女の心の奥底では,イスラエルの女,それも特にユダの支族の恵まれた少数の女に対するエホバの目的にあずかりたいとの願いがなおも燃えていました。というのは,この支族の人たちはユダの父ヤコブの約束にあずかる見込みを持っていたからです。西暦前1711年,ヤコブはエジプトで死ぬ直前,次のことばをもってユダを祝福しました。「笏はユダからそれず,命令者の杖もその足の間からそれず,ついにシロが来るにおよんで,彼に諸民族の従順が帰属する」。(創世 49:10,新)「それを有する者」または「それが属する者」という意味の名のこのシロは,その杖を揮う命令者,王笏を握る者にちがいありません。その者はメシヤ,つまり地上のあらゆる家族がそのかたを通して自らを祝福する,アブラハムの真のすえに違いありません。(創世 22:17,18)そのかたはアブラハムの曾孫ユダの家系のだれの子となるのでしょうか。ユダの家系のどんな母親がその子を胸にいだく著しい誉れにあずかるのですか。子どもがなく,それに出産年齢もとうに過ぎたナオミはおそらく心の中で,それは私ではない,と考えたことでしょう。みじめな状態にあったナオミが『わたしをマラと呼んでください』と叫んだのももっともなことです。

      エホバは道を開かれる

      20 何世紀も後にイザヤを通してエホバのどんな約束がなされましたか。

      20 しかし,エホバはこの忠実な女を見捨てようとはされませんでした。その叫びはエホバの耳に達したのです。何世紀も後に,ナオミによって表わされた女に対してエホバに代わって次のように話した預言者は,ナオミにそう語っていたのだといえるでしょう。「『わたしはほんの少しの間わたしの顔をあなたから隠したが,定めのない時までの愛ある親切をもってわたしはあなたを憫れむ』とあなたを買い戻す者,エホバは仰せられる」。(イザヤ 54:8,新)このことはナオミに関してどのように成し遂げられようとしていましたか。もしナオミが子孫を残さずに死ぬのであれば,なくなった夫のあの地所を託すべき相続者は持てないことになります。それにもしユダの支族からシロを生み出すというエホバの目的がナオミを通して果たされるのであれば,ナオミには男子の相続者が必要です。彼女は何をすべきでしたか。

      21 イスラエルの律法には,ナオミ同様の窮境に陥ったやもめのためのどんな規定が設けられていましたか。これはルツにとってどのように挑戦となりましたか。

      21 この点でもやはりイスラエルの律法は,ナオミ同様の窮境に陥った人のための規定を設けていました。エホバご自身の約束によれば,古代イスラエルの忠実な女性は産まず女のままでいることはありませんでした。エホバは仰せられました。「汝の神エホバの言に聴したがふ時は……汝の胎の産……に福祉あらん」。(申命 28:2-4)男子もその名を受け継ぐ者がいないままにされることはありませんでした。イスラエルの律法はこう述べます。「兄弟ともに居らんにその中の一人死て子を遺さゞる時はその死たる者の妻いでて他人に嫁ぐべからず其夫の兄弟これの所に入りこれを娶りて妻となし斯してその夫の兄弟たる道をこれに尽し 而してその婦の生ところの初子をもてその死たる兄弟の後を嗣しめその名をイスラエルの中に絶ざらしむべし」。(申命 25:5,6)買い戻すことにかんする定めとともにこの律法はナオミにとって唯一の希望でした。もし兄弟あるいは近い親族を見いだせれば,ナオミは律法のこの規定にすがって解決の道を求められるかもしれません。しかしたとえそのような親族を見いだしたところで,ナオミ自身は子どもを生み出すことはできません。したがって,ナオミに残された唯一の機会は,この取り決めの中でナオミに代わってエリメレクにすえをもたらしうる義理の娘ルツにかかっていました。ルツはこの機会をどうみなしましたか。自分に何かを与えうる若い男子を見つけたいという希望を自らいだいていたとすれば,ルツはそれを喜んで捨てましたか。つまり,この挑戦の中に,エホバの目的を追い求め,自分の生き方をそれにかなったものにする機会を認めましたか。

      22 預言的な劇の中でほかにだれがこの挑戦の影響を受けましたか。その結果は今日のわたしたちにどのように影響を及ぼすにちがいありませんか。

      22 また,ボアズおよび「某」と呼ばれた人物についてはどうですか。彼らは,ナオミの死んだ夫エリメレクの名を継ぐべき相続者を彼女に与えるこの挑戦にどう応じましたか。それをエホバの奉仕にいっそう十分にあずかる機会とみなしましたか。この挑戦とその結果は今日のわたしたちにどのように影響しますか。ナオミが霊において回復され,彼女の生涯の夢が実現されようとしていたこと,またルツやボアズそれに「某」と呼ばれた人物がこの挑戦に直面して演じようとしていたことはみな,自分の生き方をエホバの目的にかなったものにするよう今日のわたしたちをさえ動かさずにはおかないこの感動的な劇の要素となっています。次の記事はその結果を明らかにするものとなるでしょう。

  • あなたの生き方をエホバの目的にかなうものにしなさい
    ものみの塔 1972 | 5月15日
    • あなたの生き方をエホバの目的にかなうものにしなさい

      1 (イ)今日,思いと心のどんな態度が人類を苦しめていますか。(ロ)ルツとナオミの直面したどんな挑戦が,熱意と専心の点でわたしたちに教訓を与えるものとなっていますか。

      「人みな信仰あるに非ざればなり」とは使徒パウロのことばです。(テサロニケ後 3:2)このようにいえる理由は数々ありますが,中でも著しい理由となっているのは,この20世紀においてきわめて強力になった自己決定の精神です。自己の欲望を充足させようとするこの欲求は,一種の宗教となり,創造者に対する愛は片隅に押しのけられ,創造者の目的に対する無関心さのため人びとの心と思いは完全にそこなわれています。したがって,エホバへの奉仕の挑戦を無私の念をもって受け入れ,自分の生き方をエホバの目的にかなうものにした人たちを見るのはエホバにとってどんなにか気持ちのよいことでしょう。また,わたしたちにとってそれらの人はなんとすぐれた模範でしょう。そうした顕著な模範の一つは,自分の民とモアブにあるわが家をあとにして,義理の母であるやもめナオミに同伴してベツレヘムに赴いた昔のルツのそれです。自分もやもめであったルツは,モアブで夫を見つけて,住み慣れた環境の中に落ち着き,家族をもうけたいと思えば,おそらくそうすることもできたでしょう。しかし,ナオミに対する愛,またエホバの崇拝に対する愛に動かされたルツは,すべてを捨ててナオミとともにイスラエルに赴いたのです。

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