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  • 結婚に何が起きているか
    目ざめよ! 1979 | 1月22日
    • 結婚に何が起きているか

      世界各地から寄せられる報道は,結婚という取決めが困難な事態に直面している,とほぼ同じような事を伝えています。

      報道機関がよりセンセーショナルな事柄を活字にしたがるのは確かです。マスコミが結婚に関する諸問題をよりひんぱんに取り上げるのに対し,多くの優れた結婚関係をともすれば見過ごしがちなのはそこに理由があります。

      それでも,次の事実を否定することはできません。すなわち,激しい変化の波が,結婚という取決めに向かってあらしのような勢いで打ち寄せている,という事実です。

      どれほど深刻か

      この問題はどれほど深刻ですか。次に挙げる幾つかの例は,世界中の大抵の国で見られるものです。

      オランダ: 「結婚は,世界革命とも言えるほどの事態に脅かされている」―「一夫一婦婚の終焉」という本の出版者。

      英国: 「この変化を,今世紀最大の社会的大変動と見る向きもある」― ロンドンのサンデー・テレグラフ紙。

      メキシコ: 「結婚は,かつてないほど大変な退廃期の走りとなっており,それが原状に戻るのは不可能なことである」― 社会学者,フアナ・アルマンダ・アレグリア博士。

      米国: 「長続きする堅実な結婚はごくまれなものとなったため,再び興味を引くものとなった」― マコールズ誌。

      中には結婚に対して非常に否定的な見解を抱く人もおり,アメリカの一評者などは,冗談ばかりとは言えない調子で,次のように語りました。「結婚許可証にはこう書かれているべきであろう。警告: 公衆衛生局局長は,結婚が健康に有害であると裁定している」。

      離婚の著しい増加

      過去10年間に,離婚は著しい増加を見せました。オーストラリアでは,過去10年間に,離婚件数が四倍に増加しました。オーストラリアのウイメンズ・ウイークリー誌は,「多数の夫婦が,夏の海に浮かぶ氷山のように別れてゆく。……何か非常に根深いものが我々の伝統的な結婚の概念を揺さぶっているようである」と述べています。

      カナダでは10年間に離婚率が五倍に増えた,とマクリーンズ誌は述べています。同じ期間にスウェーデンの離婚率は二倍になりました。日本では14年間連続して離婚の増加が見られました。ローデシアでは今や,三組につき一組の結婚は離婚に終わっています。

      英国では,ロンドンのサンデー・テレグラフ紙は次のように述べています。

      「家族を大事にする社会であれば,離婚に関する最近の統計に驚かずにはいられないであろう。……英国の離婚率は,今や世界でも非常に高い部類に入り,ほぼ二組の結婚に対して一組近い割合になっている。

      「このままの率でゆくと,早晩,崩壊した家族の数は崩壊していない家族の数に匹敵するようになり,崩壊した家族の子供の数は崩壊していない家族の子供の数と肩を並べるようになり,捨てられた妻の数は捨てられていない妻の数と同じほどになるであろう」。

      どんな形態の政治信念であろうと,こうした傾向の影響を受けずにはいられません。ソ連では米国と同じほどの率で離婚が起きています。ソビエト・ライフ誌は次の点を認めています。「平均して三件につき一件の結婚は公に解消されている。昔と比べて,その数は増加している」。

      米国でもその率は同じです。結婚する三組の夫婦のうち一組は離婚に終わっています。そして最近では,結婚20年以上になる年配の夫婦もその中に含まれており,その数は着実に増加しています。確かに離婚する人の中には再婚する人も少なくはありませんが,その半数近くは再度離婚しているのです。

      この世の宗教も,こうした傾向の影響を受けずにはおれません。一時は家族の伝統の非常に強かったユダヤ教徒の結婚にも,破たんが見られるようになっています。「アメリカにおけるユダヤ教徒の家族生活 ― 危機と崩壊」というテーマで討議するために集まった,1,000人の正統派ラビの会合で,ユダヤ教徒の結婚10件のうち4件は解消されることが認められました。

      別の趨勢

      結婚という取決めに重大なかかわり合いを持つ,別の趨勢も見られます。正式に結婚せずに同棲することを選ぶ人の数は増加の一途をたどっているのです。そうした人は誓約をしたがらず,いつでも自分の好む時にその関係を自由に断てるようにしておきたいと願っています。

      もちろん,正式に結婚せずに同棲するという考えは何も目新しいものではありません。それは様々な国のある特定の人々の間で,長い間ならわしにされてきました。目新しいのは,こうした仕方で生活している人の数が驚くほど増加している点,またその行為がどれほど広く受け入れられるようになったかという点です。こうした趨勢は特にヤング・アダルトの間に急速に広まってはいますが,それはそうした若い世代だけに限られているわけではありません。年のいった人の間でも,同じようなことをする人は増えています。

      南米のある国では,今や,夫婦として生活している人々の40ないし50%は結婚せずに同棲していると推定されています。米国では,縁組みしていないで同居している男女の数が,1970年には約65万人だったのに比べて,1977年には150万人に増加しました。

      アフリカのある国では,アパートの管理人が次のように語っています。「若い人々の間で一体何が起きているのか理解に苦しみます。アパートのこの一区画で,結婚の恩恵に浴さずに相手を変えることが余りにも多いので,今月だれが家賃を払いに来るのか全く分からない状態です」。

      多くの人が結婚を避ける理由

      ある人々が結婚することを望まないのは,自分の親の結婚が悪い先例になっているためです。母親と父親が“猛烈に相争う”ような家庭で生活するという経験は,子供にとって感情面で有害であることが再三証明されてきました。

      それは単なる比喩的な表現ではありません。一調査によると,離婚を求める主婦の四分の一は,その理由として夫による身体的な虐待を挙げています。ロードアイランド大学の社会学者,リチャード・ジェレズは,自分のインタビューした夫婦の半数以上が互いに対して暴力をふるった経験を持っていることを見いだしました。権威者の述べるところによると,妻を殴ることは「通報されることの最も少ない犯罪」です。そして今では,妻によって傷付けられる夫もかなりの数に上っています。

      結婚生活上のいざこざがもたらす別の悪い結果には,生まれて来ようとしている胎児に及ぼしうる害があります。カナダの心理学者,デニス・ストット博士によると,不幸な結婚から来るストレスのために,妊産婦が身体的,また感情的に障害のある子供を産む可能性は,結婚生活上のストレスを味わうことの比較的に少ない母親の場合の二倍にも上ります。

      それで,スペインの「目ざめよ!」通信員は次のように論評しています。

      「一生涯尾を引くような失敗をする可能性を恐れる若い人は今日少なくない。自分の親たちの不幸な結婚の傷跡がまだいえていない人もかなりの数に上り,そうした人々は不幸な結婚の結果を長年にわたって,痛ましい仕方で味わっている。それで,生まれて来ようとする,自分の子供が自分と同じような不運な人間になることをうけがわないのである」。

      ですから,世界中で結婚に関して起きている出来事の厳しい現実を避けて通ることはできません。それは気持ちの良い情景ではありません。それは結婚の当事者,および将来の母親や父親になる可能性を持つその子供たちに,多大の心痛と害をもたらしています。

      どうして今,このような事柄すべてが起きているのでしょうか。結婚生活で幸福を願う人々はどうしたらそれを自分のものにできるのでしょうか。それとも,結婚という取決め自体に欠陥があり得るのでしょうか。

  • 結婚の取決めに欠陥があるのですか
    目ざめよ! 1979 | 1月22日
    • 結婚の取決めに欠陥があるのですか

      近年になって結婚関係上の問題がなだれのごとくに起きているため,結婚という取決めそのものに欠陥があるのではないか,それは時勢に合わない取決めとして捨てられるべきではないか,と考える人もいます。

      では,機械を操作する人が設計者の指示を無視して機械を酷使し,その結果機械が壊れた場合,その設計者に責任があるでしょうか。長距離のドライブをしていて,車の運転者が道路地図を無視して道に迷った場合,地図の製作者に責任があるでしょうか。

      いいえ,ある物が誤用されたからといって,その物自体が良くないというわけではありません。大抵の場合に落ち度のあるのはだれですか。それを誤用する人間です。

      結婚の取決めについても同じことが当てはまりますか。事実はどんなことを示していますか。結婚を捨てて,他の生活様式を取り入れた人々にとってそれはより良い生き方となったでしょうか。破たんをきたした家庭の子供たち,そして社会全般にはどんなことが起きているでしょうか。

      記録の示す事柄

      歴史の示すところによれば,結婚関係や家族が崩壊すると,社会の道徳全体が低下する傾向が見られます。その最終的な結果は,向上ではなく,さらに多くの問題です。人々が結婚や家庭を守るための努力をしなくなったとき,帝国全体はもろくも崩れ去りました。

      現代において,その悪い影響は,よりいとけない者たち,すなわち破たんをきたした結婚の犠牲者である子供たちにとって特に有害なものとなっています。西アフリカの国ガーナの一報道は,崩壊した家族の子供たちについて次のように述べています。

      「そのような家庭の子供は惨めである。そのような子供は親の健全な世話を決して受けることがなく,無視され,愛されず,ほうっておかれ,彼らのする事柄に本当に関心を持っている人はいない。彼らは幼いうちからずるけ者になり,そして……常に法律と闘う,かたくなな大人の犯罪者へと堕落してゆくのである」。

      世話をみてくれる父親がいないということは,家族全体,それも特に,父親のしっかりとした導きと扶養を必要とする男の子にとってつらいことです。例えば,米国のある家族の父親は仕事で一度に幾週間も家を空けることがありました。その結果,三歳になる息子は過敏になり,一晩に大抵10回か11回目を覚まして,父親を呼ぶようになってしまいました。母親が観察したところ,父親が家にいる時には,息子は朝まですやすやと眠り,ずっと行儀よくしていました。母親はこう語っています。「この子にはお父さんが必要なのです。この子は週に二日ほど保育園へ行っていますが,先生は[この子の父親が]家にいる時にはそれを言い当てることができるそうです。子供の振る舞いからそれほどはっきりと分かるのです」。

      両親の間がうまくゆかなかったり,両親が離婚したり,しばしば家を空けたりすると,子供が惨めであることは一般に認められてはいますが,大人の場合はどうですか。離婚,別居,“開かれた結婚”,同棲,あるいは共同社会型の“結婚”などへの現代の傾向に押し流されていてより良い生き方をしていますか。

      より良い生き方か

      問題が起きると結婚生活を続けてゆくことをすぐにあきらめさせてしまうような,大きな圧力のかかる国は今日少なくありません。ファミリー・サークル誌は次のように伝えています。「永続的な誓約は実行不能だとか,別れることにかかわる危険は手に負えないほどではないとか,結婚の解消によって人の個性は豊かになるなどと論じる本や記事がはんらんしている」。

      本当にそうでしょうか。結婚の解消は『豊かな』個性への道でしょうか。そのような仕方で条件反応を示すよう仕向けられてきた人々のうち一定の人々にとってはそのように思えるかもしれません。しかしそれは,大多数の人には当てはまらないのです。

      より典型的な例として,自分の夫と別居し,“快楽を味わう”ため,また新しい人々に出会うために独身者バー巡りをするようになった一婦人の経験があります。やがて,そうした一時的な付き合いは浅薄で,満足のゆかないものであることが分かりました。相手の男性のほとんどは,性的な出会いにしか関心がありませんでした。

      この婦人は,自分の出会った,離婚あるいは別居をした人の多くについて,次のように語っています。「そうした人々がいかに絶望的に見えたか,今でも忘れることはできません。私はどうしようもない気持ちになりました。そうした人々は本当の意味で結婚していない人でした。結婚はもはやうまくいかないようですが,毎日のようにふくれ上がってゆく新しい絶望的な世代があるのです。というのは,正直言って,結婚していないということもうまくゆかないからです」。

      「結婚していないということもうまくゆかない」。これは,数十年にわたる離婚と別居の急増の結果を分析した後,いよいよ明らかになっている結論です。関心を示してくれる人,関心を示す相手,信頼できる人,同情や親切を互いに示し,問題を分かち合える人がいなければ,大抵の人にとって人生は満足のゆくものではない,という点をますます多くの人は認識するようになってきています。

      最初の目新しさが消えてしまうと,配偶者に対する責任を負わずに自分の気まぐれにふけるという新たに見いだした自由が,期待していたほどの恩恵をもたらしていないということに気付く人は少なくありません。それは,『豊かな』個性への道であることを示してはいません。

      “グループ婚”

      二人の人間のあいだの結婚が多くの場合失敗に終わり,かと言って孤独は望ましくないので,“グループ婚”,つまり共同社会的な生活をそれに代わるものとして提唱する人もいます。そうした形式の結婚では,各人は複数の配偶者を持つことが認められています。そうした結婚は,伝統的な結婚よりうまくいっているでしょうか。

      1,000人以上の住民を擁するテネシー州の一コミューンは,“マルチ結婚”を実験してみました。後日,そのコミューンの一成員は,「それはうまくゆかなかった。だれもが抱えるごく普通の問題は増大するばかりです」と語りました。この人の観察によると,結婚したカップルはほどなくして「自分たちだけの生活へ走り」,独り身の者たちは結婚している者たちに,「私たちもいとこのようにして一緒に生活し,家族を持てるようにしてもらえませんか」と求めることが少なくありませんでした。

      グループ婚のような,代わりとなる生活様式によって,結婚生活の諸問題から逃避しようとするのは当初魅力的に思えるかもしれません。しかし,人間の本性から逃れることはできません。早晩,この人間の本性というものに直面し,対処しなければならなくなります。人間は他の人と最善の仕方で相互に影響し合うよう造られていますが,その道から離れれば離れるほど,人生は一層難しいものとなります。男女間の親密な愛や子供に対する親の愛情については特にそう言えます。

      カンザス・シティー家族児童局のバーナード・オブライエンは次のように語っています。「嫉妬は,どんな実験的試みにおいても,おばあさんの時代と全く同じように生き続けている。結局のところ,愛する人を共有するということに耐えられる人はほとんどいない」。どうしてそうなのでしょうか。わたしたちはそのように感じるよう造られているからにほかなりません。

      別のコミューンでは,カップルに子供が生まれたときに,コミューン式の取決めはそのカップルの頭の中で「崩れ去り」ました。彼らは,父,母,そして子供の間の親密な愛を他の人に分かつことができなかったのです。その父親は,「父親になったとたん,コミューンの概念はすべて吹き飛んでしまいました」と語っています。彼らは,父親と母親を中心にして,その周りを子供たちが囲む,自分たちの“核家族”を持ちたいという強い願望に従いました。

      “開かれた結婚”

      “開かれた結婚<オープン・マリッジ>”というのは,結婚当事者が互いに結婚関係外の性交渉を持つことを認めるものです。言い換えればそれは姦淫です。六年ほど前,ニーナおよびジョージ・オニール共著の「開かれた結婚」という本がベストセラーになりました。彼らは,結婚関係外の性関係がある夫婦には『報いのある,有意義な』ものとなり,その結婚を強める場合があると述べ,結婚関係外の性関係を勧めました。はたして,そのようになったでしょうか。

      幾年もの間実際の経験の跡をたどった末,この著者たちは今,“開かれた結婚”が全くそのような結果をもたらさなかったことを認めています。むしろ,正反対の事態が生じました。そのような姦淫をならわしにする人々は互いに極めて不幸になることをこの著者たちは知りました。“開かれた結婚”を実践した人で,その後夫婦としてとどまった期間は,せいぜい二年でした。彼らは,『開かれた性は全くの失敗であった』という結論に達しました。結果として,この著者たちは,結婚に最大の幸福をもたらすものとしての「性の貞節に対する新たな呼び掛け」を起こす別の本を出版しました。

      “開かれた結婚”に関して,カナダの結婚カウンセラー,エド・バッダーは,「開かれた結婚への道を進んだ夫婦で私たちの知っている者はいずれも,例外なく破たんをきたした」と語っています。また,同国の心理学者,ラリー・キャシュも次のように論評しています。「開かれた結婚,すなわち結婚した人は性的にも感情的にも全く自由であるとする概念は,茶番である。私は10年間結婚相談をしているが,それがうまくいった例をついぞ見たことがない。それは崇高な概念かもしれないが,人間の本性にはそれを御してゆくだけの用意ができていない」。

      しかしそれは,本当に「崇高な概念」でしょうか。決してそうではありません。そのような結婚は,感情的にも,精神的にも,人間の造りに全く反するものです。わたしたちは愛する人が貞節であることを望み,姦淫を犯すことなど望みません。結婚関係を損なったり,台なしにしたりすることなしに,結婚によって与えられる親密な関係を部外者と分かち合うことはできません。確かに,そのような“代わりの”結婚様式を提唱する人々は,その昔,創造者がわたしたちの益のために書き記させた次の事柄を,今になって悟るようになっているのです。「結婚はすべての人の間で誉れあるものとされるべきです。また結婚の床は汚れのないものとすべきです」― ヘブライ 13:4。

      誓約の重要性

      様々な生活様式を試みた人々の多くが見いだした事柄がほかにもあります。それは,結婚に伴うような誓約がなければ,様々な問題を解決するために余り努力しようとしないのが人の常であるということです。また,特に女性にとって,安心感がありません。

      多くの女性が気付いていることは,もっぱら男性の世界で生活していると,結婚の絆のもたらす安心感がない場合に生活はずっと難しくなるということです。そうした女性は,男性が事実上,『僕はある期間君を欲しいだけなのだ。君にあきたら,もっと若い娘と取り替える』と言っているような関係を結ぶのが感情的にとても耐え切れないと感じているのです。

      グッド・ハウスキーピング(上手な家政)誌は,同誌の読者に,「同棲はより永続的な関係を形作るのに役立つと思うか。[あるいは]より永続的な関係を阻むものとなるか」という質問を提起しました。一定数の人々は結婚の誓いのない同棲を支持する答えをしましたが,その十倍以上に相当する数の読者は,結婚していないことは永続的な関係を阻む,と述べました。

      トロント・スター紙の伝える,次のような一カップルの経験も珍しいものではありません。同棲していたこの二人は,自分たちが依然として「あらゆる事柄について争っており」,その上,同棲は結婚と同じ問題をももたらしているのに気付きました。しかし,結婚の誓約をしていなかったので,二人はいつも別れられると考えていました。では,それは二人が協調してゆくのに役立ちましたか。いいえ,そうした考えは,問題の解決へ向けてより一層の努力を払うことを妨げました。その後,二人は結婚しました。後に,この夫婦は次のように語っています。「結婚して以来,私たちはけんかをしないよう一層努力するようになりました。私たちは二人共,努力をしています。私たちは誓約したのですから,そのことについて争うのは無意味です。以前はいつも,別れると言って脅したものですが,今ではそうすることもなくなったように思います」。この二人は,誓約によって,結婚を成功させるために一層努力するよう動かされたことに気付きました。

      同様に,マコールズ誌は,「どうして解放された婦人が結婚に踏み切っているのか」と題する記事を掲載しました。同誌は次の点に注目しています。「我々は自己達成へ向けて一生懸命に努力してきたが,それにはそれなりの価値があった。ところが,最近,我々の多くは驚くべき発見をした。それは,何か肝要なものが依然として欠けているということである」。

      何が欠けていたのでしょうか。同棲した後,結婚した一夫婦は次のように説明しています。「実を言えば,単に同棲するだけでは十分ではありませんでした。私たちは自分の生活に構造を求めます。そこで,誓約という考え方は好ましいと決めたのです」。マコールズ誌は次いでこう述べています。

      「誓約! この語は余りにも古くて,かえって新しい感があり,それを実践する機会をうかがう人は増えている。

      「我々は元に戻ってきたようだ。これまでの15年ほどの間,幸福を追求し,あらゆる選択の自由を試み,夢を追うような探求をしてきた。我々は,開かれた結婚,結婚しないこと,結婚せずに子供を持つこと,試験結婚などを試み,あるいは少なくともそれについて論じてきた。

      「結局,社会の変化のあらゆる混乱の末,我々は,誓約は自己達成なしには不可能であるが,自己達成が愛情なしに成し遂げられるならそれは完全でない,という結論に達しようとしている……。

      「それで,10年ないし15年にわたって夢を追うような可能性を試みた我々は,永続性の核心を見逃していたことに気付いた。そして,開かれた関係は,当人が他の人について何とも思わない時にのみ可能になることを悟った」。

      結婚によって感情面の必要を満たすことは,長生きにも一役買っています。保険会社は,未婚の人のほうが既婚者よりも若死にする危険性の高いことを昔から認めていました。例えば,15歳から64歳までの年齢層において,離婚した男子の死亡率は,あらゆる主な死因について,結婚している男子の二ないし六倍にも上りました。メリーランド大学医学部の心理学者,ジェームズ・リンチの結論はこうです。「孤独は,人間の心を引き裂くか,さもなくば損なうものとなる」。

      近年になって,そのような研究結果が表面に出てきたとしても,それは驚くに当たりません。実際のところ,それは予期された事柄でした。結婚という取決めは,単に人々の便宜のために「進化」したものではないからです。結婚は男と女を創造された方に起源を有するものです。そして,神が人間を造られたのですから,どんな関係にあれば人間が一番成功するかを神はご存じです。神の定められたわく組みの中で人間が各々その役割を果たせば,最善の結果を得られます。―創世 1:26-28; 2:18-25。

      男女間の人間の愛を表現し,安心感と永続性をもたらし,子供を育ててゆくために,結婚に代わるものはありません。

      欠陥があるのは結婚ではありません。基本的に言って,誤った仕方でその取決めを用いている人間に欠陥があるのです。

      ですから,満足感を得たいと思う人は,誤った哲学に圧倒されて,結婚そのものに責むべき所があるかのように,それを堕落させたり,消滅させたりする道を模索しようとすべきではありません。結婚を向上させ,維持するのに役立つ道,つまり結婚生活上の諸問題を解決するのに役立つ道のほうを模索する必要があります。

      [7ページの図版]

      あなたがいないことは,子供にどんな影響を及ぼしますか

  • 結婚のきずなが弱くなりつつある理由
    目ざめよ! 1979 | 1月22日
    • 結婚のきずなが弱くなりつつある理由

      この世の結婚カウンセラーは,現代において結婚のきずなが弱くなりつつある原因として,数多くの理由を挙げます。しかし,そのようなカウンセラーのほとんどは,最も根本的な原因を考慮に入れていません。

      この根本の原因を考えに入れないなら,彼らの助言は有益であるとはいえ,多くの場合十分とは言えません。事実,意見が余りにも異なっているため,その助言が矛盾することさえあります。

      この事態は,歯が痛むのでアスピリンを服用する人の状況になぞらえることができます。それは痛みを和らげるのに役立つかもしれませんが,問題の根本原因を正すものとはなりません。根本的な原因が明らかになり,正しい処置が施されれば,痛みは除かれます。

      同じように,結婚生活上の諸問題についても,その根本原因を正さねばなりません。そうすれば結婚という取決めそのものを除き去らなくても,諸問題を解決できます。いわば,“産湯と共に赤ん坊を捨てる”ような必要はないのです。

      しかし,根本原因を分析する前に,今日の結婚が失敗に終わる,より表面的な理由の幾つかを,簡単に調べてみましょう。

      若過ぎる結婚

      熟さないうちにもぎ取った果物は,苦い味のするものです。同様に,若過ぎるのに結婚する人は,苦い味を刈り取ることが少なくありません。結婚の失敗の例は,非常に若い夫婦,特に十代の若者の間に高い率で見られます。その夫婦が若ければ若いほど,危険率も高くなります。

      オーストラリアのウイメンズ・ウイークリー誌は,その点を率直にこう述べています。「18歳で結婚するのは愚にもつかないことである。若過ぎて,まだ生活経験に乏しい。自分がどんな人間か分からないため,未熟な決定を下すことが多い。そのころ重要に思えるささいな事柄は,後になれば重要ではなくなる」。そうです,自分を知るようになるには時間がかかりますし,自分の配偶者になろうとする人を知るのにも時間がかかります。

      若いころの“愛”のほとんどは,本当の愛などではなく,のぼせた状態,肉体的な誘引力です。しかし,それだけでは結婚生活を営んではゆけません。これは,結婚前に情欲をほしいままにし,少女が妊娠する場合にも見られます。そのカップルは結婚しますが,結局すぐに離婚する破目になります。

      フランスでは,「結婚してから二年しないうちに離婚する夫婦の85%は,結婚前にその最初の子供を妊娠している」と,「離婚アラカルト」という本は述べています。性的魅力も,赤ちゃんも,結婚のきずなをつなぎ止めておくのに十分ではありませんでした。

      非現実的な期待

      愛,性,そして結婚について非現実的な概念を抱いている人は少なくありません。それは,テレビ,映画,本,雑誌,友人,あるいはその人自身の空想に源を有するのかもしれません。こうした概念が結婚で実現できないと,その人は誤った期待を責めるのではなく,むしろ配偶者や結婚という取決めを責めるのです。

      ある人の場合,結婚したいという欲望が,本当に似合いの配偶者を見付けるという必要に打ち勝ってしまいます。そうした人は,自分の結婚相手はそれほど似合いの相手ではなくても,『どうにかやっていける』と考えます。そして,どんな結婚でも,結婚するほうがしないでいるよりはましだと思います。あるいは,結婚してから相手の性格を変えてやろうと考えます。

      しかし,離婚に関する驚くべき統計は,そうした期待が非常に多くの場合,非現実的であることを示しています。『どうにかやっていけ』ない場合が少なくないのです。当てにしていた性格の変化は起きず,夫婦は『どんな結婚でも』しないよりはましだなどと言えないことに気付きます。そうした人々が後日抱く離婚したいという願望は,結婚がうまくゆかないと,結婚しないでいるよりも悪い,と彼らが考えていることを示しています。

      背景

      多くの場合,人がどのように育てられたかによって,その人の結婚生活のたどる進路が左右されます。家庭の雰囲気がよくないと,将来の結婚生活は脅かされるでしょう。親のよくない行為を軽べつしていても,後日,自分もそのよくない行為を模倣していることに気付く人も少なくありません。この点に関して,一人の主婦はこう語っています。

      「母はよく父を批判し,怒ると父に向かって物を投げ付けたものです。自分でもいやでたまらないのですが,私には夫にがみがみ小言を言い,腹を立てると物を投げる傾向があります。それはあたかも,そうした仕方で夫と生活するよう母が『教えて』くれたようなものです。夫との間に問題を作り出すのではなく,それを解決する方法を教えてくれればよかったのにと思います」。

      夫婦の背景の別の面は,二人の関心事が余りに異なっている点と関係があります。最初のうち,そのような相違は興味深く思えるかもしれません。しかし,結婚してから時間がたって,そうした相違の目新しさが消え失せると,それは摩擦の種になりかねません。食べ物の嗜好,服の趣味,あるいは仕事,金銭,政治,宗教などに対する態度など,好き嫌いに相違があればあるほど,結婚後それについて言い争う可能性も大きくなります。

      正反対の人間は最初のうち引き付け合うかもしれませんが,後で互いに反発する場合があります。初めから共通点が多ければ,結婚してから後に対立する分野もそれだけ少なくなります。

      雇用および金銭面の圧力

      夫が仕事に夢中になりすぎ,職場の人との付き合いにうつつを抜かすようになると,妻を顧みなくなります。妻はそれに憤慨するようになり,家庭と子供を顧みなければならないことに制約を感じるかもしれません。

      一方,経済上の必要のためではなく,生活を『もっと面白く』するために働きに出る妻は,夫を憤慨させることもあるでしょう。夫は,妻が夫の関心事,家庭,そして子供の養育をなおざりにしていると感じるかもしれません。

      物価の高くなった昨今,家計を助けるために働きに出る主婦も少なくありません。そのような状況の下では,夫が妻に相変わらず家事一切を切り回すよう期待する場合に問題が生じます。妻はそれを不公平であると考えますが,それももっともなことです。こうして,二人の関係は緊張するのです。

      夫が家族に不自由のない暮らしをさせるのに,ふさわしい勤め口を見付けられないと,問題の起きることもあります。こうした状況下で,夫は自尊心を失うようになり,あげくは大酒を飲むようになるかもしれません。それは良くない事態をさらに悪化させ,妻はいよいよ失意を深めます。

      夫婦間の不和の主な原因になっている財政問題は,多くの場合人々が不必要な物に対する欲望を制御しないために生じます。そうした人々の欲望は必要をはるかにしのぎ,自分たちの資力を超えた買い物をします。

      このことは,しばしば宣伝されている物や年長の人が愛用している物を見て,それを欲しがる若い夫婦の多くに当てはまります。そうした夫婦は,それら年長の人々はその物を入手するために長年働かねばならなかったということを忘れています。こうして若い夫婦は大きな借金を抱え,自分たちの稼ぐよりも多くのお金を使います。その生活様式を支えるために共働きをしなければならないかもしれず,大抵の場合,それでも収入は足りません。また,まさにその時,妻に子供ができて,働けなくなるかもしれません。こうして請求書の支払いを済ませるだけの資金にも事欠き,苦々しさや粗捜しがそれに続きます。

      意思疎通の欠如

      このありふれた理由は,結婚当事者が冷静かつ率直な仕方で互いに話し合おうとしないことを中心としています。それは結婚生活の様々な面に取り返しのつかない影響を及ぼします。

      大抵の場合,妻は,自分の考えや言動に夫が関心を抱いていないと感じるものです。夫は自分の意見に耳を傾けてくれない,と妻はこぼすかもしれません。それで,妻は孤独を味わい,愛されていないと感じ,伴侶(夫がその伴侶であるべきなのに)がいないように思うのです。こうして,夫婦の間が疎遠になってしまいます。

      しかし,多くの場合に,意思疎通の欠如は問題の原因ではありません。それは結果なのです。何か別の点がうまくゆかなくなり,その一つの表われとして,夫婦間の健全な会話がいよいよ少なくなってゆくのです。

      アルコール中毒

      家庭を破滅に追いやる主要な原因の一つはアルコール中毒です。世界中には幾千幾百万人ものアルコール中毒者がおり,アルコール中毒になりかけている人がさらに幾百幾千万人もいます。

      人が飲酒にふけるのは,“楽しみたい”とか“いい気分になりたい”からでしょう。しかし,それは,人が対処するのに苦労していて,飲酒によって和らげたり,逃避したりしようとする別の問題の結果でもあるかもしれません。しかし,大酒にふければ,当初の問題が何であれ,それを悪化させることは請け合いです。

      余り飲まない人は,大抵,よく飲む配偶者を不快に思うものです。離婚のうち,配偶者の側のアルコール中毒をその主要な原因としているものはかなりの割合を占めています。

      残念なことに,アルコール中毒の親を持つ子供は,後日,自らも飲酒の問題を抱える率が高くなります。こうした幼いころからの家庭での“訓練”あるいは“慣れ”は結婚生活にまで持ち込まれ,飲み過ぎのためにその親たちの経験した数多くの問題を自分たちが経験することになります。

      性の問題

      結婚が破たんをきたす別の主要な理由は,性の不一致です。夫は,妻が自分と同じほど性関係に関心を示さないので不満を表わすかもしれません。妻は,夫は利己的で妻の感情的な必要を考慮してくれないとこぼします。

      性を大目に見る今日の態度は何の役にも立っていません。男性の場合特に,自分の持つあらゆる性欲を満足させる権利を与えられて然るべきだと考え,妻がその欲望を満たしてくれないと,外部に相手を求める人が少なくありません。それに対して妻は,もっと思いやりがあると自分の考える人との不義の関係を求めます。しかし,こうした家庭外の不貞行為は,やがて結婚をだいなしにしてしまいます。

      浮気をし,場合によっては私生児をもうけることさえ男らしさの表われとみなされる土地は少なくありません。夫は家族の資金の多くをそうした情事につぎ込み,妻や嫡出子の使える資金が少なくなることもあります。妻は普通,こうした事態に強い怒りを表わすものです。

      簡単になった離婚

      近年になって,法律が改正された結果,離婚はずっと容易になりました。今では,離婚したいという願い以外に理由を必要としない,“請求があれば離婚を認める”ような土地もあります。

      そのような簡単な離婚法がますます一般化するに従って,少なからぬ人は,『結婚がうまくゆかなければ,いつでも離婚できる』という考えを抱くようになります。しかし,まさにその態度が有害なものとなりうるのです。そうした態度があるために配偶者の選び方について,よりぞんざいになるのです。また,結婚生活で困難が生じても,それを解決するために一生懸命努力しようとする意向が少ないことも十分に考えられます。

      それで,これまでに挙げたのは,近年になって結婚の失敗する例が増大している理由のうち,比較的ありふれたものの幾つかで,もちろん,このほかにも理由はあります。こうした問題に対処するのを助けるために,この世の結婚カウンセラーは様々な助言を与えます。中には優れた助言もありますが,不適当な助言,矛盾する助言,そしてただひどいとしか言いようのない助言もあります。

      こうした混乱が見られるのはなぜですか。なぜなら,そうしたカウンセラーのほとんどは問題の根本原因を把握するに至っていないからです。根本原因を把握し,ふさわしい解決策を当てはめるまで,結婚生活の失敗という脅威は消え去りません。

      これまで,結婚が失敗に終わる理由のうち,より表面的なものを見てきました。しかし,もっと根深い原因があります。では,結婚生活の諸問題の根底にあるものは何ですか。また,結婚の取決めに幸福を見いだすには何が必要ですか。

      [13ページの図版]

      あなたの結婚は損なわれていますか……

      ……財政問題で

      ……沈黙で

      ……アルコール中毒で

  • 結婚が失敗に終わる根本原因
    目ざめよ! 1979 | 1月22日
    • 結婚が失敗に終わる根本原因

      わたしたちの時代に,結婚の失敗する例が増大している根本原因はどこにありますか。今日,結婚そのものがこうした危機の渦中にあるのはなぜですか。

      その答えは,次のような例えを用いて説明できるでしょう。複雑なコンピューターが故障した場合,それを修理するためにだれが呼ばれますか。別のコンピューターではありません。むしろ,より高度の頭脳,専門のコンピューター技師,願わくはその設計者か製作者,つまり本当に機械に精通している人が呼ばれるでしょう。

      では,結婚における人間関係が破たんをきたした場合,“修理”のためにだれを呼ぶべきでしょうか。同じように限られた知識しか持ち合わせていない,別の人間ですか。いいえ,コンピューターの故障の場合と同様,より高度の頭脳,本当に物事に精通している方,願わくはその設計者か製作者に助言を求めるほうがはるかに分別のあることです。

      それはだれですか。人間を創造された方で,結婚の創始者であられるエホバ神です。エホバ神は人類を創造し結婚を取り決められたのですから,破たんの生じる理由や人間関係を円滑にしておくのに必要とされる事柄をだれよりもよくご存じのはずです。

      根本原因

      それでこのことから,わたしたちは結婚が失敗に終わる最も基本的な原因,つまりその根本原因を理解することができます。すなわちその根本原因は,人間を造り,結婚を創始した方,つまりエホバ神の定めた幸福な結婚のための律法と原則を,結婚当事者の一方,あるいは双方が無視することにあります。

      夫婦がそれら賢明で実際的な律法と原則の枠内で協力すれば,その後,結婚関係はうまくいくはずです。しかし,そうした律法と原則を無視すれば,もめ事がすぐ後に控えています。

      幸福な結婚のためのそうした公式は,わたしたちの想像に任されているわけではありません。それは,創造者がわたしたちの益のために著わされた手引き書,つまりみ言葉である聖書の中に収められています。

      様々な異議

      しかし,多くの人は『でも,聖書も神への信仰も,いわゆる“キリスト教”の国々に昔からありましたが,それは結婚の失敗を防げなかったではありませんか』と言って異議を唱えます。

      確かにその通りです。とはいえ,キリスト教であると称える国に住んでいるというだけで,その国がキリスト教的になるわけでも,そこに住む人々がクリスチャンになるわけでもありません。聖書を持っているというだけで,その人が聖書の規準に従って生活していることにはなりません。実を言えば,聖書を持っている人のほとんどは,その律法や原則を実践していないのです。

      中には,別の面から次のような異議を唱える人もいます。『しかし,夫婦のどちらも聖書を手引きとして用いず,神を信じていなくても,幸福な結婚生活を送っている人がいるのではありませんか』,と。

      確かにその通りです。では,その幸福はどのようにしてもたらされるのでしょうか。その幸福は,意識的にではないにしても,結婚当事者が聖書に示されている規準と似た規準に従っている結果にほかなりません。知ろうと知るまいと,そうした人々は,神から与えられた良心に従って,結婚に関する神の律法と原則に調和した生き方にもっと近い生き方を自分のものにしてきたのです。―ローマ 2:14,15。

      しかし,結婚の正しい手法を偶然に自分のものにすることを当てにするのは,かじも航海士もなしに出帆し,偶然に目指す目的地に漂着するのを期待するようなものです。起こり得ないことではありませんが,それを当てにするのは賢明ではありません。経験豊かな航海士の乗り組む,かじの付いた船のほうが,正しい航路を取り,その目的地に到達する可能性ははるかに高いでしょう。

      同じようなことですが,あなたなら次のどちらを選びますか。道路地図なしに,危険で見ず知らずの道路を通って広い荒野を車でドライブしますか。それとも,道路を造った技師の作成した道路地図,旅行をした他の多くの人々にとって信頼性が証明されている地図を使いますか。

      神は,結婚に関する偉大な航海士であり,ご自分のみ言葉の中に手引きとなるかじを備えました。神は結婚の偉大な技師であり,成功へ至る道を造りました。そして,信頼の置ける道路地図を出しておられるのです。

      致命的な欠陥

      結婚は人間に源を有し,人間の必要を満たすために,長い年月をかけて,いわば進化してきたと考える人は少なくありません。また,創造者を信ずると言いながら,その方の意志を知るための努力をほとんど,あるいは全く払わない人もいます。ですから,これら大勢の人々すべての致命的な欠陥は,人間の知恵だけを自分たちの結婚の導きにしていることにあります。彼らは,一番よく知っておられる方,結婚の創始者に由来する,より優れた知恵を無視します。

      自分の導きとして人間の知恵だけに頼る人は,聖書の中で,「荒野に育つ小さな木」になぞらえられています。「何も良いことの来るのを見ない」という点で似ているのです。しかし,自分の造り主に導きを求める人は,「水のほとりに植えた木のようで,その根を川にのばし,暑さにあっても恐れることはない。その葉は常に青く,ひでりの年にも憂えることなく,絶えず実を結ぶ」と言われています。―エレミヤ 17:6,8,口。詩 1:1-3。

      しかし,自分たちの生活の中に神の介在を望まない人も少なくありません。彼らは,“独力でやる”ことを望むのです。そうした人は事実上,ヨブ記 21章14節から16節に描写されている人々と同じようなことを言います。「邪悪な者は,自分たちを構わないでおくようにと神に告げる。彼らは自分たちの人生に対する神の意志を知りたいと思わない。彼らは神に仕える必要はないと考え,神に祈っても何の益もないと考える。彼らは自分の力で成功すると言い張る」―「現代英訳聖書」。

      しかし,本当にそうですか。結婚の破たんという残骸で混乱している人間社会を見れば,そうではないと言わねばなりません。そして,その残骸は,神からの知恵を無視した結果生じたのです。そのわけで聖書は,「人が見て自ら正しいとする道でも,その終りはついに死に至る道となるものがある」と述べているのです。―箴 14:12,口。

      むしろ,神の助言はこうです。「心を尽くしてエホバに拠り頼みなさい。自分の理解に頼ってはならない。あなたのすべての道において彼を認めなさい」。そうです,「エホバに対する恐れは知恵の始まり」なのです。―箴 3:5,6; 9:10,新。

      現実を直視する

      西アフリカの一政府職員は「聖書の原則に対する敬意のみが結婚を成功させる」と述べましたが,これは結婚を成功させるというこの問題に関する真理を言い当てていると言えるでしょう。

      わたしたち人間はそのように造られているのです。神に源を有するそうした原則を無視すれば,その結果は当然良いものではありません。それは,人間を支配する他の原則,つまり法則を無視する場合に似ています。例えば,引力の法則を無視して高い所から飛び降りるなら,その結果としてけがをするか,死にます。また,食物や水や空気の摂取を求める,身体の自然の法則を無視するなら,やはり代償を払わねばなりません。同様に,結婚に関する神からの原則 ― 精神的にも,感情的にも,身体的にもわたしたちの造りに適した原則 ― を無視すれば,失敗という代償を払うことになります。

      わたしたちは自分のまくものを刈り取ります。(ガラテア 6:7)もし小麦を刈り取りたいのなら,雑草をまくことはできません。本当に幸福な結婚を望むなら,成功させるために神が与えてくださった律法や原則に反した生き方をすることはできません。そして,結婚の造り主の備えてくださった青写真に近付けば近付くほど,わたしたちは幸福になります。

      確かに,神の規準に忠実に従えば,結婚が全くの失敗に終わることは決してありません。その証拠は,そうした規準に本当に従い,結婚生活において今日理性的に期待し得る最大限の幸福を見いだしている,数多くの夫婦の生活に見られます。

      ところで,聖書に収められている,その律法や原則は一体どのように作用するのですか。幸福な結婚生活を送るには実際のところ何が必要とされますか。

      [15ページの拡大文]

      結婚生活の諸問題を回避するため,どこに助言を求めますか

  • 幸せな結婚生活に必要なもの
    目ざめよ! 1979 | 1月22日
    • 幸せな結婚生活に必要なもの

      神の規準を当てはめれば,どんな結婚も以前よりうまくゆくようになります。そうした規準は,他の人々が失敗しているような問題を解決するための基本的な手段を夫婦に提供します。

      神の方法で物事を行なうからといって,結婚が完全なものになるわけではありません。それは,この時点では現実的な見込みではありません。しかし,結婚の取決めに関する神の律法と原則に近付けは近付くほど,わたしたちは一層幸福になります。

      考慮すべき一つの点は,男と女の造りと関係があります。この点を正しく理解していれば,結婚当初に幾つかの難しい問題を克服するのに役立ちます。

      どのように造られているか

      神が男女を創造した際,幾つかの似通った身体的特徴と幾つかの異なった特徴をお与えになったことは外見からも明らかです。男と女は,精神的また感情的にも,幾つかの似通った特質をもって創造されていますが,かなり異なった点もやはりあります

      どうして異なっているのですか。男と女は,異なった役割を果たし,互いに助け合うように造られているのです。それぞれは,満たされるべき必要を持つ者として創造されていますが,配偶者はそれを満たす能力を備えているのです。ですから,二人は結婚の際に同じ力と能力を持ち寄るわけではありません。しかし相違点が互いに釣り合いを取るようになっているのです。

      こうした相違点は,一方が他方よりも“優れている”とか“劣っている”とかいうことを意味しますか。そうではありません。各々の相違点はそれぞれの目的にあってより優れているのです。例えば,金づちはのこぎりとは異なっているから,のこぎりよりも優れていると言えるでしょうか。のこぎりでくぎを打とうとしたり,金づちで板を切ろうとしたりすれは,各々はその独自の用途においては優れていても,その役割を取り違えれば支障をきたすことは容易に理解できます。

      異なってはいても,金づちとのこぎりは,互いに助け合い,補い合っているのです。創造の際に,男と女に植え込まれた相違についても同じことが言えます。各々,その異なる役割のゆえに,他方にない優れた特質を有しています。しかし,それらは互いの特質を補い,支持しているのです。そのわけで神は,女は男にとって,「補助として」造られた,「助け手」となるであろう,と言われました。―創世 2:18,新。

      ですから,夫と妻が互いに理解し,認識し合い,各々その割り当てられた違いの範囲内で協力するとき,手袋に手がぴったりと収まるように,互いにぴったりと折り合ってゆけるでしょう。しかし,夫婦がその相違点を無視したり,それに対して争ったりすれば,こぶしを握りしめて手袋の中に入れようとするに等しいことになります。それはどうしてもはまらないのです。

      役割を受け入れる

      結婚や家族には指導する者が必要とされます。基本的に言って,こうした能力を備えた者として創造されたのは男です。男には,家族の頭に求められる特質や力をより多く与えられているからです。(エフェソス 5:23)指導する者がいないと,不和や混乱が起きるので,これは実際的と言えます。

      そのような頭の権なしに結婚生活を送り,家族をもつのは,ハンドルのない自動車を運転しようとするようなものです。あるいは,妻がそのような頭の権を取ろうとするなら,自動車に二人の運転手がいて,その各々が前輪を一つずつ制御するハンドルを握っているような結果になります。それがどれほどの混乱をもたらすかは容易に想像できます。

      現代になって特に,男性も女性も,頭の権のこの役割を取り違え,誤解してきました。その結果はどんなものですか。米国のメニンガー財団のハロルド・ボス博士は,このように「家庭内で両性の役割がぼやけてきたこと」は,「悲惨な」結果を招いている,と述べています。同博士は次のように提言しました。「我々は,この国の昔の開拓時代に存在していた家族の構造を熟視し始めなければいけない。男は名実共に家族の頭で,たくましかった。家族の者たちは彼を頼りにできた」。

      しかし,自分の夫はふさわしい指導力を発揮してくれない,とこぼす婦人も少なくありません。そして,それは事実です。自分個人の利己的な関心事のほうに没頭している夫がおもにとがめられるべき場合があります。あるいは,夫が怠慢な場合さえあるでしょう。中には,頭の権に伴う責任を望まず,それを放棄してしまう人もいます。

      しかし,妻の態度に大きな問題のある場合もあります。妻が過度に進取的で,夫の頭の権に対抗するようになると,夫は大抵それを不愉快に思うものです。その人は,妻にしたいようにさせておきながら,他の多くの方法で自分の不賛成の気持ちを表わして反応を示すかもしれません。

      夫の不満足な頭の権に対する妻の憤まんと自分に対抗しようとする妻に対する夫の憤まんは,幸福な結婚生活を送る上での主要な障害となっています。では,この取決めが当初意図されたような仕方,すなわち結婚生活に最も理想的な仕方でうまくゆくようにするにはどうしたらよいでしょうか。

      良い夫

      幸福な結婚,そして幸福な妻を望む夫は,自分の頭の権に対して正しい態度を培わねばなりません。本当に幸福な結婚生活を営むには,適切な頭の権がどうしても必要であり,それに代わるものはありません。

      神の道をよく知らない男性の中には,頭になるとは“ボス”,つまり“独裁者”になることだと考える人もいます。そのような態度を取るなら,大きな誤りを犯すことになります。普通の女性は大抵,そうした態度を快く思わないでしょう。

      神が夫に対して求めておられる頭の権は,自分の妻を抑圧したり,虐待したり,妻を“劣った人間”に格下げしたりすることを許すものではありません。神は,人間の夫がそのような頭になることを決して意図されませんでした。

      それどころか夫は,どうしたら親切で優しく,物分かりが良くなり,自分の妻の福祉に積極的な関心を抱けるかを学ぶよう命じられています。神の規準は,「夫は自分の体のように妻を愛すべきで」あり,妻のために喜んで犠牲を払うというものです。―エフェソス 5:28。

      どの程度そうしますか。次の言葉に注意してください。「夫よ,妻を愛しつづけなさい。キリストが会衆を愛し……たのと同じようにです」。キリストはどの程度までその愛を示されましたか。必要となったとき,キリストは「そのためにご自分を渡された」と聖書は答えています。そうです,イエス・キリストは,ご自分の愛する者たちに自らを全く与えるという立派な模範を残されました。キリストは彼らのために死をも辞さなかったのです。―エフェソス 5:25。

      良い夫は,自分が妻を愛しており,その助力に感謝していることを妻に知らせるために意識的な努力を払います。夫は,妻に対して行なうことだけではなく,妻に対して語ることによってもそれを知らせます。『こころよき言は蜂蜜のごとくにして 魂に甘く骨に良薬となる』と箴言 16章24節は述べています。女性は,自分が求められ,必要とされ,感謝されていることを知らせてほしい,感情面での欲求を持つものとして造られています。そして,夫がそれを表現するのは男らしくないことでも,弱さの表われでもありません。

      その言動によって自分の愛を妻に知らせる夫は,普通,妻から好意的な反応を受けるものです。普通の女性なら大抵,そうした夫に対して,より深い愛と敬意を示して答え応じます。妻たちは,夫のためにもっと喜んで物事を行なうようになるはずです。どうしてそう言えますか。

      なぜなら,神は,親切,優しさ,そして愛情に答え応じるよう女性を創造されたからです。男性が自分の妻に愛を示せば示すほど,妻が答え応じる可能性もそれだけ多くなります。また興味深いことに,妻が答え応ずれば応ずるほど,夫も妻の益になる事をし続けたいという気持ちになるものです。そうです,これは『まいているものを刈り取る』という一つの例です。

      家族の頭のために備えられている,聖書の“青写真”は次のようにも述べています。「夫たちよ,同じように,知識にしたがって妻とともに住み,弱い器である女性としてこれに誉れを配しなさい」― ペテロ第一 3:7。

      どのようにして他の人に「誉れを配し」ますか。相手の意見や好き嫌いに思いやりを示し,重大な問題が関係していなければ相手の好みを優先させ,個人的にも人前でも相手をけなしたり,当惑させたりしないことによってです。そうです,相手に関心を払い,それを示すことによってです。

      この思いやりは,結婚の性的な面にも当てはめられねばなりません。夫は自分が優しくし,思いやりを示すと,妻が大抵の場合にもっと答え応じることに気付くでしょう。妻は,荒々しく,要求的で,貪欲な配偶者に答え応じるように造られてはおらず,そのような男性に対しては敬意を失うでしょう。

      夫が良い頭であれば,妻はその頭の権を重荷とは感じないでしょう。むしろ,自分が負うようには造られていない重荷からの解放とみなすでしょう。

      妻がその役割を果たすなら

      自分の役割を果たす妻は,良い頭になるよう夫を励ますために多くのことができます。『夫に服す』よう努める妻は,しばしばその結果に目を見張ります。―コロサイ 3:18。テトス 2:4,5。

      そのために妻はどうしたらよいでしょうか。まず手始めに,自分の夫が神の定めた家族の頭であることを進んで認める態度を示せます。夫に対抗したり,絶えず小言を言ったりすることは避けねばなりません。問題が起きたなら,夫の提案と導きを求めることができます。それは,夫に指導を求め,その意見を高く評価していることの表われです。夫が失敗をしても,夫をけなすようなことは避けるべきです。重大な問題が関係していなければ,夫の決定に反論すべきではありません。また,夫が喜んで率先する態度を示すようになるなら,妻は感謝の念を表わすべきです。

      そうするようになった一人の妻はこう述べています。「その変わりようといったら信じられないほどです。数か月前,私たち夫婦は離婚の瀬戸際まで来ていました。ところが今では,そうね,新婚ほやほやのようです。いや,それ以上です」。この大きな変化は,「妻にふさわしい服従」によってもたらされたのです。

      妻にふさわしい服従に関して,ウーマンズ・デー誌はこう述べています。「それは多数の熱心な女性信奉者を勝ち得た結婚の哲学である。そうした信奉者たちは,その結果をとても喜んでいる」ので,夫を頭とすることに異存はありません。彼女たちはそのほうを好んでいます。というのはそうするなら普通夫は妻の必要に対してずっと敏感になり,もっと喜んで妻のために譲歩するようになるからです。

      大抵の場合,妻が,夫の頭の権を支持するという自分の役割を果たすため少しでも努力を払えは,結婚生活にかなりの影響を及ぼすものです。そして,妻が女性本来の役割に自分を合わせようとすればするほど,一層よい結果が得られるでしょう。その逆を行なうことはいさかいに終わるだけで,一方通行の道を逆行するようなものです。

      不完全さに対処する

      もう一つ考慮しなければならないのは,人間の不完全さという点です。わたしたちすべては間違いを犯す傾向をもって生まれてきました。「わたしたちはみな何度もつまずくのです」と聖書は述べています。―ヤコブ 3:2。詩 51:5。ローマ 5:12。

      この現実を最初から認めることにより,結婚当事者の一方は,完全さ,という相手の生み出し得ないものを要求しないで済みます。むしろ,互いに相手の誤りをしんしゃくするでしょう。それで,二人は完全な幸福を期待しません。不完全な人間にはそのようなものを生み出す能力はないからです。心理学者であるラリー・キャッシュがカナダのシャテレン誌上に次のように書いているとおりです。

      「自分も“人間の潜在能力”運動の一端を握っていながら,私は自分がその運動に怒りを覚えることを認めねばならない。知らず知らずのうちに,我々は大勢の人々を誤導し,99.44%の幸福を得られるということを期待させてしまった。ところが,現実の生活では,70%の幸福を得られれば実はましなほうなのである」。

      もちろん,夫も妻も配偶者をいらだたせるようなことをしないように努めるべきです。それでも,欠点は表われるもので,それがいやになるほどあらわになる場合もあります。そうした事態にはどう対処すればよいでしょうか。“ささいな事を大げさに言う”ことによってですか。いいえ,聖書の賢明な助言はこうです。「愛は多くの罪を覆う(の)です」。(ペテロ第一 4:8)愛は,誤りを暴露し続けたり,過去の誤りを“蒸し返し”たりはしません。それは,『確かにあなたは誤りを犯しました。しかし,私も時々失敗します。ですから,私はあなたの誤りを見過ごしますから,あなたも同じようにしてください』と言っているようなものです。

      結婚当事者が,自分は完全だとか絶対に誤ることはないなどと考えなければ,意見の食い違うすべての点で言い争いに勝とうとすることもないでしょう。人は,いわば,議論に勝って戦いに負けることがあります。結婚生活における目標は,問題を解決することであって,言い争いに勝つことではありません。

      夫婦が進んで誤りを認め,謙遜にそれを正そうとするなら,山ほどの余計な言い争いや心痛を避けることができます。一人の婦人が語っている次の言葉のとおりです。

      「この結婚を成功させるために,私は今まで以上に努力しています。私は夫をいらだたせないようにし,利己的にならずに,夫の見解を知るよう努めています。歩み寄ることは苦ではありません。言い争うたびに勝ち,自分のやり方を押し通すのはもはや重要ではありません。私たちは互いに相手のことを思いやっています」。

      選択の自由

      そのような思いやりは別の理由でも肝要です。それは,神がわたしたちを道徳的に自由な行為者としてお造りになったからです。つまり,神はご自分の律法と原則の範囲内で,わたしたちが幅の広い選択の自由を行使することを許しておられるのです。

      ですから,二人の人が全く同じ見解や好き嫌いを持つことなど期待すべきではありません。好みの違いを認めれば,配偶者の一方が他方と全く同じ好みを持っていなくても,失望したりいら立ったりしないでしょう。

      例えば,妻には家の装飾に関して夫とは異なる特定の好みがあるかもしれません。しかし,この分野では一般的に女性のほうが優れた能力を持つ者として造られているので,賢明な夫はそのような事柄に関してかなりの程度妻の自由を認めます。同様に,夫の好みは必ずしも妻の好みと同じであるとは限りません。妻はそれを認めるべきです。特に,大きな品物の購入の際の頭の権や,どこに住みどこに勤めるかに関することなど,夫のほうが適している分野では夫の考えを認めねばなりません。

      しかし,実際のところ双方に自分の望みに対する“権利”のあるような分野,例えば食べ物の好みなどに違いのある場合はどうしたらよいでしょうか。一方の好む種類の食べ物をある日食事に出したら,別の日にはもう一方の好む食べ物を出すようにしてはどうですか。それとも,両方の好む物を毎日少しずつ出してはどうですか。そうすれは双方の好みが認められ,それでいて個性が押し殺されてしまうことはありません。

      こうした仕方で互いの感情を思いやることは,聖書の原則と調和しています。というのは,「愛は忍耐強く,親切です。愛はねたまず……利己的でもありません」と書かれているからです。(コリント第一 13:4,5,現代英訳聖書)ですから,夫婦は,「自分の益をはかって自分の事だけに目をとめず,人の益をはかって他の人の事にも目をとめなさい」という定めに従う必要があります。―フィリピ 2:4。

      しかし,結婚生活において,解決の非常に難しい問題が生じてくることもあるでしょう。夫婦双方が自分の意識を強くし,自分のやり方で物事を行ないたいと思うかもしれません。これまでに挙げた原則すべてを実行に移してもなお,双方相いれない違いのある場合,どうすべきでしょうか。その場合,『妻はすべての事において夫に服しなさい』というのが聖書の定めです。(エフェソス 5:24)言い換えれば,最終的な決定が下されねばならない場合,神の見方に従う妻は,夫が神の律法を破るよう求めない限り,夫に最終的な決定をゆだねなければならない,ということです。確かに夫は間違った決定を下すかもしれません。しかし,それは妻にも同じことが言えるのです。どちらにしても,夫にはそのような決定を下す責任が与えられているのです。

      それでも,愛のある,従順な妻は,夫が妻の好みを優先させるほうを選ぶことにしばしば気付くに違いありません。ですから,夫が妻の好みとは異なる最終的な決定を下す場合には,妻は協力すべきです。

      強力な助け

      多くの場合,結婚生活上の問題が生ずる真の原因は,わたしたちの住む,失望と不満にみちたこの世にあるのです。しかし,神の目的が何であるかを知ると,そうした失望の多くは消えてなくなります。

      聖書はまさにわたしたちの世代を,この現在の体制の「終わりの日」と述べています。そして,「対処しにくい危機の時代」と呼ばれているこの時代は間もなく終わろうとしていることを示しています。(テモテ第二 3:1)その後,神は,ご自分の造られる義の新秩序をして,この堕落の一途をたどる体制に取って代わらせます。(ペテロ第二 3:13)その体制の下で,人々は,今では夢にしか見ることのできないような生活と幸福を享受します。そうです,「世は過ぎ去りつつあり,その欲望も同じです。しかし,神のご意志を行なう者は永久にとどまります」― ヨハネ第一 2:17。

      聖書の述べるとおり,将来に関するこの知識のない人は,悪化する状態のゆえに,「恐れ……から気を失います」。しかし,神の目的に関する正確な知識で強められた人々は,『身をまっすぐに起こし,頭を上げます。彼らの救出が近づいているからです』。(ルカ 21:25-28)こうした見方は,神を恐れる人々の結婚に大きな変化をもたらしました。

      また,神に導きを求める夫婦は,別のことも期待できます。神は,「[ご自分]を待ち望む者のために行動される」と聖書は述べています。(イザヤ 64:4,新)神の強力な活動力,畏敬の念を起こさせるこの宇宙を創造した力がそのような者たちに働きかけるのです。

      こうして,彼らは自分たちの結婚生活に助けとなる,『普通を越えた力』を与えられるのです。(コリント第二 4:7)では,神の活動力,つまり聖霊は,それを受け入れようとする夫婦の内に何を生み出しますか。「霊の実は,愛,喜び,平和,辛抱強さ,親切,善良,信仰,柔和,自制です」。(ガラテア 5:22,23)幸福な結婚に役立つ,積極的な特質が何と見事に並べられていることでしょう。

      それで,神を結婚の創始者と認め,その律法と原則を導きとし,神の助けを受け入れる人々が,現在可能な範囲で一番幸せで,報いの多い結婚生活を送れる理由がお分かりになったことでしょう。

      そうです,結婚はすたれかかっているのではありません。消え去ろうとしているのは,結婚に関する堕落した考えの満ちる,現在のこの不満足な世です。そして,神の造られる新秩序がそれに代わって到来しようとしています。また,神が結婚を創始されたのですから,結婚に関する神の目的は今もそして将来も完全に成就することに確信を抱くことができます。

      ですから,結婚に関して,わたしたちには選択の余地が与えられています。わたしたちは,この世の堕落した規準に従い,その苦い実を刈り取ることができます。あるいは,創造者の規準に従い,現在の幸福な結婚生活,そして来たらんとするより大きな幸福をも刈り取ることができるのです。

      [18ページの拡大文]

      あなたは自分の結婚を幸福なものにするために,自らの役割を果たしていますか

      [21ページの図版]

      そうです,次の諸点を実践すれば,結婚は存続し,幸福なものとなります……

      ……結婚に関する神の青写真に敬意を払う

      ……各々の役割を受け入れる

      ……競い合うのではなく,協力する

      ……不完全さを認める

      ……個人の選択の余地を残しておく

      ……前途の希望の点で一致する

  • 「わたしは離婚を憎む」
    目ざめよ! 1979 | 1月22日
    • 「わたしは離婚を憎む」

      人々が創造者に背を向けるなら,創造者の祝福を期待することはできません。例えば,神の律法によると,配偶者の側の性の不道徳という理由がなければ,離婚は認められません。古代のイスラエル民族が結婚に関する神の律法を破ったとき,彼らは神がもはや彼らの宗教上の犠牲を受け入れてくださらない理由として,次のように告げられました。

      「あなた方は,なぜ彼がもはやそれらの物を受け入れてくださらないのかと尋ねる。それは,あなたが自分の若い時に結婚した妻との約束を破ったことを彼が知っておられるからである。彼女はあなたの連れ合いであるのに,あなたは彼女に対する自分の約束を破った。あなたは神の前で彼女に対して忠実を保つと約束したはずなのに。神は,あなたを彼女と一つの体また霊にしなかっただろうか。このことにおける神の目的はどんなものだっただろうか。それは,あなたが本当に神の民である子供たちを持つためである。それで,あなた方はだれも,自分の妻に対する自分の約束を決して破らないようにしなさい。『わたしは離婚を憎む』とイスラエルの主なる神は言われる。『あなたは,あなた方の一人がそのようにむごいことをその妻に対して行なうなら,それを憎む』」― マラキ 2:14-16,「現代英訳聖書」。マタイ 19:9。

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