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「真理は汝らに自由を得さすべし」ものみの塔 1971 | 4月15日
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は多くの奇病に悩んでおり,『声』は,彼女に自殺するようにとも言いました。証人と聖書を学んで助けを得,婦人は偽りの崇拝に関係した物を捨てました。首のまわりにつけていた「雷神」の像やその他の物を処分すると,婦人の健康はたちまち回復しました。悪霊崇拝から自由になった彼女は,エホバは,自分が以前崇拝していた神々よりも強いと語っています。
これまで考慮してきたいくつかの経験から,聖書の真理が,人々から誤った宗教観や慣習を取り除くことには,疑問の余地がありません。しかし,聖書が人々の行ないに対して持つ影響力についてはどうでしょうか。聖書は人格にとってどんな影響を及ぼしますか。真理によってもたらされるとイエスの言われた自由は,どれほどの規模に及ぶものですか。次の記事で,こうした疑問の答えをお調べください。
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信じる人々のあいだで働く自由を得させる神のことばものみの塔 1971 | 4月15日
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信じる人々のあいだで働く自由を得させる神のことば
霊的な事柄を全く無視し,比較的物質に恵まれた社会で生活している,大ぜいの人々とは異なり,謙そんなラテンアメリカ人の多くは神のことばである聖書に敬意を払っています。そして,本の中の本といわれる聖書を家に置いておくだけでも,なんらかの益つまり祝福があると信じています。しかし,聖書の内容を知ろうとしないなら,またみことばが生活に益をもたらす力とならないなら,聖書を持っても価値がない,ということに気づく人は多くありません。読むのではなく,たなに置くためだけに新聞を買う人がいますか。では,自由を得させる真理について述べている,はるかに価値のある聖書を新聞と同様に扱うのは賢明なことと言えるでしょうか。
聖書を神聖な書物として受け入れるだけでは,決して十分ではありません。聖書によって自由を得ようとするには,聖書がその人に働きかけねばなりません。つまり,聖書を信じている人は,それを適用しなければなりません。1世紀の信者にとって,神のことばを受け入れるとは,そういうことを意味しました。彼らについて使徒パウロはこう書いています。「あなたがたがわたしたちから聞いて,神のことばを受けた時,あなたがたはそれを,人間のことばとしてではなく,真にそのとおりであるが,神のことばとして受け入れたからである」― テサロニケ前 2:13,新。
神のことばを受け入れるとは,彼らにとって,聖書を家に持ち込み,聖なる書物とみなす以上のことを意味しました。また,それは,聖書の教えに答え応じる思いと心臓に真理の音信を取り入れることをも意味したのです。こうして彼らは聖書から影響を受けたがゆえに解放を経験しました。その結果,思考と行動を変えることができたばかりでなく,人格をさえ変化させることができました。
使徒パウロが賞賛のことばを持って記録した,初期クリスチャンたちと同様の仕方で,ラテンアメリカの多くの人々も神のことばを受け入れていると言えますか。記録によればはっきりとそう言えます。では,自由を得させる神のことばが,人々の生活にどのような働きを及ぼしているかを調べてみましょう。
性的な不道徳からのがれる
宗教団体の中には性的な不道徳を大目に見ているところもありますが,イエスは姦淫や淫行を「人を汚すもの」と言われました。(マタイ 15:19,20,新)また,使徒ペテロも,クリスチャンは「主……を知るによりて世の汚穢をのがれ(た)」と述べています。―ペテロ後 2:20。
神は,あらゆる性的な不道徳をあからさまに非難しているにもかかわらず,カトリックの勢力の強いラテンアメリカでは,男女が法律上の結婚の届けをせずに同棲し,姦淫や淫行を犯すことは珍しくありません。また売春もごく普通のことになっており,コロンビアのカリ市の日刊新聞,オクシデンテによれば,8歳から15歳の少女たちが同市で売春をしているということです。
そうした不道徳な生活の結果,すでに大世帯で貧困にあえいでいる家庭に,望まれない子どもが生まれています。また幾千人もの子どもたちが街頭に活路を見いだし,不浪者になったり犯罪を犯したりして生活しています。さらに,産児調節の方法として妊娠中絶にたより,幼児殺しを働いている人も少なくありません。
しかし,神のことばがそうした人々の生活に働きかけると,どんな事が起こりますか。パナマからの知らせによれば,ある男の人は聖書を学びはじめてからというもの,大酒・ばくち・喫煙の習慣を絶ち,さらに,自分の娘4人を生んだ同棲中の女をたたかなくなったということです。彼は神の正義の標準に從いたいと思い,その婦人に結婚を申し込みました。女性の同意を得てふたりは結婚し,同じ週に彼はクリスチャン奉仕者の任命を受けました。
さらに,ホンデュラスで,自分の下宿を売春のために提供していた熱心なカトリック教徒の婦人に,真理の力がどのように働いたかを考えてみてください。この婦人は,聖書の助言を受け入れると,すぐに自分の家を大掃除して,不道徳な行為をするために家に来る泊まり客を断わりました。現在その宿舎は上品な家族連れでにぎわっており,その婦人は今では,エホバの証人として認められ,エホバに仕えることができるようになりました。
かけ事に対する欲望を克服する
「ロテリア・パラ・ホイ!」(「今日の富くじ!」)こうしたかけ声は,ラテンアメリカの諸都市の街頭で実によく聞かれます。もちろん,かけ事の好きな人が手を出すのは,富くじに限りません。トランプとかフットボール,競馬や犬のレース,それに,やはりかけのできる闘鶏があります。家賃を払ったり,家族のために食料や衣類を買ったり,あるいは医料費を出せなかったりしても,そういう人はなおかつ,かけ事への誘惑に負けてしまいます。
“かけ事は病み付きになる”といわれているぐらいですから,それほど強力な衝動を押えうる力を持つものがあるでしょうか。教会自身とばくを奨励しているのですから,「教会の影響力を強化する」といっても答えにならないのは明らかです。
ここでもやはり,個人に影響力を及ぼす神のことばが,自由を得させる力となります。とばくは強奪であり,どん欲や怠惰に根ざし,さらには風紀を乱して,しばしば他の悪行に誘う,というのが真実です。神の是認を得たいと望む人にとって,それらすべてが神によって非とされていることを知った上でそうした望ましくない習慣を捨てようと決意するのは難しくありません。―コリント前 6:9,10。箴言 21:25。
パナマのパロ・セコらい病村に住む,ひとりのらい病患者の場合は,その一例です。その人は富くじを買うことにつかれていましたが,しばらくのあいだ聖書を学んだ後,その悪癖を克服し,神のご意志を行なう決心をしました。
英領ホンジュラスで,とばくをしたり,富くじの販売をこととしていた,別の人の経験があります。その人は聖書研究をして,その教えを生活に適用しはじめると,とばくも富くじの販売もやめ,さらには,ことばづかいを変え,行状の他の面をも改めました。
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