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金銭を愛するとはどういうことかものみの塔 1962 | 5月1日
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た。30年余を経てヨハネが黙示録を書いた頃までに,ラオデキヤのクリスチャンは金銭への愛に陥っていました。金銭を愛したために,その人々は霊的な美しさと霊的な富を失いました。黙示録 3章17節新口はラオデキヤのクリスチャンに次の言葉を告げています,「あなたは,自分は富んでいる,豊かになった,なんの不自由もないと言っているが,実は,あなた自身がみじめな者,あわれむべき者,貧しい者,目の見えない者,裸な者であることに気がついていない」。霊的な富よりも物質の富を高く評価したために,この人々は霊的に貧しく,霊的な滅びに陥りかけていました。金銭に対するその態度が間違っていたのです。
貧困は要求されていない
クリスチャン以外の宗教のあるものは,貧困生活を送ることが宗教的な功徳になると考えます。たとえば仏教のある僧侶は物質を捨て去って禁欲的な,瞑想にふける生活をします。その持ち物と言えばわずかな衣と托鉢の鉢,108の玉をつけたじゅず,飲料水の中の虫をこすための水こしに過ぎません。
真の神の是認を得るため貧しい生活をすることはクリスチャンに要求されていません。神がご自分の崇拝者に苦行を命ぜられたことは,一度もありません。クリスチャンは金銭を得て必要品を自由に買い,慰安を与える物やぜいたく品でさえも自分の得たお金で買えます。自分で買える物を求めることは禁ぜられていません。
普通以上に事業の才能を持つ人が事業に成功して多額の収入を得ても,金持ちになろうとする危険な欲望に陥らない限り,金銭を愛する者としてその人を非難するのは間違いです。人が金銭を愛しているかどうかは,その人の持つお金の額,持ち物の数,また持ち物の質によっては決められません。むしろこれらの物に対するその人の態度が問題なのです。
金銭に対する間違った考え方
貧しい人でも金持ちになって,多くの物を手に入れたいという欲にとりつかれている人は金銭を愛する人です。別の国で普通程度の生活をしている人もその貧しい人の目には金持ちに見えるかも知れません。しかしその人が貧しい人のような間違った考えを持っているとは限りません。聖書が悪いと述べているのは,貧しくても金持ちでも,金銭を愛する人の抱いている間違った考え方です。
エレミヤ記 9章23節(新口)には次のことが述べられています。「知恵ある人はその知恵を誇ってはならない。力ある人はその力を誇ってはならない。富める者はその富を誇ってはならない」。ここでエホバは,人が知恵や力や富を持つべきでないと言われていません。避けねばならないのは,それらのものを誇ること,すなわちそれに対する間違った考え方です。
1世紀のラオデキヤのクリスチャンはその富を信頼し,富に対して間違った考えを持ちました。詩篇 52篇7節(新口)に述べられているように「神をおのが避け所とせず,その富の豊かなるを頼」む人になったのです。
朽ちる富を信頼することの愚かさは,聖書の中でくり返し強調されています。献身した神の僕の中でもある人々は,欲ばって金銭を求めたためにパウロの述べたように「信仰から迷い出」ました。(テモテ前 6:10,新口)このような人々はクリスチャンの潔白な状態を保たずに,この世の不法な道に落ち込みました。「忠実な人は多くの祝福を得る。急いで富を得ようとする者は罰を免れない」。(箴言 28:20,新口)忠実な行いをする人はすみやかにエホバに仕え,おもに霊的な宝を求めて労します。
霊的な宝を貯えることの報いは,現在においても将来においても物質の富を貯えてそれに頼るよりもはるかに大きなものです。イエスはこの事を強調されました,「あなたがたは自分のために,虫が食い,さびがつき,また,盗人らが押し入って盗み出すような地上に,宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため,虫も食わず,さびもつかず,また,盗人らが押し入って盗み出すこともない天に,宝をたくわえなさい」。―マタイ 6:19,20,新口。
イエスは節倹が悪いと言っているのではありません。イエスのいましめは,貪欲に物質の富を積んでそれに頼ってはならないということです。地上の宝ではなく,神の是認の如き天の宝は永遠の益をもたらします。お金を愛する人も,死ぬときには金銭を手離して他の人にそれを残さなければなりません。富は人を死から救うことができません。「自分のために宝を積んで神に対して富まない者は,これと同じである」。―ルカ 12:21,新口。
金銭に対する正しい考え方
現在の組織制度のつづくあいだ。クリスチャンはその必要な物を求め,現代生活の便利な物を若干備え,宣教を拡大するための有用な手段として金銭を用います。お金があれば多くの物を手に入れることができるゆえに,クリスチャンは自制心を持ち,何時でも金銭は手段であることを覚えて,それを愛してはなりません。
使徒パウロはテモテに宛てた手紙の中で,富に対する正しい考え方を強調しました。金銭を愛することのないようにいましめたあとで,パウロは物質的に富むクリスチャンのあることを認めています。しかしパウロは金持ちのクリスチャンを非とせず,またその富を捨てて貧しい生活を送ることを命じていません。かえってパウロは物質の富に対して正しい考え方を持つようにとさとしました。「この世で富んでいる者たちに命じなさい。高慢にならず,たよりにならない富に望みをおかず,むしろ,わたしたちにすべての物を豊かに備えて楽しませて下さる神に,のぞみをおくように,また,良い行いをし,良いわざに富み,惜しみなく施し,人に分け与えることを喜び,こうして,真のいのちを得るために,未来に備えてよい土台を自分のために築き上げるように,命じなさい」。(テモテ前 6:17-19,新口)たとえ物質的に富んでいてもこの正しい考え方を持っているクリスチャンは,金銭を愛する者ではありません。彼らは神に望みをおいて,富を頼りにしていません。そのどちらかを選ばなければならない時は,喜んで持ち物を捨て,神への奉仕を選ぶでしょう。
使徒パウロのなした如く,すべての力をつくしてエホバに奉仕することは宝であり,どんな多額の金銭もこれとくらべることはできません。パウロは経済的な負担を負わず,天幕作りを常時の職とする必要がなかったので,そのすべての時間を宣教にささげました。同じく今日においても開拓者あるいは新世社会内の特別な監督としてすべての時間を宣教にささげているクリスチャンがいます。金銭に対して正しい考え方を持っているために,彼らはこの世の職業に大部分の時間をついやして得る物質の物よりも,霊的な祝福のほうがはるかに価値のあることを認めています。
かなりの収入を得る人にとっても,普通程度の収入のある人にも,あるいはほとんど収入のない人でも,その考え方を支配するべき規則はイエスの定められた次の規則です。「まず神の国と神の義とを求めなさい」。(マタイ 6:33,新口)正しい考え方を持つとき,クリスチャンは金銭を手段として用いることができます。そして金銭を愛するようになって霊的な滅びに陥ることはありません。
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2冊の雑誌 ― 4人の証者!ものみの塔 1962 | 5月1日
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2冊の雑誌 ― 4人の証者!
ベネズエラの一婦人は,戸口におとずれたエホバの証者から「ものみの塔」と「目ざめよ!」を求めました。しかし読まずに置いておくうちに雑誌のことを忘れてしまいました。ところがある日,夫がレコードの間から雑誌を見つけてそれを読み,非常な興味をおぼえたので早速,協会の支部事務所をたずねて両方の雑誌を予約し,また他の聖書の手引も求めました。また御国会館で開かれる講演会に誘われたので,2,3週間ののち妻と一緒にやってきました。話を聞いて喜んだだけでなく,証者の友好的なことにも感銘を受けました。
それから家で聖書研究を開くことが取決められたのです。間もなくしてカナリヤ諸島から二人の義理の姉妹が来て聖書研究に加わり,御国会館の集会にも一緒に出席するようになりました。5ヵ月たたないうちに,4人とも家から家の伝道に参加し始めました。このすべては,2冊の雑誌がきっかけだったのです。
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クリスチャンは伝道すべきものみの塔 1962 | 5月1日
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クリスチャンは伝道すべき
聖書がクリスチャンに課している伝道の責務は,デンマーク,コンゲルスレブの牧師ピー・エッチ・ジョゲンセンも認めています。牧師は「会衆の他の人々,使徒,使者,宣教者と同じであり,会衆の他のすべての人の上でもなく,下でもない」とジョゲンセンは述べています。また牧師は助けを与える者であり,「会衆が世の人々に伝道する備えを身につけるような神学的援助を与えなければならない」とも語りました。この事を実際に行なっている教会が,どれだけありますか。―1960年9月27日,クリステリット・ダグブラット。
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