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勉強によって円熟することは喜びものみの塔 1966 | 10月1日
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を学んだ人のことを考えましょう。この時までの個人的な勉強によって,その人は多くの知識を得ているでしょう。そして,円熟した人とみなしてもよいでしょう。巡回区,また地域の監督,あるいはどこかの支部における監督の仕事をゆだねることができるかもしれません。しかし,この人にあと10年間勉強を続けさせ,40歳になるまでにどれだけのものを得るか見てごらんなさい。この人が同じことを10年間続けるなら,50歳になるまでにどれだけの進歩を遂げているでしょう。そして60歳の時にはどうですか。円熟は生涯の仕事であり,その道を進むに従って喜びは大きく,感謝と満足は深くなるのです。そして同じことは怠らずに勤勉に勉強する人すべてに約束されています。その者は「全き人」となり得るのです。
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円熟性は身の守りものみの塔 1966 | 10月1日
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円熟性は身の守り
「こうして,あなたは安らかに自分の道を行き,あなたの足はつまずくことがない……これは〔エホバ〕があなたの信頼する者であり,あなたの足を守って,わなに捕われさせられないからである」― 箴言 3:23-26
1 円熟した考え方と判断は今日のわたしたちになぜ貴重ですか。それによってわたしたちは何ができます。
円熟した考えと判断のできることは,神のみ心を行なおうとする者にとってきわめて貴重です。それによって,今日の古い秩序から来る不断の誘惑を退けることができるからです。世の終わりの時である邪悪な今の時代に,クリスチャンの誠実さを試みるものとして物質主義,陰口,非難,圧迫,不道徳への誘惑,血液の乱用などがあります。またしだいに高まる国家主義的な風潮は,クリスチャンが国旗に敬礼し,国家に忠誠をつくし,国家のために命をささげることを求めます。このほか,安逸でごうしゃな生活を求め,物質をよりどころとし,法網をくぐるようなずるいしかたでもうけようとする商業主義の絶えざるいざないがあります。ここでクリスチャン各自に問題となるのは,「こうした誘惑に面する時,自分はどんな決定をするか」ということです。人はこうした問題についていつもはっきりした考えをもっていますか。あるいは時に考えの動揺することがありますか。
2 ヨハネによる福音書 14章15節のイエスのことばに従うことはどのように『わたしたちの守り』となりますか。
2 わたしたちは世の圧迫に耐えねばならず,そのためにはあらゆる能力を使って忠実さを守らねばなりません。イエスはこの原則を次のことばで示されました。「もしあなたがたがわたしを愛するならば,わたしのいましめを守るべきである」。それゆえ,世の誘惑にうち勝つためには,エホバを愛し,エホバに従うことが絶対に必要です。いつもエホバのみことばに従って歩もうとすることが身の守りとなります。不断の勉強,およびそれに伴う円熟への進歩によって人の思考能力は高められています。それが「あなたを守り」ます。―ヨハネ 14:15。箴言 2:11。
3 (イ)生涯を通じて勉強が大切なのはなぜですか。(ロ)それが今特に必要なのはなぜですか。
3 正確な知識を絶えず取り入れ,すでに知る事柄と比較検討し,それから適当な結論をひき出して,後の実生活に役だてるなら,円熟性が身の守りとなります。それゆえ,生涯を通じて絶えず勉強することは非常に大切ではありませんか。わたしたちの考えや判断はそうして得る知識や知恵によって動かされるのです。エホバの助言はまことに適切です。それはわたしたちを守るために与えられています。その一つは次のとおりです。「わが子よ,わたしの知恵に心をとめ,わたしの悟りに耳をかたむけよ。これは,あなたが慎みを守り,あなたのくちびるに知識を保つためである」。(箴言 5:1,2)このことばは実際的な知恵を守ることの大切さを思い出させます。実際的な知恵がどれほど大切であるかについて箴言 3章21,22節をお読みください。「わが子よ,確かな知恵と,慎みを守って,それをあなたの目から離してはならない。それはあなたの魂の命となり,あなたの首の飾りとなる」。考える能力を養い,それを伸ばすことによって,円熟性はつちかわれます。そして,重大な決定を迫られる緊急な事態に臨むまで待つのではなく,今のうちからそれをすることが大切です。
4 むずかしい事態に臨む時,感情によらず,正しい結論に基づいた決定をするのに,それ以前の勉強がどう役だちますか。
4 一例として,親が,正確な知識をもたない医師や家族のほかの者から,子供に輸血をすべきだ,輸血をすれば助かると言われた場合のことを考えましょう。わたしたちはその場で正しい決定をし,その理由を述べることができますか。それとも,「今はうまく説明できませんが,よく調べてあとで答えます」と言わねばなりませんか。そうした切迫した事態においては感情におされて円熟した考えのしにくいことを忘れてはなりません。問題ないしは事態を明確に理解し,冷静に考え,外部の力に左右されずに自由な決定を下せるのでなければ,円熟した判断はできません。それに先だつ勉強によって,問題に対する神のお考えをわきまえているはずであり,何があろうと神のみ心を行なおうとの決意をしていなければなりません。そして他の人々の感情の高波はあなたの岩のような信仰にあたってむなしく砕けさせなさい。
被造物崇拝 ― 偶像崇拝
5 偶像崇拝の面で妥協となるどんな場合が考えられますか。
5 神の原則について考えることは人の生涯に起こるいろいろな事態に対処するのに役だちます。それによって物事の善悪を正しく判断できるでしょう。しかし,少し違った事態を想像してごらんなさい。たとえば,象徴物に対して崇拝行為を行なうことです。ヨハネの第一の手紙 5章21節の「子たちよ。気をつけて,偶像を避けなさい」ということばや,十戒の中のエホバのことばなどがすぐ頭に浮かぶでしょう。「あなたは自分のために,刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの,下は地にあるもの,また地の下の水のなかにあるものの,どんな形をも造ってはならない」。問題をよく見きわめることにして,偶像とは何ですか。偶像崇拝とは何ですか。物の像だけでなく,被造物を象徴するものも偶像になります。国旗には星,動物などの象徴がありませんか。国旗の色は種々の性質を象徴していませんか。国旗はペテロの言う「人の立てた制度」を表わしていませんか。それを崇拝してよいですか。エホバご自身のことばがこう答えます。「あなたがたはその前に身をかがめてはならず,またそれに仕えてはならない。あなたがたの神であるわたくしエホバは専心の献身を求める神だからである」。それゆえ,身をかがめることは崇拝の行為になります。これにほかの動作が伴えば問題はかわりますか。愛国的な歌が歌われる時に起立することと,偶像が通過する時に頭を下げることとに何か違いがありますか。あるいは帽子を取ること,また手をあげたり,手を胸
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