-
「神の人モーセ」ものみの塔 1964 | 1月15日
-
-
の荒野の旅の間ずっと奇跡が行なわれたことは明らかです。食物と飲物の供給は,とりわけ著しい奇跡でした。マナというものがありましたが,これは毎週六日降りました。そして安息日でない限り,翌日まで保存することは不可能でした。安息日にマナは降りませんでした。また,その年月の間,イスラエル人のくつも衣服も破れなかったのです!―出エジプト 7:19から16:36。申命 29:5。
地震,火,煙,稲妻,ラッパの響き,強力な声なども,ここで特別に取りあげるにふさわしい,そして,エホバ神ご自身が律法をお与えになる時に伴うにふさわしい,畏怖の念を生じさせる光景でした。その後モーセは,その聖なる山で,神と御使たちのまえで,40日を過ごし,イスラエルが行なう崇拝にかんして指示を受けました。モーセは,地上の人間に見える限りの最大の神の栄光を見,なお生きることができたのです,そして彼が民のところに下ってきたとき,顔が非常に輝いていたので,しばらくの間ベールで顔をおおっていなければならないくらいでした。神の御子がこられるまで,モーセほど神の奇跡と関係してしばしばまた広範囲に用いられた人間が他にいなかったことは疑問の余地がありません。―出エジプト 19:1-25; 33:20; 34:27-35。
「柔和なこと,地上のすべての人にまさっていた」
モーセはまたすぐれた性格をもっていまし言た。「モーセはその人となり柔和なこと,地上のすべての人にまさっていた」。(民数 12:3新口)この言葉に疑いをもつ人もいます。しかし,私たちはこの言葉が,神の霊感の下に書かれたという事実を忘れてはなりません。
聖書にいわれている柔和とは,弱さを意味するものではなく,その反対の強さを表すものです。それは,忍耐強く,よく忍び,失礼なことをされても怒らずに耐え,よく自制し,やさしく,すぐに怒ったりいらだったりせず,気質があくまで温和で,やさしいということです。柔和な人はまたよく教えを聞く人でもあります。
モーセは,さばく者として終日忍耐強く奉仕し,イスラエル人がまだエジプトにいた時から約束の地にはいる直前まで,この民のたびかさなる不平をがまんして,その柔和さを示しました。モーセといえども,私たちと同じく不完全な人間ですから,時としてやりきれない気持になったこともありましたが,彼はなお民の重荷を負いつづけました。また,肉身の兄弟姉妹,彼の属する支族の長たち,それどころか民族全体がしばしばモーセにさからいました。それでも彼らがモーセを怒らせたのは一度だけでした。その時モーセは,「そのくちびるで軽卒なことを」言い,「彼らのために災にあった」のです。―民数 11:10-15。詩 106:33,32,新口。
その事件は,モーセの柔和さが,弱さでなかったことを物語ると言えるでしょう。モーセは葉とわざにおいて力があった,と書かれていますし,肉体的にも強健な人であったことはたしかです。ですからモーセはすぐれた性格の持主だったのです。彼はまた,民のうちのだれよりも高い教育を受けていたのです。高等教育を受けると高慢になるのがふつうですが,モーセは違っていました。
モーセはそのような柔和な人であるとともに,勇気の人でもありました。いく度もパロの所に行き,エジプトから自国民を導き出し,紅海と荒野を横断するには勇気がいりました。同時にモーセは,強い義憤を感ずる人でした。その義憤のために彼は,自分の兄弟のひとりをいじめていたエジプト人を殺し,また彼の兄弟が他の兄弟をいじめているのを見て仲裁にはいり,また,エテロの娘たちの味方をして,羊飼たちに対しました。民が偶像崇拝をしていたのをみて,律法の板を割ったことは,彼が強い義憤を感ずる人であったこと最もよく表わしています。この性質もまた,彼の柔和さをいっそう顕著なものにします。―使行 7:23-28。
そればかりではありません。人々を秩序正しい軍隊に,また国民に組織し,戦いをしかけてきた敵国に対して,民を導いて勝利をおさめた彼の能力はどうでしょうか。またモーセは,奇跡を行なうことにおいて著しい方法で用いられたではありませんか。また,これほど多くの神のみことばaを書くように霊感された人がいますか。また,80日間も神と御使たちの前にいて,いわば顔と顔を合わせて創造主と語る特権を与えられた人がほかにいるでしょうか。こうしたことがあったにもかかわらず彼は柔和だったのです。「柔和なこと,地上のすべての人にまさっていた」? まったくそのとおりでした。
モーセはなぜ柔和になれたのでしょうか。一つには彼に信仰があったからです。モーセは強い信仰をもっていたために,問題が起きても,仕返しをしたり,自分の正しさを証明することを考えずに,それを神のみ手にゆだねることができました。しばしば神と語ったことからわかるとおり,モーセにとってエホバ神は真実のかただったのです。もう一つの大きな要素はけんそんさでした。モーセだけが預言すべきであるかのように,ヨシュアが,あるイスラエル人の預言するのを止めさせようとしたときのモーセの言葉はそれをよく表わしています。「なんぢわがために,ねたみを起すやエホバの民の皆預言者とならんことまたエホバのその霊をこれに降したまはんことこそ願しけれ」。―民数 11:29。
エホバの御霊がなかったならば,とりわけ御霊の実である愛がなかったならば,モーセが柔和になれなかったことはたしかです。モーセは,心と思いと魂と力をつくしてエホバを愛し。エホバの御名と清い崇拝のために熱心でした。愛があったからこそ,彼は,神のゆるしたもうものすべてを甘受することができたのです。
隣人への愛,民への愛も,モーセが柔和で,怒りもせずに民の起す多くの問題に耐える助けになりました。それにしても彼の民はなんと恩知らずだったのでしょう! モーセは,彼らの偶像崇拝に義憤を感じておきての板を割ってしまいました。しかしすぐに彼らのために嘆願するモーセでした。密偵が持ち帰った悪い知らせを聞いて,民がモーセを石で打ち殺すことを相談したすぐのちにも,モーセは民のために嘆願しました。申命記は特にモーセの民に対する愛を表わしています。民への愛の手紙とも言える申命記には,民のしあわせを思うなんという愛情,なんというまごころ,なんという配慮がこめられているのでしょう! また,エホバが驚くべき方法で民を導き出されたことについて詳しく説明し,彼らの福祉を心にかけて,正しい行いをするように心から民に訴えています。
モーセはイエス・キリストのひな形でした。彼が比較的小規模に行なったことを,イエスは,エホバの御名の立証者として,解放者として,神と人間との仲保者として,世界的いや宇宙的規模で行なわれるでしょう。―使行 3:22,23。
モーセは物質的報いを受けずに奉仕し,神のみこころを行い,神の是認を受けることで満足しました。彼は将来の報いを,神のご予定の時に,神のお立てになる新しい秩序の下で与えられることを待ち望んだに違いありません。
モーセの信仰,けんそんさ,義に対する熱意,停滞することのない奉仕,柔和さ,エホバとその民に対する愛は,エホバのすべてのしもべの模範です。もちろん彼は完全ではなく,間違いを犯したこともありました。ですから私たちは同じ間違いをしないように努めなければなりません。が,しかし,彼に与えられた特権を考え,彼の立派な性質に見習おうするとき,畏敬の念を感じぬわけにはゆきません。
-
-
読者よりの質問ものみの塔 1964 | 1月15日
-
-
読者よりの質問
● 新世訳の箴言 27章6節に「愛する者が傷つけるのは忠実のためである。しかし憎む者のくちづけは,これを強いて求めねばならない」とあるのはなぜですか。いろいろな言語の異なったほん訳によると,このようなくちづけは豊か,偽り,欺き,等であると述べられています。―アメリカの一読者より
英語その他の言語のほん訳は,箴言 27章6節の憎む者のくちづけに関して,たしかに新世訳と異なっています。しかしヘブル語聖書新世訳第3巻(1957年版)は,箴言 27章6節に次の注を付しています。「異本によれば『多過ぎる』『欺きである』とも読める」。
それでほん訳によっては,ここに使われているヘブライ語を変えているのです。それらのほん訳者は元来そこに使われているヘブライ語を採用せず,それと形の似たヘブライ語の分詞を代用しており,それがもともと使われた言葉に相違ないと考えています。たとえばケーレルとバオムガルトネル共著「旧約
-