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  • 心がやさしくて平和な人は全く幸福である!
    ものみの塔 1960 | 5月15日
    • 心がやさしくて平和な人は全く幸福である!

      『心のやさしい人は本当に幸福である。彼らは地を相続するであろう。平和な人は本当に幸福である。彼らは「神の子」と呼ばれるであろう。』― マタイ 5:5,9,新世。

      1 1958年には,歴史をつくつたどんな大会が開催されましたか。他の制度が,それにならつて類似の大会を開催することは,なぜ不可能ですか。

      幸福と心のやさしいことは,切りはなし得ないほどにむすびついています。それですから,平和な者たちが,そのひとつを捨てて片方だけを持つということはできないのです。次のことは,ほんとうに正しいことと言えます。すなわち,1958年7月27日から8月3日まで,ニューヨーク市でのヱホバの証者の神の御心国際大会に出席した幸福な多数の人々の大会以上に幸福な大会は,人類の歴史上いままでに一度もありません。かくも大ぜいの心のやさしい人々が,一時に集まつたということは,一度もなかつたからです。他の群れの人々が,このような大会にならつて類似の大会を開催しようとしても,それは全く不可能です。なぜなら,ヱホバの証者だけが,最高の神からたえず出される平和な状態,温和そして幸福を地上に反映することができるからです。

      2 (イ)ヱホバは,どんな貴重な性質を体現していますか。(ロ)この面においてヱホバの民に対する神の御こころは何ですか。

      2 聖書はヱホバが幸福な神であり,『怒ることおそく,いつくしみと,まこととの豊かなる神』であると,幾度もくり返し述べています。(出エジプト 34:6,新口。民数記略 14:18。ネヘミヤ 9:17。詩 86:15。103:8。145:8。ヨエル 2:13。ヨナ 4:2。ナホム 1:3)宇宙の最高支配者は,そのようにやさしくて,制御された心を持つておられるので,他とはかりくらべることができぬほどに耐え忍び,忍耐づよく,寛容で,愛の御心を持ち,あわれみに富まれます。それですから,ヱホバの忠実にして忠節な証者たちは,いついかなる場合でも,共産主義者の奴隷収容所内の大ぜいの者のごとく孤立していようと,あるいはニューヨーク市の大会に20万人以上が集まつたときのごとく集合していようと,まつたくあらゆる状態の下で,これらの敬虔な性質を表わさねばなりません。彼らがこのことをするのは,任意の事柄ではありません。それは命令的な事柄です。なぜなら,それはヱホバの御心だからです。

      3,4 イエスは,その教えと模範により,どんな種類の人である,と証明しましたか。

      3 ヱホバの長なる証者キリスト・イエスも,例外ではありません。まつたくのところ,彼はこの地上を歩いた人の中でいちばん心がやさしく,温和な人でした。イエスは,他の人々に彼のくびきを負つて弟子になるようにすすめたとき,次のように告げました,『私は柔和で心のへりくだつた者である。』(マタイ 11:29,新口)ひじように平和で『平和の君』の称号を持つのに全くふさわしいことを証明したこの御方は,その個人的な生活と活動において,温和を示しただけでなく,他の人々にも平和と温和の生活をすごすように伝道しました。あるとき,イエスはこの基礎的なクリスチャン原則を次のように告げました,『聞いているあなたがたに言う。敵を愛し,憎む者に親切にせよ。のろう者を祝福し,はずかしめる者のために祈れ。あなたの頬を打つ者にはほかの頬をも向けてやり,』(ルカ 6:27–29,新口)時折り,イエスや,彼といつしよに旅行していた者たちは,歩くことや話すことにつかれ果ててしまい,人々からはなれて休息を得ようとしました。しかし,群衆は無遠慮にも彼らの休んでいるところまでもやつてきました。イエスは,それらの人々を言葉あらく叱るということをせず,自分の個人的な感情を抑えながら,彼らが霊的に必要とする物,また肉体的に必要とする物をやさしく,あわれみ深い態度で与えました。(マタイ 14:13–23。マルコ 6:31–46)後日,イエスがろばに乗り,戦いをしないで平和な仕方でエルサレムに入つたとき,預言者の語つた次の言葉は成就しました,『シオンの娘に告げよ。「見よ,あなたの王がおいでになる。柔和なおかたで,ろばに乗つて,くびきを負うろばの子に乗つて」』― マタイ 21:4,5,新口。ゼカリヤ 9:9。

      4 非常に強力な人イエスは他の人々と交渉を持たれたその宣教生活中,敵に対して戦いをしかけるとか,反対者に狭量であつたとか,いつしよにいる者たちに忍耐を持たなかつたとか,他の者たちに向つ腹を立てたり,かんしやくを起すというようなことは,どんなに重い圧迫を受けても一度もありませんでした。彼が怒りにかられたということはかつてないことでした。最もむずかしい状況にあろうと,そして敵の手に捕えられたときでも,そして敵が彼をのろい,打ち,またつばをかけても,あるいは乱暴な群衆が彼を捕えて残酷にも彼を苦しみの枕に釘づけして正当の理由なしに殺したときでも,イエスは平静な態度と節制を示しました。そのことは,彼がたしかに神の子であるということを一点の疑いもなしに証明いたしました。彼は,神の御心を行ないました。彼は天の御父のみ心をよろこばした賢明な御子,幸福な御子でした。―シンゲン 27:11。

      5 (イ)節制,怒り,温和そして柔和について,ペテロとヤコブは何と語りましたか。(ロ)パウロは,キリストのごときやさしさをどのように表わしましたか。

      5 イエスの幸福な弟子や使徒たちは,『キリストの温和と合理的なこと』を他の者にあてた手紙の中に書きしるしました。また自分たちの個人的な生活でも,それに見ならい従いました。(コリント後 10:1,新世)彼らは,高慢で,怒りやすく,大言壮語していばり散らす人々ではなく,むしろ,謙遜で,心がやさしく,その主のようにへりくだつた心を持ちました。霊感をうけたこれらの筆者たちは,しばしば自分のことを神とキリストの『奴隷』にすぎない,と語りました。(ロマ 1:1。ピリピ 1:1。テトス 1:1。ヤコブ 1:1。ペテロ後 1:1。ユダ 1)彼らは争いが好きで,喧嘩をすぐにはじめ,ちよつとのことでも向つ腹を立てて気嫌をそこねるような者ではありませんでした。むしろ,おだやかでやさしく,他の人々の持つ問題については,深い理解と思いやりを持ちました。例えば,使徒ペテロは次のように書いています,『あなたがたの信仰に徳を加え,徳に知識を,知識に節制を,節制に忍耐を,忍耐に信心を,信心に兄弟愛を,兄弟愛に愛を加えなさい。』(ペテロ後 1:5–7,新口)記者のヤコブも,温和と節制の美徳について,次のように語つています,『愛する兄弟たちよ。このことを知つておきなさい。人はすべて……怒るにおそくあるべきである。人の怒りは,神の義を全うするものではないからである。』『あなたがたのうちで,知恵があり物わかりのよい人は,だれであるか。その人は,知恵にかなう柔和な行いをしていることを,よい生活によつて示すがよい。』(ヤコブ 1:19,20; 3:13,新口)次の言葉は,使徒パウロの証言です,『あなた方の間で,ちようど母がその子供を育てるように,やさしくふるまつた。このように,あなた方を慕わしく思つていたので,ただ神の福音ばかりではなく,自分のいのちまでもあなた方に与えたいと願つたほどに,あなた方を愛したのである。あなたがたもあかしし,神もあかして下さるように,私たちはあなたがた信者の前で,信心深く,正しく,責められるところがないように,生活をしたのである。』― テサロニケ前 2:7,8,10,新口。

      クリスチャンの温和は神の霊によりつくり出される

      6 現代のヱホバの証者は生まれながらに,どんな種類の性質を持つていますか。そして,なぜ?

      6 それから19世紀たつた今日のヱホバの油そそがれたクリスチャン証者たちは,第1世紀の幸福な弟子のように,『キリストの使者』として生活しています。(コリント後 5:20,新口)これらの代表者のひとりびとりが,神のお持ちになつている温和とか感情の抑制という性質を持つことは,ヱホバの御心と目的であり,またよろこびでもあります。それらの性質は,長なる大使イエスを特色づけるものでありました。だが,ヱホバの証者は,生まれながらに温和な気質を持ち,完全な節制をすることのできる優秀な人種であるというようなことは意味されないのです。地上の他のすべての人々と同じく,ヱホバの証者は意識的な罪人であるアダムとエバの子孫です,そして罪のうちにはらまれ,あやまり(不法)を持ちながら生まれました。彼らの生まれながらの気質は,気むずかしく,その生来の性質は御しがたいものです。―ヨブ 15:14。詩 51:5。53:2,3。伝道の書 7:20。ロマ 3:10。5:12。ヤコブ 3:2。ヨハネ第一書 1:8。

      7 人が真のクリスチャンになるとき,その人の性質は,どのように急に変化しますか。

      7 それですから,平和な温和は,他の源から,他の手段を通して来るのであつて,不完全な人間が受けついできた悪い性癖によるものではありません。人がヱホバの証者のひとりになるとき,完全な変化が起らねばなりません。実際にその変化が起ることは否定できないものです。問題は,どのようにそしてどんな手段によるか,ということです。木が良い実をむすぶためには,先ず良い土が必要で,それから別のものが必要になつてきます。そのことはこの場合にもあてはまりす。第1に『正しい良い心』の状態(土)がなければなりません。(ルカ 8:11-15)種子を播いて,気をつけて見守り,たがやして水をかけ,弱い幼木をそだてあげるのには時間と努力がかかります。人は多くの時間をかけ,たいへん骨の折れる仕事をしなければなりません。しかし,自然の植物の木の場合と同じく,クリスチャンの温和という甘い良い実がむすぶ前に,神の力なる御霊がはたらいて心と思いを動かさねばなりません。(コリント前 3:6,7)聖書は明白にこう述べています,『愛,喜び,平和,寛容,善意,忠実,柔和,自制』はヱホバの御霊のむすぶ実であります。―ガラテヤ 5:22,23,新口。

      8 クリスチャンの生活内で,なぜ献身はそんなにも重要ですか。

      8 しかし,神の御霊を持つために,人はまずヱホバに献身しなければなりません。これは次のことを意味します,すなわち個人の意志は,神の御心を求めて,見出し,うけいれ,そして行なうということです。それから,その献身を象徴するために証者たちの前で水の洗礼をうけます。真理に新しく生まれたこの幼児は,霊感された神の御言葉である聖書からさらに滋養を取りつづけます。その結果,その人はまつたく強くなり円熟に進みます。進歩をしない人々に対して,ペテロは次のように書いています,『あらゆる悪意,あらゆる偽り,偽善,そねみ,いつさいの悪口を捨てて,今生れたばかりの乳飲み子のように,混じりけのない霊の乳をしたい求めなさい。それによつておい育ち,救に入るようになるためである。』(ペテロ前 2:1,2,新口)パウロも次のように助言しています,『以前の生活に属し,その惑しの欲にしたがつて腐敗して行く古い人格をぬぎ捨てなさい。しかし,あなたの心にはたらきかける力(この力はヱホバの御霊)によつて新しくされ,神の御こころにしたがい,まことの義と愛にみちた御親切のうちにつくられる新しい人格を着なさい。』― エペソ 4:22-24,新世。

      9 ヱホバの民が特権として着る美しい衣服を述べなさい。

      9 ヱホバの献身した証者たちは,代々つたえられてきた罪と悪い気質をともなう古い人格をぬぎ捨てて,温和,寛容そして節制という新しい神権的な,神のごとき人格を身につけます。『神に選ばれた者,聖なる,愛されている者であるから,あわれみの心,慈愛,謙そん,柔和,寛容を身につけなさい。』最高の神の僕たちを明らかに示すなんとうつくしい衣服なのでしよう!―コロサイ 3:12,新口。

      新しい組織制度にかたどられた人格

      10 『思いをかえて変化する』とは,どういう意味ですか。

      10 すいせんされている前述の生活の仕方は,たしかに人の考え全部に急激な変化を生ぜしめることを意味します。外部の影響に対する人の反応は,まつたく変化します。環境や周囲に対する反応は,非常な変化をいたします。考え方がすつかり変ることはぜひ必要である,と使徒は知つていました。彼は次のように書いています,『この世の組織制度に従うのをやめなさい。むしろ,神の善にして御むねにかなう全き御こころをわきまえ知るために,あなた方の思いをかえて変化しなさい。』(ロマ 12:2,新世)生活にそのような変化を行なう人はみな,ヱホバの心のやさしい新しい社会の一部になります。この社会は,気質の悪い古い社会とは全くちがうものです。

      11 (イ)友だちや親族たちは,古い世の行いを捨てる者たちを,しばしばどのように見なしますか。(ロ)このために支払う価は高すぎますか。

      11 その生活の仕方を変えて,キリストのような性質をつちかつたこれらの人々に対して,使徒ペテロは次のように書いています,『過ぎ去つた時代には,あなたがたは,異邦人の好みにまかせて,好色,欲情,酔酒,宴楽,暴飲,気ままな偶像礼拝などにふけつてきたが,もうそれで十分であろう。今はあなたがたが,そうした度を過ごした乱行に加わらないので,彼らは驚きあやしみ,かつ,ののしつている。彼らは,やがて生ける者と死ねる者とをさばくかたに,申し開きをしなくてはならない。』(ペテロ前 4:3-5,新口)ペテロが警告したとおり,親族とか以前の友たちや仲間は,悪魔の支配するこの制度から離れさる人々をののしります。そして,生命を求める人々に生活の仕方を変化させないようにするため,あらんかぎりのことをいたします。しかし,ヱホバの御心を行なうことに献身している人々は血のつながりとか,経済的なむすびつきや社会的なむすびつきのために,現在の組織制度に属する人々のように生活し,行なわねばならぬ,という風に感じてはなりません。そうすることは,避け得ない死を意味します。ヱホバはこの事柄について妥協しません。ヱホバに献身した民も妥協しません。『私たちは,果すべき責任を負つている者であるが,肉に従つて生きる責任を肉に対して負つているのではない。なぜなら,もし,肉に従つて生きるなら,あなた方は死ぬ外はないからである。しかし,霊によつてからだの働きを殺すなら,あなた方は生きるであろう。すべて神の御霊にみちびかれている者は,すなわち,神の子である。』(ロマ 8:12-14,新口)肉的なむすびつきや,交わりで,この立場と比較できるものは,ひとつもないでしよう。全宇宙の主権者なる支配者の永遠の子になるとは,言葉で言い表わせないなんとすばらしい特権でしよう!

      12 サタンの世に従うと,どんな種類の収穫を得ますか。

      12 サタンの世は,ヱホバの御霊の実をむすばず,かえつて悪いわざ,堕落と反逆のむすぶ肉の実をたくさん収穫しました,『肉の働きは明白である。すなわち,不品行,汚れ,好色,偶像礼拝,まじない,敵意,争い,そねみ,怒り,党派心,分裂,分派,ねたみ,泥酔,宴楽,および,そのたぐいである。私は以前も言つたように,今も前もつて言つておく。このようなことを行なう者は,神の国をつぐことがない。』(ガラテヤ 5:19-21,新口)現在の状態下で肉のわざをする者は,一瞬といえども真実のよろこびとまことの幸福を得ません。そして,肉のわざをしつくす者は,おそくとも,将来のハルマゲドンでみな死んでしまうでしよう。それですから,理性のある人は,よろこびをなくす肉のわざを捨てて,その代りによろこびを与える御霊の実を持つ機会をすすんで捉えるでしよう。

      13 (イ)この制度の高位の者や権力のある者は,温和と節制をどのように見なしますか。(ロ)この古い世の指導者の示す模範は,見ならうにふさわしい良い模範ですか。

      13 このすべての事から判断するとき,古い制度につき従つている人々が,心のやさしいことや気持を抑えることを,あざけり嘲笑し,そして見下すということは,ほんとうに不思議なことです。彼らは,それらの性質を意気地がなくて,きわめて弱いもの,そして避けねばならないものと考えています。いわゆるこの世の成功を収めた指導者,労働指導者,経済界の大立物,政治的な権力や法律上の権力を持つ人々,軍事的な権威を持つ者や,司法権を持つ者,高位の支配者や強力な支配者,そしてこのサタンの制度の支配者や独裁者は,自分が次のような人間であることを誇つています,すなわち彼らは冷淡で心がかたく,すぐに激怒して,言葉が早く,我まんすることができず,逆上しやすく,極めて多くの場合,ひじように残酷なあらあらしい気質を持つています。指導者が手本を示すので,それに従う大衆もまねします。シンゲン 29章22節の言葉は,たしかに真実です,『怒る人は争いを起し,憤る人は多くの罪を犯す。』(新口)地は『怒る人』と『憤る人』でいつぱいです。それですから,現在の組織制度が,かくも悲惨な,不幸な状態であるのも当然であります。なぜなら,この世は争いを好み,憎み合い,戦争を行なう世であつて,犯罪や罪はみちあふれているからです。そして,幾千万錠というアスピリンは毎日飲まれ,鎮静剤や『奇跡的なくすり』は使用され,そして心理学者たちは,香油とも言うべき,『心の平和』を与えようと努めています。しかし,そのすべてのことをしても,この死に行く古い世の痛みや頭痛を緩和するのに失敗しているのです。

      14 クリスチャンがこの地上で生活しながら,治療不能のこの世の頭痛にあずからないことは,どうして可能ですか。

      14 ヱホバの新しい幸福な世の社会内の状態は,それとくらべてなんとちがうものでしよう。それは爽快な気持をおぼさせるものでしよう! 彼らはたしかに地上にいます。しかし,証者たちは大多数の人々のいまわしい性格を模倣したり,人々の不正な政策や行いに従おうとしません。証者たちは,シンゲン 22章24節(新口)に書かれている神の教えに注意を払います,『怒る者と交わるな。憤る人と共に行くな。それはあなたがその道にならつて,みずから,わなに陥ることのないためである。』使徒も次のような同意の言葉を語りました,『悪い交わりは,良いならわしをそこなう。』― コリント前 15:33,新口。

      15,16 (イ)それでは実際に温和とやさしい気質は臆病者のしるしですか。(ロ)刑務所にいるヱホバの証者および刑務所外にいるヱホバの証者によつて,力についてのどんな例が示されていますか。

      15 それで,温和は弱い臆病者を表わし示すしるしではありません。むしろ,非常に勇気のある強い人々のことを表わし示す特色のひとつです。その人は,この世の強力な軍事指導者や民間指導者よりも,はるかに強いのです。『怒りをおそくする者は勇士にまさり,自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる。』(シンゲン 16:32,新口)温和に力がある例としては,全体主義の国々に生活している心のやさしいヱホバの証者たちを見てごらんなさい。彼らがニューヨーク市で行なわれた神の御心国際大会に出席することは,禁ぜられました。その暗黒の国々にいるこれら幸福な証者たちは,逃げ出そうともせず,また妥協の仮面と偽善の衣の背後に自分の正体をかくそうともしませんでした。むしろ,恐れを持たぬ彼らは真の神ヱホバの一致した崇拝者という神から与えられた地位にしつかりととどまりました。たとえ残酷な拷間をうけて殺されるようなことがあつても,彼らはその冷静さと節制をすばらしく表わしました。それで,多数の敵たちから,尊敬と賞賛を勝ち得たのです。

      16 迫害をうける証者たちは,この道を歩み従うことにより,天的な御父のみこころを行なつています。御父の書かれた御言葉に,こう記録されているとおりです,『つかさたる者があなたに向かつて立腹しても,あなたの所を離れてはならない。温順は大いなるとがを和らげるからである。』牢獄,拷問室,あるいは収容所の内にいても,いなくても,これら幸福な証者たちは,接し合うすべての人々に対して同じ温和さを示します。『あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には,いつでも弁明のできる用意をしていなさい。しかし,やさしく,慎み深く,明らかな良心をもつて,弁明しなさい。』― 伝道の書 10:4。ペテロ前 3:15,新口。

      17 今日,地で最も幸福な人々は誰ですか。そしてなぜ?

      17 ここに述べられているごとくクリスチャンのこらしめという細くて狭い道を歩むときにどんな利益が得られますか。よろこびにあふれて笑つている人が,同時にたいへん怒つている,などということはありません。その理由は,幸福と怒りが融和しない,つまりいつしよにはうまく行かない,ということです。一方が来れば,他方はすぐに去ります。いまヱホバの証者は,他のすべての人以上に祝福されています。なぜなら,彼らは地上で最も幸福な人,最も平和にみちた人,そして満足している人々だからです。しかし,そのような直接の利益は,心のやさしいこれらの人々に与えられる最終的な祝福,そしてはるかに大きい祝福にくらべるなら,第二次的な重要性しかないのです。

      18,19 真実に心のやさしい人および平和な人には,どんな貴重な祝福が約束されていますか。

      18 イエスの有名な『山上の垂訓』を紹介する際に,偉大な師は『自分の霊的な必要物を意識している者は,ほんとうに幸福である。』『平和な人はほんとうに幸福である。』『心のやさしい人は,ほんとうに幸福である。』と言つただけではありません。たしかに,その霊的な必要物がみたされる人,心のやさしい人,そして平和な人は,ある程度の幸福を得ます。しかし,それらはキリストが約束した大きい祝福でなく,すばらしい祝福ではありません。イエスが地上に来られた目的は,ヱホバの栄光の御国について真実のあかしをすることでした。そして,この特定な場合でも,彼はその目的を達成しています。なぜなら,イエスは実際に次のように言われたからです,『自分の霊的な必要物を意識している者は,ほんとうに幸福である。天の御国はそれらの者に属する。』『平和な人は,ほんとうに幸福である。彼らは「神の子」ととなえられるであろう。』『心のやさしい人は,ほんとうに幸福である。彼らは地を相続するであろう。』― マタイ 5:3,9,5,新世。

      19 このことから,ヱホバの忠実な証者たちの持つ,言葉に言い表わせぬよろこびと幸福について,いつそう深い理解と認識を得ることができます。まず第1に,ヱホバの怒りにあふれた異常なハルマゲドンの戦いを実際に目撃することです。そのとき,ヱホバはその強力な栄光と力のうちに,悪い者たちを永久に根だやして,滅ぼしてしまいます。次に,『神の子』として,御国の平和な支配下にわりあてられた奉仕の立場をいただき,そしてその立場を永遠に所有して相続することです。このすべてのことは,ヱホバの御言葉と御名をなんとすばらしく立証することでしよう! これは,心のやさしい人々にとつて,もつともすばらしい祝福であり,心をふるい起す特権であります。彼らは,苦しい叫びをあげる現在の病気の世界の動揺や悲しみをうけず,自由を楽しんでいます。しかし,その祝福と特権はその自由よりもはるかにすぐれたものです!

  • 温和と節制は平和の実を産み出す
    ものみの塔 1960 | 5月15日
    • 温和と節制は平和の実を産み出す

      『あなたがたのうちで,知恵があり物わかりのよい人は,だれであるか。その人は,知恵にかなう柔和な行いをしていることを,よい生活によつて示すがよい。義の実は,平和をつくり出す人たちによつて,平和のうちにまかれるものである。』― ヤコブ 3:13,18,新口。

      1 (イ)神の御霊の平和な実は,何で構成されていますか。(ロ)そのような実をたくさん収穫するためには,どんな注意を払わねばなりませんか。

      ヱホバの幸福な証者たちが,霊的な実をたくさんむすびつづけることはヱホバのみこころです。神の御霊のむすぶものは,善,信仰,よろこび,愛そして親切だけでなく,平和,温和,寛容,節制もあります。さて,そのような美味の実を結ぶためには,正しい状態の下に種子を播くだけでなく,正しい種類の種子をまくことも,等しく重要なものです。ヱホバの昔の律法は,イスラエル人がまざつた種子や2種類の種子をいつしよにまくことを禁じました。イエスは次のように言われています,『茨からぶどうを,あざみからいちじくを集める者があろうか。良い木が悪い実をならせることはないし,悪い木が良い実をならせることはできない。』それですから,良い種類の種子,正しい種類の種子だけをまくようにしなさい。『人は自分のまいたものを,刈り取ることになる。すなわち,自分の肉にまく者は,肉から滅びを刈り取り,霊にまく者は,霊から永遠のいのちを刈り取るであろう。私たちは,善を行うことに,うみつかれてはならない。たゆまないでいると,時が来れば刈り取るようになる。』使徒はそれから,次のような意味深い点をつけ加えています,『だから,機会のあるごとに,だれに対しても,とくに信仰の仲間に対して,善を行おうではないか。』― レビ 19:19。申命 22:9。マタイ 7:16,18。ガラテヤ 5:22,23。6:7-10。新口。

      2 (イ)献身した僕が監督の任命を求めることは正しいですか。(ロ)監督に任命される資格を得る前に,監督はどんな評判を持つていなければなりませんか。

      2 神権的な取り極めの中では,主の特定な僕たちは,神の群れの監督にされています。(使行 20:28)そのような責任の地位についている彼らは,率先して平和の実をむすび,だれに対しても,特に仲間の者たち,神の会衆内の忠実な兄弟,姉妹に対して善を行なわなければなりません。主の献身した僕が,監督の職をのぞむことは,良いことであると聖書は述べています。このわけは,その立場で奉仕する資格を得る前に最高の要求にかなわなければならないからです。ヱホバから監督の務めをいただくための要求のうち,次のようなものがあります。すなわちその人は『外の人々にもよく思われている人でなければならない』『酒を好まず,乱暴でなく……人と争わず。』その人は,けんかが好きであつてはならず,いばり散らす独裁者のように支配を行なうということがあつてはならず,また傲慢な態度で群れをおどしつけたり,怒りやすくて,争いを好むということがあつてはなりません。むしろ,ヱホバの高い標準にかなうため,彼は『人をそしらず』,すべての人に『合理的』に行ない,他の人々のことや,彼らの問題を理解し,『すべての人に対してどこまでも温和な態度を示さね』ばなりません。―テモテ前 3:1-3,7。テトス 3:2,新世。

      3 監督のパウロは,テモテ前書 第6章でテモテにどんな良い助言を与えましたか。

      3 青年テモテは,初期クリスチャン会衆内でそのような資格を持つた監督でした。使徒でもあり監督でもあつたパウロは,ねたみ,しつと,そして猛烈な争論が生じたときにどうすべきかについて,良い助言をテモテに与えました。教理のことについて高慢な考えで思い上がり,霊的に病気な者が会衆の中に生ずると,テモテは告げられました。使徒はこう述べています,『そこから,ねたみ,争い,そしり,さいぎの心が生じ,また知性がくさつて,真理にそむき,信心を利得と心得る者どもの間に,はてしのないいがみ合いが起るのである。』そのような状況の下にあつて,テモテは何を行なうべきでしたか。問題をひき起すこれらの者たち,あるいはその有害な毒と,何の関係も持つてはならない,とテモテは告げられました。彼は,それらの者たちの悪から急いでのがれ,『義と信心と信仰と愛と忍耐と柔和とを』追い求めるべきでした。ここでパウロは心のやさしいことを他の五つの肝要な条件と同じ級に置きました。―テモテ前 6:4,5,11,新口。

      4,5 (イ)第1世紀のクリスチャンたちは,誰に温和を示すよう使徒パウロによりさとされましたか。そしてなぜ?(ロ)この面において20世紀のクリスチャンたちには何が要求されていますか。

      4 第1世紀の別の監督であつたテトスには,管理者なる彼の責任は次のようであると告げられました,『あなたは〔会衆の〕彼らにすすめて……だれをもそしらず,争わず,寛容であつて,すべての人に対してどこまでも柔和な態度を示すべきことを,思い出させなさい。私たちも以前には,無分別で,不従順な,迷つていた者であつて,さまざまの情欲と快楽との奴隷になり,悪意とねたみとで日を過ごし,人に憎まれ,互に憎み合つていた。』(テトス 3:1-3,新口)他のすべての人に対して,心をやさしくしていなければならぬ理由として,テトスは会衆に次のことをすすめるべきでした。すなわち,神は私たちに対して,きわめて親切で愛の御心を持たれているということ,および神が私たちを救うのは,私たちが神に対して正義の行ないをしたので,神はそうする義務を持つようになつたというのでありません。神が私たちを救うのは,御自身を犠牲にされた御子イエス・キリストを通して私たちにさしのべられる神のあわれみによるのです。最高の神は,私たちに対して比類のないなんとすばらしい温和を示したのでしよう! 今にいたるまでの世紀,神は私たち人間に対し,この温和と共になんという忍耐を持たれたのでしよう! 神がおそいとか,無関心である,という理由によるのでなく,神は私たちが滅びることをのぞまれないからです。神は私たちが救いにみちびく悔い改めに達すための必要な時間を持つことを欲しました。それで,神の温和な忍耐は,私たちを救います。―テトス 3:4-7。ペテロ後 3:9,15,新口。

      5 今日,忠実なクリスチャン監督に対しては,同じことが要求されています。彼らも,『私たちの救い主なる神』に謙遜な従順を示し,よろこんで従うよう会衆にいましめねばなりません。また,温和な態度の中に他の者に接するということについても,神を模倣すべきである,といましめねばなりません。神の御子,『私たちの救い主イエス・キリスト』は,この面で天的な御父にならいました。私たちも天的な御父にならわなければなりません。

      監督たち,神の群れを牧しなさい!

      6,7 (イ)どんな動物は主の民をよく説明しますか。そして,なぜ?(ロ)神の群れの監督たちに対して,ペテロとパウロはどのようにいましめていますか。

      6 主の民について述べたり,説明したりする際に,聖書は他の動物,たとえば牝牛,豚,ろば,熊,狼,犬あるいは山羊を用いる代りに,しばしば『羊』を用います。実は,それには極めてもつともな理由があるのです。羊は羊飼にすなおにみちびかれます。羊はおとなしくてやさしく,平和な動物です。他の動物に対してそうであるばかりでなく,同種の動物の中でもそうです。良く知られている他の動物には,このような望ましい性質が,程度の差こそあれ,欠如しているのです。羊はひじようにおとなしいので,羊飼はそれに応じて取り扱わねばなりません。聖霊によつて任命された神の群れに立つ羊飼にあてて,使徒ペテロは次のように書いています,『あなた方のうちの古い人々〔監督〕に,私はこうすすめる。私も彼らのような古い人〔監督〕である。……あなた方にゆだねられている神の群れを牧しなさい。しいられてするのでなく,よろこんでなし,不正の利益を愛さず,熱心にいたしなさい。神の相続である者たちの上に権力をふるうことをしないで,むしろ群れの模範になるべきである。』― ペテロ前 5:1-3,新世。

      7 監督や奉仕の僕たち,あなた方全部は注意をはらいなさい! それぞれの地方の会衆で任命されている僕たちであるあなた方,巡回の僕たち,地域の僕たち,支部の僕たち,地帯の僕たち ― ヱホバの幸福な群れの世話をして,牧するために,ヱホバの聖霊により任命されて,大きな影響力を持つ円熟したすべての人々 ― は,次のことを決して忘れてはなりません。すなわち,あなたがたは特別に平和な者であり,愛の心にみち,温和で,忍耐づよく,やさしく,親切でなければなりません。特に,あなたの管理と世話にゆだねられている主のやさしい羊に対して,そうでなければなりません。この神権的な社会内の特別な執事職に任命されるためにすいせんをうける以前と以後,これらの資格を持たねばならない,ということを決して忘れてはなりません。聖書にはこう書かれています,『監督たる者は,神に仕える者として,責められる点がなく,わがままでなく〔神のみこころでみちびかれねばならない〕,軽々しく怒らず,泥酔して口論をする者でなく,乱暴でなく,利をむさぼらず,かえつて,旅人をもてなし,善を愛し,慎み深く,正しく,信仰深く,自制する者であり,教にかなつた信頼すべき言葉を守る人でなければならない。それは,彼が健全な教によつて人をさとし,また反対する者を戒めることができるためである。』― テトス 1:7-9,新世。

      8 (イ)どんな理由のためにモーセは約束の地に入ることが許されませんでしたか。(ロ)監督がいつでも完全な節制を保つことは,なぜもつとも大切ですか。

      8 節制つまり自分の気持を制御することは,ぜひとも身につけねばなりません。節制を必要に応じて効果的に役立たせるようにするためには,十分の警戒をはらい,守り,そして絶えず働かせねばなりません。監督であつたモーセのことを思い出してごらんなさい。彼については聖書にこう書かれています,『モーセは,その人となり温柔なること世の中のすべての人にまされり。』(民数紀略 12:3)しかし,このモーセは約束の地に入れませんでした。そのわけは,ただ一度の激怒のあまりその気持を抑えなかつたからです。それですから,監督はたとえ一瞬であろうとも,自分の気持をゆるめ,抑制を失なつてはならないのです。もし節制に欠けて,自分の気持をおさえる力がないなら,シンゲンが述べる通りに,彼は『石垣なきやぶれたる城のごとし。』これに反して,忠実な監督たちは,しつかりした者たちで,必要な時には信頼のできる者です。そして,会衆内の弱い者たに保護と支持と守りを与えることができなければなりません。そして,いつでも温和で節制を保つときに,このことをすることができるのです。―民数紀略 20:9-12。シンゲン 25:28。

      9 (イ)反逆者たちには,いましめと矯正がどのように与えられるべきですか。(ロ)会衆の内部あるいは外部に反対が起るなら,気持ちを抑えずに激怒することは許されませんか。

      9 聖書からすでに引用されているごとく,監督は健全な神の言葉にかたくつき従わねばなりません。そして,健全な教えによつてさとし,『反対する者たちを戒め』ることができなければなりません。それですから,平衡を失なつて自分勝手のまちがつた考えを持つ人々,そして真理に反対する人々に対して,監督は時折り戒めを与えて,矯正することが必要になります。しかし,威張つた態度とか,喧嘩腰の態度,あるいは激怒の状態でいましめを与えてはなりません。古い世には「火には火で戦え」という考えがあります。しかし,ヱホバの制度内では,このようなことは行なわれません。燃えている火を消すには,熱い爆発混合物を投げこむよりも冷水をかける方がずつと良いでしよう。それですから,会衆内の火のごとき論争をしずめるためには,おだやかで静かな態度の中に,神の御言葉からのさわやかで冷い真理の水を用いることは,神の知恵と助言にかなうものです。神の知恵は,次のように述べています,『柔らかい答は憤りをとどめ,激しい言葉は怒りをひきおこす。憤りやすい者は争いをおこし,怒りをおそくする者は争いをとどめる。』『耐え忍ぶ心は,おごり高ぶる心にまさる。』忍耐のある監督が,親切と温和な仕方で真理を語るとき,彼は会衆内に生ずるあらゆる種類の反対をも十分取りあつかうことができます。なぜなら,彼の持つ舌は,ヱホバの命ずるままに制御されて使用されるとき,強力な武器になるからです。それは,まつたく強力になるので,『柔らかな舌は骨を砕く。すべての監督たちにあてて送られた使徒パウロの神権的な指示は,これらの真理の原則と一致調和しています。彼の指示は,次のように述べています,『主の僕たる者は争つてはならない。だれに対しても親切であつて,よく教え,よく忍び,反対する者を柔和な心で教え導くべきである。』― シンゲン 15:1,18; 25:15。伝道の書 7:8。テモテ後 2:24,25,新口。

      10 信仰からあやまり外ずれる者をいましめる目的は何ですか。霊的に病気な者を,どのように取り扱わねばなりませんか。

      10 反対する者たちとか,信仰からはずれる者たちにいましめを与える目的は,神の群れを守つて腐敗をもたらす影響や偽りの哲学が入らぬようにするためです。同時に,誤まりを犯す者たちを立てなおして,滅ぼさないようにするためです。『兄弟たちよ,もしもある人が罪過に陥つていることがわかつたなら,霊の人であるあなた方は,柔和な心をもつて,その人を正しなさい。それと同時に,もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと,反省しなさい。』健康な羊をやさしく世話しなければならないなら,病気の羊にはなおさらいつそうやさしい思いやりを与えねばならないでしよう! それですから,霊的に強くて円熟している監督たちは,霊的に病気な者たちを助けて援助しようとするときにやさしい思いやりを持つていたしなさい。羊は彼らのものでないことを記憶させなさい。羊は主のものです。それですから,羊が一時のあいだ迷うような時でも,被傭者のように取りあつかつてはなりません。しかし,『強暴な狼』が羊の振をしてしのび入り,群れの堕落をはかろうとするなら,忠実な羊飼である監督は,それらの者たちに対してすみやかな処置をとるでしよう。『その悪人を,あなた方の中から除いてしまいなさい。』― ガラテヤ 6:1。マタイ 7:15。ヨハネ 10:11-13。使行 20:29,30。コリント前 5:9-13,新口。

      11 監督でない者や奉仕の僕でない者には,謙遜,温和,節制その他の面で要求されることはすこしですか。

      11 このすばらしい助言と知恵は,みなヱホバの霊感された御言葉から来るものです。この場合神の御言葉は,監督たちや奉仕の僕たちにあてて明白に命じています。しかし,ヱホバの証者の各人にも同じように適用するのです。それですから,真理に幼児である新しい人も,また生涯ずつとヱホバの制度と交つてきた人も,むすぶ実の性質ということについては,指導者たちに要求されるよりも,自分たちに対する要求はすくない,などというようなことを一瞬といえども考えるべきではありません。神は,人や性や年齢に特別な考慮を払いません。昔のイスラエルの場合と同じく,今日でも監督や一般の人々,そして見知らぬ者も異国の者でも,すべての者に対して一つの律法があります。すべての者は同じ競技,同じ競争をしているのです。それは,生命か死をえらぶ競争です。それですから,すべての者はパウロが助言したような走り方をしましよう,『すべて競技をする者は,何ごとにも節制をする。……そこで私は……自分のからだを打ちたたいて服従させるのである。そうしないと,ほかの人に宣べ伝えておきながら,自分は失格者になるかも知れない。』パウロが『キリスト・イエスにあつて忠実な者たち』に次の言葉を書き送つたとき,それは真のクリスチャン全部にあてて述べられたものです,『私は,あなたがたにすすめる。あなた方が召されたその召しにふさわしく歩き,できる限り謙虚で,かつ柔和であり,寛容を示し,愛をもつて互に忍び合い,平和のきずなで結ばれて,聖霊による一致を守りつづけるように努めなさい。からだは一つ。』このクリスチャン平和と一致を保つためには,会衆のからだの全員がつとめねばなりません。それで,柔和,忍耐,温和,節制,寛容,謙虚,愛,その他のことで監督に要求されている事柄は,ヱホバの献身した民の各人にも要求されているのです。―出エジプト 12:49。レビ 24:22。コリント前 9:25-27。エペソ 1:1; 4:1-4,新世。

      家庭で温和と節制を行う

      12 温和と節制は,どこにありませんか。この結果は何でしたか。

      12 生活の最もむずかしい問題のいくらかは,家庭の問題です。不幸な結婚生活をしている多数の人,両親の怠慢と子供の不良化,不和な家庭の数が驚くべきほどに多いこと,ますます増加する離婚などは,この古い世の社会が崩壊して道徳が堕落していることを証明するものです。夫と妻は,人前であろうとなかろうと,言争いをしてけんかをします。青少年の不良化といえば,子供らしい怒りを爆発する程度から,両親に公然と襲いかかつて殺すことすらいたします。このように崩壊した家庭に平和と静けさがないことは全く明白です。そのわけは,キリストのごとき温和と節制がまつたく不足しているからです。

      13 一方,夫と妻が神の御心を行なうとき,どんな幸福な家庭の状態が得られますか。

      13 夫と妻がヱホバの幸福な証者なら,そのような歎かわしい状態は見られないでしよう。なぜですか。その理由は簡単です。会衆内で始められて行なわれた忍耐,愛,温和,寛容,雅量,そして感情の抑制は,家族内の生活でも行なわれるからです。『妻たる者よ,夫に仕えなさい。それが,主にある者にふさわしいことである。夫たる者よ,妻を愛しなさい。つらくあたつてはいけない。』そして,夫と妻の両方に次のいましめが与えられています,『互に忍び合い,もし互に責むべきことがあれば,ゆるし合いなさい。』夫婦が感情と気持の抑制ができなくなる,ということに対する言訳や理由はまつたくありません。また,そのような状態をひきおこすほどに大きな問題や,緊急な事柄は絶対にありません。夫と妻が神のみこころを行うなら,両人は互に対しても,また自分の子供たちに対して,いつでもやさしい心を持ち,親切で,思いやりがあり,寛容でなければなりません。―コロサイ 3:18,19,13,新口。

      14 家族が分裂している場合には,クリスチャンである配偶者はどんな神の助言に従わねばなりませんか。

      14 夫と妻の両方が神の献身した僕たちである神権的な家庭では,これは極めて良い,とある人は言うでしよう。しかし,クリスチャンの妻が真理に入つていない人と結婚している家庭ではいかがですか。今日そのような家庭はたくさんあります。そして,家庭のかしらが真のクリスチャンでないなら,彼は腹を立てて理性を失い,ときにはたいへん意地悪い仕打をするでしよう。それだからといつて,妻が自分の幸福な心持を捨てて,不幸な心持をいだく夫に加わる理由にはなりません。そのような状況下にいる献身した配偶者は,神の御心に従わねばなりません,すなわち,『妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば,たとい御言葉に従わない夫であつても,あなたがたのうやうやしく清い行いを見て,その妻の無言の行いによつて救に入れられるようになるであろう。あなた方は……かくれた内なる人,柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾りを,身につけるべきである。これこそ,神のみまえに,きわめて尊いものである。』献身している心のやさしい妻がこのことを行うとき,心の荒立つている夫の持たない幸福と満足を楽しむでしよう。―ペテロ前 3:1-4,新口。

      15 自分の家が平和と満足という祝福をうけたいなら,両親は子供たちに対するどんな聖書的な助言に従わねばなりませんか。

      15 クリスチャンの家庭内の両親は,互にやさしい心を持たなければなりませんが,また子供たちに対しても同様な心持を抱かねばなりません。『あなた方,父たちよ。自分の子供をいらいらさせてはならない。ヱホバのこらしめと権威ある助言に従つて子供をそだてなさい。』子供をこらしめることは絶対に必要です。ヱホバの助言は次のように述べています,『むちと戒めとは知恵を与える。わがままにさせた子はその母に恥をもたらす。あなたの子をこらしめよ。そうすれば彼はあなたを安らかにし,またあなたの心に喜びを与える。』両親が矯正のこらしめを与えるのは,子供に対する愛の行いであつて,憎しみとか悪意ではありません。『むちを加えない者は,その子を憎むのである。子を愛する者は,つとめてこれをこらしめる。』― エペソ 6:4。シンゲン 29:15,17; 13:24,新口。

      16 神の新しい世で生きたいと欲するあなた方子供たちにとつて,両親のこらしめはどの位たいせつですか。

      16 さて,10才台の子供たち全部をふくむあなた方子供たち,ヱホバの定め給うたこのこらしめは,あなたの益をはかる薬であることを心にとめなさい。なぜなら,不従順,頑固,そして激怒は,罪と死の道であり,そしてそれらは生まれたときからあなた方の心にむすびつけられているのです。もし神の御国の支配下に生活したいと欲するなら,先祖から受けついできたこれらの悪魔的な傾向を是非とも引き抜いて,その代りに敬虔な性質を植えなければなりません。矯正を与える両親のむちは,このことをする際の援助です。『愚かなことが子供の心の中につながれている。こらしめのむちは,これを遠く追いだす。』― シンゲン 22:15,新口。

      17 (イ)ヱホバの律法が行なわれた昔のイスラエルには,なぜ青少年犯罪者がいなかつたか,その理由を説明しなさい。(ロ)今日のヱホバの証者のあいだには,なぜ青少年犯罪の問題はほとんど存在していないのですか。

      17 まれには,子供の心は非常にかたくなで,矯正のむちでさえもそれを追い出すことができない,という場合があります。イスラエルの時代のとき,両親は言うことを聞かないそのような子供たちを町の長老の許に連れて行くようヱホバから命ぜられていました。そして,町の長老は矯正できない者を外に連れ出し石を投げて殺しました。そのような制度のときには,青少年犯罪者はいませんでした。(申命 21:18-21)今日でも同様です。ヱホバの証者の新しい世の社会は,青少年犯罪の存在を許すことができず,またゆるそうとしないでしよう。それで,賢くて神権的な子供たちは,会衆からの排斥という致命的な処置を避けるため,神の御言葉の告げることに注意を払い,それに従うでしよう。『子たる者よ。主にあつて両親に従いなさい。これは正しいことである。』『子たる者よ,何事(すべてのもの)についても両親に従いなさい。これが主に喜ばれることである。』シンゲンの言葉は次のようです,『あなたを生んだ父のいうことを聞き,年老いた母を軽んじてはならない。』― エペソ 6:1。コロサイ 3:20。シンゲン 23:22,新口。

      18 美しい実をむすぶヱホバの証者の制度は,どんな面でエデンの園のようですか。これはどうして可能ですか。

      18 それで,結婚している者であろうと,独身者であろうと,大人であろうと子供であろうと,残れる者であろうと『大いなる群衆』であろうと,監督であろうとなかろうと,ヱホバの証者はみな,神の聖霊の助けをうけつつ,温和と節制を行うことによつて,平和の実という決してつきることのない実を豊かに産出することができます。ヱホバの愛にみちる世話の下にあつて,平和と一致の美を楽しむ彼らの制度は,エデンの園のようです。このわけは,各人がヱホバの律法といましめに対して深い尊敬と愛を持つており,またあらゆることにおいて神の御こころを行うことに熱心であり,献身しているからです。『わが子よ,私の教を忘れず,私の戒めを心にとめよ。そうすれば,これはあなたの日を長くし,命の年を延べ,あなたに平安を増し加える。』『あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり,何ものも彼らをつまずかすことはできません。』― シンゲン 3:1,2。詩 119:165,新口。

      19 平和と満足を愛する人々には,それを永久にわたつて楽しめることが,どのように保証されますか。

      19 場所の如何を問わず善意を持つ人そして平和と一致を愛する人が,もし最上の幸福にあずかりたいなら,また神の御国の支配下にある楽園で永遠の平和と満足の中に生活したいなら,平和を愛するヱホバの証者とすみやかに交わりなさい。そして,彼らと共々にやさしい心を持ち,おだやかで,愛の気持の中に忍耐し,節制を持ちなさい。神の御こころに従いつづけなさい。神の御こころの中には詩篇 37篇もふくまれているのです,『悪をなす者のゆえに,心をなやますな。不義を行う者のゆえに,ねたみを起すな。彼らはやがて草のように衰え,青菜のようにしおれるからである……怒りをやめ,憤りを捨てよ……悪を行う者は断ち滅ぼされ,ヱホバを待ち望む者は国を継ぐからである。悪しき者はただしばらくで,うせ去る。あなたは彼のところをつぶさにたずねても彼はいない。しかし柔和な者(心のやさしい者)は地を得て,豊かな平和をたのしむであろう。』― 詩 37:1,2,8-11,新世。

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