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    王国宣教 1975 | 9月
    • の開拓奉仕や仕事に戻っておられます。現在までに65名の別々の兄弟たちがこの奉仕の特権を楽しみました。そしてその多くは今も熱心に最終的な仕上げ工事に携わっています。すべての仕事は11月中に終わる予定です。

      兄弟たちの気力あふれた仕事ぶりは世の人々に良い証言となっています。セメントを供給している業者のひとりは,皆に「やる気」がみなぎっており,このような人たちと仕事をすれば本当に能率が上がる,とうらやましそうに話していました。エホバが確かに全地を楽園に造りかえるため,熱心な民を集め奉仕のあらゆる分野において彼らを訓練しておられるということを理解できます。エホバの証人はその神の目的に喜んで自分をささげているのです。

      9月には再び「進化」の本を用いて偽りの教えで盲目にされている人々を助ける機会が開かれています。学校や職場で,そして家から家の業でこの本を配布しましょう。

      共に仕える日本支部の兄弟たち

  • わたしたちを結び合わせる集会
    王国宣教 1975 | 9月
    • わたしたちを結び合わせる集会

      1 エホバおよびわたしたちの兄弟と良い関係を保つ以上に重要なことはありません。この面で集会は重要な役割を果たします。以前にも増して『集まり合うこと』はやめることのできない習慣です。―ヘブライ 10:25。

      2 エホバとの良い関係は,わたしたちがエホバを崇拝する仕方に依存しています。単なる,消極的な崇拝は決して受け入れられることはありません。清い崇拝のどの要求にかなうにも「真剣な努力」が必要とされています。(ペテロ第二 1:5)集会に出席することはわたしたちが努力を払う一つの点です。

      3 わたしたちの集会はエホバについてわたしたちに教え,そのご意志をより明確に理解するよう助けるためにもうけられています。わたしたちが学ぶことに鋭い関心を示すなら,それはエホバを喜ばせることになるでしょう。忠実に毎週の集会にもどって来ることは,しばしば繰り返されているエホバへの祈願,『なんじの道をわれに教え……たまえ』と言うことに似ています。(詩 27:11)すべての人がエホバのみ前で謙遜に学ぶ立場を取る時,エホバはわたしたちの祝福のために喜んでご自身を親しくあらわしてくださるのです。

      4 集会においてわたしたちがことばで表現することは「わたしたちの希望を公に言い表わすこと」であり,これはエホバを喜ばすものです。(ヘブライ 10:23; 13:16)エホバの驚くべき特質を際限なく研究することにより,わたしたちの生活においてそれらの特質を見倣いたいというわたしたちの願いを神に示せます。(エフェソス 5:1)集会を通して「神に近づ」こうとする努力はエホバの善意を招き,永続する友好関係の堅い基礎を築きます。―ヤコブ 4:8。

      5 集会はまたわたしたちを兄弟たちに引き寄せます。健全なふんい気は平和な道に導くものです。思いは敬神の考えで満たされ,一致をかもしだす神の霊の種々の実が生み出されます。エホバのみ前における敬けんな気持ちによって自分を重要視する考えができる限り押えられると,他の人との強いきずなが容易に結ばれます。共通の関心事に共にあずかることは,普通異なった背景の人々を分けへだてている不信を取り除きます。わたしたちが出席することは友好関係を求める意思表示なのです。わたしたちが学んだことを他の人々に分かち合おうと努力するなら,それらの人々に対するわたしたちの愛とその人がエホバの祝福を得るのを見たいというわたしたちの願いは強まります。

      6 わたしたちが兄弟たちの中に知っている人々の数を増やすならば,全世界の「仲間の兄弟全体」に対するより大きな認識が得られます。(ペテロ第一 5:9)わたしたちが兄弟たちを知れば知るほど,わたしたちは彼らがわたしたちに対して持っている愛に対する確信は深まります。難しい問題が起きそうな時,兄弟たちがわたしたちを世話してくれ,できるすべてのことをして助けてくれることを知っているので恐れを感ずることがありません。緊急な時,こうしたきずなが弱い者を強くし,困難を耐えるようにすべての人を助けます。(伝道 4:11,12)お互いの信仰は,絶えず「相互に励まし合う」ことによりさらに強められます。(ローマ 1:11,12)エホバの民の喜びと一致に,それほど多く貢献してきた備えがほかにあるでしょうか。

      7 わたしたちがエホバおよび兄弟たちと良い関係を保つよう努力したので多くの祝福がわたしたちにもたらされました。教訓が絶えず施されるので,わたしたちは宗教的に言って世界で最も知識のある民となっています。わたしたちはちょうど親しい友を知るようにわたしたちの神を知り,神に関するすべての良いことを認識し,それらに対して敬意を示すようになりました。生活において神の霊の実を培うことにより,わたしたちは個人的に深い満足と将来に対する保証された希望を得ることができました。神の善意に関するこれほど多くの確証があるので,わたしたちはエホバが本当にわたしたちに配慮を払っておられるとの証拠を持っているのです。―ペテロ第一 5:7。

      8 わたしたちは兄弟たちと一緒にいる時,幸せであり,真実に平和な人々の仲間となっている時,安全です。利己的な利益の追求に伴う緊張や競争で精根が尽き果ててしまうということはもはやありません。わたしたちは新しい人々を暖かく迎え,真に親切なもてなしをすることができます。わたしたち自身の経験から,わたしたちは愛が「結合の完全なきずな」であると証言できるのです。―コロサイ 3:14。

      9 会衆で行なわれる毎週の集会に加え,わたしたちすべては7月と8月に開かれた「神の主権」地域大会から大いに力づけられ,霊的にさわやかにされました。さらにこの9月から再び新しい一連の巡回大会も開かれます。その時の公開講演は「じっと立ち,……エホバの救いを見なさい」と題するものです。霊的な備えをわたしたちが多く必要としている時に,エホバがこれらを豊かに備えてくださるので,あなたはそのことを感謝しておられませんか。集会の時ほど,エホバやわたしたちの兄弟たちに強い親近感の持てる時がほかにあるでしょうか。わたしたちがすべての集会を心からの感謝の祈りをもって閉じ,それから『喜びかつ心に楽しみ』を抱いて家路につくのは何とふさわしいことでしょう。―歴代下 7:10。

  • りっぱに治める
    王国宣教 1975 | 9月
    • りっぱに治める

      1 監督に対する資格を述べている中で,聖書は,その人が模範となるべき一つの点として「自分の家の者をりっぱに治め」るということを指摘しています。それは道理にかなったことです。なぜならもしその人が「自分の家の者を治めることも知らない人であれば,どのようにして神の会衆を世話するのでしょうか」。(テモテ第一 3:4,5)もちろんすべてのクリスチャンの父親は,監督であるかどうかにかかわりなく,りっぱに自分の家族を治める必要を悟るべきです。それには何が含まれるでしょうか。

      2 自分の妻に対しては,親切で愛ある夫であることを確かに意味します。(エフェソス 5:25,28,33)そのような方法で扱われるなら,妻は ― たとえ未信者であったとしても ― 協力と愛情をもって応ずるでしょう。それでも,ある家族の場合,妻は夫に反対したり不道徳な歩みをするかもしれません。(マタイ 10:36)それは夫がりっぱに治めることに失敗したという意味でしょうか。もし夫が最善を尽くして,夫に対する神の助言を真実に適用しているなら,妻が悪の道を選んだとしても,それは夫の側の失敗と解されるべきではありません。(エレミヤ 3:20。エゼキエル 16:8,20)しかし,どの夫もりっぱに治めていると言えるためには,神の助言を自分に適用するのに最善を尽くしていることが明らかでなければなりません。

      3 りっぱに治めている父親は子供たちを導き,世話するのに努力していることを認めることができます。正しく教え諭すこと,そしてエホバを愛し恐れるように,また正しく振舞うよう助けるには多くの時間と世話が必要です。(詩 78:5-7; 34:11。エフェソス 6:4)父親は他の人と働いたり他の人を助けたりすることにもっと関心を持ち,あるいは自分の子供は自然に成長してゆくなどと考えて子供たちをなおざりにするわけにはゆきません。

      4 しかし,父親のりっぱな努力にもかかわらず息子や娘が悪行を行なったり,まったくわがままな道を歩むようになるならどうですか。それは必ずしも父親に落ち度があったという意味ではありません。エホバの霊の子たちの中にも反逆した者がおり,地上の最初の二人の子供も同じ道を取りました。そしてわたしたちはエホバが彼らに注意を怠ったのでは決してなかったことを知っています。それでもし監督の家族の成員が悪い歩みを取るとするなら,問われるべき点は,父親がどの程度責任を負っているかということです。たぶん両親が真理を学んだ時,その若者はすでに十代になっており,決して信者になろうとしなかったのかもしれません。父親はクリスチャンの家族の頭に普通に期待されるすべてのことを行ないましたか。もしそうであるなら,一人あるいはそれ以上の成員の非行で,父親が必ずしも監督としての資格に欠けるというわけではありません。

      5 クリスチャンの家族の頭がりっぱに治めることに成功し,「放とうの責めを受けたり無規律であったりすることのない,信者である子どもを持つ」ようになるなら,何という賛美がエホバにもたらされるのでしょう。(テトス 1:6)これらの息子や娘たちはエホバからの祝福であり,そのような子供たちはエホバの賛美に貢献します。―詩 127:3-5。

  • 内密な事柄をどのようにみなしますか
    王国宣教 1975 | 9月
    • 内密な事柄をどのようにみなしますか

      1 クリスチャンとしてわたしたちは楽しく話し合う数々の優れた事柄 ― 聖書的な要点,経験,大会など ― があります。しかし聖書は,わたしたちが話すことに関連していくらかの自制が必要なことを示しています。(詩 34:13。箴 10:19)例えば,わたしたちは中傷するように有害な話を広めたり,自分が聞くことを何でも見境なく話すような人になりたいとは思いません。―箴 20:19。

      2 わたしたちは包み隠しすることのない率直な民であり,疑い深く隠しだてする者ではありません。しかしある事柄は内密なものであり,許可も得ずにそれを他の人と話し合うといったことをすべきではありません。これは易しいことではないかもしれません。というのは,わたしたちが知った内密な事柄を友と分かち合いたいという衝動にかられるかもしれないからです。また,他の人から内密な情報をせん索しないようにするためには訓練が必要です。―士師 16:15-17。

      3 内密が保たれるのはどんな分野ですか。家族: あなたは家族の信頼を得て,家族の成員の弱点または個人的な計画を知るかもしれません。しかし,主人,妻そして子供たちは家族の中で生じたことや計画されていることのすべてを語るべきではありません。(詩 50:20)家族の愛の一つの面は,自分の家族の成員が信頼に値するということです。これは,子供が学ぶよう親が助けることのできる事柄です。職業: あなたの雇用者の仕事上の詳細や計画を漏らすことは雇用者に経済上の損失をもたらします。会衆: 長老は自分たちが扱った問題を内密に保ちます。もし,だれかが長老を信頼し,霊的あるいは家族の問題につき内密なことを打ち明け,長老がそれを公に話すなら,他の人はどの長老からも援助を求めることをためらうでしょう。(ヤコブ 5:13-16)もし好奇心から妻や子供に聞かれたとしても,長老は会衆の内密な事柄をあらわにするようなことはいたしません。このようにして長老はそうした会衆の事柄で内密を保ち,家族に負担を負わせるようなことを避けることができるでしょう。(「ものみの塔」1971年7月1日号413-415ページ参照)

      4 内密な事柄についてこのような見方を保って,わたしたちは築き上げ,助けとなる話に専念することができます。―箴 25:9; 16:13。

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