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もてなしの道ものみの塔 1957 | 4月15日
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の真理でもつて,実体的なエルサレムの中の『もろもろの憎むべき事のために歎き悲しむ』人々の傷をほうたいしました。―イザヤ 1:5,6。エゼキエル 9:4。
14 霊的なもてなしを施すために,どんな種類の準備が大切ですか。
14 オリブ油と葡萄酒でもつて傷をほうたいしてもらいたい,と望んでいる『半殺し』の見知らぬ人が,何処にいるかは,分りません。しかし,サマリヤ人が充分のオリブ油と葡萄酒を携行していて,非常事態に備えていたごとく,今日のヱホバの証者は,神の言葉の充分のオリブ油と葡萄酒を持つていて,いつも備えをしていなければなりません。ところが,ときどき兄弟たちは充分の『オリブ油と葡萄酒』を持たずに,野外奉仕に出かけます。それですから,丁度『半殺し』の見知らぬ人に会う時には,文書がひとつも無い始末です。或る兄弟たちは,旅行に出かけるときに,『オリブ油と葡萄酒』を極くすこしだけ持つて行くか,あるいはすこしも持つて行きません。霊的に半殺しである,と示す見知らぬ人に会うなら,どうすることができますか。旅行中の時は限られているのですから,その時その場で用いられる『オリブ油と葡萄酒』の持ち合わせがないなら,霊的な傷にほうたいすることはたいへん難しいものです。兄弟たちは,自分の家庭に,一番新しいいろいろの種類の御国の文書を用意していない時があります。見知らぬ人が戸口に来るとき,進化論や,三位一体や,霊媒術などで受けた傷を癒すオリブ油や葡萄酒がありますか。それで,思慮深くありなさい。準備をしなさい。汽車に乗つているときも,船やバスに乗つているときでも,歩いているときも自動車を運転しているときも,又は家に居る時も,何時でもこのオリブ油と葡萄酒を持つていなさい。そうすれば,「盗まれて打たれた」見知らぬ人が見出されるときには,何時でも,又どの場所でも,もてなす準備ができています。
15,16 (イ)サマリヤ人が,『自分の家畜』を用いて,見知らぬ人を宿屋に連れて来たことは,ヱホバの証者のどんなもてなしの行に対応するものですか。(ロ)会衆内の僕たちは,どんな性質を持たねばなりませんか。なぜ?
15 善いサマリヤ人は,オリブ油と葡萄酒を使う以上のことをしました。自分の家畜に乗せて,宿屋までその人を運び,もつと良い手当を受けさせたのです。それで,ヱホバの証者は,よろこんで自分の自動車で善意のある見知らぬ人を御国会館に案内します。見知らぬ人は,御国会館で気持良く受け入れられ,やさしく世話を受けます。昔の宿屋の主人は,もてなしをすることでしばしば有名でした。それで,会衆内の僕たちは,宿屋にあつたような,もてなしの気持を表わさればなりません。もてなしの気持は,全く大切なものです。それですから,もてなしの気持を持たぬ人は,僕に任命される資格がありません。使徒は,テモテ前書 3章2節(新世)で,監督たる者は『見知らぬ人を愛する者』でなければならぬ,又は脚註の述べているように,『もてなしをする』者でなければならない,と説明しています。
16 ヱホバの証者の会衆に,この世には無い暖かさを与えるものは何ですか。それは,御国会館ですか。いいえ,たとえ御国会館がその国内でいちばん美しく,また一番新しいものであつても,その中の会衆は氷のごとく一番冷やかなものになるでしよう。会衆を暖くせしめるものは,もてなしの道に従うすべての兄弟たち,特に僕たちなのです。
17 御国会館で,兄弟たちは,どのようにもてなしを表わすことができますか。
17 僕たち,歓迎の空気があなた方の御国会館に充ちていますか。初めての人は,楽なくつろいだ気分になりますか。初めての人に会館を案内して,報告表とか,大会の写真とか,その他のものを説明しますか。公開集会の始まる時よりもずつと前に御国会館を開場して,初めての人を外で待たせる,などいうことが決してありませんか。兄弟たちは,初めての人と歌の本や『ものみの塔』をいやな態度をすこしも見せずに,いつしよに見ますか。見知らぬ人であろうと兄弟であろうと,僕たちがすべての人を歓迎する会衆では,非常な暖かさが充ちます。兄弟たちは,集会の終つた後でも御国会館を去りたくないでしよう。
18,19 (イ)僕たちが,もてなしの道に従うのを忘れると,何が起りますか。(ロ)紹介をされなくても,口重の兄弟たちは,どのように初めての人にたやすく近づくことができますか。
18 しかし,時折りに,兄弟たちは,もてなしの道を忘れることがあります。すると,会衆全部がもてなしの道を忘れます。何が起りますか。御国会館には,宿屋に充ちるような暖い空気がなくなつて,鉄道の駅のような空気が充ちます。それがどんなものか御存知ですか。鉄道の駅に行つても,誰一人としてあなたに注意を払いません。誰一人としてあなたに話しかけません。人々のそばに行つても,誰もあなたのことを見ないし,全然気にもかけません。人々の傍に席を取ります。でも,人々は読みものから顔を上げることさえもしないのです。かりに人々が顔を上げたときに,あなたが微笑みかけても,人々は微笑みを返しません。駅とは,坐つて待つところだけの場所です。待つ時間が過ぎて,駅から出るときには,いつでも,うれしく感じます。これが鉄道の駅です。さて,僕たちが,もし御国会館にそのような鉄道の駅の空気を充させて,― そして初めての人が入つて来るなら,何が生じますか。
19 その初めての人は,次のような独り言を言うでしよう,「もてなしなんか,ほとんどない。みなさんは,街頭で私が話かけたり,私の家に来る時には親切だ。だが,みなさんの中に行つてみると,私のことにすこしの注意をも示さない。おそらく,私の来るのを望んでいないのだ。もう来ない方が良いかも知れぬ。」ほんとうに,そのようなことは起り得るのです。起つたことがあるのです。あなたの会衆内に,そのようなことを起してはなりません。初めての人を歓迎するように気を配りなさい。或る兄弟たちが,生まれつき口重の方ならば,次のようにお尋ねするなら,初めての方にも容易に近づくことができます,『講演は如何でしたか。』又は『私たちの集会は,他の宗教制度の集会とは,ちがつてはいませんか。』もちろん,誰でも知つているもの ― 天候 ― のことを語ることに,なんのためらいをする必要もないでしよう。初めての人も,御国会館に一度行つてからは,もう初めての人ではなくなるはずです。あたかも兄弟であるように,その人を暖く受け入れなければなりません。『キリストも私たちを受けいれて下さつたように,あなたがたも互に受け』いれなさい。―ロマ 15:7,新口。
20 『もてなしの道に従う』とは,どういう意味ですか。
20 それで,私たちは使徒の命じた言葉,『もてなしの道に従いなさい。』を是非とも行わなければなりません。もてなしの道に『従う』ことは,もてなしをしたい,という気持を抱くこと以上のことを意味します。それは,もてなしを実際にすること,その道を追い求めること,気を配つて親切を行い,あらゆる機会を用いて『オリブ油と葡萄酒』を見知らぬ人の霊的な傷に注ぐことを意味します。しかし,豊かにせしめるこのもてなしの道は,見知らぬ人々のためだけのもの,と決して考えないで下さい。私たちの親切ともてなしによつて,兄弟愛を持つていることをも確かに示すことができるからです。『兄弟愛については,今さら書きおくる必要はない。あなた方は,互に愛し合うように神に直接教えられており,……しかし,兄弟たちよ。あなた方に勧める。ますます,そうしてほしい。』兄弟たちにたいして,もてなしの道に従うことにより,本当に『聖なる者たちと,その必要物に応じて』物を分ち合うことにより,私たちの愛を『ますます』示すことができます。―ロマ 12:13。テサロニケ前 4:9,10,新口。
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他の人々と物を分ち合うものみの塔 1957 | 4月15日
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他の人々と物を分ち合う
1 この世の人のもてなしと,クリスチャンのもてなしの違いを説明しなさい。
クリスチャンのもてなしは,愛を表わし示します。この世の人のもてなしは,誇りを表わし示します。この二つのあいだには,非常に大きな相違があります。片方は,愛と親切の気持からなされます。他方は,誇りと利己主義の気持からなされます。この世の人々は,『見られるために人の前で』もてなしをします。そして,しばしば,お返しを心持ちにします。「あなたの御馳走に私を相伴にしてくれるなら,あなたに御馳走をふるまいましよう」というのが,実のないこの世のもてなしの中心の考えです。しかし,クリスチャンは,何とちがつているのでしよう! クリスチャンは,他の人々と物を分ち合いますが,それは誇りのためでもなければ,お返しを求めるからでもありません。それは,神と人に対する深い愛からなされるのです。それで,この世の人々は,持物のある人に分け与えますが,クリスチャンは,隣人にせよ,兄弟にせよ,その人を考えて分け与えます。生命を持つすべての人が,
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