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『悪鬼の食卓』対『ヱホバの食卓』ものみの塔 1956 | 2月1日
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う。私の肉はまことの食物,私の血は,(不法な飲み物,死をもたらす飲み物ではなく)まことの飲み物である。私の肉を食べ,私の血を飲む者は,私におり,私もまたその人におる。生ける父が私をつかわされ,また私が父によつて生きているように,私を食べる者も私によつて生きるであろう。天から下つてきたパンは,先祖たちが食べたが死んでしまつたようなものではない。このパンを食べる者は,いつまでも生きるであろう。』シモン,ペテロは,これらの言葉は,『永遠の生命の言葉』である,と言いました。―ヨハネ 6:47-58,68,新口。
29 弟子たちの生命のために,イエスは二つのどんな必要なものを与えましたか? 杯の意味するものから考えると,パンは何を意味しますか?
29 イエスは,弟子たちの生命のために,御自分の肉と血を与えられました。イエスは,御自分の備えた夕食のときに,パンと葡萄酒の杯を用いることにより,永遠の生命を得るのに是非必要な肉と血を象徴されました。葡萄酒の杯は,新しい契約を有効にするのに必要な実際の血を表示すると,イエスは言われました。それと同じように,イエスがさいて与えたパンは,実際の人間としての価値を持つているにちがいありません。そのパンは,新しい世に入る人々の生命のために与えるイエスの肉の体を意味するにちがいありません。
30 イエスの血を飲むことは,何を意味しますか? しかし,イエスの血を飲むという考えにびつくりしたユダヤ人たちは,何をしましたか?
30 イエスの血を飲むからといつて,イエスを死なせたという責任を負うものではありません。それは,信仰によつて,感謝の気持からその血をうけ入れ,犠牲として注がれたイエスの生命の血の恩恵を取り入れる,ということです。イエスを刑柱にかけて殺せ,と要求した人々は,イエスの血を飲むという考えにびつくりし,その血を,信仰をもつて飲もうとはしなかつたのです。総督ポンテオ・ピラトが『この人の血について,私には責任がない。』と言つた後に,それらの人々は,イエスの死に対する責任を取つたのです。彼らは,『その血の責任は,われわれと,われわれの子孫の上にかかつてもよい。』と言いました。(マタイ 27:24,25,新世)後日,ユダヤの最高法廷は使徒たちに反対して『あなた方は確かに,あの人の血の責任を私たちに負わせようと,たくらんでいるのだ。』と言いましたが,実は,彼らはイエスの血を象徴的に飲もうとはせず,そして自分の潔白なることを示そうとはしなかつたのです。―使行 5:27,28,新口。
31 飲むことを拒絶したユダヤの祭司たちにつき,パウロは何と言つていますか? それで,主の夕食のときに,イエスの血を象徴的に飲む資格を持つ人は誰ですか?
31 信仰を持たないそれらのユダヤ人は,イエスの血を飲もうとはしなかつたため,新しい契約に入ることもできず,また生命と救にいたらす『まことの飲み物』を飲もうとはしなかつたのです。その多くは祭司たちでした。それで,イエスの犠牲を拒絶し,かつ,エルサレムのヘロデの宮にある手で作られた祭壇で神に仕えたそれらの祭司たちにつき,使徒は次のように言つています。『私たちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは,その祭壇の食物をたべる権利はない。なぜなら,(ユダヤ人の)大祭司によつて,罪のためにささげられる(贖罪日の)けものの血は,聖所のなかに携えて行かれるが,そのからだは,(イスラエルの)営所の外で焼かれてしまうからである。だから,イエスもまた,ご自分の血で民をきよめるために,(エルサレムの)門の外で苦難をうけられたのである。したがつて,私たちも,彼のはずかしめを身に負い,営所の外に出て,みもとに行こうではないか。』(ヘブル 13:10-13,新口)現在の古い組織制度の外に出て,みもとに行く人々は,信仰により,イエスの血を象徴的に飲みます。それらの人は,『主の夕食』の杯から血を象徴的に飲む資格を持つています。各人は,みな『自分がきよめられた契約の血』を十二分に尊重します。(ヘブル 10:29,新口)彼らは『この(神の)御旨にもとづき,ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによつて,私たちはきよめられたのである。』と言うことができるため,その象徴的なパンを正しく食べることができます。―ヘブル 10:10,新口。
悪鬼にあずからず,ヱホバにあずかる人々
32,33 (イ)酬恩祭の犠牲を食べたため,イスラエル人は誰と交わりを持ちましたか? なぜ,そうですか?(ロ)偶像崇拝者は,どのように悪鬼とあずかりますか? どのように悪鬼の杯を飲みましたか?
32 前の諸節で,論ぜられている事柄は,コリント前書 10章16-21節に述べられている使徒パウロの言葉と一致いたしますか? かならず一致すべきです。一致しますか。この聖句のところで,パウロは,悪鬼に供えられた犠牲と,ヱホバ神に供えられた犠牲について,語つています。この犠牲の種類は,酬恩祭の犠牲であつて,その犠牲の供えられる祭壇は,犠牲の食物がその上に供えられるため「食卓」になぞえられています。ヱホバ神御自身も,御自分に供えられる犠牲の置かれるところを,『ヱホバの食卓』と呼ばれました。(マラキ 1:7,12,ア標)酬恩祭の犠牲がヱホバに供えられたとき,灌祭として葡萄酒をも供え,それを祭壇の上に注ぐようにと,ヱホバは命じました。(民数紀略 15:8-16。出エジプト 29:40; 30:9)崇拝者たちが,酬恩祭の犠牲の割り当てられた部分を食べるとき,彼らは『「ヱホバの食卓」にあずかり』,そして『感謝しつつあずかつて』いました。犠牲の脂は,祭壇の上で焼かれ,そしてその血は祭壇の上にふりかけられ,また彼らは,その犠牲を食べることによつて,『祭壇』にあずかつていました。その祭壇は,ヱホバ神のものであつて,その食卓の上で,ヱホバの食物は供えられました。それで,彼らは,ヱホバと犠牲にあずかることにより,実際にはヱホバとあずかつていました。彼らは,ヱホバと交りを持ち,共に食物を楽しみました。
33 同じように,偶像崇拝者が悪鬼に犠牲を供えて,その犠牲を食べる時,彼らは『悪鬼の食卓に……あずかつている』ことになります。それで,彼らは『悪鬼にあずかる』者たちです。彼らは,悪鬼と交り,悪鬼の仲間になり,連絡を持ちます。そして,悪鬼と共に食物を楽しみます。悪鬼を崇める御馳走のときに,彼らがもし葡萄酒の杯から飲むなら,彼らは『悪鬼の杯を……飲んでいる』ことになります。このことによつて,もし人が主の夕食にあずかるなら,どんな事が生ずるかが分ります。
34 この比較をすることにより,主の夕食はどのように見なされますか? それで,パンと葡萄酒の杯は,何を意味すると,認めるべきですか?
34 前述の比較をすることにより,主の夕食を犠牲の食事と見なすべきである,と使徒パウロは示しています。それでは,『私たちのさくパン』と『私たちが祝福する祝福の杯』とは,何を意味しますか? パン種のないパンとは,『キリストの体』と認めるべきです。イエスは,世の生命のために,御自身の『真の食物』である罪無き肉の体を,神に捧げました。イエスが感謝を捧げた葡萄酒の杯は,『キリストの血』と認めるべきです。その『まことの飲物』である,御自分の血によつて,イエスは新しい契約を有効にならしめました。このキリストの全き犠牲は,契約を成立させる時の酬恩祭の犠牲のように見なされています。その犠牲の脂は,ヱホバの祭壇の上で焼かれ,その血は分けられて半分は神の祭壇の上に灌がれ,他の半分は,まず神の律法の書に灌がれ,それから契約に入れられた民の上に灌がれました。使徒パウロは,キリストの犠牲の供えられる大きな祭壇のごとき取極を『ヱホバの食卓』と呼んでいます。そして,新しい契約に入つているクリスチャンたちは,この『食卓』にあずかります。ヱホバは大きな祭壇の取極と,そしてヱホバの新しい契約の象徴的な書に灌がれるキリストの血の杯は,『ヱホバの杯』です。それは,主の夕食の葡萄酒の杯で象徴されます。
35 パンと杯にあずかることにより,クリスチャンたちは,大きなどんな事柄にあずかつていますか? 彼らは地上の誰たちと,目に見える状であずかつていますか?
35 新しい契約に入つているクリスチャンたちは,その杯から葡萄酒を飲み,また種入れぬパンを食べます。そうすることにより,キリストの人間としての犠性,つまりその血と肉の両方にあずかることになります。そして,『祭壇にあずかる者』として,『ヱホバの杯を飲み』『ヱホバの食卓にあずかる』ということを表示いたします。また,キリストの血と肉の犠牲を通して,罪のゆるしの恩恵と救の恩恵にあずかつていることをも表示いたします。それで,大きな問題とはこうです。信仰によつては,このことを毎日行いそして象徴的には主の夕食の時に毎年1回行うとき,彼らはいつたい誰とあずかりますか。つまり,誰と交りを持ち,交際をし,そして誰の仲間になることですか。『私たちが祝福する祝福の杯,それはキリストの血にあずかる(ギリシャ語でコイノニア)ことではないか。私たちがさくパン,それはキリストのからだにあずかる(コイノニア)ことではないか。』しかし,いつたい誰と共に,これらの事柄にあずかるのですか。もちろん,『神の会衆』のすべてとあずかることです。彼らは,みな『キリスト・イエスにあつてきよめられ,聖徒として召されたかたがた』です。(コリント前 1:2,新口)すなわち,新しい契約の中に入つている霊的なイスラエルの全員,ということです。
36 しかし,おもに誰と交わつていますか? しかし又,神よりの啓発に関して,このことはどのように真実ですか?
36 しかし,それで全部なのでしようか。使徒パウロの論は,それまでのことなのでしようか。そうではありません。私たちはまたヱホバともあずかつているからです。そうです,主に,ヱホバとあずかつているからです。崇拝の気持を抱きながら,偶像に供えられた犠牲にあずかるなら,『悪鬼にあずかる者』となります。それと同じように,ヱホバに供えられた一つの大きな犠牲,すなわち只一度だけ捧げられたキリストの犠牲にあずかるなら,ヱホバにあずかり,ヱホバと交りを持つようになります。私たちのための犠牲として,私たちは,ヱホバに捧げられたキリストの犠牲をうけ入れます。もちろん,ヱホバは主の夕食のときに,種入れぬ実際のパンにあずかるわけではなく,また実際の葡萄酒の杯にあずかるわけではありません。しかし,ヱホバは,そのパンと杯の表徴する実際の肉と血にあずかります。神に供えられるこの唯一つの正しい犠牲を共にあずかることにより,ヱホバはその恩恵を私たちに適用されます。私たちとヱホバは,共に新しい一つの契約に入つています。私たちは,神よりの啓発の事柄をするとき,たしかにヱホバとあずかつており,交つており,そしてヱホバと共になつています。それについて,聖書にはこう書かれています『私たちが見たもの,聞いたものを,あなた方にも告げ知らせる。それは,あなた方も,私たちの交わり(コイノニカ)にあずかるようになるためである。私たちの交わり(コイノニカ)とは父,ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。神と交わり(コイノニカ)をしていると言いながら,もしやみの中を歩いているなら,私たちは偽つているのであつて,真理を行つているのではない。しかし,神が光の中にいますように,私たちも光の中を歩くならば,私たちはたがいに交わり(コイノニカ)をもち,そして御子イエスの血が,すべての罪から私たちをきよめるのである。―ヨハネ第一書 1:3,6,7,新口。
37 それで,主の夕食を食べる人は,みな誰に仕えねばなりませんか? なぜそうですか?
37 それで,ヱホバ神を選ぶか,又は悪鬼を選ばねばなりません。妥協することも,生温い態度を取ることも,許されません。また,あつちへついたりこつちへついたりすることも,決して許されません。唯一つの真の神ヱホバに全き専心の崇拝を捧げるか,又は偽りの悪鬼の神々に崇拝を捧げるか,そのどちらかです。新しい契約に入つているクリスチャンたちが,イエスを記念して『主の夕食』を食べるために共に集り,そして表象であるパンと葡萄酒の杯にあずかるなら,それは『ヱホバの食卓』にあずかり,ヱホバの『祭壇にあずかる者』ということを表示しています。この理由からも,彼らはみなヱホバに仕えます。その崇拝と奉仕を他のものに分けることはできません。(キリスト教国をも含む)この世の諸国家は,現代いろいろの種類の多くの偶像に犠牲を供えていますが,彼らはまたその犠牲にもあずかることができません。
38 主の夕食の表象物にあずかることが,偽りの行になることがあり得ますか? それはヱホバに何を起させますか? どんな結果が生じますか?
38 主の夕食を祝うあなた方は『ヱホバの杯と悪鬼の杯とを同時に飲むことはできない。ヱホバの食卓と悪鬼の食卓とに同時にあずかることはできない。』と使徒パウロは言つています。『不信者と,つり合わないくびきを共にするな。……光とやみとなんの交わり(コイノニカ)があるか。……神の宮とな偶像となんの一致があるか。私たちは,生ける神の宮である。』(コリント後 6:14-16,新口)あなたの愛,献身,崇拝,そして奉仕をヱホバ神に捧げきらずに,その幾らかを悪鬼にも捧げ,しかも主の夕食に出席して,その表象にあずかるなら,それは偽の行であります。あなたは,光の神と交りを持ち,神とあずかる振をしながら,実際にはそうしていません。あなたは,自分自身を誑しています。あなたは偽善的に行つています。あなたは『やみの中を歩いている……偽つているのであつて,真理を行つているのではない。』『ヱホバは専心の献身を求める神』である故,あなたは『ヱホバにねたみを起させ』ています。ヱホバは専心の愛のみうけ入れます。(出エジプト 34:14,新世)ヱホバの怒りを招くとき,重大な結果が生じます。なぜ? なぜなら,パウロの言うように,『私たちは,主よりも強いのだろうか。』(コリント前 10:22,新口)私たちは,強くありません。ヱホバにねたみを起させたことに対して,ヱホバは亡びをもたらしますが,私たちには,とうていその亡びに堪えるだけの力はありません。―詩 78:58-64。
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いただく者の『ひとつの体』ものみの塔 1956 | 2月1日
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いただく者の『ひとつの体』
1 主の夕食を食する人は,どのようにヱホバに崇拝し,奉仕を捧げるべきですか? このことを論じたパウロは,どんな『ひとつのからだ』を意味していますか?
新しい契約にいるそれら霊的イスラエル人のクリスチャンたちは,個人としても又は会衆としても,ヱホバへの崇拝と奉仕に専念しなければなりません。それで,主の夕食の杯とパンについて語つた後に,使徒はそのような者にむかい,こう述べているのです。『パンが一つであるから,私たちは多くいても,一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただく(食する)からである。』(コリント前 10:17,新口)ここで,『ひとつのからだ』と言つたパウロは,何を意味していますか。それは,種の入らないパンで象徴されるイエスの人間としての肉の体ではありません。それは,イエス・キリストを霊的な首とする霊的イスラエル人の会衆全部を意味しています。イエス・キリストの支配下にあるこの会衆は,同じパウロの手紙の後の部分で,キリストの体と言われています。『あなたがた
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