-
『悪鬼の食卓』対『ヱホバの食卓』ものみの塔 1956 | 2月1日
-
-
『悪鬼の食卓』対『ヱホバの食卓』
『ヱホバの杯と悪鬼の杯とを同時に飲むことはできない。ヱホバの食卓と悪鬼の食卓とに,同時にあずかることはできない。』― コリント前 10:21,新世。
1 ヱホバの『食卓』は,なぜ食卓と言われますか? その食卓で奉仕する者たちに対し,ヱホバはどのような非難の言葉を言われましたか?
神の祭壇は,その上に供えられる犠牲が食物になぞらえられているため,『食卓』と呼ばれます。(エゼキエル 41:22)それで,この犠牲の食卓で奉仕をする者は,祭司たちです。『ザドクの裔なるレビの祭司ら,すなわちイスラエルの子孫が我を棄てて迷いし時にわが聖所の職守を守りたる者共は,我に近づきて事へ,我まえに立ち脂と血をわれに献げん。主ヱホバこれを言うなり。』(エゼキエル 44:15,16)それぞれの義務を全うしない祭司たちを非難して,ヱホバはこう言われました。『汝ら汚れたるパンをわが壇の上に献げ,しかして言う,われら如何に汝を汚せしやと。なんじらヱホバの食卓は卑しきなり,と云いしが故なり。なんじら盲目なる者を犠牲に献ぐるは惡に非ずや。また跛足なるものと病める者を献ぐるは惡しきに非ずや。……わが名列国の中に大なるべければなりと万軍のヱホバいいたもう。しかるに,なんじら之を汚したり。そは,汝らは,ヱホバの食卓は汚れたり,またその果すなわちその食物は卑しと云ばなり。』― マラキ 1:7,8,11,12,ア標。
2 祭司たちは,なぜ聖くなければなりませんか? 神に嘉納されるためには,犠牲の食物はどのような状態でなければなりませんか?
2 神の食物を祭壇の上に捧げる祭司たちの行は,すこしの汚れをも持つてはなりません。『その神に対して聖くあるべく,又その神の名を汚すべからず。彼らはヱホバの火祭すなわちその神の食物を献ぐる者なれば聖くあるべきなり。』『祭司はこれを壇の上に焚くべし。是は火祭にしてヱホバにたてまつる食物なり』ヱホバの祭壇の食卓で捧げられたものが,神に嘉納されるために,犠牲の食物は全きもので,すこしの疵があつてもなりません。―レビ 21:6,21; 3:11; 22:21,25。
3 『悪鬼の食卓』は何ですか? 正道から外れて彼らに犠牲を捧げた者たちは,誰ですか?
3 悪鬼の食卓は,犠牲が悪鬼に捧げられるところの祭壇です。悪鬼は,人間の目に見えない悪賢い霊者です。昔のイスラエル人は,しばしば悪鬼に犠牲を捧げていました。『彼らが犠牲をささぐる者は,鬼にして,神にあらず。彼らが知らざりし神々,近ごろ新に出たる者なり。』『かれらは,そのむすこ,むすめを鬼にささぐ。罪なき血,すなわちカナンの偶像に捧げたる己がむすこ,むすめの血を流しぬ。かくて,国は血にてけがされたり。』― 申命 32:17。詩 106:37,38。
4 第1世紀のクリスチャンたちは,どのような試験をうけましたか? その問題につき,統治体はどのように決定しましたか?
4 邪教の国々に住んでいた西暦第1世紀のキリストの弟子たちは,邪教の偶像に捧げられた動物の犠牲に関して,試験をうけるようになりました。犠牲にされる動物の一部分は,偶像の祭壇の上に捧げられ,他の一部分は偶像の祭司たちに与えられ,そして残りの肉は,偶像崇拝者たちが食べました。神殿内で行われる宴会か,もしくは個人の家で行われる宴会の時に,犠牲を食べました。しかし,経済上の必要に迫られてか,又は利己的収益を得ようとして,ある者はその肉を肉屋に渡して肉市場で売らせました。この肉は,偶像と,偶像で代表される悪鬼に捧げられていたものであるため,むかしのイスラエル人は,その肉を汚いもの,けがらわしいものと見なし,食べなかつたのです。クリスチャンになつた異邦人たちは,この事柄についてどのような行をすべきですか。1世紀のクリスチャンたちの統治体は,集会を開いて,この問題を論じ,それから『必要な事柄』は,次のものである,と決定いたしました。『偶像に捧げられた犠牲と,血と,血を取りださずに殺したものと,淫行とを避けることである。』― 使行 15:22-29,新世。
5 どんな食物を食べてはならない,とパウロはクリスチャンたちに助言しましたか? そしてそれはなぜ兄弟たちの益になるのですか?
5 昔,ギリシャの異教都市コリントには,ユダヤ人の会堂がありました。しかし,パウロの伝道の結果,会堂司やその家族の者をも含めて,多くの者がクリスチャンになりました。他の多くのコリント人たちもクリスチャンになりました。コリントには,肉市場があつて,最初,儀式的に偶像に献げられた動物の肉が売られていました。コリントのクリスチャンたちに宛てて書いた最初の手紙の第8章のところから,使徒パウロは,『偶像への供えを食べること』の問題を論じています。使徒パウロは,偶像への供え物を食べることに反対していますが,それは,正しい知識と理解を持つていないクリスチャンたちが,偶像の供え物を食べるのを見て,びつくりすることのないためであり,またその良心に反する事柄を行わせないためでもあります。『ある人が,知識のあるあなたが偶像の宮で食事をしているのを見た場合,その人の良心が弱いため,それに「教育されて」偶像への供え物を食べるようにならないだろうか。すると,その弱い人は,あなたの知識によつて亡びることになる。この弱い兄弟のためにも,キリストは死なれたのである。このように,あなた方が,兄弟たちに対して罪を犯し,その弱い良心を痛めるのは,キリストに対して罪を犯すことなのである。』― コリント前 8:1,4,10-12,新口。
6 良心のほかにどんなものが含まれていましたか? 潔められたクリスチャンは,なぜその危険を避けるべきですか?
6 しかし,これには良心の事柄以上のものが含まれていました。偶像に供えられたものを食べるなら,偶像崇拝の罪を犯す危険が存在していました。そのような偶像崇拝を行わないようにと,使徒パウロは論じ,次の事実を述べています。すなわち,パウロの手紙のうけ取り人である潔められたクリスチャンたちは,主イエスの死を毎年1回記念する『主の夕食』を祝うということです。―コリント前 11:20,新世。
7 それで,使徒パウロは,主の夕食に言及するコリント前書 10章6-22節の論の中で何と言つていますか?
7 パウロの論じている言葉から,主の夕食の意味が明らかになります。それで,その言葉に従うときに,真理が得られます。パウロの言葉は,こうです『これらの出来事は,私たちに対する警告であつて,彼らが悪をむさぼつたように,私たちも悪をむさぼることのないためなのである。だから,彼らの中のある者たちのように,偶像礼拝者になつてはならない。すなわち,「(金の犢の前で)民は座して飲み食いをし,また立つて踊り戯れた」と書いてある。また,(ペオルのバール崇拝に関連して)ある者たちがしたように,わたくしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため,倒された者が一日に二万三千人もあつた。……それだから,愛する者たちよ,偶像礼拝を避けなさい。賢明なあなたがたに訴える。私の言うことを自ら判断してみるがよい。私たちが祝福する祝福の杯,それはキリストの血にあずかることではないか。私たちがさくパン,それはキリストのからだにあずかることではないか。パンが一つであるから,私たちは多くいても一つのからだなのである。肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは,祭壇にあずかるのではないか。すると,なんと言つたらよいか。偶像にささげる供え物は何か意味があるのか。また,偶像は何かほんとうにあるものか。そうではない。人々が供える物は,悪鬼ども,すなわち神ならぬ者に供えるのである。私は,あなた方が悪鬼と交る者になることを望まない。ヱホバの杯と悪鬼の杯とを同時に飲むことはできない。「ヱホバの食卓」と悪鬼の食卓とに,同時にあずかることはできない。それとも,「私たちはヱホバのねたみを起そうとするのか」,私たちはヱホバよりも強いのだろうか。』― コリント前 10:6-22,新世。
8 偶像の宮に食べに行かないのは,なぜ良いことですか? また,クリスチャン兄弟が,その肉は最初偶像に供えられていたというならそれを食べないのはなぜ良いのですか?
8 それで,クリスチャンは偶像の宮に行つて,宮の偶像に供えらた肉の食事を食べないようにと,すすめられています。なぜ? 良心の弱い傍観者に,クリスチャンが偶像を崇拝している,という考えを起させないためでもあり,また,妥協の気持から偶像崇拝するのを避けるためでもあります。肉市場であるマケロンで売られている肉について,パウロは更にこう述べています。『すべて,市場で売られているものは,いちいち良心に問うことをしないで,食べるが良い。地とそれに満ちている物とは,ヱホバのものだからである。もしあなたがたが,不信者のだれかに(家か又は御馳走に)招かれて,そこに行こうと思う場合,自分の前に出される物はなんでも,いちいち良心に問うことをしないで食べるがよい。しかし,だれかが(不信者ではなく,弱い良心を持つクリスチャン兄弟),これはささげ物の肉だと言つたら,それを知らせてくれた人のために,また良心のために,食べないがよい。良心と言つたのは,自分の良心ではなく,他人の良心のことである。なぜなら,私の自由が,どうして他人の良心によつて左右されることがあろうか。もし私が(神に)感謝して(肉を)食べる場合,その感謝する物について,どうして人のそしりを受けるわけがあろうか。だから,飲むにも食べるにも,また何事をするにも,すべて神の栄光のためにすべきである。』― コリント前 10:25-31,新世。
悪鬼にあづかる
9 悪鬼を崇めながら肉を食べるなら,その人は何をしていることになりますか? このことについて,パウロはイスラエル人の捧げた犠牲から,どのように説明していますか?
9 偶像に供えられた肉を食べた場合,しかも食べることによつて偶像を崇めると考えながら食べる時,その人は何をしていますか。その人は,悪鬼の食卓にあずかつて,自分自身で悪鬼にあずかつています。その人は,悪鬼と交つています。どうして,そうですか。前に引用されている聖句(コリント前 10:18-21,新世)を,もう一度調べてごらんなさい。使徒パウロは,肉によるイスラエルを手本と見なしつつ,『供え物を食べる人たちは,祭壇にあずかるのではないか』と言つています。祭司たちだけにかぎらず,犠牲を献げたイスラエル人たちも,犠牲を食べました。祭司たちについて,パウロは前の章でこう述べています『あなた方は,宮仕えをしている人たちは,宮から下がる物を食べ,祭壇(ヱホバの食卓)に奉仕している人たちは,祭壇の供え物の分け前にあずかることを,知らないのか。』(コリント前 9:13,新口)しかし,イスラエル人が酬恩祭の犠牲を捧げたとき,イスラエル人もその犠牲のいくらかの部分を食べました。(レビ 7:11-37)酬恩祭の犠牲の血は,ヱホバの祭壇の上にふりかけられ,また犠牲の中のヱホバの食物である脂は,祭壇の上で焼かれました。犠牲の脂は,ヱホバの『パン』つまり『食物』でした。(レビ 3:11; 7:14,22-26; 9:18-20; 17:5-7; 21:6; 22:25),酬恩祭の犠牲の胸と右の足は,その犠牲を供えた祭司のものになりました。(レビ 7:28-36; 9:21; 10:14,15)その肉の残りの部分は,酬恩祭の犠牲を献げたイスラエル人が食べました。―レビ 7:15-21; 19:5-8。
10 酬恩祭の犠牲を食べることにより,イスラエル人は何を,持ちましたか? それで,その犠牲の名については,何と言えますか?
10 それで,酬恩祭の犠牲を食べたイスラエル人は,その犠牲が供えられた祭壇にあずかる,もしくは交りを持ちました。その祭壇はヱホバ神のものであつて,祭司たちがヱホバの食物を供えたところは,ヱホバの食卓でした。ヱホバ神の食物として脂が供えられていましたが,同じ酬恩祭の犠牲を食べることにより,イスラエル人はヱホバと共通な食物を取りました。ヱホバは彼らをすでに選ばれており,また仲保者であるモーセを通して契約を結ばれることにより,イスラエル人はヱホバの民でありました。しかし,ヱホバの祭壇と祭司の傍で酬恩祭の犠牲にあずかることにより,彼らはヱホバ神と特別な交りを持ちました。彼らは模型的な『ヱホバの食卓』にあずかつていました。ヘブル語聖書のギリシャ七十人訳は,その犠牲のことを,平和の犠牲,そして救の犠牲と呼んでいますが,『酬恩祭の犠牲』という名前は,ぴつたり当てはまるものです。―サムエル前 10:8; 11:15; 13:9。列王紀略上 3:15; 8:63,64; 9:25。レビ 3:1; 22:21,七十人訳。
11 神とのこの交わりを楽しむため,イスラエル人は何を為すべきであると,レビ記 17章5-7節は示していますか?
11 その食卓を通して,神との特別な交りを持つため,イスラエル人が悪鬼に犠牲を捧げることは,禁ぜられていました。『彼らはこれ(動物)をひききたり,集会の幕屋の門にいたりて,祭司につき,これを酬恩祭としてヱホバに献くべきなり。しかる時は,祭司その血を集会の幕屋の門なるヱホバの壇にそそぎ,又その脂を馨しき香のために焚てヱホバに奉つるべし。彼らは……魑魅(山羊の形を持つ悪鬼)に重ねて犠牲を献くべからず。』― レビ 17:5-7,新世。
12 パウロはコリント前書の10章で偶像の犠牲を食べてはならない,と禁じていますが,それは偶像と偶像の犠牲に捧げられた動物が,特別の価値を持つているからですか? いつたいその理由は何ですか?
12 それと同じ理由から,生ける真の神の崇拝者は,偶像の犠牲を避けるべきであると,パウロは論じています。それは,なにも偶像そのものが,金,銀,石,木,または他の材料でつくられるもの以上に価値あるものだから,というわけではありません。また,偶像に犠牲にされたものが,新しい品質とか価値を持つようになつて,ヱホバ神の創造物以上のものになるわけではありません。しかし,生命を持たない,その物質の偶像は,悪鬼を表示しているのです。『もろもろの民のすべての神は,ことごとく偶像なり。されど,ヱホバはもろもろの天をつくり給えり。』(詩 96:5)『もろもろの国の神々は,悪鬼なり。しかし,主は天をつくり給えり。』(七十人訳,トムソン訳,バグスター訳)それで,崇拝者が,犠牲の御馳走に与つて,偶像に供えられた動物の犠牲の一部分を食べるなら,その人は『悪鬼の食卓』にあずかることになります。偶像の祭壇は悪鬼のものだからです。その犠牲の御馳走の時に,葡萄酒の杯から飲めば,『悪鬼の杯』から飲んでいることになります。その人は,「悪鬼に与る者」となり,悪鬼と交りを持ちます。その理由のために,パウロはコリントのクリスチャンたちにこう言いました。『人々が供えるものは,悪鬼共,すなわち神ならぬ者に供えるのである。私は,あなた方が悪鬼にあずかる者なることを望まない。ヱホバの杯と悪鬼の杯とを同時に飲むことはできない。「ヱホバの食卓」と悪鬼の食卓とに,同時にあずかることはできない。』ヱホバは,しつとの神,つまり専心の献身を求める御方です。
13 使徒パウロは,『ヱホバの杯』と『ヱホバの食卓』を,なにと結びつけていますか?
13 しかし,『ヱホバの杯』『ヱホバの食卓』と述べたパウロは,いつたい何を意味しながら,そう語つたのでしようか。クリスチャンは,『偶像に供えられた食物』のいかなるものをも避けるべきであるとパウロは論じていますが,その論の中で用いている杯とパンに関係しているのです。パウロはこう言つています。『私たちが祝福する祝福の杯,それはキリストの血にあずかることではないか。私たちがさくパン,それはキリストのからだにあずかることではないか。』(コリント前 10:16,新口)主イエス・キリストが,キリスト教国の中では,一般に聖餐式と呼ばれる『主の夕食』を始められた時に用いた杯とパンについて,パウロは言及しています。それで,パウロの論を調べ今日に適用する前に,いまから19世紀むかしの(西暦)33年に,イエスが何をなされたかを見てみましよう。
『主の夕食』
14 イエスは,何処で最後の過越しを祝うよう取り極めましたか? そして,誰がイエスと共にいましたか? なぜ彼らがイエスと共にいましたか?
14 イエスの弟子であるマタイ,マルコ,ルカ,そしてパウロの4人は,主の夕食のときに,どのようなことが行われたかについて,くわしく述べています。12使徒のひとりであるマタイは,その場に居合わせていました。パウロは,『主から』の直接の啓示により,主の夕食についての知らせをうけました。(コリント前 11:20,23)それぞれの記録は,言葉遣いとか,小さな事柄のところで,すこし異つていますが,しかし大切な重要点を示すということでは一致しています。肉によつては忠実なユダヤ人であつたイエスは,エルサレムにおける過越祭を祝うための指示を与えました。エルサレムは,ヱホバの御名の置かれている聖都でした。(申命 16:1-7)イエスは,その夜誰とともにこの最後の過越を祝いましたか。それ以前の各年とはちがつて,イエスは自分の家族とともに祝わなかつたのです。イエスの家族とは,彼の地的な母であるマリヤと,父の異るイエスの兄弟たち,つまりマリヤの息子たちです。もちろん,マリヤとその息子たちは,過越を祝うためにエルサレムにいました。翌日の午後,マリヤはイエスの懸けられた刑柱のところにいて,イエスは刑柱の上から彼女に語られました。恐らく,マリヤの他の息子たちが,過越を祝うためにマリヤをエルサレムに連れて来たのでしよう。しかし,エルサレムにおける過越の祝は,大体10人位の小人数で行われていたため,イエスは御自分の12使徒とともに最後の過越を祝うよう取り極めました。食卓のところで,イエスは彼らにこう言われました。『私は苦しみを受ける前に,あなた方とこの過越の食事をしようと,切に望んでいた。あなた方に言つて置くが,神の国で過越が成就する時までは,私は二度と,この過越の食事をすることはない。』(ルカ 22:15,16,新口)それで,この過越の夜にたいして,イエスは特別なことを考えておられました。それは何ですか。彼らのために,新しい夕食を始めるということです。
15 主の夕食について,マタイはどのように述べていますか?
15 それがどのように行われたか,またイエスは何を言われたかについて,その場に居合わせたマタイは,次のように語つています『彼らが食べているときに,イエスはパンを一片取り,祝福を述べた後に,そのパンをさいて,弟子たちに与え,「取つて,食べよ。これは私の体を意味する」と言われた。また杯を取つて感謝を捧げてから,彼らに与え,「あなた方は,みなこの杯から飲みなさい。これは,罪のゆるしを得させようと多くの人のために注がれる『契約の血』を意味する。あなた方に言う。私の父の御国で,あなた方と共に新しく飲む日までは,今後決して,葡萄の実から造られたものを飲まない。」そして,讃美を歌つた後に,彼らはオリブの山に出かけて行つた。』― マタイ 26:26-30,新世。
16,17 (イ)イエスはパンをどうしましたか?(ロ)イエスは,なぜパンを自分の肉に変質しませんでしたか?
16 イエスの取られたパンは,パン種の入つていないパン,つまり醗酵されない菓子でした。律法によると,過越しの時とその後の7日間,ユダヤ人の家では,パン種を用いることが禁ぜられていました。(出エジプト 12:8,15,17-21; 13:6-10)イエスは,小刀でパンを切り裂くことをしませんでした。パン種の入つていないパンは,平たくて,さけ易いものです。それで,イエスは,当時の食事でパンを食べる時の普通の方法に従つて,パンをさきました。(マタイ 15:36; 14:19。マルコ 8:6,19。ルカ 24:30。使行 27:35)しかし,最初にイエスは祝福を述べ,神を讃えました。それで,ルカとパウロの記録によると,イエスは感謝を捧げたと言われているのです。『彼はまたパンを取つて,感謝を捧げ,そしてパンをさいて,彼らに与え,「これは,あなた方のために与えられる私の体を意味する。私の記念として,これを行い続けなさい。」と言われた。』(ルカ 22:19,新世。コリント前 11:23,24)それで,イエスがパンをさいたことには,特別の意味がありません。パンをさいたのは,5000人と4000人の人々にパンをさかれたのと同じように,弟子たちに与えるためにさかれたのです。
17 しかし,彼がさいて,使徒たちに与えたパンに,イエスは特別の意味を,たしかに附しました。『これは,あなた方のために与えられる私の体を意味する』この言葉を言いながら,イエスが奇蹟を行つて,パンを変質し,そのパン種のない捏粉を人間の体に変えたわけではありません。イエスは,自分の肉の体を持つていました。イエスの肉の体は,完全な犠牲として神に捧げられるため,汚れないもので,何一つ欠けるものがあつてはなりません。イエスの体は,彼らが今食べたばかりの過越の羊のようでなければなりませんでした。その羊は,『世の罪を取り除く神の小羊』であるイエスを予表しました。どのようにですか。こうです。『小羊は傷のないもので,一歳の雄でなければならない。』まつたく『きずも,しみもない小羊のようなキリスト』それで,イエスはパンを変質せず,ただ自分の体を象徴するためにパンを用いたに過ぎません。―ヨハネ 1:29と出エジプト 12:5とペテロ前 1:19,新口。
18 『私の体』と言われたイエスは,どの体を意味されましたか?
18 イエスの体? そうです。イエス御自身の体,つまり頭から爪先きまでのイエスの全身であつて,イエスはそれを使徒たちに与えようとされました。イエスは,自分御自身の体を意味され,次に,杯のことを語つたとき,その体と御自身の血とを結びつけておられます。33年と半年のあいだ,その体は,カルバリの刑柱で注がれる血を有していました。その肉の体の生命は,その血でした。イエスが,その体にバプテスマを施してもらうために,ヨハネのところに来たとき,彼は詩篇 40篇6-8節を引用して,御自身に適用しました。『それだから,キリストがこの世にこられたとき,次のように言われた。「あなたは,(獣の)いけにえやささげ物を望まれないで,私のために,からだを備えて下さつた。あなたは燔祭や罪祭を好まれなかつた。その時,私は言つた『神よ,私につき,巻物の書物に書いてあるとおり,見よ,御旨を行うためにまいりました。』」』― ヘブル 10:5-7,新口。
19 その体を持つたイエスは,何を耐えましたか? それを通して,彼は弟子たちのために何を開きましたか?
19 イエスの体は,弟子たちに与えられるものです。それで,死人からの復活のときに,彼はその体を取り戻そうとはせず,天的な御父である全能の神は,彼のために別の体を備えられました。それは,地上の体ではなくして,天的な体,つまり霊の体で『神からいただく建物,すなわち天にある永遠』のものです。(コリント後 5:1,新口)人間としての地的な体を持つていたイエスは,反対者の口から述べられる非難をうけました。『キリストは,肉において苦しまれた。』しかし,どのように苦しまれようとも,キリストは神への汚れなき忠実を保ちました。使徒ペテロも,こう述べています。『キリストもあなた方のために苦しみをうけ,御足の跡を踏み従うようにと,模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず……杭にかかつて,私たちの罪を御自分の体に負われた。』(ペテロ前 4:1; 2:21,22,24,新世)彼は自分の弟子のために,その人間としての生存,肉体としての生存を断念しました。そのようにして,彼らが天に行く道を開きました。『私たちは,イエスの血によつて,はばかることなく,聖所にはいることができ,彼の肉体なる幕をとおり,私たちのために開いて下さつた新しい生きた道をとおつて,入つて行くことができる。』― ヘブル 10:19,20,新口。
20 イエスの血は,何を成し遂げますか? 夕食のときに,イエスはどのようにこのことを指摘しましたか?
20 イエスは,血の無い化肉または形態現出のような肉体を持つたのではありません。イエスは,血と肉を持つ人間の子らを贖うために来ました。聖書には,こう書かれています。『このように,子たちは血と肉とに共にあずかつているので,イエスもまた同様に,それらをそなえておられる。それは,死の力を持つ者,すなわち悪魔を御自分の死によつて亡すためである。』(ヘブル 2:14,新口)それで,弟子たちがイエスの記念に祝うこの夕食を始めるにあたつて,イエスは自分の血の成し遂げる事に注意を向けさせました。彼は,『葡萄の実から造られたもの』で充ちている杯を取り,『感謝を捧げてから,彼らに与え,「あなた方は,みなこの杯から飲みなさい。これは,罪の赦しを得させようと,多くの人のために注がれる『契約の血』を意味する」と言われた。』(マタイ 26:27,28,新世。マルコ 14:23,24)『この杯は,あなた方のために流す私の血によつて立てられる新しい契約を意味する。』(ルカ 22:20,新世)このようにして,イエスは御自分の血の為す特別な用法を述べました。つまり,多くの弟子の罪をゆるす新しい契約を実施することでした。それで,血と肉を彼らに与えられたのです。
21 イエスは,なぜご自身の血を過越の羊の血になぞらえていませんか? しかし,イエスは誰の言葉を引用しましたか?
21 そのような言葉を言われたイエスは,御自分の血を,過越の羊の血になぞらえていないことに,注意して下さい。過越の羊が,『神の小羊』であるイエスを予表したことは真実です。昔のエジプトの地で,過越しの羊の血が,イスラエル人の家の入口の柱と,かもいに塗られたことは真実です。そうすることによつて,ヱホバの亡びの御使は,その血を見ることができ,家の内にいる長子や,家畜のういごを,殺さずに過ぎ越しました。それと同じように,神の小羊の弟子たちは,『心はすすがれて良心のとがめを去』らねばならず,公やけにイエスの血を告白しなければなりません。(出エジプト 12:7; 21:23。ヘブル 10:19,20,22; 9:14,新口)それで,彼らは『きずも,しみもない小羊のようなキリストの尊い血によつて』贖われています。(ペテロ前 1:19,新口)しかし,予言者モーセを仲立ちとする律法契約を実施させたのは,過越しの羊の血ではありません。モーセが『是すなわちヱホバがこのすべての言葉につきて汝と結び給える契約の血なり』と言いながら,契約の律法の書と民の上にふりかけた血は,過越の羊の血ではありません。(出エジプト 24:7,8)それは,別の動物の血でした。それで,イエスが,ヱホバ神と自分の弟子たちとのあいだに新しい契約をつくると指し示したとき,彼は『契約の血』というモーセの言葉を引用し,その言葉を御自身の血に適用しました。
22 使徒パウロの言葉によると,シナイ山で『前の契約』が成立したとき,どんな動物が殺されましたか?
22 シナイ山で『前の契約』が成立したときに,どんな動物が殺されましたか。それについて使徒パウロはこう書いています『契約は,死んだ犠牲のあるときに有効となる。人間の契約者が生きているあいだは,その契約は有効でない。それで,前の契約も血なしで成立したのではない。実に,律法によるどのいましめも,モーセによつてすべての民に語られたとき,モーセは,水と緋色の毛とヒソプと一緒に,子牛と山羊の血をとつて契約書と民全体にふりかけ,「これは,神があなた方に立てられた契約の血である」と言つた。』(ヘブル 9:17-20,新世)子牛と山羊が殺されて,その血が用いられました。
23,24 (イ)モーセによると,古い律法契約を成立させるために,どんな種類の犠牲が捧げられましたか?(ロ)肉と血に,何が為されましたか? それは誰の血を予表しましたか?
23 さて,過越後の第3番目の月に,古い律法契約を成立させるため,イスラエル人の捧げた犠牲の種類に注意して下さい。『しかして(モーセ),イスラエルの子孫の中の少き人たちを遣して,ヱホバに燔祭を献げしめ,牛をもて酬恩祭を供えしむ。モーセ,時にその血の半ばをとりて,鉢に入れ,又その血の半を壇(ヱホバの祭壇)の上に灌げり。しかして,契約の書をとりて民に誦きかせたるに,彼ら応えて言う。ヱホバの宣うところは,みなわれらこれを為てしたがうべしと。モーセ,すなわちその血をとりて民に灌ぎて言う。是すなわちヱホバがこのすべての言葉につきて,汝と結びたまえる契約の血なり。』― 出エジプト 24:5-8。
24 燔祭だけでなく,酬恩祭もあつたことに,注意して下さい。酬恩祭には,たいていの場合,羊とか山羊のような小さな家畜が用いられました。そして,パウロは,酬恩祭に山羊も含まれていたと,示しています。それで,ヱホバが酬恩祭の犠牲の脂を得られただけでなく,祭司たちも犠牲の右の足と肩を得ました。そして,この時に,もし祭司たちが,酬恩祭の犠牲の残り全部を取らないならば,イスラエルの代表者たち,すなわち『イスラエルの七十人の長老』たちは,酬恩祭の犠牲の残りの部分を食べました。このようにして,古い律法契約が成立したときに,イスラエル全部は,祭司たちと代表者たちによつて,ヱホバ神と交りを結びました。シナイ山で殺された子牛と山羊の血は,ヱホバの新しい契約の仲立者,イエス・キリストの血を予表しました。それらの動物の血は,椀の中で交ぜられて,それから律法の書と民の上に濯がれたからです。聖書には,イエスについてこう書かれています。『山羊と子牛との血を携えず,御自身の血を携えて,一度だけ聖所にはいられ,それによつて永遠のあがないを全うされたのである。』(ヘブル 9:12,新世)イエスは,自分の血を与えるために,犠牲の死をとげました。
25 ヱホバは,エレミヤ記 31章31-34節で,何を備えると,約束されましたか? その基礎としてなぜ血が必要でしたか?
25 ヱホバは,モーセよりも大いなる予言者によつて,古い律法契約を廃止し,新しい契約を始めると,約束され,エレミヤ記 31章31-34節で,そのことを述べられました。ヱホバは,新しい契約内の御自分の立場について,『我彼らの不義をゆるし,その罪をまた思わざるべし。』と言われました。さて,不義がゆるされ,罪を全く取りのぞくために,この新しい契約の基礎として,あるものが必要でした。それは何ですか? 流された血です。前の契約成立についての記録のすぐ後に書かれているヘブル書 9章22節は,こう述べています。『こうして,ほとんどすべての物が,律法に従い,血によつてきよめられたのである。血を流すことなしには,罪のゆるしはあり得ない。』― 新口。
26 それで,主の夕食のときに,イエスはどんな言葉を正しく言うことができましたか? それで誰が正しく杯から飲みますか?
26 それで,罪と過ちの処罰から私たちを救うためには,完全な人間の犠牲であるイエスの血が,是非とも注がれねばならなかつたのです。前の律法契約下にあつた動物の犠牲では,私たちはその処罰から救われません。(ヘブル 9:15)新しい契約によつて,神は私たちの罪をゆるす,ということが約束され,また杯の中の葡萄酒は,その新しい契約に必要なイエスの清くして完全な生命の血を表示していました。このことから,『これは罪のゆるしを得させようと,多くの人のために注がれる「契約の血」を意味する』と言われたイエスの言葉は正しいものです。(マタイ 26:27,28,新世)新しい契約に入れられて,霊的なイスラエル人になるクリスチャン達だけが,主の夕食の杯から飲む正しい資格を持つています。
彼の血を飲む
27 その杯から飲むことによつて,彼らはどんな契約にいることを示しますか? また,どのような影響を受けている,と示しますか?
27 霊的なイスラエルであるクリスチャンは,その杯から飲むことによつて,新しい契約にいることを示し,かつ新しい契約の恩恵をうけていることを表示します。すなわち,イエスの血を通して,神より罪が許されることです。彼らは,その杯から飲むことにより,イエスの血を飲む,ということを表示します。その杯から飲むことにより,彼らは恩恵をうけている者であつて,処罰をうけている者ではないということを表示します。その象徴的な仕方でイエスの血を飲むことにより,彼らは,自分自身になされる処罰を飲んでいるのではなく,生命の恩恵を飲んでいます。その血の中には生命があるからです。信仰によつて,イエスの血を象徴的に飲むからといつて,彼らは死に処罰されたのではありません。丁度,信仰によつて,イエスの肉の体を象徴的に食べるからといつて,禁ぜられた食物を食べたわけではなく,また,死に処罰されないのと,同じです。むしろ,彼らは永遠の生命という恩恵をうけるのです。
28 イエスは,その見地に立つて,ヨハネ伝 6章でどのように論ぜられましたか?
28 イエスが,ユダヤ人たちに次の言葉を語られたとき,その見地に立つて論ぜられたのでした。それを聞いた多くのユダヤ人は,全くおどろきました。『よくよくあなた方に言つておく。信じる者には永遠の生命がある。私は生命のパンである。あなた方の先祖は,荒野でマナを食べたが,死んでしまつた。しかし,天から下つてきたパンを食べる人は,決して死ぬことはない。私は天から下つてきた生きたパンである。それを食べる者は,いつまでも生きるであろう,私が与えるパンは世の生命のために与える私の肉である。……人の子の肉を食べず,また,その血を飲まなければ,あなた方の内に生命はない。私の肉を食べ,私の血を飲む者には,永遠の生命があり,私はその人を終りの日によみがえらせるであろう。私の肉はまことの食物,私の血は,(不法な飲み物,死をもたらす飲み物ではなく)まことの飲み物である。私の肉を食べ,私の血を飲む者は,私におり,私もまたその人におる。生ける父が私をつかわされ,また私が父によつて生きているように,私を食べる者も私によつて生きるであろう。天から下つてきたパンは,先祖たちが食べたが死んでしまつたようなものではない。このパンを食べる者は,いつまでも生きるであろう。』シモン,ペテロは,これらの言葉は,『永遠の生命の言葉』である,と言いました。―ヨハネ 6:47-58,68,新口。
29 弟子たちの生命のために,イエスは二つのどんな必要なものを与えましたか? 杯の意味するものから考えると,パンは何を意味しますか?
29 イエスは,弟子たちの生命のために,御自分の肉と血を与えられました。イエスは,御自分の備えた夕食のときに,パンと葡萄酒の杯を用いることにより,永遠の生命を得るのに是非必要な肉と血を象徴されました。葡萄酒の杯は,新しい契約を有効にするのに必要な実際の血を表示すると,イエスは言われました。それと同じように,イエスがさいて与えたパンは,実際の人間としての価値を持つているにちがいありません。そのパンは,新しい世に入る人々の生命のために与えるイエスの肉の体を意味するにちがいありません。
30 イエスの血を飲むことは,何を意味しますか? しかし,イエスの血を飲むという考えにびつくりしたユダヤ人たちは,何をしましたか?
30 イエスの血を飲むからといつて,イエスを死なせたという責任を負うものではありません。それは,信仰によつて,感謝の気持からその血をうけ入れ,犠牲として注がれたイエスの生命の血の恩恵を取り入れる,ということです。イエスを刑柱にかけて殺せ,と要求した人々は,イエスの血を飲むという考えにびつくりし,その血を,信仰をもつて飲もうとはしなかつたのです。総督ポンテオ・ピラトが『この人の血について,私には責任がない。』と言つた後に,それらの人々は,イエスの死に対する責任を取つたのです。彼らは,『その血の責任は,われわれと,われわれの子孫の上にかかつてもよい。』と言いました。(マタイ 27:24,25,新世)後日,ユダヤの最高法廷は使徒たちに反対して『あなた方は確かに,あの人の血の責任を私たちに負わせようと,たくらんでいるのだ。』と言いましたが,実は,彼らはイエスの血を象徴的に飲もうとはせず,そして自分の潔白なることを示そうとはしなかつたのです。―使行 5:27,28,新口。
31 飲むことを拒絶したユダヤの祭司たちにつき,パウロは何と言つていますか? それで,主の夕食のときに,イエスの血を象徴的に飲む資格を持つ人は誰ですか?
31 信仰を持たないそれらのユダヤ人は,イエスの血を飲もうとはしなかつたため,新しい契約に入ることもできず,また生命と救にいたらす『まことの飲み物』を飲もうとはしなかつたのです。その多くは祭司たちでした。それで,イエスの犠牲を拒絶し,かつ,エルサレムのヘロデの宮にある手で作られた祭壇で神に仕えたそれらの祭司たちにつき,使徒は次のように言つています。『私たちには一つの祭壇がある。幕屋で仕えている者たちは,その祭壇の食物をたべる権利はない。なぜなら,(ユダヤ人の)大祭司によつて,罪のためにささげられる(贖罪日の)けものの血は,聖所のなかに携えて行かれるが,そのからだは,(イスラエルの)営所の外で焼かれてしまうからである。だから,イエスもまた,ご自分の血で民をきよめるために,(エルサレムの)門の外で苦難をうけられたのである。したがつて,私たちも,彼のはずかしめを身に負い,営所の外に出て,みもとに行こうではないか。』(ヘブル 13:10-13,新口)現在の古い組織制度の外に出て,みもとに行く人々は,信仰により,イエスの血を象徴的に飲みます。それらの人は,『主の夕食』の杯から血を象徴的に飲む資格を持つています。各人は,みな『自分がきよめられた契約の血』を十二分に尊重します。(ヘブル 10:29,新口)彼らは『この(神の)御旨にもとづき,ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによつて,私たちはきよめられたのである。』と言うことができるため,その象徴的なパンを正しく食べることができます。―ヘブル 10:10,新口。
悪鬼にあずからず,ヱホバにあずかる人々
32,33 (イ)酬恩祭の犠牲を食べたため,イスラエル人は誰と交わりを持ちましたか? なぜ,そうですか?(ロ)偶像崇拝者は,どのように悪鬼とあずかりますか? どのように悪鬼の杯を飲みましたか?
32 前の諸節で,論ぜられている事柄は,コリント前書 10章16-21節に述べられている使徒パウロの言葉と一致いたしますか? かならず一致すべきです。一致しますか。この聖句のところで,パウロは,悪鬼に供えられた犠牲と,ヱホバ神に供えられた犠牲について,語つています。この犠牲の種類は,酬恩祭の犠牲であつて,その犠牲の供えられる祭壇は,犠牲の食物がその上に供えられるため「食卓」になぞえられています。ヱホバ神御自身も,御自分に供えられる犠牲の置かれるところを,『ヱホバの食卓』と呼ばれました。(マラキ 1:7,12,ア標)酬恩祭の犠牲がヱホバに供えられたとき,灌祭として葡萄酒をも供え,それを祭壇の上に注ぐようにと,ヱホバは命じました。(民数紀略 15:8-16。出エジプト 29:40; 30:9)崇拝者たちが,酬恩祭の犠牲の割り当てられた部分を食べるとき,彼らは『「ヱホバの食卓」にあずかり』,そして『感謝しつつあずかつて』いました。犠牲の脂は,祭壇の上で焼かれ,そしてその血は祭壇の上にふりかけられ,また彼らは,その犠牲を食べることによつて,『祭壇』にあずかつていました。その祭壇は,ヱホバ神のものであつて,その食卓の上で,ヱホバの食物は供えられました。それで,彼らは,ヱホバと犠牲にあずかることにより,実際にはヱホバとあずかつていました。彼らは,ヱホバと交りを持ち,共に食物を楽しみました。
33 同じように,偶像崇拝者が悪鬼に犠牲を供えて,その犠牲を食べる時,彼らは『悪鬼の食卓に……あずかつている』ことになります。それで,彼らは『悪鬼にあずかる』者たちです。彼らは,悪鬼と交り,悪鬼の仲間になり,連絡を持ちます。そして,悪鬼と共に食物を楽しみます。悪鬼を崇める御馳走のときに,彼らがもし葡萄酒の杯から飲むなら,彼らは『悪鬼の杯を……飲んでいる』ことになります。このことによつて,もし人が主の夕食にあずかるなら,どんな事が生ずるかが分ります。
34 この比較をすることにより,主の夕食はどのように見なされますか? それで,パンと葡萄酒の杯は,何を意味すると,認めるべきですか?
34 前述の比較をすることにより,主の夕食を犠牲の食事と見なすべきである,と使徒パウロは示しています。それでは,『私たちのさくパン』と『私たちが祝福する祝福の杯』とは,何を意味しますか? パン種のないパンとは,『キリストの体』と認めるべきです。イエスは,世の生命のために,御自身の『真の食物』である罪無き肉の体を,神に捧げました。イエスが感謝を捧げた葡萄酒の杯は,『キリストの血』と認めるべきです。その『まことの飲物』である,御自分の血によつて,イエスは新しい契約を有効にならしめました。このキリストの全き犠牲は,契約を成立させる時の酬恩祭の犠牲のように見なされています。その犠牲の脂は,ヱホバの祭壇の上で焼かれ,その血は分けられて半分は神の祭壇の上に灌がれ,他の半分は,まず神の律法の書に灌がれ,それから契約に入れられた民の上に灌がれました。使徒パウロは,キリストの犠牲の供えられる大きな祭壇のごとき取極を『ヱホバの食卓』と呼んでいます。そして,新しい契約に入つているクリスチャンたちは,この『食卓』にあずかります。ヱホバは大きな祭壇の取極と,そしてヱホバの新しい契約の象徴的な書に灌がれるキリストの血の杯は,『ヱホバの杯』です。それは,主の夕食の葡萄酒の杯で象徴されます。
35 パンと杯にあずかることにより,クリスチャンたちは,大きなどんな事柄にあずかつていますか? 彼らは地上の誰たちと,目に見える状であずかつていますか?
35 新しい契約に入つているクリスチャンたちは,その杯から葡萄酒を飲み,また種入れぬパンを食べます。そうすることにより,キリストの人間としての犠性,つまりその血と肉の両方にあずかることになります。そして,『祭壇にあずかる者』として,『ヱホバの杯を飲み』『ヱホバの食卓にあずかる』ということを表示いたします。また,キリストの血と肉の犠牲を通して,罪のゆるしの恩恵と救の恩恵にあずかつていることをも表示いたします。それで,大きな問題とはこうです。信仰によつては,このことを毎日行いそして象徴的には主の夕食の時に毎年1回行うとき,彼らはいつたい誰とあずかりますか。つまり,誰と交りを持ち,交際をし,そして誰の仲間になることですか。『私たちが祝福する祝福の杯,それはキリストの血にあずかる(ギリシャ語でコイノニア)ことではないか。私たちがさくパン,それはキリストのからだにあずかる(コイノニア)ことではないか。』しかし,いつたい誰と共に,これらの事柄にあずかるのですか。もちろん,『神の会衆』のすべてとあずかることです。彼らは,みな『キリスト・イエスにあつてきよめられ,聖徒として召されたかたがた』です。(コリント前 1:2,新口)すなわち,新しい契約の中に入つている霊的なイスラエルの全員,ということです。
36 しかし,おもに誰と交わつていますか? しかし又,神よりの啓発に関して,このことはどのように真実ですか?
36 しかし,それで全部なのでしようか。使徒パウロの論は,それまでのことなのでしようか。そうではありません。私たちはまたヱホバともあずかつているからです。そうです,主に,ヱホバとあずかつているからです。崇拝の気持を抱きながら,偶像に供えられた犠牲にあずかるなら,『悪鬼にあずかる者』となります。それと同じように,ヱホバに供えられた一つの大きな犠牲,すなわち只一度だけ捧げられたキリストの犠牲にあずかるなら,ヱホバにあずかり,ヱホバと交りを持つようになります。私たちのための犠牲として,私たちは,ヱホバに捧げられたキリストの犠牲をうけ入れます。もちろん,ヱホバは主の夕食のときに,種入れぬ実際のパンにあずかるわけではなく,また実際の葡萄酒の杯にあずかるわけではありません。しかし,ヱホバは,そのパンと杯の表徴する実際の肉と血にあずかります。神に供えられるこの唯一つの正しい犠牲を共にあずかることにより,ヱホバはその恩恵を私たちに適用されます。私たちとヱホバは,共に新しい一つの契約に入つています。私たちは,神よりの啓発の事柄をするとき,たしかにヱホバとあずかつており,交つており,そしてヱホバと共になつています。それについて,聖書にはこう書かれています『私たちが見たもの,聞いたものを,あなた方にも告げ知らせる。それは,あなた方も,私たちの交わり(コイノニカ)にあずかるようになるためである。私たちの交わり(コイノニカ)とは父,ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。神と交わり(コイノニカ)をしていると言いながら,もしやみの中を歩いているなら,私たちは偽つているのであつて,真理を行つているのではない。しかし,神が光の中にいますように,私たちも光の中を歩くならば,私たちはたがいに交わり(コイノニカ)をもち,そして御子イエスの血が,すべての罪から私たちをきよめるのである。―ヨハネ第一書 1:3,6,7,新口。
37 それで,主の夕食を食べる人は,みな誰に仕えねばなりませんか? なぜそうですか?
37 それで,ヱホバ神を選ぶか,又は悪鬼を選ばねばなりません。妥協することも,生温い態度を取ることも,許されません。また,あつちへついたりこつちへついたりすることも,決して許されません。唯一つの真の神ヱホバに全き専心の崇拝を捧げるか,又は偽りの悪鬼の神々に崇拝を捧げるか,そのどちらかです。新しい契約に入つているクリスチャンたちが,イエスを記念して『主の夕食』を食べるために共に集り,そして表象であるパンと葡萄酒の杯にあずかるなら,それは『ヱホバの食卓』にあずかり,ヱホバの『祭壇にあずかる者』ということを表示しています。この理由からも,彼らはみなヱホバに仕えます。その崇拝と奉仕を他のものに分けることはできません。(キリスト教国をも含む)この世の諸国家は,現代いろいろの種類の多くの偶像に犠牲を供えていますが,彼らはまたその犠牲にもあずかることができません。
38 主の夕食の表象物にあずかることが,偽りの行になることがあり得ますか? それはヱホバに何を起させますか? どんな結果が生じますか?
38 主の夕食を祝うあなた方は『ヱホバの杯と悪鬼の杯とを同時に飲むことはできない。ヱホバの食卓と悪鬼の食卓とに同時にあずかることはできない。』と使徒パウロは言つています。『不信者と,つり合わないくびきを共にするな。……光とやみとなんの交わり(コイノニカ)があるか。……神の宮とな偶像となんの一致があるか。私たちは,生ける神の宮である。』(コリント後 6:14-16,新口)あなたの愛,献身,崇拝,そして奉仕をヱホバ神に捧げきらずに,その幾らかを悪鬼にも捧げ,しかも主の夕食に出席して,その表象にあずかるなら,それは偽の行であります。あなたは,光の神と交りを持ち,神とあずかる振をしながら,実際にはそうしていません。あなたは,自分自身を誑しています。あなたは偽善的に行つています。あなたは『やみの中を歩いている……偽つているのであつて,真理を行つているのではない。』『ヱホバは専心の献身を求める神』である故,あなたは『ヱホバにねたみを起させ』ています。ヱホバは専心の愛のみうけ入れます。(出エジプト 34:14,新世)ヱホバの怒りを招くとき,重大な結果が生じます。なぜ? なぜなら,パウロの言うように,『私たちは,主よりも強いのだろうか。』(コリント前 10:22,新口)私たちは,強くありません。ヱホバにねたみを起させたことに対して,ヱホバは亡びをもたらしますが,私たちには,とうていその亡びに堪えるだけの力はありません。―詩 78:58-64。
-
-
いただく者の『ひとつの体』ものみの塔 1956 | 2月1日
-
-
いただく者の『ひとつの体』
1 主の夕食を食する人は,どのようにヱホバに崇拝し,奉仕を捧げるべきですか? このことを論じたパウロは,どんな『ひとつのからだ』を意味していますか?
新しい契約にいるそれら霊的イスラエル人のクリスチャンたちは,個人としても又は会衆としても,ヱホバへの崇拝と奉仕に専念しなければなりません。それで,主の夕食の杯とパンについて語つた後に,使徒はそのような者にむかい,こう述べているのです。『パンが一つであるから,私たちは多くいても,一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただく(食する)からである。』(コリント前 10:17,新口)ここで,『ひとつのからだ』と言つたパウロは,何を意味していますか。それは,種の入らないパンで象徴されるイエスの人間としての肉の体ではありません。それは,イエス・キリストを霊的な首とする霊的イスラエル人の会衆全部を意味しています。イエス・キリストの支配下にあるこの会衆は,同じパウロの手紙の後の部分で,キリストの体と言われています。『あなたがたは,キリストのからだであり,ひとりびとりは,その肢体である。そして,神は会衆の中で,人々を立てられた。』― コリント前 12:27,28,新世。
2 イエスは,夕食のときに只ひとつのパンを用いましたが,それはどんな事実を示すためですか? ヱホバがパウロの述べる『ひとつのからだ』にあずからないのは,なぜですか?
2 パウロは,キリストの体である会衆は,考えと行に一致すべきである,とコリント前書の初めの3章で示しています。それで,主の夕食ならびに,主の夕食が会衆の各員に課すすべての責務に対しては,分裂のない立場を取らねばなりません。もし全員が主の夕食をいただくなら,彼らはたがいに結合して,ひとつのからだにならねばなりません。イエスは,主の夕食を設立されたとき,ただ一つのパンを用いました。そうすることにより,そのパン,つまりイエスの肉のからだをいただく者たちは,頭であるイエスの下にただ『ひとつのからだ』であることを示しました。新しい契約に入つている霊的なイスラエル人は,種入れぬ一つのパンをいただくことにより,たがいに共通の食事を取ります。そうすることにより,彼らは『ひとつのからだ』であつて,同じ恩恵と特権をいただき,同じ霊的な食卓で食べることを表示します。彼らの数が,どれ程多いものであつても,彼らは『その一つのパンをいただく(食する)』故に,『ひとつのからだ』です。ヱホバ神は,この『ひとつのからだ』に,彼らとあずかりません。ヱホバ神は,その一員でないからです。イエス・キリストは,その『ひとつのからだ」の頭ですが,ヱホバに従います。『キリストの頭は神である。』(コリント前 11:3,新口)頭であるヱホバは,イエスの犠牲をうけ入れました。
3 (イ)どんな行いは,彼らがみな『ひとつのからだ』であることを示しますか?(ロ)キリストの肉と血をいただくことにより,彼らは神より何をいただきましたか? これは,将来のより大きなどんな特権の踏石となりましたか?
3 種の入らぬ一つのパンそのものは,キリストに従う『ひとつのからだ』を象徴しません。そのパンは,イエスが犠牲に捧げられた人間の体を象徴します。みな一緒になつて,そのパンを食べる行為により,食べる人はみな『ひとつのからだ』『キリストのからだ』であることが示されます。イエス・キリストの肉と血をいただくことによつて,彼らはみな神から義と宣明されます。人間である彼らを義と宣明することが,目的ではありません。つまり,そこですべてが終つたというわけではありません。実は,特別な目的のために,彼らは義と宣明されたのです。何のことですか。それは,彼らがキリストと共に犠牲にされ,ヱホバ神によつて産み出されてヱホバの霊的な子供たちになるための踏石となります。彼らは,ヱホバ神との新しい契約に入つていて『聖なる国民,神につける民』です。(ロマ 5:1,2,9; 8:15-17。ヤコブ 1:18。ペテロ前 2:9,新口)彼らは,天的な生命の希望を持つ霊的な子供たちとなりました。ヱホバ神は,御霊でもつて彼らに油を注ぎ,キリストの体の成員にならせました。ヱホバ神は,これを行うことにより,彼らを天的な御国の契約に導き入れました。イエスは,主の夕食が終つた直後に,忠実な使徒たちに次のような言葉を述べられ,その契約について語られました。『あなた方は,私の試練のあいだ,私と一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それで,私の父が,御国の契約を私と結んだように,私もあなた方とその契約を結ぼう。あなた方は,私の御国で食卓について飲み食いし,また位に座してイスラエルの十二の支族をさばくであろう。』― ルカ 22:28-30,新世。
4 二つのどんなものによつて,彼らはきよめられましたか? それで,彼らが主の夕食をいただくことにより,彼らはどんな者と示していますか?
4 このことから,彼らが信仰を持つことによつて,義と宣明される必要性の如何に大きいかが,認識されます。彼らは,『ただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによつて,……きよめられたのである。』彼らのひとりびとりは,『自分がきよめられた契約の血』を重んじます。(ヘブル 10:10,29,新口)彼らは,パンと葡萄酒の杯をいただくことにより,その事実を象徴します。主の夕食の時に,彼らが一致して共にいただくことは,頭であるイエス・キリストの下に,みな潔められて,献身したからだであることを示しています。彼らは,その潔めを維持しなければなりません。―テサロニケ前 4:3,7。
5 各々の責任に関して,彼らはなぜ人間であつたイエスを記憶しなければなりませんか?
5 彼らは,潔められたひとつの一致のからだとして,共通の特定な特権を楽しむだけでなく,特定の責任をも持つています。このことから,彼らは,人間であつたイエスを記憶しなければなりません。イエスは天から地に降りましたが,それは,ノアの日の『神の不従順な子たち』とは全くちがい,肉的なことを楽しむ,つまり肉の生命を楽しむためではなかつたのです。(創世 6:1,4。ペテロ前 3:19,20)イエスは,女より生まれて,肉の体を持つ人間になりましたが,それは御自分の持つ肉の体を特別に用いて,ヱホバの奉仕に捧げるためだつたのです。人間イエスは,苦しみをうけ,刑柱の上にかけられられても,非難を耐え忍びました。かくして,人間である私たちに対する模範を残されました。人間の体として存在していた期間,彼はヱホバの地的な業を行い,その体は水によるバプテスマを受け,そして後には神の御国の良いたよりを伝道しました。イエスは,御自分の体を犠牲に捧げました。それで,彼の体はゲヘナに投げ入れられず,まだ使われたことのない新しい記憶の墓の中に葬られたのです。(ルカ 23:53。イザヤ 53:9)イエスの恩恵を受ける者たちは,イエスの足跡に従わなければなりません。
6,7 その故に,彼ら死ぬべき体については,何が言われますか? ひとつのからだとして,彼らは,どのように主の夕食を食べるにふさわしく,身を保たねばなりませんか?
6 主の夕食をいただく人々は,主イエスと同じように,ヱホバ神に奉仕しなければなりません。それらの人の死ぬべき体は,彼らの中に住む神の霊によつて,生きなければなりません。(ロマ 8:10)彼らは,『あなた方のからだを,神によろこばれる,生きた,聖なる供え物として,ささげなさい。それは,あなた方の理性の力によつて行う聖なる奉仕である。』というすすめにしたがわねばなりません。(ロマ 12:1,新口)彼らはヱホバの奉仕を行つて,自分の生命を犠牲に捧げ,その地的な生命を用いつつも,キリストのように生活しなければなりません。パウロは,こう述べています。『いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた,イエスの生命が,この身に現れるためである。……それは,イエスの生命が私たちの死ぬべき肉体に現れるためである。』(コリント後 4:10,11,新口)主の夕食を食べる人々の死ぬべき体は,不道徳を避けて,潔めを保たねばなりません。パウロは,彼らに向つて,こう語つています『からだは不品行のためではなく,主のためであり,主はからだのためである。あなたがたは,自分のからだがキリストの肢体であることを知らないのか。それだのに,キリストの肢体を取つて遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。……あなた方は,もはや自分自身のものではないのである。あなた方は,代価を払つて買いとられたのだ。それだから,自分のからだをもつて,神の栄光をあらわしなさい。』― コリント前 6:13,15,19,20,新口。
7 私たちの体は,焼き印を帯びているイエスの奴隷です。(ガラテヤ 6:17)悪魔サタンは,悪魔宗教の頭である故,私たちの体を悪魔宗教に捧げてはなりません。しかしイエス・キリストは,御自分のからだである会衆の頭であります。分裂のため,人種的な憎しみのため,国家主義のために,このからだは召されているのではなく,平和と一致のために召されています。(コロサイ 3:15。エペソ 2:14-18)その体は,悪意と悪のパン種から遠ざかつて清さを保ち,かつ『ひとつのからだ』として一致しなければなりません。そして,信仰によつては毎日のことであつても,主の夕食のときに『ひとつのパン』を象徴的に食するにふさわしいものでなければなりません。
8 葡萄酒の杯を飲むとき,彼らはなぜキリストの血を記憶せねばなりませんか? そして又,彼らに与えられる特別な責任をなぜ記憶しなければなりませんか?
8 葡萄酒の杯を飲むとき,体の成員はキリストの成員を記憶しなければなりません。キリストの血によつて,彼らは罪のゆるしをうけて,義と宣明され,そして新しい契約に取り入れられたからです。その故に,特別な責任が負わされます。『ヱホバの杯』を表示するその杯の葡萄酒を飲むことにより,彼らはその責任を認める,ということを表明します。すなわち,彼らは『新しい契約の奉仕者になつて』,その契約の目的を果さねばなりません。(コリント後 3:6,新世)彼らは,神の霊的な祭司であり,かつ大祭司イエス・キリストに従う従属の祭司であるため,『王なる祭司』になりました。彼らは,讃美と良き業の『霊的な犠牲』を神に捧げます。それには又,死も関係しています。彼らはイエスと同じように犠牲の死をともに厭わず,またイエスと同じように,ヱホバの宇宙的な至上権を立証するため,イエスの苦しみにあずからなければなりません。祭司である彼らは,『悪鬼の食卓』や『悪鬼の杯』に,なんらの関係をも持つてはなりません。ヱホバに専心の献身を捧げ,ヱホバの崇拝を生活内で最重要なものとし,そしてヱホバの知識をその唇の上に置き,ヱホバの使者として仕えなければなりません。かくして,多くの人を不義から引き離して,ヱホバの崇拝に戻らすことができます。(ペテロ前 2:5,9。ピリピ 3:9-11。マラキ 2:6,7)彼らは,『小羊の血とかれらのあかしの言葉とによつて』悪魔サタンに打ち克つ,と聖書には書かれています。―黙示 12:11,新口。
何時そしてどのように祝うか
9 夕食の祝いは,バプテスマとは,どのように違いますか?
9 主の夕食の祝は,バプテスマとは異ります。クリスチャンの道を歩み始めるに当つて,水によるバプテスマは,只一度だけ行われ,キリストを通して神に献身したことを公やけに表明します。しかし,イエスは主の夕食の祝を備えたその時に『私の記念として,これを行い続けなさい。』と言われました。―ルカ 22:19,新世。
10 なぜ主の夕食を定期的に祝わねばなりませんか? そのことを確証したパウロは,主の夕食について,どう説明いたしましたか?
10 また祝う人々に対して,イエスのなされる大きな働きを憶えているために,主の夕食を定期的に祝わねばなりません。パウロは,定期的に祝う必要性を強調しています。神のコリント会衆は,正しい方法で主の夕食を祝つていなかつたため,パウロは,彼らに手紙を送り,こう告げました。『そこで,あなた方が一緒に集まるとき,主の夕食を守ることができないでいる。……このことでは,ほめるわけにはいかない。私は主から受けたことを,またあなた方に伝えたのである。すなわち,主イエスは,渡される夜,パンをとり,感謝してこれをさき,そして言われた。「これはあなた方のための,私のからだを意味する。私を記念するため,これを行い続けなさい。」食事ののち,杯をも同じようにして言われた「この杯は,私の血による新しい契約を意味する。飲むたびに,私の記念として,これを行い続けなさい。」だから,あなた方は,このパンを食し,この杯を飲むごとに,それによつて,主が来られる時に至るまで,主の死を告げ知らせるのである。』― コリント前 11:20-26,新世。
11 どんなできごとの時まで,彼らはイエスを憶えねばなりませんか? このことから,誰がこの祝いをするということが分かりますか?
11 特に,人間としての主イエスが,弟子たちから離れている期間中は,弟子たちは彼の個人的な死を記念して祝わねばなりません。それは,主イエスが再び戻られて彼らを天の御自分の許にうけ入れる時まで為されます。『他の羊』を集める業は,主が戻られてから行われる故に,主の夕食はイエスの『小さな群』だけの行うものということが分ります。『小さな群』とは,14万4000人の成員で構成される『イエスのからだ』つまり会衆のことです。―ヨハネ 10:16。マタイ 25:31,32。
12 1年に何度主の夕食を食しますか? 現在まで幾回食せられましたか?
12 その祝を何回しますか? イエスは,聖書の暦のニサン14日の過越の夜に,主の夕食を始めました。そして,弟子たちにそれを行い続けよと語ることにより,幾回祝うかということを示しました。すなわち,1年に1回なされる同じ過越しの日に祝います。毎年1回のその過越の日に祝うことは,全く適当なことです。なぜなら,その日にイエスは御自分の体を刑柱の上にかけて,犠牲として捧げ,罪のゆるしを得させる新しい契約の生命の血を流されたからでした。それは,『主の死』なれた日でした。その日に,主の夕食を祝うことによつて,主の死を記念し,その死を告げ知らせます。毎年1回のニサン14日の夜に,主の夕食は食せられますが,しかし,今日まで存在して来たクリスチャン会衆の19世紀間中に,主の夕食は『しばしば』食せられました。それで,今年の1956年3月26日,月曜日の夜,日没後から深夜までの時の中,『キリストのからだ』の成員の残れる者は,夕食を食します。それで,西暦33年ニサン14日から始まる主の夕食は,現在まで1923回食せられたことになり,今年もそれを食するための準備が為されています。
13,14 1914年と1918年以後になつても,イエスの弟子の残れる者は,どのようにイエスから離れていましたか?
13 しかし,主イエスが天にいるヱホバの右に坐して,その御国に来られた1914年の10月後になつても,なぜ夕食を食する事は続けられているのですか。すくなくとも,『契約の使』であるイエス・キリストをともなつて,ヱホバ神が,御自分の霊的な宮に来られた1918年の春以後になつても,なぜ主の夕食を食することは続けられていますか。―マタイ 25:31。マラキ 3:1。
14 そのどちらの場合の時でも,イエス・キリストは,弟子たちの人間としての状態を変えて,御許に召されなかつたのです。イエスは,彼らを人間の状態に残して置かれたため,彼らは『主から離れて』いました。このことにつき,パウロはこう語つています。『私たちの住んでいる地上の幕屋がこわれると,神からいただく建物,すなわち天にある,人の手によらない永遠の家が備えてあることを,私たちは知つている。そして,天から賜わるそのすみかを,上に着ようと切に望みながら,この幕屋の中で苦しみもだえている。それを着たなら,裸のままではいないことになろう。……そして,肉体の人間である間は,主から離れていることをよく知つている。私たちは,見えるものによらないで,信仰によつて歩いているのである。それで,私たちは心強い。そして,むしろ肉体から離れて主と共に住むことが,願わしいと思つている。そういうわけだから,主と共に住もうとも,主から離れているにしても,ただ主によろこばれる者となるのが,心からの願いである。』― コリント後 5:1-3,6-9,新世。
15 それで,『主によろこばれる』ために,彼らは何を祝いつづけますか? 何時までですか?
15 それで,肉体の人間である残れる者は,主から離れていても,離れている主の記念として,主の夕食を食せよ,といういましめに従うことにより,『主によろこばれる者』になろう,と努めています。彼らは,その意味で,主から離れているのです。そして,その見地から見るとき,主はまだ彼らのところに来ておらず,主は御自身の御姿を見せておらず,彼らを天の御許に召してはいませんから,記念をする必要があります。そして『イエスのからだ』の地上の残れる者は,ハルマゲドンに生き残つた後でも,栄光を受ける時まで,主の夕食を食しつづけなければなりません。
16 どんな心持ちを抱いて,主の夕食を祝わねばなりませんか? このことにつき,パウロはコリント人に何と言いましたか?
16 今年,1956年のニサン14日,すなわち3月26日の日没後,主の夕食を祝います。その祝に集まるとき,正しい心と気持を抱いて出席し,主の夕食の意味を十二分に悟りつつ,この時にふさわしい仕方で主の夕食を守らねばなりません。それについては無思慮で,不注意な自己中心の人々であつたコリント人に対して,パウロは次のような助言を与えました。『だから,ふさわしくないままで,パンを食し主の杯を飲む者は,主のからだと血とを犯すのである。だれでもまず自分を吟味し,それからパンを食べ杯を飲むべきである。主のからだをわきまえないで,飲み食いする者は,その飲み食いによつて,自分にさばきを招くからである。あなた方の中に,弱い者や病人が大ぜいおり,また(霊的に)眠つた者も少くないのは,そのためである。しかし,自分をよくわきまえておくならば,私たちはさばかれることはないであろう。しかし,さばかれるとすれば,それは,この世と共に罪に定められないために,ヱホバの懲しめを受けることなのである。それだから,兄弟たちよ。食事のために集まる時には,互に待ち合わせなさい。もし空腹であつたら,(この世と共に)さばきを受けに(一つの場所に)集まることのないため,(まず)家で食べるがよい。』― コリント前 11:27-34,新世。
17 イエスは,過越しの後の同じ食卓で夕食を備えましたが,主の夕食は,普通の食事と,なぜ区別すべきですか?
17 たしかにイエスが主の夕食を始めたときは,過越しを食べた後であつて,しかも,それは同じ食卓でなされました。それは,その時の事情のためでもあり,また過越と主の夕食には関係があつたからです。しかし,会衆の集会所で普通の食事を取つて,食べたり飲んだりしてはなりません。また,その食事の後に主の夕食を食して,それをあたかも食事の最高潮のように見なしてもなりません。主の夕食は,普通の夕食とまつたく区別すべきものです。残れる者は,主の夕食のパンと杯をいただくことによつて,永遠の天的な生命を意味する霊の恩恵にあずかることを象徴するからです。残れる者は,この祝いと,表象物であるパンと杯を,大切に取り扱わねばなりません。ぞんざいにいただくことは,いただかないことよりも,ずつと悪いものです。軽々しくぞんざいにいただくならば,自ら神の罰をうけ,この世と共に死んでしまいます。
18 もし『からだをわきまえない』なら,なぜ自分自身に対する裁きを食べ,また飲みますか? それで,ヱホバの懲らしめの裁きをうける人は,何を為すべきですか?
18 なぜ,そうですか。ひとたび主を知りながら,主が犠牲に捧げた『体をわきまえる』ことができなかつたからです。あたかも,『ヱホバの食卓は卑しきなり』と言い,またヱホバの食卓の上に供えられた犠牲は,汚れたもので,不完全であり,『ヱホバの食卓は汚れたり』と言つているかのようです。(マラキ 1:7,12,ア標)不忠実な者たちは,『神の子たちをまたもや刑柱にかけて,公やけの恥にさらしている』故に,それは『有罪の』行です。彼らは又,『神の子を踏みつけ,……自分がきよめられた契約の血を格別に尊ばない。』そのような者になされる罰は,古い律法契約を破つた者になされる罰よりも重いものです。その者は,死の罰をうけます。故意になされた罪に対しては,もはや犠牲はなく,その者は救われません。その者は,『逆らう者たちを焼きつくすヱホバの激しい火』を,恐れつつ待つのみです。(ヘブル 6:4-8; 10:26-31,新世)その故に,ヱホバの与える矯正的な懲らしめのさばきから,その者は益を受けなさい。自分がどんな者であるかを,わきまえて,その悪を直しなさい。今まで間ちがえていたにせよ,もしいましめに従つて主の夕食を食するなら,主のきよめられた体をわきまえ,かつ自分の罪のゆるしを願いつつ,いたしなさい。かくして,この祝をすることにより力を受け,これから先の年月,キリストの足跡に,よりしつかりと従うようになるでしよう。
19 全国民からくる『大いなる群衆』は,主の夕食に来るとき,なにをみわけるべきですか? その祝いから,彼らは最大の祝福を,どのようにうけますか?
19 キリストの体の成員として,新しい契約にいる霊的なイスラエル人の残れる者だけが,いま主の夕食をいただくことができます。しかし,あらゆる国民,民,種族,そして言語から来るヱホバの崇拝者の『大いなる群』は,主の夕食に出席して,見守ることができます。彼らは,高い『ヱホバの山,ヤコブの神の家』に来ました。それで,主の夕食に来るとき,表象物によつて表わされている『ヱホバの食卓』と『ヱホバの杯』の前に来る,ということをみわけなければなりません。(黙示 7:9。イザヤ 2:2,3。)このようにして,彼らは『悪鬼の食卓』を避け,そしてヱホバに専心の献身を捧げている,ということを知らすべきです。かつ,ヱホバに達する唯一つの道は,ヱホバの大祭司である主イエス・キリストの犠牲を通してである,ということを告白します。かくして,彼らは,表象物をいただく残れる者と和合し一致結合して,ヱホバの正しい一人の羊飼の下に『ひとつの群』となります。(ヨハネ 10:14-16)彼らは,残れる者と共に,主の夕食の祝いから最大の祝福をうけます。彼らは唯一つの真の神ヱホバに讃美と栄光を帰しつゝ『ヱホバの食卓』を尊いもの,またその上に供えられたキリストの犠牲は汚れなく尊いものと呼びます。
-
-
その15 ファシスト ― ナチスの迫害下の海外の活動ものみの塔 1956 | 2月1日
-
-
ヱホバの證者の近代歴史
その15 ファシスト ― ナチスの迫害下の海外の活動
ヱホバの証者の活動を国際的に眺めたとき,1934年頃には,どんな状態でしたか? ものみの塔協会の支部事務所は49ヵ国で運営されておりました。その業は,合衆国に集計された報告から判断すると,拡大され,発展していました。カトリック ― ファシスト派が欧州に勢力を得るにつれて,ヱホバの証者の上にも重圧が加わつてきたのです。イタリーにおいて,約50名のヱホバの証者は警官からのきびしい追跡をのがれて地下活動をなし,警官は文書をうけとつた人々をも逮捕しておりました。イタリヤの数名の伝道者はムッソリニーのファシスト政府により投獄されました。
スペインにおいては,1936年から1939年までのファシスト革命以前に,少数のヱホバの証者の業は非常によく栄えていました。実に,1936年の革命戦争の最中に,スペイン人の証者は10万5570冊の聖書文書の配布を報告しています。
ヒットラーがドイツを支配する前,協会の証言の業は目ざましい進歩をとげました。1919年から1933年にかけて,ドイツの兄弟は4800万冊の書籍と冊子及び7700万冊のドイツ語の『黄金時代』を人々の手に渡しました。1930年代に,協会は『万国証言期間』という8日間の運動をなし,この8日間は,全世界一齋に,準備された同じ証言を毎日用い,同じ出版物を配布して,証者は世界的な一致を示したのです。たとえば77ヵ国の5万8804名の伝道者は,1933年4月8日-16日まで『残れる者の祈禱』の活動を行いました。この期間中は,『危機』という冊子が配布されております。この特別期間中に,ドイツが1万9268名の伝道者を報告していることは,合衆国の2万719名と比較して大変興味あることでしよう。このように1933年には,これら二つの国は約同数の伝道者を有しておりました。しかしこの特別の週間中,ドイツは227万1630冊の文書を配布し,これは合衆国の87万7194冊の配布を超えており,ヒットラーが支配者となつた直後でも,ドイツ内で,どんなに熱心な伝道が行われていたかを如実に示しています。ヒットラーの時代前でも,カトリックからの激しい反対はありました。たとえば1931年から1932年までに,ドイツの証者を邪魔した合計2335の訴訟事件が報告されています。
ヒットラーが独裁者として1933年1月に登場してからは,迫害は,まことに暗雲の様相を呈してきました。1933年4月の初期,警官はドイツ・マグテベルクに在つた協会の新しい大工場とベテルの家を占拠し,印刷機に封印をし,反動の証拠物件を得ようとして,建物内をくまなく捜索しました。何らの疑いあるものは発見されなかつたので,4月28日協会はふたたびその建物の所有権を回復しました。これによつて,前記の4月8日から16日までの特別期間の報告の集計を完結し得たのです。この波乱多き時代の真只中に,判事ルサフォードはドイツ訪問を決定し,事実,1933年6月に実行しました。6月25日にベルリンでは7000名の証者が参集し,特別な大会を開き,満場一致のうち,『事実の宣言』という題の決議を通過させました。これは,協会の証言の業に対し,ヒットラー及びその政府からの高圧的な干渉に,強硬なる抗議を行つたものです。政府は3日後に早速報復手段をとり,協会の所有物を再び押え,占領し,政府の命によりその印刷工場を閉鎖してしまいました。マグテベルクにあつたベテル
-