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  • 1955年に恐れからの自由
    ものみの塔 1955 | 3月15日
    • を恐れず,そのいましめに喜びを持たない人は,なんと不幸なことでしよう。しかし,おお,1955年にあなたがヱホバを恐れる者で,その誡を守り神の与える恐れからの自由を持つならば,あなたは全くなんと幸福なことでしよう。

  • 主の夕食を記念する
    ものみの塔 1955 | 3月15日
    • 主の夕食を記念する

      1955年度のヱホバの証者のカレンダーで,赤字の日がただ一度だけ現われています。その日は,4月7日です。その日,太陽が西の水平線に没するとき,すべてのヱホバの証者はできるならば全員のこらず,地方毎の会衆の集会所で他の証者たちと共に集まります。50万人以上の証者たちは,今年数十万人の善意者といつしよに,このように集まるものと見込まれています。

      ヱホバのすべての証者は,なぜ4月7日に互いに集まるのですか? その日は,またニサン14日だからです。ニサン14日? そうです。

      ニサン14日について,なにか著るしいことかとお尋ねですか? その日はキリスト前1513年に著しく際立ちました。ヱホバはそのとき,御自分の民に課せられたエジプト人の束縛を破り,彼らを自由に解放することにより,御自身の御名を立証されました。イスラエル人は,その夜に,炙いた羔羊または山羊,酵いれぬパン,苦菜で成り立つ『夕食』を食べました。それは『過越しの夕食』と名づけられましたが,神の死の御使が,彼らの長子を助けた,または「過越し」たかたわら,エジプトのすべての長子を殺したからです。つまり,羔羊の血を戸口のはしらと,彼らがその中で,夕食を食べてとどまつていた家の鴨屋に塗るということを含めて,イスラエル人がすべての指示に従つたために,御使は彼らを助けたということです。―出エジプト 12:3-13。

      ヱホバが御自分の最高至上権を立証し,パロの誇りを卑しめ御自分の民をつらいエジプト人の束縛から自由に解放されたその記念の日を,彼らがまさかにも忘れないために,神はこの過越しの夕食を毎年ニサン14日に記念するよう命ぜられました。後日になつて,それは神が御自分の御名を置かれた都エルサレムで記念されました。そのときから約15世紀たつた西暦33年ニサン14日,13人のイスラエル人がエルサレムの都の中にある2階の部屋で過越しを祝つていました。その13人とは誰ですか? キリスト・イエスと彼の12人の使徒です。

      しかし,ヱホバの証者が今年のニサン14日に共に集まるのは,ユダヤ人の過越しを記念するためではなく,むしろ,西暦33年のそのニサン14日に起ろうとしていた大きな出来事を記念するためです。その出来事は,重要さから見るとき,それより1545年前にエジプトで起つた出来事よりもはるかに大切なものです。まつたく,西暦33年のニサン14日に,ヱホバの御名は次の点で立証されました。それは,悪魔があらゆるものをもたらそうと,完全な人は忠実を保つことができるとキリスト・イエスはその日に証明をし,またその日に贖いの犠牲が備えられ,それにより正義を愛するすべての人は究極の救助をうけ,大いなるパロ,つまり悪魔サタンの束縛,および実体的なエジプトである悪魔の制度から救われるからです。すべてのことがその日に? そうです,神の暦によると,一日は日没に始まり,次の日の日没まで続いたからです。

      表象の意味

      イスラエル人がエジプトから救助されたことについて,モーセはその年々定期の記念を,救助の行われたその夜に始めました。それと丁度同じく,キリスト・イエスは,彼の与えようとする救助についての年々定期の記念を西暦33年,ニサン14日のその夜に始めました。キリスト教国のいろいろな宗教制度は,『主の夕食』を半年に一度,三月に一度,月に一度,週に一度,また殆ど毎日のように記念いたしますが,しかしエジプトからの救助を記念した過越しが,ただ1年に一度だけ,ニサンの14日に記念されたという事実を考えるときに,次のように結論するのは,合理的なことです。反対を示す指示がない故に,主の夕食も1年に一度だけ,ニサン14日に記念されるべきであつて,実体的な羔羊,キリスト,イエスの死によつて備えられた救助を記念すべきです。

      過越しの夕食が終り,イエスがユダを退場させて後になつて,彼は『パンを一片取り,祝福を述べた後に,そのパンをさいて弟子たちにあたえ,「取つて喰べなさい。これは私の体を意味する。」と言われた。』(マタイ 26:26。ヨハネ 13:21-30,新世)イエスは,ここで何の体を指していましたか? 御自分の肉の体でしたか? そのようなことはまずありません。イエスの肉の体については,その骨の一つも折れず,さかれなかつたと聖書に書かれています。しかし,イエスはパンをさかれました。(ヨハネ 19:36)肉の体ではなくして,イエスは霊の体,つまりクリスチャン会衆を指していました。聖書の中で,クリスチャン会衆は,45回以上も体またはキリストの体と呼ばれています。次のパウロの言葉からも,それが正しい結論であると分ります。『私たちがさくパン,それはキリストの体に共に分け与かることになることではないか? パンは一つであるから,私たちは多くの人数であつても,一つの体である。私たちはみな,その一つのパンに共に与るのである。』パンは,イエスの肉の体を表わすのではなくして,体の成員すなわちクリスチャン会衆を表わしていることは明白です。―コリント前 10:16,17,新世。

      人は,このパンをいただくことにより,実際に「私はキリストの体の成員である」と表明します。聖書の中では,麹または酵母は罪を表わす故に,すべての過越しのパンに麹があつてはなりません。このことは,キリストの霊的な体の一部になる人々は,最善をつくし,罪と悪意に染まらぬよう身を保つという事実を表わします。さらに,この麹のないパンは,『くるしみのパン』とも言われましたが,それは重く,いわば『悲しみ』のものであつて,イスラエル人にエジプトでのくるしみとまたエジプトから大急ぎに去つたことを思い起させました。非常に急いだために,正しくパンを準備する時間は無かつた程です。それで,パンは,キリストの体の成員が是非とも耐え忍ばねばならないくるしみをも適切に画いています。―コリント前 5:68。申命 16:3。ペテロ前 2:21,新世。

      弟子たちにパンを与えて食べさせた後に,イエスはまた『杯を取つて,感謝を捧げてから,彼らに与え,「あなた方すべての者は,この杯から飲みなさい。これは,罪の赦しを得させようと多くの人のために注がれる私の「契約の血」を意味する。』(マタイ 26:27,28,新世)杯を飲むことは,キリストと共に分けあづかることを意味するゆえに,キリストに従う者たちはその各々の犠牲により罪の赦しの備えに参加するということですか? 否,聖書によるとキリストのみが贖いを備えることができると示されています。(詩 49:69。ヨハネ 1:29)しかし,イエスの弟子たちは,この杯もまた御自分の僕たちに対する神の御意を表わすという意味で,イエスの飲んだ同じ杯に与り飲むことができます。イエスは,御自分の裏切られたその夜にこう祈りました。『父よ,もしできるならば,この杯を過ぎ去らせて下さい。しかし,私の思うままではなく,御意がなされますように。』― マタイ 26:39,新世。またマタイ 20:22をも見なさい。

      魂または生命は,血の中にあると聖書は述べています。(レビ 17:14)ゆえに,注がれた血とは死を表わします。それで,主の夕食のときに杯を飲む者は,キリストの復活に分け与るために,彼と共に死ぬことを期待すると表明します。(ピリピ 3:7-11)神の御国が来てから,葡萄の実を飲むことは,またキリストのよろこびに分け与ることを象徴します。―マタイ 26:29; 25:21,23。

      化体ではない

      前述の記事を読まれてきた善良なローマ・カトリック信者は,おそらくいまではこう言うかもしれません。『聖書を変えてしまつた。私の聖書によれば,イエスはパンと葡萄酒について,「これは私の体である。」そして「これは私の血である。」と言われた。』(ノックス訳)多くの翻訳が,イエスの御言葉をそのように翻訳していることは真実です。しかし,また他の翻訳は新世訳と似た翻訳をしています。モハットは『ある』の代りに『意味する』を用い,シー・ビー・ウィリアムズは『ある』の代りに『表わす』を用い,ウエマスはまた,その脚註で(第3版)こう述べています。『あるいは,「表示する」「表わす」「私の体を象徴する。」旧約と新約の両方の多くの場所で,言われている又ここで理解されているように「ある」という動詞は,このように,翻訳することができる。』ウエマスの述べる例の中に,種子播きの譬えがあります。その譬の中で,イエスはくり返し一つの事は他の事で『ある』と述べていますが,それは一つの事は他の事を『表わす』という意味なのです。マタイ 13:36-39をも見なさい。

      たしかに,イエスの話しは暗喩や象徴で一杯であり,しかもイエスの話だけではなく,使徒たちの話しもそうでした。イスラエル人のために水の湧き出た荒野の岩についてのパウロの言葉に注意してごらんなさい。『みな同じく霊なる飲物を飲めり。これ彼らに随いし霊なる岩より飲みたるなり。その岩はすなわちキリストなりき。』(コリント前 10:3,4)その岩は実際にキリストでしたか? いいえ,それはキリストを予影し,画いたものでした。御自分の死の記念を始められた夜に,イエスの語られた言葉についても同じことです。

      パンが実際の体であつて,ミサ犠牲をするローマ,カトリック教会の主張するように繰り返して犠牲にされるということがイエスの意味するものであつたならば,『私の犠牲としてこれを行え』または『このように私を犠牲にせよ』と言わなかつたでしようか? しかし,これの代りにイエスは『私の記念としてこれを行え』と

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