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神の記憶ものみの塔 1954 | 5月1日
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なぜならばその都は神の支配する制度と政府を象徴していますが,その都の王は,ほかの者ではない約束された『裔』,すなわち神の女が産むところの神の子,王イエス・キリストであるからです。
11 ヘブル書 11章に録されている者たちとクリスチャンたちはどのように密接に結ばれていますか?
11 また,その連続せる鎖は,キリストのくる前に生活して死んだ信仰の人で終つていないことに注意してください。その鎖は,キリストに従う者たちおも結びつけているのです。そしてキリストは証者のすべての群の中心であり,要点であります。前に述べてありますが,この点において,この研究は,現在の決定の時に生活している私たちを助けて,正しい手本に私たちの生活を従わせる必要を認識させるものです。その鎖りの中に書かれている人と『私たちを取りかこんでいる雲のような証者』から得るすべてのはげましと,忠告のほかに,『私たちは,信仰の指導者であり,完成者であるイエスをしつかりと見つめる。』(ヘブル 12:1,2,新世)そうです,彼等と同じ信仰を私たちは持ち,同じようにその信仰を表わし同じ都を期待して頼らねばなりません。アブラハム,イサク,ヤコブのように,現在の悪い組織制度とその腐敗している影響の中にあつて,私たちは『他国人,一時的に住まう人』であると自らを証明しなければなりません。『なぜならば,ここには永続する都を私たちは持つていない。私たちは将来にくる都を熱心に求めているのである。』― ヘブル 11:13; 13:14,新世。
12,13 (イ)その目的についての神の記憶と型は,彼の御名と言葉にどのように関係がありますか?(ロ)パウロの言うことは,ただ一つの面だけで信仰を強めますか?
12 それですから,信仰の問題についてのパウロの論議は,神の確かな記憶と,そして神がいつも心に留めておられる神の目的の調和せる型について明白に説明し表わしているものです。実は,神の御自身の御名そのものがこれと同じことを強く強調しています。神の御名であるヱホバという名は,神の与えた型が完成するということに正しく信仰を持つことに対して,最初の基いを与えるものです。彼は自ら次のように語られています『ヱホバである私は変ることはない。』ヱホバはいつも彼の契約を心に留めておられます。彼の言葉もまた,一人の造物主を表わし示しています。その造物主は,糸をどのようにたぐり,主題を順次にどのように取りあつかうかを知つています,そして栄光に輝く,調和のある型を織りだします。その概略は簡単でありますが,その中に織りこまれた詳細においては複雑なものです。―マラキ 3:6。創世 9:15,16。レビ 26:42,45。エゼキエル 16:6。
13 しかしパウロの論議は,神の目的についての神の記憶に信仰を持つよう私たちを大きくはげまし,支持するばかりではありません。それ以外の他のものに信仰を持つ強い基いを与えるものです。それは何ですか?
復活に信仰を持つ
14 (イ)復活を信ずることは,真の信仰を必要とするとイエスは示しましたか?(ロ)キリスト教国の教えは,どのようにこの教理に違反していますか?
14 『記憶の墓にいるものが,皆彼の声を聞いて出てくるであろう。』というすばらしい発表をイエスがした時,『これを怪しむな』という言葉を前につけたのは,理由のないことではありませんでした。(ヨハネ 5:28,29,新世)聖書に教えられている復活を信ずることは,信仰についてもつとも厳しい試験の一つであるとイエスは良く理解していました。もちろん,キリスト教国が一般に復活の教義を説明している仕方によれば,真の信仰を持たなくても良いものです。それですから,一般大衆は聖書の真理よりもキリスト教国の教えの方をうけ入れるのです。普通一般の教えによると,人間は不滅の魂であるところの真の自我を持つているのであつて,死は生命からの中止または切断を意味するのではなくして,むしろより全き生命に導く戸口を意味するというのです。しかし,そのような教えをうけ入れるならば,復活の意味は単に体と魂の再結合にすぎないということになりましよう。この復活という問題について,キリスト教国の偽りの教えと論争するために,聖書からの証明を書いて述べるのは,この研究における私たちの目標ではありません。その種の問題は,この雑誌の以前の号や,ものみの塔協会の他の出版物の中に十分研究されています。神の記憶についてのより良い理解と認識を得ることによつて,復活に対する信仰を強めること,そしてこのことは私たちの生活の型をどれ程強く影響するかを見るのが私たちの目的です
15 ヨハネ伝 5章28,29節の前後の文の関係から何が示されますか? 記憶の墓とゲヘナとの対照は何ですか?
15 イエス自身が,復活に対して非常に大きな信仰を持つていたことは疑いありません。復活ということは,イエス自身の考えと思いから生じたのではありません。死から甦えるという権威と力を含めて,すべてのほまれは彼の天的父にささげられるべきであるとイエスは認めました。死から甦えるとは,再び生命に立ちまたは起きることであつて,それこそ『復活』(ギリシヤ語でアナスタスイス)という言葉の本当の意味です。ヨハネ伝 5章19-27節を読む時に,このことは明白に判ります。28節と29節で最高潮がきます。特に『記憶の墓』と言われていることに注意しなさい。これは,他の場所である『ゲヘナ』とは全く対照をなすものです。ゲヘナでは,刑を執行された罪人の死体が投げこまれました,なぜならば彼等は死から復活をうけるにはあまりに卑しいと考えられましたので,鄭重な埋葬もされず,記憶の墓も持つていませんでした。
16 (イ)イエスは,伝道之書 9章5,10節と一致しているとどのように言いましたか?(ロ)ヨハネ伝 11章25節でイエスの述べたことはどのように正しいと判明しましたか?
16 イエスは『記憶の墓』という言葉を用いましたが,このことは伝道之書 9章5,10節(ア標)に書かれてある霊感の記事とイエスは全く同意していることを示すものです。こう書かれています『生きている者は,死ぬことを知る,しかし死んでいる者は何も知らない,……お前が行くシォール(墓)には,働きも,考えも,知識も,知慧もない。』そうです,シォールは人類の共通な墓であつて,その地上の生涯が終る時に人間が行くところです。彼の選ばれた多くの者たちをその記憶の中に留めることができる天的父の力と能力とにイエスは全き確信を持つていましたので,その当時一般に使われていた『記憶の墓』という表現をイエスは用いました。イエスは『私は復活であり生命である』と言いましたが,それは正しいことでした,というのは後になつてイエスは神の力によつて『すでに四日間記憶の墓にいた』ラザロを死から甦えらすという疑うことのできない証拠によつて,そのことを証明しました。イエスの友であるラザロが死ぬ前,イエスはそこに居らず彼の病気を治しませんでしたが,イエスはそのことを非常によろこびました。そのイエスのよろこばれた二つの理由にどうぞ注意してください。最初の理由は,『神の栄光のためであり,それによつて神の子が崇められるためである。』第二番目の理由は,『あなたがたが信ずるため』でありました。確かに,私たちは復活に強い信仰を持つべきであり,疑う理由は全くありません。―ヨハネ 11:4,15,17,25,新世。
17 ヨブは何を述べることによつて,復活への信仰を表わしましたか?
17 死んだ者たちをその記憶の中に留められる神の能力に,そのような信仰を持つことは,なにもイエスの時代に新しいものではありません。そのことはヨブについての昔の記録からはつきり示されます。ヨブの言葉は,ヨブ記 14章13節(ア標)に記録されていますが,信仰を表わすなんという立派な言葉なのでしよう『あなたの怒りが過ぎ去るまで,私をシォールに隠し,私を隠しておいてください。そして私に定めた時を指定し,それから私を思い起してください!』
18 死んだ者すべてが神の記憶の中に留められているかどうかということについて,聖書的な答えは何ですか?
18 すでに申しましたように,死んだ者すべてを,一人残らず彼の記憶の中に留めようとは神はいたしません。神はその御心を用いてある者を記憶しますが,また御自分の意志でもつて,他の者を忘れることができ,そして忘れるのであります。そのことをどのように決定するかについて,神御自身の言葉はこのように語つています『義しき者の記憶は祝福せらる。しかし,悪い者の名前はくさる。』― シンゲン 10:7,ア標。
19 復活への信仰についてパウロは特にヘブル書 11章でどのように論じましたか?
19 また使徒パウロも死んだ者の復活に強い大きな信仰を持つていたことも,同じように疑いありません。パウロも又,この復活という教理は信仰についての厳しい試験であるということを知つていました。そのことは,例えば,アテネに於ける彼の経験からも判ります。(使行 17:31,32)パウロの書いたものの中で,この復活という題は,非常に目立つているものです。例えば,よく知られているコリント前書 15章には,あの力強い論議が書かれています。またロマ書 4章16-25節(新世)で,パウロは父アブラハムの信仰について論議していますが,そこで『死んだ者を生かし,無いものをあたかも在るように呼ばれる』神に信仰を持つことはいかに大切であるかと示しています。しかし,使徒がヘブル書 11章で取り扱われている信仰の主題と,復活についての信仰の関係に,私たちは特別に関心を持つています。この章でもまた,パウロはアブラハムとサラの例を引用して,先ず約束された裔を産み出す神の力にたいする彼らの信仰について語つています。子供を産むということについて,一般常識で考えるならば,彼らは両方とも死んだも同様でしたが,しかし神の力に信仰を持ちました。それから,このヘブル書 11章に述べられているすべての人を含めて,パウロはこう言つています『信仰をもつて,これらすべての者は死んだ。』そして最後に,こう説明しています『彼らは約束の成就をうけなかつた,なぜならば神は,私たち(クリスチャンたち)のためにより良きものを先見せられて,そして彼らは私たちと離れては完成されないからである。』(ヘブル 11:12,13,39,40,新世)それですから,結論は疑いもなくこういうことになります,すなわち約束され,そして彼らのために用意されているその都で彼らを待つているものの成就を彼らが楽しむためには,是非とも死からの復活が必要です。
20 死んだ者の復活について,私たちは何故あやしむべきではありませんか?
20 あなたはこれを怪しみますか? そのようなことが起るということについては,全くなにも不合理のものはありませんし,不自然のものはありません。かなりの年輩になつた人が,おそらく学校の時以来聞かなかつたような人の名前が言われるのを聞くというのは,けつしてめずらしいことではありません。すぐにその人のことを想いだします,そしていわば,その人を心の目に再創造します。たとえば,その人がどんな風に衣服を身につけていたか,その人の顔つき,おおくの特徴やでき事などを想い出します。また,音楽家のことをも考えてください。音楽家は,楽符のついている一曲の音楽だけでなく,多くのしかも変化している音楽を何曲も正確に記憶し再現することができるのです。人間は多くの制限をうけており,また不完全ですが,その記憶という点については,すばらしい能力を持つているということを異議なく私たちは認めます。それでは,人間の心を造り,その心がどのように働くかを正しく知つておられる全能,無限の創造者に,その記憶に留められている者すべてを,記憶の墓より呼び戻し,再生する力がないなどと私たちは考えるべきではありません。そうです,各個人を形成するすべての特質と心の印象のすべてを神は記憶されているのです。パウロは適切にこう言いました『神は死人を甦えされるということが,どうしてあなた方にとつて信ぜられないと判断されるのか?』 ただ一つの答えしかありません。『これを怪しむな。』― 使行 26:8。ヨハネ 5:28,新世。
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ヱホバの『記憶の本』ものみの塔 1954 | 5月1日
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ヱホバの『記憶の本』
1 何に基いて各個人の裁きは遂に決定されますか? このことはどんな疑問に導きますか?
ヱホバは完全な型です。サタンは悪と不正な型の創始者であるという汚名を持つています。すでに始まつている裁きの期間の間に,各個人の生命の型は,一つの種類のものであるか,または他の種類のものであるか必らず裁かれるでありましよう。神の子供として,神に認められるすべての者に用意されている永遠の祝福を相続するに価値あるものとされるか,あるいは『第二の死を意味する火と硫黄の燃える池に』入れられる人々の中に加えられるでしよう。(黙示 21:7,8,新世)どちらの種類の型をあなたは形造つていますか? 人間の生命の型を変えることはできますか? もしできるならば,ヱホバに認められるような生命の型を築き上げるにあなたはどのように助けられますか? これらの質問にたいして,私たちは十分慎重に考えねばなりません。
2 今は裁きの日であることについて,マラキの予言はどのように示していますか?
2 マラキ書 3章にあるマラキの予言は,『あなたがたの求める主が突如として彼の宮殿に来る』時に,裁きの期間は始まると告げています。そして,誠実をもつて主を求め,『義の捧げものを主に捧げよう』と欲しているすべての者を,主は清め,また完全な型に回復されるとその予言は告げています。同時に,その予言はこのように告げています。すなわち,マラキの時代にレビの子孫たちで構成されていた祭司級は,腐敗した型に従い続けましたが,それと同じように自分自身の腐敗した型に従い続ける者に『対して,主は速かに証者』となりましよう。(マラキ 3:1,3,5,ア標)他の聖句と結び合わせて,考えてみますと,西暦1918年の春に,主が彼の宮殿に来たことの成就は見られました。すなわち,それは1914年の後期に,御国が誕生してから3年と半年後のことでした。このことについては,この雑誌の欄で多く示されています。(1953年,8月15日号のものみの塔290頁を見なさい)それですから,前述の質問を正直な心をもつて直面することは非常に必要なことです。
3 マラキの予言のどの部分が生命の型の疑問に光りを投げかけますか?
3 マラキの予言の多くの部分は,初まりの言葉が言うように,本当に『重荷』です,しかし簡単な部分ではありますが,輝く希望と約束を鮮明に示しているところがあります。それは私たちをほつとさせ,大きな慰めと励ましを与えるものです。二つの種類の型がはつきり表わされる時を明白に語つている箇所がありますが,いまその点に注意してみましよう。こう書かれています『それから,ヱホバを恐れていた彼らは,互いに語つた。ヱホバは聞かれた,そして彼を恐れ,彼の名前を考えた者たちのために,記憶の本がヱホバの前で書かれた。万軍のヱホバは言われる,私の造る日に彼らは私のもの,私の所有となるであろう。人間は,自分に奉仕する子供をあわれむが,それと同じように私も彼らをあわれもう。それから,あなたがたは戻り,美しき者と悪しき者の間,神に奉仕する者と神に奉仕しない者とを見分ける(違いを見る,ロザハム訳)であろう。』― マラキ 3:16-18,ア標。
4 ヱホバの『記憶の本』と言うと,どんな質問が生じますか?
4 この中に,ヱホバの『記憶の本』と言われていますが,これについて私たち
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