ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 地に平和が訪れる生きた証拠
    目ざめよ! 1971 | 1月22日
    • 地に平和が訪れる生きた証拠

      ― その例証となった,カナダの「善意の人々」地域大会

      昨年夏,カナダの10都市で開かれたエホバの証人の「善意の人々」地域大会は,清新な慰めをもたらすものとなった。だれに対してであろうか。憎しみ・暴動・凶悪犯罪・戦争・麻薬の乱用・私生児や性病の激増などを,いやというほど聞かされている人々である。

      それらの大会は,正義を愛し,物事を深く考える人に対して,憎しみや戦争の恐怖を知らない人間社会が存在しうることを,みずからの生活によって実証している人々が地上にいる生きた証拠となった。

      大会の出席者は合計9万1,876人であった。つまり,大会での光景が単なる偶然にすぎないと主張する人がいたとしても,その考えが正しくないことを十分に証明しうる多くの人々が,10の各大会会場に居合わせたことになる。

      大会に出席した人たちは,神の「善意の人々」であることに関心を持っていた。このことばは聖書から取られたもので,永続する命と平和を得るために,人間は神の善意もしくは恵みにあずからねばならないことを示している。―ルカ 2:13,14,新。

      平和のうちに,進んでともに働く

      すべての大会に出席するとなると,相当な旅行をしなければならないことになる。カナダの大会会場を結ぶ距離は,大西洋岸から太平洋岸までの,実に6,400キロにも及ぶ。言うまでもないことであるが,プログラムのための準備をし,10の大会都市に設備を整えるには,多大の仕事が必要であった。

      たとえば,ノバスコシアのアマーストでは,予想以上の群衆がつめかけ,十分のいすを用意するのにたいへん骨が折れた。地方の責任者と交渉して,アマースト周辺140㌔以内にあるすべての学校から,全部のいすを持ち出して使用した。しかし,それでもまにあわず,証人たちは約220㌔離れたハリファクスから,さらに多くのいすをトラックで運び込んだ。

      エホバの証人は,そのような仕事をどう組織するのだろうか。多くの場合,宣教奉仕で実用的だと認められた方法がそのまま用いられる。その一例は,アルバータ州エドモントン大会の会場掃除の仕方である。その地方の17の会衆各に,“区域”が割り当てられ,会場の建物は17に区分された。自発奉仕者の申し込みがあると,所属の会衆を尋ねられ,その会衆に割り当てられた場所に配置される。

      それらの大会では,仲間のために率先して働こうという精神が非常にきわだっている。たとえば,ブリチッシュ・コロンビアのプリンスジョージに住むある証人は,大会食堂の献立を盛りだくさんにしようと,自分の漁船に乗り込み,約1,300㌔のマスとオヒョウを取ってきて,クリスチャン兄弟に食べてもらうために寄付した。

      しかし,最初はいくら努力しても,望ましい成果の得られそうにない時もあった。オンタリオのスー・セント・マリーでは,大会会場の近くにある,アスファルトで舗装された場所を食堂に使わせてもらおうと,証人たちは市の責任者たちに働きかけたが,どんなに努力しても許可がおりず,他の場所を使用せざるをえなかった。しかし,そうした事態を証人たちはどんなに感謝したことであろう。なぜなら,大会中に市の下水が詰まり,問題の箇所を突き止めるため,市当局はそのアスファルトで舗装された一帯を,4か所にわたって掘りかえさねばならなかったからである。もしそこを証人たちが使用していたら,大会の初日に簡易食堂を移動する必要が起きていたことであろう。

      大会出席者のための宿舎

      大会の準備の中できわめて重要な仕事の一つに,遠くからの出席者のための宿舎捜しがある。幾千もの証人がクリスチャンの厚情を発揮して,自発的にへや捜しを買って出る。

      オンタリオのトロントでは,ヨーク大学が寮を提供してくれた。そのおかげで,1か所に多くのへやが借りられ,数百人の出席者がそこで宿泊した。シャーブルック(ケベック),エドモントン,アマーストでも,大学が寮を提供してくれ,アマーストのマント・アリソン大学は約1,000人分の宿舎を提供してくれた。

      アマーストでは,出席者が,予想していた2,500人を越えることが明らかになるや,証人たちは宿舎を捜すため,約60㌔離れたモンクトンにも足を運んだ。モンクトンに住むある婦人は,宿舎を提供してくれるよう依頼に来た訪問者を断わって帰した後,次のような電話をかけてきた。気持ちが変わりました。自分が断わった動機をよく考えた結果,それは偏見のためであることがわかりました,というのである。その婦人は今度はへやを提供したい。さらに,同様な理由で断わった近所の人に働きかけてみるつもりです,と述べ,実にそのとおりにした。それから数日間,彼女は何度も電話をかけ,『― 夫人が部屋を提供してくださるそうですから,来て,宿舎申込書に記入してもらってください』と連絡してきた。そのようにして,25人分の宿舎が得られた。

      神の「善意の人々」としてバプテスマを受ける

      10の大会におけるバプテスマの会場では,喜びのあまり涙を浮かべる人々が多かった。むすこや娘や友人たちで抱き合ったり,おめでとう,と声をかけられたりして,「善意の人々」から成る,エホバの幸福な家族の一員としてあたたかく迎え入れられた。スー・セント・マリーでは,バプテスマの希望者207人が質問に答えるため起立したが,その中に若い人々の姿が目だって多いのは興味深い光景であった。

      しかし,バプテスマを受けた年配の人も多かった。エドモントンでは,地方の二つのテレビ局が浸礼の模様を放映した。そこでは208人がバプテスマを受けたが,その中には,アルバータのロッキー・マウンテン・ハウスから来た,一組の老夫婦が交じっていた。ふたりとも神の真理を長年求め続けて,いろいろな教会と関係した後,約1年前にエホバの証人と聖書の研究を始めた。「もう暗中模索する必要はありません。とうとう真理を見いだすことができて,ほんとうにうれしく思います」と,72歳になるその妻は語った。また,80歳になる夫は,「こんなに大ぜいの親族がいるとは知りませんでした」と付け加えた。

      ケベックのシャーブルック大会で浸礼を受けた151人の中には,リービスから来たひとりの婦人がいた。彼女が聖書の研究を始めた時,夫はそれに反対し,家から追い出すぞと言っておどしたうえ,妻の聖書文書を破った。しかし,家事を果たしながら,その婦人は研究を続け,ついにバプテスマを受けた。夫のほうはというと,彼も6か月ほど前に,やはり浸礼を受けた。いったい,なにごとが起こったのであろうか。約1年前,6歳になる娘から就寝前に本を読んでくれるよう頼まれたのがきっかけとなったのである。同意した父親に,娘は「失楽園から復楽園まで」と題する本を手渡した。父親はその内容が気に入り,やがて,「とこしえの命に導く真理」と題する本を求めることになった。そして,その本を読んでから,聖書研究を申し込み,1969年に浸礼を受けた。

      10の大会中,浸礼者の数が一番多かったのはトロント大会であった。662人が浸礼を受け,神の善意の人々になる願いを明らかにした。平和を与えてくださる神,エホバに対する献身を表わし,カナダの10都市における大会でバプテスマを受けた人は合計2,012名であった。

      予想を上回った出席者数

      畑にトラクターを止めたまま,レジャイナの大会を目ざして人々がやってきた。また,真夏の農地をあとにした多くの家族が,草原を横切ってレジャイナに集まった。大会に出席するため,多くの人は何週間も前から慎重な計画を立てねばならなかったが,実際に出席して,なんという喜びを味わえたのであろう! 3,500人の出席者が予想されていたが,折りたたみ式のいすを持ってきた人がいたのはよかった。なぜなら,大会最終日の,「王国によって,人類を救う」と題する講演には,実に5,533名もの出席者があったからである。

      10の大会会場のいずれもそうであったが,スー・セント・マリー大会の会場に集まった群衆の中を通り抜けながら,人々は,そこに漂う平和と満足感に打たれずにはおれなかった。同時に,予想された2,500人をはるかにしのぐ出席者があったため,感激させられもした。公開講演の出席者は何人であったろうか。なんと,合計1万1,054人にも達した。

      エドモントンでは,エドモントン・ガーデンズほどもある大きな建物が借用されたのはよかった。4,500人の出席者が予想されていたが,大会の初日から,会場内の7,000脚のいすが全部必要になることは,目に見えていた。日に日に出席者が増加する時の感激を想像していただけるだろうか。出席者はついに,予想のほとんど2倍にあたる8,255人に達した。

      シャーブルックのフランス語の大会の講演会には,4,200脚のいすのあるパレ・デ・スポールに,合計4,564名の人々が集まった。初日に比べて,実に40%近い増加であった。また,2,500人の出席者が予想されたアマーストの大会会場は,6,221名の人々でいっぱいになった。人口わずか1万500人ほどの一都市にとって,これはたいへんなできごとであった。アマーストの大会は,カナダ沿海州においては,前例を見ない最大の大会となった。

      トロントの大会では,約1万6,000人の出席者が予想されていたが,公開講演にはその2倍近い,3万1,272人が集まった。それは,カナダで開かれた一連の地域大会における最高数であった。聖書の希望の音信に対する関心は,確かに非常な勢いで高まっており,その結果,10の大会会場のいずれにおいても予想を上回る出席者があったわけである。

      広報

      報道機関が,幾つかの大会の模様を取りあげたが,その報道内容はりっぱなものであった。たとえば,スー・セント・マリーのCKCYのFM放送局は,出席者が多すぎて聞けない人が出ることを心配して,プログラムのある部分を録音して放送したいと申し出た。金曜日の夜,聖書のエステル書に基づく劇を始めから終わりまで中継放送し,さらにその翌日,AM放送を使ってその録音を再放送した。

      カナダ放送局のフランス語放送の人々は,シャーブルック大会のハイライトを2日間にわたって撮映した。フランス語の新聞,「ラ・トリブューヌ」紙は,大会の2日目に,第一面の約30%をさいて大会の報告を掲載した。3日目からは,紙面の半分以上が大会の写真でうまることもあった。

      平和を愛する証人に対する一般の評

      エホバの証人の間に見られる平和と秩序正しさは模範的である,と大会都市に住む多くの人々が語った。スー・セント・マリー市民の感想は,ひとりの警官の語った次のことばにいみじくも要約されよう。「皆さんは,私たちの町に平和な精神をもたらしてくれました」。

      アマーストのある婦人は,自分の家に泊まったエホバの証人についてこう語った。「あなたがたは全然騒がないんですね。8人の人々が4日間泊まったのに,皆さんがいるのかいないのかわからないほどでした」。モーテルの経営者はこう語った。「今までここで泊まった人々の中で,最善の客です。いついらっしても歓迎しますよ。…エホバの証人には,確かに私たちにないものがあるんですね」。また,警察署長の評は次のとおりである。「毎年でも来てもらいたいですね。1年に2度来ていただいても,私にはいっこうにさしつかえありません」。

      プリンスジョージ大会における,エホバの証人の秩序正しさと清潔さとに注目した,衛生局の検査官はこう語った。「このことに関しては,皆さんのほうが私より専門家かもしれませんよ」。

      トロント市のウッドバイン競技場の管理者のひとりは,庭師が月曜日の朝にやってきた時,「花1本も折られていないのを見て」たいへん驚いたと語った。大会中,同競技場の警備員は,“ウッドバインをきれいに保とう”と書かれたサインを指さしながら,エホバの証人について次のようにある報道員に語った。「このサインを守ろうと,ほんとうに努力している人たちを見たのはこれがはじめてです」。

      トロントのテレグラム紙も,エホバの証人について次のような評を載せた。「証人たちの正直さと忠誠さは,とおりいっぺんのものではない。証人たちに対する一般の考え方がどうであろうと ― 大ぜいの人は多くの点で彼らを批判的な目で見るが ― 証人たちは模範的な生活を送っている。しかも,彼らは,すべてのことに関して,みんなが全く同じように信じている」。テレグラム紙はさらにこう評した。「これほど親切な人に会えるものではない」。「何千人も集まっているのに,押し合いへし合いがあるわけではなく,炎天下だというのに,いらいらした人ひとり見当たらなかった」。「証人たちは反国家的ではない。ただ,エホバを愛している,ということである」と,テレグラム紙は述べ,次のように付記した。「証人たちは徴兵カードを焼いたり,抗議デモをしたり…扇動になんらかの形で加わったりはしない」。a

      現在の事物の体制が,全世界にわたって非常な勢いで悪化してゆくにつれ,地上で平和を実践しながら,異なった社会を構成する住民の集団が地上にいるということが,物事をはっきりと考える人にはいっそう明らかになってきている。

      平和を追い求めるエホバの証人の行状が真実に愛に基づいていることは,アマーストで起きた次の事件からもよくわかる。大会に出席していたある人のトレーラーが火事にあって,家族は何もかも失ってしまった。しかし,その火事の後,30分とたたないうちに,別のトレーラーを使ってもらいたいと,その家族に申し出る人があり,他の証人たちはその夫婦と子どもたちに衣服を与え,大会中に不自由をしないよう,また,無事に家に帰るよう必要なお金を寄付した。

      それは何を実証するか

      それらの大会の主目的は,エホバの証人を教育して,彼らの益を図ることであった。とすれば,そうした大会はあなたにとってどんな意味を持っているのであろうか。

      エホバの証人に関して,一般の人々が語ったことを覚えておられるだろうか。―『正直な人』『忠誠な人』『最善の客』。トロントの報道カメラマンは,そうした評に対して異議を唱えることはしないであろう。彼は自動車のトランクのかぎあなに,かぎを差し込んだままにしたことを思い出して,大会の駐車場に止めておいた自動車の所にあわてて引き返した。自動車の中には,何百ドルもする写真機の備品がはいっていたのである。駐車場に着いてみると,トランクのかぎはかかっていた。あるエホバの証人がかぎをかけてくれたのである。そして,かぎは「落し物,荷物預かりの部門」にとどけられていた。そのかぎを手にしたカメラマンはどんなにほっとしたことであろう。そうした証人たちの間で生活するのは,とても楽しいことではないだろうか。

      清潔で,秩序正しい? そのとおりである。シャーブルック市長は,次のように述べた。「市会議員のひとりが大会会場を訪問しました。…彼が言うには,4,000人もの人々が集まった会場で,紙くず一つ,たばこの吸いがら一つ落ちていないのを見たのは,これがはじめてだ,とのことです。私は,皆さんのように清潔で,秩序正しい人たちを見たことがありません」。そうした人々と交わりたいとは思われないであろうか。

      エホバの証人が一致を享受しており,彼らの間には“世代の隔たり”さえないということは,シャーブルック市のある報道員の感想からもうかがわれる。「パレ・デ・スポールの会場にまぎれ込んだ“俗人”にとって,エホバの証人は,聖書にしるされている事柄に従って生活しようと,いっしょうけんめい努力している平和な人々として映りました。それに,家族ぐるみで出席する大会というのは珍しいことです。その大会では,老いも若きも,それにまだ何もわからない赤ちゃんまでが,むつまじそうにしていました」。

      真のキリスト教は,利己的な人間が設けた国家的また人種的な障壁を踏み越えるものである。エホバの証人のそれらの大会には,人種差別に抗議する叫びは全然聞かれない。それどころか,エホバの証人となった多数の移民のために,特別な集会が開かれさえした。ブリチッシュコロンビアのバンクーバーで開かれたギリシア語とイタリア語の集まりには,それぞれ65人,106人の出席者があった。レジャイナとウィニペグで開かれウクライナ語の集会には,それぞれ146人,209人が出席した。スー・セント・マリーのフィンランド語の集会には,67人が出席し,エドモントンのイタリア語の集まりには,35人が出席した。トロントでは,いろいろな住民からなる国際都市の性格を反映するものとして,全部のプログラムがイタリア語でも組まれ,その集まりに1,565人が出席した。プログラムの重要な部分は,スペイン語・ポルトガル語・ギリシア語で繰り返され,それぞれ111人,84人,334人の出席者があった。

      大会出席者の中に,どれほど深い専心の思いを持つ人がいたかは,必ずしも出席者すべてが健康で,どこにでも楽にいけるわけではないことを考えると,いっそうはっきりしてくる。70代のひとりの老人は,ガンにかかっているにもかかわらず,どうしてもバプテスマを受けたいという決意をこの大会で果たした。そういう人にとって神との親しい関係にはいることが,どれほど深い意味を持つかを,人々は考えさせられずにはおれなかった。

      きたるべき「大かん難」の際,エホバ神は地を清められるが,そのあと,この地上に住むのはそうした人々である。であれば,地上に恒久平和が訪れることを,どうして疑いえようか。この記事に掲載した公平な評からも,平和を追い求める人々が今すでに実在していることが明らかである。(ペテロ前 3:8-11)大会にかぎらず,エホバの証人の王国会館において毎週,そうした平和と健全な交わりを諸者は味わうことができるのである。

      以上の事柄をご自分で確かめて,道徳を守る人々との交わりと,幸福と一致そして平和を今享受されることを,わたしたちは望んでいる。そうした特質は,現代の一般社会にはごくまれにしか見られないが,エホバの証人の間では顕著に見られ,しかも増大している。その理由をつきとめていただきたい。それはあなたと,あなたの愛する人々との永遠の幸福にかかわる問題なのである。

      [脚注]

      a 1970年7月11日,25日,28日付,テレグラム紙

      [17ページの写真]

      ペルシアの王とハマンのために,エステルが設けた宴。ケベック州シャーブルックで演じられた劇

      [18ページの写真]

      カナダの「善意の人々」大会中,最大の出席者を収容したトロントの会場の一部。出席者は合計31,272人

  • 妊娠中絶手術 ― 一医師の見解
    目ざめよ! 1971 | 1月22日
    • 妊娠中絶手術 ― 一医師の見解

      30年も外科医をしていれば,いろいろなことを経験する。しかし,1970年8月11日の朝見た光景には,いささかどぎもをぬかれた。それはニューヨーク州で医師が自由に妊娠中絶手術を行なえるよう法律が改正されてから,はじめてブルックリンの病院に出勤した日のことであった。

      その日に予定しておいた手術を行なうため,手術室の近くまできたとき,まっ先に私の目にはいったのは,手術室の外の廊下に並ぶ運搬車[4個の車のついた仮寝台]の列であった。どの運搬車の上にも,手術前に飲まされた薬で意識のもうろうとした若い女性の患者が横たわって中絶手術の番を待っていたのである。三つのへやからなる手術室にはいると,全員 ― 医師,看護婦,麻酔医,雑役夫,その他の助手 ― が中絶手術ということで,ふだんよりも緊張して働いているのがすぐにわかった。中絶手術は,15分にひとつの割で行なわれていた。

      病院で働く人々の強烈な反動

      その日の手術予定表を調べてみると,私の担当する手術だけが,いわゆる“正真正銘”の手術で,あとの24例はすべて妊娠中絶手術であった。手術関係者たちがそうした事態に気を重くしていることは明らかであった。その日には私だけが,ほんとうの意味で手術をしていたので,少々場違いな気持ちがしますね,と言うと,麻酔医のひとりで全く未知の一医師が,手術室を横ぎってやってきて,私に握手をするなり,ひと言もいわずに去っていった。私はそれを,私の嫌悪の情に対する同感の表明と受け取った。

日本語出版物(1954-2026)
ログアウト
ログイン
  • 日本語
  • シェアする
  • 設定
  • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
  • 利用規約
  • プライバシーに関する方針
  • プライバシー設定
  • JW.ORG
  • ログイン
シェアする