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  • 愛はあわれみぶかい。あなたは?
    ものみの塔 1961 | 4月1日
    • からはずれています。生命の権利をもっておりません。

      それゆえ,ヨハネ第一書の4章16節が述べているごとく,私たちは感謝することができます,「神は愛である」。(新口)この愛のゆえに,エホバは公正をあわれみで和らげ,信ずる者が生命を得るように,御自分の御子をあがないの犠牲として備えられました。もし,神の愛にならい,神の御心を行なうなら,子供を許すお父さんのように,エホバはやさしく,あわれみ深く私たちの悪に向く傾向を見のがして下さいます。「ほむべきかな,わたしたちの主イエス・キリストの父なる神,あわれみ深き父,慰めに満ちたる神」。―コリント後 1:3,新口。

      私たちに対する神の愛とあわれみを認めて有難く思うなら,それをほかの人にさしのべなくてはなりません。一方,エホバによりあわれみを示されておりながら,ほかの人にあわれみを示さず,「兄弟の目にあるわら」を指摘し,自分の目の中にある梁のような大きなものを見のがしてしまうなら,神が私たちにもうあわれみを示して下さらないのも当然ではないでしょうか。イエスはそうだと言いました,「もしも,あなたがたが,人々のあやまちをゆるすならば,あなたがたの天の父も,あなたがたをゆるして下さるであろう。もし人をゆるさないならば,あなたがたの父も,あなたがたのあやまちをゆるして下さらないであろう」。―マタイ 6:14,15,新口。

      罪深い女

      ある日イエスはパリサイ人と一緒に食事をしていました。その時にあわれみとゆるしを受けたり,さしのべたりする必要を指摘する機会が,もう一度イエスにやってきました。その記録はこうです,「するとそのとき,その町で罪の女であったものが,パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて,香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて,泣きながら,イエスのうしろでその足もとに寄り,まず涙でイエスの足をぬらし,自分の髪の毛でぬぐい,そして,その足に接吻して,香油を塗った。イエスを招いたパリサイ人がそれを見て,心の中で言った。『もしこの人が預言者であるなら,自分にさわっている女がだれだか,どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから』」。―ルカ 7:37-39,新口。

      このパリサイ人は罪の女を見下し,イエスもそのようにすべきだと思いました。イエスは彼の偽善的な考えを見ぬいていました。「そこでイエスは彼にむかって言われた,『シモン,あなたに言うことがある』。彼は『先生,おっしゃってください』と言った。イエスが言われた,『ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが,ひとりは五百デナリ,もうひとりは五十デナリを借りた。ところが,返すことができなかったので,彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで,どちらが彼を多く愛するだろうか』。シモンが答えて言った,『多くゆるしてもらったほうだと思います』。イエスが言われた,「あなたの判断は正しい』。それから女の方に振り向いて,シモンに言われた,『この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に,あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが,この女は涙でわたしの足をぬらし,髪の毛でふいてくれた。あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが,彼女はわたしが家にはいった時から,わたしの足に接吻してやまなかった。あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが,彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。それであなたに言うが,この女は多く愛したから,その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は,少しだけしか愛さない」。―ルカ 7:40-47,新口。

      敬虔そうなパリサイ人は負けました。無情なパリサイ人は罪の女が自分の威厳を傷つける者であり,また自分の注意を払うに価しない者だと思いました。同時にこのパリサイ人はイエスに敬意を表しませんでした。しかしこの罪の女は表しました。ほかの人が考えていたようにその女がパリサイ人よりずっとわるい罪人だったからではありません。たぶんその反対だったでしょう。これはイエスがほかの機会にパリサイ人に関して述べた意見からみても明らかです。あわれみと許しの必要を認めたのは彼女でした。自分の罪の実体を更に確かに,また更に深く認識したのはこの女でした。また彼女は自分の行いにより,愛を示す必要性も認めていたということがわかります。パリサイ人はこの中のどの必要性も感じませんでした。彼は自分が正しく,悔い改めの必要はないと思いました。このため,女がなしたような愛の行為が必要だとは思いませんでした。キリストに対する彼の愛はそのように大きいものではありませんでした。他の罪人に対してあわれみと愛をさしのべなかったため,彼の罪は一層大きくなりました。イエスは女に告げました,「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。―ルカ 7:50,新口。

      あなたのなすべきこと

      今日の愛のない世界はちょうどパリサイ人のようです。その冷い,無慈悲ないきかたは,何億という人々の生活をうちこわしています。この世は憎しみをまいています。愛を刈り取ることは不可能です。ノアの日の洪水以来,エホバは4000年以上にわたり,この世にあわれみをあらわしてきました。そのあわれみをさし控える時はきます。ハルマゲドンの宇宙的な戦争の時に,エホバは正当なこととして,愛のない無慈悲なものを滅ぼします。それはこの摩擦の多い世におそう,類を見ぬ苦難の時です。あわれみ深くし,またとがめだてをしない事により自分の愛を証明した者は,救われて新しい世に導き入れられます。そこでは神の愛ある御手のもとに,人々は徐々に完全になります。

      正義を愛する人はすべて,この回復される楽園を願い求めることでしょう。あなたはどうですか。もしそれを願い求め神の是認を受けて,きたらんとする世界の危機にあわれみを受け保護されたいならば,隣人に対してあわれみを示す方法を学び,愛をつちかうべきであります。あなたの愛ある行為に対して相手が反応しなくても,気にしないで下さい。愛を示しても,相手がなおも愛を示さず無情であるなら,その人が負けたことになります。その人はエホバの前に責任をとらねばなりません。しかしあなたは愛とあわれみを示し続けたので神を喜ばすことができたのです。

      罪の女のごとく,あなたの愛とあわれみを認め,神の目的を理解するようになる人もいます。ユダ書 22と23節はこう述べています,「疑いをいだく人々があれば,彼らをあわれみ,火の中から引き出して救ってやりなさい。また,そのほかの人たちを,おそれの心をもってあわれみなさい。しかし,肉に汚れた者に対しては,その下着さえも忌みきらいなさい」。

      現在の幸福と,神の新しい世における永遠の生命は,愛とあわれみに富む生活をすることによって得られます。イエスは言いました,「あわれみ深い人たちは,さいわいである,彼らはあわれみを受けるであろう」。神がつくる楽園の地で永遠の生命を得たいと望むなら,他人を非難せず,むしろ愛に富みなさい。あらさがしはほどほどにし,あわれみの気持をゆたかに持ちなさい。そうすることにより,神に似ることができます。なぜなら「ヱホバはあはれみと恩恵にみちて怒りたまふことおそく,いつくしみゆたかにましませり」。―マタイ 5:7,新口。詩 103:8。

  • どの国をキリスト教の国と呼べるか
    ものみの塔 1961 | 4月1日
    • どの国をキリスト教の国と呼べるか

      ビー・エイ・トビンは,ビクトリア・タイムスの中で次のように述べています,「人々は,もし住民のごく一部がほんとうにキリスト教の教理を信じているなら,その国をキリスト教の国と呼べるかと尋ねる。エッチ・エル・メンケンは,かつてこう書いたことがある,『キリスト教国というのは,たとえばある人が立ち上がって,私はクリスチャンですという場合,聞き手がみな笑うような国のことである』。30年まえはそうだった。いまでは彼らは笑うほどの関心ももっていない」。

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