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メシアは苦しみに遭い,死ぬことになっていたのか目ざめよ! 1983 | 6月22日
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触れられていますが,ヘブライ語聖書の別のくだりでは代理として苦しみに遭って死ぬことにより成し遂げられる贖いのことがはっきりと描写されています。この預言には,ある人が苦しみに遭って死ぬことにより,他の人々の罪のために贖いを備える様が明確に述べられています。実際のところ聖書は,その人の魂が他の人々の罪のための罪科の捧げ物になるとまさに述べているのです。イザヤ 52章13節から53章12節(リーサー訳)の中で,神のこの僕について述べられている事柄に注目してください。
「彼はさげすまれ,人々に疎まれた。痛みの人で,病気をよく知っていた。そして,わたしたちから自分の顔を隠した人のように彼はさげすまれ,わたしたちは彼を重んじなかった。しかし,彼は自らわたしたちの病気だけを負い,わたしたちの痛みを担ったのである。……それでも,彼はわたしたちの違犯のために傷つけられ,わたしたちの罪悪のために砕かれた。わたしたちの平安のために懲罰が彼に臨み,その打ち傷によってわたしたちにいやしが授けられた。……主はわたしたちすべての罪科を彼の上に臨ませた。……彼が命の地から断たれ,わたしの民の違犯のために災厄が彼の上に置かれたことを,だれが告げられるであろうか。……彼の魂が罪過の捧げ物をもたらした[「そのものを賠償としてささげる」,ユダヤ出版協会訳]この時になって,彼は自分の胤を見,多くの日々生き,主の喜びが彼の手で栄える。その魂の難儀から解かれ,彼は良いことを見,満ち足りるであろう。わたしの義なる僕は自分の知識によって,多くの人々を義に導き,彼らの罪悪を負うのである。ゆえに,わたしは多くの者と共に彼に受け分を分かち,彼は強い者と共に分捕り物を分かつであろう。自分の魂を死に至るまで注ぎ出したからである。……一方,彼は多くの人の罪を負い,違犯をおかす者たちのために悪を自分に臨ませた」。
「罪過の捧げ物」として「わたしたちの罪悪のために砕かれ」,それによって「わたしたちすべての罪科」を負う一人の人により義がもたらされる,とイザヤが語っていることに注目してください。ダニエル 9章24節から26節の聖句はメシアがそのような贖いを備えることを示しているので,イザヤ 52章13節から53章12節もやはりメシアの業に言及しているに違いありません。
矛盾の解き明かし
しかし,メシアが他の人々の罪を贖うために苦しみに遭って死ぬのであれば,どうしてメシアは王として支配できるのでしょうか。イザヤもその点について預言しました。イザヤ自身メシアについて,「彼の魂が罪過の捧げ物をもたらしたこの時になって,彼は……多くの日々生き」,「彼は強い者と共に分捕り物を分かつであろう。自分の魂を死に至るまで注ぎ出したからである」と述べた時,一見矛盾と思われるこの点に触れていました。一見すると矛盾と思われるこのようなことは実際にどのようにして起こり得るのでしょうか。「自分の魂を死に至るまで注ぎ出し」た後に,人が「多くの日々生き」ることが一体どのようにして可能なのでしょうか。
神の別の僕もかつて尋ねましたが,「もし人が死ねば,また生きられるでしょうか」。(ヨブ 14:14)ヘブライ語聖書はそれに対して,はっきりした肯定の答えを出しています。そこには,神の預言者たちが死者を生き返らせた事例が記されているだけではなく,「地の塵の中に眠る者たちの多くが目を覚ます」時についても述べられています。―ダニエル 12:2。列王第一 17:17-24; 列王第二 4:32-37; 13:20,21と比較してください。
ですから,神のみ言葉が成就されるには,メシアもやはり生き返らされる,つまり復活させられなければなりません。そうして初めて,メシアは王として支配し,人類にさらに祝福をもたらすことができるようになるのです。ですから,「汝はわが魂を墓に捨て置くことなし」というダビデの言葉は,適切にもメシアに当てはまるのです。―詩編 16:10,リーサー訳。
イエスの1世紀のユダヤ人の弟子たちは,やがてこれらの聖書預言をそうした仕方で理解するようになりました。ですから,イエスの苦しみと死は,イエスがメシアではないとする根拠とはもはやみなされなくなりました。事実,そのような出来事はイエスがメシアであることを確かに示す証拠とみなされるようになったのです。
どうして受け入れるのがそれほど難しいのか
しかし,当時のユダヤ国民の大半は,苦しみに遭って死んでゆくメシアというこの概念を受け入れるのを難しく感じました。これは当時民衆の間でもてはやされていた信条のためだったに違いありません。例えば,モーセの律法,トーラーを守ろうとする自分たちの努力を通して,邪悪へと向かう生来の傾向を完全に克服することは可能であると信じるユダヤ人は少なくありませんでした。そのような人々は自分たち自身で,「罪の終わりをもたらし」たいと願っていました。その結果,メシアが死んで,自分たちの罪を贖ってくれる必要を認めなかったのです。
民衆の間でもてはやされていた別の教えは,ユダヤ人は単にアブラハムの子孫であるというだけの理由で神により義と宣せられることになるという教えでした。ここでも,ユダヤ人が自動的に義とされるなら,メシアが「多くの人々を義に導(く)」必要もないわけです。確かにクラウスナーの述べたように,「死に処せられることになるメシアという概念全体は……ユダヤ人にとって……理解しかねるものであった」のです。
イエスの死後100年ほどの間,ユダヤ民族は死に処せられるメシアというものを信じようとしませんでした。ところがその後,そうした考え方を変えるある出来事が起こりました。それは何でしたか。
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ユダヤ人の期待はどうなったか目ざめよ! 1983 | 6月22日
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ユダヤ人の期待はどうなったか
バビロニア・タルムードとして知られる,古代ユダヤ人の著述を集大成したものには,2世紀初頭にまでさかのぼる,メシアに関する次のような注解が含まれています。
「『そしてその地は嘆くことになる』(ゼカリヤ 12:12)。この嘆きの理由は何であろうか。……ラビ・ドサはこう述べている。『[彼らが嘆くのは]打ち殺されることになるメシアのためである』」。
奇妙なことに,このくだりはメシアを打ち殺される者として語っています。しかし,そのような概念は1世紀のユダヤ人には理解しかねるものであったことをわたしたちは見てきました。見解がこうして変わったことにはどんな原因があるのでしょうか。
死んでゆくメシアという概念は,西暦2世紀になってから,それも特にシメオン・バル・コクバの死後,民衆の間で広く受け入れられるようになったと思われます。バル・コクバは武人で,政治的な革命家でした。そして,メシアとして広く歓呼して迎えられました。「ラビの聖人すべての中でも最も影響力の強い人物」と呼ばれているラビ・アキバ・ベン・ヨセフでさえ,バル・コクバをメシアとして迎えました。
やがてバル・コクバはユダヤ人の反乱軍を率いてローマ政府に対して立ち上がりました。ローマの軍団に対して当初勝利を収めた後,バル・コクバは戻ってきたローマ軍を3年にわたって追い払いましたが,その戦いで50万人のユダヤ人の命が失われました。しかし,西暦135年にその反乱は鎮圧され,バル・コクバは殺されました。
そうなってしまって,バル・コクバを心から支持した世代の人々は奇妙な状況に置かれているのに気付きました。バル・コクバの死はメシアの希望だけでなく,ラビ・アキバの名誉にも疑問を投げかけるものとなりました。エルサレムにあるヘブライ大学のヨセフ・ハイネマン博士は,バル・コクバの死が当時の人々に及ぼした影響を次のように説明しています。
「この世代の人々は,バル・コクバが失敗したにもかかわらずメシアであったことを擁護するという不可能な事柄を,どんな手段に訴えてでも成し遂げようとしたに違いない。この矛盾した状況にぴったりの説明として,戦いに倒れる運命にありながら,なおかつ真の贖い主としてとどまる闘争的メシアという,高度に二面性を持つ伝説以上のものは考えられなかった」。
しかしユダヤ人は,死んでゆくメシアというこの概念とメシアが王として支配するという事実とをどのようにして両立させることができたのでしょうか。ラファエル・パタイは次のように述べています。
「このジレンマはメシアという人物を二つに分けることによって解決された。そのうちの一方は,メシア・ベン・ヨセフ[すなわち,ヨセフの子]と呼ばれ,イスラエルの敵に対してイスラエルの軍を起こし,数々の勝利と奇跡の後に,犠牲になる。……もう一方は,メシア・ベン・ダビデ[すなわち,ダビデの子]で,前者の後にやってきて……イスラエルを導き,最終的な勝利,勝利の喜び,またメシア時代の祝福へと至らせる」。
死にゆくメシアというこの特色はバル・コクバの死後幾年かにわたってさらに発展し続け,戦場で死ぬことになる,さらに将来に現われるメシアに当てはめられるようになりました。パタイはこの点をはっきりさせるためこう説明しています。「人は次のようなことを理解しなければならないのかと疑念を抱く。……すなわちヨセフの子としての[メシア]は日々の終わりの門口で死ぬが,ダビデの子となって生き返り,先に肉体を着けていた時に自ら始めた任務を完成させる,ということである」。
これは1世紀のクリスチャンの信条と実に奇妙な対応をなしています。いずれのグループも,予告された平和の時代の前に死んで,それから復活させられることになるメシアへの信仰を言い表わしていました。
新たな異議が唱えられる
西暦後の最初の数世紀間に,異教のローマ帝国はローマ・カトリック教に改宗しました。そしてイエスに従うと唱える人々の間にユダヤ人排斥主義が広まりました。それに続く歳月の間に,ユダヤ人は十字軍や異端審問などの残虐行為を目撃しました。そうした行為は,「汝の隣人を己のように愛せよ」という神の律法に明らかに違反するものでした。(レビ記 19:18)さらに,イエスに従うと唱える人々は,三位一体の神を崇拝するというような非キリスト教的な信条を取り入れました。ところが,モーセは,「主は一つなり」と教えていたのです。(申命記 6:4)ですから,メシアであるのに死んでゆくというイエスに対する従来の異議はもはや正当なものとみなされなくなりましたが,新たな異議が唱えられるようになったのです。それは,イエスに従うと唱える人々の非聖書的な行動や信条に対する異議でした。ですから,ユダヤ教はキリスト教を退け続けたのです。
メシア ― 現実か理想か
古代イスラエルのメシアに関する希望は,幾世紀もの間続きました。例えば,中世のラビ,マイモニデスは“13か条の信仰告白”を制定した時,次のような言葉を含めています。「私は,メシアが来ることを全き信仰をもって……信じる。たとえそれが遅れようとも,私は毎日その到来を待ち続ける」。
ところが,さらに現代に近くなると,多くのユダヤ人の間で実在者としてのメシアという概念全体が忘却のかなたに押しやられてしまいました。例えば,1世紀前にヨセフ・パールは,「真に教養のあるユダヤ人は決してメシアを実在の人物として描くことはない」。
そのようなユダヤ人はメシアを実在の一個人として見るのではなく,理想像とみなします。ですから,メシアについて語るよりも,メシアの時代について語ることのほうを好みます。しかし,実在者としてのメシアなしには,メシアの時代もあり得ません。
では,このメシアはいつ来ることになっていたのでしょうか。ヘブライ語聖書は何と述べていますか。
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メシアの出現 ― いつのことか目ざめよ! 1983 | 6月22日
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メシアの出現 ― いつのことか
バビロニア・タルムードの中には,ヨナタン・ベン・ウッジエルにまつわる興味深い言い伝えが残されています。この人は,ヘブライ語預言書のアラム語意訳 ― タルグムとして知られる ― の翻訳者でした。この言い伝えによると,ヨナタンはヘブライ語聖書の最終部分である聖文書<ハギオグラファ>をアラム語に訳したいと思いましたが,「天の声」がヨナタンに思いとどまるように命じた,とされています。それは,聖書のその部分がメシアの出現の日付を含んでいたからです。
興味深いことに,メシアに特に言及するものとして既にわたしたちが調べたダニエルの預言(ダニエル書は聖文書<ハギオグラファ>の一部)には,メシアの出現に関する年代上の情報が確かに含まれています。ダニエル 9章24節から27節(ズンツ訳)に述べられていた事柄をもう一度考慮してみましょう。
「あなた方の上とあなた方の聖なる都市の上に七十週(年)が定められている。それは背教を抑え,罪の終わりをもたらし,とがを贖い,永遠の救いをもたらすためである。……そしてあなた方は次のことを知り,また理解するであろう。エルサレムを建て直せという布告が出てから君なる油そそがれた者まで,七週(年),また六十二週(年)がある。それで,市の立つ広場や堀は建て直され,それは圧迫の時代になされるであろう。そして,その六十二週(年)の後に,油そそがれた者は滅ぼされることになる。……そして彼は一週(年)にわたって多くの者と強力な契約を結び,その週(年)の半ばに犠牲と供物を無効にする」。
この期間が「七十週(年)」と呼ばれていることに注目しましょう。ここで用いられているヘブライ語の表現は,字義通りには「七十週」あるいは「七十の七個群」を意味します。しかし,ユダヤ人の学者たちは一般に,各週は七日間の長さではなく,むしろ七年間の長さであると理解しています。したがって,ラビ・レオポルド・ズンツは,上記の翻訳の中でこのヘブライ語を「七十週(年)」と訳しているのです。(「週年」と訳しているモファット訳もご覧ください。)ですから,「七十週」の期間全体は490年に及びます。
この490年にわたる期間はいつ始まるのでしょうか。この預言によると,出発点になるのは「エルサレムを建て直せという布告が出」る時です。そのような布告が出されたことがありましたか。
ダニエルは生き長らえて,エルサレムに神殿を建て直すようにとの西暦前538/7年に出されたペルシャのキュロス王の布告を知らされました。しかし,エルサレムそのものを建て直すようにとの布告が出されるまでには,それからほぼ1世紀の時の経過を待たなければなりませんでした。ネヘミヤ 2章1節から8節には,アルタクセルクセス・ロンギマノス王がその治世の第20年にそのような布告を出したいきさつが記されています。では,それはいつのことでしょうか。極めて信頼の置ける史料によると,アルタクセルクセスは西暦前474年にその支配を始めました。そうすると,その治世の第20年およびその布告の出された年は西暦前455年ということになります。a ですから,この490年の期間は西暦前455年に始まりました。
厳密に言ってこの490年間のどの時点でメシアは出現するのでしょうか。この70週が三つの期間,つまり7週と62週,そして1週に分けられていることに注目しましょう。それに加えてこの預言によると,メシアは7週と62週の期間がどちらも過ぎ去った後,すなわち69「週年」あるいは483年後に現われることになっていました。それゆえに,西暦前455年から483年たってから,つまり西暦29年にメシアは出現すると預言されていたとの結論に達することができます。
さらに,その預言の示すところによると,メシアは(7週の期間に続く)62週の期間の後に,すなわち最後の1週の期間に,滅ぼされる,すなわち死ぬことになっていました。この最後の7年にわたる期間は,西暦29年から西暦36年にまで及びます。では,この最後の週のいつメシアは死ぬのでしょうか。「その週(年)の半ばに」メシアは「犠牲と供物を無効にする」ことになると述べられています。やはりこの預言が示しているように,メシアの死は罪に対する真の贖いを備えることになります。ひとたびメシアが死ねば,神殿でのいかなる動物の犠牲も無意味なものになるでしょう。ですから,証拠からしてこの預言は,メシアが「その週(年)の半ば」,つまり西暦33年に死ぬことを予告していたと言えるでしょう。
メシアは実際に西暦29年に出現し,西暦33年に死んだのでしょうか。既に見たように,1世紀のユダヤ人たちはその当時熱心にメシアを待ち設けていました。(ルカ 3:15)しかし,1世紀にメシアであると主張したすべての人の中で,西暦29年に世の活動の場に出現し,西暦33年に死んだ人は一人しかいませんでした。それはナザレのイエスです。―ルカ 3:1,2と比較してください。
やはり既に取り上げた点ですが,イエスの1世紀の追随者たちはイエスの生涯中の出来事とヘブライ語聖書の様々な預言とを調和させることができただけでなく,イエスがその死後たびたび現われたことにより,イエスが復活させられていつの日か戻ってこられ,メシアなる王として支配し,予告された平和の時代をもたらすことを確信していました。
そうすると,今日のわたしたちはどんな立場に置かれていることになるでしょうか。イエスが死んでからこれまでにほぼ2,000年が過ぎましたが,予告された平和の時代をわたしたちは見ていません。しかし,この現在の事物の体制の「終わりの日」および神のメシアによる王国が完全に樹立される時に見られるであろう様々な状態を,イエス自身が予告しています。―マタイ 24章およびルカ 21章。
もしそうであれば,それは次のことを意味します。つまりわたしたちは生き長らえ,「おおかみは子羊と共に宿り,ひょうは子やぎと共に伏し,……ライオンは雄牛のようにわらを食べる」時を,また人々が「傷つけることもせず,滅ぼすこともしない」時を見ることができるということです。―イザヤ 11:1-10。
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