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中年 ― 最良の時それとも危機の時?目ざめよ! 1983 | 5月22日
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中年 ― 最良の時それとも危機の時?
「人生は40歳から!」と一般に言われています。そして“中年”と呼ばれる時期を経つつある人の中には,こうした意見に心から同意する人が多いでしょう。一人の婦人はこう述べています。「本当のことを言って,もう一度18歳になりたいとは思いません。50代に入った今のほうがこれまでの年月よりもずっと幸福です」。
確かに,ある人々にとってこの年代は“最良の時”です。長年の経験を通して少しずつ身に着けてきた知恵を縦横に働かせることができます。それゆえ,自分の能力に自信があり,道理にかなった程度に自分の生活は思い通りになると感じています。子供たちが離れて行ってしまうという見込みさえも,そうした人々を過度に落胆させることはありません。むしろ,自分だけの時間や配偶者と共に過ごすプライベートな時間が増えると考えています。その生活は物憂い生活になるどころか,有意義な活動であふれています。
しかし,それほど楽観的でない人々もいます。そうした人は,『なあに,40歳になったところで何が始まるものか。若さが終わるだけのことだ』と言います。そのように憂慮することにはもっともな理由があるかもしれません。そのような人々は老化の最初の徴候の幾つかを見て当惑し,「自分の目の下のあのたるみを見て,もうおしまいだと思いました。行きつく先はやはり墓場なのです」と述べた男性と同じように感じるかもしれません。
さらに,財政的な問題に悩まされ,孤独感に打ちひしがれるかもしれません。また,健康が徐々に衰えてゆき,つきまとう死の予感に初めて相対し,自分のこれまでの人生は意味のあるものだったのか,将来には本当に何らかの価値あるものがあるのだろうか,と疑念を抱くかもしれません。そして,『もう一度若くなれたらいいのに』とため息をもらすでしょう。
しかし聖書は,「何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです」と指摘しています。(ガラテア 6:7)中年が“最良の時”になるか,危機の時になるかは,その前に人がどのように「まく」かということにかなり関係しています。つまりどのような価値基準を高く評価するか,どんな習慣を身に着けるか,人生のどんな目標を追い求めるか,ということです。大抵の人はやがて中年と呼ばれる時期を経なければならないのですから,その年代の提供する見込みと問題の幾つかを調べてみることにしましょう。
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女性と中年目ざめよ! 1983 | 5月22日
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女性と中年
『幸福度を示す表のトップに挙げられているのはだれか当ててみるとよい』と,「レッドブック」誌は述べています。5万2,000人の女性を対象にしたこの調査は,一番幸福な女性は中年の女性であることを示しています。
こうした統計に驚くことはありません。人生に対する若い女性の期待は大抵の場合非常に未熟で,人生の難局に処する備えができていません。一方,年の進んだ女性は失望に打ちひしがれるとはどのようなことか,またどうしたらそれから立ち直れるかをすでに知っています。自分の豊かな経験から,若さに伴う落とし穴を避けるのに役立つ方策を用います。
それでも,「40になるのが怖いこともあります」と,一女性は認めています。「まだまだ若いのですが,自分が中年に入ったことが分かるのです」。西欧文化の中では若さに非常に重きが置かれるため,多くの人が年を取ることを不安に思うのは自然な成り行きです。
例えば,更年期の始まりは多くの人の不安の種になっています。それは身体面での不調が現われる時期の先ぶれとなるだけでなく,今後は出産が不可能になるからです。こうしたことを恐れなければならないでしょうか。
出産は確かに報いのある事柄になり得ます。(詩編 127:3)ですから,人生のこうした部分が終わってしまう時に幾らか寂しい思いをする人がいるとしても,それはごく自然なことです。しかし,中年女性の中には,率直に言って,もう一人の赤ちゃんを持つことに伴って時間やエネルギーが奪われ,感情面でも拘束されるということを望まない人が少なくありません。「40歳以降」という本が述べるように,「ある人々を落胆させるこの区切りは,しばしばほかの人々をそう快な気分にさせる」のです。
とはいえ,出産が不可能になったことを嘆き,むなしさと寂しさを味わっている人はどうしたらよいのでしょうか。子供を育てることだけが人生の中心であったとしたら,中年という年代はひどい苦痛を与えるものになりかねません。しかし,イエス・キリストは,人生には単に子供を育てることよりも崇高な目的があることを示されました。ある時ひとりの女性が,「あなたをはらんだ胎と,あなたが吸った乳房とは幸いです!」と叫びましたが,イエスはこうお答えになりました。「いいえ,むしろ,神の言葉を聞いてそれを守っている人たちこそ幸いです!」―ルカ 11:27,28。
神に仕えることを中心に生活している人々,また敬虔な価値基準や原則に対する認識を「まいて」きた人々にとって,子供を産める年代が過ぎても人生はむなしいものとは思えません。例えばエホバの証人は,中年をも含め自分たちの人生の歳月を,常に神に対する神聖な奉仕を拡大するための機会とみなしています。彼らは,「息子や娘たちに勝ったもの」,すなわち神との良い関係と神の祝福の約束があることを知っているのです。―イザヤ 56:3-5。
「若さが失われてゆく!」
一人の女性は本心を打ち明けてこう語りました。「しわが目立つようになってくると,それが極端に気になりだします。『若さが失われてゆく』と感じるようになるのです」。
そうです,「美しさは消え失せます」。(箴言 31:30,「今日の英語聖書」)しかし,自尊心がはかない肉体的な魅力だけによっているというようなことがあってはなりません。人の真の魅力は外見にではなく,むしろ,「もの静かで温和な霊という朽ちない装いをした,心の中の秘められた人」にこそあるのです。「それは神の目に大いに価値のあるもの」です。(ペテロ第一 3:3,4)温和・同情心・人をもてなす態度・寛大さなどこの内面的な美しさを培っていれば,年齢とは無関係に美しさを保てるのです!
確かに,なりふりを構わないでよいという訳ではありません。例えば,いわゆる中年太りはふさわしい食事制限と運動とによって大抵予防できるものです。少なくとも抑えることはできます。また,「慎みと健全な思いとをもって」趣味の良い服装をすることができます。(テモテ第一 2:9)「壮年期」と題する本は率直にこう警告しています。「少女趣味的な服装やヘアスタイルをすれば,中年女性の容ぼうや容姿がことさら老けて見えるにすぎないが,大人としてのふさわしい服装やヘアスタイルはその女性の円熟した魅力を補って完成に至らせる」。
しかし,50代の一女性はわたしたちに次のような点を思い起こさせています。「ドレスにしろ,帽子にしろ,ブラウスにしろ,本人が自分自身を重んじていなければ,女性をより良い気分にならせるものではありません。自分が内面的に美しいと感じていなければならないのです」。ですから,顔にしわがふえたからといってくよくよしてはなりません。一人の男性はこのように述べているからです。「苦闘と経験と成長と変化を示し,さらにその上より多くの変化と進歩を遂げる可能性を秘めた顔は美しい顔,本当の意味で若々しい顔です」。
一人暮らしの女性
では,一人で中年に立ち向かわなければならない女性の場合はどうでしょうか。本当の友情を培っておらず,自分の時間を用いる有意義な方法がないなら,孤独感にのみ尽くされてしまいかねません。一方,独身の女性であるローズは,孤独感と闘う秘けつの一つを学び取りました。「人のために働くことです。自分が受けたいと思うなら,人のためになることをし始めるのです。人々と知り合いになるように努めます。やがて人々がそれに応じるようになるので驚かされるでしょう」とローズは語っています。別の女性も同じようにこう提案しています。「人々を自分の家にお呼びするのです。ケーキとコーヒーしかなくても,ちょっとした集まりを持つようにします」。「寛大な魂」は,しばしばいつまでも続く友情という祝福を受けることになります!―箴言 11:25。
言うべきことはさらにたくさんあるとはいえ,中年の時期は,かなりの程度まで,それ以前の時期によって形造られることは明らかです。それでも,更年期や孤独感,それに容姿の衰えさえ,いずれも首尾よく克服することができるのです。そして,現在自分の価値観を変える必要があると思えても,それを変えるのが遅すぎるということは決してありません。正しく「まき」始めるのが遅すぎるということは決してないのです。
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肉体の美しさは衰えるが…
…内面的な美しさは永続的な魅力になる
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男性と中年目ざめよ! 1983 | 5月22日
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男性と中年
「ある日のこと,ひげをそりながら……自分の髪に白いものが目立ちはじめたのに気づきました……目の下がたるんでいるのに気づき,次いで額のしわがふえているのが目にとまりました ― それから自分の顔全体をながめて,ひどいショックを受けました」と一人の男性は回想しています。
必ずしもある日突然,年を感じるわけではありません。しかし,遅かれ早かれ人は階段を上りきると息切れがしたり,1日の仕事を終えると疲れきっていたりすることに気づきます。テレビで中年の心臓発作が多いという話がされると,耳をそばだてるようになります。新聞の死亡告知欄に目を通している自分に気がつくこともあります。また,異性を引きつける力がもはやなくなったと思い込んで,男のプライドが傷つけられて痛みを覚えることもあります。中には自分の性的な力の衰えに気づく男性もいます。
しかし医師たちの話では,男性は普通かなり老齢になるまで生殖力を失いません。言うまでもなく,医学的な問題があるなら,きちんとした治療を受けることができるでしょう。
しかし,研究者のマスターズとジョンソンは,50歳以降になると,「男性の性的不能の事例が著しく増大する」と報告しています。その原因は,数々の身体および感情面の要素にあると思われます。例えば,失敗を恐れることは非常に大きな要素になっていると思われます。一著述家はこう説明しています。「一度でも性的に失敗すると,惨たんたる結果になりかねない。その……男性はそれ以上屈辱を味わわないようにするため,自分の配偶者との性関係をそれ以後差し控えるようになるかもしれない」。
危機の徴候
男性が中年になったことで脅威を感じることがあるのはもっともなことです。男性は自分の若さと個性を保とうとする激しい内的かっとうに自分が巻き込まれているのに気づくことがあります。しかし,その危機は様々な形で現われます。中には“おしゃれの道楽”に血道をあげる男性もいます。洋服の販売員がかつて観察したように,中年の男性は大抵「濃いグレーやブルーの保守的な服装をして[店]に入って来るが,……ベンツが入り,格子柄で金ボタンの付いた服[と]目の覚めるようなピンクのシャツを着て出て行く」のです。
“危機”を示すしるしはほかにもあります。それは生活様式の著しい変化,人が憂うつになり,引込思案で,優柔不断で,物事に無関心になってゆくことです。中には病気になる人さえいます。
しかし,時として突飛なこの行動の根底にあるのは実際には何でしょうか。それはしっかりした価値基準を「まき」,人生に対する現実的な見方を培わなかったことではありませんか。一方,聖書の諸原則に導かれた考え方をする男性はこうした絶望を味わうことはありません。どうしてそう言えるのでしょうか。
一つの点として,そのような人は人生が非常に短く,老化は必然的であるという事実を知っており,その事実を受け入れています。(詩編 90:10をご覧ください。)本人の人間としての価値は,異性に対する自分の魅力によって量られるのではなく,むしろその人の『誇り』は自分と神との関係にあります。(コリント第一 1:31)ですから白髪が目立ってきても必要以上に心を騒がせることはなく,おなかが出はじめてもそれほど気にすることはありません。そうした人は,『自分のことを必要以上に考える』ことの愚かさを知っています。(ローマ 12:3)「慎み」を身に着けるようにという聖書の助言は,自分の限界を現実的な仕方で見るようその人を助けます。(ミカ 6:8)慎みがあれば,服装や身繕いをよく選ぶようにも促されます。なるほど,慎み深くあるからといって,趣味の良い服装をしてはいけないということではありません。いきな服装をすることさえできるでしょう。しかし,西欧の若者の服装の流行を追って,首にかける鎖で胸元を飾ったり体にぴったりしたジーンズを無理にはいたりしようとはしません。その人の服装は年にふさわしい威厳を反映しています。
「身動きがとれない」
中年という年代は男性が自分の人生をもう一度見直す時でもあります。例えば,自分の世俗の仕事 ― その圧力,その単調さ,その不確かさなど ― について深く考えるかもしれません。そして,「自分が20年間してきた仕事で身動きがとれなくなっており,行詰まっている」と語った52歳のセールスマンと同じように感じることさえあるかもしれません。また昇進の面でも,年齢が自分の半分ほどで,経験もはるかに浅い男に先を越されて,ほろ苦い失望を味わい,仕事へ行くのを考えるだけでもいやになることがあるでしょう。
言うまでもなく,仕事中心の生活をしている人は,自分の期待と現実が一致しないと絶望感を味わうかもしれません。職場での境遇が難しいものになると,だれでもつらい思いをします。しかし,聖書の諸原則に導かれる男性は,自分の分野でトップに立つことがなくても,人生に意味がなくなったとは考えません。地位をめぐる対抗心が「むなしく,風を追うようなものである」ことを知っているのです。(伝道の書 4:4)その人は自分の周りの人々が目立とうとして必死になり,健康を損ない,家族生活を台無しにするのを見てきました。しかし自分は,自分の必要を満たす仕事を持っていることに感謝し,それを首尾よく行なうことに満足を覚えています。その人にとって世俗の仕事は生活の中心ではなく,霊的な関心事を追い求める中で自分の家族を扶養し,自分の必要を満たしてゆくための手段にすぎないのです。こうした見方を持っているので,「まことの神が人にお与えになった命の日数の間……そのすべての骨折りによって良いことを見る」ことができるのです。―伝道の書 5:18。テモテ第一 5:8。
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中には若者たちの服装の流行を追って満足を求める人もいるが…
…真の満足はきちんと成し遂げられた仕事から得られる
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結婚生活と中年目ざめよ! 1983 | 5月22日
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結婚生活と中年
最近,中年夫婦の結婚生活について不穏な報道がなされています。例えば,カナダで行なわれた調査によると,結婚してからの年数が増えるにしたがって,夫婦間の交わりが減り,結婚生活からあまり満足感が得られなくなるとのことです。統計上の調査には,45歳以上の夫婦の離婚率が「急増」していることを示すものもあるようです。そしてご自分の結婚生活を考えてみても,以前ほど喜びの源にはなっていないかもしれません。
今日では結婚生活を放棄する人が非常に多いので,夫婦間の問題をわざわざ骨折って解決する価値があるのだろうかと考えさせられることがあるかもしれません。中には,新しい配偶者と一からやり直すことの美徳を称揚しさえする“専門家”なる人々までいます。しかし,そうした道を取る人々の実情はどのようなものなのでしょうか。
不実な振舞い
「お前はもう年を取り過ぎている!」と,一人の中年の男性は恥知らずにも自分の妻に告げました。この男は貪欲にも若い女性と情事を重ねていたのです。妻のほうはそのことを思い起こして,「主人はそれを誇りにしていました。その情事の様子を微に入り細をうがって私に聞かせようとまでしました」と述べています。
結婚してから幾年もたっているのに,男性は ― そして女性も ― どうして自分の配偶者に対してそのように不実に振る舞うのでしょうか。(マラキ 2:14-16)ある人々にとって,“情事”は衰えゆく自負心を高める手段であり,自分が男であることあるいは女であることを実証する機会になっているのです。また,男性は自分の性的な力が衰えてゆくことを恐れ,“自分が男であることを証明”したいと思うかもしれません。
聖書は次のように述べて,姦淫のもたらす結果を見事に描写しています。「しかし,姦淫を犯す男[あるいは女]には少しも分別がない。彼はただ自らを滅ぼしているにすぎない」― 箴言 6:32,「今日の英語聖書」。
ひそかに行なわれる行為がどうして人を『滅ぼす』ことがあり得るのでしょうか。一つの点として,姦淫を犯す人は良心のかしゃくにさいなまれます。前述の高慢な男でさえも,後に,「夜眠れない!」と本心を吐露しました。一方,その人の潔白な妻は安らかに眠れたことを思い起こして,こう述べています。「私には罪悪感は全くありませんでした。エホバの道に従おうと努めていたからです」。
姦淫を犯す者はまた,自分の自尊心と将来の幸福の見込みとを損ないます。(その人が自分の姦淫の相手と結婚したとしても)その新しい妻は本当にその人を信頼できるでしょうか。何よりも悪いことに,そうした不実な振舞いは,当人の神との関係を損ないます。神は,「淫行の者や姦淫を行なう者を裁かれる」のです。(ヘブライ 13:4)利己的にしたい放題のことをするために支払うには高い代価です。
ですからソロモンはこう諭しています。「あなたの水の源[すなわち性的な関心事]が[忠実であり続けることにより]祝福されるように。あなたの若い時の妻と共に歓べ」。(箴言 5:18)とはいえ,年齢にはかかわりなく,夫婦間に性に関する問題の起こることがあります。ですから,聖書は夫婦全般に対して,「互いにそれ[性的に当然与えるべきもの]を奪うことがないようにしなさい」と諭しています。―コリント第一 7:5。
ある結婚カウンセラーが述べるように,意思の疎通が損なわれることが,「長年連れ添った夫婦の抱える一番大きな問題になっている」のです。そのような問題はどのようにして大きくなってゆくのでしょうか。
「一番大きな問題」
男性が仕事を終えて家に帰ると,一番新しい大事件に関するニュースで迎えられます。(「あなた,歯医者さんに行ったらデーブの歯は治療が必要だと言われたわ。」)「昔は,一日のお仕事はいかがでしたか,と聞いてくれたものです」と夫は嘆息します。
しかし,夫婦の会話は,通知表やはしかの注射などに関する話で占められてしまいがちです。子供たちが大きくなって,家を離れて初めて,二人のことを話す方法を忘れてしまっているのに気づく夫婦もいます。
更年期になると妻は思いやりと理解を必要としますが,その時に問題が姿を現わすこともあります。中年の危機と闘っているかもしれない夫は,ひどくけんか腰になったり理屈っぽくなったりするかもしれません。理解のある夫の模範とはとても言えません。
こちらがけんか腰に出ると相手もけんか腰に出ることがあります。「40から50にかけて成功する」の著者はこう述べています。「彼らは口論をし,不平を述べ,がみがみ小言を言う。そして,長年愛し合い,連れ添ってきた者だけにしかできないような仕方で互いを傷つけ合う。互いに相手の特定の弱みや人に知られていない恐れなどを知っており,そうしたことが戦いの際の攻撃の的になる。そうした戦いの激しさは異常とも言える段階に達することがある」。どうしたらこの果てしない言い争いに歯止めをかけることができるでしょうか。
意思の疎通を取り戻す
「愛は辛抱強く,また親切です。……自分の利を求めず,刺激されてもいら立ちません」と聖書は述べています。(コリント第一 13:4,5)ですから自己憐憫を捨てることです! むしろ,配偶者が感じているかもしれない感情面のストレスに対して敏感になるようにします。そして,言い争いに油を注ぐようなことを決してしないようにするのです!「まきがなければ火は消え」ます。―箴言 26:20,21。
配偶者が自分を理解してくれないように感じられて意思の疎通が阻まれているのなら,配偶者に自分がどう感じているかを知ってもらうようにします。確かにこれは,だれにでも容易にできることではありません。自分の恐れや弱さを明らかにすることは,男性にとって特に難しいようです。
アブラハムはユダヤ民族の父祖で,大胆な,行動の人でしたが,自分が恐れている事柄を何も心配せずに妻に話しました。そして,その妻はアブラハムを深く尊敬していました。(創世記 12:11-13; 18:12をご覧ください。)同様の正直さと率直さはあなたの結婚生活を向上させるものになるのではありませんか。
ですから,活気ある結婚生活を送る秘けつは意思の疎通です。確かに,年とともに体は衰え,時には夫婦の一方の衰えが他方より激しいこともあります。しかし,長年にわたって賢い仕方で「まいて」きたなら,結婚生活は単に身体的な魅力以上の交流のあるものになるでしょう。一人の人はそのことをこう言い表わしています。「配偶者との間に本当に親密な関係があれば,それは非常に満足のゆくものです。だれよりも自分のことをよく知っていて,自分がどのように感じているかを理解してくれる人に対しては,自由に自分の感情や気持ちを表わすことができます」。一緒にいて本当に楽しく思える人との交わりを持つことができるのです。そのようなすばらしい結びつきは,しっかりと保ってゆくだけの価値のあるものではありませんか。中年に入ってからの年月が,結婚してこのかた一番親密で,最も満足のゆくものであるのに気がつくことさえあるかもしれません。
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けんかをしますか…
…それとも本当に愛し合いますか
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それは最良の時になり得る!目ざめよ! 1983 | 5月22日
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それは最良の時になり得る!
中年はあなたにとってどのようなものになるでしょうか。“最良の時”になりますか,それとも危機の時になるでしょうか。“最善の時”ですか,“最悪の時”ですか。“人生の新たな局面への発射台”になりますか。それとも沈滞の時となるでしょうか。
ここで再び,「何であれ,人は自分のまいているもの,それをまた刈り取ることになるのです」という聖書の言葉が思い起こされます。(ガラテア 6:7)ですから,中年という年代が自分にとってどのようなものになるかは,かなりの程度本人次第ということになります。
読者がまだ若いかたであれば,このことは人を非常にまじめな気持ちにならせるはずです。中年などまだ遠い先のことのように思えるかもしれません。しかし,そうではないのです。わたしたちの人生は「速やかに過ぎ去り,わたしたちは飛び去ってしまいます」。(詩編 90:10)ですから,霊的に価値のある事柄を今ないがしろにするなら,後からその代償を支払うことになります。つまり人生に対する絶望感と不満を味わうのです。勤勉・自制・知識・理解などを培わないなら,後になって惨めな思いを刈り取ることになります。今,自分の人生から神を締め出してしまうなら,老齢は「災いの日々」になります。それで賢明なソロモン王は,行動の賢明な指針は『まことの神を恐れ,そのおきてを守る』ことであるとの結論に達しました。(伝道の書 12:1,13)しかし,まず最初に神について学ばなければなりません。その良い出発点となるのは神のみ言葉の研究です。
新たな出発
すでに中年またはそれ以後の年代に入っていて,正しい価値基準や原則に対する認識を「まいて」こなかったことに対する代償を今支払っているとしたら,どうしたらよいでしょうか。今こそ歩みを変える時です。
『でも,どうやって?』とお尋ねになることでしょう。中年の男女の中には,地域社会の事柄や他の有益な奉仕を献身的に行なうことによって,人生にある程度の満足と目的を見いだそうとしている人もいます。また,旅行をしたり研究をしたり常々行ないたいと思っていながら結局できなかったような事をしたりして,より幸せな生活を送ろうとする人もいます。しかし,そのどれよりも深い満足をもたらし得るものがあります。聖書と,将来に対して神が差し伸べておられる希望とに精通するための時間を取るなら,あなたもそれを経験することができます。エホバの証人はどのようにしてそうした研究を始められるかを喜んでご覧に入れます。それがもたらす益ですか。それは生きた希望です!
それこそエホバの証人の持っているもの,すなわち将来に対する確かな根拠に基づく希望です。人生には神から与えられた目的があり,それは七,八十年というつかの間のものではないとわたしたちは信じています。わたしたちの希望は,地球の運営を完全に掌握し,やがて地球全体を楽園に変える天的政府にあります。この希望は,生活を存分に楽しみながら永遠に生きるという見込みを人間に与えるものになるのです。―詩編 72:1-8。啓示 21:3,4。ヨハネ 17:3。
この希望を他の人に伝えることから,エホバの証人は個人として大きな満足と人生に対する真の目的とを得ています。中年またそれ以後の年代になっても,そうした人々の生活は実りの多い活動 ― 神について知るよう他の人々を助ける業 ― で満たされています。例えば,ある夫婦は末の息子が家を出て二人だけになりました。数週間寂しい時を過ごした後に,夫は妻と一緒に腰を下ろし,二人が聖書の真理を全時間他の人々に伝えることができるようにするために,自分がパートタイムの仕事に就くことについて話し合いました。「今のこの全時間の仕事をしていると,『むだ骨を折っている』ような気がしてならないんだ」と夫は言いました。二人は全時間神に仕えるという目標を追い求めることにしました。今,二人はニューヨーク市ブルックリンにあるものみの塔協会の本部で共に働き,この雑誌のような聖書文書を生産する喜びを味わっています。
そのような生きた信仰は,その点では中年だけでなくどんな年代の人の生活をも喜ばしいものとするのではありませんか。エホバの証人の一人であるカルメラはこう述べています。「私たちは,完全な政府が支配するようになる変化の時の門口に立っています。私はそのように感じており,そのおかげで生きてゆけ,幸せな気持ちでいられるのです」。エホバの証人は喜んで自分たちの信仰を分かち,あなたがとこしえまで絶えることのない喜びと満足を見いだせるようご援助いたします。
ですから,人生は本当に40歳から始まるのではありませんが,そこで終わる訳でもありません。その年になると新しい機会が開け,その機会について学んだりそれを発展させたりすることができるようになります。真剣な気持ちで熟考するなら,その結果自分の考え方や生活様式に必要な変化を幾つか加えるよう心を動かされることさえあるかもしれません。長年の生活経験から得られた知恵によって「知覚力」は訓練され,かつてないほど物事をはっきりと見きわめられるようになっています。(ヘブライ 5:14)結婚しているのであれば,夫婦として互いにより親密になる輝かしい機会があります。
その多くは自分自身にかかっています。中年という年代を危機に陥れる必要はありません。自分の知識と精神的能力,経験,それに何にも増して神のみ言葉から得られる知恵とを用いて,この年代を最も幸福な時 ― まさに人生の最良の年月 ― としてください。
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「私たちは,完全な政府が支配するようになる変化の時の門口に立っています。私はそのように感じており,そのおかげで生きてゆけ,幸せな気持ちでいられるのです」
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幾千匹ものハチが意見の一致を見る方法目ざめよ! 1983 | 5月22日
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幾千匹ものハチが意見の一致を見る方法
幾千匹ものハチが一つの蜂球を成しています。ほどなくして,そのうちの二,三十匹が新しい家を捜しに田園地帯へと飛び立ってゆきます。
探察バチが新しい集団の家になるような場所を見付けると,蜂球のところに戻ってきてダンスを始めます。蜂球上で行なわれるダンスによって,ほかのハチはその場所までの距離とその場所の方角を定めることができます。
素早く胴体を振りながら,ダンスをするハチは短い距離を移動して直線を描きます。次いで左に回って円を描き再び直線を描いてから今度は右に回って円を描きます。ですからこのダンスは真ん中に1本の直線のある8の字を描くものになります。特定の時間内に何回このダンスを繰り返すかによって,その場所までの距離が示されると考えられています。研究者たちは,飛行によって使ったエネルギーの量に基づいて距離が定められることを知りました。
その場所の方角は,ダンスが行なわれている時の太陽の位置を示す垂線に対する,8の字の真ん中にある直線の角度によって明らかにされます。垂線の右側に一定の角度を取る場合には,太陽の右側へ同じ角度だけ行った場所を指します。一方,垂線の左側に一定の角度を取る場合には,太陽の左側に同じ角度だけ行った所を指します。そのハチが体を振って直線を描く時に垂直面をまっすぐ上に移動すれば,その場所は太陽の方角にあるということになります。体を動かしながらまっすぐ下に向かうなら,その場所を捜すために太陽とは逆の方向に飛んでゆかねばならないことをハチに知らせることになります。
その場所のよしあしもダンスによって明らかにされます。探察バチが理想的な場所を見付けると,かなりのテンポで,1時間以上もダンスをすることがあります。もちろん,そのようなダンスの間には必要とされる休息の時間があります。しかし,ダンスをしているそのハチは蜂球から離れません。
当然のことながら,スピードが一番速く,一番長く続くダンスが最も多くの数のハチを引き付けます。すると,それらのハチは示された場所へ下見に出かけます。ですから,ほかの探察バチがそれほど熱心でないダンスをしたところで,その場所を調べるために出かけるハチは余り多くありません。探察バチは自分の見付けたものに固執しようと決意している訳ではありません。ほかの探察バチが見付けた場所も調べに行きます。やがて,幾時間も後に,あるいは数日かかることさえありますが,探察バチすべてが最善の場所を指してダンスを始め,一致が得られます。こうして一致が保たれ,2万ないし3万匹ほどのハチが新しい家を作るための優れた場所の恩恵にあずかるのです。
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