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    神の千年王国は近づいた
    • でしょうか。というよりはむしろ,自分たちの上に戴く天のそうした祭司や王たちをいっそう愛することを学んだり,神の定められた全期間中彼らにその職に留まってもらうことを感謝したりしなくなるでしょうか。これらは重大な質問です。なぜなら,その千年王国のもとでそれら「大群衆」は,その天的な政府が持続するかぎり ― 千年間,そしてその後は果てしなく生きる機会を持つからです。いまこうした興味深い質問を考慮するにさいして,どんな王また祭司たちが仕えるのか,またその奉仕が全人類つまりそのとき生きている生存者や死者にとってどれほど貴重かをもっと十分に調べるのは時宜にかなったことです。(テモテ第二 4:1)それには,彼らの過去の背景や,いと高き神が彼らを千年期の王また祭司として仕えるにふさわしい者とみなすため彼らに何を要求されたかを調べてみなければなりません。

  • 後継者なしに千年間治める王たち
    神の千年王国は近づいた
    • 4章

      後継者なしに千年間治める王たち

      1 だれの時代以来,人間の立てた王国は不満足なものであることを示してきましたか。

      人間の立てた王国は結局人類の必要を満たすものとはなりませんでした。人類家族は少なくとも西暦前22世紀つまり4,150年余の昔から,人間の立てた王国をもつようになりました。記録に残る最初の人間の王の名はニムロデです。箱船を建造したノアの曾孫ニムロデは,創世記 10章8-12節の記録によれば,自分勝手に王になったようです。

      2 (イ)ノアは王国に対してどんな態度を取りましたか。(ロ)今日,大多数の人びとは明らかにどんな統治形態を好んでいますか。

      2 ノアはニムロデの王国が始まった後まで生き延びましたが,彼をバベル(もしくはバビロン)の王にしたわけではありません。ノアは自らをさえ王とはせず,かえって膨張する人類家族の一族長として留まりました。(創世 9:28,29; 10:32–11:9)今日,たいていの民族は固有の家系の世襲後継者を持つ王には飽きています。一般選挙による大統領を持つ共和政体や民主政体のような人民による統治形態が明らかに好まれています。しかし,そうした民主政体のもとで人びとは,たいてい一政党が立てる一団の支配者たちにすぐ飽きてしまい,別の政党の候補者を選出して政権の交替を図ろうとします。

      3 人間の立てた王国はもうたくさんだと考えているのはだれですか。そのかたは,人間の立てた最初の王国の占めた地で,何を宣言させましたか。

      3 世襲後継者を持つ,人間の立てた王国に飽きているのは人間だけではありません。神も飽きておられます。事実,神は今日の地上の,人間の立てたあらゆる政府に飽きておられます。a たとえ人びとはもうたくさんだと考えてはいなくても,神はそう考えておられます。事実,人間の立てた諸政府は神の地所(地球)の上で失政,もしくは不満足で不十分な支配を続けてきました。ゆえに神は,人間の立てた諸政府すべてをご予定の時に滅ぼして,ご自分のみ子イエス・キリストの千年統治への道を開くことを,人間の立てた最初の王が権力を握った場所であるバビロンで宣言させました。預言者ダニエルを通して神は,バビロンの王ネブカデネザルに言われました。「それらの王たちの日に,天の神は,決して破滅に至らされることのない一つの王国を建てられます。そして,その王国はほかのどんな民にも渡されることはありません。それはこれらの王国をすべて打ち砕いて終わらせ,それ自体は定めのない時まで立ちつづけるでしょう」― ダニエル 2:44,新。

      4,5 (イ)人類を治める支配者で,神に愛されているのはだれですか。(ロ)使徒ヨハネによれば,神に対するそれら支配者の愛は,彼らがほかにだれをも愛していることを保証しますか。

      4 神のこの目的によれば,天のいと高き神は,地上の王その他の政治支配者を愛してはおられません。その多くはキリスト教世界と呼ばれる領域の王また政治支配者でありながら,神を愛してはいません。もし神をほんとうに愛していたなら,神のみ子イエス・キリストが弟子たちに,「それでは,王国と神の義をいつも第一に求めなさい」と言われたことを行なっていたでしょうし,人間の立てた今日の政府の政治的公職についてはいなかったでしょう。(マタイ 6:33)天の神の愛される者を人類の王として戴くのは非常に重要なことです。このことはそのような王の提携者たちにもあてはまります。人類を益するには,それら提携者は神に愛される者であるべきです。それゆえに神は彼らをその職に留まらせるのです。第一,それゆえにこそ神は彼らをその職につけるのです。彼らは生ける唯一,真の神を愛しており,また今後も愛してゆきます。ということは必然的に,彼らはまた地上の人びとをも愛する者であることを意味しています。使徒ヨハネはまさにこの点についてこう書きました。

      5 「『わたしは神を愛する』と言いながら自分の兄弟を憎んでいるなら,その者は偽り者です。自分がすでに見ている兄弟を愛さない者は,見たことのない神を愛することはできないからです。そして,神を愛する者は自分の兄弟をも愛しているべきであるという,このおきてをわたしたちは彼から受けているのです」― ヨハネ第一 4:20,21。

      6 支配者たちが自国の国境や主権を固執してきたため,人類はどのように影響を受けてきましたか。

      6 人間の王その他の政治支配者は,国民や民族を分割するものとなる,国あるいは国家の境界線を守ることに汲々としてきました。政治支配者はそれぞれ自国の領土内で支配権を保持することに努め,また領土内の人びとからは忠節を要求します。現行の事物の体制のもとでは,地は数多くの国あるいは国家の領土に区分され,おのおのの領土内では人びとは国家の主権を主張しており,こうした事態は全人類の一致を達成するどころか,逆に国家間の抗争を進展させてきました。それでいまや,興味深い疑問が提起されます。

      7 地にかかわる天的な支配権に関して神はどんな目的を持っておられますか。啓示 14章1-5節はこのことをどのように示していますか。

      7 神の目的は,イエス・キリストをただ独り王として千年間治めさせることではありません。神の最愛のみ子は,政府の所在地である天のシオンの山にただ独りで王として立つのではありません。そうではなくて,使徒ヨハネはこう述べています。「またわたしが見ると,見よ,子羊がシオンの山に立っており,彼とともに,十四万四千人の者が,彼の名と彼の父の名をその額に書かれて立っていた。……そして彼らは,み座の前および四つの生き物と長老たちの前で,新しい歌であるかのような歌をうたっている。地から買い取られた十四万四千人の者でなければ,だれもその歌を学び取ることができなかった。……これらは,子羊の行くところにはどこへでも従って行く者たちである。これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られたのであり,その口に偽りは見いだされなかった。彼らはきずのない者たちである」― 啓示 14:1-5。

      8 14万4,000人の王国相続者の成員の領土上の割当てや言語の問題についてはどんな疑問が起きますか。

      8 このように14万4,001人の王なる支配者が地を治めるということは,地が14万4,000の領土に分割され,14万4,000人の各人がそれぞれ独自の領土を治め,住民は頭なる王イエス・キリストのもとにある特定の支配者に対して責任を持つことを意味していますか。地の住民をそのように分けるなら,たとえ見えないとはいえ境界線を設ける結果になり,ひいては境界線で分離される住民の間にある程度の相違が生ずるのではないでしょうか。また,以前中国語を話していた王国相続者は中国語を話す人びとの住む地域を治め,ロシア語を話す王国相続者はロシア語を話す住民を,英語を話す王国相続者は英語国民をといった具合に,言語を異にするグループに応じて治めるよう任命されるのでしょうか。分裂を生む言語上の障壁は引き続き存続し,相互理解を妨げるのでしょうか。

      9 (イ)14万4,000人の王国相続者は,イエスのどんな命令に応じて,どんな人びとの中から選ばれてきましたか。(ロ)彼らの言語上の違いに関してどんな疑問が生じますか。

      9 それは当然で,もっともな疑問です。しかしこの点,キリストの14万4,000人の共同相続者を構成する個々の者に対して,かしらなる王イエス・キリストを通して王としての責務のどんな割当てが与えられるかを聖書は何も示していないということを述べておかねばなりません。クリスチャン会衆が創設された西暦33年以来,過去19世紀余にわたって,キリストのそれら14万4,000人の共同相続者は,多くの言語を用いる国民や民族そして部族から選ばれてきました。復活させられたイエス・キリストは,昇天する何日か前,ガリラヤに集まっていた弟子たちに言われました。「それゆえ,行って,すべての国の人びとを弟子とし…彼らにバプテスマを施し(なさい)」。(マタイ 28:19)では,王国の栄光のうちにある14万4,000人の仲間の王たちは天で言語上の違いのために分裂し,通訳を必要とするなどと考えられますか。使徒パウロは「人間やみ使いのいろいろなことば」について書きました。―コリント第一 13:1。

      10 14万4,000人の者たちは天でどんな言語を用いますか。彼らが以前地上で用いていた言語はどうなりますか。

      10 復活して栄光を受ける14万4,000人の者はすべて,一つの天上の言語を話すことは疑いありません。その言語の賜物は,死から復活するさい新しい霊のからだを持つ彼らに授けられます。とはいえ,以前の地上の言語が彼らの思いの中から消し去られるわけではありません。というのは,彼らは以前人間として用いていた言語によって自分がだれであるかを見分けることにより,自分が以前の同じ自分であることを識別できるからです。しかし,天的な復活にあずかるさい,彼らは主イエス・キリストの言語を話し,イエス・キリストはその天の父,エホバ神の用いる言語を話します。

      一つの人種,一つの言語

      11 千年期王国のもとでは,現在地上に見られる言語上の障壁に関しては何が行なわれますか。どのようにして,またなぜですか。

      11 同様に,キリストおよびその14万4,000人の仲間の王たちによる千年統治のもとでは,現在地上に見られる言語上の障壁は人類から除去されます。地に対する神の最初の目的は,一つの共通の言語,つまり人間の最初の地的な父親,完全な人間アダムの言語を話す人間で地を心地よい程度に満たすことでした。エデンの園で人類は一つの言語を用いて生活を始めました。ノアの日の全世界にわたる大洪水の後,神は人類に,一つの言語,つまりアダムの十代目の子孫,義人ノアの言語を用いさせ,義にかなった営みを新たに開始させました。その一つの言語は,バベルの塔の建設が企てられるに至るまで続きました。

      12 神はバベルの塔のそばで講じた処置のもたらした言語上の影響をどのようにして拭い去りますか。

      12 次いで全能の神は,努力を結集して悪事に携わっていた建設者たちの一致を打ち砕きました。どのようにしてですか。それは言語を混乱させ,そのようにして人びとを地上の別々の地方に種々の言語群として四散させることによってです。(創世 11:1-9)神はご自分の最初の目的と調和して,一つの語族,つまり神が人類の最初の人間の父親に授けた言語,ただし神がバベルの塔のそばで考案した他の種々の言語からの修飾語をおそらく伴う,はるかに語彙の多い言語の通用する状態に人類全体を連れ戻すでしょう。

      13 このようなわけで,だれにとって一時的な言語上の問題が生じますか。しかし,結局はどんな益がもたらされますか。

      13 ノアの洪水の八人の生存者を含め,大洪水前の人びとが神の千年期王国のもとで死人の中から地上で復活するさい,それは彼らにとって大きな問題とはなりません。しかし,人類のその他の人びとの大多数にとって,それは新しい言語,つまり神が全人類のために意図された言語を学ぶことを意味します。その王国の用いる,言語を教える有能な教官のことを考えれば,それは何ら大きな問題はありません。復活させられる赤ちゃんにさえ,幼い時から新しい言語を教えることができます。そのようにして,人びとはすべて,相互の言語上の用語や表現を十分に理解して,互いに直接話し合えるようになります。それは人類家族の一致を図るなんとすぐれた影響をもたらすことでしょう。人びとはすべて,霊感のもとに記されたヘブライ語聖書bをおのおの自分で読み,その預言がすべてどのように適中したか,またヘブライ語聖書には預言者マラキの時代に至るまでの正確な歴史上の記述がどのように収められているかを研究できるのです! その時,正直な心の持ち主は,使徒パウロのようにこう言えるでしょう。「すべての人が偽り者であったとしても,神の真実さが知られるように」― ローマ 3:4。

      14 第一の復活にあずかる人たちのために,現代の人種,国民,部族間の障壁はどのようにして排除されますか。

      14 言語上の障壁について言えることは,人種・国民・部族に起因する現代の障壁にもあてはまります。「第一の復活」にあずかる14万4,000人の王国相続者にとって,それら後者の障壁はすべて過去のものとなります。そうした障壁はみな肉にまつわるものです。彼らは以前この地上で持っていた肉体を伴って復活させられるわけではありません。こう書かれているからです。「わたし[使徒パウロ]はこのことを言います。肉と血は神の王国を受け継ぐことができず,朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはありません」。(コリント第一 15:50)「たとえ,[わたしたちクリスチャンは]キリストを肉によって知ってきたとしても,今はもう決してそのような知り方はしません」。(コリント第二 5:16)「第一の復活」にさいして,14万4,000人の王国相続者は現代の人種,国民,部族間のあらゆる障壁をかかえた人間の性質ではなく,「神の性質」を受け継ぎます。(ペテロ第二 1:4)彼らはみな,天の特別な家族の兄弟たち,つまり神の子たちとなります。「さて,子どもでもあるならば,相続人でもあります。実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人です」。(ローマ 8:17)こうして彼らの間には,「神の性質」に従って一致が見られるでしょう。

      15,16 (イ)14万4,000人の王国相続者は一致を保つために,どのようにして人間的,地的障害を克服しますか。(ロ)彼らは,神への祈りの中でイエスが彼らのために懇願したどんな事がらにあくまでも忠実をつくしますか。

      15 しかし,それら14万4,000人の王国相続者はこの地上で肉のからだで試練を受けている時でさえ,人類一般の人種・国民・部族間の障壁のゆえに分裂させられるようなことは許してはきませんでした。肉によれば,彼らは「すべての国の人びと」で成る「弟子」たちです。(マタイ 28:19)しかし彼らは第一にキリストの弟子であって,どの人種,国民あるいは部族の出身者かは単なる二義的な事がらとみなしています。そして,バプテスマを受けたキリストの弟子であるがゆえに,地上で一致団結し,肉的,人間的障害すべてを克服します。この世の人種・国民・部族間の闘争に対して厳正中立の立場を明らかにし,その立場を保持して,地方的・国家的または国際的政治に参加しないのはそのためです。彼らは,イエス・キリストが彼らに関して神への祈りの中で次のように懇願した事がらにあくまでも忠実をつくします。

      16 「わたしは彼らに関してお願いします。世に関してではなく,わたしに与えてくださった者たちに関してお願いするのです。彼らはあなたのものだからで(す)……わたしはあなたのみことばを彼らに与えましたが,世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないのと同じように,彼らも世のものではないからです。……またわたしは,わたしに与えてくださった栄光を彼らに与えました。わたしたちが一つであるように,彼らも一つになるためです。わたしは彼らと結びついており,あなたはわたしと結びついておられます。それは,彼らが完全にされて一つになり,あなたがわたしを遣わされたこと,そして,わたしを愛してくださったと同じように彼らを愛されたことを世が知るためです」― ヨハネ 17:9-23。

      国際的平安が守られる

      17 (イ)戦争に関して14万4,000人の者たちはキリスト教世界やユダヤ人社会の宗教家に見倣ってはきませんでした。どうしてそういえますか。(ロ)彼らは天の王たちとして,聖書のどんな規則を地上の人びとに実施しますか。

      17 破滅的な戦争に携わる国々の政府のもとで生活しているという理由でローマ・カトリック教徒はローマ・カトリック教徒に,正教会の信徒は正教会の信徒に,新教徒は新教徒に,また生来のユダヤ人は生来のユダヤ人に対してそれぞれ肉の武器を取って戦い合ってきましたが,14万4,000人の王国相続者が地上で彼らに見倣わなかったのはそのためです。一方の手に福音もしくは聖書を携え,他方の手に剣あるいは機関銃を持って弟子を作るわざに赴いたりはしませんでした。多種多様な国民の中から来てはいるものの,イザヤ書 2章4節の預言の述べる次のような原則を履行してきました。『かれらはその剣をうちかえて鋤となし その槍をうちかえて鎌となし 国は国にむかいて剣をあげず戦いのことを再びまなばざるべし』。それで,もし彼らが地上にいたとき,神から与えられたこの規則にあくまで忠実だったのであれば,彼らは地を治める王となるとき,その規則を実施し,平和のためのその同じ規則を堅く守ることを地上の住民に要求するでしょう。

      18 使徒ヨハネが予見したとおり,地上の他のどんな国際的集団が,行動を律するこの規則を堅く守っていますか。

      18 その喜ばしい前ぶれとして,今や国際的な大群衆がそれら王国相続者の残れる者と交わっており,行動を律する,平和のためのその同じ規則を堅く守っています。それは使徒ヨハネが次のように述べて描写したとおり,世界の歴史上の今の時代に集められることが予告されていた驚くべき集団です。「これらのことののち,わたしが見ると,見よ,すべての国民と部族と民と国語の中から来た,だれも数えつくすことのできない大群衆が,白くて長い衣を着て,み座の前と子羊の前に立っていた。彼らの手には,やしの枝があった。そして大声でこう叫びつづける。『救いは,み座にすわっておられるわたしたちの神と,子羊[イエス・キリスト]とによります』。……『これは大患難から出て来る者たちで,彼らは自分の長い衣を子羊の血で洗って白くした。それゆえに神のみ座の前にいるのである。そして,その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている。また,み座にすわっておられるかたは彼らの上にご自分の天幕を広げられるであろう』」― 啓示 7:9-15。

      19 神の新しい体制は,すでにどんな相互関係を持って地上で生活している人びととともに出発しますか。彼らは,長い命を愛する人たちに書き送られたペテロのどんなことばに留意しますか。

      19 エホバ神は今日見られるこの「大群衆」の上にご自身の保護の天幕を広げ,彼らをして近づく「大患難」を無事に切り抜けさせてくださるのですから,全地にわたる神の新しい事物の体制に生きて入るのは,平和愛好者の国際的な一集団です。戦争をする諸国民はそのとき存在しません! 神の新秩序のもとで人類社会は,すでにすべてが互いに平和な関係にある「大患難」生存者とともに出発します。彼らは永遠の命を愛するゆえに,使徒ペテロの引用した次のようなことばと調和して行動し続けるでしょう。「命を愛して良い日を見たいと思う者は,舌を制して悪を口にせず,くちびるを制して欺きを語らぬようにし,悪から遠ざかって善を行ない,平和を求めてこれを追い求めよ」― ペテロ第一 3:10,11。詩篇 34:12-14。

      20 (イ)キリストはご自分に関する聖書の預言を成就するため,その平和を乱されるままにはされません。それはどんな預言ですか。(ロ)キリストの統治はソロモンのそれとどのように似ていますか。

      20 「大患難」の嵐の後,全地にわたる平和は清められたこの惑星の上に虹のように輝くでしょう。エホバの用いられる千年期の王,子羊イエス・キリストはその平和が乱されるのを許しません。さもなければ,イエスはご自分に関して昔発表された次のような預言にふさわしく行動してはいないことになります。「ひとりの子供がわたしたちのために生まれた。ひとりの子がわたしたちに与えられた。君としての支配権はその肩に置かれる。そして,その名は不思議な助言者,力ある神,永遠の父,平和の君と呼ばれる。ダビデの王座とその王国の上にあって,今よりのち,定めのない時まで,公正と義とによってそれを堅く立て,それを支えるため,君としての支配の豊かさと平和とには終わりがない。万軍のエホバの熱心がこれを行なう」。(イザヤ 9:6,7,新)イエス・キリストは「ソロモン以上のもの」であることを忘れてはなりません。(マタイ 12:42)ダビデの子,ソロモン王の40年間の統治は,「平和を好む」という意味のソロモンという名にふさわしく平和によって特徴づけられました。とはいえ,イエス・キリストは千年にわたる平和を保持されるのです。

      「ダビデの王座とその王国の上に」

      21 平和の君の君としての支配も,またその平和もだれの王座と王国から切り離せませんか。

      21 イザヤ書 9章6,7節をもう一度読んでみると,平和の君の「君としての支配」は,「ダビデの王座とその王国の上に」あることに気づきます。その約束された終わりのない平和を,西暦前1070-1037年までエルサレムで王として支配したダビデの王座とその国王から切り離すことはできません。その平和はアメリカ合衆国の大統領や,人間の立てた,世界の平和と安全のための機構としての国際連合などに依存してはいません。どうしてですか。

      22 (イ)どんな根拠に基づいてエホバの熱心はその預言を成就させますか。(ロ)宗教についていえば,ダビデはどんな人でしたか。

      22 なぜなら,「万軍のエホバ」はダビデ王に関してその治世の初めごろ,エルサレムで破ることのできない契約もしくは神聖な約束を結ばれたからです。どんな根拠に基づいてですか。ところで,ダビデは無神論や不可知論者ではなく,非常に信心深い人でした。とはいえ,当時の非イスラエル民族の偶像崇拝者または多神教徒のようではありませんでした。聖書の詩篇に収められているダビデの作った数多くの詩篇もしくは叙情詩を読むと,ダビデはアブラハム,イサクそしてヤコブの神エホバのまじめな崇拝者だったことがわかります。最もよく知られている彼の詩篇の一つである詩篇 23篇の中で,ダビデはこう述べました。『エホバはわが牧者なり われ乏しきことあらじ わが世にあらん限りはかならず恩恵と憐みとわれにそいきたらん 我はとこしえにエホバの宮にすまん』。(詩篇 23:1,6)また,詩篇 40篇8,9節ではこう言いました。『わが神よわれは聖意にしたがうことを楽しむ なんじの法はわが心のうちにありと われ大いなる会にて義をつげしめせり 見よ われ口唇をとじず エホバよなんじこれをしりたもう』。

      23,24 (イ)神の契約の箱をエルサレムに運んだのち,それを収めることに関してダビデは何をしたいと願いましたか。(ロ)その建築工事に関してエホバはダビデに何と述べましたか。

      23 ダビデ王はエルサレムを首都にしたのち何か月かを経て,聖なる契約の箱つまり「真の神の箱」をエルサレムに運ばせ,王宮の近くに張られた天幕の中に置きました。ダビデは自分の宮殿の住まい,つまり「杉材の家」と,エホバの契約の箱の置かれている所との相違を痛感しました。そしてついに彼は,エホバの箱を置くに値する神殿の建造を預言者ナタンに示唆しました。(サムエル後 7:1-3,新)ところが神は,次のような知らせをダビデに伝えました。

      24 「おまえは多くの血を流し,大いなる戦争をした。おまえはわたしの前で多くの血を地に流したから,わが名のために家を建ててはならない。見よ,男の子がおまえに生れる。彼は平和の人である。わたしは彼に平安を与えて,周囲のもろもろの敵に煩わされないようにしよう。彼の名はソロモンと呼ばれ,彼の世にわたしはイスラエルに平安と静穏とを与える。彼はわが名のために家を建てるであろう」― 歴代志上 22:8-10,口語。

      25 ダビデの願いを十分認めたエホバは,ダビデのためにどんな家を建てることを約束されましたか。

      25 これは神のみ名に敬意を表して崇拝の家を建てたいとのダビデの愛のこもった願いをエホバが正しく評価しなかったという意味ではありません。エホバはそうしましたし,またそのことを示すために契約を結びました。つまり,ダビデのために家を建てる厳粛な約束をしました。それは文字どおりの住まいとしての家ではなくて,ダビデの一族の歴代の王家です。預言者ナタンは次のような知らせをダビデ王に伝えました。「〔エホバ〕はまた『あなたのために家を造る』と仰せられる。……『あなたの家と王国はわたしの前に長く保つであろう。あなたの位は長く堅うせられる』」― サムエル後 7:11-16,口語〔新〕。

      26 深い感謝の意を表したダビデは,その家にかかわるエホバのみ名と目的に関して祈りの中で何と言いましたか。

      26 この神聖な契約に対する深い感謝の意を表したダビデは,祈りの中でこう述べました。「〔エホバ〕神よ,今あなたが,しもべとしもべの家とについて語られた言葉を長く堅うして,あなたの言われたとおりにしてください。そうすれば,あなたの名はとこしえにあがめられて,『万軍の〔エホバ〕はイスラエルの神である』と言われ,あなたのしもべダビデの家は,あなたの前に堅く立つことができましょう。万軍の〔エホバ〕,イスラエルの神よ,あなたはしもべに示して,『おまえのために家を建てよう』と言われました。それゆえ,しもべはこの祈りをあなたにささげる勇気を得たのです。〔主権者なる主エホバ〕よ,あなたは神にましまし,あなたの言葉は真実です。あなたはこの良き事をしもべに約束されました。どうぞ今,しもべの家を祝福し,あなたの前に長くつづかせてくださるように。〔主権者なる主エホバ〕よ,あなたがそれを言われたのです。どうぞあなたの祝福によって,しもべの家がながく祝福されますように」― サムエル後 7:25-29,口語〔新〕。

      27 エホバはダビデと結んだ王国契約を固守していることを示すためイザヤを通して,また後にはエゼキエルを通してゼデキヤ王に何と言われましたか。

      27 主権者なる主エホバはダビデのその祈りに答えられました。300年余の後,万軍のエホバの熱心が平和の君の君としての支配を「ダビデの王座とその王国の上に」確立し,「今よりのち,定めのない時まで」それを支えることをエホバが預言者イザヤを用いて告げ知らせたのはそのためです。(イザヤ 9:6,7,新)それから1世紀余の後,エルサレムのダビデの子孫の治める王国がまさに滅ぼされようとしていたとき,エホバは王位継承権がダビデの家から離れないということを告げ知らせて,ダビデとの王国契約を固守していることを示されました。エホバはエルサレムのダビデの王座に着いた最後の王ゼデキヤに語りかけて,預言者エゼキエルを用いてこう述べました。「かぶりものを取り除き,王冠を取り去れ。これは同じではなくなる。低いものを高く上げ,高い者を低くせよ。破滅,破滅,破滅,わたしはこれを生じさせる。それは,正当な権利を持つ者が来る時まで決してだれのものにもならない。わたしは必ずそれを彼に与える」― エゼキエル 21:25-27,新。

      28 (イ)ダビデの家の王国はいつ覆されましたか。その70年後,ゼルバベルはユダを治めるどんな職務につきましたか。(ロ)ダビデの家を清めることに関してゼカリヤは何を預言しましたか。

      28 西暦前607年のエルサレム崩壊のさい,ダビデの王座は覆され,生き残ったユダヤ人はバビロンに追放されました。70年後,神を恐れるユダヤ人の残れる者はバビロンから解放されて,ユダの地に戻り,エルサレムでソロモン王の建立した最初の神殿の敷地に別の神殿を建てることになりました。ダビデ王の子孫,シャルテルの子ゼルバベルは,ユダとエルサレムの総督になりました。エホバは預言者ハガイおよびゼカリヤを起こして,神殿再建のわざに携わる総督ゼルバベルを激励しました。ダビデと結んだ王国契約に対してなおも忠誠を示したエホバは,預言者ゼカリヤに霊感を与えてこう言わせました。『その日罪と汚穢を清むる一つの泉ダビデの家とエルサレムの居民のために開くべし』― ゼカリヤ 13:1。

      29 エルサレムとユダにいつエドム人の王が立てられましたか。ダビデと結ばれた王国契約に関してどんな疑問が生じたと考えられますか。

      29 その後400年余を経て,パレスチナの地はローマ帝国の支配下にはいり,ローマの元老院の任命で,ヘロデ大王と呼ばれた非ユダヤ人のエドム人がエルサレムとユダヤ州の王になりました。こうして何世紀も経ったのですから,平和が限りなく続くことになっていた永遠の王国のためにダビデと結んだあの契約のことなど,エホバ神はすっかり忘れられたのではありませんか。神がその契約を結んで以来,合計1,000年余を経た今となっては,その契約は廃れ,時代遅れとなり,また失効状態にあるように思えるゆえに生命を保っている何らかのしるしをもはや示してはいないのではありませんか。不信仰な者ならそう考えたかもしれません。しかし,神についてはどうですか。

      ダビデ王の永遠の相続者の誕生

      30,31 (イ)エホバはダビデ王のどんな家系を見守りましたか。(ロ)エホバはその家系のだれの娘に注目しましたか。彼女はだれと婚約しましたか。

      30 王国契約の神聖な作成者で,忘れることのない神は,ダビデに対するご自分の誓約を確実に実行する態勢を整えました。忠実なダビデ王のために王家を造ることを約束した神は,ダビデの男子の子孫を見守りつづけました。そして,ソロモン王を通してではなく,ダビデの別の息子ナタンを通して続くダビデの家系の一つに目を向けました。その特定の家系は他の20人の人びとを経て続き,預言者ゼカリヤの時代にエルサレムの総督となったゼルバベルを生み出します。ゼルバベルにはレサという名の息子がいましたが,その息子の後,他の16人の人たちを経て家系はなおも跡切れずに続き,後にマタテの息子ヘリが生まれました。(ルカ 3:23-31)次いで神は,ヘリの男子の子孫ではなく,その娘に注目しました。その娘は西暦前1世紀の後半,ローマ領ユダヤ州の町,ベツレヘムで生まれました。その名はマリアです。

      31 やがてマリアはローマ領ガリラヤ州のナザレの町に連れてゆかれました。その町で婚期に達した彼女は,ヤコブの子でナザレの住人であるヨセフという名の大工と婚約しました。

      32 ヨセフとのその婚約はなぜ適切でしたか。ダビデの相続者に関してどんな疑問が生じましたか。

      32 その婚約はたいへん適切なものでした。なぜですか。というのは,ヨセフは片田舎の町ナザレのしがない大工でしたが,ナタンの家系ではなく,ダビデの最初の王位継承者ソロモンの家系の,ダビデ王の子孫だったからです。それでヨセフには,先祖ダビデの王室の王座に着く正当な権利がありました。では,ヨセフはダビデ王の約束久しい永遠の相続者の直系の父親になるのですか。

      33,34 (イ)エホバはなぜ,マリアとともにおられる証拠をお与えになりましたか。(ロ)ここで起きたできごとは,ヤコブが臨終の床で述べたどんな預言の成就に資するものでしたか。

      33 さて,婚礼が催され,ヨセフが合法的に娶った妻マリアをその家から導いて,彼女のために用意した住まいに連れて行く前のこと,きわめて異例な事がら,この20世紀の頭脳時代の人びとが信じようとしない重大なことが起こりました。時はいまや西暦前3年も終わりごろのことでした。神にとってそれは待望久しい特別の時でした。突如,神がマリアとともにおられる証拠が明らかにされました。それは彼女がユダヤ人の娘だったからではなくて,ユダの部族のダビデの王家の子孫だったからです。ゆえに,そのできごとは,族長ヤコブがその四番目の息子ユダに関して霊感のもとに述べた預言の成就に資するものでした。それは遠い昔の西暦前1711年のことで,臨終の床にあったヤコブはユダに関してこう言いました。

      34 『ユダは獅子の子のごとし……雄獅子のごと(し)……誰かこれをおこすことをせん 杖ユダを離れず法を立つる者その足の間をはなるることなくしてシロ[つまり,それを持つ者]の来たる時にまでおよばん 彼にもろもろの民したがうべし』― 創世 49:8-10。

      35,36 (イ)神はマリアの年取った親族エリサベツのためにどんな奇跡的なことをすでに行なわれましたか。(ロ)み使い,ガブリエルは,ダビデの王座に対する神の目的についてマリアに何と述べましたか。

      35 神はユダの部族またダビデ王家の処女マリアとともにおられることをどのように示されましたか。神はレビ人の祭司ゼカリヤの妻で,マリアの年取った親族エリサベツのために行なった以上の重大なことをマリアのために行ないました。神はゼカリヤとエリサベツの生殖力を奇跡的に回復させたので,彼女はいまや妊娠六か月目を迎え,ほどなく男の子を産もうとしていました。その子はバプテストのヨハネと呼ばれることになりました。しかし,大工ヨセフとの婚約期間がなお満了していない,ユダヤ人の処女マリアのために,神は何を行なわれましたか。医師ルカはこう述べます。

      36 「その六か月めに,み使いガブリエルは神のもとから遣わされ,ナザレというガリラヤの都市に,つまり,ダビデの家のヨセフという人と婚約していたひとりの処女のもとに来た。その処女の名はマリアであった。そして彼女の前に現われた時,彼はこう言った。『こんにちは,大いに恵まれた者よ。エホバはあなたとともにおられます』。しかし彼女はそのことばを聞いてひどく思い乱れ,このあいさつはどういうことなのだろうと考えていた。それでみ使いは彼女に言った,『マリアよ,恐れてはなりません。あなたは神の恵みを得たのです。そして,見よ,あなたは身ごもって男の子を産むでしょう。あなたはその名をイエスと呼ぶのです。これは偉大な者となり,至高者の子と呼ばれるでしょう。そしてエホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません』」― ルカ 1:26-33。

      37 ガブリエルはマリアが人間の父親なしに男児を生むことをどのように説明しましたか。

      37 これはマリアのいいなずけの夫ヨセフがイエスの直系の普通の父親とはならないことを意味しました! 何ですって? 人間の父親なしに男児が生まれるのですか。その奇跡的な処女懐胎がどのようにして生ずるかをマリアに説明するため,み使いガブリエルはさらにこう述べました。「聖霊があなたに臨み,至高者の力があなたをおおうのです。そのゆえにも,生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます。そして,見よ,あなたの親族エリサベツでさえ,あの老齢で子を宿し,不妊の女と言われる彼女が,今や六月めを迎えています。神にとっては,どんな布告も不可能なことではないのです」― ルカ 1:34-37。

      38 マリアに関してはいまやどんな事が生じましたか。彼女の宿した子はだれの子になるはずでしたか。

      38 マリアはそのような仕方で,ダビデ王の永遠不変の相続者となる者の地的母親になることに応じましたか。ルカ 1章38節はこう述べています。「するとマリアは言った,『ご覧ください,エホバの奴隷女でございます! あなたの布告どおりのことがわたしの身になりますように』。すると,み使いは彼女から去って行った」。その後まさしく聖霊がマリアに臨み,いと高き神の力が彼女を覆いました。そこで,彼女はいいなずけの夫ヨセフによらずに奇跡的に妊娠しました。それはいと高き神エホバが今やマリアの宿した子イエスの父親であることを意味しました。霊感のもとに記された他の聖句は,エホバ神がご自分の天の最愛の独り子の生命をマリアの胎内の卵細胞に移して身ごもらせたことを述べています。(ヨハネ 3:16。フィリピ 2:5-11)このことに関しては汚れたことは一つもありませんでした。「生まれるものは聖なる者,神の子と呼ばれます」とあるのはそのためです。そのすべては神の定められた時に起きました。次のように記されているとおりです。「時の限りが満ちたとき,神はご自分のみ子を遣わし,そのみ子は女から出て律法[モーセの律法]のもとに置かれ(ました)」― ガラテア 4:4。

      王国契約の永久相続者

      39 (イ)マリアの子イエスをヤコブの家を治める王にしようとしていたのはだれですか。(ロ)イエスはマリアを通してどんな権利を相続しましたか。

      39 み使いガブリエルがマリアに告げた事がらは,確かにその子イエスがダビデ王の永久相続者になる者であることを示しました。「エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」。(ルカ 1:32,33)そのイエスに彼の父祖ダビデの王座を与えることになっていたのは19世紀前のユダヤ人でも,今日の生来のユダヤ人でもありません。王国のその王座をイエスに与えようとしておられたのは天の父,エホバ神でした。ダビデの場合,その王座は単に,イスラエルの十二部族の父である族長「ヤコブの家」を治めるものでした。それで,ユダヤ人の処女マリアにより,その初子はダビデの王家の者として生まれたので,イエスはダビデの王国を継ぐ人間としての権利をマリアを通して生まれながら持つことになりました。この事実を証明するものとして,霊感を受けた使徒パウロは神からの良いたよりについてこう書きました。「[それは]神のみ子に関するものです。そのみ子は,肉によればダビデの胤から出ましたが,聖なる霊によれば,死人の中からの復活によって神の子と力づよく宣言されたかたです。(そうです,それはわたしたちの主イエス・キリストで[す])」― ローマ 1:1-4。

      40 (イ)ヨセフはマリアの子イエスに関して何を行なう義務を神に対して負っていると感じましたか。こうして,彼はイエスに何を与えましたか。(ロ)ルカはヨセフをだれの子と呼んでいますか。なぜですか。

      40 マリアが妊娠していることがわかった後,そのいいなずけの夫はそのわけを知らされ,マリアを自分の妻として彼女のための家に連れて行くよう命じられました。ヨセフはナザレでそのとおりにしました。ヨセフはソロモン王の家系のダビデの子孫cでしたから,マリアによって与えられた神のみ子を自分の初子として養子にし,そのようにしてダビデの王座につく正当な権利をイエスに与えるのは神に対する自分の責務であることを悟っていました。(サムエル後 7:13-16)そこでヨセフは,生後八日目のイエスに割礼を受けさせ,その名をイエスと呼び,また生後四十日目にエルサレムの神殿で自分とマリアのための清めの儀式にさいして赤子のイエスを捧げたのです。(マタイ 1:17-25。ルカ 2:21-24)イエスが「ヨセフの子」と呼ばれたのはそのためです。(ヨハネ 1:45; 6:42)また,イエス・キリストの系図にかんして医師ルカがこう述べているのもそのためです。「なお,イエス自身は,その業を開始された時,およそ三十歳であり,人の意見では,ヨセフの子であった。ヨセフはヘリの子」。(ルカ 3:23)ヨセフは実際にはヤコブの子でしたが,「ヘリの子」とも呼ばれました。なぜなら,ヘリの娘マリアと結婚していたからです。それで彼はヘリの義理の息子でした。

      41 「ナザレのイエス」と呼ばれたその人は西暦前2年にどこで生まれましたか。

      41 イエス・キリストは後に「ナザレのイエス」また「イエス,ガリラヤのナザレから来たかた」と呼ばれました。(ヨハネ 19:19,欽。マタイ 21:11)それはイエスがナザレで生まれたという意味ですか。そうではありません。というのは,イエスが生まれる前のこと,その母マリアと彼女の夫ヨセフはふたりともユダのベツレヘム生まれの者だったので,ローマ皇帝,カエサル・アウグスツスの布告に従って登録をするため西暦前2年,ベツレヘムに下らねばならなかったからです。こうしてイエスは,エッサイの子ダビデが生まれたゆえに「ダビデの町」と呼ばれたベツレヘムで生まれることになりました。―ルカ 2:1-7,欽。

      42,43 マリアの子が神のメシアになるという趣旨のガブリエルの証言のほかに,他のみ使いの行なったどんな証言がありますか。

      42 マリアの子であるこのイエスがメシアもしくはキリストつまりダビデの王座と王国の永久継承者となるべき油そそがれた者になることを証言したのは,み使いガブリエルだけではありません。西暦前2年10月の初めごろ,イエスが生まれた夜のこと,もうひとりの天使も証言しました。そのみ使いは,同年のその時期になおベツレヘムの近くの野原で羊の群れを世話していた羊飼いたちに輝かしいさまで現われました。

      43 驚いた羊飼いたちにみ使いは言いました。「恐れてはなりません。見よ,わたしはあなたがたに,民のすべてに大きな喜びとなる良いたよりを伝えているのです。きょう,ダビデの都市で,あなたがたに救い主,主なるキリストが生まれたからです。そして,これがあなたがたへのしるしです。あなたがたは,幼児が布の帯にくるまり,飼い葉おけの中に横たわっているのを見つけるでしょう」。次に生じた事がらはその誕生が尋常なものではないことを示しています。「すると突然,大ぜいの天軍がそのみ使いとともになり,神を賛美してこう言った。『上なる高き所では栄光が神に,地上では平和が善意の人びとの間にあるように』」― ルカ 2:8-14。

      44 幼子イエスはなぜエジプトに連れてゆかれましたか。彼はどうしてナザレで大工になりましたか。

      44 悪魔サタンは「主なるキリスト」となるべきこの神のみ子の誕生に気づきました。この世に対する自分の支配権を失うまいと気を配る悪魔サタンは,イエスがエルサレムの神殿で捧げられた後のある時,それもヘロデ大王の手を借りて幼子イエスを殺させようとしました。そこで,神のみ使いはヨセフに妻子とともにエジプトに逃れ,さらに知らせがあるまでそこに留まるよう命じました。ヘロデ王の死後,神のみ使いはヨセフにその民の地に帰るよう命じました。しかし,ヘロデ王の子アケラオがベツレヘムを含め,ローマ領ユダヤ州を支配していたので,ヨセフはベツレヘムを避けて通り,ガリラヤ州のナザレに帰りました。そこでイエスは育てられ,ナザレ人と呼ばれるようになりました。その町で,この未来の王は大工として働きました。―マタイ 2:1-23; 13:55。マルコ 6:1-3。

      45 (イ)実際にメシアつまりキリストとなるためには,イエスはダビデのように何を注がれる必要がありましたか。(ロ)イエスはいつ,またなぜバプテスマを受けるためにヨルダン川に行きましたか。

      45 しかし,油そそがれた者という意味のキリストもしくはメシアという言葉は,イエスが実際に油を注がれる時までは真の意味では適用できませんでした。彼の先祖であるベツレヘムの羊飼いダビデは,イスラエルの王として実際に即位する何年も前に神の預言者サムエルによって油を注がれました。(サムエル前 16:1-13。サムエル後 2:1-4; 5:1-3)イエスについても同様のことがいえます。完全な人間イエスが30歳を迎えたとき,その親族,バプテストのヨハネはバプテスマを施すわざを始めました。なぜなら,ヨハネは当時,「悔い改めなさい。天の王国は近づいたからです」と告げて,神の王国を知らせ始めたからです。(マタイ 3:1,2)その知らせに接したイエスは,神のメシアの王国の事がらに専念すべき時が来たことを知りました。そして,ご自分の人間としての生活の30年目の終わりが近づいたころ,ナザレを去り,ヨルダン川で人びとにバプテスマを施していたヨハネのもとに赴きました。なぜですか。罪の悔い改めの象徴としてのバプテスマを受けるためではなく,「天の王国」つまり神の王国に関連して神の意志を行なうために自らをエホバ神に全く捧げることを象徴するためでした。ヨハネはそのことを理解してはいませんでした。それでこう記されています。

      46 (イ)そこでバプテスマを受けたとき,イエスはどのようにしてメシアもしくはキリストになりましたか。(ロ)その場で神は,バプテスマを受けたイエスをなぜご自分の子と呼ばれましたか。

      46 「その時,イエスがガリラヤからヨルダンに,ヨハネのところに来られたが,彼からバプテスマを受けるためであった。しかし,ヨハネは彼をとどめようとして言った,『わたくしはあなたからバプテスマを受ける必要のある者ですのに,あなたがわたくしのもとにおいでになるのですか』。イエスは答えて言われた,『このたびはそうさせてもらいたい。このようにしてわたしたちが義にかなうことをすべて果たすのはふさわしいことなのです』。そこでヨハネはとどめるのをやめた。バプテスマを受けたのち,イエスはすぐに水から上がられた。すると,見よ,天が開け,イエスは,神の霊がはとのように下って自分の上に来るのをご覧になった。見よ,さらに天からの声があって,こう言った。『これはわたしの子,わたしの愛する者であり,この者をわたしは是認した』」。(マタイ 3:13-17)バプテスマを受けたイエスの上に神の霊がそのように下ることにより,イエスはバプテストのヨハネではなく,神によって油を注がれました。こうして,メシア,つまりキリスト,すなわち油そそがれた者となりました。それは西暦29年初秋のことでした。神はまた,その時イエスをご自分の子と宣言されました。なぜなら,今や神はご自分の霊によってイエスを霊的な子として生み出されたからです。(ヨハネ 1:32-34)イエスは今や,人間としてのメシアよりも高位の霊的なメシアもしくはキリストとなりました。

      47 イエスは単に人間としてのメシアになるどんな機会を退けましたか。イエスは油を注がれたことと一致して,どんなわざに携わりましたか。

      47 さて,イエス・キリストは自らをエルサレムで「ヤコブの家」を治める地的な王にしようとしましたか。いいえ,しませんでした。荒野で誘惑を受けたとき,イエスは,ヤコブの家どころか,この世のあらゆる王国を治める王になるようにとの悪魔サタンの申し出を拒絶しました。(マタイ 4:1-11。ルカ 4:1-13)後日,大勢の群衆に奇跡的な仕方で食物を与えた後,たらふく食べた何千人ものユダヤ人がイエスを自分たちの地的な王にしようとしたので,イエスは人びとの企てを退けて立ち去りました。(ヨハネ 6:1-15)イエスはご自分の王国は,彼をメシアなる王として油を注いだ方,エホバ神から来るものであることを知っておられました。神の霊によって油を注がれることにより自分に課せられた予備的なわざを正しく評価したイエス・キリストは,「ヤコブの家」の地の至る所で神の王国を教えたり,宣べ伝えたりする平和なわざに携わりました。西暦30年にバプテストのヨハネが投獄された後は特にそうでした。

      48 ナザレの会堂でイエスは,イザヤのどんな預言をナザレの人びとに読んで聞かせましたか。イエスは地上でのその生涯の残りの期間,何を行なうことに努めましたか。

      48 ナザレの会堂でイエスはナザレの人びとにイザヤ書 61章1,2節を読んで聞かせ,こう言いました。「エホバの霊がわたしの上にある。貧しい者に良いたよりを宣明させるためわたしに油をそそぎ,捕われ人に釈放を,盲人に視力の回復を宣べ伝え,打ちひしがれた者を解き放して去らせ,エホバの受け入れられる年を宣べ伝えさせるために,わたしを遣わしてくださったからである」。バプテスマを受けたイエスはご自分の説教の主題としてのこの言葉を述べてから,こう言い始めました。「あなたがたがいま聞いたこの聖句は,きょう成就しています」。(ルカ 4:16-21)こうしてイエスは,以前の自分の町の人びとにご自分がエホバの油そそがれた者,メシアつまりキリストであることを理解させようとなさいました。そして,地上でのその生涯の残りの全期間中,エホバの霊によって油そそがれて行なうよう権限を受け,委任された事がらを果たすべく努力されました。

      49,50 (イ)イエスはイスラエル王国を再興するために軍隊を組織しましたか。(ロ)イエスは,自分が王ではあっても,なお王国のために戦ってはいないことをピラトにどのように説明しましたか。

      49 したがってイエスはこの世の政治に干渉しませんでしたし,マカベア家のように軍隊を組織してローマ人をその地から追い出し,エルサレムにダビデの王国を再興したりはしませんでした。なぜですか。

      50 イエスはそうしなかった理由をローマ総督ポンテオ・ピラトに説明しました。それもイエスは宗教上の敵の手で同総督に引き渡され,ローマ帝国に対する動乱扇動者として処刑されようとしていたのです。「あなたはユダヤ人の王なのか」という総督の質問に答えたイエスは,最後にこう言いました。「わたしの王国はこの世のものではありません。わたしの王国がこの世のものであったなら,わたしに付き添う者たちは,わたしをユダヤ人たちに渡さないようにと戦ったことでしょう。しかし実際のところ,わたしの王国はそのようなところからのものではありません」。そこで,ピラトは言いました。「それでは,あなたは王なのだな」。真理を証ししたイエスは,こう答えました。「あなた自身が,わたしが王であると言っています」。そうです,彼はローマ帝国が当時世界強国となっていた世のものではない王国の王だったのです。―ヨハネ 18:33-37。

      51,52 (イ)イエスはご自分に「付き添う者たち」に対して,何を行なうよう教えましたか。(ロ)イエスは十二使徒に,次いで70人の福音宣明者に政治活動,それとも福音宣明のわざを遂行するよう命じましたか。どのように命じましたか。

      51 イエスの述べた「わたしに付き添う者たち」とはだれですか。それは十二使徒(「遣わされた者」)を含めた,武器を持たないその弟子たちです。イエスは,それら弟子たちもやはりこの世の政治や暴力闘争に加わらず,約束された神の王国の良いたよりを平和裏に教え,また宣べ伝える仕事に専門的に従事するよう教えました。

      52 ある時,十二使徒を遣わしたイエスは,地下の政治運動を組織してユダヤ人の間で反乱を扇動するよう彼らに命ずるどころか,むしろこう言われました。「行って,『天の王国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病気の人を治し,死んだ者をよみがえらせ,らい病人を清め,悪霊を追い出しなさい。あなたがたはただで受けたのです,ただで与えなさい」。(マタイ 10:1-8)後に,他の70人の福音宣明者を派遣したときにも,イエスは同様の指示を与え,何を宣べ伝えるべきかを彼らに告げてこう言われました。「また,どこであれ,あなたがたが都市に入り,人びとがあなたがたを迎えてくれるところでは,あなたがたの前に出される物を食べ,そこにいる病気の者たちを治し,『神の王国はあなたがたの近くに来ました』と告げてゆきなさい」― ルカ 10:1-9。

      53,54 (イ)イエスはご自分の臨在とこの体制の終結に関する預言の中で,どんな宣べ伝えるわざを予告しましたか。(ロ)この宣べ伝えるわざを続行するとはいっても,自分たちの宣べ伝える政府はどんなところからのものであるかを知っているゆえに,何に干渉することは許されませんか。

      53 イエスは過ぎ越しの日に亡くなる少し前の西暦33年ニサン11日のこと,将来のご自分の臨在と事物の体制の終結に関する驚くべき預言を述べました。その預言の中でイエスは,ご自分に付き添う者たち,つまり弟子たちのなすべき著しいわざを確かに予告しました。こう言われたからです。「王国のこの良いたよりは,あらゆる国民に対する証しのために,人の住む全地で宣べ伝えられるでしょう。それから終わりが来るのです」。(マタイ 24:3-14)この事物の体制の全き終わりが来る前に,全世界で王国を宣べ伝えるこのわざが,イエスの弟子たちによって行なわれなければならないのです。「また,あらゆる国民の中で,良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません」。(マルコ 13:10)弟子たちは王国を宣べ伝えるこのわざをあらゆる国民の間で平和裏に行なったからといって,世の政治に干渉したり,国際的闘争に加わったりすることは許されませんでした。

      54 弟子たちはその指導者イエス・キリストのように,神のメシアの王国を単に宣べ伝えることになっていたにすぎず,地を治めるその王国を樹立する権限や権能を与えられてはいませんでした。それは地的な政府になるのではなく,「そのようなところからのものでは」なかったのです。それは全人類を治める超人的権力を伴う天的な政府だったのです。それで当然,いと高き方である天の神以外に,地の全住民を治めるそのメシアの政府を樹立できる者はいませんでした。

      55 油を注がれた者としての務めを遂行し,聖書の預言を成就することに関するかぎり,全人類を支配するイエスの資格に関して異議を唱えることができるでしょうか。

      55 では,全人類を治める王として千年間支配すべく油そそがれた者であるメシアつまりキリストの地上での生涯に関して,天であれ,地上であれ,だれが文句を言えますか。まるでイエスは千年期の王になるにはふさわしくない,その資格がないなどといって,だれかが正当な反対を唱えられますか。それはだれにもできません。地上でのイエス・キリストの非の打ち所のない生活を指摘した使徒ペテロは,ローマ軍百人隊の隊長コルネリオとその異邦人の友人たちにこう言いました。「あなたがたは,ヨハネの宣べ伝えたバプテスマののちにガリラヤから始まり,ユダヤ全体にわたって話題となった事がらを知っています。すなわち,ナザレから来たイエスのことで,神がどのように聖霊と力をもって彼に油そそがれたかです。彼は善を行ないながら,また悪魔に虐げられている者すべてをいやしながら,国じゅうをまわりました。神がともにおられたからです。そしてわたしたちは,彼がユダヤ人の土地で,またエルサレムで行なったすべての事がらの証人です」。(使徒 10:37-39)あらゆる証拠は,イエス・キリストは油を注がれることによってなすべく委ねられた事がらすべてを地上で成し遂げたことを示しています。イエスはついには殉教の死をさえ遂げて,ご自分に関する聖書の預言をすべて成就なさいました。

      [脚注]

      a イザヤ書 1章14節; 7章13節; 43章24節と比べてください。

      b とはいえ,神の事物の新秩序における一つの世界語は,現代のヘブライ語アルファベットの角張った字母で印刷されたり,書かれたりするという意味ではありません。今日でさえ,英語で用いられているローマ字のアルファベットの字母で綴られたヘブライ語の出版物が残っています。たとえば,1949年に南アフリカで出版された「タリヤグ・ミリム」という教本,1927年エルサレムで出版された「アビ」と題する伝記,1933-1934年にテル・アビブで発行されたデロル紙の一部などがその例です。

      c もし,ダビデ王の王統の者であるヨセフが,ダビデの王座につく「正当な権利」をヤコブ,ヨセフ(二番目の),シモンあるいはユダなどの自分の直系の普通の息子に与えるまで待ちたいと考えたのであれば,その正当な請求権は発効しなかったでしょう。(エゼキエル 21:27)なぜですか。なぜなら,ヨセフはエコニヤ(またはコニヤ,あるいはエホヤキン)の血筋を引く,ソロモン王の子孫で,エコニヤに関してはエレミヤ記 22章24-30節にこう記されているからです。『エホバいいたもう我は生く ユダの王エホヤキムの子エコニヤはわが右の手の指輪なれども我これを抜かん……エホバかくいいたもう この人を[ダビデの王座の相続権に関しては]子なくしてその命のうちに栄えざる人と記せ そはその子孫のうちに栄えてダビデの位に座しユダを治むる人かさねてなかるべければなり』。(マタイ 1:11-16; 13:55)したがって,処女マリアの子イエスはエコニヤ(コニヤ)の生来の子孫とはならず,ダビデの子,つまりバテシバの子ナタンの家系を経てダビデ王の血筋の者となったので,ヨセフが自分の養子にした息子イエスに正当な権利を与えたのは無駄なことではありませんでした。このために,ルカ 3章23-38節に記されているイエスの系図にはエコニヤ(コニヤまたはエホヤキン)の名は出ていません。

  • 仲間の王たちはどのようにしてその職につけられるか
    神の千年王国は近づいた
    • 5章

      仲間の王たちはどのようにしてその職につけられるか

      1 人類を治める王としてイエス・キリスト以上の適任者がいるなどとは考えられません。なぜですか。

      全人類は神のみ子イエス・キリスト以上に優れたどんな王を載くことができるでしょう。自分の栄光をことごとく捨て,自分の民のために罪なくして自らの命を投げ捨てるほどに民を深く愛した人間の王がいましたか。たとえ,民のために無私の気持ちで命を投げ捨てたとしても,民にとってどれほど永続する益をもたらしたでしょう。しかし神のみ子イエス・キリストは,父とともにあずかっていた天的栄光を捨てて,単なる人間,しかし全く完全な,それでも「神のような者たちよりも少し低く」つまり「み使いたちより少し低く」された者となりました。(詩篇 8:5。ヘブライ 2:9)次いでイエスは,神の意志に従って,神によりメシアなる王として油を注がれた後,人間の手にかかって非業の死をさえ遂げるまでにご自分を卑しめられました。それは人類に対する愛の比類のない表われだっただけでなく,その死は全人類に永続する益をもたらす,神に嘉納される完全な人間の犠牲を備えるものとなりました。人類の王としてこの方以上の適任者がいるでしょうか。

      2 (イ)王としてイエス・キリストを欲するかどうかという点で,今日の人びとは1世紀当時の人びととどのように似ていますか。(ロ)人類がだれを王として載くかに関して,ほんとうに重要なのは何ですか。

      2 19世紀前,単なる人間の政治的支配権のみに頼っていた人びとは,自分たちの王であるイエスを欲しませんでした。ゆえに彼らはイエスをあたかも偽キリスト,偽りのメシアとみなしてローマ総督にその処刑を叫び求めたのです。今日,人類の大多数は,キリスト教世界においてさえ,現実の王としてのイエスを欲するどころか,人間の支配権を求めて盛んに政治運動を行ない,自分たちの指導者イエスに真に見倣っているクリスチャンを軽視し,彼らに反対し,迫害を加えています。が,今日の人類の圧倒的大多数の人びとがその天の現実の王イエス・キリストを欲していないからといって,それがどうしたというのですか。それが生きている者と死者とを問わず人類にかかわる事がらを決しますか。重要なのは全能の神の決定です。神はみ子イエスがヨルダン川でバプテストのヨハネからバプテスマを施されたとき,イエスを是認されました。また,その忠実なみ子が北パレスチナの非常に高い山で三人の証人の前で輝かしい変貌を遂げたときにも,み子を是認されました。(マタイ 3:17; 17:5)罪のないみ子がカルバリの刑柱上で今わのきわに大声で,「父よ,わたしの霊をみ手に託します」と叫んだとき,神はそのみ子を是認されました。―ルカ 23:46。

      3 (イ)殉教の死を遂げたみ子イエス・キリストに対する是認を示す比類のない表現として,神は何を行ないましたか。(ロ)神はみ子をどんなレベルの命を持つ者として復活させましたか。

      3 殉教の死を遂げたみ子に対する是認を示す比類のない表現として,弱小な人間が不可能と考える事を行なう神は,三日目にイエス・キリストを死人の中からよみがえらせました。どんなレベルの存在としてですか。『み使いたちより少し低い』単なる血肉の人間としてですか。そうではありません! み使いよりもはるかに高いレベル,つまり自らを空しくして自分の生命がユダヤ人の処女の胎内に移されるのを甘んじた時の生命のそれよりも高い天的なレベルの存在としてです。(フィリピ 2:5-11)復活後,肉体をそなえて現われたイエスを最初に見た人の一人,使徒ペテロは述べました。「これに相当するもの……がまた,イエス・キリストの復活を通して今あなたがたを救っているのです。彼は神の右におられます。天へ行かれたからです。そしてもろもろの使いと権威と力は彼に服させられました」― ペテロ第一 3:21,22。ヘブライ 1:1-4。ルカ 24:34。コリント第一 15:5。

      4,5 ダビデの子イエス・キリストはどのようにしてダビデの「主」となりましたか。このことを最初に指摘したのはだれですか。

      4 こうして,処女懐胎によりダビデの家系の「ダビデの子」となって勝利を得た神のみ子は,ダビデ王よりもはるかに高位の者となりました。イエス・キリストの復活後五十日目の七週の祭りの日に,霊感を受けた使徒ペテロは何千人ものユダヤ人に向かって話をし,そのことを指摘しました。ペテロは聖霊に満たされ,彼らにこう言いました。

      5 「このイエスを神は復活させたのであり,わたしたちはみなその事の証人です。それで,彼は神の右に高められ,約束の聖霊を父から受けたので,この,あなたがたの見聞きするものを注ぎ出されたのです。実際ダビデは天に上りませんでしたが,自らこう言っています。『エホバはわたしの主に言われた,「わたしの右に座っていなさい。わたしがあなたの敵たちをあなたの足の台として据えるまで」』。ですから,イスラエルの全家は,神が彼を,あなたがたが杭につけたこのイエスを,主ともキリストともされたことをはっきりと知りなさい」― 使徒 2:32-36。

      6 (イ)ダビデは復活した後に,イエスに関して何を認めなければなりませんか。(ロ)イエスは人間としてどんな系図を持っていますか。

      6 将来,メシアの王国のもとで死人の中から復活させられるとき,ダビデは栄光を受けたイエス・キリストを自分の「主」と認めなければなりません。その時,ダビデはイエス・キリストを「わたしの主」と呼ぶでしょう。(詩篇 110:1,新)そして,地から天に高められた主イエス・キリストを自分の子孫の中の最も重要な者,つまり「ダビデの根また子孫」「ユダ族の者であるしし,ダビデの根」として認めなければなりません。(啓示 22:16; 5:5)ダビデの子孫の二つの家系の系図が,ユダヤ人の処女マリアの息子イエスで終わっているのはそのためです。実際,イエス・キリストの系図は単にダビデ王そして族長アブラハムまでではなく,最初のアダムにまでさかのぼります。アダムはエデンの園で創造されたとき,「神の子」と呼ばれました。(マタイ 1:1-18。ルカ 3:23-38)イエス・キリストは,「神の子」と呼ばれた最初の人間にまでさかのぼって,中断されたり途切れたりせず連綿と続く先祖の系図の保存されている唯一の人物です。

      7 (イ)ダビデ王の家系の王朝はどれほどの期間イスラエルで統治しましたか。(ロ)イエスは対抗する地的な王なしにどれほどの期間統治しますか。どのようにしてそうしますか。

      7 ダビデ王はイスラエルでわずかに40年間治めました。(列王上 2:10,11。歴代上 29:26,27)ダビデ王の王家はその王統の男子の後継者20人により,西暦前1077年から607年まで合計470年間イスラエルを治めました。一つの家系の歴代の王の治める,他のどんな国の王朝がこれに匹敵できますか。ところが,ダビデの天の主としてのイエス・キリストは,ご自分に対抗する地的な王なしに全人類を千年間治めます。その天的な王座に着く後継者なしに治めるのです。彼は不滅だからです。彼は「滅びることのない命の力」を持っており,それで「永久に生き続けるので」,「後継者を持たずに」その王国を保持できるのです。(ヘブライ 7:16,24)み使いガブリエルがナザレでマリアに告げたように,「彼の王国に終わりはありません」。(ルカ 1:33)したがって彼は,ダビデ王の永久相続者です。

      仲間であって,後継者ではない

      8,9 (イ)14万4,000人の者はイエス・キリストの後継者になるのでしょうか。主の夕食を制定した後,イエスは王国における彼らの特権についてどのように述べましたか。(ロ)ダニエルはその同じ共同統治をどのように予告しましたか。

      8 イエス・キリストの14万4,000人の共同相続者はその王国の後継者ではありません。彼らは仲間の王であるにすぎず,イエスは神により彼らの上に立てられた頭です。したがって,啓示 20章4節はそのことをこう述べています。「そして彼らは生き返り,キリストとともに[キリストの次にではない]千年のあいだ王として支配した」。それは主の夕食あるいは晩さんと呼ばれるようになった新しい祝いを制定した後,過ぎ越しの夜,イエス・キリストが忠実な使徒たちに述べたとおりです。「あなたがたはわたしの試練の間わたしに堅くつき従ってきた者たちです。それでわたしは,ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように,あなたがたと王国のための契約を結び,あなたがたがわたしの王国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし,また座に着いてイスラエルの十二部族を裁くようにします」。(ルカ 22:28-30)キリストの時代より何百年も前に預言者ダニエルは,その同じ共同統治について事前にこう指摘しました。

      9 「しかしついには,いと高き者の聖徒が〔王国〕を受け,永遠にその〔王国〕を保って,世々かぎりなく続く」。「日の老いたる者がきて,いと高き者の聖徒のために審判をおこなった。そしてその時がきて,この聖徒たちは〔王国〕を受けた。〔王国〕と主権と全天下の国々の権威とは,いと高き者の聖徒たる民に与えられる。彼らの〔王国〕は永遠の〔王国〕であって,諸国の者はみな彼らに仕え,かつ従う」― ダニエル 7:18,22,27,口語〔新〕。

      10,11 (イ)14万4,000人の者が後継者を持つかどうか,また彼らが「神と子羊に対する初穂」であることに関しては何と言わねばなりませんか。(ロ)どんな精神的態度のゆえに,王としての14万4,000人を恐れる必要はありませんか。

      10 この言葉からすれば当然,いと高き神の14万4,000人の聖徒たちは,後継者なしに千年間キリストとともに王となることがわかります。彼らについてはこう言われています。「これらは,子羊の行くところにはどこへでも従って行く者たちである。これらは,神と子羊に対する初穂として人類の中から買い取られたのであ(る)」。(啓示 14:4)人類の中から買い取られたのですから,彼らはかつては人類の残りの人たちすべてと同様普通の男女でしたが,このことでは,それら14万4,000人の王としての支配を受ける地上の住民は何ら恐れるには及びません。彼らは,「神と子羊に対する初穂」が厳密に「神聖」でなければならないのと同様に「聖徒」になったのです。イエス・キリストによる支配については何らかの恐れるべき点がありますか。いいえ,ありません! 同様に,「人類の中から買い取られた」14万4,000人による支配についても不安な点は何もありません。彼らは使徒パウロの次の助言に従ってきました。「キリスト・イエスにあったこの精神態度をあなたがたのうちにも保ちなさい」。(フィリピ 2:5)彼らはまた,ペテロ第一 4章1節の使徒ペテロの助言にも従ってきました。

      11 「したがって,キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから,あなたがたも同じ精神の意向をもって身を固めなさい。肉体において苦しみを受けている者は罪をやめているからです」。

      12 (イ)神はキリストの仲間の王たちに関して何をあらかじめ定めましたか。(ロ)エホバ神はいつ,またどのようにそのような政府の構成者級を最初に認めましたか。

      12 14万4,000人の者は自分たちの指導者で教師であるイエス・キリストの精神的・倫理的・霊的な像つまり姿を自らの内にはっきりと形造っていなければならないことは明らかです。これはエホバ神が彼らに関してあらかじめ定めた要求の一つです。神はイエス・キリストのそのような姿を自分自身の内に抱く者たちを人類の中のどんな個人で構成するかはあらかじめ定めませんでしたが,その人数は確かにあらかじめ定めました。それは14万4,000人です。神はまた,彼らをどう扱い,どんな輝かしい天的地位に彼らをつけるかをも確かにあらかじめ定められました。エホバ神は,エデンの園で人間が反抗したその時以来,人類の事物の新しい体制のための政府について心配されたので,そのような政府の構成者級を最初に認めました。そしてそのことを,「初めからのへび」である悪魔サタンに知らせた聖なる判決の中で次のように表明されました。「わたしはおまえと女との間に,またおまえの胤と女の胤との間に敵意をおく。彼はおまえの頭を砕き,おまえは彼のかかとを砕く」― 創世 3:15,新。

      13,14 (イ)神の女の約束の「胤」についていえば,イエス・キリストはどんな方ですか。(ロ)自分たちの召しを確実なものにすべく努力していたクリスチャンにあてて,使徒パウロはどんな激励の言葉を書きましたか。

      13 もちろん,神の女のその約束の「胤」の主要な者はイエス・キリストです。しかしそれにはまた,キリストと提携して,へびの頭を砕くことにあずかるそれら忠実な弟子も含まれます。(ローマ 16:20)ゆえに,召しを受け,その召しを確かで最終的なものにすべく努力していた者たちの会衆に語りかけた使徒パウロは,ローマ 8章28-32節で次のような激励の言葉を書きました。

      14 「さて,わたしたちは,神を愛する者たち,つまりご自身の目的にしたがってお召しになった者たちの益のために,神がそのすべてのみ業をともに働かせておられることを知っています。ご自分が最初に認めた者たちを,神はまた,み子の像にかたどったものとするようにあらかじめ定められたからです。それは,み子が多くの兄弟たちの中で初子となるためでした。さらに,神があらかじめ定めた者たちは,またお召しになった者たちでもあります。そして,お召しになった者たちは,ご自分が義と宣した者たちでもあります。最後に,神が義と宣した者たちは,栄光をお与えになった者たちでもあるのです。では,これらのことに対してわたしたちはなんと言えばよいでしょうか。もし神がわたしたちの味方であるなら,だれがわたしたちに敵するでしょうか。ご自身のみ子をさえ惜しまず,わたしたちすべてのために彼を渡してくださったそのかたが,どうしてそのご親切によって,彼とともにほかのすべてのものをも与えてくださらないことがあるでしょうか」。

      15 (イ)神があらかじめ定めたところによれば,神の新秩序の政府はどのようにそれ自体調和したものとなりますか。(ロ)その政府内の者は神の働きによってどのように「義」なる者となりますか。

      15 それら召された人たちは,個人的にいってどんな人かにはかかわりなく,「み子の像にかたどったものとするようにあらかじめ定められ(ていました)。それは,み子が多くの兄弟たちの中で初子となるためでした」と記されていることに注目してください。それは彼らが神の子たちとしてキリストのようになることを要求するとともに保証しています。こうして神は,きたるべきご自分の新秩序の政府を内部分裂や不一致のない,一致調和したものにすることをあらかじめ定めました。その政府内の者はみな,「義」にかなっていなければなりません。神がそれら召された人たちを義と認めるために,特別の,しかし公正な備えを設けなければならないのはそのためです。神は,子羊イエス・キリストの血を通して彼らを義と認めます。神は彼らを死人の中から復活させるとき,義にかなったその人格と調和する完全な霊的被造物として彼らを義なる者にします。(ローマ 5:1,9; 8:1)神はそれらの人たちをイエス・キリストの血に対するその信仰ゆえに今や義と認め,今度は地上での神への奉仕の祝福された数々の特権をもって彼らを尊び,彼らに誉れや栄光を与えます。また,王国における将来の栄光を彼らの前に差し伸べています。

      16 イエスはご自分の弟子たちに,この世の政治家は見倣うべき手本かどうかをどのように示されましたか。

      16 神によって是認され,復活させられて王国の栄光を受ける者たちは,その職についても,現在の世の政府の政治家のようにふるまうことはしません。全人類はこのことを確信できます。イエスはこの世の政治家を見倣うべき手本としてご自分の弟子たちの前に立てたりはしませんでした。天の王国のイエスの14万4,000人の仲間のあいだには政治的対抗はありません。ルカ 22章24-27節の述べるところによれば,それはありません。「彼らの間では,自分たちのうちだれがいちばん偉いのだろうかについても激しい論争が起こった。しかしイエスは彼らにこう言われた。『諸国民の王たちは民に対していばり,民の上に権威を持つ者たちは恩人と呼ばれています。だが,あなたがたはそうであってはなりません。むしろ,あなたがたの間でいちばん偉い者はいちばん若い者のように,頭として行動している者は仕える者のようになりなさい。というのは,食卓について横になっている者と仕えている者では,どちらが偉いのですか。それは,食卓について横になっている者ではありませんか。でもわたしは,仕える者としてあなたがたの中にいるのです』」。

      17 この世に遣わされたイエスは,まさしく人類に対する神の大使でした。なぜですか。

      17 約2,000年前,神のみ子はこの世に遣わされましたが,それは選挙運動をしたり,イスラエル国民の間でさえ政敵と戦ったりする政治家になるためではありませんでした。彼は地上の政治家がだれも行なえないことをするため,すなわち神と敵対関係にあるあらゆる人種・国民・部族の人びとを神と和解させるために来たのです。つまり,命の与え主である偉大なエホバ神との平和で友好的な関係に人類を連れ戻すために来たのです。そうすることは,神のみ子にとって自己犠牲を意味しました。彼はまさしく神からの大使といえます。神と和解し,またそうすることによって神による滅びを免れるよう訴えるために,み子は敵対する人類に遣わされたのです。

      18 キリストの弟子となった人たちは,神のその大使にどのように応じましたか。どんな結果をもたらしましたか。

      18 クリスチャンである弟子たちは,神から遣わされたその大使と,彼が弟子たちのために行なった大使としてのわざとを受け入れました。使徒パウロはローマにいたそのような弟子たちにこう書き送りました。「神は,わたしたちがまだ罪人であった間にキリストがわたしたちのために死んでくださったことにおいて,ご自身の愛をわたしたちに示しておられるのです。それゆえ,わたしたちは彼の血によって今や義と宣せられたのですから,まして彼を通して憤りから救われるはずです。わたしたちが敵であった時にみ子の死を通して神と和解したのであれば,まして和解した今,み子の命によって救われるはずだからです。それだけではありません。わたしたちはさらに,わたしたちの主イエス・キリストを通して神を歓喜しています。このキリストを通して,わたしたちは今や和解を授かったのです」― ローマ 5:8-11。

      キリストの代理をする大使

      19 (イ)キリストの昇天以来,人類に対する大使の仕事はどのように続行されていますか。(ロ)世の政治支配者はキリストの大使たちをどう見ていますか。それはなぜですか。

      19 西暦33年の春に昇天して以来,イエス・キリストはもはや地上にはいないので,大使としてのそのわざを直接続行してはおられません。ですから,和解したその弟子たちがイエスの代理として大使の仕事を続行しなければなりません。この世の政治支配者や政府はそれらの弟子たちを宇宙の最高政府からの大使とは認めません。それらクリスチャンの大使もまた,諸国民の政治上の大使と交渉もしくは折衝して,一度の交渉で,また政治上の大使との間のたった一つの協定によって一国民全体の和解をもたらすわけでもありません。政治支配者や諸政府は派遣された弟子たちを肉にしたがって,つまり古い見地から見ており,ローマ・カトリック教会のバチカンに対して何世紀もの間してきたように,それら弟子たちに対して外交使節を遣わすことはしません。それら称号を持たない弟子たちを,外交官としての礼服や信任状を持たない単なる普通の人間とみなします。それら弟子たちが新しい事がらを提供できる,霊的な意味での新たな被造物であることを識別してはいないのです。

      20 パウロはローマ当局からは大使として認められなかったにもかかわらず,エフェソスの人びとに書き送った手紙の中で自分のことを何と呼びましたか。

      20 使徒パウロはエルサレムのユダヤ人の政府を代表してはいなかったので,ローマ帝国当局によりクリスチャンの大使と認められなかったからといって,いと高き神の政府からの真の大使であるという事実はいささかでも価値を減じましたか。ローマ政府から正しく認められなかったとはいえ,パウロはローマでの拘留中,自分のことを大使と述べて,小アジア,エフェソスの会衆に対してこう言いました。「決してたゆむことなく,またすべての聖なる者たちのために祈願をささげつつ,終始目ざめていなさい。そして,わたしのためにも祈ってください。わたしが口を開くときに話す能力を与えられ,少しもはばかりのないことばで良いたよりの神聖な奥義を知らせることができるようにです。その良いたよりのために,わたしは鎖につながれた大使となっています。わたしがそれについて,当然の大胆さをもって語れるようにと祈ってください」― エフェソス 6:18-20。

      21 クリスチャンの大使たちは自分たちの責任を果たすにさいして,だれのもとに赴きますか。

      21 任命されたクリスチャンは,エホバ神と敵対関係にあるこの世の政府の見解を取り入れてはなりません。クリスチャンは大使としての身分をキリストを通して神から得たのですから,自分に授けられたその新たな栄誉に伴って課せられた責任を認識しなければなりません。クリスチャンはこの世の大使ではありませんから,その新たな資格において政府当局を訪ねるわけではありません。神との和解というこの問題については,政府は国民全体に代わって行動したり,自国民と神との関係を変えたりすることはできません。それは個人的な事がらです。人はおのおの自分で決定して行動しなければなりません。クリスチャンとしての霊的な大使たちが政府を通してではなく,直接人びとのもとに赴くのはそのためです。以前の立場を度外視し,新たな責任を十分に評価した使徒パウロはこの問題を堂々と提起し,こう述べました。

      22 クリスチャンの大使は,だれの代理としてどんな務めを履行しますか。彼らは和解した人たちに,何をしないよう懇願しますか。

      22 「したがって,キリストと結ばれている人がいれば,その人は新しい創造物[もしくは被造物]です。古い事物は過ぎ去りました。見よ,新しい事物が存在しているのです。しかし,すべてのものは神から出ており,神はキリストを通してわたしたちをご自分と和解させ,また,和解の務めをわたしたちに与えてくださいました。すなわち,神はキリストによって世をご自分と和解させて,その罪過を彼らに帰さず,わたしたちに和解のことばをゆだねてくださったのです。それゆえ,わたしたちはキリストの代理をする大使であり,それはあたかも神がわたしたちを通して懇願しておられるかのようです。わたしたちはキリストの代理としてこう願います。『神と和解してください』。罪を知らなかったかたを神はわたしたちのために罪とし,彼によってわたしたちが神の義となるようにしてくださったのです。彼とともに働きつつ,わたしたちはまたあなたがたに懇願します。神の過分のご親切を受けながらその目的を逸することがないようにしてください」― コリント第二 5:17–6:1,英文脚注。

      23 「キリストの代理をする大使」になると,神を代表する人たちにはどんな重大な制約が課されますか。

      23 「キリストの代理をする大使」になると,キリストと結ばれた新しい被造物として神を代表する人たちには重大な制約が課されます。どんな制約ですか。それは政治諸国家の大使に課されるのと同様の制約です。今日だけでなく,聖書時代においても大使は,派遣される外国の政治に干渉する権利を持ってはいませんでした。(ルカ 19:12-15,27)大使は外国の政府に対して訴えや抗議をさえ行なえるかもしれませんが,外国の政治に加わることは厳に慎まねばなりません。大使は本国政府に対して忠節でなければならず,外国政府と交渉するさいには,大いに用心して自国の権益を守らねばなりません。もしそうしないなら,そのような大使は忌避されたり,信任状を撤回され,外国駐在を拒否されたりする恐れがあります。

      24 それら霊的な大使の市民権はどこにありますか。彼らはどんな政府を代表しますか。また,この世のどんな活動を慎しみ,そのようにして身の潔白を守りますか。

      24 キリストと共同の相続者である14万4,000人は,地上にいる間,自分たちは「キリストの代理をする大使」であることを認めます。そして,自分たちがそうした大使であるということは,神に敵対するこの世と自分たちとの関係にとって実際に何を意味しているかを聖書に照らしてはっきりと理解しています。(ローマ 5:10)彼らは使徒パウロとともにこう告白します。「わたしたちの市民権は天にあり,わたしたちはまた,そこから救い主,主イエス・キリストが来られるのをせつに待っています」。(フィリピ 3:20)敵意を持つこの世にあって彼らは,世界中で宣べ伝えるよう主イエス・キリストから命じられた天の王国を忠実に代表しなければなりません。(マタイ 24:14)敵対するこの世に対して彼らは霊的な大使であるとはいえ,この世のどんな国家の政治にも干渉したり,参加したりすることは許されません。彼らは政治的な選挙運動に携わったり,世の政府の公職を奉じたりすることはできません。それはこの世の大使が忠節を二分したり,外国で政治上の職についたりすることができないのと同じです。こうして彼らは,地上のいかなる国家の犯す違法行為や流血の共同責任に関しても身の潔白を保ちます。

      25 14万4,000人の王国共同相続者はどのようにして「野獣」やその「像」を崇拝しないようにし,またその印を額や手に受けないようにしますか。

      25 このことを考えると,キリストの王国提携者となる忠実な14万4,000人の者に関して使徒ヨハネが述べたことをいっそう正しく認識できます。「実に,イエスについて行なった証しのため,また神について語ったために斧で処刑された者たち,また,野獣もその像をも崇拝せず,額と手に印を受けなかった者たちの魂を見たのである。そして彼らは生き返り,キリストとともに千年のあいだ王として支配した」。(啓示 20:4)人を啓発する神の霊の力を受けた彼らは,666という数字を持つ「野獣」が悪魔の世界的な政治体制であることを悟っています。悪魔はその体制を用いて「この世の支配者」となっているのです。また,彼らは今日,その政治的な野獣の「像」はもう一つの政治機構,すなわち神との敵対関係にあるこの世の平和と安全のために人間の立てた機構つまり国際連合であることをも悟っています。彼らはその象徴的な「野獣」の携わっている政治や闘争に巻き込まれないようにし,身を潔白に保って初めて,野獣の印を額あるいは手に受けずにすむのです。

      26 「野獣」を崇拝することを避け,その「印」を身につけないようにするとはいえ,14万4,000人の者は世の「上にある権威」に何を与えますか。どの程度までそうしますか。

      26 14万4,000人の者たちは「野獣」とその政治的な「像」の奴隷でも,崇拝者でもありません。彼らはむき出しの額の印で表わすように,自らを悪魔サタンの配下で人間の支配権を行使するその「野獣」の奴隷として公に表わしてはいません。彼らは,奴隷のように,また崇敬の念をいだいて「野獣」を積極的に支持し,「右手で握手をして」示すように,自分たちの手にその政治的な「印」がついていることを示してはいません。彼らはローマ 13章1-7節にある使徒パウロの助言にまさしく従い,この世の「上にある権威」に対する服従を良心的に表わして,税金その他当然支払われるべきものを支払います。しかし,その服従は絶対的のものではありません。それはある重大な理由のゆえに単なる相対的服従にすぎません。それはどういうことですか。すなわち,それら地的な上にある権威の法律や裁定が,いと高き神の律法や裁定に牴触する場合,彼らはエルサレムの最高法廷でキリストの使徒たちが示した次のような方針に良心的に従わねばなりません。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」。(使徒 5:29)そうすることによって初めて,「野獣」の「印」を身につけられないようにし,キリストとともに天で統治するにふさわしい者であることを実証できます。

      27 啓示 22章4節によれば,14万4,000人の者は自分たちの身分を証明するどんなものを額につけて,あらわに示していますか。

      27 それゆえ,14万4,000人の忠実な者たちは,自己本位なこの世の政治上の汚れたものをいっさいキリストの天の王国に持ち込みません。彼らの身分を証明する,その額に表示されているものについていえば,啓示 22章3-5節はそれら神の忠節なしもべたちに関してこう述べています。「その奴隷たちは神に神聖な奉仕をささげるのである。彼らは神の顔を見,神の名が彼らの額にあるであろう。……エホバ神(は)彼らに光を与える……そして彼らはかぎりなく永久に王として支配するであろう」。

      千年間その職につくことの益

      28 (イ)14万4,000人の者にとって,後継者なしに千年間統治することにはどんな益がありますか。(ロ)サタンとその悪霊たちは解き放たれるとき.神の支配権に関して何を行ないますか。惑わされる者たちはどうなりますか。

      28 悪魔サタンとその悪霊たちが縛られ,底知れぬ所に入れられた後,千年間キリストとともに王として支配するのは彼らにとってなんとすばらしい特権また機会なのでしょう。その結果,彼らには神の新秩序のその最初の千年の期間中になすべきこととしてエホバ神から割り当てられるわざを首尾よく完遂するための十分の時間が与えられます。彼らにも,イエス・キリストにも,あとからやって来て職につき,前任者の成し遂げた事がらを覆そうとしたり,物事を別の仕方でしようとしたりする後継者はいません。啓示 20章7-10節によれば,悪魔サタンと悪霊たちは千年の終わりに解き放たれた後,物事を覆そうとします。そして,神の栄光と人間の祝福のために千年期政府の成し遂げた事がらをことごとく覆そうとしますが,失敗します。その時サタンにまんまと惑わされる人びとはみなその後,神の支配権に対する自分たちの反抗が無力で,はかないものであることに気づきます。それら地上の反抗者はサタンとその悪霊もろともに,生ける者の領域から一掃されてしまいます。

      29 (イ)千年の終わりになって,物事は神がみ子を遣わしたり,あるいはみ子が死んだりしたことが徒労に終わらなかったことをどのように示しますか。(ロ)どんな点でキリストと14万4,000人の者には,千年間統治したことが徒労に帰さなかったことを喜ぶべき理由がありますか。

      29 イエス・キリストとその14万4,000人の王国共同相続者の千年統治は徒労に終わるものではありません。全地にわたる楽園で人類が人間としての完全性を回復したことは以後既定の事実となります。そうです,神のみ子イエス・キリストの死は徒労に帰するものではありません。神が愛をもってみ子をこの世に遣わされた目的は,失敗に帰すことはありません。サタンがしばしの間解き放たれるさい,忠節を保って試練を通過する,エホバの宇宙主権の忠実な擁護者ゆえに,創造者なる全能の神はご自分に対する忠誠を破ることなく保持する男女をこの地上に置き得ることが圧倒的に立証されます。それゆえに彼らは,最高の審判者エホバ神により義と認められ,地上の楽園で平和と幸福のうちに永遠に神に仕える犯すべからざる権利を与えられるに値する者となります。(啓示 20:5)イエス・キリストと14万4,000人のその仲間の王たちは人類に対する神の裁きのそのような結果を喜ぶとともに,千年にわたる自分たちの統治が首尾よい結果をもたらしたことを知ります。

      30 14万4,000人の者は王としての職責以外に他のどんな職責をキリストとともに千年間果たさねばなりませんか。このことからどんな質問が生じますか。

      30 とはいえ,使徒ヨハネが見た輝かしい幻は,14万4,000人の王国共同相続者は王としてキリストとともに支配する以上のことをするということを明らかにしています。啓示 20章6節は「第一の復活」にあずかるそれら14万4,000人の者たちについて,「彼らは神およびキリストの祭司とな(る)」と述べています。彼らはまた,なぜ千年間「祭司」でなければならないのでしょうか。そうなれば,単なる王権だけでは成し遂げられないどんな事がらが成し遂げられるのでしょうか。その答えを見いだすまでは,きたるべき千年に関して得心できるものではありません。

  • 狡猾な政略を弄せずに,十世紀にわたって仕える祭司たち
    神の千年王国は近づいた
    • 6章

      狡猾な政略を弄せずに,十世紀にわたって仕える祭司たち

      1,2 (イ)歴史の記録にとどめられている祭司たちはなぜ人びとをそれほどまでに虐待してきたのでしょうか。(ロ)ギリシャの神ゼウスとユダヤ人の生ける神との相違がルステラで示されたのはいつですか。

      人類の歴史はその初期の時代以来,祭司に関する記録で満たされています。人類が祭司たちによって大いに惑わされ,欺かれ,搾取され,抑圧されてきたのは,そうした祭司たちの大多数が生ける唯一の真の神の祭司ではなかったからです。19世紀前のこと,異教徒ギリシャ人の最高の神に仕えていた,ある祭司はほかならぬその事実に注目させられました。どのようにしてですか。

      2 そのできごとは西暦47ないし48年ごろ,小アジアのローマ領ルカオニア州,ルステラ市で起きました。同市の住民は,ローマ人によればジュピターと呼ばれ,ギリシャ人によればゼウスと呼ばれる神を崇拝していました。が,神の王国を宣べ伝える二人の男子が同市にやって来るに及んで,ゼウスあるいはジュピター神と生ける唯一の真の神との著しい相違が示されることになりました。それら二人の男子のうちの一人は,以前長年ユダヤ教の一派パリサイ派に所属していたパウロで,別の一人はかつてエルサレムの神殿付きのレビ人であったバルナバでした。そこで起きた事については,医師ルカに述べてもらうことにします。

      3 ルステラで行なわれたどんな奇跡的な癒しのゆえに,その地のゼウスの祭司は犠牲をささげたいと考えましたか。

      3 「さて,ルステラに,母の胎を出た時から足なえで,両足の利かない人が座っていた。彼はそれまで一度も歩いたことがなかった。この人はパウロが話すのを聴いていたが,パウロは彼をじっと見て,いやしを受けるだけの信仰があるのを見ると,大きな声で言った,『自分の足でまっすぐに立ちなさい』。すると,彼は躍り上がって歩きはじめたのである。そこで群衆はパウロが行なった事を見て声を上げ,ルカオニア語で,『神々が人間のようになってわたしたちのもとに下って来たのだ!』と言った。そして,バルナバをゼウス,またパウロのほうを,彼が先に立って話していたので,ヘルメス[マーキュリー]と呼びはじめた。また,市の前に神殿があるゼウスの祭司は,数頭の雄牛と花輪を門のところに携えて来て,群衆といっしょに犠牲をささげようとするのであった。

      4 バルナバとパウロは,自分たちに対して犠牲がささげられるのをどのようにして阻止しましたか。

      4 「しかし,そのことを聞くと,使徒のバルナバとパウロは,自分の外衣を引き裂いて群衆の中に飛び出し,叫んでこう言った。『皆さん,なぜこうした事をするのですか。わたしたちも,あなたがたと同じ弱さを持つ人間です。そして,あなたがたに良いたよりを宣明しているのも,あなたがたがこうしたむだな事がらから生ける神に,天と地と海とその中のすべての物を作られたかたに転ずるためなのです。過去の世代において,神は諸国民すべてが自分の道を進むのを許されました。とはいえ,ご自分は善を行なって,あなたがたに天からの雨と実りの季節を与え,食物と楽しさとをもってあなたがたの心を存分に満たされたのですから,決してご自身を証しのないままにしておかれたわけではありません』。それでも,このように言って,彼らはやっとのことで,群衆が自分たちに犠牲をささげるのをとどめたのである」― 使徒 14:8-18,英文脚注。

      5 宗教面で興奮した群衆がどんなに気まぐれな人びとだったかを,後日どんなできごとが示しましたか。それで,ルステラでは祭司のどんな政略が依然続きましたか。

      5 ルステラの住民のある人びとはイエス・キリストの弟子,また「生ける神」の崇拝者になりましたが,一般の群衆はそうはなりませんでした。宗教面で興奮した群衆がどんなに気まぐれで,動じやすい人びとだったかは,後日彼らがキリスト教に敵するユダヤ人に説得されるまま,奇跡を行なうパウロを石打ちにし,まるで死んだようになった彼を同市の外に置きざりにするほどの仕打ちをしたことからもわかります。明らかに同市のゼウスの祭司は反対しませんでしたし,ルステラの群衆は相変わらずゼウスを崇拝し,ゼウスのその祭司に惑わされ,搾取されるままになっていました。また,ユダヤ人でキリスト教に敵する迫害者たちは,ルステラでそうした事態が見られるのを喜んでいました。―使徒 14:19-22。

      6 イエスが裁かれ,杭につけられたことに関する記録は,生ける神の祭司たちでさえ悪い者になりうることをどのように証明していますか。

      6 記録によれば,「生ける神」への奉仕に携わっていたユダヤ人の祭司たちさえ悪い者になりました。たとえば,西暦33年のあの有名な過ぎ越しの日に,群衆はイエス・キリストを杭につけて処刑するよう叫び求め,ローマ総督が,「わたしがあなたがたの王を杭につけるのか」と尋ねて,群衆を制止しようとした時,ユダヤ人の王としてのイエス・キリストを退ける点で率先していたのはだれですか。記録はこう述べます。「ピラトは彼らに言った,『わたしがあなたがたの王を杭につけるのか』。祭司長たちは答えた,『わたしたちにはカエサルのほかに王はいません』。こうしてその時,ピラトはイエスを彼らに引き渡して杭につけさせることにした」。(ヨハネ 19:14-16)その日の後刻,カルバリで刑柱に釘づけにされて掛けられていたイエスを通行人が悪しざまにののしったとき,イエスをあざけったそれらの者の中にはだれがいましたか。記録は率直にこう述べています。「同じように祭司長たちも,書士や年長者たちといっしょに彼を嘲弄しはじめて,こう言った。『ほかの者は救ったが,自分は救えないのだ! 彼はイスラエルの王だ。だったら今,苦しみの杭から下りて来てもらおうではないか。そうしたらわれわれは彼を信じよう。彼は神に頼ったのだ。神が彼を必要とされるのなら,いま神に救い出してもらうがよい。「わたしは神の子だ」と言ったのだから』」― マタイ 27:39-43。

      7 ペテロとヨハネ,また後日,十二使徒がエルサレムのユダヤ人のサンヘドリンの前に出たとき,祭司長たちと神との関係に関して何が明らかになりましたか。

      7 ここで「祭司長たち」として言及されているのは,特にアンナス(大祭司の勤めを退いていた)とその婿カヤファのことです。(ルカ 3:1,2。ヨハネ 18:13,24。使徒 4:5,6)それら祭司長たちおよびエルサレムの最高法廷(サンヘドリン)の成員の残りの者たちがクリスチャンの使徒ペテロとヨハネに,「どこにおいてもイエスの名によって何か口にしたり教えたりすることはないように」と命じたとき,ペテロとヨハネはそれら祭司長たちに向かって言いました。「神よりもあなたがたに聴き従うほうが,神から見て義にかなったことなのかどうか,あなたがた自身で判断してください。しかし,わたしたちとしては,自分の見聞きした事がらについて話すのをやめるわけにはいきません」。(使徒 4:18-20)その後しばらくして,イエス・キリストの12人の使徒たち全員がその同じエルサレムの最高法廷に出頭し,同法廷の主宰役員としての大祭司と法廷の残りの者すべてに向かって次のように言うのを,その大祭司は聞きました。「わたしたちは,自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」。(使徒 5:29)それらユダヤ人の祭司長たちが「生ける神」に仕えるのをやめていたことは明らかでした。彼らはもはやその神を代表してはいませんでした。

      8 それらユダヤ人の祭司長たちの記録に対応する記録を持つどんな人間は,キリストとともに仕える千年期の祭司から除外されますか。

      8 聖書中のこうした記録を考えると,キリスト教世界の宗教体制内で「祭司」という称号を担う者たちが,宗教史および一般の歴史の示すとおり,自らのためにきわめて憎悪すべき卑劣な記録を残してきたとはいえ,類例がないわけではありません。啓示 20章6節で,「彼らは神およびキリストの祭司となり,千年のあいだ彼とともに王として支配する」と述べられている祭司たちの中に,前述のような地上の祭司たちが含まれるなどと考えようものなら,恐ろしさのあまり身震いすることでしょう。喜ばしいことに,霊感を受けた聖書は,そのような者たちを天でイエス・キリストとともに一千年の期間仕える祭司としては不適格者として除外しています。

      9 ユダヤ人の祭司がみな,それら祭司長たちのような人間だったかどうかについて聖書は何を示していますか。

      9 しかし厳密に公平にいえば,エルサレムの神殿で仕えていたユダヤ人の祭司たちは全部が悪い祭司だったのではないことを述べておかねばなりません。聖書の記録は,当時のクリスチャン会衆の統治体がエルサレム会衆で起きた問題をどのように解決したかを述べたのち,その点を確証しています。使徒 6章7節はこう続けています。「その結果,神のことばは盛んになり,弟子の数はエルサレムにおいて大いに殖えつづけた。そして,非常に大ぜいの祭司たちがこの信仰に対して従順な態度を取るようになった」。

      10 イエスを信じた祭司やレビ人たちの,神殿での仕事はどうなりましたか。彼らはどんな祭司職の成員になりましたか。

      10 もちろん,預言者モーセの兄弟アロンの家系のそれらの祭司たちは,メシアまた神のみ子としての主イエスの名によってバプテスマを受けた後,エルサレムの神殿における祭司としての仕事を捨てました。同様に,キプロス出身のヨセフ・バルナバも,その同じ神殿におけるレビ人としての自分の仕事を捨てました。(使徒 4:36,37)とはいえ,それら以前の祭司は今や,さらにすばらしい祭司制度の成員になりました。それは天的な希望をいだくクリスチャンに対して使徒ペテロが次のように述べて保証した,「王なる祭司」で成る祭司制度でした。「しかしあなたがたは,『選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民』であり,それは,やみからご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださったかたの『卓越性を広く宣明するため』です」― ペテロ第一 2:9; 1:3,4。

      11 地上でのイエス・キリストはどうしてユダヤ人の祭司ではなかったのですか。しかし,彼の真の祭司職はどんな大祭司のそれに象られていましたか。

      11 しかし注目すべきことに,地上の祭司制度はあの「王なる祭司」,つまりあの「祭司の王国」の大祭司を供しませんでした。(出エジプト 19:6)イエス・キリストは肉によれば確かにユダヤ人もしくはイスラエル人でしたが,ユダヤ人の祭司職が限定されていたレビ族のアロンの家系に生まれたのではありません。イエスは「マリアの子」だったので,ダビデの王家に,したがってユダの部族に生まれました。「わたしたちの主がユダ,すなわちモーセが祭司については何も語らなかった部族から出たことは全く明白なのです」。(ヘブライ 7:14)ゆえに,イエス・キリストの天的な大祭司としての職能は彼が地上で人間として祭司を勤めていたことに基づいていたとはいえません。ここでわたしたちは,イエスがどのようにして王であるほかに祭司となられたかを調べなければなりません。とはいえ,彼の真の祭司職はユダヤ人の大祭司アロンのそれに象られていました。

      「生ける神」の真の祭司の価値

      12 いずれにしても,ヘブライ 5章1-3節によれば,祭司にはどんな価値がありますか。

      12 いずれにしても,祭司にはどんな価値がありますか。祭司は,単なる王には行なえない事がらを行ないます。異教の神の無価値な祭司職についてではなく,レビ人アロンの家の祭司職について述べたヘブライ 5章1-3節にはこう記されています。「人の中から取られる大祭司はみな,人びとのため,神にかかわる事がらの上に任命されます。供え物と罪のための犠牲とをささげるためです。彼は,自分もまた[大祭司アロンのように]自らの弱さにまとわれているので,無知で過ちを犯す者たちを穏やかに扱うことができ,またそのゆえに,民のためにするのと同じように,自分のためにもやはり罪のためのささげ物をすることを余儀なくされています」。

      13 (イ)人類のための祭司が必要でなかったのはいつでしたか。(ロ)イエスはなぜ大祭司となって犠牲をささげることができましたか。

      13 「生ける神」に対する人間の罪がなかったなら,祭司,とりわけ大祭司は必要ではありませんでした。エデンの園にいた完全な人間アダムは祭司を必要としませんでした。彼はエホバ神により罪のない者として創造されたからです。エホバ神は罪の源ではありません。(創世 2:7,8。伝道 7:29)「最後のアダム」と呼ばれるイエス・キリストは,罪人である人類の中に生まれましたが,祭司を必要とはしませんでした。なぜなら,彼は処女マリアから生まれ,その命は直接神から来たからです。彼は罪なくして生まれ,罪なくして成長し,また犠牲の死に至るまで罪のない状態を保ちました。(コリント第一 15:45-47。ヘブライ 7:26。ペテロ第一 2:21-24)彼は罪がなかったゆえに,大祭司となって,完全な犠牲をささげることができました。

      14,15 (イ)イエスはどのようにして大祭司になりましたか。自らそうなるよう自分で決めることによってですか。それともどのようにしてですか。(ロ)エホバがイエスを復活させることによって,詩篇 2篇7節はどのように成就しましたか。その時,イエスはどのようにしてメルキゼデクに似た祭司になることができましたか。

      14 イエス・キリストはユダの王族の出だったにもかかわらず,だれが彼を大祭司にしましたか。彼は自ら大祭司になることに決めましたか。いいえ,そうすることはできませんでした。そのことがヘブライ 5章4-6節に次のように説明されています。「また,アロンの場合と同じように,人はこの誉れを自分で取るのではなく,神に召された時にのみ取るのです。キリストもまた,自ら大祭司となって自分に栄光を付したのではなく,彼について,『あなたはわたしの子。わたしがきょうあなたの父となった』と言われたかたによって栄光を与えられました。そのかたはまたほかの所で,『あなたはメルキゼデクのさまにしたがって永久に祭司である』とも言っておられます」。

      15 死人の中からイエス・キリストを復活させることによって,全能の神は,ダビデの記した詩篇 2篇7節から引用されたそれらの言葉を成就しました。こうして神は,復活したイエス・キリストの永遠の父となり,また不滅の者としてよみがえらされたその方は,命の与え主である天のエホバ神の永遠のみ子となりました。今や不滅のみ子となったのですから,彼は後継者を必要とせずに「永久に祭司」になることができ,こうして,「メルキゼデクのさまにしたがって」祭司となることになりました。―使徒 13:33-37。詩篇 110:4。

      16 このメルキゼデクはいったいだれですか。創世記によれば,彼はどのように歴史に登場しましたか。

      16 その神秘的な歴史上の人物メルキゼデクとはいったいだれですか。彼はヘブライ人でも,イスラエル人でも,レビ人でも,ユダヤ人でもありませんでした。西暦前1943年から1933年の間のある時期に彼は突然,今日のエルサレムの場所の近辺で登場します。そこで,戦いから戻って今日のヘブロンの近くに帰る途中であった「ヘブライ人アブラム」が彼に会いました。ヘブライ語聖書はその出会いについて述べていますが,それは次のとおりです。「アブラムがケダラオメルとその連合の王たちを撃ち破って帰った時,ソドムの王はシャベの谷,すなわち王の谷に出て彼を迎えた。その時,サレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒とを持ってきた。彼はいと高き神の祭司である。彼はアブラムを祝福して言った,『願わくは天地の主なるいと高き神が,アブラムを祝福されるように。願わくはあなたの敵をあなたの手に渡されたいと高き神があがめられるように』。アブラムは彼にすべての物の十分の一を贈った」― 創世 14:17-20,口語。

      17 どんな点でメルキゼデクは,大祭司としてのイエス・キリストを予表しましたか。イエスはメルキゼデクの後継者でしたか。

      17 この記録はメルキゼデクの父親がだれかを述べてはいないので,メルキゼデクは祭司職を父親から受け継いだとはいえません。またそれは,メルキゼデクがいつ死んだかを述べてはいないので,その祭司職はいついつ終わったと言うこともできません。ゆえに,その祭司職は定めのない時まで続きました。このことと一致して,メルキゼデクに後継者がいたとは伝えられていません。こうした点で,彼は大祭司イエス・キリストを予表するのに用いることができました。あるいは,イエス・キリストは「メルキゼデクのさまにしたがって永久に祭司」であると言うことができたのです。イエス・キリストはメルキゼデクから祭司職を得たのではありません。イエスはメルキゼデクの後継者としての祭司ではありませんでした。彼は単に「さま」つまり型の点で,サレムのあの王なる祭司に似ていたにすぎません。

      18 メルキゼデクという名前からすれば,イエス・キリストの祭司職はどんな祭司職といえますか。ヘブライ 6章20節から7章3節までにメルキゼデクに関する事がらがどのように説明されていますか。

      18 メルキゼデクという名前は「義の王」という意味であり,イエス・キリストはメルキゼデクの「さま」に似ているので,このことは千年にわたる大祭司イエス・キリストの祭司制度が,術策をめぐらし,狡猾な政略を弄することのない義の祭司制度であることを保証しています。そのことはヘブライ 6章20節から7章3節までに次のようによく説明されています。「それは,メルキゼデクのさまにしたがい永久に大祭司となられたイエスです。このメルキゼデク,つまりサレムの王,また至高の神の祭司であり,王たちの討伐から帰るアブラハムを出迎えて祝福し,アブラハムがすべての物のうちその十分の一を配分した人ですが,このメルキゼデクは,訳せば,まず第一に『義の王』,ついでまたサレムの王,つまり『平和の王』です。彼は,父もなく,母もなく,系図もなく,生涯の初めもなければ命の終わりもなく,神の子のようにされていて,永久に祭司のままです」。

      19 祭司職に関してはメルキゼデクはどのようにして「神の子のようにされ」ましたか。それで,イエスの祭司職は何に依存していましたか。

      19 メルキゼデクはどのようにして「神の子のようにされ」ましたか。つまり,神のみ子イエス・キリストをさし示す例として用いられましたか。それはエホバ神がみ子イエス・キリストのために立てようとしておられた誓いについて述べるさい,メルキゼデクを型として用いたという点においてです。神はダビデ王に霊感を与えて,詩篇 110篇1-4節〔新〕で次のように言わせました。『エホバわが主にのたまう 我なんじの仇をなんじの〔足台〕とするまではわが右にざすべし……エホバ誓いをたてて聖意をかえさせたまうことなし 汝はメルキゼデクのさまにひとしくとこしえに祭司たり』。ゆえに,メルキゼデクの場合のように,イエス・キリストの祭司職は人間の家系や相続権に基づくものとはされませんでした。イエスはメルキゼデク,あるいはレビ族のアロンの祭司の家系のいずれかを通して祭司職を得る必要はありませんでした。イエスの祭司職は,エホバ神の誓いと,死人の中から復活させられて天的な命を持つ不滅の者として神の右に上げられたこととに基づいていました。

      20,21 (イ)死んでゆく人類のために,祭司職の変化,つまりアロンの祭司職からメルキゼデクのそれへの変化が必要でした。なぜですか。(ロ)そのことはヘブライ 7章11-14節にどのように述べられていますか。

      20 アロンのレビ族の祭司職は,エホバ神がアラビアのシナイ山で仲介者モーセを通してイスラエル民族に与えた律法によって制定されました。しかし,違犯者アダムから罪と不完全性を受け継いだアロンの家系は完全な大祭司を生み出しませんでしたし,また生み出すことはできませんでした。その家系の生み出した祭司で,完全な者はいませんでした。(ローマ 5:12)それで,全人類の陥った事態は,エホバ神からの祭司職の変化,つまり不完全で滅ぶべき祭司職から,完全で永続する祭司職への変化を必要としました。ゆえに,古代のメルキゼデクに似た大祭司が必要でした。ヘブライ 7章11-14節が述べているのはそのことです。

      21 「そこで,もし完全にすることがほんとうにレビの祭司職を通してであったとすれば,(それ[レビ族の祭司職]を特色として民は律法を与えられたのですが,)メルキゼデクのさまにしたがい,またアロンのさまにしたがうとは言われない別の祭司の起こる必要がさらにあるでしょうか。祭司職が変えられつつあるので,当然律法の変更も生じるのです。これらのことが言われている人[イエス・キリスト]は別の部族の成員であり,その部族の者はだれも祭壇での職務を行なったことがないからです。わたしたちの主がユダ,すなわちモーセが祭司については何も語らなかった部族から出たことは全く明白なのです」。

      22,23 (イ)レビ族の大祭司とは対照的に,イエスはどのようにして大祭司にされましたか。(ロ)ヘブライ 7章23-28節によれば,大祭司としてのイエスはご自分を通して神に近づく人たちをどのようにして完全に救えますか。

      22 ユダヤ人の大祭司アロンと職務についたその後継者たちは,エホバ神の誓われた誓いをもって祭司にされたのではありません。しかし,イエス・キリストは地上の祭司とは全く無関係に,神の誓いによって大祭司とされました。イエスの命は彼が完全な人間の犠牲として死ぬことにより短期間中断されましたが,彼はメルキゼデクのように永久に大祭司となるべく,朽ちない天的な命に復活させられました。このイエスと,アロンのレビ族の祭司職およびその後継者たちとの相違がヘブライ 7章23-28節にこう説明されています。

      23 「さらに,祭司の職にとどまることを死によって阻まれるため,多くの者[アロンの子たち]が次々に祭司とならねばなりませんでしたが,彼[より偉大なメルキゼデク]は永久に生き続けるので,後継者を持たずに自分の祭司職を保ちます。それゆえ,彼は自分を通して神に近づく者たちを完全に救うこともできます。常に生きておられて彼らのために願い出てくださるからです。このような大祭司,忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ,[もろもろの]天よりも高くなられたかたこそわたしたちの必要にかなっていたのです。彼は,あの大祭司たちがするように,まず自分自身の罪のために,ついで民の罪のために,日ごとに犠牲をささげる必要はありません。(彼はご自身をささげた時,そのことをただ一度かぎり行なわれたからです。)[モーセの]律法は弱さを持つ人たちを大祭司として任命しますが,律法ののちに[四百年余を経て]来た,明言された[神の]誓いのことばは,永久に完全にされたみ子を任命するのです」。

      24 イエス・キリストはどんな「聖なる所」で仕える大祭司ですか。イエスの勤める,どんな時期の祭司職に対して人類は感謝すべきですか。

      24 それで,ここで言わんとしているのはどんな論点ですか。それは次の二つの節(ヘブライ 8:1,2)でこう要約されています。「そこで,いま論じている点について言えば,これがその要点です。すなわち,わたしたちにはこのような大祭司があり,彼は天におられる威光のみ座の右に座し,聖なる所,そして,人間ではなくエホバの立てた真の天幕の公僕であられるという点です」。ですから,人類は,悪魔サタンとその悪霊たちが縛られて底知れぬ所に入れられる,所定の千年間,神に近づいて人類のために懇願するこのような大祭司を持てることに対して神に深く感謝すべきではありませんか。そのとおりです! 神のこうした備えはまさしく,人類のための最善の益を保証しています。

      25 イエスはなぜエルサレムの神殿で大祭司として仕えませんでしたか。エルサレムの神殿は何を表わす型でしたか。

      25 完全な人間として地上におられたとき,イエス・キリストはエルサレムの神殿で公僕として仕えたことは決してありませんでした。モーセの律法によれば,そうすることは許されませんでした。なぜなら,彼はレビ人でも,アロンの祭司の家系の者でもなかったからです。とはいえ,イエスは,より高い聖なる所で,つまりヘロデ大王や総督ゼルバベルあるいはソロモン王のような人間がエルサレムに建てたのではない,より高次の,もしくはより重要な神殿で仕えました。預言者モーセが建てた会見の幕屋のような,それら人間の建てた神殿は単に模型的な,つまり説明となるものにすぎませんでした。(出エジプト 40:1-33)メルキゼデク王がサレムに神殿を建てたとか,「至高の神の祭司」として仕えるためにそうした建物を必要としたとかという記録はありません。それで,メルキゼデクに関連して,そのようなものは何一つ型として用いることはできません。しかし,より偉大なメルキゼデク,つまりイエス・キリストは大祭司として対型的な聖なる所また神殿で,すなわち「聖なる所,そして…エホバの立てた真の天幕」で仕えています。

      真の神殿

      26,27 (イ)神聖な天幕やエルサレムの神殿はどんな仕切り室に分けられていましたか。(ロ)その天幕やソロモンの神殿のおのおのの仕切り室にはどんな備品がありましたか。

      26 モーセがシナイ山で建てた神聖な天幕やエルサレムの神殿には二つの仕切り室があって,第一の仕切り室は聖所と呼ばれ,第二の,つまり一番奥の仕切り室は至聖所,もしくは最も神聖な所と呼ばれました。

      27 第一の仕切り室,つまり聖所には幾つかの備品がありましたが,それは普通「供えのパン」と呼ばれるパンを捧げるための金の食卓と,上端にともしび皿を取りつけた七つの枝のある金の燭台と,備え付けの金の香壇でした。この仕切り室で大祭司は金の燭台の光の中で供えのパンを整えたり,かぐわしい香を祭壇に供えたりすることができました。しかし,一番奥の仕切り室つまり至聖所には,モーセの張った天幕やソロモン王の建てた神殿の場合,聖なる金の契約の箱がありました。そして,その箱の金のふた,もしくは覆いの上には,金でできた二つのケルブが互いに翼を伸ばして対座していました。この一番奥の仕切り室,つまり至聖所で光を供したのは,なだめの覆いの上方で,二つのケルブの間で輝く,シエキナの光と呼ばれる奇跡的な光でした。

      28 ユダヤ人の大祭司は至聖所で贖罪の犠牲の血を振りかける用意をどのようにして整えましたか。こうして,大祭司はだれのために贖罪を行ないましたか。

      28 毎年一回,贖罪の日に,贖罪の犠牲の血を捧げる前に,アロンの家系の大祭司は持ち運びのできる香炉つまり手にさげる吊り香炉を持って,第一の仕切り室と一番奥のそれ(至聖所)とを隔てている奥の幕の内側に入り,シエキナの光に照らされながら契約の箱の前で香をたきました。そのようにして,後刻二頭の贖罪の犠牲の血を携えて戻り,その血を契約の箱のなだめの覆い(贖罪所)に向かって振りかける用意を整えたのです。こうして大祭司は,自分自身とそのレビの家あるいは部族の罪,次いでイスラエルの民の罪のために贖罪を行ないました。これはモーセの律法契約に大要が述べられている贖罪の手順です。―ヘブライ 9:1-10。民数 7:89。

      29 (イ)モーセの張った神聖な「天幕」はいつ落成しましたか。また,ソロモンの神殿の場合はいつでしたか。(ロ)真の天幕もしくは神殿はいつ存在するようになりましたか。

      29 モーセは西暦前1512年の春の月,ニサンの第1日にシナイの荒野で神聖な会見の天幕を建てました。ソロモン王は西暦前1027年にエルサレムの神殿を完成し,その後,西暦前1026年の秋の月,チスリの第15日にそれを献堂しました。(列王上 8:1,2,65,66)しかし,対型的な天幕もしくは神殿,つまり「聖なる所」を備えた「真の天幕」はいつ存在するようになりましたか。それはヘロデ大王の建てた模型的な神殿が依然としてエルサレムに立っていた,西暦29年の初秋のことでした。それはどうしてですか。その時,真の神殿を必要とするどんな事が起きたのですか。

      30,31 (イ)対型的な大祭司はどんなできごとに際して,またどのようにして存在するようになりましたか。(ロ)その時,罪を取り除く,どんな対型的な日が始まりましたか。イエスがささげたものと,アロンがささげたものとはどのように比べられていますか。

      30 西暦29年のその年に対型的な大祭司が存在するようになりました。そして彼は,アロンのレビ族の大祭司のように,その職務に携わるための神聖な天幕もしくは神殿を持たねばなりませんでした。犠牲をささげるその対型的な大祭司こそ,霊的な大祭司になるべく神の聖霊で油そそがれた主イエスです。イエスの上に聖霊が臨み,そのようにして油を注がれたのは,彼がヨルダン川でバプテストのヨハネによってバプテスマを施された後でした。こうしてイエスは30歳でメシアつまり油そそがれた者になりましたが,それは人類の罪のための犠牲の死を遂げる3年半前のことでした。(ダニエル 9:24,25,27。ルカ 3:21-23)その時,大いなる対型的な贖罪の日が始まりました。しかもイエス・キリストは,西暦前1512年当時,神聖な天幕もしくは幕屋が建てられた後,大祭司アロンが持っていたものよりもさらに優れた何ものかを持っていました。それは何でしたか。ヘブライ 8章3-6節および9章11-14節にはこう記されています。

      31 「大祭司はみな供え物と犠牲の両方をささげるために任命されます。それゆえに,このかたもささげるものを持つことが必要でした。さて,もし彼が地上にいるとすれば,祭司とはならないはずです。律法に従って供え物をささげる人たちがいるからです。しかしその人たちは,天にあるものの模式的な表現また影として神聖な奉仕をささげているのです。モーセが,天幕を作り上げるにあたって神命を与えられたとおりです。『山であなたに示されたひな型にならってすべての物を作るように』と述べておられるのです。しかし今,イエスはさらに優れた公の奉仕の務めを得たゆえに,それだけ勝った契約の仲介者でもあられるのです。その契約は勝った約束に基づいて法的に確立されたものです」。

      32 アロンの場合に模型的に示されたように,イエス・キリストは何に入りましたか。死んだわざからわたしたちの良心を清めるための何を携えて入りましたか。

      32 「しかし,キリストは,すでに実現した良い事がらの大祭司として到来した時,手で作ったのではない,すなわち,この創造界のものではない,より偉大でより完全な天幕を通り,そうです,やぎや若い雄牛の血ではなく,ご自身の血を携え,ただ一度かぎり[天幕の至聖所に相当する]聖なる所に入り,わたしたちのために永遠の救出を得てくださったのです。汚れた人たちに振りかけられた,やぎや雄牛の血また若い雌牛の灰が,肉の清さという点で聖化をもたらすのであれば,まして,永遠の霊により,きずのないすがたで自分を神にささげたキリストの血は,わたしたちの良心を死んだ業から清め,生ける神に神聖な奉仕をささげられるようにしてくださらないでしょうか」。

      33,34 (イ)ヨルダン川で浸礼を受けることによってイエスは何を象徴しましたか。(ロ)人間イエスのために神は何を用意されましたか。イエスはなぜそれをささげましたか。どれほどしばしばそうしましたか。

      33 それでは,完全な人間イエスが水のバプテスマを受けた後に神の油そそがれた大祭司となったとき,犠牲として神に捧げねばならなかったのは何ですか。それは,その血では決して人間の罪を洗い清められない,人間以下のある動物のからだではなくて,処女マリアから生まれることによって得たイエスご自身の完全な人間のからだでした。イエスは,ご自分がその犠牲の道を歩むよう全能の神によって備えられ,整えられたことを認識しました。また,その特別の時期にさいして,その自己犠牲の道を歩み始めるのがご自分に対する神の意志であることをも認識しました。したがって,ヨルダン川で浸礼を受けるためにバプテストのヨハネのもとにやって来たイエスは,それ以後は神の意志を行なうべく,ご自身を神に捧げたのです。イエスの受けた水のバプテスマは,犠牲の死に至るまでも神の意志を行なうべくご自身を捧げたことを象徴するものでした。このことに関してヘブライ 10章4-10節はこう述べています。

      34 「雄牛ややぎの血が罪を取り去ることは不可能…です。ゆえに,世に来る時,彼はこう言います。『「犠牲やささげ物をあなたは望まず,わたしのために体を備えてくださった。あなたは全焼のささげ物や罪のささげ物を是認されなかった」。そこでわたしは言った,「ご覧ください,わたしは参りました(書の巻き物にわたしについて書いてあります),神よ,あなたのご意志を行なうために」』。初めに,『あなたは,犠牲やささげ物,また全焼のささげ物や罪のささげ物を望まず,また是認されなかった』と言い ― これらは律法にしたがってささげられる犠牲です ― そののち,『ご覧ください,わたしはあなたのご意志を行なうために参りました』と実際に言われます。彼は,第二のものを確立するために,第一のものを除き去ります。ここに述べた『ご意志』のもとに,わたしたちは,イエス・キリストの体がただ一度かぎりささげられたことによって,神聖なものとされているのです」。

      35 (イ)模型的な贖罪の日に,何が祭壇につけられましたか。その上に何がささげられましたか。(ロ)イエスがご自身をささげるために設けられた対型的な「祭壇」とは何ですか。

      35 模型的な贖罪の日に大祭司アロンは,贖罪の生けにえの幾らかの血を祭壇につけ,また神聖な会見の天幕の前の中庭の中央にあったその祭壇の上で贖罪の生けにえの脂肪を焼きました。(レビ 16:16-19,25)では,霊的な大祭司としてのイエス・キリストがご自分の完全な人間としての犠牲を,その上に捧げた対型的な「祭壇」とは何でしたか。それは会見の天幕の中庭のあの銅の祭壇のような物質的な祭壇ではありませんでした。それはイエスがカルバリで死に至るまで掛けられていた刑柱でもありませんでした。あの杭はのろわれたものであって,イエスの尊い血で清められはしなかったからです。(申命 21:22,23。ガラテア 3:13)むしろそれは,イエス・キリストがご自分の完全な人間の生きたからだの価値をその上にささげ得る霊的なものでした。それは神の「意志」つまり厚意でした。その意志を行なうべくイエスはやって来て,ご自身を捧げたのです。それは今や動物の生けにえに代わって人間の犠牲を喜んで受け入れることにした神の志でした。ゆえに,イエスは神のその「意志」に基づいてご自分の人間としての命の価値をささげたのです。

      36 どんな人たちはその霊的な「祭壇」から食べることを許されていますか。それらの人たちにはどんな結果がもたらされますか。

      36 こうして,対型的な「祭壇」が存在するようになりましたが,それに関してヘブライ 13章10節は油そそがれたクリスチャンに向かってこう述べています。「わたしたちには,天幕で神聖な奉仕をする者たちもそれから食べる権限を持たない祭壇があります」。ですから,キリスト教世界のある司祭たちが教会堂あるいは他の礼拝所の中に物質でできた「祭壇」を築き,「ミサ」を挙行する場合のように,キリストの犠牲を繰り返し供えると主張するのは,なんと物質的なものに関心のある,非聖書的な主張でしょう。真の霊的な「祭壇」から食べる権限を持っている人たちは,「イエス・キリストの体がただ一度かぎりささげられたことによって,神聖なものとされて」いるのです。

      37 (イ)霊的な「祭壇」に加えて,昔の「天幕」に関連して模型的に示されたどんなものが存在するようになりましたか。(ロ)その中庭はイエスの場合,何を模型的に表わしていましたか。

      37 昔の銅の祭壇が神聖な会見の天幕の前の中庭の中央に立っていたのと全く同様,対型的な霊的「祭壇」に加えて,対型的な「中庭」も存在するようになりました。その中庭は所在地または場所を表わすのではなく,地上にいる人間の状態を表わします。油そそがれた大祭司,イエス・キリストはその対型的な中庭にいました。なぜなら,彼は完全な被造物としての人間の状態のうちにあったからです。ですから,地上におられた時の彼の状態は文字どおり正しくて,義にかなっており,欠点もきずもないものでした。レビ人コラの子たちのように,イエスはエホバの真の「偉大な幕屋」の中庭にある,エホバの意志という偉大な祭壇に自分の憩の場所を見いだしました。(詩篇 84:1-3)彼は神の意志を行なうことを大いに喜びました。―詩篇 40:8。

      38,39 (イ)対型的な中庭や祭壇に加えて,ほかにどんなものが存在するようになりましたか。(ロ)このことからどんな質問が生じますか。イエスの述べたどんな言葉は,神の居所を示していますか。

      38 その時,新しい霊的な大祭司つまり油そそがれたイエスの便宜を図るために対型的な祭壇や中庭が存在するようになっただけでなく,対型的な天幕もしくは神殿も同様に存在するようになりました。それ以来,「エホバの立てた真の天幕」は新しい霊的な大祭司が自由に使えるものとなりました。

      39 その「真の天幕」もしくは神殿とは何ですか。それは創造者が目に見えない天でご自分のために造った特別の建物ですか。いいえ,神はそのようなものを必要としてはおられません。いと高き神は常に天に住みかを持っておられます。神は遍在する,つまり時を同じくしてどこにでも存在する,あらゆる場所に充満する霊ではありません。神は理知のある存在者ですから,ご自分の居所,つまりそこで神に近づくことのできる住みかをお持ちです。イエス・キリストは弟子たちに,「天におられるわたしたちの父よ,あなたのお名前が神聖なものとされますように」と祈るよう教えました。そして,ご自分を信ずる「小さな者」のだれをも軽べつしてはならないと戒め,その理由を次のように説明しました。「あなたがたに言いますが,天にいる彼らのみ使いたちは,天におられるわたしの父のみ顔を見守っているのです」。(マタイ 6:9; 18:10)すなわち,それら天のみ使いたちは聖なるみ父に近づくことができるのです。

      40 神はご自分の天の住まいに関して,それを神聖な「天幕」の至聖所と比べられるようにするために何を行なうことができましたか。

      40 しかしながら,全能の神はその占有的な住みかの様相を変化させることができます。たとえば,バプテスマを受けたばかりのイエス・キリストに油をそそぐことによって,ご自分の霊的な大祭司を生み出したとき,神は罪を持つ人類に関連して(罪のないみ使いたちに関連してではない),ご自身の天の住まいに新たな様相を帯びさせ,その住まいにかかわる新たな役職もしくは特徴を持たせることができました。人類の非常に罪深い状態とは対照的に,神の天の住まいの神聖さはその度合いを強めました。神ご自身の住まいは今や,公正で,しかもなお汚れた人類のためのふさわしい完全な犠牲を受け入れるほどに憐み深い神の聖なる所として現われました。しかし,その犠牲,もしくはその価値は,罪のない神聖な,また神意にかなって個人的に神に近づき得る大祭司が捧げなければなりません。それで,神の天の王座は,なだめの座となります。このようにして神はご自分の天の住まいに,模型的な天幕あるいは神殿の至聖所もしくは最も聖なる仕切り室の霊的な特色を帯びさせました。

      41,42 (イ)アロンは「年に一度」何に入ることを許されましたか。どのようにして入りましたか。(ロ)イエス・キリストの入られた至聖所とは何ですか。どんな時期に,またどれほどしばしば入られましたか。

      41 これは聖書の見解です。大祭司アロンは贖罪の日の犠牲の血を携えて,地上の会見の天幕の至聖所に入り,またそうするために奥の幕もしくは垂幕をくぐりました。(レビ 16:12-17。ヘブライ 9:7)その模型的な光景を成就するためには,大祭司イエス・キリストは真の至聖所に入らなければなりません。聖書はそれがどこにあることを示していますか。また,それは何ですか。

      42 次のことばに耳を傾けてください。「それゆえ,天にあるものを模式的に表現したものはこのような手段で清められ,天のものそれ自体は,そのような犠牲より勝った犠牲をもって清められることが必要でした。キリストは,実体の写しである,手で作った聖なる所にではなく,天そのものに入られたのであり,今やわたしたちのために神ご自身の前に出てくださるのです。それはまた,大祭司が自分のではない血を携えて年ごとに聖なる所へ入るように,何度もご自身をささげるためでもありません。そうでなければ,彼[イエス]は世の基が置かれて以来何度も苦しみを受けねばならないでしょう。しかし今,ご自分の犠牲によって罪を取りのけるため,事物の[模型的な]諸体制の終結のときに,ただ一度かぎりご自身を現わされたのです」― ヘブライ 9:23-26。

      43,44 (イ)では,神の神殿についていえば,神の聖なる住まいとはなんですか。(ロ)聖所は何によって至聖所から隔てられていましたか。その対型の場合,イエス・キリストはどのようにしてそれを通過しましたか。

      43 模型的な天幕もしくは神殿の中の,これまた模型的な「聖なる所」に入ることによって対型的な贖罪の日を最高潮に達せしめる代わりに,大祭司イエス・キリストは「神ご自身」のおられる「天そのものに」入りました。正に神ご自身のおられるその天の住まいこそ,真の至聖所,つまり聖所の中の聖所,もしくは最も神聖な所なのです。

      44 地上にあった模型的な天幕もしくは神殿の至聖所は,幕もしくは垂幕で仕切られていたので,至聖所は幕の内側にあるといえました。ゆえに,その幕は,人が地上での人間としての生活をあとにして,目に見えない天に入るために通過しなければならない,人間の肉体の障害物を表わしていました。イエス・キリストは天的な至聖所に入るために,死と復活によりその障害物を通過しました。これこそ,14万4,000人の忠実な弟子たちの天的な希望について述べたのちにヘブライ 6章19,20節が言わんとしている事がらなのです。「この希望を,わたしたちは魂の錨,確かなもの,またゆるがぬものとしていだいており,それは幕の内側に入るのです。そこへは前駆者がわたしたちのために入られました。それは,メルキゼデクのさまにしたがい永久に大祭司となられたイエスです」。「幕の内側に」つなぎ留められている希望は,天的なものです。

      神の霊的な神殿の「聖所」

      45 (イ)至聖所のほかに,「天幕」にはどんな部屋がありましたか。(ロ)聖所にはだれが,どれほどしばしば,またどのようにして入りましたか。

      45 至聖所は地上の天幕もしくは神殿のすべてではなかったという事実を見過ごすべきではありません。その一番奥の仕切り室つまり至聖所のほかに,天幕もしくは神殿には,仕切り幕の前に聖所と呼ばれる仕切り室がありました。(ヘブライ 9:1-3)至聖所は「神ご自身」のおられる「天そのもの」を模型的に表わしていたのであれば,幕もしくは仕切りの前の聖所は何を表わしていましたか。至聖所には大祭司が「年に一度」だけ贖罪の日に入れましたが,聖所には大祭司だけでなく,すべての従属の祭司も定期的に入れました。祭司たちは祭壇のある中庭から直接その第一の仕切り室つまり聖所に入りましたが,中庭と聖所とを隔てている仕切り,もしくは掛け布をくぐらねばなりませんでした。

      46,47 (イ)イエスはいつ,またどのようにして対型的な聖所に入りましたか。(ロ)それで,聖所は何を表わしていますか。対型的な祭司たちはその中でどんな特権を享受しますか。

      46 ですから,聖所は,中庭が表わしたよりもいっそう著しい神聖な状態を表わしていました。聖所は仕切られていたので,その中の備品は中庭にいる人たちの目からは隠されていたように,聖所は中庭で表わされているものよりも勝った霊的な状態を模型的に表わしていました。その中庭は神の前に義にかなった立場を持つ人間の状態を表わしました。イエス・キリストは水のバプテスマを受けた後に神の聖霊によって生み出された時,聖所と呼ばれる仕切り室で表わされた状態に入り,こうして神の霊的な子となりました。(マタイ 3:13-17)また,神の霊によって油そそがれることにより,神の霊的な子としてのイエスには祭司の職が付与されました。つまり彼は大祭司アロンによって表わされていた神の大祭司になりました。

      47 こうした見地からすれば,聖所と呼ばれる仕切り室は,この霊的な祭司職につく人たちの,霊によって生み出された状態を表わしていたことがわかります。そうした状態のもとで,地上にいるそれら霊的な祭司たちは,金の燭台からの光のように霊的な光を享受し,供えのパンを載せる金の食卓から食べるかのように霊的な食物を食べ,また金の香壇の傍に立っているかのように神への祈りと奉仕という香をささげます。―出エジプト 40:4,5,22-28。

      48 イエスは聖所によって表わされていた状態のうちにどれほどの期間留まっていましたか。その弟子たちはどうしてイエスのことを明確に識別しませんでしたか。

      48 イエスがバプテスマを受け,聖霊によって油そそがれた日から,その亡くなる日まで(西暦29年から33年まで)を数えると,イエス・キリストは聖所と呼ばれる仕切り室で表わされた霊によって生み出された祭司としてのあの状態の中に3年半留まっていたことになります。単なる自然のままの人間は,イエスの忠実な弟子たちでさえ,そのような状態のもとでイエスが行なった奉仕を正しく識別し,認識することはできませんでした。なぜなら,彼らは自然のままの人間的な見地から物事を見ていたからです。聖霊が注がれる,西暦33年のペンテコステの祭りの日はまだ到来していませんでした。(ヨハネ 7:39)聖所と呼ばれる仕切り室の内部の物品が「幕屋の入口の仕切り」によって隠されていたように,彼らの識別力は妨げられていました。―出エジプト 40:28,29,新。

      49 対型的な聖所にいたイエスは,天の至聖所に直接近づくことをどのように妨げられましたか。

      49 聖所の表わす状態,つまり霊によって生み出された祭司としての状態のうちにあった,地上の大祭司イエス・キリストは完全な人間としてなお肉身で留まっておられたので,天の神のみ前に直接近づくことは妨げられていました。ちょうどモーセが「仕切りの幕を掛け,証しの箱に近づく道をさえぎった」ように,イエスと天の至聖所との間にはあの象徴的な「幕」がありました。―出エジプト 40:21,新。

      50 (イ)イエス・キリストはいつ奥の「幕」を通過しましたか。どのようにしてですか。(ロ)その時,祭司職に関するどんな誓いがイエス・キリストに対して効力を発しましたか。なぜですか。

      50 大祭司としてのイエス・キリストは西暦33年のニサン16日,死人の中から復活させられ,もはや単に霊によって生み出されただけの肉なる者としてではなく,目に見えない天に存在する神の霊的な子として完全に生み出されることにより,「真の天幕」のあの象徴的な幕を通過しました。使徒ペテロはそのことを次のように正しく書き表わしています。「キリストでさえ罪に関して一度かぎり死にました。義なるかたが不義の者たちのためにです。それはあなたがたを神に導くためでした。彼は肉において死に渡され,霊において生かされたのです」。(ペテロ第一 3:18)今やイエス・キリストは「滅びることのない命の力」をもって報われたので,『メルキゼデクのさまにしたがった』永遠の祭司職に関する神の誓われた誓いは,その重大な日にイエスに対して効力を発しました。(ヘブライ 7:16,24。使徒 13:33-37。ローマ 1:1-4)その後の40日間,特別の仕方でご自分の忠実な弟子たちに現われたのち,イエスは天に昇り,ご自分の完全な人間の犠牲の価値を真の至聖所で神ご自身に捧げました。―使徒 1:1-11。ヘブライ 9:24。

      51 (イ)対型的な贖罪の日はいつ終わりましたか。それはどれほどの期間継続しましたか。(ロ)イエスの犠牲の価値が至聖所で受け入れられたことを示す証拠はどのようにして与えられましたか。

      51 キリストの犠牲の価値がそのようにして天の至聖所で捧げられるとともに,対型的な大いなる贖罪の日は終わりました。レビの部族の大祭司アロンの場合,国家的な贖罪の日は文字どおりの24時間の長さの一日だけでした。しかし大祭司イエス・キリストの場合,対型的な贖罪の日はおよそ3年8か月の期間にわたりました。イエスの昇天の10日後,天の至聖所で神に捧げられたイエスの完全な人間としての犠牲の価値が受け入れられたことを示す証拠が地上のその忠実な弟子たちに与えられました。どのようにしてですか。西暦33年,シワン6日,日曜日,七週の祭り,つまりペンテコステの日に,エルサレムにいた弟子たちに聖霊が注がれることによってです。(使徒 2:1-36)それは「エホバの立てた真の天幕」に関してある新しい事がらに注意を引くものとなりました。それをこれから調べてみましょう。

      霊的な従属の祭司たち

      52 (イ)より偉大なメルキゼデクが従属の祭司を持っていることはどのように予表されていましたか。(ロ)アロンの祭司職はいつ創設されましたか。アロンの頭にどんな「聖なるしるし」が着けられましたか。

      52 古代のサレムの王なる祭司,メルキゼデクが従属の祭司を持っていたという記録はありません。しかし,「メルキゼデクのさまにしたがう大祭司」となられた神のみ子は従属の祭司を持っています。(ヘブライ 5:8-10)このことはレビ人アロンの祭司の家系によって予表されていました。エホバ神はアロンをイスラエルの大祭司に,またその子たちをアロンの従属の祭司になるよう召されました。西暦前1512年の春の月,ニサンの第1日に預言者モーセは神の命令に従って,アロンとその子たちを祭司職に就任させはじめました。(出エジプト 40:1,2,12-16; 29:4-9。レビ 8:1-13)大祭司の衣服につける物品の一つとして人びとは,「輝く板,つまり献身の聖なるしるしを純金で作り,その上に印を彫るように,『神聖さはエホバのもの』という銘刻文を刻」みました。―出エジプト 39:30,新。

      53 (イ)こうして大祭司アロンのターバンを飾ったモーセは,エホバのどんな命令に従いましたか。(ロ)「献身のしるし」と訳されている語はヘブライ語のどんな動詞から来ていますか。

      53 それで,大祭司として就任させるべく自分の兄に正装させたモーセは,エホバの次のようなご命令を遂行しました。「また,ターバンを彼の頭にかぶらせ,献身の聖なるしるしをターバンの上に着けなければならない。また,注ぎの油を取って,それを彼の頭に注ぎ,彼に油をそそがねばならない」。(出エジプト 29:6,7,新)その「献身の聖なるしるし」は純金の「輝く板」だったので,ヘブライ語聖書の多くの翻訳者はその表現を「聖なる冠」と訳出することを好んでいます。(エルサレム聖書の出エジプト記 29章6節,脚注を見てください。)もちろん,「冠」や「王冠」と訳される普通のヘブライ語は,ここで「献身のしるし」と訳出されているヘブライ語とは異なっています。レビ記 21章12節(新)では,この後者のヘブライ語は大祭司の頭にそそがれる注ぎ油を表わすのに用いられています。こう記されているからです。「また,聖所から出て行ったり,神の聖所を汚したりしてはならない。なぜなら,献身のしるし,つまり神の注ぎ油が彼の上にあるからである」。そのヘブライ語は,ホセア書 9章10節で「献身する」と訳されている動詞ナーザルから来ています。―アメリカ訳; 新。

      54,55 (イ)油そそがれた大祭司は何と呼ばれましたか。大祭司に油をそそぐことは,何を模型的に表わしましたか。(ロ)バプテストのヨハネはイエスに聖霊で油をそそぎましたか。それとも,だれがそうしましたか。

      54 大祭司アロンと,職務についたその後継者たちは公式に職に任じられたゆえに,エホバ神に献身した男子であったことには疑問の余地がありません。(出エジプト 29:30,35)聖なる注ぎ油をもって油そそがれたゆえに,大祭司は「油そそがれた者」つまりメシアと呼ばれました。(レビ 4:3,5,16; 6:22)後代には,イスラエルの油そそがれた王たちも同様にメシアと呼ばれました。(サムエル前 24:6,10; 26:9-11。哀歌 4:20)それで,大祭司アロンの従属の祭司である4人の子たちの名が列挙されたのち,こう記されています。「これがアロンの子たちの名であって,彼らはみな油を注がれ,祭司の職に任じられて祭司となった」。(民数 3:1-3,口語)エホバ神とイスラエル国民の仲介者であるモーセはその兄アロンに油をそそいで大祭司にしましたが,そのことには模型的な意味がありました。それは神が,バプテスマを受けて水から上がって来たご自分のみ子イエスに聖霊をもって油をそそがれたことを模型的に表わしていました。

      55 バプテストのヨハネは,レビ族の祭司,すなわちアビヤの祭司の組のゼカリヤの子でした。しかし,ヨハネはヨルダン川でイエスに単にバプテスマを施したにすぎません。イエスに油をそそいで,彼を霊的な大祭司にしたわけではありません。(ルカ 1:5-17; 3:21-23。マルコ 1:9-11)神だけが聖霊をもってイエスに油をそそぐことができました。

      56,57 (イ)バプテストのヨハネは,何を行なう権限がイエスに与えられるということを述べましたか。(ロ)イエスはご自分の弟子たちのもとを去る前に,聖霊によるバプテスマについて彼らに何と語りましたか。

      56 バプテストのヨハネはかつてイエスに関してこう言いました。「わたしの後にわたしより強いかたが来られます。わたしはかがんでそのかたのサンダルの締めひもをほどくにも価しません。わたしはあなたがたに水でバプテスマを施しましたが,そのかたはあなたがたに聖霊でもってバプテスマを施すでしょう」。神はヨハネにその人が来ることを告げておられました。ヨハネはこう述べているからです。「わたしも彼を知りませんでしたが,水でバプテスマを施すべくわたしを遣わしたそのかたが,『あなたは霊が下ってある人の上にとどまるのを見るが,それがだれであろうと,その者こそ聖霊でバプテスマを施す者である』とわたしに言われました」。(マルコ 1:7,8。ヨハネ 1:33)それでイエスは聖霊で油をそそがれて霊的な大祭司になっただけでなく,また他の人びとに聖霊でバプテスマを施す権限をも与えられました。しかし,イエスはいつ聖霊でバプテスマを施すのでしょうか。それは完全な人間の犠牲として死ぬ以前ではありません。

      57 死人の中から復活させられた後,イエスはなおエルサレムに留まっていたご自分の弟子たちに,化肉して現われました。その時,聖霊について弟子たちに何を告げましたか。使徒 1章4,5節はこう述べています。「そして,彼らと会合しておられる時に,この命令をお与えになりました。『エルサレムを離れないで,父が約束され,またわたしから聞いたものを待っていなさい。ヨハネはたしかに水でバプテスマを施しましたが,あなたがたはこれから幾日もたたないうちに聖霊でもってバプテスマを施されるからです』」。

      58,59 (イ)そのバプテスマはいつ行なわれましたか。その日,大祭司が神殿で行なったことを,イエス・キリストはどのようにして対型的な仕方で成就しましたか。(ロ)そこでヨエルのどんな預言が成就しはじめましたか。ペテロはイエスをそのこととどのように結びつけましたか。

      58 このことはイエスが昇天して10日目に生じました。それは西暦33年のシワン6日,七週の祭り(あるいはペンテコステ)の日でした。その日,エルサレムの神殿ではユダヤ人の大祭司が小麦の収穫の初穂としてパン種の入ったパン2個を神に捧げました。(レビ 23:15-21)その同じ日に,天の大祭司イエス・キリストは対型的な仕方で,神への初穂としてクリスチャン会衆をエホバ神に捧げました。(啓示 14:4)イエスはそのことを,エルサレムで待機していたご自分の弟子たちに聖霊を注ぐ経路として仕えることによって行ないました。それはヨエル書 2章28,29節の預言の成就の始まりとなりました。霊に満たされた使徒ペテロはそのことを説明し,何千人ものユダヤ人の傍観者たちに次のように言いました。

      59 「このイエスを神は復活させたのであり,わたしたちはみなその事の証人です。それで,彼は神の右に高められ,約束の聖霊を父から受けたので,この,あなたがたの見聞きするものを注ぎ出されたのです。実際ダビデは天に上りませんでしたが,自らこう言っています。『エホバはわたしの主に言われた,「わたしの右に座っていなさい。わたしがあなたの敵たちをあなたの足の台として据えるまで」』。ですから,イスラエルの全家は,神が彼を,あなたがたが杭につけたこのイエスを,主ともキリストともされたことをはっきりと知りなさい」― 使徒 2:14-21,32-36。

      60 イエスがこうして聖霊を注いだことは,西暦前1512年,ニサン1日におけるモーセの活動によってどのように予表されていましたか。

      60 こうしてイエス・キリストはご自分の忠実な弟子たちに聖霊でバプテスマを施しました。このことは遠い昔,西暦前1512年のニサン1日に予表されていました。それはモーセがエホバのご命令を履行し,聖なる注ぎ油をもって大祭司アロンの子たちに油をそそいだ時のことでした。そのことについてはこう記されています。「〔エホバ〕はモーセに言われた。『正月の元日にあなたは会見の天幕なる幕屋を建てなければならない。アロンとその子たちを会見の幕屋の入口に連れてきて,水で彼らを洗い,アロンに聖なる服を着せ,これに油を注いで聖別し,祭司の務をさせなければならない。また彼の子たちを連れてきて,これに服を着せ,その父に油を注いだように,彼らにも油を注いで,祭司の務をさせなければならない。彼らが油そそがれることは,代々ながく祭司職のためになすべきことである」― 出エジプト 40:1,2,12-16,口語〔新〕。

      61 それら最初の4人の従属の祭司の後継者たちが油そそがれたかどうか,また大祭司の後継者が個人的に聖なる油で油そそがれたかどうかについては何といわねばなりませんか。

      61 こうしてアロンの4人の子たちは,イスラエルの最初の従属の祭司として油をそそがれました。しかしその後,彼らの後継者たちは従属の祭司としてその職につけられるさい,聖なる注ぎ油で個人個人油をそそがれるということはありませんでした。従属の祭司の正装を着用させるだけで十分と考えられました。最初の4人の従属の祭司たちは,他の祭司たちを代表して油をそそがれたのです。しかし,大祭司アロンの後継者はおのおの個人的に油をそそがれました。(民数 3:1-3。出エジプト 29:29,30。民数 20:23-29。申命 10:6)とはいえ,イスラエルの祭司全員は,最初の成員が油をそそがれたことにより,油そそがれた一つの級とみなされることになりました。

      62 地上のご自分の弟子たちに油をそそぐべく用いられることにより,イエス・キリストは彼らをご自分の下で仕える何にしましたか。啓示の書のヨハネのことばはこの事とどのように一致していますか。

      62 対型的成就においては,天のイエス・キリストは神の代表者として行動し,14万4,000人の忠実な弟子たちに聖霊をもって油をそそぐことにより,彼らを霊的な祭司,つまりご自分が大祭司としてその上に立つ従属の祭司たちにします。イエス・キリストに関して使徒ヨハネが次のように書きえたのはそのためです。「『忠実な証人』,『死人の中からの初子』,『地の王たちの支配者』であるイエス・キリスト……わたしたちを愛しておられ,ご自身の血によってわたしたちを罪から解いてくださったかたに ― そして彼はわたしたちを,ご自分の神また父に対して王国とし,祭司としてくださったのである ― 実にこのかたにこそ,栄光と偉力が永久にあらんことを。アーメン」。また,こう記されています。「あなたはほふられ,自分の血をもって,あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人びとを買い取(りました)。そして,彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし,彼らは地に対し王として支配するのです」― 啓示 1:5,6; 5:9,10。

      63 使徒ペテロはその書簡により,イエスの油そそがれた弟子たちの祭司職についてどのように証言しましたか。

      63 この事実の,霊感を受けた証人がもう一人います。それは使徒ペテロです。エルサレムの神殿がローマ人によって(西暦70年に)滅ぼされ,レビ族の祭司たちが仕事を失う破目に会う数年前,ペテロは天的な希望を持つ,霊によって油そそがれたクリスチャンに次のように書き送りました。「こうした者たちはみことばに不従順なためにつまずいているのです。……しかしあなたがたは,『選ばれた種族,王なる祭司,聖なる国民,特別な所有物となる民』であり,それは,やみからご自分の驚くべき光の中に呼び入れてくださったかたの『卓越性を広く宣明するため』です」― ペテロ第一 2:8,9。

      64 それで,それら油そそがれた弟子たちは古代の「会見の天幕」によって模型的に表わされたどんな状態に入っていますか。そのような状態にあって彼らはイエスのようにどんな特権を享受していますか。

      64 彼らが今や祭司であるということは,人手によってではなく,エホバ神によって立てられた「真の天幕」もしくは神殿に関連して新しい立場にあることを意味しています。それは彼らが今や,モーセの立てた古代の「会見の天幕」の聖所と呼ばれる仕切り室で模型的に表わされた,霊によって生み出された祭司としての状態に入ったことを意味しました。それは,聖霊で油をそそがれた時から,完全な人間として死ぬ時に至るまでの大祭司イエス・キリストの場合と全く同様でした。それで,肉のからだでなお地上に留まっている間,彼らはイエスのように,対型的な金の燭台から注がれるかのように霊的啓発を享受します。そして,金の食卓の上の二つ重ねの供えのパンで模型的に表わされている霊的な食物を食べ,あたかも会見の天幕の聖所の金の香壇に香をささげるかのように,祈りや熱心な奉仕を神にささげます。

      65 聖所によって表わされた状態のうちにある人たちに対して,彼らが油そそがれたことに関し,使徒ヨハネは何と書きましたか。

      65 模型的な聖所によって表わされた,霊によって生み出された状態のうちにある人たちに対して,こう記されています。「あなたがたには聖なるかたからのそそぎ油があります。あなたがたはみな知識を持っています。わたしは,あなたがたを惑わそうとしている者たちについてこれらのことを書きます。そして,あなたがたについていえば,彼から受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっており,だれかに教えてもらう必要はありません。むしろ,彼からのそそぎ油がすべてのことについてあなたがたを教えており,またそれが真実であって偽りでないように,そしてそれがあなたがたに教えたとおりに,引き続き彼と結ばれていなさい」― ヨハネ第一 2:20,26,27。

      66 聖所によって表わされた状態のうちにあるそうした人びとに対して,彼らが油そそがれたことに関し,使徒パウロは何と書きましたか。

      66 アロンの祭司たちが入って仕えることを許された聖所と呼ばれる仕切り室で模型的に表わされた,霊によって生み出された祭司としての状態のうちにある人たちに対して,さらに使徒パウロはこう記しています。「あなたがたとわたしたちがキリスト[油そそがれた者]に属することを保証してくださるかた,そしてわたしたちに油そそいでくださったかたは神です。神はまたわたしたちにご自分の証印を押し,きたるべきものの印,つまり霊をわたしたちの心の中に与えてくださったのです」― コリント第二 1:21,22。

      67 キリスト教に帰依したヘブライ人に対して,祭壇のものを食べることや,犠牲をささげることについて,霊感を受けた筆者は何と述べましたか。

      67 それら14万4,000人の人たちは天の大祭司イエス・キリストのもとで仕える霊的な祭司ですから,彼らには神の「意志」という「祭壇」にささげられたイエス・キリストの犠牲を食べる権限があります。が,真のメシアもしくはキリストとしてのイエスを信ぜずに退けた者たちには,神の対型的な「祭壇」にささげられたイエスの犠牲にあずかる権限はありませんでした。霊感を受けた前述の筆者は憶測したりなどせずに,ヘブライ 13章10-15節で,キリスト教に帰依した信仰の厚いヘブライ人にこう言うことができました。「わたしたちには,天幕で神聖な奉仕をする者たちもそれから食べる権限を持たない祭壇があります。大祭司がその血を罪のために聖なる所に持って行く動物の体は宿営の外で焼きつくされるのです。ゆえにイエスも,ご自身の血をもって民を神聖なものとするため,[エルサレムの]門の外で苦しみを受けました。ですから,わたしたちは宿営の外に出て彼のもとに行き,彼が忍ばれた非難を忍ぼうではありませんか。わたしたちはここに,永続する都市を持っておらず,きたるべきものをせつに求めているのです。彼を通して常に賛美の犠牲を神にささげましょう。すなわち,そのみ名を公に宣明するくちびるの実です」。

      68,69 (イ)彼らが祭壇のものを食べるということは,対型的にいって彼らはどんな場所にいることを示していますか。どのようにしてそこに入りましたか。(ロ)彼らがそのような立場を得ている証拠として,ローマのクリスチャンに宛てて何と書き送られましたか。

      68 それらの霊的な祭司たちは神から権限を与えられて,神の真の「祭壇」にささげられた犠牲にあずかるのですから,それは彼らもまた,犠牲をささげる銅の祭壇の設置された中庭で表わされた状態のうちにあることを意味しています。それは,犠牲としてささげられたイエス・キリストに対する信仰によって神により義と認められた,あるいは義とされた状態です。大祭司イエス・キリストがご自身の犠牲の「血」の価値を携えて,天の至聖所に入り,それを直接エホバ神に捧げたとき,その時,つまり西暦33年のペンテコステの日以降,イエスの完全な人間としての犠牲の恩恵は地上にいた弟子たちに,彼らの信仰ゆえに適用され始めました。彼らは感謝の心を抱き,信仰によって,神の意志に基づいてささげられたキリストの犠牲にあずかりました。こうして彼らは,自分たちの罪の許しを得ました。彼らにそうした許しを与え,またそうすることによって彼らを肉において罪のない者とみなすことにより,神は彼らを義と認め,あるいは義としました。そのようにして,神は彼らを対型的な中庭に導き入れられました。彼らがこのような立場にあるということの証拠として,こう記されています。

      69 「わたしたちは,わたしたちの主イエスを死人の中からよみがえらせたかたを信じて頼ってい(ます)。イエスはわたしたちの罪過のために引き渡され,わたしたちを義と宣するためによみがえらされたのです。それゆえ,わたしたちは信仰の結果義と宣せられたのですから,わたしたちの主イエス・キリストを通して神との平和を楽しもうではありませんか。このキリストを通して,わたしたちは,自分たちがいま立つこの過分のご親切に,信仰によって近づくことができました。それで,神の栄光の希望をよりどころとして,歓喜しようではありませんか。それゆえ,わたしたちは彼の血によって今や義と宣せられたのですから,まして彼を通して憤りから救われるはずです」― ローマ 4:24から5:2,9。

      70 (イ)彼らがなお肉のからだで留まっている時でも神のみ前では有罪の宣告を受けた状態にはないことをさらに確証するものとして,ローマ人への手紙には何と記されていますか。(ロ)彼らは自分たちの側で何らかの犠牲をささげることによって,キリストの犠牲の価値に何かを加えることができますか。

      70 それら霊的な従属の祭司たちはなおこの地上にいる間,神により肉において罪のない者,有罪の宣告を受けていない者とみなされていることをさらに確証するものとして,こう記されています。「わたしたちの主イエス・キリストを通してただ神に感謝すべきです! こうして,わたし自身[使徒パウロ]は,思いでは神の律法の奴隷ですが,肉においては罪の律法の奴隷なのです。こういうわけで,キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。キリスト・イエスと結びついた命を与える霊,その霊の律法が,あなたを罪と死の律法から自由にしたからです」。(ローマ 7:25から8:2)罪に苦しめられる不完全な肉のうちになお留まっている間,有罪宣告を受けずに神の前で彼らが得ているこの義の立場こそ,アロンの祭司たちの仕えた,犠牲をささげる銅の祭壇の置かれた昔の中庭で表わされていたものなのです。彼らは自分の肉身を犠牲にしても,罪のためのキリストの犠牲の価値に何をも加えることはできません。彼らがキリストを通して「賛美の犠牲」とキリストの教旨にかなった善行とをささげるのはそのためです。彼らは,ある教会で「ミサの犠牲」と呼ばれるものを用いる式を執り行なうことが全く無価値であることを悟っています。

      71 (イ)こうして義と認められるクリスチャンはまた,対型的にいってどんな場所に入っていますか。(ロ)何が彼らを天の至聖所から隔てていますか。そこに入る道をだれが彼らのために切り開きましたか。

      71 義とされたことを表わす長服を着た,それら従属の祭司たちはまた,なお肉のからだで地上にいる間,模型的な天幕もしくは神殿の聖所と呼ばれる仕切り室で表わされていた,霊によって生み出されたあの状態に入っています。しかし彼らは,自分たちの大祭司イエス・キリストのように,神ご自身が王座についておられる天の至聖所に入る希望を抱いています。今や彼らがあの真の至聖所に直接入るのを妨げているのは,肉の障害物,つまり彼らがなお肉のからだで生きていることなのです。その肉の障害物は,契約の金の箱がシエキナの光を伴って置かれていた天幕の至聖所から,聖所と呼ばれる仕切り室を仕切っていた奥の幕によって表わされていました。イエス・キリストは『幕を経て』真の至聖所に入る道を彼らのために切り開きました。イエスは彼らのために「前駆者」として「幕の内側」の至聖所に入りました。(ヘブライ 6:19,20)それで,イエスは天的な命に入るこの新しい道を設けられたのです。

      72 14万4,000人の従属の祭司たちは,何に入るのにふさわしい者であることを証明するよう勧められていますか。どのように勧められていますか。

      72 したがって,それら14万4,000人の霊的な従属の祭司は,肉体で死を遂げて死人の中から霊の命に復活させられるに至るまで忠実を保つことにより,「幕の内側」に入るにふさわしい者であることを証明すべく勇敢に努力するよう命じられています。霊感を受けた筆者はヘブライ 10章19-22節でこう述べています。「それゆえ,兄弟たち,わたしたちは,イエスの血によって聖なる所へ入る道を大胆に進むことができるのですから(それは,幕すなわち彼の肉体を経る新しい生きた道として,彼がわたしたちのために開かれたものなのです),そして,わたしたちには,神の家の上に立つ偉大な祭司がいるのですから,信仰の全き確信のうちに,真実の心をいだいて近づこうではありませんか」。

      73 肉の障害物を通過する霊的な従属の祭司たちは何に入りますか。それは何をするためですか。

      73 彼らは霊的な従属の祭司として地上での自分たちの任務を死に至るまでも忠実に果たした後,「第一の復活」によって命によみがえらされるとき,彼らは肉の障害物つまり対型的な「幕」を通過することになり,そして天の至聖所に入り,生ける神の言語に絶した栄光を見ることを許されるのです。彼らは神のみ前に入ります。それは,大祭司イエス・キリストのように完全な人間としての犠牲の価値を捧げるためではなく,自分たちの大祭司とともに奉仕し,困窮している人類にキリストの犠牲の恩恵を及ぼすためです。(啓示 20:6)天の祭司職は千年間遂行されるとはいえ,彼らは自分たちの後継者として仕える者を必要とはしません。彼らは自分たちの,栄光を受けた大祭司と同様,「滅びることのない命の力」を持ち,後継者なしに一千年の期間,自分たちの祭司職を十分に果たすことができるのです。―ヘブライ 7:16,24。

      同情を示す,理解のある祭司たち

      74 (イ)キリストのなだめの犠牲は,14万4,000人の者たちが何を得る道を開きましたか。(ロ)その犠牲は,キリストの祭司職を伴う千年間を人類にとって祝福された時とします。なぜですか。

      74 死にゆく,罪深い人類にとって,このような天の祭司職を伴うその千年間は,どんなにか祝福された時となるでしょう。その祭司職の大祭司は単にご自分の14万4,000人の従属の祭司のためだけでなく,全人類のためにも完全な犠牲を神にささげられたのです。それら霊的な従属の祭司の一人としてヨハネは19世紀前にこう書きました。「わたしの子どもらよ,わたしがこれらのことを書いているのは,あなたがたが罪を犯すことのないためです。それでも,もしだれかが罪を犯すことがあっても,わたしたちには父のもとに助け手,すなわち義なるかたイエス・キリストがおられます。そして彼はわたしたちの罪のためのなだめの犠牲です。ただし,わたしたちの罪のためだけではなく,全世界の罪のためでもあります」。(ヨハネ第一 2:1,2)イエス・キリストのなだめの犠牲は,14万4,000人の従属の祭司が罪と,罪がもたらした死に定められた状態から解放され,彼らの大祭司とともに天で永遠の命を得る道を開きました。その同じなだめの犠牲は全人類に益を与え得る十分の価値を伴うものです。それは世の罪のための犠牲です。バプテスマを受けたイエス・キリストをさし示してバプテストのヨハネが叫んだとおりです。「見なさい,世の罪を取り去る,神の子羊です!」―ヨハネ 1:29。

      75 (イ)地上にいる14万4,000人の従属の祭司を助ける能力をキリストが持っておられることは,ほかにだれを助ける能力があることを保証していますか。(ロ)患難を生き残る大群衆のほかにだれがキリストの犠牲の価値の恩恵にあずかりますか。

      75 大祭司イエス・キリストはご自分の14万4,000人の従属の祭司の会衆が罪を克服して,罪のもたらした死に定められた状態から救済されるよう助けることができました。イエスは,人類の残りの者たちすべてに対しても同じことを行なえます。神に対する正しい良心を抱いて喜んで永遠の命を求める人びとに対しては特にそうです。キリストは千年の間そうする機会を持ちます。彼は喜んでそうしますし,またそうしたいと願っておられます。「メルキゼデクのさまにしたがう」ご自分の一千年にわたる祭司職の務めをし損じることは絶対にありません。その時,生きている人たち,つまりこの事物の体制の終わりを伴う大患難を生き残り,その患難から出て来る「大群衆」だけでなく,もっと多くの人びとを助けます。現在,地上の墓で死の眠りについている何十億もの数え切れないほどの人びとをも助けるのです。(テモテ第二 4:1。啓示 7:9-15。使徒 24:15)ご自分の完全な人間としての犠牲の貴重な価値を幾らかでも,困窮している人たちのために用いずに,適用せずにすますことはありません。

      76,77 (イ)地上で試練に遭ったとき,イエスは人びとに対してどのように振る舞われましたか。それは,イエスが一千年の期間祭司の務めを行なうさいの人類の取り扱い方に関して何を保証しますか。(ロ)それでイエスは,試練に遭う人たちをさらによく助けることができます。なぜですか。

      76 「わたしたちがまだ罪人であった間にキリスト(は)わたしたちのために死んでくださった」のです。(ローマ 5:8)このことは,わがままなアダムとエバから罪と死を受け継いだ堕落した人類に対してキリストが同情を示す,憐み深い,自己犠牲の態度をいだいておられたことを立証しました。33年半地上にいた彼は親切で,辛抱強くて,思いやりがあり,人を助け,また理解がありました。彼自身人間でしたし,誘惑にも遭ったので,人間のことを理解できました。また,それゆえにこそ,不完全で,罪に悩まされる人類がどのような取り扱いを受けることを必要としているかをいっそう深く認識できました。カルバリで刑柱につけられ,罪なくして死を遂げる時でさえ,誤導された人びとの悪口やののしりのことばを甘んじて受けました。さて,地上におられた時,最悪の状態のもとでそのように振る舞われたのであれば,一千年の期間人類に対して祭司の務めを行なうさいにも,全く同様に振る舞われることを確信できます。これこそ,霊感を受けた筆者が次の節で述べている心暖まる論議なのです。

      77 「実に,彼はみ使いたちを助けているのではなく,アブラハムの胤を助けているのです。そのために,彼はすべての点で自分の『兄弟たち』のようにならなければなりませんでした。神にかかわる事がらにおいてあわれみ深い忠実な大祭司となり,民の罪のためになだめの犠牲をささげるためでした。彼は,自分自身が試練に遭って苦しんだので,試練に遭っている者たちを助けに来ることができるのです」― ヘブライ 2:16-18。ヘブライ 5:1,2と比べてください。

      78 ヘブライ 5章7-10節は,イエスが清い崇拝のため,またわたしたちのために何を経験されたことを示していますか。

      78 イエス・キリストが神の清い崇拝のため,またわたしたちのために,ご自分が目的を達成する申し分のない大祭司であることを地上で実証するため何を経験されたかについて,ヘブライ 5章7-10節はわたしたちのために簡潔にこう述べています。「キリストは,肉体でおられた間,自分を死から救い出すことのできるかたに,強い叫びと涙をもって,祈願を,そして請願をささげ,その敬神の恐れのゆえに聞き入れられました。彼はみ子であったにもかかわらず,苦しんだ事がらから従順を学ばれました。そして,完全にされたのち,自分に従う者すべてに対し,永遠の救いに責任を持つ者となられました。彼は,はっきり神によって,メルキゼデクのさまにしたがう大祭司と呼ばれているからです」。

      79,80 (イ)「滅びることのない命の力」を持っておられるゆえに,キリストは祭司職につく一千年の期間,人類のために何を行なうことができますか。(ロ)律法によって生み出された祭司職とは対照的に,神の誓われた誓いはどんな祭司職を生み出しましたか。

      79 キリストは「滅びることのない命の力」を持っておられるゆえに,一千年にわたるご自分の祭司職の務めを,神に誉れをもたらす結末に至るまで後継者なしに遂行することができます。そして,罪とその恐るべき刑罰である死が完全に除去される時に至るまでずっと人類を助けることができます。アロンの大勢の歴代の祭司たちが聖なる奉仕を行なってきた1,500年余の期間に決してなし得なかった事をキリストは行なえます。それはヘブライ 7章23-28節に記されているとおりです。

      80 「さらに,祭司の職にとどまることを死によって阻まれるため,多くの者が次々に祭司とならねばなりませんでしたが,彼は永久に生き続けるので,後継者を持たずに自分の祭司職を保ちます。それゆえ,彼は自分を通して神に近づく者たちを完全に救うこともできます。常に生きておられて彼らのために願い出てくださるからです。このような大祭司,忠節で,偽りも汚れもなく,罪人から分けられ,もろもろの天よりも高くなられたかたこそわたしたちの必要にかなっていたのです。彼は,あの大祭司たちがするように,まず自分自身の罪のために,ついで民の罪のために,日ごとに犠牲をささげる必要はありません。(彼はご自身をささげた時,そのことをただ一度かぎり行なわれたからです。)律法は弱さを持つ人たちを大祭司として任命しますが,律法ののちに来た,明言された誓いのことばは,永久に完全にされたみ子を任命するのです」。

      81 (イ)14万4,000人の従属の祭司はなぜ人類に対して同情や理解を示すことができますか。(ロ)「滅びることのない命の力」を持つことによって,彼らは何を行なえるようになりますか。

      81 そして,千年の間「神およびキリストの祭司」となる14万4,000人の霊的な従属の祭司についてはどうですか。(啓示 20:6)神は彼らを「み子の像にかたどったものとする」ことをあらかじめ定められました。(ローマ 8:29)彼らもまた,人間の男女として,しかも反抗的なアダムとエバから生を受けたゆえに罪深くて不完全で,気質の悪い者として生まれ,成長しました。ですから彼らは,弱くて罪深い人間であるとはどういうことかを知っています。ゆえに彼らもまた,自分たちの大祭司イエス・キリストのように,死んでゆく罪深い人類に対して同情や優しい気持ちを示すことができます。霊的な従属の祭司として依然地上にいた時分,彼らはそうした態度を取りました。では,「第一の復活」にあずかって天的な従属の祭司となる時にも,全く同様の態度を取るでしょう。彼らは自分の仕事を未完成のまま残して残念に思いながら死なねばならないなどということはありません。かえって,「滅びることのない命の力」を持つことにより,彼らは自分たちの大祭司に加わり,また遅れずについて行って,罪を取り除くわざを遂行し,完成させることができます。どんな結果がもたらされますか。人類の中の,喜んで答え応ずる人はすべて,罪のない人間としての完全性を取り戻します。

      82 啓示 21章4節は,一千年間にわたってその祭司制度によって成し遂げられる,畏怖の念を起こさせる業績をどのように描写していますか。神は再び,どんな宇宙を所有されますか。

      82 狡猾な政略を弄せずに,一千年間にわたってこの祭司制度によって成し遂げられる,畏怖の念を起こさせる業績は,次のような驚くべき言葉でわたしたちのために描写されています。「もはや死もなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」。(啓示 21:4)そうです,『死を生み出すとげ』である罪はなくなります! 自己本位の最初の人間の二親から受け継いだ,人類の罪深い状態は,神を辱しめる,その悲しむべきあらゆる結果もろともに一掃されてしまいます。いと高き神エホバは再び,清くて,無垢の,聖なる宇宙を所有されるのです。

  • 千年間仕える審判者たちに期待できる事がら
    神の千年王国は近づいた
    • 7章

      千年間仕える審判者たちに期待できる事がら

      1 ヨハネが見た数々の王座に座した者たちには何が与えられましたか。

      ほとんど信じがたい驚嘆すべき事がらが間もなくもたらされる千年の期間に関して自分が先見したことを述べた,霊感を受けた使徒ヨハネはこう記しました。「またわたしは,数々の座を見た。それに座している者たちがおり,裁きをする力が彼らに与えられた」― 啓示 20:4。

      2 ここで持ち出されている「裁き」のことを考えると,さもなければ明るい光景から,明るさが奪われがちなのはなぜですか。

      2 それは裁きを行なう権限を与えられた者たちの占める「座」でした! それは希望に満ちた,慰めを与える光景ですか。それとも,さもなければ,きたるべき千年期の中の千年期に関する明るい描写に陰うつな影を投げかけるものですか。使徒ヨハネ自身はそうした光景をどう考えましたか。わたしたちは今日それをどう見るべきでしょうか。今日,わたしたちはキリスト教世界で行なわれている司法制度に対してさえ,ひどく失望しているのではありませんか。司法官の資格を持ち,「神々」のようでありながら,自らの職責に対して不誠実になる人びとに関する預言である詩篇 82篇5節のことばは,今日,かつてないほど適中しています。『かれらは知ることなく悟ることなくして暗き中をゆきめぐりぬ 地のもろもろの基はうごきたり』。ローマ・カトリックのエルサレム聖書はこの聖句をこう訳しています。「彼らは無知で,無分別で,盲目的に振る舞い,地的な社会の基そのものをむしばんでいる」。

      3,4 (イ)しかし,そのすぐ前にヨハネが見た事がらから考えれば,それらの座に関する情景はどんな気持ちをいだかせるものですか。(ロ)不当な裁きを受けてきた人類が,それら「数々の座」に救済を期待するのは,なぜ適切なことですか。

      3 今日,人類は確かに,気持ちを和らげるものを欲しています! そして幸いにも,使徒ヨハネがそれら裁きの「座」に関して見たのは,暗たんたる不安の念を引き起こすものではなくて,わたしたちの気持ちを大いに和らげるものでした。ここで,ヨハネが預言的な幻の中で,天の王の王と,「地の王たち」とその「軍勢」および世界的な政治機構との間の戦いを予見したことを思い起こしてみましょう。それらの王たちとその地上の支持者たちは敗北を喫し,滅ぼされました。その結果,王座つまり政治支配者が裁きを行なう権威の座は空席となりました。その後直ちに,使徒ヨハネは,神の使いが地の近辺に下ってきて,悪魔サタンとその悪霊たちを鎖で縛り,彼らを底知れぬ所に投げ込んで,そこに神の封印を施し,そのもとに彼らを千年間幽閉するのを見ました。―啓示 19:11から20:3まで。

      4 悪魔の支配する事物の体制のそうした滅びは確かに,人間を裁く裁判官の地位の変化を求めるものとなりました。人類に対する天的な監督権が,「忠実かつ真実と称えられ……義をもって裁きまた戦(って)」勝利を収めた,王の王の手にすでに渡されたのですから,特にそうです。(啓示 19:11-16)次いで,物事の当然の成り行きからすれば,新たな裁きの座が生じます。神の権威によって天に確立されるそれら新たな裁きの座を占める者と予想できるのは,より優れた一団の審判者にほかなりません。その後,不当な支配や,不当な裁きを受けてきた人類は司法上の不正からの救済を期待できるでしょう。

      5,6 裏切られる前に,イエスが11人の忠実な使徒たちに述べたことばによれば,それら「数々の座」を占める審判者とはだれですか。

      5 人類の上に立つその新たな一群の審判者とはだれのことですか。そうした審判者になる見込みのある人たちを代表した一群の者たちに対するイエス・キリストの言葉は,だれがその天的な審判者の一群に属しているかを示しています。

      6 裏切られて捕えられ,エルサレムの最高法廷で不当な審理を受けた夜,イエスは忠実を保っていた使徒たちにこう言われました。「あなたがたはわたしの試練の間わたしに堅くつき従ってきた者たちです。それでわたしは,ちょうどわたしの父がわたしと契約を結ばれたように,あなたがたと王国のための契約を結び,あなたがたがわたしの王国でわたしの食卓について食べたり飲んだりし,また座に着いてイスラエルの十二部族を裁くようにします」。(ルカ 22:28-30)それら忠実な使徒たちは,イエス・キリストによって天の王国のための契約に入れられて裁きの座につく14万4,000人のうちの主要な人たちでした。(マタイ 19:27,28)もちろん,それら14万4,000人の仲間の審判者の上に立つのは,主宰審判者イエス・キリストです。

      7 アテネのアレオパゴス法廷で述べたパウロのことばによれば,人の住む地は神の定められた時にどのように裁かれますか。

      7 ここで思い出されるのは,西暦51年ごろアテネのアレオパゴス法廷に出頭させられた使徒パウロの語った言葉です。「他の人たち以上に神々への恐れの念を厚くいだいて」いるように見えた同法廷の裁判官に自分の立場を説明したパウロは,最後にこう言いました。「たしかに,神はそうした無知の時代を見過ごしてこられはしましたが,今では,どこにおいてもすべての者が悔い改めるべきことを人類に告げておられます。なぜなら,ご自分が任命したひとりの人によって人の住む地を義をもって裁くために日を定め,彼を死人の中から復活させてすべての人に保証をお与えになったからです」。(使徒 17:22-31)それで,人の住む地は「義をもって」裁かれますし,神が裁きを行なうさいに用いられる主要な者は,復活させられたそのみ子イエス・キリストです。

      8,9 (イ)この任命された審判者はどのようにして,人間の裁判官が行なえなかったような仕方で人類を裁くことができるのでしょうか。(ロ)ヨハネ 5章27-30節に記されているイエスの言葉によれば,イエスはどのようにして,すべての人が必ず裁きを受けられるように取り計らわれますか。

      8 仲間の宣教者テモテに最後の手紙を書き送った使徒パウロは,裁きを行なうべく任命された方を名指してこう言いました。「神のみまえ,また生きている者と死んだ者とを裁くように定められているキリスト・イエスのみまえにあって,またその顕現と王国とによって厳粛に命じます」。(テモテ第二 4:1)神により任命されたこの審判者は,地上の人間の裁判官がかつて行なわなかった,あるいは行なえなかったような仕方で司法官として行動します。彼は単に生きた人間だけでなく,それ以外の者をも,つまり死んだ人間をも裁きます。人間によって任命された,単なる人間の裁判官は死者を呼び戻して裁くことはできません。しかし,神により任命されたその審判者は,そうすることができます。そして,それら死人はそうした裁きを受けるには死者の中から連れ戻されねばならないにしても,一千年の期間のその裁きにあずかります。「生きている者」はもとより,それら死者には,キリストの犠牲の死によってそうした裁きにあずかる権利があるのです。イエスの次の言葉に注目してください。

      9 「父が死人をよみがえらせて生かされるのと同じように,子もまた自分の欲する者を生かす(の)です。父はだれひとり裁かず,裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。それは,すべての者が,父を尊ぶと同じように子をも尊ぶためです。子を尊ばない者は,それを遣わされた父を尊んでいません。そして,裁きを行なう権威を彼にお与えになりました。彼が,人の子であるからです。このことを驚き怪しんではなりません。記念の墓の中にいる者がみな,彼の声を聞いて出て来る時が来ようとしているのです。良いことを行なった者は命の復活へ,いとうべきことをならわしにした者は裁きの復活へと出て来るのです。わたしは,自分からは何一つ行なえません。自分が[父から]聞くとおりに裁くのです。そして,わたしが行なう裁きは義にかなっています。わたしは,自分の意志ではなく,わたしを遣わしたかたのご意志を追い求めるからです」― ヨハネ 5:21-23,27-30。

      10 (イ)そのような裁きを行なうために,その審判者は死人を何から解放しますか。(ロ)どんな行為がそうした解放をもたらしますか。それで,復活の目的に関してどんな疑問が生じますか。

      10 考えてみてください! 地上では人の子として知られていたこの審判者は,記念の墓のそれらすべての死人を解放することによって,一千年にわたる審判者としてのご自分の務めを飾るのです。一千年にわたる裁きの日は,記念の墓にいる者すべての復活の日となります。人の子はそれらの人びとのために完全な人間の犠牲として死なれたのです。それは,「第一の復活」つまり天的復活にあずかる14万4,000人の共同の審判者以外の買い戻された人類のすべてを意味しています。(啓示 20:4-6)さて,葬られた死者を解放するこの愛ある行為,つまりこの地的復活は,復活させられる人たちを害する目的で行なわれるものと考えるべきでしょうか。愛ある行為は,その行為の対象となる人に害をもたらすためになされるものでしょうか。わたしたちが言いたいのは次の点です。つまり,この復活は義とみなされる人たちだけでなく,比較的にいって「不義」者と呼ばれる人びとのためにも行なわれるのです。「義者と不義者との復活がある」のです。(使徒 24:15)義者については心配がいりませんが,不義者についてはどうですか。

      11 (イ)「不義者」を復活させる目的に関してはどんな疑問が生じますか。(ロ)イエスに好意を示して死んだ悪行者の例は,この問題とどのような関係を持っていますか。

      11 「不義者」はいかめしい過酷な審判者に面と向かって,自分たちの過去の不義の行ないすべてを再び詳しく聞かされ,そのようにして,完全な滅びの宣告を受ける理由を聞かされる,ただそれだけのために過分の親切を示されて復活させられるのでしょうか。もしそれが彼らの場合の目的だとすれば,それら「不義者」にとって復活にはどんな実際的価値があるのでしょうか。それは,カルバリでイエス・キリストの傍らの刑柱に掛けられながら,イエスに向かって,「イエスよ,あなたがご自分の王国にはいられる時,わたしのことを思い出してください」と語った,あの一方の「悪行者」のような不義者を復活させる目的ですか。彼はイエスに向かってそうした好意的な言葉を述べたからといって,悪行者から聖人に変わったわけではありません。イエスはその悪行者に慰めを与える返事をしましたが,だからといって,復活させられたイエスがご自分の人間としての犠牲の価値を捧げるために天のみ父のみ前に昇った時よりも42日も前に,すでにその悪行者が信仰によって義と認められ,あるいは義とされたわけではありません。(ルカ 23:39-43)その男の人は罪に定められた悪行者として依然死んだままであり,よみがえらされることになっている「不義者」のひとりとして数えられねばなりません。

      キリスト教時代以前の審判者たち

      12 「不義者」はもとより,「義者」は,復活によって記念の墓から解放される以上のことを必要としています。なぜですか。

      12 「義者」と呼ばれる人たちはもとより,「不義者」と呼ばれる人たちにとって,死人の復活は何を意味していますか。そのすべては,不従順なアダムとエバから罪とその刑罰である死を受け継いだゆえに死にました。ですから,彼らはみな,自らは何ら義にかなったものを持たずに死にました。(ローマ 5:12; 3:23)それで,彼らが個人的な性格の点では変わらずに,復活によって戻って来るとき,「義者」でさえ,人間としては完全ではありません。つまり,不完全さや罪深い状態から解放されてはいません。このことは,預言者エリヤやエリシャ,また主イエス・キリストやその使徒たちが復活させ,地上で生きかえらせた人たちにも当てはまります。(ヘブライ 11:35)このことからすれば,「不義者」と全く同様,「義者」も,死人の中から復活させられて記念の墓から解放される以上の事を必要としていることがわかります。「義者」もまた罪深い状態と人間としての不完全さから解放される必要があります。したがって,天の審判者イエス・キリストは,彼らがほんとうに潔白で,完全で,罰すべき罪深いところのない者であると直ちに宣言し,また彼らは地上で永遠の命を受けるにふさわしい者であるとの判決を,その復活当日に下せるわけではありません。

      13 (イ)神はなぜ,人類の審判者となるイエス・キリストのために千年の期間を指定されたのですか。(ロ)神の千年期の審判者に期待すべき事がらに関して,「士師記」は何を示していますか。

      13 もし審判者の責務が,復活させられた「義者」と「不義者」が審判者の前に現われる日に判決を下すことだけに限られているとすれば,人類のための審判者として仕える者になぜ千年の期間が指定されているのでしょうか。それほどの長い期間は,なすべき仕事のためにこそ指定されるものであって,単に評決や宣告を発表するためだけに指定されるものではありません。聖書の中では,神がキリスト教時代以前のご自分の選民のための審判者として起こした人びとは,単に個人間の争いを解決したり,裁判判決を下してそれを執行したりする以上のことを行ないました。神の立てられたそれら「士師」は,神の選民の救出者でした。聖書中には,特に「士師記」と呼ばれる書がありますが,それはたいへん感動的な記録の書です。そこには,『天下を裁く者』であられる神が虐げられたご自分の民を救い出すために起こした人びとの果敢な偉業が記されています。では,神が苦しめられているご自分の民のための裁きを執行させるべく審判者を起こされた時に始まった裁きの日を歓呼して迎えてください!

      14 士師であったエホデやバラクについて読んで知っていることを簡単に述べなさい。

      14 単身で赴き,異常に肥えたモアブ人の王エグロンをその会議室内で殺し,次いで逃れてイスラエル人を組織し,やがてモアブ人の圧制者たちに対する勝利を得させることにより,士師として勤め始めたエホデのことを,わたしたちは読んで知っています。車輪に鉄の鎌を取りつけた戦車900両を備えて自分の軍隊を恐るべきものにしたカナンの王ヤビンの強力な軍勢を打ち破ることによって,イスラエル国民の士師として自分が選ばれたことを証明したバラクのことも,わたしたちは読んで知っています。

      15 同様に,ギデオンやエフタについてはどんなことを読んで知っていますか。

      15 次いで,神に対する信仰を持つ,わずか300人の男子を率いて,おびただしいいなごのようにイスラエルの地に殺到したミデアン人や東方の民を敗走させた,謙虚な人,ギデオンがいます。真夜中のこと,寝静まった敵の陣営をほとんど包囲したギデオンとその300人の兵は,手にしたつぼを一斉に地面に投げつけて砕き,たいまつを高々と掲げ,ラッパを吹き鳴らし,「エホバの剣 ギデオンの剣」と叫びました。敵の陣営は突如混乱し,恐慌状態に陥り,人びとは逃走し,また互いに殺し合いました。そして,ギデオンとその300人の兵は,生き残った者たちを追跡しました。その後,多くの年月が経ち,約束の地がまたもや危機に見舞われたとき,エホバは家を追い出されたエフタを起こして,横柄なアンモン人に立ち向かわせました。神のために尽くそうとするエフタの熱心は非常に熱烈なものだったので,もし勝利が与えられたなら,わが家に戻った時,何であれ最初に自分を迎え出たものを犠牲として神にささげる旨,自ら誓いを立てました。勝利を得て意気揚々と帰って来た彼を最初に出迎えたのはその独り子,つまり彼の娘でしたが,エフタはその娘を神への奉仕にささげて,神への献身のほどを示しました。

      16,17 (イ)サムソンはイスラエルの士師としてどのように仕えましたか。(ロ)霊感を受けた筆者は士師についてヘブライ 11章32-34節で何と述べていますか。

      16 それにしても,二親に対して誕生が予告され,また肉体的にいって,かつて地上に現われた最も強い人間となったサムソンの話を聞いたことのない人がいるでしょうか。彼は終始独りで自分の民を圧制的なペリシテ人から救い出しましたが,ペリシテ人に捕えられて盲目にされた彼は最期の日に,ペリシテのガザにあるダゴンの神殿を三千人余の祝い客の上に倒壊させ,そのようにして彼はそれまでの生涯中に殺した以上の多くのペリシテ人を,自ら死を遂げたその日に殺しました。

      17 霊感を受けたクリスチャンの筆者は,神に対する信仰を抱いて勝利を得た人たちの中にそれら士師を含めて,ヘブライ 11章32-34節でこう述べています。「そして,このうえ何を言いましょうか。さらにギデオン,バラク,サムソン,エフタ,ダビデ,またサムエルやほかの預言者たちについて語ってゆくなら,時間が足りなくなるでしょう。彼らは信仰により,王国を闘いで打ち破り,義を成し遂げ,約束を得,ししの口をふさぎ,火の勢いをくい止め,剣の刃を逃れ,弱かったのに強力な者とされ,戦いにおいて勇敢な者となり,異国の軍勢を敗走させました」。

      18,19 (イ)約束の地に定住した後,イスラエル民族に臨んだ苦悩に関しては,だれにその責任がありましたか。(ロ)なぜ彼らのために次々に士師を起こさねばなりませんでしたか。

      18 もちろん,それら士師の時代にイスラエル民族が敵の手によって苦しめられたことに対しては自分たちに責任がありました。なぜなら,彼らは生ける神エホバの清い崇拝から逸脱したからです。しかし,彼らが誠実に悔い改めてエホバの崇拝に戻ったとき,エホバは彼らに恵みを示されました。士師 2章16-19節に述べられているとおりです。

      19 『エホバ士師を立てたまいたれば かれらこれを掠むるものの手よりすくい出したり 然るにかれらその士師にもしたがはず反りてほかの神を慕いてこれと淫をおこない これにひざまずき 先祖がエホバの命令に従いて歩みたるところの道を頓に離れ去りてそのごとくには行なはざりき かれらのためにエホバ士師を立てたまいし時にあたりては エホバつねにその士師とともにいまし その士師の世にある間はエホバかれらを敵の手よりすくい出したまえり こはかれらおのれを虐げくるしむるものありしを呻きかなしめるによりてエホバこれを哀れみたまいたればなり されどその士師の死にしのち またそむきて先祖よりもはなはだしく邪曲を行ない ほかの神にしたがいてこれに仕え これにひざまずきておのれの行為をやめず その頑固なる路を離れざりき』。

      天の不滅の審判者たち

      20 (イ)人類は一千年の期間中,かつてのイスラエルの士師の時代のように,再三取り残されることはありません。なぜですか。(ロ)患難を生き残る「大群衆」でさえ,さらに救い出される必要があるのはなぜですか。

      20 しかし,その同じエホバ神が審判者として起こしたイエス・キリストとその14万4,000人の仲間の司法官は,たとえ悪魔サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられて地の近辺から除かれても,次々に死んで地上の住民だけを残すということはありません。「滅びることのない命の力」を持っているので,彼らはすべて,司法官としての千年の任期いっぱい続けて奉仕します。彼らは単に王座に座して判決や裁定を下すだけでなく,昔エホバの是認を得た忠実な士師が行なったのと同様,救出者として行動します。神の保護を受けて「大患難」を生き残り,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられた後も生き続ける「生きている者」たちでさえ,さらに救い出されることをなお必要としているのです。それらの人びとは神のみ前における義の立場ゆえに,地上で守られて一千年の裁きの日に生きて入りますが,彼らの場合,自分たちが救い出される必要のある事がらがほかにもまだあります。それは何ですか。それはこの事物の体制が滅ぼされ,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に投げ込まれるさい,彼らがずっと守られながら,同時に,携えてきた罪深い状態,不完全さ,弱さ,また死に赴く状態などです。

      21,22 (イ)死んだ人間は復活させられるとき,さらに救い出される必要があります。なぜですか。(ロ)ヨブやダビデのように,ある人びとは復活させられるとき,どんな理由で「義」とみなされますか。

      21 同様に,記念の墓から生き返らされる必要のある「死んだ者」の場合も,死の眠りから覚めるとき,「義」あるいは「不義」の者とみなされるかどうかにはかかわりなく,彼らはすべて,罪深い状態,欠点,欠陥のある状態,人間的弱さ,死に向かう傾向などから解放されねばなりません。だれかが「義」とみなされるからといって,人間的また倫理的見地から見て当人が完全な肉身の人間だという意味ではありません。とはいえ,神の目に義とされるということは,そのような人はウヅの地の辛抱強いヨブがそうであったように,神に対して忠誠を保つ男女であるという意味です。(ヨブ 2:3,9; 27:5。ヤコブ 5:11。エゼキエル 14:14,20)または,神によって裁かれることを恐れなかったエルサレムのダビデ王にも似ています。詩篇 26篇1-3,11節(新)でダビデはこう述べているからです。

      22 「エホバよ,わたしを裁いてください。わたしは自分の忠誠のうちに歩み,またわたしはよろめかないように,エホバに信頼してきたからです。エホバよ,わたしを調べ,わたしを試してください。わたしの腎とわたしの心を精練してください。あなたの愛ある親切はわたしの目の前にあり,わたしはあなたの真理のうちを歩んできたからです。しかし,わたしは,忠誠のうちに歩みます。どうかわたしを買い戻し,わたしに恵みを示してください」。

      23,24 (イ)キリスト教時代以前に忠誠を保ったそれらの人びとはどんな復活のために,不敬虔な者たちとの取引きを拒みましたか。(ロ)それらの人たちについてヘブライ 11章35-40節は何と述べていますか。

      23 不敬虔な者たちとの何らかの取引き,もしくは妥協によってエホバ神に不忠節になることを拒み,忠誠をつくして死んだキリスト教時代以前の他の人びとは,キリスト教に帰依したヘブライ人に書き送られた書の11章にその名を挙げられたり,言及されたりしている男女です。彼らはより良い地上の状態のもとで,つまりより良い政府のもとで命に復活させられることを待ち望みました。その政府のもとで,彼らは完全な平和と幸福と,生ける神への忠誠のうちに永遠に生きられるのです。ヘブライ 11章35-40節にはそのことがこう述べられています。

      24 「女たちはその死者を復活によって再び受けました。またほかの人びとは,何かの贖いによる釈放を受け入れようとはしなかったので拷問にかけられました。彼らはさらに勝った復活を得ようとしたのです。そうです,ほかの人びとはあざけりやむち打ち,いえ,それだけでなく,なわめや獄によっても試練を受けました。彼らは石打ちにされ,試練に遭わされ,のこぎりで切り裂かれ,剣による殺りくに遭って死に,羊の皮ややぎの皮をまとって行きめぐり,また窮乏にあり,患難に遭い,虐待のもとにありました。世は彼らに値しなかったのです。彼らは砂ばくや山々,またほら穴や地のどうくつをさまよいました。しかしなお,これらの人びとはみな,その信仰によって証しされながらも,約束の成就にあずかりませんでした。神はわたしたちのためにさらに勝ったものを予見し,わたしたちを別にして彼らが完全にされることのないようにされたからです」。

      25,26 (イ)それらの「義者」は復活させられるとき,なぜ裁きの日を恐れませんか。(ロ)それらの「不義者」は復活させられるとき,「義者」と比べて,どうして不利な条件のもとにありますか。

      25 それらの「義者」は人間として完全で,行ないの点で欠点のない者としてよみがえらされはしないにしても,神への忠誠のうちに死んだので,神に忠誠な者としてよみがえらされるでしょう。彼らは復活によって招じ入れられた千年間の偉大な裁きの日を恐れはしません。彼らは死ぬ以前に忠誠を培い,またそれを備えてよみがえらされるのですから,罪深い状態から完全に解放されて人間としての現実の完全な状態に向かって進歩する点では「不義者」よりも有利な立場にあります。いわば,その方向では「不義者」を少し引き離していることになります。

      26 そういう趣旨のことがこう記されています。「資力に乏しくても,忠誠のうちに歩んでいる者は,くちびるのひねくれた者,また愚かな者よりも勝っている」。また,「義人は忠誠のうちに歩んでいる。彼ののちの子たちは幸いである」。(箴言 19:1; 20:7,新)一方,死に至るまで罪深い性向や悪い習慣また悪い欲望を培った「不義者」にとって事態はもっと難しいものとなります。そうした事がらは,楽園のような地上で罪のない人間としての完全性を備えた永遠の命を獲得する競走において,彼らの歩みを妨げる障害,不利な条件,煩わしいものとなります。また,それら「不義者」の多くはこの世で,手近にあった霊的な機会や備えを利用するどころか,それを無視し,蔑視し,軽べつし,あるいはそれに反対しました。そのようなわけで,彼らは主人に対して感謝の念に欠けた,がん固な性向をいだいています。したがって,それは彼らにとっては災いとなります。イエス・キリストは悔い改めようとしなかったコラジンやベツサイダまたカペルナウムなどの都市に向かって次のように告げて,その種の事例を挙げました。

      27 イエスはコラジンやベツサイダまたカペルナウムなどを引合いに出して,前述のことをどのように例証しましたか。

      27 「コラジンよ,あなたには災いが来ます! ベツサイダよ,あなたには災いが来ます! あなたがたの中でなされた強力な業がティルスやシドンでなされていたなら,彼らは粗布と灰の中でずっと以前に悔い改めていたからです。したがって,あなたがたに言いますが,裁きの日には,あなたがたよりティルスやシドンのほうが耐えやすいでしょう。そしてカペルナウムよ,あなたが天に高められるようなことがあるでしょうか。下ってハデスに至るのです。あなたの中でなされた強力な業がソドムでなされていたなら,ソドムはきょうこの日に至るまで残っていたからです。それであなたがたに言いますが,裁きの日には,あなたよりソドムの地のほうが耐えやすいでしょう」― マタイ 11:20-24。

      28,29 (イ)古代のニネベの人びとや南の女王はなぜイエスの当時のユダヤ人の世代を罪に定めるのでしょうか。(ロ)裁きの日には,いま有利な立場にある人びとと宗教的に不利な立場にある人びととの場合のように,物事はどのように釣合いが取られることになりますか。

      28 俗事にかかわり,目に見えるしるしを自分たちの信仰の基礎にしようとして神との関係を不純なものにしていたユダヤ人の世代に対して,イエスはこう言いました。「ニネベの人びとは裁きのさいにこの世代とともに立ち上がり,この世代を罪に定めるでしょう。彼らはヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたからですが,見よ,ヨナ以上のものがここにいるのです。南の女王は裁きのさいにこの世代とともによみがえらされ,この世代を罪に定めるでしょう。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからですが,見よ,ソロモン以上のものがここにいるのです」― マタイ 12:38-42。

      29 大勢の独善的宗教家,つまり自分たちは自らが異教徒と呼んだ者たちよりももっと義にかなっていると自負した,自己満足,自己陶酔に陥った因襲的な宗教家は,その時どんなにか驚かされるでしょう。彼らは自分たちこそ宗教的偽善者であって,自分たちの見下げていた異教徒のほうがより誠実で,もっとよく教えを聞き入れ,感謝の念がもっと厚く,無知ゆえに非難される所がもっと少ないことに気づくでしょう。宗教的にあまり恵まれていなかった人びとの誠実さや態度はその時,自分たちの機会を無関心な態度で,あるいは故意になおざりにした,特権に恵まれた人たちを罪に定めるものとなります。それで,現代の有利な立場にある人びとと不利な立場にある人との場合のように,物事は正しく釣合いを取ることになります。

      裁きの日の利点

      30,31 (イ)裁きの日には,すべての人の前に彼らの以前の状態を列挙して,彼らが有罪か,無罪かを確かめる必要がありますか。(ロ)律法下のユダヤ人を引合いに出すことによって,全人類に関して何が証明されましたか。

      30 「差別はない(の)です。というのは,すべての者は罪を犯しているので神の栄光に達しないからで(す)」と述べたローマ 3章22,23節のことばの真実性は,否定できるものではありません。したがって,裁きの日にはすべての人,つまり「生きている者と死んだ者」はみな,エホバ神が起こされる天の審判者たちの助けによって,裁きの日に招じ入れられるさいに身にまとっている罪や,道徳面の弱さ,また身体的不完全さなどの痕跡すべてから救い出されることを緊急に必要としています。ローマ 3章23節その他の聖句の中で包括的に述べられているとおり,証拠および証言はすべて人類にとって不利なものですから,裁きを受ける人類の前にそれを列挙して,彼らが有罪か,無罪かを確かめる必要はありません。神がモーセを通して与えた律法を生来のユダヤ人が守れなかったことによって,人類はだれも,恵みを受けたユダヤ人でさえも神の律法を完全に守れるものではないことが証明されました。こうして,律法のもとにあったユダヤ人のこの現実的実例により,自己弁護をする人の口はことごとく閉ざされ,人類の世は神の前にすべてが有罪とされました。それは使徒パウロが昔次のように記したとおりです。

      31 「さて,わたしたちは,律法の述べる事がらはみな,律法のもとにある者たちに対して語られていることを知っています。それは,すべての口がふさがれて,全世界が神の処罰に服するためです」― ローマ 3:19。

      32 (イ)人類は裁きの日に「二度目のチャンス」を持つかどうかについては,何というべきですか。(ロ)では,彼らが楽園の地で生き続けられるかどうかは,だれに依存していますか。なぜですか。

      32 人類は罪深いものとして生まれ,死に定められたので,一度も「チャンス」に恵まれませんでした。完全な義のわざを行ない,罪深い状態を自力で除き去って,絶対的完全の神の前で身のあかしを立てることは決してできませんでした。それで,裁きの日は,いわゆる「二度目のチャンス」を与えるものではありません。むしろ,それは,地上の楽園で人間的完全さと絶対的潔白さを伴う永遠の命を得る最初の現実の機会を人類に与えるものとなります。キリストの完全な人間の犠牲は,人類が罪から清められ,今はまだ受けられない神の全き「栄光」にまで高められる機会を備えるものですが,裁きの日はそのような機会を人類に供するものです。このことからすれば,楽園の地を永久に所有するかどうかは,裁きの日に「生きている者と死んだ者」とが何を行なうかにかかっていることがわかります。彼らの過去の記録はすでに作られたものなので,彼ら自身に善し悪しいずれの影響を及ぼすにせよ,取り消せるものではありません。裁きの日は,人類が罪との関係を今後永久に断ち,自分たちの誠実な心の願うところを行ない,成し遂げる者であることを人類に実証させる時となります。天の審判者たちはその職務につき,教えや指導を与えて彼らを助けます。

      33 裁きの日のそのような機会は,啓示 20章11-15節に象徴的なことばでどのように描写されていますか。

      33 裁きの日のそうした機会は,啓示 20章11-15節に次のような象徴的な言葉でわたしたちのために描写されています。「またわたしは,大きな白い座とそれに座しておられるかたとを見た。そのかたの前から地と天が逃げ去り,それらのための場所は見いだされなかった。そしてわたしは,死んだ者たちが,大いなる者も小なる者も,その座の前に立っているのを見た。そして,数々の巻き物が開かれた。しかし,別の巻き物が開かれた。それは命の巻き物である。そして,死んだ者たちはそれらの巻き物に書かれている事がらにより,その行ないにしたがって裁かれた。そして,海はその中の死者を出し,死とハデスもその中の死者を出し,彼らはそれぞれ自分の行ないにしたがって裁かれた。そして,死とハデスは火の湖に投げ込まれた。火の湖,これは第二の死を表わしている。また,だれでも,命の書に書かれていない者は,火の湖に投げ込まれた」。

      34 (イ)その箇所で描かれている復活には,「第一の復活」にあずかる人たちが含まれていますか。(ロ)その時に開かれる「数々の巻き物」には,何に関する記録は収められてはいませんか。なぜですか。

      34 この象徴的な光景は,「第一の復活」にあずかる者たち,また啓示 20章4-6節で「第二の死」に陥る恐れのない者として既に言及されている者たちとは無関係です。この光景は,復活にあずかって地上で生存する人たち,また千年の終わりになって初めて永遠の命に値する者と判定される人たちのことを示しています。その時,彼らは人間としての完全さのうちに,十分に身につけた義を示すことができるでしょう。巻き物が開かれ,その中に記された事がらに従って彼らは有利な,あるいは不利な裁きのいずれかを受けますが,その巻き物には,この事物の体制下の現在のこの世における彼らの過去の不完全で,罪深い行為すべての記録が収められているのではありません。天の審判者たちは,復活させられる個々の人びとが有罪か,あるいは無罪かを決定するために千年間を費やして,過去の人間の生活の記録をつぶさに調べる必要はありません。彼らは人類の過去についてそれほど無知,あるいは疎くはありません。それら審判者たちが特に留意するのは,人類の過去ではなくて人類の将来のことです。人類は将来のための指導を必要としているのです!

      35,36 (イ)では,それら「数々の巻き物」は何を表わしていますか。だれがその内容を知りますか。(ロ)知らなかったとして言いわけできる人は地上にはなぜ一人もいなくなりますか。

      35 ですから,それら開かれる「数々の巻き物」とは,神の代理を勤める審判者たちによって人類に与えられる新しい一連の教示や指示また命令です。こうして,それら開かれた「数々の巻き物」の内容は全人類に知らされます。それは彼らが自分たちの裁かれる規準や,自分たちの将来の行動やわざに関して何が期待されているかを知るためです。人類は無知のままに放置されることはありません。人はみな,裁きの巻き物にしたがって律法の意味するところを知らざるを得なくなります。人びとを惑わしたり,発表された律法や教示を曲げたりする悪魔サタンやその悪霊たちは,地球の近辺の見えない領域のどこにも存在しなくなります。確かに存在しなくなります。というのは,それら古い「天」はこの裁きの日のための時を定めた神の面前から逃げ去ってしまっているからです。したがって,祈祷師,霊媒あるいは透視者,天宮図を携えた占星術者はどこにもいませんし,霊応盤その他同類の悪霊崇拝と関係のある用具の売買も行なわれることはありません。新しい天のみが存在し,義を滴らすでしょう。こう記されています。

      36 『天よ うえより滴らすべし 雲よ 義をふらすべし 地はひらけて救いを生じ 義をもともに萌えいだすべし われエホバこれを創造せり』― イザヤ 45:8。

      地上の「君」たち

      37 (イ)天の審判者たちは,それら「数々の巻き物」の内容をどのようにして人類に伝えますか。(ロ)神の律法や裁定が施行されているとき,人類はどのようにしてそのことを知りますか。

      37 目に見えない天的な審判者たちが,開かれる「数々の巻き物」の内容をどのようにして地上の住民に伝えるかは,聖書には明確に述べられてはいません。しかし,地上には神の天の王国を直接代表する人たちがいます。そのような人びとが人類の中にいることは,「新しい地」がその新しい人類社会を伴って存在していることの公式な証拠となります。悪魔サタンにより見えない仕方で支配されていた古い「地」は,神の面前から逃げ去って,滅亡以外にその占めるべき所は見いだされなくなります。法廷や弁護士や代理人そして司法制度は過去のものとなり,神の律法こそ,いまや人がそれに精通し,それによって裁かれ,また人が適用すべきものとなります。王国の地上の代表者たちが行動するとき,施行されているのは神の律法また裁定であることを人びとは知り,はっきりと理解します。

      38 天の王イエス・キリストは顕著さの点で,ご自分の地的な先祖を当てにする必要がありますか。それとも,独自の顕著さを有することになりますか。

      38 千年間の裁きの日のためのこの取決めに関する指示は,聖書の預言的な句の中に述べられています。たとえは,神の油そそがれた王,イエス・メシアまたはキリストに関する叙情詩である詩篇 45篇を取り上げてみましょう。イエス・キリストとその花嫁である会衆との天的な結婚と,その花嫁級に仕える人たちに関して預言的なことばを述べた後,その詩篇はこう語ります。「彼らは王の宮殿に入って行く。あなたの父祖たちに代わってあなたの子たちとなり,あなたは彼らを君として全地に任命するであろう」。(詩篇 45:15,16,新)もちろん,天の王イエス・キリストには顕著な先祖がいました。それらの人びとがエルサレムのダビデ王の王座に着いて仕えたかどうかは別として,聖書の記録の中にその名が列挙されています。しかし,その天の王は顕著さの点で先祖を当てにする必要はありません。完全な人間として地上におられたとき,エルサレムその他どこであれ,有形の王座に着くことを拒んだとはいえ,イエス・キリストは独自の顕著さを有することになります。

      39 領土に関して王イエス・キリストはダビデ王をさえ,顕著さの点でどのようにしのぎますか。

      39 天の王イエス・キリストは名声や誉れ,そして顕著さの点でダビデをさえ凌ぐことになります。イエスは,ダビデ王がアブラハムに対する神の約束にしたがって当時征服した領土全域の境界線のはるかかなたにまでご自分の王国を広げて行きます。(創世 15:17-21)そうです,東西,南北がそれぞれ相会する所まで,まさにこの惑星上の至る所に,つまり「全地」に広げるのです。それは,王イエス・キリストの預言的な型としての「ソロモン」に関して記されているとおりです。『神よねがわくは汝のもろもろの審判を王にあたえ なんじの義を王の子にあたえたまえ かれは義をもてなんじの民をさばき 公平をもて苦しむものをさばかん またその政治は海より海にいたり河より地のはてにおよぶべし』― 詩篇 72:表題,1,2,8。

      40 イエスは地上で子供を設けませんでしたし,彼はまた,ダビデ王の永久相続者であるため,君となる子たちに関して,ここでどんな問題が生ずるように思えますか。

      40 しかし,ここで問題が生ずるように思えるのではありませんか。ダビデ王の子ソロモンよりもいっそう偉大で,いっそう賢明なこの王は,完全な人類家族を生み出す生殖力をその腰に有する完全な人間としてこの地上におられましたが,結婚しませんでした。では,「あなたの父祖たちに代わって」,次の点に注目してください,「あなたの子たちとなり,あなたは彼らを全地に君として任命するであろう」という預言はどのようにして成就されるのでしょうか。そのうえ,天のイエス・キリストはダビデ王の永久相続者であって,「滅びることのない命の力」を持つゆえに後継者なしに,つまりあとを継ぐ子を必要とすることもなく統治してゆくのです。み使いガブリエルがマリアに向かって,その息子となるべきイエスに関して次のように語ったとおりです。「エホバ神はその父ダビデの座を彼に与え,彼は王としてヤコブの家を永久に支配するのです。そして,彼の王国に終わりはありません」― ルカ 1:32,33。

      41,42 (イ)14万4,000人の共同相続者は,地上で任命されるべき「子たち」ではありません。なぜですか。(ロ)天のイエス・キリストはどのようにして,またどんな預言的称号を成就するものとして地的な「子たち」を持ちますか。

      41 イエス・キリストの14万4,000人の共同相続者はイエスの霊的な子たちではなくて,神の子たち,つまり「実に,神の相続人であり,キリストと共同の相続人で」あることを,わたしたちは知っています。(ローマ 8:17)では,「あなたの子たち……あなたは彼らを全地に君として任命するであろう」といわれている子たちとは,だれのことですか。王イエス・キリストの天的な子たちでないことは明らかです。地上にいるゆえに「全地に」君として任命され得る地的な子たちであるに違いありません。死んだ人びと,それも特に死んだ「義者」が復活させられて彼の子たちとなるのです。イザヤ書 9章6,7節の預言に基づく彼の約束の称号,すなわち,とこしえの父という称号は単なる空しい名誉称号となるのではありません。イエスは実際に,復活させられる人類家族の父となります。彼は,「命を与える霊」となった「最後のアダム」なのです。(コリント第一 15:45,47)最初の人,アダムはその子孫すべてを罪と死に売り渡しましたが,「天から出」た「第二の人」は,アダムから受け継いだそうしたものから,その子孫を買い戻すために,ご自分の完全な人間としての命を捨てました。それで,こう記されています。

      42 「神はただひとりであり,また神と人間との間の仲介者もただひとり,人間キリスト・イエスであり,このかたは,すべての人のための対応する贖いとしてご自身を与えてくださったのです」。(テモテ第一 2:5,6)「わたしたちは,み使いたちより少し低くされたイエスが,死の苦しみを忍んだゆえに栄光と誉れの冠を与えられたのを見ています。これは,神の過分のご親切のもとに,彼がすべての人のために死を味わうためでした」― ヘブライ 2:9。

      43 (イ)その王はどのようにして,患難を生き残る,復活を必要としない「大群衆」の父になりますか。(ロ)また,どのようにして人類のとこしえの父になりますか。

      43 神の意志にしたがってご自身を犠牲にすることによってイエス・キリストは,死んでゆく人類に命を与える権利を得,そのようにして彼らの父となります。そして,「死んだ」人たち,つまり「義者」と「不義者」双方を記念の墓や水中の墓場から呼び出し,次いで喜んで応ずる人たちすべてを完全な人間にまで引き上げることによって,彼らに命を移します。「大患難」を生き残ってキリストの千年統治の時代に入る「生きている」人たちについては,イエスは同様に,それら生き残った「義者」を,「満ちあふれるほど豊かに」命を享受する,つまり輝かしい完全な人間としての命を享受するレベルにまで引き上げます。(ヨハネ 10:10。テモテ第二 4:1。使徒 24:15)そして,このすべてを千年の終わりまでに成し遂げさせます。しかし,イエスの地的子供たちの享受するその豊かな命は永久に存続できるものであって,完全な人間として誠実さを保つ人たちは,とこしえの命を受けるにふさわしい者であることを実証します。それらの人びとはイエスの永遠の子供たちとなり,イエスは文字どおり彼らのとこしえの父となります。

      44,45 (イ)王はどのようにして十分の数の君たちを地上に立てて,その統治を開始しますか。任命される人たちはすべて「君」としての地位を占めます。なぜですか。(ロ)しかし,他の人びとの長となる者が君(サー)と呼ばれるには,王の家系の人でなければなりませんか。

      44 千年統治の初めに,傑出した王イエス・キリストはご自分の地的な子供たちの中から相応しい人たちを選んで,「全地に君」として立て始めます。「大患難」や,悪魔サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられる際に生き残った「生きている」人たちは,多数のそうした「君」たちを供するでしょう。死の眠りから復活させられる「死んだ」人びとの中の「義」人たちは,任命された君たちが「全地に」立てられるようにするため,十分の数の他の君たちを供することでしょう。詩篇 45篇16節は,それらの「君」たちの中にはイエスの復活させられた「父祖たち」の中の「義」人が含まれていることを示しているようです。そうした人たちはかつてイエスの先祖でしたが,いまや復活によって彼の「子たち」となるのです。それら任命された人たちは天の王の子たちなので,「君」としての地位を占めます。

      45 しかし,詩篇 45篇16節で「君」と訳されているヘブライ語がサリム<sarim>であることは注目に値します。古代イスラエル民族の間では,「サー<sar>」と呼ばれた人がすべて王室とつながりを持っていたわけではありません。そうした人びとに含まれる者として,千人の司,百人の司,五十人の司そして十人の司さえ,「サー」と呼ばれました。王室の召使い頭の長,あるいは王室のパン焼き職人の長さえ,「サー」と呼ぶことができました。―出エジプト 18:21,25。申命 1:15; 20:9。サムエル前 8:12。創世 40:2。創世記 23章5,6節と比べてください。

      46,47 (イ)任命されるそれらの人びとはすべて,その王の先祖の王統もしくは族長の家系の者でなければなりませんか。彼らはどんな人であるべきですか。(ロ)イザヤ書 32章1,2節に述べられているように,彼らはだれの関心事に対して真の関心をいだかねばなりませんか。

      46 「全地に君」として任命されるそうした人たちはすべて,人間としてのイエス・キリストの先祖で,その王統もしくは族長の家系の者でなければならないというわけではありません。基本的に言って,彼らは忠誠の人,つまり預言者モーセによって裁き人として任命されたような「有能な人びと」「賢くて,経験のある人びと」でなければなりません。それらの裁き人についてはこう記されています。「モーセはイスラエル全体の中から有能な人びとを選び,千人の長[サリム],百人の長[サリム],五十人の長[サリム],十人の長[サリム]として,民の頭としての地位を彼らに与えた。そして,適当な場合,いつもは彼らが民を裁いた。難しい事件はモーセのところに持って来たが,小さい事件はみな,彼ら自身が裁き人として取り扱った」。(出エジプト 18:25,26; 申命 1:15,新)王イエス・キリストによって任命される地上の君たちは,人びとの福祉を図ることや争いを平和裏に,また穏やかに解決することに真の関心を抱きます。そして,イザヤ書 32章1,2節(口語)で次のように描写されている君たちのように,正しい事を勇敢に擁護します。

      47 「見よ,ひとりの王が正義をもって統べ治め,君たち[サリム]は公平をもってつかさどり,おのおの風をさける所,暴風雨をのがれる所のようになり,かわいた所にある水の流れのように,疲れた地にある大きな岩の陰のようになる」。

      48,49 (イ)現在の訴訟手続きのゆえに助長された,犯罪者の抱くどんな考え方のために,犯罪が増大しましたか。(ロ)伝道之書 8章11-13節によれば,悪事を繰り返す犯罪者にとって,あるいはだれにとって,物事はうまくゆきますか。

      48 天の平和の君[サー]の治める時代には,法を公正に適用して違反者の責任を問う訴訟手続きは,すべての違反者の審理を迅速に行なうに足る十分の数の審判者や役員がいないために手間どって,だらだらと長引くことはありません。これまで,悪行者を審理し,不正行為を正し,法に照らして処断するのに長い時間がかかり,多くの事件の場合,何年もの時間がかかるため,結局は処罰されずにすむかもしれないと考える悪行者たちの犯罪が助長されてきました。今世紀の後半に犯罪はすさまじい勢いで増大してきましたが,すでに西暦前11世紀の昔,鋭い観察力を持つ,霊感を受けた賢い一筆者は次のように書きました。

      49 「悪しきわざに対する判決がすみやかに行われないために,人の子らの心はもっぱら悪を行うことに傾いている。罪びとで百度悪をなして」― 考えてもみてください! しかし,霊感を受けた筆者はさらにこう続けます。「なお長生きするものがあるけれども,神をかしこみ,み前に恐れをいだく者には幸福があることを,わたしは知っている。しかし悪人には幸福がない。またその命は影のようであって長くは続かない。彼は神の前に恐れをいだかないからである」― 伝道 8:11-13,口語。

      50 (イ)現在,法の施行が手間どるのは,人類の上にあるどんなもののためですか。(ロ)義に関して,「新しい地」は「新しい天」にどのように答え応じますか。

      50 悪行者を裁いて処罰する現在の訴訟手続が手間どったり,あるいは悪行者の責任を問うことが決してなされない場合があったりするのは,『古い天』のもとにある『古い地』でわたしたちが生活しており,悪魔サタンとその配下の「天の場所にある邪悪な霊の勢力」が人類社会を支配しているからです。腐敗した古い人類社会が滅ぼされ,サタンとその悪霊たちが底知れぬ所に入れられると,平和の君[サー]とその仲間の14万4,000人の審判者たちが審判者の職につく一千年の期間中,法の施行を妨げるものはすべて除去されることになります。「新しい天」から義が滴り落ちる結果,「新しい地」の人間社会という土壌はそれに答え応じて実を結ぶようになります。エホバはそのことをこう予告されました。『地はひらけて救いを生じ義をもともに萌えいだすべし われエホバこれを創造せり』― イザヤ 45:8。

      51 それでわたしたちは,イザヤとともに,どんな新時代を魂をこめて待ち望みますか。

      51 わたしたちは義と公正の行なわれるそうした時代を切望しているのではありませんか。その時代には,義人の道は今日のように苦しいものではなく,平坦なものとなります。地的復活を待ち望んだ預言者イザヤは,その願わしい新時代を期待して,霊感のもとにこう書き記しました。『義きものの道は直からざるなし なんじ義きものの道を直く平らかにし給う エホバよ審判をおこないたもう道にてわれら汝をまちのぞめり われらの〔魂〕はなんじの名となんじの記念の名とをしたうなり わが〔魂〕夜なんじを慕いたり わがうちなる霊あしたに汝をもとめん そは汝のさばき地におこなわるるとき世にすめるもの正義をまなぶべし 悪しき者はめぐまるれども公義をまなばず 直き地にありてなお不義をおこないエホバの稜威を見ることをこのまず』― イザヤ 26:7-10〔新〕。

      52,53 (イ)神のめぐみのもとで,直き地に住んでいてさえ,義を学ぶのはだれにとって難しいことですか。(ロ)彼らの場合,使徒ペテロの述べたどんな原則が当てはまるように思えますか。

      52 一千年の期間にわたる「直き地」,つまり人びとを正直に扱い,また人びとの間で物事が正直に扱われる地は,生来人間としての不完全性を持つ全人類に大いなる恵みが示される所となります。人類家族の成員の中には,他の人びと以上に深く罪深い堕落のふちに沈んだ人もいれば,長い間責任を問われなかったために,不誠実な性格をいっそう硬化させた人もいます。そのような人びとには不正をする性癖があります。その種の邪悪な人びとは,たとえ彼らの周囲ですべて物事が正直に行なわれ,また王イエス・キリストを通して彼らに神からの恵みが示されていてさえ,義と廉潔さを学ぶのに困難を感ずるであろうことは容易にわかります。あらゆる援助を差し伸べられるにもかかわらず,彼らはともすれば不正を行なおうとします。正当な立法者としてのエホバも,エホバの定められた生活上の規準の正当さをも認めようとはしません。そのような人びとに関しては,使徒ペテロが次のように述べた原則が当てはまるように思えます。

      53 「今は,裁きが神の家から始まる定めの時だからです。さて,それがまずわたしたちから始まるのであれば,神の良いたよりに従順でない者たちの終わりはどうなるでしょうか。『そして義人がかろうじて救われていくのであれば,不敬虔な者や罪人はどこに出てくるだろうか』」― ペテロ第一 4:17,18。

      54 神のめぐみをいたずらに受け,その目的を逸する人たちは,裁きの日の終わりまで生き長らえさせる必要がありますか。何がその理由となりますか。

      54 「直き地」に住みながら,神の『めぐみ』をいたずらに受け,その愛ある目的を逸し,また矯正不能であることを示す人たちは,必ずしも千年の終わりまで生き長らえさせられて,地に回復される楽園でとこしえの命を受けるにはふさわしくない者として処刑されねばならないというわけではありません。矯正不能な者であることを示すそうした人びとは,人の住む地を義をもって裁くよう神の任命された者により,何ら不正がなされることなく処刑されるでしょう。それらの人びとの名は命の書には書き記されません。したがって,彼らにとってふさわしいのは,完全な滅びをもたらす「火の湖」で象徴される,ほかならぬ「第二の死」だけです。(啓示 20:14,15)では,「神の良いたより」にいま従順な態度を示し,きたるべき裁きの日のことを考えて,義を愛する態度を培うのは何と賢明で,何と分別のあることなのでしょう。

  • 一千年にわたる裁きの日の終わりに期待すべき事がら
    神の千年王国は近づいた
    • 8章

      一千年にわたる裁きの日の終わりに期待すべき事がら

      1 サタンが底知れぬ所に入れられる千年の間,地上の住民が義を学ぶといっても,決して途方もないことを期待しているわけではありません。なぜですか。

      悪魔サタンが底知れぬ所に閉じ込められる千年の間,地とその住民に対する神からの裁きが世界的に行なわれるでしょう。天の審判者たちは審判を下し,エホバ神の代理を勤めます。地上にいる君としての代表者たちも同様に行ないます。彼らは,エルサレムのヨシャパテ王が民を神に導き返すため国内の至る所に配属させた裁き人のように振る舞います。ヨシャパテはそれら裁き人にこう言いました。『汝らそのなすところを慎め 汝らは人のために裁判するにあらず エホバのために裁判するなり 裁判する時にはエホバ汝らとともにいます 然ば汝らエホバを畏れ 慎みてわざをなせ 我らの神エホバは悪しき事なく人をかたよりみることなく賄賂を取ることなければなり』。(歴代下 19:4-7)そのような天の審判者たちや,そのもとで地上で司法官として仕える君たちがいるのですから,豊かに産物を出す楽園の地の住民がいっしょに千年のあいだ義を学ぶといっても,決して途方もないことを期待しているわけではありません。―イザヤ 26:9。

      2,3 (イ)イエスはダビデを通して,どんなベツレヘム人の子孫となりましたか。それで,イザヤは,地上での活動の開始時のイエスをそのベツレヘム人の何になぞらえていますか。(ロ)霊はどんな特質とともに彼の上に留まりますか。彼はどのようにして裁きますか。

      2 十世紀にわたるその裁きの日の全期間中,全人類を治める「新しい天」の主要な審判者は,何という資格のある,信頼できる審判者なのでしょう。西暦前8世紀にイザヤが記した,その審判者に関する預言的描写は,暖かさのこもった生き生きとしたものです。その予告された審判者とは,ベツレヘムのエッサイの子であるダビデ王の子孫で,メシアとなった主イエス・キリストです。エホバ神は人間の諸問題を解決させ,また人びとが公正に取り扱われ,地上に義が永遠に確立されるよう取り計らわせるために,それ以上に優れた審判者を供し,任命することができたでしょうか。では,ダビデ王を通してベツレヘム人エッサイの子孫となる,その後代の審判者の特質について,預言者が霊感のもとに述べたことばに十分の注意を払ってください。地上での活動の開始時におけるその子孫のことを,切り倒された樹木の幹から生ずる小さな枝になぞらえて,イザヤは次のように預言しました。

      3 「エッサイの切り株から必ず小枝が出,その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に,エホバの霊が必ず留まる。それは知恵と理解との霊,はかりごとと大能の霊,知識とエホバに対する恐れとの霊である。その方は,エホバを恐れることを楽しみとする。彼は単に自分の目に見えるところによって裁かず,単に自分の耳に聞こえる事がらにしたがって叱責したりはしない。彼は義をもって,謙遜な者たちを裁かねばならず,彼は廉潔さをもって,地の柔和な者たちのために叱責を与えねばならない。彼はその口のむちをもって地を打たねばならない。彼はそのくちびるの霊をもって,邪悪な者を殺す。義はその腰の帯となり,忠実はその胴の帯となる」― イザヤ 11:1-5,新。

      4 (イ)彼はだれを恐れて人類を裁きますか。(ロ)彼はどのようにして,「エッサイの切り株」から生ずる単なる「小枝」あるいは「若枝」以上のものになりますか。しかし,失望や悩みをもたらすものとはなりません。どうしてですか。

      4 この主要な審判者はエホバを恐れることを実際に喜びとし,そうすることに真の楽しみを見いだす方ですから,間違いなく,人のためにではなく,エホバのために裁きを行ないます。ですから,彼は人を恐れずに,神のみを恐れて判決を下します。確かに彼は,生ける唯一真の神エホバに対するそうした健全な恐れゆえに賢明な方であるに違いありません。彼は固く根を降ろした「エッサイの切り株」から生ずる単なる「小枝」もしくは「若枝」のような状態に留まることなく,かえって生けるエホバのみ子,より偉大なダビデとして,天的な王威を呈する頑丈な「大木」のようになりました。(イザヤ 61:3,新。エゼキエル書 17章22-24節と比べてください。)エホバの強力な霊は,王としての偉大な立場に高められたこの方の上に留まって,その責任ある職務を遂行するのに大いに必要な知識や理解力や知恵を授けるのです。したがって,彼は神の右で即位した王として,エホバの誉れとなる方であって,神によって任命された審判者である彼は,地上の住民に失望や悩みをもたらすことはありません。

      5 法の厳正な施行を支持し,裁き人としてのソロモンよりなおいっそう勝った者として,彼はえこひいきをせず,物事を正しく弁別できることをどのように示しますか。

      5 地上では正義が確立されます。天のその審判者は彼の原型ともいうべきソロモン王よりもさらに優れた識別力を働かせるでしょう。そのソロモン王は,二人の遊女が起こした難しい訴訟の場合のように極めて優れた判決を下しました。問題の遊女はふたりとも,死んだ子供は自分の子ではないと唱え,生きている子供をわが子だと主張しました。その生きている子供のほんとうの母親がだれかを明らかにしたソロモンの特異な方法に関してはこう記されています。「イスラエルは皆王が与えた判決を聞いて王を恐れた。神の知恵が彼のうちにあって,さばきをするのを見たからである」。(列王上 3:16-28,口語)同様に,より偉大なソロモンは物事の外見や単なる伝聞にしたがって裁くのではなくて,正確な事実が明るみに出され,真実の弁明が行なわれ,その結果,正しい判決が下され,刑が執行されるよう取り計らいます。また,身分の低い者よりも身分の高い者に,あるいはおとなしい者よりも尊大な者に特別に目をかけたりなどはしません。

      6 彼は「大患難」のさいに講ずる措置によって,審判者として職務につく千年の期間が義の行なわれる時になることをどのように示しますか。

      6 エホバの霊に満ちあふれているこの審判者は,千年にわたって審判者としで仕える時代がどんな時期になる見込みがあるかを示すため,ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」で最高潮に達する,きたるべき「大患難」にさいして,ご自分が身分の低い,おとなしい人たちの解放者であることを自ら示されるでしょう。(マタイ 24:21。啓示 7:14; 16:14,16)彼が天の軍勢に与える命令や指図は,その口から出る「杖」のようになります。というのは,司令官としての彼の言われる事は成就して,不義を宿す『古い地』は粉々に打ち砕かれてしまうからです。そのくちびるはエホバの霊によって動かされ,地上の邪悪な者たちに対するご自分の態度や気持ちを表明します。したがって,そのような者たちは死刑に処されます。高慢で,尊大で,邪悪な者たちは一掃され,この地球はことごとく清められます。もちろん,そうした者たちの,見えない支配者であるサタンは鎖で縛られ,底知れぬ所に入れられてしまいます。

      7,8 (イ)人類を益することとして,それはどうして審判者があたかも義の帯を結び,忠実の帯をしめるようなものとなりますか。(ロ)それは人類に変化を生じさせるという点で,どんな影響を人類に及ぼしますか。

      7 実際,エホバにより任命された審判者として一千年にわたってその職務につくイエス・キリストに人類が期待できるのは,ほかならぬ義と人類の関心事に対する忠実です。それはあたかも,この天の審判者が義の帯を結ぶ,つまり義によって支えられる,すなわち義のわざに携わるべく帯をしめるようなものです。そうです,あたかも,忠実という特質の帯をつけ,それをしめる,もしくはご自分が神の規準にしたがって裁く人びとの関心事を忠実に預かる証拠として自ら帯をしめるようなものです。その結果,この地には何という平安と静けさがもたらされるのでしょう。その時,人びとの互いに対する態度は何と変わることでしょう。他の人たちに益となる,性格上の何とすばらしい変化が見られるのでしょう。次のように述べたイザヤの預言的なことばは,そのことを実に楽しく描いています。

      8 「〔義〕はその腰の帯となり,〔忠実〕はその身の帯となる。おおかみは小羊と共にやどり,ひょうは子やぎと共に伏し,小牛,若じし,肥えたる家畜は共にいて,小さいわらべに導かれ,雌牛と熊とは食い物を共にし,牛の子と熊の子と共に伏し,ししは牛のようにわらを食い,乳のみ子は毒蛇のほらに戯れ,乳離れの子は手をまむしの穴に入れる。彼らはわが聖なる山のどこにおいても,そこなうことなく,やぶることがない。水が海をおおっているように,〔エホバ〕を知る知識が地に満ちるからである」― イザヤ 11:5-9,口語〔新〕。

      性格の変化

      9 神の霊は個人の性格のそうした変化をいつから,まただれの上にもたらしましたか。

      9 おおかみ,ひょう,熊,たてがみのある若いライオン,コブラその他の毒蛇になぞらえられる,人間の性格を想像してみてください! そのような性格を持ってはいても,神の王国の音信についに答え応じて,自分たちの性格を変え,子羊や子やぎ,小さな子供や乳飲み子,あるいは乳離れした子供などのようにおとなしくて,穏やかな他の人たちと仲よくやってゆけるようになった人びとは少なくありません。西暦33年のペンテコステの祭りの日に集まったクリスチャン会衆の上にキリストを通して神の聖霊が注がれて以来,神の霊は会衆の成員をキリストに似るよう変化させるべく働いてきました。結果として,会衆の忠実な成員は,たとえ性格の点でかつては恐ろしい野性動物に似ていた人でも,互いに忍び合い,いっしょに仲よくやって行けるようになりました。(使徒 2:1-33)イザヤの預言に一致して,彼らは仲間のクリスチャンを害しませんし,エホバの崇拝の「聖なる山」にある会衆に危害をもたらすこともありません。

      10 (イ)キリストの14万4,000人の仲間の審判者たちのほかに,だれの上にそうした性格上の変化がもたらされましたか。(ロ)キリストが一千年にわたる審判者としてのわざを開始するさい,そうした変化は彼らにとってどうして有利な結果をもたらしますか。

      10 ついには主要な審判者イエス・キリストの14万4,000人の仲間の審判者を構成する人たちだけでなく,今日,あらゆる国民・部族・民族・言語の中から集められている,エホバの崇拝者たちの数え切れないほどの「大群衆」に関しても,そうした性格の変化が生じています。それら地上の楽園に住む見込みを持つ人たちは,「大患難」にさいして確かに神の保護を受けて無事に大患難を通過し,一千年にわたって審判者の職務につくイエス・キリストの治める神の新秩序に入ります。(啓示 7:9-17)当然のこととして,彼らは変化させた自分たちの性格をそのまま神の新秩序に携えて行きます。それは彼らにとって非常に有利な結果をもたらします。というのは,彼らは,天の審判者イエス・キリストが千年期の裁きを表明し始める際にその対象とされる「生きている者」となるからです。(テモテ第二 4:1)そうした状況のもとでは,エホバの崇拝の「聖なる山」からは,危害や破壊に対する恐れはなくなります。彼らはエホバをすでに知っており,したがってそれら生存者が世界中にいるのですから,地はまさしくエホバを知る知識で満たされます。しかも,その知識は増大するのです。

      11 地上の下等生物に関して,大洪水の八人の生存者に神は何を保証されましたか。現代の場合,それに対応する事がどのように生じますか。

      11 ここで,ノアの時代の大洪水を生き残った八人の人間に対して言われた事が思い出されます。箱船を出てから神に犠牲をささげた彼らに対して,エホバはこう言われました。『地のすべての獣畜 空のすべての鳥 地にはうすべてのもの 海のすべての魚汝らを恐れ汝らにおののかん これらは汝らの手に与えらる』。(創世 9:2)現代においても,これに対応する事が生ずるのではないでしょうか。きたるべき「大患難」は地上の不敬虔な人間を襲うのですから,陸上の動物や鳥また海の魚を絶滅させるわけではありません。神は人間に対する失われた,ある程度の恐れ,また恐怖感をそれら下等動物のうちに置くであろうと予想するのは当を得たことです。そして,人間は,そこなわれた地を楽園に変える仕事を委ねられるのです。確かに神はご自分の霊によって,14万4,000人の人びとおよび今日の「大群衆」の間で,獣のような性格をクリスチャンのそれに変えさせることができたのですから,野性動物の場合にも何かそれと同様の事がらを行なうことができるでしょう。実際,野性の動物は地上のエホバの崇拝者たちを傷つけることはありません。

      12,13 (イ)昔の最初の楽園にいた男女は,地上の下等生物に対してどんな態度を取りましたか。(ロ)地上の下等生物の間には,比喩的な意味以上のものを持つ,どんな関係が生じますか。

      12 このことと一致して,わたしたちは,イザヤ書 11章6-9節に述べられている動物に関する魅惑的な描写が,より偉大なエッサイであられるエホバ神のみ子,平和の君による千年統治の期間中,地球上の鳥や魚また陸性動物に関して文字どおりに成就することを期待できます。ずっと昔,最初の喜びの楽園つまりエデンの園では,女エバは,話せるようにされたへびから話しかけられたとき,そのへびを恐れて逃げようなどとはしませんでした。(創世 3:1-4)その前のこと,アダムは自分の前に連れてこられた野性動物や飛ぶ生き物に名前をつけて,それら動物に対して恐れをいだいていないことを明らかに示しました。(創世 2:19,20)地上の下等動物を恐れることもなければ,下等動物から危害を受ける心配もない安全な,そのエデンのような状態が,回復される楽園に再びもたらされるでしょう。

      13 また,それら陸性動物や飛ぶ生き物や魚は,人間に関してはもとより,動物同志の間でも仲よくなります。神が霊感を与えて,イザヤ書 11章6-9節やエゼキエル書 34章25節またホセア書 2章18節のような預言を記させたのは,あたかもその文字どおりの成就が実現不可能な理想でもあるかのように,単に比喩的もしくは霊的な意味だけを持たせるためであって,現実の生活の中でそうした事がらが生ずるということを実際に示させるためではなかったと考えるのは,つじつまの合わないことです。

      14 とはいっても,地上の下等生物をならすよりももっと重要なのは何ですか。それはなぜですか。

      14 それにしても,主要な目的は動物や鳥そして魚などの創造物をならすことではありません。そうした地上の生物は人類が存在するよりもずっと前から存在してきました。問題なのは,あるいは危機にさらされているのは,地上の人類の存続なのです。アダムとエバの子孫はすべて,罪人として生まれてきたので,「神の栄光に達し」ませんでした。(ローマ 3:23)多くの場合,人は敬虔な特質ではなく,いま野獣が示しているような獰猛な性質を呈しています。それで人類は,永遠の命を受けるにふさわしいことを証明して,創造者なる神に賛美をもたらすには,その「神の栄光」に引き戻されねばなりません。人類家族の成員は一体とされ,互いに傷つけ合わない平和な関係に入り,公正と義を完全に行なう必要があります。これこそ,千年間にわたって審判者を勤めるイエス・キリストがもたらされることなのです。

      15 人類の上に立つ天の審判者たちは,人口は増えても,悪行の発生率の減少する事態をどのようにしてもたらしますか。

      15 現在,人間の犯す犯罪の増加率は,地上の人口の増加率よりももっと速い速度で大きくなっています。それとは著しく対照的に,千年期の期間中,地上の人口は死者の復活のゆえに,つまり「義者」と「不義者」との復活のゆえに一様に増えてゆきます。が,悪行の発生率は減少してゆき,ついには消滅点に達します。どうしてですか。なぜなら,人類の上に立つ天の審判者たちは全く義にかなっているとともに,神の規準に基づく真の義を全人類に教えるからです。この方面で助けになることとして,「水が海を覆っているように,地は必ずエホバの知識で満たされ」るでしょう。(イザヤ 11:9,新)その神権統治下の千年期の時代に認められるのは,エホバの崇拝だけです。人類はエホバの「真の天幕」,つまりその霊的な神殿の地的な中庭に導き入れられます。人類はそこで,イエスが天の父にささげた祈りの中で次のように言われた事の真実さを知らされるでしょう。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」― ヨハネ 17:3。ヘブライ 8:2。

      16 (イ)どんな結果からすれば,一千年にわたって審判者としての職務につくキリストは目的を達し損うことはないと言えますか。(ロ)キリストは元に戻った人類に,楽園におけるとこしえの命を授けるわけではありません。なぜですか。

      16 一千年にわたる裁きの日は,その目的を達し損うことはありません。その期間の終わりの時までには,喜んで答え応じる従順な人びとはすべて,真の公正と義の点で完全に訓練されていることでしょう。アダムとエバから受け継いだ彼らの肉体的また精神的欠陥は除去されてしまいます。いまや彼らはあらゆる点において神の絶対的な義の規準に自らかなうことができるようになります。ではその時,主要な審判者であるイエス・キリストは,楽園の美に包まれた,まさに輝かしい平和な地上でとこしえの命を得る権利を彼らに授けるのでしょうか。いいえ,そうではありません! この点に関しては,イエスは神の代理を勤めることはなさいません。というのは,次のように記されていることをご存じだからです。「神が彼らを義と宣しておられるのです」。(ローマ 8:33)では,神の立てられた審判者は何を行なわれるのでしょうか。

  • 一千年の後に全人類が受ける試み
    神の千年王国は近づいた
    • 9章

      一千年の後に全人類が受ける試み

      1 一千年にわたる裁きの日の終わりに,回復された人類には最終的に何が要求されますか。それで,代理審判者イエス・キリストは,彼らをどうしますか。

      千年に及ぶ裁きの日の終わりに,義をもって裁かれた人類家族は完全な者として,その審判者で解放者であるイエス・キリストの前に立ちます。しかし,依然として彼らは,楽園の地上でのとこしえの命を受けるに価する者として裁かれるわけではありません。彼らはなお,宇宙の最高法廷,つまりいと高き神,主権者なる主エホバの法廷の前に出なければなりません。この最終的要求と一致して,代理審判者イエス・キリストは,今や完全な義にかなえるようになった人類を,ご自分の父なる神に引き渡さねばなりません。それは,試みを受けて,平和と幸福を伴うとこしえの命という貴重な賜物を受けるに価するかどうかを示す人びとすべてに対し

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