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    ものみの塔 1960 | 3月1日
    • 場所で,「主の道を備えよ,その道筋をまつすぐにせよ」と「荒野で呼ばわる者の声が」したのです。それは洗礼者のヨハネでした。そして彼は,イエスを完全に水中に入れ,また水から引き上げました。こうしてイエスは,御父の御心を行うための献身を象徴され,ヱホバもイエスを御心にかなつた愛する子として是認されました。「イエスはバプテスマを受けるとすぐ,水から上がられた。すると,見よ,天が開け,神の御霊がはとのように自分の上に下つてくるのを,ごらんになつた。また天から声があつて言つた,『これはわたしの愛する子,わたしの心にかなう者である』」。(マタイ 3:3,16,17,新口)いまやイエスは,キリスト,すなわち油をそそがれた者となりました。イエスは神から任命を受けたのです。そして,任命された奉仕者として,偉大な伝道のわざを開始しなければなりませんでした。「イエスが宣教をはじめられたのは,年およそ30歳の時であつた」。―ルカ 3:23,新口。

      5 イエスの任命式が,多くの司祭もしくは牧師の出席のもとに行われた見せ物のようであつたとは,誰も言えません。行列もありませんでした。また,イエスはいずれかの有名な神学校の卒業生でありませんでした。彼は大工の息子で,彼自身大工でした。そしていまや宣教という職につくために歩を一歩すすめたのでした。

      6 イエスの弟子たらはどのように任命された奉仕者になりましたか。当時クリスチャンになつた人々の何人が,宣教のために任命されましたか。

      6 イエスの弟子たちもみな同様に,すつかり水に浸されて洗礼を受けました。イエスは,神の御国の近づいていることについて弟子たちに教えた後,ご自身と同じように,御国の音信を宣べ伝えるよう彼らを送り出されました。弟子たちはよく訓練されていました。神の御言葉と御心を知つていてそしてイエスの教えた通りに生活しました。神学校には行きませんでしたが,それでも神の任命された奉仕者たちでした。後になつてヱホバは,初期クリスチャンたちを会衆に組織するのに彼らを用いられました。そして彼らは,神の群れを支配するのではなくて,神の群れを飼うための監督を任命しました。当時,クリスチャンになつた人はみな任命された奉仕者となりました。なぜなら,ヱホバは「あたかも(彼らを)通してすすめておられるよう」に,彼らを「キリストの代りの大使」とされたからです。―コリント後 5:20,新世。

      7 イエスの弟子たちが宣教のために任命された奉仕者であつたことはイエスのどの命令によつて分りますか。

      7 イエスが,集まつた弟子たちに次のように話されたのは,彼が死から復活した後のことでした,「それゆえに,あなたがたは行つて,すべての国民を弟子として,父と子と聖霊との名によつて,彼らにバプテスマを施し,あなたがたに命じておいたいつさいのことを守るように教えよ」。(マタイ 28:19,20,新口)使徒たちは,キリスト・イエスの真の追随者たちに洗礼を施す際に,自分たちが洗礼を受けた時の方法,あるいはキリスト・イエスが示した方法とは違つた方法を用いるようにとは告げられませんでした。そういうわけで,人が神の任命された奉仕者のひとりとなるために,経なければならない形式的な宗教儀式は何もありません。キリスト・イエスは簡単な手本を示されました。

      8 神の奉仕者の任命は実際にだれが行ないますか。そして洗礼はこの問題とどんな関係をもつていますか。

      8 もちろん,水の洗礼を受けることがその人を任命された奉仕者にするわけではありません。神がその洗礼をうける人を任命されるのです。その人はすでに,ヱホバ神を最高支配者,キリスト・イエスを自分の救い主と認めており,また,自分が罪人であること,神のみ前に正しい立場を得るには,キリストの犠牲の価値が必要であることも認めています。人が水の洗礼を受けるる時,それには大きな意味があります。というのは,その洗礼を受けた人は,自分がヱホバへの奉仕と崇拝に献身したこと,または取り分けられたことをそこで公けに表わしているからです。もちろんその人は,自分が何をしているかをよく承知しなければならず,またこの高潔な目的にふさわしい者であることを証明しつづけなければなりません。神はその受洗者を受け入れられて,神聖な奉仕に任命されます。

      9,10 (イ)任命されるとはどういう意味ですか。(ロ)その権限が,イエスにとつて何をすることを意味したかを,イエスはどのように示されましたか。

      9 任命されるということは,宣教の任務を与えられる,あるいはおごそかに任命されるという意味です。イエスは,神から特定の奉仕をするようおごそかに任命されました。それは,イエスに対する神の御心でした。イエスはナザレの会堂で,御自身の宣教上の任務に関する部分をイザヤ書からお読みになりました,「『ヱホバの御霊は私にのぞんでいる。ヱホバは,貧しいものによいたよりを宣べ伝えるために私に油を注いだ。捕われ人にゆるしを伝道し,盲の目を開き,打ちひしがれた者に自由を得させ,ヱホバの受け入れ給う年を宣べ伝えるために,ヱホバは私をつかわした』。こう言つてイエスは聖書を巻き,係りの者にかえして席に着かれた。すると会堂にいるみんなの者の目がじつとイエスに注がれた。そこでイエスは話し出された,「あなた方のいま聞いたこの聖句は,今日成就した」』」。―ルカ 4:18-21,新世。

      10 キリストがこの仕事をされるということは,イザヤ書 61章1,2節に預言されていました。だからこそイエスはこの聖句を引用することができ,自分がそれを成就している,と言うことができたのです。イエスは,ヨルダン川で洗礼を受けた時,この奉仕に任命されました。あるいはこの奉仕を命ぜられました。その場所で,ヱホバの霊がイエスの上にくだり,イエスはいまや神の仕事を行なうべく権威を与えられました。彼にとつていまは話すべき時,公に宣明すべき時でありました。イエスがそれをされたのはいうまでもありません!

      11 クリスチャン・ギリシャ語聖書を読むと,イエスのわざについて何がわかりますか。そのわざをすべき任務は他の人々に引き渡されましたか。

      11 ギリシャ語聖書を読んだ人ならば,イエスが3年半の宣教期間に成し遂げられた,強力な伝道と教えのわざのことを知つています。また使徒たちのなした仕事のことも知つています。使徒パウロはその仕事についてこういつています,「なぜなら,人は心に信じて義とされ,口で告白して救われるからである」。(ロマ 10:10,新口)今日のクリスチャンたちも,違つたことをすることはできません。クリスチャンであるイエスの忠実な追随者たちには,イエスに課せられたと同じ使命,つまり良いたよりを伝え,盲人に見ることを得させ,ヱホバのめぐみの年を伝えるという使命がゆずり渡されているのです。この問題については,イエスご自身がオリブ山で,同じようなことを,しかもはつきりと言われていますが,これは私たちの時代のためです。つまりこう言われました,「この御国の福音は,すべての民に対してあかしをするために,全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである」。(マタイ 24:14,新口)しかし,使徒たちおよびイエスのすべての追随者は,良いたよりの伝道を,生涯の任務としなければならないことになつていました。

      宣教の規模

      12 宣教のわざはどのくらい重要ですか。時にかなつたどんな質問が提出されていますか。

      12 人が,神の御前であろうとあるいはこの世の政府の前であろうと,任命された奉仕者であるということは,ささいなことがらではありません。それには,その人の話すひとことひとこと,思想,行為,キリスト・イエスの置かれた原則に実際に従うこと,そうです,キリストの足跡に従うことが関係しているのです。では神のみ前でクリスチャンに与えられたこの任命は,どの範囲にまで及ぶのでしようか。奉仕者というものは,誰かにこの良いたよりを伝えている間だけ任命を受けている者なのでしようか。それともこの任命は,ヱホバ神に献身している故をもつて,いつでも効力のある任命ですか。また自分が誓約した職をしばらくの間はなれて,ほかの事をすることができますか,それとも宣教という上衣を常に身につけていなければなりませんか。イエスは若者であつた時大工であつたが,職をかえたと,聖書は示しています。イエスはもつとはやく職を変えたかつたことでしよう。しかし,それは神の御心ではありませんでした。イエスはまず30歳に達しなければならなかつたのです。これは,レビ人が,ユダヤ人の律法の下に,十分資格のある祭司となれる年齢でした。さてイエスは,神に任命された時,父の御心を行なうことを最も重要視されました。それは天の御国が近づいていることを伝道することでした。弟子たちも同じ種類の仕事をするよう,あるいは同じ職につくよう,イエスは訓練されました。

      13 「職」という言葉の神学上の意味は何ですか。誰がそのような道に従わねばなりませんか。

      13 「職」という言葉の神学上の意味は,「人がそれに適しているために,また生来そういう傾向をそなえているために,または多くの場合神に召されたという確信をもつているために,ある特定な地位,あるいは生活状態において,特に聖職もしくは宗教生活において神に奉仕するための召し。人が召されてつく地位,もしくは生活状態。牧師として,教会の特定な地位に,公式に招かれること」です。イエスは確かに「神に対する奉仕への召し」を受けました。彼はある特定な活動に,もしくは特定な生涯を送るよう召されたのです。いまやイエスの職は,「まず神の国と神の義を求める」ことでありました。(マタイ 6:33,新口)ですから,任命されたキリスト・イエスの追随者となる者もみな,そのようにクリスチャン生活を送らなければなりません。イエスの使徒たちは,この世の政府の前では人々から漁師,収税人,天幕工とさげすまれました。しかし,神の御前では,任命を受けた奉仕者が彼らの職であることを証明するために,そういうクリスチャン生活を送らねばなりませんでした。

      14 (イ)どういう時,大工,石工,技師あるいは医師のような職が,第二次的なものになりますか。(ロ)いつたん任命されたならば,なぜやめるようなことはないのですか。

      14 献身したクリスチャンであることが,短時間勤務の職でない事は,今も昔も変りありません。これは全時間の職です。真のクリスチャンというものは,日曜日に,教会とか祈りの集会にいる間の2,3時間だけクリスチャンではありません。真に献身した人,すなわち神のみ前に任命された奉仕者は,キリスト・イエスに従つてその足跡を踏みはじめた時から一生の間,クリスチャンでなければなりません。この世では人は,私の職業は大工ですとか,石工,技師,医師ですと言うかも知れません。そしてこの職業でくらしをたてているというでしよう。しかしもしその人がヱホバに献身して水の洗礼を受けたなら,神への奉仕に召されたのですから,その人の従事する世俗の職業は第二次的なものとなつて,クリスチャンとしての奉仕が最も重要なもの,真の職とならなければなりません。イエスは言われました,「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,これらのものは,すべて添えて与えられるであろう」。それで,クリスチャンの第一の仕事,クリスチャンの主要な関心事は,クリスチャン生活に専念することです。またそうでなければならないのです。クリスチャンの職は,神の御前に任命された奉仕者でなければなりません。世俗の職業はあるいはやめることがあるかも知れません。しかし,神への奉仕という神から与えられた職は決してやめないでしよう。宣教をやめるならば,クリスチャンは永遠の生命を失うのです。では,どちらがたいせつですか。

      15 献身をしている人は,何を宣言しますか。そして神の御言葉をどのように見ますか。

      15 ヱホバへの奉仕に献身することと,その献身を水の洗礼によつて表わすことは,地上のある宗教組織に加入することではありません。それは,そんなささいな段階ではないのです。それは,人が一生のうちで一度も行なつたことのない最も大きな事柄なのです。水の中に浸されることは,神に献身したこと,神の奉仕者として奉仕することに献身したことを仲間のすべてのクリスチャンと世の人々に宣言することです。これこそ彼の職です。そしてそれ以後は,聖書中に述べられている神の御言葉が導きでなければなりません。彼は真のクリスチャンとして,パウロの言つた通りに行動したのです,「あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に,それを人間の言葉としてではなく,神の言として ― 事実そのとおりであるが ― 受け入れてくれたからである。そして,この神の言は,信じるあなたがたのうちに働いているのである」。―テサロニケ前 2:13,新口。

      16,17 (イ)人が神の御言葉を受け入れた時,それには何が関係していますか。(ロ)パウロはこれをどのように示しましたか。

      16 あなたは「神の言葉を聞いて,それを受け入れ」られましたか。では,いまはどういうことが問題となりますか。使徒パウロの述べたところによると,それには食べたり飲んだりすることにさえ,関係があります。ちよつとばかげたことに聞こえるかも知れません。しかし,彼がコリント人に書き送つたことを読んで見ましよう,「だから飲むにも食べるにも,また何事をするにも,すべて神の栄光のためにすべきである。ユダヤ人にもギリシヤ人にも,また神の会衆にもつまずきになつてはいけない。わたしもまた,何事にもすべての人に喜ばれるように努め,多くの人が救われるために,自分の益ではなく彼らの益を求めている」。(コリント前 10:31-33,新世)パウロは,「飲むにも食べるにも,また何事をするにも」,それを通して生命を救うということに関心をそそいでいました。ところで,人の飲み食いが,どのように生命を救うのでしようか。パウロはそれを,コリント前書の第8章と9章で説明しています。

      17 パウロは,クリスチャンたちが「偶像に供えたもの」を避けねばならないことを知つていました。(使行 15:29,新口)しかし,コリント人にこう説明しています,「すべて肉市場で売られている物は,良心のために何も問わずに食べなさい。というのは,『地と地に満ちているものはヱホバのものである』からだ。もし不信者の誰かがあなたを招き,あなたも行くことを望むならば,あなたの前に出されたすべての物を,良心のために何も問わないで食べなさい。しかし,誰かが『これはある神にささげられたものです』とあなたに告げるなら,それを告げた者のため,また良心のために食べてはならない。『良心』と私は言うが,それはあなたの良心ではなく,その人の良心のことである。というのは,わたしの自由が他の人の良心にさばかれるほうはないからである。もし感謝して食べているなら,どうして私の感謝するものについてそしられることがあろうか」。(コリント後 10:25-30,新世)肉市場で売られている肉は,偶像にささげられたものかも知れません。でもどうしてそれが分るでしようか。その人は,その動物が,あるいはその一部分が,偶像にささげられたかどうか調べなかつたかも知れません。ですからパウロは,もし人があなたを食事に招くなら,出されるものを食べなさいと言つているのです。パウロは,「偶像なるものは実際は世に存在しないこと,また,唯一の神のほかに神がないこと」を知つていたのです。(コリント前 8:4,新口)しかし,もし一緒に誰べている者の誰かが,「これはある神にささげられたものだ」と言えば,その人の良心のためにそれを少しも食べてはなりません。あなた自身の良心のためですか。いいえ,他の人の良心のためです。あなたは食べることによつてその人をつまずかせるかも知れません。

      18,19 (イ)パウロはなぜ,兄弟の良心をそんなにも心にかけたのですか。(ロ)今日のキリストの追随者たちも,同様にすべきですか。なぜですか。

      18 クリスチャンの自由もしくは知識が,「弱いもののつまずき」となつてはならない,とパウロは論じているのです。たとえ神に感謝した後で,偶像にささげられた食物を食べたところで,あなたはやはりひとりの人を滅ぼすかも知れません。「このようにあなたがたが,兄弟たちに対して罪を犯し,その弱い良心を痛めるのは,キリストに対して罪を犯すことなのである。だから,もし食物がわたしの兄弟をつまずかせるなら,兄弟をつまずかせないために,わたしは永久に,断じて肉を食べることはしない」。(コリント前 8:9,12,13,新口)パウロが受けた任命,つまり彼が神への奉仕のために取り分けられたことには,どのように食べ,どのように飲むかさえ関係していたのです。それこそ日常のあらゆる行動に関係があつたのです。パウロは生命を救うことに関心をもつていました。ですから彼はこう言いました,「あなたの食べ物によつて,兄弟を滅ぼしてはならない。キリストは彼のためにも死なれたのである。……神の国は飲食ではなく,義と,平和と,聖霊における喜びとである」。「すべてのことは合法であるが,すべてのものが役にたつものではない。すべてのことは合法であるが,すべてのものが建て起こすわけではない。だれでも自分の益を求めないで,他の人の益を求めるべきである」。―ロマ 14:15,17。コリント前 10:23,24,新世。

      19 今日のクリスチャンは,異なつた物の見方をして,食べることや飲むことで,合衆内のユダヤ人や,ギリシヤ人や兄弟をつまずかせてもよいですか。決してそうあつてはなりません! 私たちはパウロと同じ立場にあります。彼ならおそらく「すべての人に喜ばれるように努め,多くの人が救われるために,自分の益ではなく彼らの益を求める」でしよう。(コリント前 10:33,新口)あなたも同じようにされますか。もしあなたがパウロと同じく任命された奉仕者ならばそうなさるでしよう。

      食べること,飲むこと,話すこと,働くこと

      20 (イ)食物を食べることは,今日のクリスチャンにとつて問題とならないかも知れませんが,一方何が,またどんな議論が,それの使用について提出されていますか。(ロ)しかし,飲むという習慣については,何が考慮されねばなりませんか。

      20 しかし,いまの時代にそんなことは起こらない。人々は偶像に食物を供えない,という人がいます。それでは,飲むという習慣はどうですか。今日人々は,よく飲みます。そして,パウロは,飲むことも注意すべきことがらとして述べています。人々はあらゆる種類の飲み物を飲みますが,ある人の心を最も乱すものは,アルコール飲料を飲むことです。お酒を飲みたい人は,胃のために少しのぶどう酒を飲むようパウロがテモテに,すすめたことを持ち出すでしよう。また他の人は,イエスの最初の奇跡は,ぶどう酒をつくることであつたと言うかも知れません。さらに他の人は,酒は心を喜ばせる,というでしよう。それは事実です。そしてアルコール飲料を所持したり用いたりすることは,ほとんどの国や州でゆるされています。しかし,それは,他の兄弟の役に立ちますか。あなたがそうした飲物を飲むことは,「建て起こす」ことに役立ちますか。自分の益ではなくて,他の人の益を考えましよう。

      21,22 (イ)不注意な監督は,兄弟たちの前で,どんなわるい手本を示すことがあるかも知れませんか。(ロ)兄弟のほかに誰がつまずくかも知れませんか。

      21 神の民のある会衆の監督が,ある晩友人と外出すると仮定します。その監督は感化力のある,尊敬されている人です。しかし,自制せずに酒を飲んで酔つてしまいます。聖書はきわめてはつきりと,酒に酔う者が御国をつぐことはないと述べています。「それとも,正しくないものが神の国をつぐことはないのを知らないのか。まちがつてはいけない。……盗む者,貪欲な者,酒に酔う者……が神の国をつぐことはないのである」。(コリント前 6:9,10,新口)あなたがたのなかには,真理にはいる前にそのようであつた者もいたが,洗いきよめられたのである,とパウロは言います。それでは,なぜそういう行いに戻つていつて,兄弟をつまずかせるのですか。さて,千鳥足で道を歩いているその監督をある兄弟が見かけるかも知れません。見た人はショックを受けます。そして,自分の会衆の任命された奉仕者が,神の任命をそんなにも軽視して,酔つぱらつているということに心をみだされ,憤りを感じます。この不注意な飲酒は,神の会衆のある兄弟をつまずかせる原因となりました。

      22 もう少しこの酔つた人の後をつけて見ましよう。彼が自分の家に近づいた時,彼と一緒に聖書を研究している隣人が,彼の酔つぱらつているのを見ます。そしてその人もつまずきます。その人は,この任命された奉仕者が,クリスチャンとしての生き方をしているとばかり思つていたからです。そこで,その隣人は,もうこんな人と聖書の研究をするのなんかやめよう,と決心して奥さんに言います,「聖書を研究していながらあんなふうなら,神に信仰をもたない人にでも,交際するのにもつと立派な人はいくらでもいる。任命された僕だなどという会衆のおもだつたあの人が,あんなに酔つぱらつているのに,わたしがいまさら生活のし方を変えて新しいことをはじめる必要なんかない」。

      23 コリント人とロマ人にあてたパウロの手紙の中の言葉は,どんな点で,非常に時にかなつていますか。

      23 「だから,飲むにも食べるにも,また何事をするにも,すべて神の栄光のためにすべきである」と言つたパウロは何と正しかつたのでしよう。(コリント前 10:31,新口)このことは神に栄光を帰しましたか。クリスチャンが,ユダヤ人,ギリシャ人,隣人,友人,あるいは神の会衆内の兄弟たちをつまずかせたくないのは言うまでもないことです。任命されたすべての奉仕者が関心をそそがねばならないのは,神の新しい世へと,すべての人々の生命を救うことです。「こういうわけで,平和に役立つことや,互の徳を高めることを,追い求めようではないか。食物のことで,神のみわざを破壊してはならない。すべての物はきよい。ただ,それを食べて人をつまずかせる者には,悪となる。肉を食わず,酒を飲まず,そのほか兄弟をつまずかせないのは,良いことである」。―ロマ 14:19-21,新口。

      24,25 クリンチャンはどんな他の面で,自分の歩みに注意しなければなりませんか。

      24 クリスチャンは,ほかの事がらにおいても,自分の歩みに気をつけねばなりません。パウロは,コロサイ人に書き送つた時,この真理を示しています,「キリストの言葉をゆたかにあなたがたの中に宿らせ,全き知恵にならせなさい。たがいに教えて励まし合い,詩と賛美とを神にささげなさい。心の中に感謝しつつ霊の歌をヱホバに歌いなさい。あなたがたのすることすべて,言葉でもすべて仕事でも,いつさいのものを主イエスの名によつて行ないなさい。そして彼を通して父なる神に感謝しなさい」。―コロサイ 3:16,17,新世。

      25 パウロは,私たちが毎日の大部分の時間をついやしている言葉や仕事に注意を払いなさいと言つています。私たちは人々に,どのように話しますか。また雇い主のためにどのように働きますか。クリスチャンとしての訓練は,これら二つの事がらに必ず表われてきます。

      26 任命された奉仕者は,どんな種類の言葉を使うべきですか。言葉を制御することが,時折むずかしいのはなぜですか。

      26 私たちの口から出る言葉はつつしみがあり,清潔で,助けになり,品がありますか。私たちのいうすべての事を,喜んで神に聞いていただきますか。ヤコブは私たちの言葉について書き,こう言いました,「泉が,甘い水と苦い水とを,同じ穴からふき出すことがあろうか。……塩水も,甘い水を出すことはできない」。また,体の中のこの小さな器官については次のように言つています,「舌は火である。……舌を制しうる人は,ひとりもいない。それは,制しにくい有害なものであつて,死の毒に満ちている。この舌で父なるヱホバをさんびし,また,その同じ舌で『神にかたどつてつくられた人間』をのろう。同じロからさんびとのろいが出てくる。わたしの兄弟たちよ,このようなことがいつまでもあるべきことではない」。任命された奉仕者の口は,他の人を親切に教えたり,いましめているべきであつて,真理に反して誇つたり,偽りを言うようなことがあつてはなりません。その口は常にヱホバをさんびしているべきです。「義の実は,平和を造り出す人たちによつて,平和のうちにまかれるものである」。―ヤコブ 3:6-12,18,新世。

      27 任命された奉任者は,二つの語彙をもつことができませんか。これについてパウロとペテロは何と述べていますか。

      27 ヱホバの任命された奉仕者たちは,ひとつは清く正しい,ひとつはけがれて悪い,二つの言葉をもつ二重人格者であることはできません。クリスチャンは自分を訓練することができ,考えを明確に力づよく表現する良い言葉を使うことができます。クリスチャンは,神の民の会衆内で使う一つの言葉と,ほかに職場で使うもうひとそろいの残酷な,荒々しい,汚い言葉とを合わせもつてはいません。パウロが,「あなたがたのすることすべて,言葉でも……いつさいのものを主イエスの名によつて行ないなさい。そして彼を通して父なる神に感謝しなさい」と言つているのを忘れてはなりません。ペテロもこれを支持して,表現力に富んだ良い言葉でこう言つています,「実に生命を愛し,よい日を見ようと思う人は,舌をおさえて悪を言わず,唇を閉じて偽りを避けなさい。悪から離れて善を行ない,平和を求めて,これを追いなさい。ヱホバの目は義人の上にそそがれ,その耳は彼らの祈りにかたむく。しかし,ヱホバの御顔は悪いことを行なう者たちに向かう」。―ペテロ 3:10-12,新世。

      28 (イ)任命されたクリスチャン奉仕者は,世俗の職業をどう見るべきですか。(ロ)あからさまに他人の物を盗むほかに,人はどのように盗人になることがありますか。

      28 それからクリスチャン生活の他の部分,すなわち仕事があります。相当の時間が,いずれかの種類の労働に費やされていますが,人はどのようにその仕事をして,生計を立てているでしようか。実際にすべての人は,雇い主と契約または協定を結びます。雇主は,ある仕事をさせるためにひとりの人を雇う時,その人にいくらかの賃銀を支払うことを同意します。雇われた者は,仕事をずるけて,同意したものよりも少なく働くべきではありません。彼は正直に,雇い主との契約を100パーセント果さねばなりません。かりにある大工さんが,1日に何時間という取り極めで雇われて,その時間に対していくらか賃金を受け取るなら,当然その時間中は,はじめから終りまで,良い大工仕事を勤勉にしなければなりません。のらくらするために賃金をもらつているのではなく,仕事をするためにお金をもつているのです。あるクリスチャンが,金持ちの経営する店に働いているならば,金持だからという理由で,その金持から盗む権利はありません。また,品物の価値よりも値段を高くし,差額を自分に取つて,お客から盗む権利もありません。それは盗みです。のらりくらりと仕事をしても雇い主から盗むことです。人は,雇い主が賃金を払うよう要求します。ではなぜ雇い主が,自分の払う賃金に対してそれだけの仕事を果すよう要求できないのですか。「あなたがたのすることすべて……仕事でも,いつさいのものを主イエスの名によつて行ないなさい」。あなたはそうしますか。

      29 使徒パウロは,クリスチャンになつた奴隷のオネシモに対してどんな態度をとりましたか。

      29 パウロは,ビレモンの奴隷オネシモを,彼の雇い主から引き離しておくべきではないと考えました。オネシモがクリスチャンになつた時,パウロは彼が奴隷であつたことを知つて,彼を主人に送り帰しました。ピレモンもクリスチャンであつたとはいえ,クリスチャンとなつたその奴隷はやはりピレモンのものでした。パウロは,オネシモについて書き,こう言いました,「捕われの身で産んだわたしの子供オネシモについに,あなた(ピレモン)にお願いする。彼は以前はあなたにとつて無益なものであつたが,今は,あなたにも,わたしにも,有益なものになつた。彼をあなたのもとに送りかえす。彼はわたしの心である」。パウロは,主人のもとから逃げていたオネシモが,彼にとつて非常に有益なことを見出しましたが,それでも彼が主人のもとへ帰るよう望みました。それは正しい事だつたからです。そして法律上彼はある人のものでしたし,ピレモンも「彼をいつまでも留めておく」かもしれないからでした。「しかも,もはや奴隷としてではなく,奴隷以上のもの,愛する兄弟としてである。とりわけ,わたしにとつてそうであるが,ましてあなたにとつては,肉においても,主にあつても,それ以上であろう」。(ピレモン 10:12,15,16,新口)聖書の示すところによると,クリスチャンは,奴隷であろうとも,また自由人であろうとも,どういう状況にあつても,主イエスの名によつて行なつているように働き,「彼を通して父なる神に感謝」しなければなりません。

      30 ですからクリスチャンは何でなければなりませんか。

      30 クリスチャンたちは正直でなければなりません。また誠実でなければなりません。そしてあらゆる種類人々が救われるよう,良いたよりを伝えている時に限らず,すべての事をなすのに,任命された奉仕者であることを証明しなければなりません。それによつて彼らは,「神の御言葉が信ずる者たちの中に働いている」ことを証明するのです。あなたは,食べること,飲むこと,話すこと,働くこと,伝道すること,あるいはその他のあらゆることをなす際に,良いわざをなしているクリスチャンですか。誰かが救われるために,すべてのことを神の栄光のためにしていますか。あなたは,「平和を求めて,それを追つて」いますか。クリスチャンは,「ヱホバの目は義人の上に」任命された奉仕者の上に「そそがれること」を知つています。―ペテロ前 3:11,12,新世。

  • あなたは光を輝かせていますか
    ものみの塔 1960 | 3月1日
    • あなたは光を輝かせていますか

      1,2 任命された奉仕者の活動を,山の上にある町およびあかりのついた燭台に比較して見るのはなぜ適切ですか。

      任命された奉仕者は重い責任をもつています。彼はイエスがやめられたところから出発します。「あなたがたは,世の光である。山の上にある町は隠れることができない。また,あかりをつけて,それを桝の下におく者はいない。むしろ燭台の上において,家の中のすべてのものを照させるのである。そのように,あなたがたの光を人々の前に輝かし,そして,人々があなたがたのよいおこないを見て,天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」。(マタイ 5:14-16,新口)この真理の光は,真のクリスチャンが活発に活動しているために,世界で昼夜輝いています。任命された奉仕者が家から家に伝道する時その光は輝きます。でも,奉仕者が自分の光を輝かすのはその時だけではありません。それは,神の民の会衆の中にいる時はいうまでもなく,食べている間も,飲んでいる間も,日常の会話をしている間も,働いてる間も,輝いていなければならないのです。クリスチャンが光をかくしたり消したりできる時はありません。「あなたがたは世の光である。……あなたがたの光を人々の前に輝かし……なさい」。

      2 神の任命された僕は将来に期待をかけています。ですから,「いのちを愛し,さいわいな日々を過ごそうと願う人は……平和を求めて,これを追いなさい」。(ペテロ前 3:10,11)平和を追い求めている間は,悪い行をして,神の御言葉からはずれるようなひまはありません。もしはずれるようなら,目に見えるでしよう。彼は奉仕者として,クリスチャン生活をしていることをいつでも証明しなければなりません。ちようど丘の上にある町のように彼は観察されているのです。その町をかくすことはできません。その町があることは,周囲何マイルものところから分ります。その町をかくすことができないのは,真のクリスチャンの光をかくすことができないのと同じです。任命された奉仕者の光は絶えず輝いています。奉仕者が,彼の食べ方,飲み方,話し方,仕事のしかた,または神の御国の良いたよりの伝道の仕方によつて,故意にその光を包まないかぎり,常に輝いています。決して光をかくすようなことがあつてはなりません! あらゆる人々に,あなたの正しいわざを見せなさい。なぜならば,彼らがあなたの正しいわざを見る時,あらゆる種類の人々が,天におられるあなたの御父に栄光を帰かすらです。

      3 伝道におけるクリスチャンの正しいわざのほかに,何が人々の目によくうつらなければなりませんか。

      3 神の御国が近づいたことを,家から家に伝道するのは絶対に必要で重要なことです。そして,この良いたよりは,神が信ずる人々のためにたくわえておられる偉大な祝福を,もつとはつきり悟るよう人々を助けます。でも,その教える能力と共に,クリスチャンの正しいわざ,その生活の仕方,仕事をする時,遊ぶ時の振舞い方,子供たちの行儀,会衆内での交際の仕方も人々に観察させなさい。そうです。自分の光を輝かすなら,これらのことはすべて効果をあらわします。

      4,5 (イ)或る時間だけクリスチャンというようなものがありますか。なぜですか。(ロ)すべてのクリスチャンが同じ長さの時間を良いたよりの伝道にささげることができますか。(ハ)この問題について,どんな結論がでますか。

      4 ヱホバの奉仕に献身して水の洗礼を受けた人が,私はある時間だけクリスチャンです,と言うことはできません。その人は全時間のクリスチャンでなければなりません。開拓者や宣教者たちがしているように,目の覚めている時間全部を,戸別伝道や聖書研究の司会についやすことはできないかも知れません。だからといつてそれは,クリスチャンであることに少しも影響しません。すべてのクリスチャンは,神から同じ命令をいただいているのです。ヱホバの証者の中には,開拓者および宣教者,つまり全時間奉仕者と呼ばれるクリスチャンたちがたくさんいます。この人々は,自分の仕事を調節することができたので,戸別伝道をしたり,信ずる人々の家で聖書研究を司会して他の人々につかえることができるのです。ヱホバ神に献身して洗礼を受けた人がひとりのこらず,全時間を伝道の仕事にささげられないことは容易に分ります。しかし,彼らが全時間をクリスチャン生活にささげなければならないことは確かです。目のさめている時間全部を福音伝道に用いる人と同じくらい確実に,任命された奉仕者であることを証明しなければなりません。クリスチャンはみな,イエスの足跡に従つているのですから,イエスと同じく,光を全時間かかげる者でなければなりません。

      5 では私たちは,どういう結論を出すべきですか。それは,開拓者であろうと宣教者であろうと,あるいは会衆の伝道者と言われている人であろうと,クリスチャンは全時間,神の御前に任命された奉仕者でなければならないという結論です。聖書には,パウロやペテロの書いたものの中にも,イエス御自身の言葉にも,クリスチャン生活をしている人は,「まず神の国と神の義とを求めなければならない」ことが示されています。さらにイエスはこう言われました,「もしわたしのいましめを守るならば,あなたがたはわたしの愛のうちにおるのである。それはわたしがわたしの父のいましめを守つたので,その愛のうちにおるのと同じである」。(ヨハネ 15:10,新口)例外はひとつもありません。クリスチャンはすべて,同じいましめを与えられ,同じあがない主,同じ神をもつているのです。

      わざは表われる

      6,7 人々の悪いわざに関し,テモテ前書 5章24,25節はどう説明できますか。

      6 人のほんとうの性質は,ついには表われるものです。パウロはテモテにそのことを指摘しました,「ある人の罪は明白であつて,すぐ裁判にかけられるが,ほかの人の罪は,あとになってわかって来る。それと同じく良いわざもすぐ明らかになり,そうならない場合でも,隠れていることはあり得ない」。(テモテ前 5:24,25,新口)次の簡単な例は,パウロの論点を理解する助けとなるでしよう。ある町にひとりの泥棒がいました。その泥棒は人の家に押し入つて,2年間も盗みを働いてきました。もうひとりの男がいます。彼は盗みをしようと,はじめて人の家に押し入ります。新参のこの泥棒は,最初の試みで,盗んだ物を持つて家を出る時つかまつてしまい,警察に引き渡されました。裁判が行われました。証人は証言を行い,彼は泥棒と証明されました。判決は,6ヵ月の入獄。この男の罪は「明白であつて,すぐに裁判にかけられ」たわけです。

      7 しかし,2年間盗みを働いてきた最初の男はどうでしようか。彼はまた盗みを働こうと決心します。ところがこの度は見つかつて,警官に逮捕されました。裁判にかけられます。提出された証拠は,彼が不法侵入した最後の家で盗みを働いたのみでなく,過去2年間,他の多くの家でも盗みを働いたことを証明します! それまでは,隣り近所でも評判が良かつたか知れませんが,いまは彼の「罪」も「わかつて来」たわけです。ただあとになつただけ,2年あとになつただけです。人がほんとうにどんな生活をしているかは,いつまでもかくせるものではありません。もし泥棒なら,ついにはわかつて来ます。

      8 正しい人のわざは,どのようにすぐ明らかとなるかも知れませんか。

      8 パウロはこう論じます。ある人の罪はすぐに明らかとなり,ほかの人の罪はあとになつてわかつて来るが,ある人々の正しいわざについても同じことが言える。もう一つの例をあげるとこの真理がはつきりするでしよう。ある婦人は,熱心に家から家に良いたよりを伝え,神の御言葉に人々の関心をそそがせて良い成果をあげます。必然的にたくさんの家庭聖書研究もできます。その正しいわざによつて短期間に数人の人々が,ヱホバの証者の御国会館に来るようになり,会衆と一緒に研究し,その人たち自身も良いたよりを伝道しはじめ,ヱホバの奉仕に献身して洗礼を受けます。この婦人の正しいわざは,会場内のすべての人に,ただちにあきらかになつたわけです。

      9,10 他人の正しいわざが,長い間かくれているかも知れないのはなぜですか。

      9 一方,同じ会衆のなかに,伝道に出かけるのに同じく熱心な婦人がもうひとりいます。しかし,どういうわけか,その人と勉強している人々は,はやく御国会館に出席するようになりません。彼女はその人々と1年以上も勉強しているのにまだ成果が見えません。

      10 この2番目の婦人の夫は,聖書にもその音信にも関心がなく,2年という間,彼女が宣教の仕事を行うのを激しく反対しつづけてきたのでした。10年前に結婚した時は,彼らはごくこの世的な人々で,パーテイやナイトクラブに出かけて行つてはお酒に酔いました。それは気ままな生活でしたが,酔つていない時や他の時には夫婦げんかが多く,どちらかといえば不幸な生活でした。後になつて子供たちが生れると少し家に落ち着くようになりましたが,それでも真実の幸福はありませんでした。家庭には平和がありませんでした。しかし,2年余り前にこの婦人は,ヱホバの証者のひとりと聖書の勉強をはじめました。そしてパウロがテサロニケ人に「わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは,あなたがたが……神の言を聞いた時に,それを人間の言葉としてではなく,神の言として ― 事実そのとおりであるが ― 受けいれてくれたことである」と書いたことを,すぐに認識しました。より良い生活が楽しめるのを知つたいま,彼女は救われることを望み,ヱホバへの奉仕に献身しました。彼女は水の洗礼を受け,心をかえて新らたにし,伝道活動を行なうと共に正しいクリスチャン生活を送ることによつて,任命された奉仕者であることを証明しました。彼女は光を輝かせました。家庭で子供と勉強するだけでなく,御国会館で行なわれるすべての集会に子供を連れて出席しました。会衆のなかの仲間の証者たちは,その婦人の夫のことも,彼女の家庭生活についても,あまり知りませんでした。夫がどのヱホバの証者も家によせつけなかつたからです。

      11 その人の正しいわざがかくれている間,ペテロのどんな助言に従いますか。

      11 いまは任命された奉仕者であるその婦人は,常に神のいましめを守つて,家庭においても家庭の外においても,正しいわざを示さなければなりませんでした。そこで彼女は,聖霊の霊感のもとに書いたペテロの次の助言にたよりました,「同じように,妻たる者よ。夫に仕えなさい。そうすれば,たとい御言に従わない夫であつても,あなたがたのうやうやしく清い行いを見て,その妻の無言の行いによつて,救に入れられるようになるであろう。あなたがたは,髪を編み,金の飾りをつけ,服装をととのえるような外面の飾りでなはなく,かくれた内なる人,柔和で,しとやかな霊という朽ちることのない飾りを,身につけるべきである。これこそ,神のみまえに,きわめて尊いものである。むかし,神を仰ぎ望んでいた聖なる女たちも,このように身を飾つて,その夫に仕えたのである。たとえば,サラはアブラハムに仕えて,彼を主と呼んだ。あなたがたも,何事にもおびえ臆することなく善を行えば,サラの娘たちとなるのである」。―ペテロ前 3:1-6,新口。

      12-14 どんなよいわざを人々が見た後,そのような良いわざはすべての人々に明らかとなりますか。

      12 よき主婦であり,愛情深い母親でもあるこの献身した婦人は,夫に真理を話すことをゆるされていませんでした。夫がそれを禁じていたのです。しかしながら,彼女の正しいわざを通して,夫は,彼女のたんへんな変化を見ました。それは言葉よりも雄弁でした。もう酒に酔うようなことはありません。彼女の性質は変わりました。家の中はいつも清潔で,せいとんされています。食事も以前よりよくなり,時間通りに用意がととのいます。子供たちの行儀も良く,お父さんを愛し尊敬するように教えられています。家庭の状態は以前よりずつとよくなりました。でもなぜでしようか。

      13 さて,てあらい仕うちに耐えながら,クリスチャンとしての生活を2年間つづけてきたある日,野外奉仕から帰つてきた彼女に向かつて夫はこう言います,「お前はずいぶん変わつたが,どういうわけだ」。もちろん答えはこうでした,「私は神の御言葉に従つて生活し,平和を求めてそれを追おうとしているのです」。夫は言いました,「神の言葉がお前にそんなに多くのよいことをさせるのなら,私でも神の言葉を守れば信者になれるかも知れないな」。夫はその通りになりました!

      14 ですから,この婦人の生活においては,正しいわざが,「あとになつて表われた」ことがわかります。ほんとうに神の御言葉は真理です,「それと同じく,良いわざもすぐ明らかとなり,そうならない場合でも,隠れていることはあり得ない」。―テモテ前 5:24,25,新口。

      15 では,私たちすべてにとつてどんななぐさめがありますか。ですから私たちは,自分が何であることを証明したいと願いますか。

      15 ある人々の正しいわざは,すぐに良い結果を生み出しますが,他の人々の正しいわざは,後になつて,どうかすると何年もの後に明らかとなります。ですから,自分の正しいわざから成果があがらないように見えても,落胆してはなりません。常にクリスチャンでありなさい。食べること,飲むこと,話すこと,働くこと,あるいはその他の何事をするにも,たとえ小さなことにでも光を輝かせるならば,そのために,いく人かの人に救いがおよぶでしよう。何をするにも,神の栄光のために行ないなさい。自分の益を追い求めるべきではなく,多くの人が救われるように彼らの益を追い求めるべきです! このクリスチャンの婦人は自分の利益を求めていたのではなく,夫の益を求めていたことを忘れないで下さい。それは,夫もまた救われて,神の新しい世で住む喜びを分ち合えるようにするためでした。一日中クリスチャンでありなさい。そして,神のみ前に任命された奉仕者であることを証明しなさい。

      16 任命された奉仕者の正しいわざは,人に見られるためだけに行なわれますか。そうでなければ,なぜですか。

      16 家から家に行く任命された奉仕者,雇い主のために正しく働き,家庭にあつては妻子に正しく振舞い,会衆内では正しく行動する任命された奉仕者は,なにも人に見せびらかすためにそうしているのではありません。神の御言葉が彼を導いているのです。御言葉を守るから生活が楽しく平和になるのです。「ヱホバの目は義人の上にそそがれ,その耳は彼らの祈りにかたむく」。(ペテロ前 3:12,新世)私たちは,こういましめられています「自分の義を,見られるために人の前で行わないように,注意しなさい。もし,そうしないと,天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう」。(マタイ 6:1,新口)「何事をするにも,すべて神の栄光のためにすべきである」。偽善者になつてはなりません。

      17 (イ)正しいわざを行なうことについて,私たちはどのように警告されていますか。(ロ)正しい振舞いと,まちがつた振舞について,私たちはイエスからどのような適切な言葉を与えられていますか。

      17 あなたのしていることを,人に見られるためにしないで,何事をするにもヱホバ神に対するように行ない,ヱホバから報いを受けるようにしなさい。会衆の前で清い事をよそう牧師と同じように,神の奉仕者のような様子をよそおつてはなりません。イエスの時代の学者やパリサイ人と同じようにイエスからある部類にいれられたり,言われたりしないようにしなければなりません。イエスは彼らにこう言われました,「そうすることは,すべて人に見せるためである。……また宴会の上座,会堂の上席を好み,広場であいさつされることや,人々から先生と呼ばれることを好んでいる。……だれでも自分を高くする者は低くされ,自分を低くする者は高くされるであろう。偽善な律法学者,パリサイ人たちよ。あなたがたは,わざわいである。あなたがたは,天国を閉ざして人々をはいらせない。自分もはいらないし,はいろうとする人をはいらせない。偽善な律法学者,パリサイ人たちよ。あなたがたは,わざわいである。あなたがたはひとりの改宗者をつくるために,海と陸とを巡り歩き,そして,つくつたなら,彼を自分より倍もひどいゲヘナの子にするからだ」。(マタイ 23:5-15,新世)任命された真の奉仕者は,人々の注意を自分にでなく神に向けさせます。神の御言葉に絶えず心を用いて,それを伝道することにより,人は自分だけでなく,自分に聞く人々も救います。―テモテ前 4:16。

      神の御言葉に支配される

      18 ある人々は,マタイ伝 6章33節をどれだけ読みますか。

      18 クリスチャンの全生涯は,神の御言葉に支配されたものでなければなりません。御言葉の述べるところを信じ,喜んでヱホバのいましめを行なわねばなりません。また神の義を認識し,聖書に書かれていることに沿つて生活するよう希望しなければなりません。「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば,それらのものはすべて添えて与えられるであろう」と言われたのはイエスでした。(マタイ 6:33,新口)この聖句を読む時ある人々は,「まず神の国……を求めなさい」というところだけを読みます。彼らの関心はその程度でとどまつているからです。彼らは,全能の神の大いなる日の戦いであるハルマゲドンを,すなわち,ヱホバが地からすべての悪を滅ぼして正義の新しい世を確立される時を待ち望みます。なぜなら,楽園に住んで,完全な生活,平和,幸福,食物,住居など,その新しい世が提供してくれるすべての良きものを得たいからです。

      19 マタイ伝 6章33節には,ほかにどんな考慮すべきことがありますか。

      19 しかしながら,御国だけを求めて,ヱホバの義を求めていない人々は,いま全部の聖句を読むべきです。イエスは言われました,「まず神の国と神の義を求めよ」。神の義も,また求めねばならないものです。いまこそ私たちは,真理と,義と,生き方に関するヱホバの原則を知らねばなりません。クリスチャンが,ヱホバの義を求めているならば,クリスチャンのなすべきことを知りたいと願うでしよう。たとえば,聖書は,独身の男あるいは女は,淫行の生活をすべきでないことを述べています。「もし,自制することができないなら,結婚するがよい。情の燃えるよりは,結婚する方が,よいからである」。(コリント前 7:9,新口)結婚したならば,どちらの配偶者も,姦淫を行なうことはできません。それは義を求めることではないからです。「『姦淫するな』と言われていたことは,あなたがたの聞いているところである」。―マタイ 5:27,新口。

      20 神の御言葉の中に,どんな助言を見出しますか。

      20 神の御言葉の中には,独身者がどのように生活すべきについて,また結婚している人々の品行について,子供の養育について,神の会衆のなすべき仕事について,監督はどのようにふるまうべきかについて,すぐれたいましめがあります。隣人を愛し,旅人をねんごろにもてなすことについても助言が与えられています。言葉についても,食べること,飲むこと,働くことについても,正直さや一般の性質についても,道徳にかなつた生活の仕方が助言されています。人殺し,盗人,酔つぱらい,偶像崇拝者,うそつき,よくばり,強要者,悪口を言ふ者になつてはならないことは,いうまでもありません。クリスチャンの全生涯は,神の御言葉の中に明確に示されている聖書の原則によつて支配されます。ですから,御国だけでなく,御国を求めると同時に神の義を求めましよう。あなたが善を行なえば,他のすべてのものはそえて与えられるであろうというのが,それに対する約束です。

      21,22 古い人格の結ぶ実はどんなものですか。新しい人格の実は?

      21 クリスチャンは,正しいことを行なうことによつて,新しい人格を着,真の義と愛に満ちた親切をもつて,自分の生活を神の御心に一致させます。使徒パウロは,エペソ人に手紙を送るにさいし,こう言いました,「あなたがたは,以前の生活に属しその欲によつて腐敗して行く古き人格を脱ぎ捨てなさい。しかし,あなたの心に働きかける力によつて新しくされ,神の御心にしたがい,まことの義と愛に満ちた親切のうちにつくられる新しい人格を着なさい」。(エペソ 4:22-24,新世)クリスチャンは,この世の神であるサタンが,「不信の者たちの思いをくらませて」,くらやみに閉じこめているのを知つています。その悪魔は,全部の人間が,迷つた欲望に従つて生活するよう望んでいるのです。「すべて世にあるもの,すなわち,肉の欲,目の欲,持ち物の誇は,父から出たものではなく,世から出たものである」。(ヨハネ第一ノ書 2:16,新口)ですから悪魔はすべての人を,「腐敗している以前の生活に属させておきたい」のです。

      22 でも,真理を知る時は,以前使つていたきたない言葉と共に古い人格を脱ぎ捨てて,変えることができます。また,光を輝かすのを妨害する,だらしのない不正直な仕事をする習慣も捨てます。「ヱホバの顔は悪いことを行なう者に向かう」ことを知つているからです。ですからクリスチャンは,「平和を求めてそれを追うために」大きく変化します。「ヱホバの目は義人の上にそそがれる」ことを知つているからです。―ペテロ前 3:11,12,新世。

      23 (イ)人はどのように新しい人格を身につけることができますか。(ロ)アダムは最初,どんな人格を備えていましたか。

      23 神の御言葉は,誠実な人に強い影響をおよぼします。たとえほとんどのこの世の政府が彼らを認めなくても,多数の人々は神の御言葉を導きとして,ついに神のみ前に任命された奉仕者となることの重要性を悟るに至りました。彼らはいまも光りを輝かせつづけています。もはや以前の生活を行なうようなことはありません。彼らは神の御言葉が他の信ずる者たちの中に働いていること,しかも,それら他の信ずる者たちが神の御言葉から生活に影響を受けているのを知つて,すつかり新しい人生観を持ちます。パウロは,「あなたの心に働きかける力によつて新しくされる」べきことを知つていました。では心に働きかけるその力とは何でしようか。それは,神の御言葉を通して私たちに示された神の活動力である神の霊です。任命された全時間奉仕者にふさわしい,また神に喜ばれる新らしい人格を着るために,神の御言葉を研究しなさい。エデンの園において,神がアダムを創造された時最初に彼に与えられた人格は,神の御心にかなつたものでした。そして,神がこの人間を造られたのは,真の義と愛に満ちた御親切からでした。アダムは完全な人間でした。そして完全な地球の上に置かれました。彼の人格は,平和を追い求める性質のものであつたにちがいありません。というのは,エデンの園で彼は,すべての動物と平和な状態にあつたからです。それはハルマゲドンの戦争のあと,天の御国の支配下における楽園の地に存在するであろうと,預言者イザヤが説明したところの状態でした。

      24,25 任命された奉仕者たちに対するヱホバの御心は何ですか。彼らはその御心にどのように応じますか。

      24 神との平和を求めて,けんそんと義を示すことが,今の時代における神の御心であることはまちがいありません。それによつて神のみ怒りの日にかくされるかも知れないからです。(ゼパニヤ 2:3)全世界のあらゆる場所にいるヱホバの証者は,神の御国の良いたよりを着実に伝道して,価値ある神の奉仕者であることを証明したいと願つています。また,ヱホバから受けた任命に対して感謝を示すとともに,正しいわざによつてクリスチャン生活を送り得ることを証明したいと願つています。彼らの職は,神への聖なる奉仕に専念することです。真の義と愛に満ちた御親切のうちに,神の御心に従つてつくられたこの新しい人格を着ることにより,彼らはより良い奉仕をささげることができ,より多くの事をなしとげることができます。ヱホバの証者,すなわち神の任命された奉仕者たちは,全時間をクリスチャン生活にささげ,この古い世にあつて,イエスがされたと同じように生活します。そしてイエスがこう言われたことを心にとめています,「もしあなたがたがこの世から出たものであつたなら,この世は,あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし,あなたがたはこの世のものではない。かえつて,わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから,この世はあなたがたを憎むのである」。(ヨハネ 15:19,新口)しかし,たとえこの世から憎まれても,ヱホバの証者たちは,この世のすべての人々に愛を示して,平和を保つ決心でいます。彼らは,「平和を求めてこれを追い」ます。なぜなら「ヱホバの目は義人の上にそそがれる」からです。

      25 ヱホバ神の御前に任命された奉仕者として,ヱホバの証者は神の御心を遂行します,「あなたがたは,実に,そうするようにと召されたのである。キリストも,あなたがたのために苦しみを受け,御足の跡を踏み従うようにと,模範を残されたのである。キリストは罪を犯さず,その口には偽りがなかつた。ののしられても,ののしりかえさず,苦しめられても,おびやかすことをせず,正しいさばきをするかたに,いつさいをゆだねておられた」。(ペテロ前 2:21-23,新口)任命された奉仕者たちも,常に正しいことをするという点で彼に従います。

  • ヱホバの証者の平和と一致
    ものみの塔 1960 | 3月1日
    • ヱホバの証者の平和と一致

      1 ヱホバの証者たちの間の平和と一致には,何が是非とも必要ですか。

      正しい行いは,いつの場合でも満足と心の平和をもたらします。ヱホバの御心を行なう人々は,「あなたのおきてを愛する者には大いなる平安があり,何ものも彼らをつまずかすことはできません」ということを知るに至るでしよう。(詩 119:165,新口)全世界にわたつて,平和と一致のうちに共に住むヱホバの証者に関する限り,これは真実です。彼らは,任命された奉仕者たちですから,ヱホバの律法を愛しそれを守ることが,平和で幸福な生活に絶対必要であることを認めています。平和を求めてこれを追うことは,賢明な道であつて,人はヱホバの目が自分の上にあることを確信することができます。

      2,3 平和と一致を確保するために人間は,天使たちが示すどんな手本を心にとめることができますか。

      2 多くの人々は生活における真の満足が,ヱホバの御心を行なうことから生ずるものであることを認めていません。あるいは信じていません。ところが一方,神の御心が何であるかを学んで,それを行なうことに喜びをもつている人々もいます。聖書が告げるところによると,み使いたちは,神のみ言葉の声を聞きます。私たち人間もそうすべきではありませんか。「ヱホバは,そのみくらをもろもろの天にかたくすえられた。そしてその王権はすべてのものの上にある。ヱホバのみ使いよ,ヱホバの御言葉の声を聞き,その御言葉

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