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神の奉仕者とはだれのことですかものみの塔 1981 | 6月15日
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神の奉仕者とはだれのことですか
献身しバプテスマを受けたクリスチャンすべてに「奉仕者<ミニスター>」という語を用いることに対して,何年か前にかなりの異議がさしはさまれました。そうした異議は,言語上の意味の相違,クリスチャンが自らを奉仕者<ミニスター>と称した場合に,他の宗教組織や政府当局者の抱きかねない見解などを根拠としていました。しかし,そうした主張は,エホバの民が過去100年の大半の期間取ってきた立場を否定するほど十分な論拠とは思えません。
“ディアコノス”― 奉仕者(ミニスター)
英訳のクリスチャン・ギリシャ語聖書には,「奉仕する」(“minister”)という動詞と「奉仕者」(“minister”)という名詞が幾度も出てきます。このように訳されているギリシャ語の名詞はディアコノスで,字義的には『ほこりを通って』という意味があり,ほこりにまみれて使い走りをする者に関して用いられるような言葉です。この言葉は三つの違った意味合いで用いられているようです。その一つ一つを調べてみることにしましょう。
まず,ディアコノスという語は,世俗的な事柄に関して物質面で仕える人に対し用いられています。家の中で仕えることを指すだけのこともあります。例えば,イエスのあるたとえ話の中にこう記されています。「王はしもべたち[ディアコノイ]に言いました,『その手足を縛(り)なさい』」。(マタイ 22:13)同じ言葉がローマ 13章4節では「奉仕者」と訳出されており,世俗の政府に関して用いられています。
ある文脈の中では,このディアコノスというギリシャ語が特別の限定された職務を意味する言葉として用いられています。フィリピ 1章1節はその例ですが,ここではこの言葉がクリスチャン会衆内の任命された職務に就いている特定の人たちに関して用いられています。というのは,そのところで,監督もしくは「司教」の職にある他の人たちと結び付けて用いられているからです。フィリピ 1章1節にはこう書かれています。「キリスト・イエスの奴隷であるパウロとテモテから,フィリピにいる,キリスト・イエスと結ばれたすべての聖なる者,ならびに監督たちと奉仕のしもべたち[もしくは“執事たち”,ディアコノイ]へ」。この言葉はテモテ第一 3章8,12節でも同じ特別の意味で用いられています。使徒パウロはその部分でこれら奉仕のしもべたち,もしくは「執事たち」の資格を列挙しています。
最後に,霊感を受けたこれらクリスチャン・ギリシャ語聖書の筆記者たちがこの言葉をもっと広い意味で用いているように思われる箇所があります。しかもそれには,世俗的な務めを果たす僕を指す以上の重要性を帯びた意味合いがあります。それはこの言葉が,神聖な,つまり霊的な物事の面で神に仕える献身した僕すべてに関して用いられる場合です。そしてその場合,幾つかの言語では,このギリシャ語により適切な言葉,つまり高められた奉仕<サービス>もしくは神に対する奉仕という意味を含む“ミニスター(英語)”という語を当てています。例えば,使徒パウロはコロサイ 1章23節で自分のことを,「奉仕者<ミニスター>[ディアコノス]に任じ」られた,つまり『奉仕者<ミニスター>になった』と語っています。(欽定訳,改訂標準訳,フィリップスの現代英語新約聖書,新英訳を参照)パウロはまた,テモテなど他の人のことを奉仕者<ミニスター>と呼んでいます。―テモテ第一 4:6,欽定訳,改訂標準訳,新国際訳。
“ディアコニア”― 奉仕の務め(ミニストリー)
ギリシャ語ディアコノスと非常に関係の深い言葉にディアコニアという名詞があります。これは「奉仕」もしくは「奉仕の務め<ミニストリー>」を意味します。このギリシャ語も,世俗的な意味と宗教的な意味つまり神聖な意味の両方で用いられます。次の使徒 6章1節ではこれが世俗的な意味で用いられています。「さて,このころ,弟子が増えていた時であるが,ヘブライ語を話すユダヤ人に対してギリシャ語を話すユダヤ人がつぶやくということが起こった。そのやもめたちが日ごとの分配[脚注,「奉仕<ミニストレーション>」]の面でおろそかにされていたからである」。
ディアコニアという言葉が宗教的な意味で用いられる場合,特定の言語の一部の翻訳者たちは,これに特別の言葉を当てて,「分配」や「奉仕<サービス>」とではなく,神に対する高められた奉仕を意味する「ミニストリー(奉仕の務め)」と訳出しています。ですから,これらの言語では,使徒パウロが異邦人に対する自分の使徒職について「わたしは……自分のこの奉仕の務め<ミニストリー>を栄光あるものとします」と述べたとなっています。(ローマ 11:13,改訂標準訳,新英訳,新国際訳)a パウロはさらに,神が自分を神に対する高められた「奉仕」である「奉仕の務め<ミニストリー>に割り当てて,忠実な者とみなしてくださった」ことに感謝していると書きました。(テモテ第一 1:12,王国行間逐語訳)そして,パウロはテモテに次のように書いています。「しかし,あなたはすべての事に冷静を保ち,苦しみを忍び,福音宣明者の業をなし,自分の奉仕の務め<ミニストリー>を十分に果たしなさい」。テモテの福音宣明,つまり「良いたより」を宣べ伝えることは世俗的な奉仕ではありませんでした。それは神に対する高められた奉仕,つまりミニストリーであったのです。そのゆえに,テモテはミニスター(奉仕者)とされていたのです。そして今日でも福音宣明というこの奉仕の務めに携わるすべての人は確かにミニスターと呼ばれる奉仕者なのです。―テモテ第二 4:5,欽定訳,新国際訳,改訂標準訳。
ディアコノス,ディアコニアその他類似のギリシャ語をクリスチャン・ギリシャ語聖書の筆記者たちが霊感の下に用いた用法は,エホバの証人に対する模範となっています。実際,エホバの証人は,「会衆」もしくは「教会」という言葉が一般に表わしているような意味での宗教組織であるだけでなく,男,女,年若い人々を,奉仕者<ミニスター>,神に仕える高められた意味における「僕」,すなわち神の王国の良いたよりの伝道者とすべく訓練し備えをさせる共同体でもあります。この目的のために,男,女,年若い人々に聖書の重要な知識の教育を施す継続的な研究課程が準備されています。これによって彼らは,神の奉仕者として常に向上することができます。これらの研究課程は毎週開かれる五つの集会で履修され,そこでは聖書の教理の解説,聖書預言の解明,クリスチャンの行状に関する教え,聖書の真理を宣べ伝え教える面での訓練がなされます。
奉仕者としての叙任
他のすべての宗教組織と同様,エホバの証人は,その研究生たちが神の言葉の奉仕者,つまり神に仕えるという高められた意味における「僕」の資格をいつ身に着けたかを判断する権利と特権を有しています。それらの研究生がふさわしい期間個人的に訓練を受けた後,会衆内の正式に任命された長老たちはその資格を検討します。研究生が神の言葉の十分な知識を持っていることを表わし,その音信に対する心からの認識を示し,神のご意志を行ない,イエス・キリストの足跡に従うべく無条件でエホバに献身し,なおかつその生活を神のご要求と原則にかなったものにしたのであれば,その人にはバプテスマを受けることが認められます。そしてこれによって,その人は奉仕者として叙任されるのです。こうした手順には聖書にかなった確かな先例があります。イエスが神によって油そそがれた奉仕者としての歩みを始め,神の王国の良いたよりを宣べ伝えたのは,バプテスマを受けるためにご自身を差し出された後のことだったからです。―マルコ 1:9-15。
しかし,水に完全に没するバプテスマを叙任の儀式とみなす確かな根拠があるでしょうか。b キリスト教世界で広く行なわれている習慣からすれば,そう考えることはできないかもしれませんが,聖書的な見地からすれば,そのようにみなす確かな根拠があります。マクリントクとストロングの聖書・神学・教会文献百科事典(1877年)はその第7巻411ページでこの問題に言及していますが,その説明からもこのことが分かります。そこにはこう記されています。叙任とは「人を奉仕者<ミニスター>の職に任命もしくは指名することである。これに儀式が伴うか否かは問題ではない。……この問題について聖書を調べるなら,主イエス・キリストもその弟子のいかなる者も叙任に関連して特別な命令や布告を出していないという極めて重要な事実に,純真な人々は必ずや感銘を受けるであろう」。使徒パウロが資格証書や叙任証書を必要としなかったのと同様,そうした証書を必要としていません。―コリント第二 3:1-3。
エホバの証人の奉仕の務め
エホバの証人はその奉仕の務めをどのように遂行するのでしょうか。一部の人は任命された長老として仕え,会衆の中で宣べ伝え教えます。つまり,演壇からまたエホバの証人の家庭で開かれる会衆の聖書研究の集まりで宣べ伝え教えます。しかしエホバの証人がその奉仕の務めを果たすのに大規模に用いている極めて独特の方法は,使徒たちをはじめとするイエスの初期の弟子たちがイエスの次の命令に従って行なっていたのと同じ方法です。「どんな都市または村に入っても,その中にいるふさわしい者を捜し出し……なさい。その家の中に入るときには,家の者たちにあいさつをしなさい。そして,その家がふさわしいなら,あなたがたの願う平安をそこに臨ませなさい」― マタイ 10:11-13。
同様に使徒パウロは,会衆と個人の家にいる人々の双方に対して宣べ伝える業を行なったことで知られています。パウロはエフェソスの長老たちに次のように告げました。『あなたがたがよく知る通り……わたしは,なんでも益になることをあなたがたに話し,また公にも家から家にもあなたがたを教えることを差し控えたりはしませんでした。むしろ,神に対する悔い改めとわたしたちの主イエスへの信仰について,ユダヤ人にもギリシャ人にも徹底的に証しをしたのです』。(使徒 20:18-21)これは今日の神の奉仕者たちにとって優れた先例となります。
宗教的な冊子を用いて戸別に行なう現代の奉仕の務めに関して,米国最高裁判所はマードック対ペンシルバニア州事件(1943年)の判決文の中で次のように述べています。「宗教上の小冊子を配ることは,古くからの福音伝道の方法であり,印刷機の歴史同様に古いものである。……この形態の宗教活動は,憲法修正第1条において,教会の礼拝や説教壇からの伝道同様高く評価されている」。
また,ラムソン対合衆国事件(1955年)の審理に際し,米国第7巡回裁判区上訴裁判所は,「戸別にまた街角で神から与えられた使命として伝道するエホバの証人の奉仕者と,壇の上から説教をしたり教会学校で教えたり自分の教会の他の様々な宗教活動を行なったりする,より一般的な宗教の奉仕者<ミニスター>とを……区別するのは正当な」ことではないと言明しました。
これらの奉仕者がその奉仕の務めに全時間を当てていないという事実は,奉仕者であるとのその主張に不利な影響を与え,彼らを奉仕者としての資格に欠ける者としたでしょうか。そのようなことは決してありません。使徒パウロでさえ自分自身および自分と共にいる人たちの生計を支えるために世俗の活動に従事したからです。(使徒 18:3,4; 20:33,34)この見解は,米国第5巡回裁判区上訴裁判所におけるウィギンズ対合衆国事件(1958年)の次のような判決の中でも支持されました。「エホバの証人の奉仕者は……神から与えられた使命として奉仕の務めを行なう資金を得るために,世俗の仕事に従事せざるを得ない。……審査の規準となるものは……その者がたまにではなく,定期的に,神から与えられた使命として自己の宗教の原則を教え伝道しているかどうかである」。
それでは神の奉仕者とはだれのことでしょうか。神と隣人に仕えることを生活の主要な目的としている,献身しバプテスマを受けたクリスチャンにほかなりません。(マルコ 12:28-31)続く三つの記事もお読みください。
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婦人も「奉仕者」になれますかものみの塔 1981 | 6月15日
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婦人も「奉仕者」になれますか
今日,プロテスタントの女性牧師がますます増えています。ある教会では婦人が夫と共に説教壇に立っています。多くの修道女は,カトリック教会が婦人をも僧職者つまり司祭として叙任するよう声高に求めています。これまでのところ,法王はその願いを受け入れていません。
この問題について人間の知恵の示す事柄またわたしたちの意向や好みが何であれ,イエス・キリストの誠実な追随者すべてに関する限り,神の言葉に表明されている「上からの知恵」が決定要素となります。―ヤコブ 3:15-17。
神の言葉は,イエス・キリストが,男性だけを十二使徒と70人の福音伝道者に任命して,一つの先例を残されたことを示しています。(マタイ 10:1-4。ルカ 10:1)この先例に倣って,使徒パウロは男性だけを会衆の長老(および奉仕の僕)に任命しました。(テモテ第一 3:1-13。テトス 1:5-9)さらに,パウロはテモテに次のことを思い出させました。「わたしは,女が教えたり,男の上に権威をふるったりすることを許しません。むしろ,静かにしていなさい」― テモテ第一 2:12。
しかし,他の聖句から見て,この制限は会衆内にのみ適用されることが明らかです。婦人が会衆の集会以外で宣べ伝える者や宣明する者,つまり「良いたより」の奉仕者<ミニスター>になれることは,ヨエル書 2章28,29節の預言から分かります。使徒ペテロは次のように述べて,その預言はペンテコステの日に成就を見たことを示しました。「神は言われる,『そして終わりの日に,わたしは自分の霊をあらゆるたぐいの肉なるものの上に注ぎ出し,あなたがたの息子や娘は預言(す)るであろう。そして,わたしの男奴隷の上にも,女奴隷の上にも,わたしはその日に自分の霊を注ぎ出し,彼らは預言するであろう』」。確かにペンテコステの日に,聖霊は男性と女性の両方に下りました。―使徒 1:14,15; 2:1-4,17,18。
また,イザヤ書 61章6節(新)の聖句もこの点と関連しています。そこには一部次のように示されています。「あなた方は,エホバの祭司と呼ばれ,わたしたちの神の奉仕者と言われるであろう」。この預言は,流刑に処されていたユダヤ人が複合の集団すなわち国家集団として古代バビロンから帰還した時に最初の成就を見ました。しかし,実際の事実からも明らかなように,ローマ 15章4節と一致して,これらの言葉には霊的イスラエル人を対象にした現代の成就があります。(ガラテア 6:16)a 第一次世界大戦中,彼らは「大いなるバビロン」に霊的に捕らわれた状態にありましたが,その直後に解放されました。それは偽りの宗教のその世界帝国の象徴的な倒壊に伴って生じました。
回復に関するこの預言が現代においても成就しているのであれば,そこに出てくる「奉仕者(英語でミニスター)」つまり高められたもしくは神聖な意味での「僕」たちにはだれが含まれるでしょうか。会衆内の長老および奉仕の僕つまり「執事」たちだけでしょうか。そうではないように思われます。古代の成就において,この預言は,複合の集団つまり国家集団としてバビロンから帰還したユダヤ人すべてに当てはまりました。同様に今日も,この預言は現代のバビロンから出て来た霊的イスラエルのすべてに当てはまります。その中には男の人も女の人も,年老いた人も年若い人も含まれます。当然のことながら「奉仕」をしていなければならないという条件はありますが,年齢や性別には関係がないのです。
これは,今日,「奉仕者<ミニスター>」という語が油そそがれた霊的な残りの者だけに用いられることを意味しているでしょうか。そうではありません。この言葉は残りの者を今日助けている「ほかの羊」の「大群衆」にも当てはまります。このことは,他の様々な聖句がこれら「ほかの羊」に適用されるその仕方から分かります。―ヨハネ 10:16。啓示 7:9。
例えば,イザヤ書 43章10-12節は,エホバ神がエジプトから救出してご自分の証人とならせた生来のイスラエル人にまず当てはまりました。今日この聖句は,エホバがサタンの組織から救出してエホバの証人とならせておられる霊的イスラエル人に当てはまります。この言葉が霊的イスラエルの油そそがれた残りの者だけに限って用いられるものでない証拠は,地的希望を抱き,自分たちの神エホバについての証しをまさしく行なっている,エホバの崇拝者が200万人以上も今日存在している事実から分かります。
女性の奉仕者
確かに,性別や年齢にかかわりなく,献身しバプテスマを受けたクリスチャンすべては宣明者,宣べ伝える者,奉仕者<ミニスター>,高められたもしくは神聖な意味での「僕」になることができます。もちろんその人は,自分の行状と証言活動の両面でそれにふさわしいことを実証している必要があります。ですから,使徒パウロはローマ 16章1,2節で次のように書いているのです。「わたしはあなたがたに,わたしたちの姉妹フォイベを紹介します。彼女はケンクレアにある会衆の奉仕者です。主にあって,聖なる者たちにふさわしいしかたで彼女を迎え入れ,どんなことでも彼女があなたがたを必要とする場合には彼女を援助してください。彼女自身も,多くの者に,そうです,このわたしにとっても擁護者となってくれたからです」。パウロがここで,単なる物質的な奉仕以上の事柄に言及していたのは明らかです。パウロは,言葉を語ること,つまりクリスチャンの奉仕の務めと関係のある事柄に言及していました。しかし,フォイベは女性の奉仕の僕として任命されていたのではありません。エホバ神はパウロを通して婦人がそうした職に就く備えを設けてはおられなかったからです。
パウロは,フィリピにあるクリスチャン会衆に手紙を書き送った時にも,ユウオデアとスントケを『クレメンスおよびわたしのほかの同労者たちとともに,良いたよりのためにわたしと相並んで奮闘し[神の王国の良いたよりを宣べ伝え教えたと思われる],その名が命の書の中にある婦人たち』と呼んでいます。―フィリピ 4:2,3。
また,アクラの妻プリスキラのことも見過ごせません。プリスキラの名は聖書に繰り返し出てきます。しかも多くの箇所では,夫よりも先に名前が挙げられています。(使徒 18:2,18,26。ローマ 16:3。コリント第一 16:19。テモテ第二 4:19)エフェソスにやって来た雄弁なアポロがさらに教えを必要としていることが明らかになった時,『プリスキラとアクラは彼を自分たちの家に連れて来て,彼らは神の言葉をより正しく解き明かしました』。―使徒 18:26,王国行間逐語訳。
米国の幾つかの法廷は,戸別に福音宣明の業を行なうエホバの証人の女性を奉仕者<ミニスター>として認めてきました。例えば,バーモント州最高裁判所はバーモント州対グリーブズ事件(1941年)の審理に際し,エルバ・グリーブズは「『エホバの証人』と呼ばれかつ知られている宗派もしくは集団の叙任された奉仕者である」と言明しました。
年若い奉仕者
同じ原則は年若いクリスチャンにも当てはまるでしょう。年若い人々は,いかなる意味においても会衆内で任命された僕として仕えることはありませんが,その年齢そのものは彼らが「良いたより」を宣べ伝え宣明する者,神の奉仕者<ミニスター>となるのを妨げるものではありません。イエスは12歳の時,ご自分が神の言葉に『奉仕する』能力のあることを示されました。(ルカ 2:46-50)サムエルは,ほんの『少年』にすぎなかった時に「エホバの奉仕者」となりました。(サムエル前 2:11,新世界訳。アメリカ標準訳,エルサレム聖書,ロザハム訳もご覧ください。)そして現代においても,十代初め,時にはそれ以下の年若い人々が,献身して自分をエホバにささげ,バプテスマを受けた後,あらゆる機会を捕らえて神の王国の良いたよりを宣べ伝えるその活動によって,また自らの行状によって,自分がまさしく神の奉仕者であることを実証しています。―テモテ第二 2:22。伝道 12:1。
「神聖な奉仕」
イエスは,人の主張はその業によって判断すべきであるという基準を定められました。イエスはこう語っておられます。「わたしのしている業それ自体が,わたしについて,すなわち父がわたしを派遣されたことを証し(しま)す」。(ヨハネ 5:36)同様に,老若男女を問わず,神から遣わされたこれらの奉仕者<ミニスター>(すなわち,高められた意味における「僕」)は,王国の関心事に対するその奉仕,すなわち自分たちの神エホバに対するその「神聖な奉仕」によって見分けられるはずです。―マタイ 4:10。ローマ 12:1,2。
ですから今日のエホバの証人の間でも,神の言葉を十分に教えられ,自分の命を神にささげた象徴としてバプテスマを受け,その後エホバ神に真剣に仕えて神のみ名と王国を証ししている人はいずれも,確かに神の目から見て奉仕者<ミニスター>であると言えます。(ヨハネ 12:26)しかし,戸別訪問をして自己紹介をする時,いつも自分のことを「奉仕者<ミニスター>」と呼ぶかどうかは,「奉仕者<ミニスター>」という語に対する土地の人々の態度を含め,情況によって異なることでしょう。いずれにせよ,『すべての国民の中から来た[今日の]大群衆』は啓示 7章9節から17節で,「その神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をささげている」と描かれています。そのすべては神の奉仕者,すなわち神聖な高められた意味での僕なのです。
[脚注]
a 「ものみの塔」,1978年10月1日号 16-29ページをご覧ください。
[18ページの図版]
ペンテコステの時,聖霊は,わたしたちの神エホバの奉仕者となるべく男性と女性を任命した
[19ページの図版]
年若い人々も,『神の奉仕者』として仕えて,「良いたより」を宣べ伝え,他の人に霊的な慰めを与えることができる
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奉仕の務めを栄光あるものとするものみの塔 1981 | 6月15日
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奉仕の務めを栄光あるものとする
「わたしは……自分のこの奉仕の務めを栄光あるものとします」― ローマ 11:13。
1,2 ゼカリヤ書 13章4-6節によると,偽りの宗教の奉仕者は自分たちの奉仕の務めを栄光あるものとする代わりに,将来のいつか,何をしようと試みますか。
偽りの宗教の聖職者(ミニスター)a すべてが恥じるようになる時が近付いています。彼らは自分の職業が何であるかを隠そうとするでしょう。聖書預言はそうなることを示しています。ゼカリヤ書 13章4-6節(新)は,「預言者」つまり幻を見る者である彼らについて次のように述べています。
2 「また,その日には,預言者たちは預言をするとき,各々自分の幻を恥じるようになる。彼らは欺くために,毛の公衣を着ない。そして彼はきっと言う,『わたしは預言者ではない。土を耕す者だ。地の人がわたしの若いころからわたしを取得したからだ』。そこで人は彼に言わねばならない,『あなたの身の両手の間のこれらの傷は何か』。すると,その人はきっと言う,『わたしを強く愛する者たちの家で打たれた傷です』」。
3 キリスト教世界の僧職者はどの程度の傷を負わされますか。
3 僧職者たちのかつての愛人は,最後には彼らを攻め,襲い,傷付けて死に至らせるか,そうでなくてもその宗教的な職業を断念させ,僧衣を捨て去らせるでしょう。聖書の巻末にある啓示の書の中には,世の官僚たちが宗教的な職業を持つ人々に襲いかかる様子が強烈な幻によって描かれています。17章は,古代バビロンに由来する偽りの宗教の世界帝国全体を,大いなるバビロンと呼ばれる国際的な娼婦として描いています。
4,5 (イ)啓示 17章では偽りの宗教の世界帝国は何によって象徴されていますか。(ロ)やがて,象徴的な10本の角と,王族の色をした野獣そのものは,神の許しを得てその乗り手にどんなことを行ないますか。
4 この女は描画的に言うと,七つの頭に10本の角が生えた緋色の野獣の上に乗っています。この野獣は底知れぬ深みに下って姿を消し,それから再び姿を現わします。それは国際連盟とその後を継いだ国際連合の場合によく似ています。大いなるバビロンは,再び登場したこの国際的な政治的「野獣」の背に1945年に乗りました。以来大いなるバビロンは35年以上の間,王族の色をした「野獣」の上に乗ってきました。相次ぐ七つの世界強国の存続期間中に政治を支配してきたふしだらな「女」がこの象徴的な野獣の攻撃を受け,宗教家たちに衝撃を与える時は今や近付いているに違いありません。それからどうなりますか。啓示 17章15-18節はその点を説明し,次のように述べています。
5 「あなたの見た水,娼婦が座っているところは,もろもろの民と群衆と国民と国語を表わしている。そして,あなたの見た十本の角,また野獣,これらは娼婦を憎み,荒れ廃れさせて裸にし,その肉を食いつくし,彼女を火で焼きつくすであろう。神は,ご自分の考えを遂行することを彼らの心の中に入れたからである。すなわち,彼らの王国を野獣[第8世界強国]に与えて彼らの一つの考えを遂行し,神のことばの成し遂げられるに至ることである。そして,あなたの見た女は,地の王たちの上に王国を持つ大いなる都市[偽りの宗教の世界帝国である現代の大いなるバビロン]なのである」― 啓示 18:21-24参照。
6 大いなるバビロンの滅びは宗教にどの程度の影響を与えますか。そうなるのはなぜですか。
6 キリスト教世界を含む大いなるバビロンの来たるべき滅びは,地の表からあらゆる宗教をぬぐい去るものとなるのでしょうか。唯一の生ける真の神が存在される限り,そのようなことはありません。その崇拝者たちは,キリスト教世界の一部でも,大いなるバビロンの残りの部分の一部でもなく,あらゆる宗教に対する世界的な猛攻撃を生き残ります。彼らには,神エホバの保護と,エホバの下にある統治する「主の主,王の王」であられるイエス・キリストの保護があります。その後彼らは,その時地を完全に支配している,神を認めず宗教心を持たない支配者たちの滅びを目撃します。「わたしたちの神また父から見て清く,汚れのない崇拝の方式」は,神の「足台」であるこの地から決して消え去りません。―啓示 17:12-14。ヤコブ 1:27。イザヤ 66:1,新。
地上の政府の奉仕者ではない
7 ハルマゲドンにおける戦争において,エホバに逆らって居並び,地上の政府の公務を行なう“大臣たち”(ミニスターズ)はどうなりますか。
7 ハルマゲドンにおける「全能者なる神の大いなる日の戦争」で対決する時,全能者なる神に敵対して居並び,政治国家で公務を行なう“大臣たち<ミニスターズ>”は,その地的な政府もろとも滅ぼされてしまいます。(啓示 16:13-16; 19:11-21)勝利を収める全能の神エホバにつく,政治とは無関係な“奉仕者たち<ミニスターズ>”は,地上の政府による現在の体制を終わらせるその戦いの中の戦いに際して,神によって保護されるでしょう。神に対するクリスチャンの奉仕の務めを忠実に行ない続けたことの報いは何と大きなものなのでしょう。彼らが“奉仕者<ミニスター>”と呼ばれることに関しては,共産主義者であるか否かにかかわりなく,多くの国々で反対の声が揚がるかもしれません。このような国々では,“ミニスター”という語は国家の公務に携わる高官に限って用いられているかもしれません。しかし英語を国語とするアメリカ合衆国の場合,大統領顧問委員会の成員には,国務長官,内務長官などのような長官<セクレタリー>という称号や法務長官<アトニー・ジェネラル>という称号が付されています。それでも彼らは生き残らないでしょう。
8 現代のギリシャでは,大統領の閣僚は何と呼ばれていますか。“補祭(ディーコン)”という言葉はそこではだれに当てはめられていますか。
8 クリスチャン・ギリシャ語聖書の中の“奉仕者<ミニスター>”という語は,ギリシャ語ディアコノスを訳したものです。この語は文字通りには使いに出された人,あるいは呼びつけられた人の場合のように,“ほこりの中を通って”という意味に解されています。しかし現代のギリシャでは,大統領は“前あるいは前面に座る者”という意味のプロエドロスと呼ばれています。その閣僚はディアコノス(英語では“ミニスター”に相当する)というギリシャ語では呼ばれず,字義通りには“下仕事をする人”という意味のヒポウルゴスという称号が付けられています。シナイ写本およびバチカン1209番の写本によれば,この言葉はヘブライ語聖書のギリシャ語セプトゥアギンタ訳に見られます。その中のヨシュア記 1章1節はこうなっています。「さて,主の僕モーセの死後,主がモーセの奉仕者<ミニスター>[ヒポウルゴス]ヌンの子ヨシュアに語られた」。(アメリカ・ユダヤ人出版協会およびバグスター社)チャールズ・トムソンによる翻訳はヨシュアを「モーセの副官」と呼んでいます。同様にギリシャ共和国でも,大統領(プロエドロス)には,その副官,従者,補佐,下仕事をする人(ヒポウルゴス)がおり,大統領はディアコノスつまり“補祭(ディーコン)”の奉仕を,自国の宗教組織にゆだねています。
9 この語が政治的に用いられているとはいえ,聖書的に言って神の“ミニスター”が存在しますか。「ものみの塔」誌はこの点につき1882年に何と述べていますか。
9 今日ある国では,“ミニスター”という語を政治的な意味でのみ用い,適用するという点は認めることにしましょう。それでも,原語を踏まえた聖書の立場から,神に全く献身し,エホバ神のご意志を行なうために自らをささげた人が,イエス・キリストに倣ってエホバ神の“奉仕者<ミニスター>”つまりディアコノスと呼ばれてはならないということにはなりません。100年ほど前,「シオンのものみの塔およびキリストの臨在の告知者」誌の1882年6月号(英文,7ページ)は,宗教上のミニスター(奉仕者)に関して次のように述べていました。
弟子たちは宣べ伝え,教え,バプテスマを施すために派遣された。キリストの体の聖別された成員はすべてある意味でミニスター(奉仕者)であり,全員が「喜びのおとずれを宣べ伝えるように油そそがれて」いることを我々は信じているが,人体に様々な肢体や役割があるのと同じように,この業の様々な部分に異なった成員が割り当てられる。その人体は聖書の中ではキリストの体,つまり教会を表わすために用いられている。
10 1892年1月1日号の雑誌は,キリスト教世界の名目だけの教会が神の聖職者と主張している者と比較した上でコルポーターとして知られる全時間の伝道者について何と述べていますか。
10 「ものみの塔」誌はその後の1892年1月1日号(英文,9ページ)の中で,“塔からのながめ”と題する副見出しの下に,次のように述べました。
これらのコルポーターを主の真実の代表者として認める人,あるいは主が彼らの謙遜さと自己犠牲の精神のうちに認めておられる尊厳を認識する人はほとんどいない。宣教者<ミッショナリー>? この世と名目だけの教会は言うであろう,否,外国の地へ赴く宣教者は我々の方だ,と。主はこう言われる,然り,これらの人々は壮大な使命<ミッション>を帯びたわたしの宣教者<ミッショナリー>であると ― ……
奉仕者<ミニスター>? この世と名目だけの教会は言うであろう,否,“僧職”衣を身に着け,我々の説教壇から説教する我々のみが神の聖職者<ミニスター>なのだ,と。主はこう言われる,然り,彼らはわたしの僕(奉仕者<ミニスター>)である。彼らはわたしに仕え,わたしの家の者にこの真理を分け与えるからである。わたしは彼らが携えて行く音信を与えた。彼らを侮る者はわたしを侮るのであり,わたしが彼らによって送った額の印を受け入れる者は,それがわたしに関するものであるという教理を知るであろう。「わたしの羊はわたしの声を知っている」。
(1899年2月1日号 [英文] の「この真理は不合理か」と題する副見出しの6,7節も参照。)
11 “ミニスター”と“ミニストリー”という語はどんな言葉から派生したものですか。そしてそれらの意味はどのように定義できますか。
11 では,聖別された,つまり献身しバプテスマを受けたイエスの弟子すべてが“奉仕者<ミニスター>”であると述べた「ものみの塔」誌はうぬぼれが強く,無遠慮であったと言えますか。そのようなことは全くありません。“ミニスター(奉仕者)”および“ミニストリー(奉仕の務め)”という英語の言葉,およびそれに相当するイタリア語,スペイン語,ポルトガル語,フランス語は古代ラテン語のミニステルおよびミニステリウムから派生したものです。これらのラテン語は聖書のラテン語ウルガタ訳の中に見られます。ラテン語のミニステルという語は次のように定義されます。「従者,給仕人,僕,また司祭の従者,あるいは補佐。同様に下級官吏」。ラテン語のミニステリウムはこう定義されています。「悪い意味においても良い意味においても,ミニスターの職務もしくは機能,仕えること,奉仕,奉仕の務め。任務,職業,労働,労役,勤務,管理の務めなど」― ルイス及びショート共著「新ラテン語辞典」1146ページ。
12 この雑誌やものみの塔の他の出版物が初めから引用している翻訳聖書は,今日でもどの程度広く用いられていますか。ミニストリーに関して問題になっているのは政治のことですか。
12 したがって“ミニスター”と“ミニストリー”という語は広い意味を持つはずです。ここで忘れてならないのは「ものみの塔」誌および関連した出版物は初めから,その聖書翻訳の根拠として1611年の欽定訳,つまりジェームズ王訳を用いていたということです。定評のあるこの翻訳は,今日に至るまでアメリカ合衆国だけではなく,大ブリテン島や英連邦の全域でも用いられています。ですから,広く用いられているこの聖書翻訳から引用した場合,かぎになる言葉である“ミニスター”と“ミニストリー”は,現代の政治的な意味にではなく,クリスチャン・ギリシャ語聖書(新約聖書)の中に付与されている意味で用いられています。わたしたちは政治を問題にしているのではありません。
この言葉の訳語に関する最近の傾向
13 聖書翻訳者の多くは,今問題になっているディアコニアをどんな英語に訳すことを好んでいますか。献身した神の民は,そこから生ずる責務について何を行なおうとしていますか。
13 クリスチャン・ギリシャ語聖書(新約聖書)の現代英語訳は数多くあります。これらの現代英語への翻訳の大部分は,今問題になっているギリシャ語ディアコニアを読者のためにどう訳す傾向にあるでしょうか。“ミニストリー”という言葉によってです。この言葉には聖書によって付与された威厳が伴っています。献身しバプテスマを受けたエホバの証人が,聖書的な意味の範囲内で,自分たちに割り当てられたクリスチャンの活動に,ふさわしいこの“ミニストリー”という言葉を適用するのは正当なことです。ではこれらの“ミニスター”は自分たちの“ミニストリー(奉仕の務め)”に関して何をするのでしょうか。彼らは,その務めやそこから生ずる責務を実行するでしょうか。それとも反対や敵対する圧力のためにそれを放棄してしまいますか。啓示された聖書預言からわたしたちは,関係が疎遠になった政治権力が,偽りの宗教の世界帝国である大いなるバビロンの聖職者<ミニスター>,司教・主教,助祭・執事,祭司,総主教などに何を行なうか理解しています。これから起ころうとしている事柄から目をそむけてしまうべきではありません。
14 啓示 17章のしるしの言葉によると,「大患難」の時に大いなるバビロンはどうなりますか。
14 啓示の書の中にあるしるしの言葉が示すところによると,世俗的な政治勢力は教会と国家の結び付きを断ちます。彼らは国際的な宗教上の娼婦との親密な関係を完全に断ち切ります。その娼婦を背中から振り落とし,紫と緋を着て王族に属するというその主張をはぎ取り,彼女が自分の身を華々しく飾っていた金,真珠,宝石などを奪い取ってしまいます。彼らは女の手から,あらゆる汚れたものと嫌悪すべきもので満ちた「黄金の杯」を奪い取ります。女はその杯からあらゆる人々に飲ませ,中毒にかかるほどにひどく酔わせてきました。その女の飾り立てた宗教的な建造物を,彼らはごくありふれた世俗的な目的のための場所に変えたり,その建物から不正な手段で得た富を奪い取った後にそこを火で焼き尽くしたりすることでしょう。「大患難」の時に大いなるバビロンの上に臨む清算の日は,大きな災いとなります。―啓示 17:1-18; 7:14。
15 その時,エホバのクリスチャン証人は何をしなければなりませんか。
15 世の政治勢力が将来このような動きを見せるということはエホバのクリスチャン証人にとって何を意味しますか。それはこうです。神の王国の関心事のためにエホバの証人が行なう奉仕の務めが退けられるということです。証人たちはもはや「エホバの側の善意の年」を宣べ伝えることはしないでしょう。大いなるバビロンが滅んだ後でさえ,証人たちは「わたしたちの神の側の復しゅうの日」をたじろぐことなく宣明し続けなければなりません。―イザヤ 61:1,2,新; 59:17,18。
16 エホバの証人は,ローマ 11章13節の様々な翻訳を踏まえ,その部分でパウロが述べた事柄にどのように倣いますか。
16 その時まで,エホバの証人は自らの“奉仕の務め”に関して何をするのでしょうか。聖書預言から理解できる来たらんとする事柄を思いにしっかりととどめ,立派な模範を示した使徒パウロと同じことを行なうという賢明な決定を下すでしょう。使徒パウロはエホバ神の国際的な遣外使節として自分が行なったことをローマ 11章13節の中で次のように述べています。その聖句に関する様々な現代語訳を挙げてみましょう。「わたしは諸国民の使徒なので,あなた方諸国の人々に言います。わたしはわたしの奉仕の務めを栄光あるものとします」。(国際ヘブライ語-ギリシャ語英語聖書。英国改訂訳。新世界訳。新アメリカ訳。ロザハム訳)「わたしはわたしの奉仕の務めを尊びます」。(マードック訳。エンファティック・ダイアグロット訳。ローマ・カトリックのドウェー訳。新英訳聖書)「わたしはわたしの奉仕の務めを重視します」。(新国際訳)「わたしはわたしの奉仕の務めを最高度に重視します」。(フィリップスの現代英語訳)「わたしはわたしの奉仕の務めを非常に重視します」。(アメリカ訳)「わたしはわたしの奉仕の務めに誇りを感じます」。(ウェイマス訳)「わたしはわたしの奉仕の務めを称賛します」。(改訂標準訳)「わたしはわたしの職務を重視します」。(現代英語聖書)「わたしはわたしの職務に大きな重きを置きます」。(モファット訳)「わたしはわたしの職務を称賛します」。(欽定訳)ドイツ語によるルターの聖書の翻訳はこうなっています。「わたしはわたしの職務[ドイツ語でアムト]を高く評価しよう」。ウイリアム・ティンダルはこの部分を,「わたしはわたしの職務を称賛しよう」と訳出しています。
17 異教徒の異邦人のための業であったとはいえ,パウロはユダヤ人として,それを単なる普通の奉仕の水準に引き下げたと述べていますか。
17 前述の様々な翻訳から,パウロのディアコニアが,単なる“奉仕<サービス>”の水準に引き下げられていないことに気付きます。パウロは自分の“奉仕の務め”に関連してドクサゾーというギリシャ語を用いていますが,その言葉の語源はギリシャ語のドクサで,それは“栄光”を意味しています。確かに,パウロのディアコニアには何ら恥ずべきところはありませんでした。「今日の英語聖書」によるローマ 11章13節の翻訳にもそのことは表われています。「わたしはあなた方異邦人に今話をしています。わたしが異邦人への使徒である限り,わたしはわたしの業に誇りを抱きます」。エルサレム聖書はこう述べています。「あなた方異教の人々にこのことを言わせてください。わたしは異教の人々に使徒として遣わされました。そしてわたしは遣わされたことを誇りにしています」。b
18 イエス・キリストの十二使徒の本来の姿を考えてみると,神学校を卒業して仰々しい称号を付された僧職者が,エホバの証人を見くびることができないのはなぜですか。
18 もとより,だれも自分のクリスチャンの“奉仕の務め”について思い上がった見方をすべきではありません。むしろ神は,ご自分の献身しバプテスマを受けた崇拝者たちを現在統治しておられるイエス・キリストの下での奉仕の務めに引き入れることによって彼らに好意を示しておられるのですから,わたしたちは非常にへりくだった気持ちを持たなければなりません。神学校を卒業したキリスト教世界の僧職者たちは,牧師,尊師およびそれに類した言葉で,また他の仰々しい称号で呼ばれており,それゆえに献身してバプテスマを受けたエホバの証人を見くびるかもしれません。一方,イエスの使徒のうち4人は漁師,一人は収税人でした。他の7人についても西暦1世紀のラビの学校に入っていたという記述はありません。それでも彼らの名は,聖書巻末の本の中で栄光ある仕方で挙げられています。そこには,彼らの名前が新しいエルサレムの12の土台石に刻み込まれていると記されています。―啓示 21:14。
19 献身してバプテスマを受けたエホバの証人はどこかの政府の大臣となっていますか。彼らの奉仕の務めはいつまで続きますか。
19 さて,政府の公使<ミニスター>について言えば,献身しバプテスマを受けたエホバの証人は世界最高の政府の公使<ミニスター>です。ただし,帝国,王国,民主政体などの人間制の政府の閣僚などではなく,宇宙の主権者,天と地の創造者に仕える公使<ミニスター>なのです。マタイ 24章14節の成就として,彼らは現在統治する王イエス・キリストのメシアによる王国の任命された使者となっています。彼らの奉仕の務めは,目前に迫った「大患難」の時のこの古い事物の体制の悲惨な終わりに際しても終わることがありません。
20 コロサイ 4章17節およびテモテ第二 4章5節の諭しの中で,パウロは人々一般が行なっているごく普通のありふれた奉仕について述べていたのですか。
20 使徒パウロはアルキポという名の仲間のクリスチャンに対して,「主にあって自分が受け入れた奉仕の務めを終始見守り,それを全うするように」と書きましたが,その時に心に描いていたのは,世の人一般が行なっているごく普通のありふれた奉仕<サービス>ではありませんでした。(コロサイ 4:17)パウロはその最後の投獄期間中に,仲間の宣教者であるテモテにこう書き送りました。「福音宣明者の業[ギリシャ語でエルゴン]をなし,自分の奉仕の務めを十分に果たしなさい」。(テモテ第二 4:5)初期クリスチャン会衆の忠実な奉仕者たちに対する霊感を受けたこれらの指示は,献身してバプテスマを受けた現代のエホバの証人すべてが,滅びに定められたこの古い事物の体制の「終わりの時」にいる自分たちに適用すべき優れた諭しです。そうすることは神に永遠のほまれを帰することになるでしょう。―ダニエル 12:4,新。
[脚注]
a 英語のministerには聖職者・牧師,大臣・公使,僕,召使いなど様々な意味があります。日本語の新世界訳聖書では「奉仕者」と訳されています。
b 西暦383年という昔に,エウセビウス・ジェロームは聖書の原語からラテン語ウルガタ訳への翻訳を始め,マタイ 20章26節以降にラテン語の名詞ミニステル,ルカ 10章40節以降にラテン語の名詞ミニステリウム(英語の“ミニストリー”),マタイ 4章11節以降にラテン語の動詞ミニストラーレ(英語の“ミニスター”の動詞形)を用いることによって,ラテン語を話したり書いたりするクリスチャンたちの間でミニスターに関連した用語を広めました。
かつてラテン語は西欧世界において外交上の国際語でした。教皇の統治権に関する“ローマ教会の大分裂”が始まった1378年に,ジョン・ウィクリフは新約聖書(クリスチャン・ギリシャ語聖書)の独自の翻訳を発表しています。「ウィクリフは,典拠としてヘブライ語およびギリシャ語の原語を用いることは自分の力を超えていると考え,ラテン語ウルガタ訳から直接に翻訳した。その訳は全く字義的かつ平明であるが,ぎこちなく,ラテン語の影響が強い。それでもウィクリフの他の著作の多くに比べればその程度は少ない」。(「マクリントクとストロングの百科事典」第10巻,1043ページ,第1欄,“ウィクリフ”の項。)したがって西暦14世紀にウィクリフは,“ミニスター”という言葉を使っていたことになります。ウィリアム・ティンダルが「原語からの自分の翻訳の中でそれを相当使っていた」ことは間違いありません。ローマ 13章4節のウィクリフの訳は,「彼は神の奉仕者(mynystre)である」となっています。ローマ 11章13節は次の通りです。「わたしはわたしの奉仕の務め(mynysterie)を大いに尊ぶ」― オックスフォード大学出版部。
[22ページの拡大文]
「主権者なる主エホバの霊がわたしの上にある……エホバの側の善意の年と,わたしたちの神の側の復しゅうの日をふれ告げ……るためである」― イザヤ 61:1,2,新。
[23ページの拡大文]
「よそ人たちが実際に立ち,羊の群れを牧(す)……るであろう。そしてあなたがたは,エホバの祭司と呼ばれ,わたしたちの神の奉仕者であると言われるであろう」― イザヤ 61:5,6,新。
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世俗の仕事を持つ奉仕者たちものみの塔 1981 | 6月15日
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世俗の仕事を持つ奉仕者たち
1 ティンダルによるローマ 13章1-6節の翻訳によると,クリスチャンたちが崇拝する神に関連して,地上の政府の官僚は何と呼ばれていますか。
ウィリアム・ティンダルは1526年にギリシャ語原語から当時の英語の方言に聖書を翻訳し,その中でこの世の「より強い権力」つまり「上にある権威」に関して次のように記しました。「彼は汝の幸福のための神の奉仕者<ミニスター>だからである。しかし,もし汝が悪を行なうなら,恐れを抱け。彼はいたずらに剣を身に帯びているのではない。彼は悪を行なう者に対して復しゅうをする神の奉仕者<ミニスター>なのである。何のために従わねばならないかと言えば,ただ復しゅうを恐れるからではなく,良心のためでもある。このために,貢を納めるようにせよ。彼らは同じ目的のために仕える神の奉仕者<ミニスター>だからである」― ローマ 13:1-6,ダブニー。
2 (イ)この世の政府の官僚は1526年のティンダルの翻訳に基づいて“ミニスター”と呼ばれているのですか。(ロ)彼らがこの語を使っているので,この世の一部ではないパウロや仲間のクリスチャンたちには,自らをミニスターと呼ぶ権利がありませんか。
2 地上の様々な政府内にいる国家の特定な官僚が,“総理大臣<プライム・ミニスター>”とか何々“大臣<ミニスター>”とか呼ばれる根拠は,前述の使徒パウロの言葉にある,と考えることはできません。たとえそう考えたとしても,「神の奉仕者」と呼ばれるこのような政治家たちの世俗的な奉仕の業と,この世の一部ではない使徒パウロやその仲間のクリスチャンたちの宗教的な「奉仕の務め」の間には大きな相違があります。各々の活動の領域は互いに異なっています。この世の政治家たちが政治的な意味で“ミニスター”という語を使うとしても,パウロや仲間のクリスチャンたちが,関係している様々な言語により,宗教的な意味での“ミニスター”と呼ばれてはならないという訳ではありません。
3 テキコやテモテと同じように家から家に宣べ伝える現代のエホバの証人は,すべて『キリストに関する良いたよりにおける神の奉仕者』ですか。
3 使徒パウロがエフェソス 6章21節でテキコのことを「愛する兄弟で,主にあって忠実な奉仕者<ミニスター>」と呼んだとき,パウロはテキコをキリスト教世界の僧職者と同列に置いていたのではありません。(コロサイ 1:7; 4:7もご覧ください。)パウロはテモテをも,『わたしたちの兄弟であり,キリストに関する良いたよりにおける神の奉仕者<ミニスター>』と呼ぶことができました。(テサロニケ第一 3:2)確かに,家から家に「王国のこの良いたより」を宣べ伝える献身しバプテスマを受けた現代のエホバの証人は,『キリストに関する良いたよりにおける神の奉仕者<ミニスター>』です。―マタイ 24:14。マルコ 13:10。
4 クリスチャン会衆全体が,その中の成員一人一人と同じように,奉仕の務めを持っていたかどうかについて聖書は何を示していますか。
4 しかしながら,バプテスマを受けたクリスチャンたちの会衆全体についてはどうでしょうか。小アジアにあるテアテラの会衆に対し,栄光を受けたみ子イエス・キリストはこのように語られました。『わたしは,あなたの行ない,またあなたの愛と信仰と奉仕<ミニストリー>を知っている』。(啓示 2:18,19)パウロはまたギリシャのアカイア地方にあったコリント会衆にこう書いています。「奉仕の務め<ミニストリー>はさまざまでも,主は同じです」。(コリント第一 12:5)この事実と一致して,栄光を受けたイエス・キリストは西暦33年のペンテコステ以降,地上のご自分の会衆に,使徒,預言者,福音宣明者,牧者,教える者などの人々の賜物を与えられました。どんな目的のためでしょうか。『それは,奉仕の業[字義通りには奉仕の務めの仕事]のため,またキリストの体を築き上げるために聖なる者たちをさらに調整することを目的としています』。(エフェソス 4:7-12)最後の例として,使徒パウロはエルサレムにいたヘブライ人のクリスチャンから成る会衆の成員に次のように書き送りました。「神は不義なかたではないので,あなたがたがこれまで聖なる者たちに仕え(ミニスターの動詞形),いまなお仕え(ミニスターの動詞形)つづけているその働きと,こうしてみ名に示した愛とを忘れたりはされない」。(ヘブライ 6:10)このような方法で,すべての人々がエホバ神に是認される奉仕の務めを行なっていました。
世俗の仕事に関連して
5 (イ)キリスト教世界の聖職者を生業とする人の様式とは対照的に,聖書的な標準に従うミニスターがパートタイムの世俗の仕事を持つ場合がありますか。(ロ)聖書の翻訳中に“ミニスター”という語が現われたのはいつですか。
5 献身しバプテスマを受けたエホバの証人から成る会衆の一部として,聖書的に見て奉仕者<ミニスター>であるということは,ぜいたくで安楽な生活を送るという意味ではありません。キリスト教世界の宗教組織の中にいる,聖職者<ミニスター>を生業とする人の生計の手段を見て,多くの人々はそのように結論付けるかもしれません。しかし霊感を受けた聖書によれば,これはあってはならないことです。それどころか,聖書的な言葉に従えば,“奉仕者<ミニスター>”である人々は,その時間の一部を世俗の仕事にあてて働く場合があります。イエス・キリストでさえ30歳になるまでナザレの大工でした。それからイエスは神の霊によって油そそがれ,その油そそぎの目的である全時間の奉仕の務めにご自分をささげられたのです。イエスがラテン語を話し,“ミニスター”に相当するラテン語を使われたかどうかは分かりません。しかしヘブライ語およびギリシャ語聖書がローマ帝国の言語であるラテン語に翻訳された時,ミニステルという言葉が翻訳の中に現われました。
6 (イ)ラテン語やギリシャ語の相当する語の語根によると,“ミニスター”にはどんな意味がありますか。(ロ)それでは,パウロはどのようにそれを『栄光あるものとする』ことができましたか。
6 ミニステルという語が“より少ない”を意味するラテン語の形容詞ミヌスから派生しているため,ミニスターであるということは,基本的には人が“より低いものである,またはそのように振る舞う”(ラテン語でクオド ミヌス エスト)ことを意味します。そのミニスターに相当するギリシャ語のディアコノスの語源も,同じように低い状態と関係があります。それはディア(“通って”を意味する)とコニス(“ほこり”を意味する)から派生したものと考えられています。ギリシャ人にとってこの言葉は,自分自身を役立てるために,あるいは何かの奉仕を行なうためにほこりの中を通って進んで行く人という考えを表わすものでしょう。しかし,ギリシャ語の語源が低い状態と関連していたにもかかわらず,使徒パウロはこの言葉を用いて,「わたしは……自分のこの奉仕の務め<ミニストリー>を栄光あるものとします」と述べました。(ローマ 11:13)パウロは最後までその務めに固く従うことによってこの点を証明しました。
7 (イ)王国の音信に関する奉仕の務めは,料金を取らないことによって安っぽいものになりますか。(ロ)必要な世俗の仕事はどれも,王国の奉仕者たちによってどのようにみなされていますか。
7 パウロが熱心に自分の奉仕の務めを遂行したのは自らの栄光のためではありませんでした。パウロは自分が「良いたより」を宣べ伝えた人々から費用を集めたり料金を取ったりすることはありませんでした。しかしこうすることによって,パウロは自分の奉仕の務めを安っぽいものにしていた訳ではありません。「良いたより」を受け入れた人々は,「良いたより」に対して料金を払うことはしませんでしたが,自分自身に益となる事柄を行なうためにはやはり『費用を計算し』なければなりませんでした。パウロはこうした栄光ある「良いたより」を託されたことに対し,それを非常な名誉と感じました。それはこの世のどんな高給の仕事と比較しようにも比較できない程の奉仕の務めです。現代のエホバの証人たちは使徒パウロの模範に倣っています。どのようにでしょうか。物質的な点で,あるいはこの世の方法で個人的な利益を得ることを,神の王国の音信に関する奉仕の務めに携わる目的とはしないことによってです。王国の音信を何か商業的な性質のものとして,単なる快適な生活を営むための手段として扱うのは間違っているとエホバの証人は考えています。エホバの証人がある場合にやむなく行なう世俗の仕事は,どれも副業として二義的な地位を占めるにすぎません。王国に関する奉仕の務めこそ,犠牲を払うだけの価値があるものなのです。
8 パウロは,ついにローマに到着した後,どのようにそこで引き続き『自分の奉仕の務めを栄光あるものとし』ましたか。
8 使徒パウロがついにローマに到着し,同地の会衆と接するようになっても,パウロは依然として,幾年か前にローマの人々への手紙の中で述べた事柄を行ない続けました。つまりパウロは『自分の奉仕の務めを栄光あるものにした』のです。鎖でつながれた囚人であったにもかかわらず,パウロはどのようにこのことを行なったのでしょうか。パウロの忠実な仲間であった医師ルカはこう述べています。「わたしたちがついにローマに入った時,パウロは兵士の監視のもとにひとりで滞在することを許可された。しかし三日後,彼はユダヤ人の主だった人びとを呼び集めた。彼らが集まってから,[パウロは彼らに話した]。……こうして彼は,自分の借りた家にまる二年とどまり,そのもとに来る者をみな親切に迎え,妨げられることなく,全くはばかりのないことばで人びとに神の王国を宣べ伝え,また主イエス・キリストに関することを教えるのであった」― 使徒 28:16-31。エフェソス 6:20。
9 パウロの投獄とその理由は,どの程度ローマで広く知られるようになりましたか。ローマ市のクリスチャンたちはそのことについてどう感じましたか。
9 不当にも囚人として拘禁されていたパウロのこの活動は,どんな結果を生みましたか。パウロはこう述べています。「さて,兄弟たち,あなたがたに知って欲しいのですが,わたしに関することがかえって良いたよりの前進に役だつ結果となり,わたしのなわめがキリストのことに関連して親衛隊の全員とほかのすべての人たちの間で公に知られるようになりました。そして主にある兄弟たちの多くは,わたしが獄につながれたことのために確信を持ち,神のことばを恐れなく語る勇気をいよいよ示しているのです」。「すべての聖なる者たち,特にカエサルの家の者たちが,あなたがたにあいさつを送っています」― フィリピ 1:12-14; 4:22。
今こそ,奉仕の務めを尊ぶべき時
10 献身しバプテスマを受けたエホバの忠実な残りの者が,偽りの宗教の世界帝国から出るようにという呼び掛けに答え応じたのはいつですか。
10 エホバの証人は,偽りの宗教の世界帝国大いなるバビロンから出るようにとの神の呼び掛けに答え応じてきました。1914年から1918年にかけて行なわれた第一次世界大戦の間,大いなるバビロンは戦争に加わる政治勢力と結託し,献身しバプテスマを受けたエホバの民を束縛しました。この状態は,証人の組織の本部役員の指導的な人々が投獄されるところまで進みました。しかし戦後の1919年に救出と解放が訪れました。その時彼らは,世界中に「王国のこの良いたより」を宣べ伝えるという予告されていた業を行なうために,再組織する必要を理解しました。―マタイ 24:14。
11 (イ)1919年の大会に出席した際,残りの者の成員は大いなるバビロンの正体をどんな方法で暴露しましたか。(ロ)彼らは待望のどんな期間を歓呼して受け入れましたか。そしてそのことと一致してどんな雑誌が刊行されるようになりましたか。
11 それから,「王国のこの良いたより」をかつてなかった全地球的な規模で宣べ伝えるために,残りの者の再組織が行なわれました。そのことを念頭において,彼らは1919年9月に,アメリカのオハイオ州にあるシーダーポイントで全国大会を開きました。その大会で彼らは,当時提唱されていた国際連盟の支持者である大いなるバビロンの正体を公に暴露しました。プロテスタント教会の僧職者は国際連盟を“地上における神の王国の政治的表現”と呼んだのです。大会出席者は,キリストの支配する神の天の王国によって招じ入れられる“黄金時代”を歓呼して迎えました。その大会で発表されたように,1919年の10月に「ものみの塔」誌を補足する新しい雑誌が刊行され,それには「黄金時代」という名称が付けられました。その後,全人類の慰めの必要性が増大したため,その雑誌の名称は「慰め」となり,第二次世界大戦後には「目ざめよ!」と変更されました。
12 (イ)残りの者の奉仕の務めに関する様相が一層改善された後,彼らはどんな新しい身分を得ましたか。(ロ)これらのすべては,彼らの王国に関する奉仕の務めにどんな影響をもたらしましたか。
12 こうしたことすべてによって,設立された神の王国を宣べ伝える人々の奉仕の業は新しい様相を帯びるようになりました。1931年に,それまで彼らが大いなるバビロンによって呼ばれていた非難がましい名前をすべてぬぐい去りました。その時に聖書預言に基づいた名つまりエホバの証人という名を採択したのです。(イザヤ 43:10-12)そのため,証人たちは大いなるバビロンとその政治的な提携者の前で新しい身分を得ることになりました。大いなるバビロンと接触したために汚されてしみのついた衣をぬぎ捨てたことは彼らの神エホバを喜ばせるものでした。証人たちは神の目に新しい姿として映りました。象徴的に言って,それは油そそがれた残りの者がその祭司の奉仕の務めにふさわしく「礼服」を身に着けたかのようでした。(ゼカリヤ 3:4,5,新)これは,神に対する彼らの奉仕の務めを尊いもの,名誉あるもの,栄光あるものとすることでした。
13 (イ)残りの者が神の恵みを得るように回復したことを示すどんな証拠が,1935年以降さらに与えられましたか。(ロ)「大いなる群衆」の人々は残りの者に加わって,奉仕の務めに関するどんなことを行ないましたか。
13 油そそがれた残りの者が第一次大戦後に神の恵みを得られるように回復したことを示す,目に見える証拠がありますか。確かにあります。というのは,唯一の生ける真の神を探し求める誠実な人々から成る「大群衆」となった人々が,比較的少数の「王なる祭司」の残りの者と交わり始めたからです。(ペテロ第一 2:9)そのことは,1935年の春以来明らかな事実となっています。その時,首都ワシントンで全国大会が開かれました。5月31日,ものみの塔協会の会長はその大会で,「大いなる群衆」という主題の主要な話を行ないました。これは欽定訳の啓示 7章9-15節に基づく話でした。翌日には,840人の人々がエホバ神への献身を水のバプテスマによって表わしました。これらバプテスマ希望者たちの大部分は「大いなる群衆」の抱く,キリストの王国が支配する地上のパラダイスという希望を抱きました。そうした希望を抱くなら,油そそがれた残りの者に加わって,エホバ神の奉仕者として家から家の活動に参加しなければならないことを彼らは十分わきまえていました。彼らも,『自らの奉仕の務めを栄光あるものとし』始めたのです。
14 ほとんどの場合,王国を宣べ伝える業に全時間をささげることはできないにしても,「大いなる群衆」の人々は献身とそれを象徴するバプテスマゆえにどんなことを行なう責務がありますか。
14 現在に至るまで,幾百万という羊のような人たちが油そそがれた残りの者の側に集い,彼らに加わって王国に関する奉仕の務めを行なってきました。そのすべてが,全時間の伝道者や,ペンシルバニア州のものみの塔聖書冊子協会の旅行する代表者,あるいは協会の支部事務所の職員という立場で奉仕の務めに全時間をささげられた訳ではありません。そうした人々の大半は,世俗的な責務のゆえに自らの時間のほとんどを,あるいはそのかなりの部分を世俗の仕事のために費やさなければなりません。それでも神への献身を水のバプテスマによって象徴したからには,神の王国の関心事に仕える神の奉仕者となることが必要です。
15 これらの人たちは,自分たちの状況がコリントにおける使徒パウロの状況に似ていることに気付いています。どのようにですか。
15 彼らは,自分たちの状況が使徒パウロの状況に似ていることに気付いています。パウロは1年半の間,ユダヤ人の信者であるアクラと共にコリントで天幕作りをして働きました。(使徒 18:1-11)今日,パウロを当時の“正規の奉仕者”の部類に入れる人もいることでしょう。
16 パウロがエルサレムに向かう途中でミレトスに立ち寄った時,自分の世俗の仕事について何と語りましたか。
16 パウロがエルサレムに向かう途中,小アジアのミレトスの港に立ち寄った時に語ったことも思い出されます。そこからパウロは人をやって,エフェソスの会衆の年長者たちつまり監督たちを呼んで来させました。パウロは彼らに,特に次のように語りました。「ですから,目ざめていなさい。そして,三年の間,わたしが夜も昼も,涙をもってひとりひとりを訓戒しつづけたことを覚えていなさい。……わたしはだれの銀も金も衣服も貪ったことはありません。この手が,わたしの,そしてわたしとともにいる者たちの必要のために働いたことを,あなたがた自身が知っています。わたしは,このように労して弱い者たちを援助しなければならないこと,『受けるより与えるほうが幸福である』とのことばを覚えておかなければならないことを,すべての点であなたがたに示したのです」― 使徒 20:31-35。
17 (イ)パウロは時々世俗の仕事で働くことによって,自分の奉仕の務めを軽視していましたか。それともそれについてはどんな意図がありましたか。(ロ)神殿の従者の例から分かるように,当時の献身した他のクリスチャンたちが世俗の仕事を持つ奉仕者であったかどうかについて何と言えますか。
17 一時的に世俗の仕事を持ち,賃金を得るための仕事をして働いたからと言って,パウロは王国に関する自分の奉仕の務めを軽視していた訳ではありません。パウロは宣べ伝えて教える自分の仕事が,聞く人や学ぶ人に金銭的な負担をかけるものとならないように物事を取り決めました。そのようにしてパウロは,確かに,自らの教育的な業が金もうけのための商売であるという非難を受けないようにしました。(コリント第一 9:13-18)この場合でもパウロは,「わたしは……自分のこの奉仕の務めを栄光あるものとする」という自分の言葉どおりのことを確かに行なっていました。(ローマ 11:13)パウロが,自活するために世俗の仕事を持つ奉仕者であったことは,パウロが王国に関する奉仕の務めにおいて純粋で利他的な動機を持っていたことを証明しています。パウロの仲間である献身したクリスチャンたちのほとんどは世俗の仕事を持つ奉仕者でした。その中には,非クリスチャンの主人に仕える奴隷もいました。(使徒 18:1-4。ローマ 16:3-5)必要とされている世俗の仕事は王国に関する奉仕の務めを卑しめるものではありません。イスラエルのモーセの律法下にあったレビ人がエルサレムの神殿で奉仕したのは,エルサレムにおける年ごとの祭りの時期を除くと,半年のうち1週間だけであったことを思いに留めなければなりません。その時以外は,国中に散らばっているレビ人の町に住み,自らの家族を養うためにそこで働きました。このようにレビ人も世俗の仕事を持つ奉仕者だったのです。
18 (イ)エホバの証人でこのように世俗の仕事を持つ奉仕者には,大いなるバビロンの聖職者に与えられている特典にあずかる権利がありますか。(ロ)世俗の仕事を持つ奉仕者たちはその仕事に携わりながら,どのように『自分たちの奉仕の務めを栄光あるものとし』ていますか。
18 献身しバプテスマを受けたエホバの証人の多くが,自分の時間のほとんどを世俗の仕事をして過ごす必要がある,あるいは過ごさなければいけないと感じたとしても,彼らが真の奉仕者<ミニスター>でなくなる訳でも,大いなるバビロンの聖職者<ミニスター>に諸政府が与えているすべての特典にあずかる権利がなくなる訳でもありません。世俗の仕事を持つ奉仕者であっても,彼らは何にも増して神の王国の関心事を第一にしています。まさに家から家に神の王国を宣べ伝えるゆえに,彼らは王国の真の奉仕者であり,この世の政府の大臣<ミニスター>より低い地位にいるのではありません。世俗の雇用者に対して行なう彼らの業に見られる称賛すべき特質によって,これら世俗の仕事を持つ奉仕者たちは間接的に『自分たちの奉仕の務めを栄光あるものとします』。これは,わたしたちが神聖な奉仕をささげている神に誉れをもたらすものです。
19 (イ)状況が変わって可能になれば,世俗の仕事を持つ奉仕者たちは自分の能力の及ぶ限り何をするでしょうか。(ロ)王国のために直接に費やす時間の量にかかわりなく,献身しバプテスマを受けたエホバの証人はすべて何をするでしょうか。
19 もちろん,状況が変わって世俗の仕事を持つ奉仕者たちが全時間,王国に関する奉仕の務めを行なえるようになれば,彼らは能力の及ぶ限り神の言葉に関する奉仕の務めを感謝して行ない始めるでしょう。すでに設立されているキリストによる神の王国の関心事のためにささげられるのが全時間であろうと,直接的にささげられる時間が限られていようと,とにかくわたしたちは絶えず『自分のこの奉仕の務めを栄光あるものとし』てゆきたいものです。
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